人 117 北緯六十五度近辺で観測できるので、それより北に明るい大都市がないことが条件であ った。それはアフリカでなくとも、徹底して暗くなければ見えないものがしばしばこの 世にはあることを暗示しているようだった。 「あなたさんの育ちなさった村も、 いい村らしいねえ」 ミ、不は一一一口った。 「今度来なさる時は、うちの村に来てくださいよ 鱸がその招待を伝えた。 「ありがと、つ。しかしそのチャンスは恐らくないと思いますよ、とミハイルさんは言っ てます。自分たちの国は貧しいから、とてもそう度々外国なんか出られない 「そんなことはないでしようよ。私だってハワイまで行ってきたんだから」 「今度は、天国で会えるでしよう」 鱸がそのミハイルの言葉を淡々と通訳している間、ミハイルは微笑していた。 「そうだね。それくらいでちょうどいいかもしれないねえ。私たち苦労して来たもんは、 死ぬのもまたいい もんだ、って思えるんですよ」 うなず その言葉を伝えると、ミハイルは笑って深く頷いた。 「今日は満月でもありましたし、 いい日にお会いしましたねえ」 ミ、不は一言った。
人 111 箸も使えるからフォークやスプ 1 ンの心配もなく便利なものだ。茗荷の酢の物を珍しそ うにロにして、これはいったい何だと、鱸に小声で聞いている。こういう音のする食べ 物は珍しい、と言っているらしい。鳴滝の話が聞こえて来ると、鱸が大まかなところを ミハイルに通訳してやっていた。 「茗荷は、谷みたいな低いとこに生えるですよ 驚いたことにミネは屈託なく、ミハイルとの会話に加わっているのだった。 「うんと水が好きなの。半分水の流れに浸かってて、半分落ち葉が溜まって腐ってるみ たいなとこだったら、茗荷は喜んでどんどん太るの . 鱸は低い声で通訳をしている。字佐美は次第に、鳴滝を中心とする人々の会話より、 ミネたちの話の方がずっとおもしろくなって聞き耳を立てていた。 「ミハイルさんの一一一口、つところによると、彼の国では山のキノコはよく採るけど、こ、つい う山の植物は、あんまり食べないそうです」 「そうですかねえ。もったいないねえ。何かきっとあると思うけどねえ」 「ミネさんはそういうことを職業にしているのですか、ってミハイルさんは聞いてま 「いえ、私は : 「薬屋さんをしておられるんでしたね」 すー
112 おかだ 「いえ、そんなこともしてないの。実は私のよく知ってる人に岡田さんっていう人がい て、その人が薬局をしてなさるんですよ。その奥さんが製薬会社の招待でハワイへ行く ことになってたんだけど、お母さんが八十八で、急に弱りなさったもんだから、ハワイ へ行くのは心配でやめたい、って。でもせつかくの招待だから、ミネちゃんが代わりに 行っておいでって言ってくれたもんだからね。思い切って行って来たですよ。帰りに東 たかはたふどう 京で高幡不動さんにお参りできるのも目当てだったもんだからね」 鱸は不動明王についてミハイルに説明したが、不動をアチャラと翻訳しているのを聞 いて、字佐美は彼の知識に感心してしまった。不動は罪と汚れを浄め、一切の悪を追い 払う役目を持っている。憤怒の様相を示し、右手に剣、左に索を持っているのだそうで ある。 なりた ミハイルがその「神さま」はどこにいるのかと聞くので、字佐美は「成田から飛行機 しんしょ・つじ に乗る前に新勝寺に行くといいですよ。高幡不動へ行くよりその方が便利ですよ」と 思わす振り返って注釈をつけておいた。 彼らはほとんど囁くような小声で話していた。それはスピ 1 カーとしての鳴滝の講義 やそれに対して感想を述べている人々の話を決して邪魔しない程度の大きさであった。 字佐美は興味に駆られて時々ミハイルの表情も盗み見た。 「奥さん自身はどんな仕事をしていますか ? とミハイルさんが聞いてますけど」
114 「日本人のグル 1 プに長い間英語の通訳をしていたので、その人たちが招んでくれたん だそうです。そうでもしなければ、とても物価の高い日本なんか旅行できないそうで すー 「うちの扇島へも来てくれたらいいのにねえ」 ミネは突然言った。 「うちの島には、いいホテルがあるですよ。五年前にできたんだけれどね。連続ドラマ きたにみつお の『恋して、愛して』の舞台になって出て来たのよ。さざ波回遊プールで、木谷光男と さわむらなつみ 沢村夏美が会ったの。結局二人は別れることになったんですけどね」 ミネはドラマの筋と現実の人気タレントの生活をごちゃませにしたような話し方をし 「ああ、あのテレビ・ドラマなら、僕の姪が夢中だったから、一度彼女の家で見せられ たことがあるよ 鱸は言ってから、ミハイルに通訳した。 「そのホテルにはね、テニス・コートもあるですよ。四面」 しね。僕はゴルフよりほんとうはテニスが好きなんだ」 「それはい、 ミハイルが一言、つことを鱸はぶつきらば、つに通訳した。 「あなたもテニスをしますか ? ってミハイルさんが聞いてますよ」
116 「今説明しましよう」 鱸は囁いて、それからおもむろにミハイルの方に顔を向けた。 「スルメはないそうだけど、駄菓子はあるそうですよ。子供たちがいつも買いたいと思 っているお菓子だ、って言ってます」 「昔は町までは、船で小一時間もかかったんですよ。でも最近はハイドロホエルもある からあっという間ですよ。私は高いから乗らないけどね ミネはハイドロフォイルを少し変わったふうに発音した。 「それはすごいですね、ってミハイルさんは言ってます。彼の育った村は、島ではなく て田舎だけど、今でも村の人はタイヤを付けた大きな荷車を馬で引かせているそうで 「それで何を運ぶんですかね」 ミハイルはミネの質問に低い声でながながと答えた。 「トウモロコシとかキャベッとかジャガイモだそうです。野良へ行く時は子供も乗せて 行くから、お母さんの手編みの帽子をかぶった子供の頭がキャベツに混じって見えるそ うです。子供の頭とキャベツはちょうど同じくらいの大きさでしよう」 字佐美は義務感を覚えて、今日のスピーカ 1 の話を時々片耳で注意の中に引き込むよ うにしていた。鳴滝はオーロラを見に行ったことを話していた。オーロラは北半球なら
人 113 鱸も囁くような小声だった。 おうぎしま 「私 ? 私はずっと担ぎ屋をしてるんですよ。私のうち扇島っていう島にあるんです よ。そこから毎朝船で、対岸の友野市まで野菜を持って行くの。そして帰りに魚を買っ て島へ帰るんですよ 鱸は手短にそれを通訳してから、自分の興味を隠し切れないという声で尋ねた。 「反対じゃないんですか ? 島で獲れた魚を町へ持って行くんでしよう ? 「ううん。うちの島は周りが岩ばかりで海が荒れてて魚はほとんど獲れないんですよ。 でも平地があって野菜はかなり作ってるから、背負えるだけ背負って毎日船に乗るの。 岡田さんとこにも、そうして毎日のように野菜届けてたもんで親しくなったんですけど ね」 ミハイルはそのおかしな物資の動きに興味を持ったようだった。鱸がついでに、薬の メ 1 カーの招待で、ミネがハワイ旅行に行って来たことを話すと、ミハイルは驚いたよ うだった。 「そんなことは、ミハイルさんの国ではとてもできない、 って言ってます。外国へ旅行 したくても、皆お金がないから、ほんのちょっと国境を越えた町に商売をしに行く時く らいしか、なかなか国を出られないそうです」 「でもこの方は出たでしよう ?
118 「ミハイルさんが二人で浜へ月を見に行きませんか、と言ってますよ」 「そうだねー 「行ってらっしゃい。そのうちにこの会も終わるから」 二人がひっそりと立って、離れを出るのを、人々はわざと気がっかないふりをしてい た。字佐美は空席になったテープルの方へ身を寄せて海辺の砂浜に向かって歩いて行く 二人を見ていた。 O 脚で背の曲がった女と、すらりと背を伸ばした金髪のミハイルとは、 波の息遣いの聞こえる浜を月に向かって歩いていた。星が一つだけ月の真下に光ってい
燗残って東京見物してるんですって。だけど今日は奥さんがどうしても約東があってよそ しカはい亠のま、り・に、も にでかけなければならないので、その人を一人で放り出すわけに、、 東京に馴れてないんで、心配だから連れて来たいっていう話でした」 こちらもただ、連れて来る人らしい。外国人と地方出身の女性というのは、あまり適 切な取り合わせではなかった。共通の話題もなかろうし、お互いに興味もないだろう。 しかしそういうことは、宇佐美の心配すべき問題でもなかった。人間には話の通じない ことに耐えて退屈することも時には必要だからであった。 この集まりは時間も正確であることを要求していなかったが、それでも人々はあまり 遅れずに集まって来た。鳴滝が自分の車に、金髪の、彼と同じくらいの年配の痩せ型の 知的な外見の男を乗せて来た。鳴滝は東欧系の客の名前をちゃんと紹介したのだったが、 宇佐美には、ミハイルという名前の部分しか覚えられなかった。 「ミハイルさんというのは、君と同じデザイナーなの ? 」 自称易者の荘保が尋ねた。 「いや、この人はガイドをしてたんですよ。ほんとうは、そんな仕事をするような人じ ゃない。彼は芸術家なんですよ。詩も書くし、絵も描くし、一番才能があるのは彫刻じ ゃないかと僕は思ってるんだけど」 「それは気の毒だね。絵でも彫刻でも売ることはできないの ?
人 115 ショッ 「私はしませんよ。毎日、仕事があるからね。でも一度だけホテルのコーヒ 1 こおりじるこ プへ行って氷汁粉を食べたことありますよ。椅子はピンクでね。脚が金なの。噴水が あって、舞台みたいにきれいですよー 字佐美は英語に自信があるわけではなかったが、注意して聞いていると、鱸は冷酷な ほど、少しの手も抜かずにミネの一言、つことを伝えているよ、つだった。 「ミハイルさんが言うには、そんな明るい楽しそうなホテルは、彼の国にはほとんどな いそうですよ 鱸は言った。 「そうですかね。どうしてでしようねえ」 「社会主義は、美しいものやきれいなものにあんまり心を使わなかったからだそうです 「今にできますよ。うちの島にだって昔は何にもなかったんですよ。私のちさい頃は、 段々畑にさつまいもが植えてあってね。村には、よろす屋っていう名前の店しかなかっ たんですよ。ロ 1 ソクや蚊取り線香なんか売ってた店ですけどね。そうそう、駄菓子や スルメなんかも売ってたですよ ミネはそれから突然尋ねた。 「こちらさんのお国にもスルメや駄菓子はあるのかしらね」
110 もう部屋の中の明るさは、字が見えにくいほどになっていた。鳴滝は、「僕の話は、 がありませんで : : : 」と前置きして、ちょっとした光の 皆さんのご体験ほどストーリー 、と思っているが、電 文化論のようなことを話し始めた。我々は誰でも皆明るいのがいし 気のない地方で暮らす人たちは視力が信じられないほどいいのが普通である。だから、 彼らの生活の圏内に一部だけ文化を取り入れて明るくすると、そこに厳しいアンバラン スが生じてしまう、と彼は話し始めていた。 たとえば、そういう原始的な生活をしている村に、日本人の考えるような文化会館を 作るとする。現実問題としてはできないだろうが、仮にできたとしても、ます日本人の 考える舞台の明るさは彼らの眼にはきっ過ぎるだろう。ロビ 1 やエントランスの光度も 問題だし、トイレは自然の中でしか出るものも出ないという心理になっているからほと んど使用する人もなく、休み時間には一斉に外の自然の中に出て行ってしまうかも知れ 皮らは街灯も懐中電灯もなし そういう明るさに眼が馴れたとしても、帰りが問題だ。彳 に夜道を三十分も一時間も歩いて帰らねばならない。だから我々先進国の人間の望むよ うな明るさは、彼らの生活をめちゃくちゃにする。月のいい晩ばかりではないのだ。電 気がなかったら、眼は常に暗さに馴らしておかなければならない 宇佐美はこっそり後を向いて、ゲストたちの様子を眺めた。ミハイルはぎこちないが、