平木 - みる会図書館


検索対象: 観月観世
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1. 観月観世

「とにかく、社会主義についてもう一回、思い直してもいいんじゃないかな、と思いま してね。それで平木さんをお連れしたんです」 これには何か裏があるな、と字佐美は思ったが、それ以上は何も言わなかった。 「社会主義とは何だったのか、ということですね 箕輪が言った。 「そうです」 「観念でなくて、自分の言葉で考えてみるといいね。その方が楽しいよ 「まさにそのことなんです」 うれ 鱸は嬉しそうな声を出した。 「いいですね。平木さんが、どういう言葉で、社会主義を整理して語ってくださるか、 これは楽しいね」 恐らくそんなふうに言われると、この男は急に遠慮して、「いや、私にはそれほどの ことはできんが : : : 」などというのではないかと、宇佐美はちょっと気の毒になったが、 ぢやわん 殿平木は動揺する様子もなく、ます番茶茶碗に注がれたビールでゆっくりと喉を潤した。 「平木さんのお子さんは、自衛隊にお勤めでしたつけ」 沈鱸は言った。 「ええ、潜水艦に乗っとります」

2. 観月観世

平木には、その位置関係もよくわからなかったが、宮殿の中には二つのアパ 1 トメン トがあると説明された。一つは大統領のものであり、一つは夫人のものだった。大統領 の執務室は中央に暖炉があり、床は、樫とシカモアとマホガニーを使ったしつかりした よせぎ 寄木でできていた。例外として外国から輸入した材料は、このインド産のマホガニーだ けだったのである。ここにも、アルバュリア産の絨毯が敷かれ、金糸の入った重厚な生 絹の重いカーテンが生の気配もない重々しい表情で掛かっていた。 この執務室の陰になった廊下には、大統領専用のエレベータ 1 があり、それで彼は緊 急の場合、夫人と地下の核シェルタ 1 に退避できるようになっていた。 「皆、計算を間違えるんですね . 電気屋の鳴滝が珍しく口を挟んだ。 「核爆弾を落とされるようになったら、生き残って抵抗しようということが全く無駄な んじゃないかな。殺されたという事実を歴史に残すことの方がすっと能弁でしよう」 「今、思い出してみると、僕は二つのことが心に引っ掛かってるんですよ」 殿と平木は言った。 s 「一つは、大統領のリセプション・ホールというから : : : 何だねー 沈「謁見の間でしよう」 鱸が言った。 えつけん

3. 観月観世

「僕は最初に言いましたけど」 平木はしよばくれた眼をばちばちさせた。 「僕は徹底して喋らない女房と、やはり黙って働いている息子と暮らしてるもんですか らね。長年の間に静かなのが好きになってしまった。これは論理じゃありませんや。 やかま 喧しいのに耐えられなくなったんですよ。だから、というとおかしいが、私は今でも うるさ 社会主義の方が好きだな。あれは何より煩くなかった」 「しかし、煩い社会主義もあったでしよう。ひっきりなしに宣伝カーでがなり立てたり、 シュプレヒコールを繰り返させたり」 「それでもそれは静かなんですよ。内容空疎ということは、心がいら立たないから静か なもんなんです」 字佐美は窓を開けた。潮騒が健康な息遣いのように聞こえ、ちょうど満月が真上にあ って村の道を照らしていた。 これから本格的に、酒を飲み出す時刻なのである。

4. 観月観世

すか、飾ってあるのが、唯一の緑だそうですな。それだけでも、もうどっきりするほど、 異質なものだ、とい、つ感じがする。そこに水仙でしよ、つ。ご存じですか。水仙とい、つの は、切り口からだらだら涎のようなねばっこい液を出しますからね」 「知らないな。僕だって水仙を買って生けたことくらいあるけど、そんな涎は知りませ んでした」 「それはあなたが多分古いのを買ってるからですよ」 自称、百姓の箕輪が言った。 「息子が言うんです。おやじ、僕は何でも静かなのが好きだ。お喋りは嫌いだ。水仙は お喋りだ、って」 平木が解説的に付け加えた。 「なるほど 「わが家は皆、不細工な人間ばかりでしてね。息子の無ロも家内に似たんだと思います。 家内は、仲人口で結婚したんですけど、静かな女です。こっちが喋りかけなきや、一日 殿中でも黙ってるくらいでしてね」 潜水艦の勤務なら無ロな方がいいんじゃないですか、と宇佐美が言おうとした時、箕 沈輪が先に口を開いた 「それはけっこうなことですな。ひっきりなしに囀ってる奥さんも世の中には多いから、 よたれ さえず

5. 観月観世

「そ、ついうことです 輪が呟いた。 「この宮殿の前は、イタリア式の官庁街になっていて、きれいな泉水が、これはもう完 成してるんです。 夏でしたからね、ル 1 マニアとはいえけっこう暑いんですよ。その泉水はもちろん水 遊び禁止なんだが、そこで、ジプシーの子がお巡りの眼なんか気にもしないで遊んでる。 すごいもんだね。さすがのお巡りも子供には何も言えないのか、それともジプシ 1 が怖 いのかわからなかったけど」 平木は言ってからちょっと首を傾げた。 「とても不思議なことがあるんですよ。僕は、今でもあのチャウシェスクの宮殿を思い 出して、あんな豪華な宮殿なのに、どうしてああ寡黙な、言葉少ない感じがするのかと 思う。もちろんまだ完成してなくて、人の住んだ気配がないからかもしれませんがね。 なんかあの印象は、黙してる。眼を伏せてる、声が低い、っていう感じなんだ。 しようぜっ 殿社会主義は、人でも、風景でも、物でも、饒舌じゃないね。資本主義はそこへ行く と実にお喋りですよ 沈「それは価値の多様性ということでしよう」 字佐美が言った。

6. 観月観世

字佐美は新入りの客人に言った。 ひらきごいち 「平木吾一です。もう隠居してまして、今じゃ何もやっとりません」 鳴滝が「ビールを出しますか ? 」と聞いたので、字佐美は「そうしてくださいーと答 たた えた。つまみには、近くの浜の魚屋から、まぐろのトロの刺し身と、鰺の叩きが、届い じみそ しょ - っゅ ている。鰺の叩きには地味噌を叩きこんであるから、醤油も要らない 「六年経ちましたな」 字佐美は言った。 「ま、私くらいが死んでいても当然だったんだが、皆さんご無事で、よかったですー 「こないだ、字佐美さんと電話で話した時、この六年間の変化について話されたでしょ 鱸が言った。 「そんなましな話しましたかな」 字佐美は笑った。 「ベルリンの壁が崩壊して、社会主義の凋落がはっきりして心がすっとした、と宇佐 美さんは言われたから 「東欧や中国にいた人は、ほんとに運が悪い、と私は思うけど、なあに、社会主義が続 ひと いたって続かなくたって、私にはどっちでもいいんですよ。他人の国ですからね」 ちょ・つらく

7. 観月観世

と易者が言ったので、あたりには笑い声が起きた。 この平木という男は、一体、何のためにこういう話をしに来たのか、と字佐美は考え 始めた。単なる旅行の体験談なのか。それはそれでチャウシェスク宮殿の話を聞けただ けでいいのだが、その他に何かありそうでいて、字佐美はまだ、その意図が擱めなかっ 「チャウシェスクが心臓の悪い人だったということも、今度初めて知りました。 その上、彼は小男だったそうですね。 最後に僕たちは屋上に上がったんです。下に集まった人たちに、チャウシェスクが姿 を見せるという場所があった。 そこには、群衆にはわからないように二つのものがあったんです。小さな足台。十セ ンチか二十センチ、背を高く見せるためのね。 それからもう一つは手すり。ただの手すりに見えるけど、中にお湯を通して手を温め られるようになっている。心臓病には、それが何よりいいんだそうですね。 実にすばらしいド その時またイギリス人が言ったんだそうですよ。『すばらしい ラマだった』ってね。考えてみると、ワーグナ 1 に血道をあげてたルートヴィッヒ二世 だって、実に勝手なことをしたもんでしよう。しかしこの狂気のおかげで、その土地の 人たちは今もルートヴィッヒ二世のノイシュヴァンシュタイン城で食ってるんだから

8. 観月観世

ひつぎ 上の階から見たチャウシェスク夫人を驚かせた。それはまるで十字架を記した巨大な 棺のようにしか見えなかったからだった。この不吉なデザインはしかし、取り除かれ しゅうえん る暇もなく歴史は終焉を迎えた。 誰かを悪人にするもっとも簡単な手口だ、と字佐美は考えていた。チャウシェスク夫 人は変えろとは言わなかった。しかし変えさせられる空気があった、と証言されれば、 それで夫妻の専横は歴史的事実となる。 「夫人という人は、才能はあったんでしような」 と平木は言った。 「彼女は、文盲で育ったって聞いたですが、間違いかな。旦那の方も、貧しいうちの出 でっち だってね。子供が何人だったかな、八人とか九人とかいるようなうちで、靴屋の丁稚に ってね。一一人の言葉は 出されたもんだから、小学校四年生くらいまでしか出ていない、 インテリのものじゃなかったらしいのですよ。 チャウシェスクって人は、党の書記長兼大統領でしよう。信じられないくらいの権力 かあった。リ 男荘か六十以上あったっていうのには笑ったね。そんなにあっちゃ、行き切 れないじゃないですか。女房が第一副首相で、息子がなんとかいう青年組織の第一書記 だった。国有財産の絵でもなんでも、自分のものだと思って自由に持ち出したってね。 そういうのは資本主義国家では出ないタイプでしよう」

9. 観月観世

く似た作りなんです。総じてこの建物は、どこかとよく似てるんです。前衛的じゃない すべて写しです。だから安心して見ていられました。前衛というものが、私は好きじゃ ない。成功例が極めて少ないですからね。 設計の責任者はアンカ・ベトレスクという女性だそうです。プカレストの芸術大学の 教授だと聞きましたがね。もっとも、その下で千四百人もの専門家が参加したそうです 平木の話によると、この宮殿の建設は一九八三年に始まったのであった。中央の部分 で十二階。地下は四階である。完成すれば三千百室余りが作られ、地下道で国防省や他 のプレジデンタル・メトロと呼ばれる建物につながる筈であった。 昔から、ソロモンの栄華が常に甘い豪華さで描写されたが、チャウシェスク宮殿もそ れに近い物語が可能であった。 チャウシェスクは宮殿を、ルーマニア人の才能と、ル 1 マニア産の材料だけで作ろう とした。シャンデリアは国産のクリスタルの輝きを最も端的に表すものであった。大理 石も国内産の色ものを集めた。モネサからは赤、ウアレンからは黒、ルシキツアからは 白という具合である。巨大な扉やがっちりした床材として使う、樫、シカモア、ウォー ルナット、チェ 1 丿 1 ウッドなども、すべてルーマニアの森に育ったものばかりだった。 カーテンも最上の絹で作られ、絨毯の産地として有名なアルバュリアでは、職人たち じゅうたん

10. 観月観世

172 ちのために働く伏木聡子とその仲間たちのような人々が受け取るべきだ、と字佐美は考 えていたのであった。 救急車でどこに連れていかれるのかわからないが、運ばれて行った病院から伏木聡子 に電話をすれば、 しい、と宇佐美は眼の前の些事に拘泥していた。 カカ 宅配の青年は、こんな事故に関わり合ったことはないらしくおろおろしながら、「救 急車が来るまでは、いますから」と一言う。 「ありがたいなあ、大丈夫とは思うけど、君がいないと携帯もないし、僕はここからま ず動けなかった。君がいてくれてほんとうに助かったよ。今の若い人の中には、こんな に優しい人もいるんだね」 宇佐美は言ってから安心して青空を眺めていた。 それはすばらしく澄んだ深い青空だった。もしかすると東京の中で、自分以外の一人 も今日のこの青空を眺めている人はないのではないか、と字佐美は奇妙なことを考えた。 長いのか、短いのかわからない時間が経った。宅配の青年が救急車のサイレンの音に 飛び出して行き、「こっちです。庭で倒れたんです」と説明している声が聞こえた。 救急隊員は男性が二人と女性が一人だった。 「お世話になりますー と宇佐美は言っただけで顔を背けた。急に馬のようになった自分の足を見たくない、