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検索対象: 誰のために愛するか
171件見つかりました。

1. 誰のために愛するか

I 愛は何を欲求するか 帰ってくると暗い怨めしい表情の女房がいても辛い 「今まで、どこへ行ってたの ? 」 「今日は会社の新入社員の懇親会があってね [ 「これで今月は、三日と八日と、十一日、十八日、とに会があったのよ」 何となくそっとする。オンプお化けがついているような、刑事に見張られているようないやな 感じだ。 「あなたがその気ならいいわよ。私も勝手にやるから ! 」 そうか、それならどうぞ。それならオレは天下晴れて x 子と遊べるな。 一刻も早く捨てねばならない愛 いったん、興味を失った女に対して、男は実にさまざまの逃げ口上を言うものらしい。 「この恋を、結婚などという月並みな形で終らせたくないんだ」 「君は、恋人や妻以上のものだ」 「本当に愛しているんだ。会 0 ているだけで苦しいから、もう会わないでおこう」 「僕のような人間はとうてい君をしあわせにできないんだ。僕はそれがわか「ているから、辛い つら

2. 誰のために愛するか

憂は盲目的に信じることである 女性は、男と比べて運動能力においても、知性においても劣っていると私は思えるのだが、た ったひとつ、優れているところがあるとすれば、それは、愛するものを盲目的に信じることであ る。 女性は、本当は優しくもない。デリケートでもない。残忍なことをできるのは、男より女であ る。しかし、女は自分の夫や子供をいったん信じたとなると、とことんまで、理性の力などかり ずに、自分の信じるものを支持することができるのである。理性的であることのみが、世間的に て、知的であるかのようなことを、よく言われるが、多分そんなことはない。ものごとをなし AJ 遂げてきたのは、一部の理性的な計算と、あとは狂的な執着なのである。 る たとえば作家にとって、何よりも大切なのは、自己に対する厳しさではなく、度はずれのナル を シズムとひがみ根性かも知れないのだ。作家が冷静であり、理性的であることなど、何ら創造的 人な意味を持ちはしない。 それと同様に、家庭生活においても、大切なのは批判者よりも、支持者になることである。 例えはここに二組の夫婦がある。、それそれに、夫の方は能なしで、酒ぐせが悪いとしよう。一

3. 誰のために愛するか

良犬がいとしいように、夫婦が相手のことを哀れに思うようになったら、たいていの愚婦凡夫も 何とか続いていくのである。 私は自分が男より劣等動物であることを、徹底的に利用したような気がする。 私の方が夫より収入の多い年月が長くあって、そのことをひどく気にしてくれるおせつかいな 人もいたけれど、我が家ではそれだけは問題にならなかった。いささか恥力し ゝし、けれど、そんな ときには私のカトリックの信仰も少しは役立った。お金をもうけるに適した才能というものがも し、あるとすれば、その頃たまたま、神がそのようなものを与えてくれただけのもので、それは 別に私のなし得たことではないのだ。その上、私は理不尽であった。私は男を養う趣味はまった ひと 「我がものは我がもの、夫のものは我がものー だから、つまりすべて私のもので、どちらがいくら余計に儲けたかをはっきり知っているの は、税務署ばかりだった。 ニ人の統治者がいては困る 私は今まで妻として有能になろうとしたことがないのである。私はすぐ、大きな声で「千の千

4. 誰のために愛するか

しかし、この日のことは、今も私の青春の記憶の中で、あまりにも強烈な鮮かな岐路に立った 日として忘れられないのである。 『ラ・マンチャ』を離れたのは、そこで気まずいことがあった訳ではなかった。私は皆に親切に してもらった。しかし、私はそのとき、書けて書けてしかたがなかったので、何カ月かに一度発 表の機会が廻ってくるたびに、やっと作品が印刷されるというのでは、とても満たされなかった からである。私は日井先生に作品をとり上げて頂いたお礼を手紙に書き、その中で、年齢の若い 人々が小人数でやっている同人雜誌を紹介して下さるようお願いしたのだった。これが私が『新 思潮』に加ったいきさつである。 ぶきいく 不細工にありのままを生きること 文学というものは、その頃、まだ今とはまったく違う感じで受けとられていた。 む「文学をやる」などということは、グウタラな、社会の落伍者のすることであった。そして、実 は、今もまさにその通りなのである。どこの国に、偉大な道徳的な文学者などいるであろう。そ んな人はいもしないし、又、文学者の資質として必要でもない。 文学は人間の弱き部分をも見つめることである。その理解者になることである。殺人者の心を

5. 誰のために愛するか

の人について行ける、という実感を持てる点がなかったこと、それで結婚ということはもう諦め て小説を書こうと思ったこと、ところが小説を書き出しても、一向にうだつが上らなくて、こん なことをしているのはもういやだ、と思 0 たこと。それで文学はやめることに決むして、ある雨 の日に、大学から帰ってすぐ近くの駅前の「ーケットまで買物に行 0 たこと。マーケットの中で それでもなおふらふらと本屋へ入ったこと、するとそこに『文学界』という雑誌があって、日井 吉見さんという方が私が以前入れて頂いていた同人雑誌に発表した短篇を批評して下さっていた こと。それで又、小説をやめるということを思いなおしたこと、などを話した。 三浦は冷酷な表情でそれを聞いていた。そしてそれから二、三日すると、一通の手紙がきて、 「あまり身の上話などひとにしないこと。たたし三浦朱門クンを将来ティシにしようと思うな ら別ー と書いてあった。 不思議な運命の時 その頃、私の家はさし当り食うに困るというほどでもなかったが、非常に慎ましく暮していた。 戦争の後、何度か手放そうかという話もでた家を、どうやらもちこたえているだけが唯一の財産 2Q2

6. 誰のために愛するか

誨へもぐったり、美人をのせて人力車をひいたり、どちらも悪くない。もっとも、私がもっと まともに育っていたら、やつばりそんな職業はいやだ、と思うかも知れなかった。しかし、私は 1 あっけ 家庭のしあわせを信じられなかった。戦争があって、人々が呆気なく死ぬのを見た。十パ 1 セン トぐらい本気で、私の今の人生も余生だと感じているところがある。その上、カトリック的な感 覚が、私に、流されることを教えた。神の意志というものを私は木偶のように渇望する。 息子の未来についても、私は他の母親のように型にはまって考えることができない。息子が最 低限、飢えずに生きられることを思えれば、私はほのばのとした思いになる。大地にはいつくは り、星を眺めて、ささやかな生を生きれば、それはもっとも凡庸で宗教的な一生を送ったことに なる。 一人の大切な″人間〃のけじめ しかし、私も少しは人為的に子供を教育はしているつもりなのである。 私は子供が正直な人間になることを願った。バカ正直などではない、ケタはずれに大きい自由 な正直だ。そのためには、虚栄心も、権力へのへつらいもあっては、ナよ、。 しこオしとり・つろ、つラ」と もない。

7. 誰のために愛するか

はなかった。そこで実際問題として、太郎はその女性の指導でアメリカ式にうっ向けで育てられ、 それで彼の後頭の格好はまことによく成長したのである。 先日、あるところで、私は子供を殴ったことがあるか、ときかれた。殴りましたとも、と私は 答えた。ときにはかっとして、前後の見さかいもなく : もちろん、話ができるようになるま でのことですけれど、と私は答えた。私は能のある母親ではない上に、仕事をしていて忙しかっ たし、いわゆるよくできた母親ではまったくなかった。しかし、そのかわり、私が仕事をしてい た上で、私はひとつだけ子供によいことをしてやれた。それはいわゆる神経質な母親にはならす にすんだことである。 子供に期待する第一の点 小さいとき、私自身は。ヒクニックへ行けばりんごもナイフもアルコール綿で拭くような生活と させられていて、親の心づかいとしては充分に感謝しなければならないのだが、そのせいかひど く体が弱かった。私は子供には自然な生活を望んだ。床に落ちたアメ玉もしゃぶらせ、ご飯を食 べなくても、いちいち心配しなかった。人間は、 一日や二日、水さえのんでいれば餓死すること はないし、ほっておけば人間は心理的にがつがっして実際の食欲もでるのである。私は彼がつね

8. 誰のために愛するか

ナベての人は″眼がない〃 愛は愛されるべき人間の実体とはほば無関係である。もちろんある娘は、一人の青年を誠実で 勤勉な男だと思うから、好意を持つのである。しかし、結婚して数年経っと、その誠実さが実は 無能のせいであり、勤勉さは小心のためであることがわかってくることもある。 人間が相手の実体だと思っているものの中には、このようにいわゆる「眼がないーための大き な思い違いがあるが、眼がないという点についてなら本当は、すべての人が眼がないのである。 私の知人のある夫婦は、夫の方が私から見ると我慢できないようないい加減な人物であるにも がかわらず、夫婦仲はきわめてよいのだった。 例えばこの夫は公私混同ということにかけては、不思議な才能を持っていたのである。会社の 自動車の運転手から電気屋、大工、出入りの酒屋にいたるまで彼の個人的な便宜に使われない人 はなかった。たいていの妻なら、夫のこのような逸脱した立場の利用法について、何がしかの疑 惑か不安か嫌悪感を持つものである。しかしその妻は、 「おとうちゃんは本当によく気がつくのよ。まめだし、優しいし、本当に理想の夫ですわ」 というようなことを言うのである。これで夫のけちな汚職が問題になって首にでもなれば、こ 120

9. 誰のために愛するか

を盲目的に信じる母でありたいと思う。世間がどんなに悪く言おうとも、私だけは息子の味方に なる。それが、母というものの特権なのだ。 持ち味を生かされている妻 よく世間では、仕事を持っ女が、家庭をなおざりにすることを指摘して、そのために結婚生活 が壊れやすい、というようなことを一言、フ。 確かに、夫の方が妻がかしづいてくれることを望み、しかも女手がなければ、自分の身の周囲 のこともできないというような人であれば、妻が仕事を持っことはむずかしい。しかし夫が、妻 に下女的な仕事を要求する率がかなり低いとすれば、この頃では、妻が仕事を持っことはすいふ とん楽にできるようになったのである。 す 私は結婚したての頃、まだ作家ではなかったが、学生であった。新婚旅行から帰ると、夫と私 は、二人とも同じ時刻に家を出て「学校」へでかけた。夫は大学の助教授であり、私は大学の四 男 人年生であった。出発の形として、私は夫の良き妻になれる訳はなかったのが、今となっては幸運 だったと思えないことはない。つまり、彼は、女房が一人前でなくても、何とか生きて行くこと には根本的にさしつかえぬことを知ったのである。 101

10. 誰のために愛するか

Ⅱこの人と結婚すべきだろうか をした訳でもなく、とくにケチだったということもない。いわはごく普通のものだったが、それ でもなお、夫の観察によれば、式の当日、親戚の主だった夫婦は、皆、多かれ少なかれ、喧嘩を したというのだ。それは恐らくたいした理由ではなく、手配しておいた車の来方がおくれたの は、誰それの電話のかけ方が遅いからだ、とか、あのときお祝儀袋を持ってくるように頼んだの に聞いていなかった、とか、そんなようなことが悶着の種だったのだろうが、とにかくそこにい ふによい た夫婦たちは、花嫁花婿を祝福するより先に、まず浮世の不如意に心をクダいていたのだ。 しかし、それだからと言って別にひがむことはない。結婚に附属するさまざまの行事はどれも 多かれ少なかれ、ステキではないものである。私は、往年の不良青年だった三浦から、 「まあ、仕方ないから親たちのカオを立ててやりましよう。だけど、もし面倒くさくなったら、 ようするに逃げちまえばいいんだ」 ささや と不遜なことを囁かれていたから、結婚式というのは二人のためのものというより、親たちを 安心させるためにしぶしぶ行うものであり、従ってそれが盛大であろうが、ケンカの種であろう がたいしたことはない、 という気になっていた。 逃げちまえばいし というのは、つまり、駆け落ちしよう、ということなのである。私はもち ろん、駆け落ちするほどの歯切れのいい女ではないから、 しい加減な返事をしていたが、彼に言