女は男によ 0 て確かに生まれ変りたい。しかし、その前に、あるがままの自分を許し抱きとっ てもらいたい。過去を捨てろ、と言うのは、実際のところ、男のとほうもない身勝手だ、と彼女 は思い始めたのである。 それでも結婚すべきか 本当にこの人と結婚すべきだろうか、という疑いを持ち続けたままで結婚する娘は多い 初めはいい人のように思えていたけれど、つき合「ているうちに、彼の不実さや、癖がいやに なったという人がいる。 それでもなお結婚すべきか。 と答え続けてきた。少しでも納得のいかない点があったら、結婚 私は長い間、おやめなさい、 式が一週間後に迫っていようとも、おやめなさい、と言いつづけてきた。キリスト教国で、神父 . や牧師が、結婚式のとき、面と向かって花婿と花嫁に、 「あなたはこの x x を、あなたの妻 ( 夫 ) としますか」 と聞くのは、格好をつけるためだけではないのである。 西洋にも無理強いの結婚があって、そのような不幸な目に若い人々を合わせないために、教会 くせ
デー トの約東には遅れず、服の肩にフケなど落ちていたことはない、下宿の部屋は実にきちん と整理整帳されている、という青年は多くの場合、娘の母親から婿候補として好意的な感しで見 られるであろう。しかし、娘も又、部屋の隅から隅までが清潔になっていなければ気がすまない というきちょうめんな性格なら、いざ知らず、このような正確な人間はえてして他人にも狭量で ある。結婚した暁には、亭主力ンパクになり、お湯の温度がちょっと熱くても文句を言い、本棚 の隅に埃が残っていたと言ってはどなりつけるような夫になる。 いわゆる不良青年がいる。すからも女にもてるということに自信を持っており、青春時代に は、結婚直前まで行った娘や、深入りした水商売の女がいる。ストリツ。フ劇場も好きだし、他人 の奥さんの御機嫌をとり結ぶこともマメである。 こういう青年の中には、全部が全部とは言わないが、大変よい夫になるのがいる。つまり女の 心を知りつくしてしまったので、四十位になってから、ついふらふらとした気分になるなどとい うことはない。女に関しては肥えすぎるほど眼が肥えてしまっているのだ。 こういう不良青年こそ、実は夫として最良なのだが、女出入りの激しい男が、まじめな家庭の 夫に向くと思うことは実にむずかしい 娘にしたところで同様である。質実で賢こそうに見えた娘が計算高いおばさんになったり、礼
である。彼に言わせれば、どだい人間なんて、百人百通りなのだから、どんなに何かと希ったと ころで、女房が思い通りになるはずはない。家計簿をつけろ、と言いつけてみたところで、財布 をすぐ置き忘れ、おつりを受け取らずにふらふらと店を出てしまうような女房に、二円、三円、 帳尻が合わないことを文句言って表たところで、どうにもなるまい。それに、家計を締めようと 思ったら、まず、家計簿を買わないことだ、と花森安治先生もおっしやったこともあるし : 妻の方はどう思ったか。結婚するとき、女房はまだ学生で、作家などではなかった。そして女 房は結婚しても、断然、働くことを決心していたのである。 女房の私は、決して語学力に自信がある訳ではなかったが、とにかく翻訳でもしてお金を稼が ハートタイマーの家政婦でもよかっ なくては、と考えていた。もし語学力の不足を痛感したら、 たし、その中間をとって、英語の家庭教師にでかけようかとも考えていた。このような働く妻の イメージは、私が自分の出た聖心という学校から、自然に植えつけられたものだった。 ( イティーン時代に、戦後の社会的変化のときを経験した私たちは、まだ高校のうちから、働 いて自分で、経済力をもてる人を偉いと思う気分を持つようになったのである。私と違って手先 の器用な同級生は、授業中に机の下で手袋など編んで、けっこういいアを ( イトをしていた。 それに、どういう訳か ( 多分キリスト教的なものの考え方によるせいであろうが ) 私たちの世代には 134
夫は何も言わないが 私が世間一般の常識に手もなく屈伏したのはひとつには、私が仲の悪い夫婦の子供として育っ たために、結婚生活を決して甘いいいものだとは思わなかった故である。家庭は火宅であること を、私は小学生にならぬうちから肌で感じている。それに耐えることはそれだけで人生の偉業か も知れぬなどと感じている。 私ほど、考えてみると、平凡な仲のいい夫婦に憧れた人間はなかったかも知れない。偉いお父 さんでなくてもいい << さんのお父さんは、妻子がでかけるとお風呂をたいて待っているそう な。さんのお父さんは、忘れものばっかりして、さんのお母さんに叱られているそうな。そ んな家がいし と私は子供心に思った。 家庭というものは、ことごとく未完成である。これで完成したなどという家庭を、私はみたこ 2 ステキな夫婦になってはいけない
つの踏絵だ。 しかし、その人のためになら死ねると思う相手は、ごく少ない。その他の人たちを、 私たちは愛していないのだろうか。そう考えたら絶望的になる。 しかし人間の不思議さは、愛していない人をも愛する方法があるということだ。その 知恵を、私は、私の先生であるカトリックの修道女から教えて頂いた。それは虚偽でも 偽善でもない。なぜなら、人間はそれを批難できるほど強いものではないからだ。 愛、愛と言いながら、実は、一生、本当の愛など知らすに過ぎて行くひとたちが、実 は意外と多そうなのに驚くことがある。そういう人たちは生活技術のうまい人なのだ が、その面の達者はかえって愛することは下手なのかも知れない。 愛というものは、それだけでひとつの完結した世界なのだろうと思う。愛はしかも実 用品ではない。何かで買うこともできない。求め方のルールもなければ、その結果がど うなるかという保証もない それはしかし、生命そのものである。それだけに哀しくしかも燦然と輝いている。 曾野綾子
私が決心した日 識的な家庭の中で、何と型にはまったものの考え方しかしていなかったのだろうと気がついた。 という年頃だっ 三浦朱門はその当時、一日に必ず二、三通手紙を書かないと落ちつかない、 た。旧制の高知高校時代に同じ部屋にいた阪田寛夫さんは当時、大阪朝日放送の社員で、関西に いたが、そこへも同人の集りの具合や、文学について自分の意見などを書き送っていたらしいが、 私にも同じようにせっせと手紙をくれた。その中には、 「表現とは、つまりはサギをカラスと言いくるめることで」 などと書いてくる。これは多分に、小説を書くということはやくざなことで、シロを黒と言わ れても仕方のないことだ、という点をもじったのかも知れなかった。彼はその頃から人にものを - 教えるのが好きで、その手紙はいわゆる創作の入門書のように読めた。尊敬しないと友人になれ ないという私は、この段階で彼にひっかかったのである。 彼に何度目かに会ったとき、私は自分の家の実情を話した。父母のこと、今までに何度か縁談 のようなものもあったこと、私はだいたい惚れつばくてたいていの相手をいいと思って母に定見 しいという簡単 がないと言われたこと、それはようするに父のように気むずかしくさえなければ、 な基準によったものであること、なかには私を貰って下さるというキトクな方たちもあったのだ けれど、しかしその方たちと結婚しなかったのは、決め手というか、ああこの点だけでも私はこ
私はすぐに見舞いに行き、何か食物を見ただけで、ふるえがくるというその友達を病床で見 た。私は初め、彼女が夫との間に何かイザコザがあるのではないかと考えていた。しかし話し合 ってると、彼女は夫を信頼していて、そのかわり、生みの母を憎んでいることがわかった。シ ェイクスビアのような話だが、彼女は三人姉妹の末娘で、コーデリアのようにもっとも父母に優 しいと思われていたのである。 彼女自身も、自分が母と別れて暮したいと思っていることなど、承認できなかったのだろう。 しかし彼女の母は気ままな人で、彼女は結婚生活と実母との間に立って疲れ果てていた。彼女は 母と別れて暮すには、自分が病気になって入院するほかはないと意識下で思ったのだろう。その 結果が拒食になったと思える節があった。 私は彼女に私の見ている前で物を食べさせようとした。顔がみるみる青くなった。いわゆるお 芝居ではできないことだ。 私は彼女に、私のニセ医者の診断を話した。正しくても正しくなくてもよかったのだ。彼女と しては、そのような心理的なものが、肉体に影響を及ばすなどということを聞くのは初めてであ った。しかし彼女は素直で、しかも自分と闘う気力もあった。彼女は私の言うことを、そうかも と言ってくれた。 知れない、 170
しかし、けなしながらほめることだ。子供でも女房でも夫でも、必ずほめた方が、第一自分が 「あなたのステテコ姿って、わりといいわよ。いかにも日本人的で。なんだか出世しそうな後姿 だわよう」 と女房に言われれば、少し大人けのある夫なら、よく考えてみるとブヂョク的な要素も多々あ れどなんとなく、自分こそ大和男子の代表のような気持ちになれないこともなくて、「ばか一一一口え」 などと言いながら、決して怒ってはいない おい太郎、嵐の日に出歩くときは、母さんの 「お前くらいどっしり太ると、安定がよくていい。 ち後を歩きなさい」 一アプだとい、フことは非しいが しかしそれが実用的であれば、女は満足してしまう。 す こういういい方のできる夫婦は、まず家庭が明るい。私のみるところでは、ステキな夫婦はど 婚 結 こか危機感をはらんでいる。滑稽な夫婦は安定がいい。滑稽というのは弱点がむき出しにされる と 人 ことで、その弱点を愛してしまったら、他にどんな立派なきれいな女、二枚目の男が現われよう の とも、夫婦はめったなことでは心をうっされないのである。 しかし美しいから、立派だから、働きがあるから愛するのだったら、年老いたり、弱味をみせ こ
Ⅱこの人と結婚すべきだろうか ったか、と尋ねて歩いたのである。他の小物なら客の住所をつきとめるということは、まず不可 能に近い。しかし幸いにも蒲団は必ず届けて貰うものである。 蒲団屋から簡単に足がっき、夫がそのアパートへ行ってみると、若い二人は、まだ家具といっ ちゃぶだい たら卓袱台くらいしかない四畳半の部屋の眩しい朝陽の中に、びつくりして坐っていた。二人は どうして自分たちが発見されたか、半信半疑だったが、いずれにせよ、母親が寝こむほど心配さ せたのは悪かったと言って、さっそく電話をかけに行った。 「しかし、羨ましかったな」 と夫は家へ帰ってくるなり言った。 「僕もあんなふうに、何にもないところから出発してみたかった」 私たちはー・。。・あまりに多くのものをかかえ過ぎていた。夫婦仲の悪い私の両親 ( 私は一人娘だ「 た ) 、そして長男としての彼自身の立場、結婚してすぐ私の家へ住むことになっていたからしあ わせのようにもみえたが、私たちは、結婚のすべての形態を自分たちで整えるという、輝くよう な幸福を味わう機会は与えられなかったのだった。 結婚すべきかどうかを迷うくらいならいっそのこと、結婚なんかやめてしまえばい いと思って いる人もいる。私も若い頃、結婚はやめて、どこか一カ所だけ尊敬できる男のひとの子供を生ん まぶ
寝た。男の子なら太郎だと、夫はもう決めていたからだった。自分が朱門という本名のおかげで ' 東大をお出になったからですか、とか、ずいぶんへんなことを言われた。子供の名前は、どんな 商売にも向くのがいし 、と迷わずに太郎であった。 しかし女の子の名前を考え出すと、私は毎晩眠くなって寝てしまった。そして何も決まらない うちに一月二十三日、太郎が生まれた。 生もうとして生んだ子ではない。若い二十九と二十三の夫婦に自然にできた子であった。そし て子供がお腹にできたときに芥川賞の候補になったということは、私にひとつの実感を与えた。 穴子供の方が実で、文学は虚だという思いである。今ならこの思いをもう少し別の言葉で言いあら わせたかも知れない。例えば数十篇の長篇を書くより、子供を一人育てる方が本格的な仕事をし て たことなのだとか : み 私は少しも賢い、余裕のある母親ではなかった。子供はまもなく乳児脚気にかかり、ひどい下 込 落痢が続いた。私の方はばつばつ小説を書かねばならなくなっていた。 もし母や、手助けをしてくれる人がなかったら、私は体がまいるか、小説を書くことをやめる 分 かしなければならなかったろう。幸いにも育児のべテランの女性が現われ、その人のちょうど月 給の分くらいしか私は収入がなかったにも拘らず、私はそのお金を出すことくらい少しも惜しく