Ⅵ私が決心した日 もちろん、身上相談には二つの要素があり、ひとつは、実際に質問者に答えることなのだが、 もうひとつは、投書者の質問によってかりの場を与えられることで、もし自分ならどうする、と 答えさせられることである。これはいわばスポーツのようなもので、ガリくー ノが小人国に紛れ込 んだとき、自分のハンケチを張った急ごしらえのリングの上で闘われる騎馬戦のようなものに過 ぎない。勝っても負けても、それは本当の戦いでも人生でもなくて、一種のスポーツなのである。 身上相談の解答というものも、いわばそのようなものである。 ところが先日も、解答者の会合の席で、おもしろいお話をきいた。浮気ひとっしたことがなく て堅実な社会生活を営んだりしていて、どうしてそんなものの解答者になれるか、と言われる場 合と、身上相談なんか引き受けてよっぱど自分が立派な人間だと思っているんだろう、と非難さ れる場合と両方あるのだそうだ。 私たち夫婦は、もともと信じていないせいか、あまりひとから何か言われたこともないけれ ど、身上相談なんてものは、誰もが答えられるもので、現に一生に何十度となく解答者としてい るものだし、厳密な意味で答えられないと一 = ロえば、誰にもできないのである。 しいて小説家も又、身上相談の解答者になれるとすれは、小説家は弱味について見つめようと している人間だからである。 8
私を一人の女として創られた。しかし小説家として創ったのではない。 「もう、小説なんて書くのやめようかしら」 と言うたびに、三浦は、 「どっちでも」 と言うのだった。 「本当に辛かったら、おやめよ。だけど、やめて本当にしあわせか ? 」 そう言われるたびに、私はぐらついた。そしてやめることはいつだってやめられる。私がやめ るべきときには、神が私にやめよ、というはっきりした命令を与えて下さるに違いないとあえて ・ろ神ガカリになった。 タイ国を舞台にした小説は、書き下ろしのためであった。第一、私はその小説を果して書くの す かどうかもわからない。しかし三浦は、私が目的に向かって進むことを決して妨げなかった。私 婚 と にとって大切なのは、その完成した小説ではない。むしろその過程であることを彼は知っていた。 人 の 「飛行機もケチケチしないで一等でいけよ」 と三浦は言った。 「そしたら安心して三十キロまで、現場へのお土産ももてるじゃないか」
の間で傷ついたからこそ、人間の弱い心の部分がわかるようになった。刑務所へ人っているよう な人は自分とは別人だと思わないですむようになったのだ。 母性本能を失った女たち 私は小説家などになってしまったからこそ、親たちがどのような人間でもよかったのであった。 逆の方向から言えば、私は自分に与えられていた環境を何でもこれは意味あることなのだ、と 思おうとしたし、それにやや成功したのだった。小説家になるのだったら、私の父母はまだ立派 すぎる人々だった。親がもっと理不尽でも、それはそれなりに子供としては受けとめ方があるの である。 もっとも世間の子供たちは皆小説家になる訳ではないから、親はものわかりよい平和な家庭を 作っていた方がいいが、完全な家庭というものも又少ないから、親たちは、自分の家庭が歪んで いることを必ずしも恐れる必要はない。むしろ現代は、そのような面でも過保護なのである。 しかし今、社会的にとり上げられているのはそのような小さな歪みではなくて、もっとはっき りした例えば「母性を失った女たちなどのことであろう。 子供を捨てる。赤ちゃんを車の中へおいておいて、夫婦で遊びに行き死なせてしまう。子供を
の人について行ける、という実感を持てる点がなかったこと、それで結婚ということはもう諦め て小説を書こうと思ったこと、ところが小説を書き出しても、一向にうだつが上らなくて、こん なことをしているのはもういやだ、と思 0 たこと。それで文学はやめることに決むして、ある雨 の日に、大学から帰ってすぐ近くの駅前の「ーケットまで買物に行 0 たこと。マーケットの中で それでもなおふらふらと本屋へ入ったこと、するとそこに『文学界』という雑誌があって、日井 吉見さんという方が私が以前入れて頂いていた同人雑誌に発表した短篇を批評して下さっていた こと。それで又、小説をやめるということを思いなおしたこと、などを話した。 三浦は冷酷な表情でそれを聞いていた。そしてそれから二、三日すると、一通の手紙がきて、 「あまり身の上話などひとにしないこと。たたし三浦朱門クンを将来ティシにしようと思うな ら別ー と書いてあった。 不思議な運命の時 その頃、私の家はさし当り食うに困るというほどでもなかったが、非常に慎ましく暮していた。 戦争の後、何度か手放そうかという話もでた家を、どうやらもちこたえているだけが唯一の財産 2Q2
話をもとへ戻す。 今でこそ、小説家は、時折、文化人のように思われる。しかし、本来はそうでないのだ。私も 2 小説を書こうと決心したとき、まだ十代の幼稚な娘なりに常識的な生活を捨てようと考えた。 これから私は男の人と夜おそくお酒をのんで帰ってくるだろう。そしてヘンな姦通小説なんか も書いて : : : それはいいのだが、もし父がある日、人並な縁談にでものることをすすめ、そし てある日、興信所なんぞというところが、私を調べにくると、うちのまわりの奥さんが歯に衣を きせたような言い方で、 「ええ、もう、たいへんいいお嬢さまで : ・ : ・ええ、才気はおありになりますし ( ヨシテクレエ ) こ の頃は何ですか文学の方も御研究になっているとかで、よく夜おそく、若い男と酒くさくなって 帰っていらっしゃいますよ [ といっている有様が目に見えるような気がするのだった。それはい、。 そんなことは事実だろ うからかまわない。しかしただ、意識的な父との衝突が心理的に煩わしくて、私は顔をシカメた くなった。 それでも私はその道を選んだのだった。正直に生きるために。不細工にありのまま生きること お、私の美学であったのだ。 ぶさいく
Ⅵ私が決心した日 らしいものだった。 私は大学で育英会の奨学金をもらって、同人雑誌の費用に当てていた。父は私が文学にのめり 込んでいるなどということを好まなかったし、私はまったくドプへたたき込むに等しい同人雑誌 の費用などを親から出してもらう気にもなれなかった。 私は高校三年の頃、初めて同人雑誌に入れて頂いたのだが、それは、中河與一氏のもとに集っ ーマンの家庭であった私の家 た『ラ・マンチャ』という同人雑誌であった。中河與一氏はサラリ で、たった一人個人的に存じ上げていた作家で、娘が小説を書きたいなどと言えば、親は当然、 そこへ連れて行くことになる運命だったのである。もう一人、私のポーイフレンドの一人が、静 岡高校で吉行淳之介さんと同級であった。彼の紹介で私がもし吉行さんに師事していれば、どう いう作風になっていたか、考えるだけでもおもしろい。 『ラ・マンチャ』の世界は、私にとってすべてが新しい刺激であった。中河幹子夫人は私に「苦 と一一 = ロ、フこ 節十年ーという言葉を教えて下さった。小説も十年くらい書いてみないとわからない、 とである。当時は今のように才能のある新人をジャーナリズムがウノ目タカノ目で探してくれる ということもなかったから、小説家などというものになるには、何年か同人雑誌に書きつづけ て、少しは人の目にとまるようないいものを発表し、それでやっと才能が認められればなんとか
で育てることを考えたことはあった。しかし、それとても、実際にそのような生活が始まったら、 私はどうなるか。 「あの人、私生児を生んだのよ , はまだいい。私も小説家を志している女だ。私生児ぐらい生んだって一向に構わぬ。しかし子 供が、 「うちのお父さんってひと、どこにいるの ? 」 と訊いたら少し面倒くさい。さりとて、初めからいないものと思っている子供の父親が、何か の拍子で、ひそかに ( そういう人は当然、他に家庭を持「ているであろうから ) 子供の顔でも見にきた いなどと言ったら、私はどうしたらいいか。煩わしくないために結婚しなかったのに、婦人雑誌 の小説の筋のようなことで、私は悩まねばならなくなる。 知力、精神力、体力、すべてが揃ていれば、サルトルとポーヴォワール女史の関係でも何で もかまわぬが、子供は最初から革命的意識も何も持ち合わせないのだ。子供はおおいに保守的で あり通俗的だ。よその家庭と似たり寄ったりの生活を好むとすれは、私のような、気力も精神力 も強くないものは、人並みな生活をこそ考え、決して革命的な生き方などを高望みしても、うま ~ 、いくまいとい、フことが次第にわかるようになってきた。
ものになるかも知れないという状態だった。 私は中河夫人のこの言葉を今でも真実だと考えている。小説ばかりでない。あらゆる仕事は 「苦節一生ーなのである。そしてその言葉を慎しんで聞いたとき、私も十年間苦しむことを納得 したはずであった。それなのにそれから数年もしないうちに私は早くも二十八歳くらいになっ て、まだ売れない小説を書いている自分を想像してみじめに思えてきてしまったのだ。 それが私が小説を書くのをよそう、と決心した日であり、同時に不思議な運命 ( この言葉は少し 晴れがましすぎるが、気楽に使うことにすれば ) によって数時間のうちに又、その決むをひるがえし た日でもあった。 強烈で鮮やかな岐路に立った日 その日のことをもう少し書こう。 雨の日であった。私は広尾の高台にある大学の窓から町を見ながら、きつばりと、私は道楽の 人生を歩くのをやめようと決心したのだった。私はカトリックの学校に入ったおかげで、修道女 たちの生活にふれ、人間が一生を賭けて生きる姿勢というのは何であるかを見ることができた。 私は文学が好きなように思っているけれど、そのような夢に自分や他人の生活を巻き込むことは
見という名の先生が、私の作品を批評して下さっていた。 ホメられていたばかりでもないが、好意的批評であった。私の胸は動悸をうち始めた。 こんなことがあるのだろうか。私はそれまでに、二、三作を『ラ・マンチャ』に出した。中河 先生や同人は皆、親切に悪いところを指摘し、しかも必すおだててさえくれた。しかし : : : つま りそれだけで、私の小説は、父たちの世代が集まって長唄の会を開くようなものだと私は自己嫌 悪にとらわれかけていたのだ。 私はつまり、変なおシャレだったのだろう。私は、今までにつねに諦めがよすぎたのだ。 ( そ の点は今も変わらない ) しかし、小説をやめようと決心した日に、初めての希望らしいものが与え られたということは、私にまだ小説を書き続けてごらんと、神が命じていることではないだろう か、と私は考えたのだった。 こんなふうに書くと、笑い出す人もいるだろうと思、つ。このように思うことは、ジャンヌ・ダ ルクが「行って祖国をたすけよ [ という神の声を聞いた、というみたいにとられそうだ。 もちろん、それほどの意味ではないのである。 ( 私のテレている表情を御想像あれ ) ただ、私はち よっと呼びとめられたのだ。もう一度努力してみたらどうかね、と .0 そんなような形で、私たち が人生を思いなおし、先輩から教えられることはよくあるであろう。 どうき 206
V 女は何に迷い苦しむか お気の毒よー 私たちはまったくそっとしたのである。こういう夫婦は、もうおいしいものを食べすぎた胃袋 のようなもので、ただ限りなく重く不快感があり、空腹のときに、あの一杯の味噌汁、一ぜんの 白いご飯をがつがっと食べる楽しみを知らない。 だから、心身を破壊するような極貧や病気は別として、つねに思いを遂げていないという実感 こそ、人間を若く魅力あるものにする。 小説を書いていてもときどきそういうことを感じる。正直なところ、小説を書くのは辛いのか 楽しいのかよくわからない。楽しいばかりでは当然ないのだが、それこそ、これ以上ないほど純 粋に好き勝手を書くのだから、楽しみがない訳ではない。 長篇の筋を長い間かかって考える。資料や調査のいるものは調べる。どんなに調査の内容がお もしろいものでも、書こうとすることにからみ合わないものはどんどん捨てる。残った材料さえ も、私はほとんどそのまま書かない。登場人物はむろん、事件そのものも再構成し、ねりなおす。 やがて書き始める。私は最近、千二百枚の『無名碑』という作品を書き終えたばかりだ。この 作品は私の宗教小説の第一作に当る。私は三年間、土木の勉強をし、タイの僻地まで取材に行っ こ 0 189