しかし、たいていの人には、一、二本の失恋線と言われているものがあって、その反応が又お もしろいのである。 「そう、よく当ってる。一人は結核で死んじゃった。もう一人は戦死。それで今の主人と結婚し たのよー という老女に会ったことがある。 手相はいい加減だが、大切なのは、失恋はよかった、と思っている人が多いことである。事実 そうなのであろう。あの男、いい人だったけれど、ティシ = にしたらよかったかどうか、と思う のである。ティシュにしてみれば、答えは歴然と出てしまう。ああ、こんなはずじゃなかった。 結婚前はドストエフスキーやサルトルの文学の話などしたのに、結婚したら、もうサルトルのサ の字もいいやしない。それどころか、昨日なんか、私がトイレに入っていたら、巻取紙の金物の 鳴る音を聞いていて、「おい、花子、お前は紙を使い過ぎる」だって。ケチ。これが私の恋愛の 結果だと思うと、ぞっとするわ、ということになるのである。 その点、失恋は安心だ。心を安んじて、あのひとはいい人だった、と言い切れる。 失恋は一人の人間についての評価を完結させる魔術である。ふつうの人間は生きている限り、 その評価が刻々変って行くのをまぬがれ難い。しかし失恋は、相手の印象を石に刻みつける作業
私を一人の女として創られた。しかし小説家として創ったのではない。 「もう、小説なんて書くのやめようかしら」 と言うたびに、三浦は、 「どっちでも」 と言うのだった。 「本当に辛かったら、おやめよ。だけど、やめて本当にしあわせか ? 」 そう言われるたびに、私はぐらついた。そしてやめることはいつだってやめられる。私がやめ るべきときには、神が私にやめよ、というはっきりした命令を与えて下さるに違いないとあえて ・ろ神ガカリになった。 タイ国を舞台にした小説は、書き下ろしのためであった。第一、私はその小説を果して書くの す かどうかもわからない。しかし三浦は、私が目的に向かって進むことを決して妨げなかった。私 婚 と にとって大切なのは、その完成した小説ではない。むしろその過程であることを彼は知っていた。 人 の 「飛行機もケチケチしないで一等でいけよ」 と三浦は言った。 「そしたら安心して三十キロまで、現場へのお土産ももてるじゃないか」
自分の行為を信じるために 一見しあわせそうに見えるお嬢さんや、家庭の主婦であっても、その底に深くよどんでいる苦 いものがない人は少ない。 ひとつは自信を失うことである。 若い娘さんは、特別に積極的な性格ででもない限り、若い男が、自分を認めてくれるのを、手 をこまねいて待っていなければならない。 男が声をかけてくれないからと言って、その女性は決してとりえがないという訳ではない。む しろぬきんでて頭がよかったり、美人だったりすると男性は恐れて近寄らない。そしてこれらの 優秀な娘さんたちは、思い通りに結婚の相手がみつからないことで、まず世の中に対して失望し ていく。努力してもどうにもならないということが、この世にあったことを知るのだ。これはま 4 一生の運命の鍵 165
Ⅵ私が決心した日 もちろん、身上相談には二つの要素があり、ひとつは、実際に質問者に答えることなのだが、 もうひとつは、投書者の質問によってかりの場を与えられることで、もし自分ならどうする、と 答えさせられることである。これはいわばスポーツのようなもので、ガリくー ノが小人国に紛れ込 んだとき、自分のハンケチを張った急ごしらえのリングの上で闘われる騎馬戦のようなものに過 ぎない。勝っても負けても、それは本当の戦いでも人生でもなくて、一種のスポーツなのである。 身上相談の解答というものも、いわばそのようなものである。 ところが先日も、解答者の会合の席で、おもしろいお話をきいた。浮気ひとっしたことがなく て堅実な社会生活を営んだりしていて、どうしてそんなものの解答者になれるか、と言われる場 合と、身上相談なんか引き受けてよっぱど自分が立派な人間だと思っているんだろう、と非難さ れる場合と両方あるのだそうだ。 私たち夫婦は、もともと信じていないせいか、あまりひとから何か言われたこともないけれ ど、身上相談なんてものは、誰もが答えられるもので、現に一生に何十度となく解答者としてい るものだし、厳密な意味で答えられないと一 = ロえば、誰にもできないのである。 しいて小説家も又、身上相談の解答者になれるとすれは、小説家は弱味について見つめようと している人間だからである。 8
Ⅱこの人と結婚すべきだろうか 妻の方にしてみれば、故意にそんなふうにしている訳ではないというであろう。夫の帰りが遅 いからであり、夫の両親に仕送りをしなけれはならないからである。 しかし、そういうときの自分の顔を鏡でみてみるといい。 私自身もう四十に近い。シラガ、シワ、ヒフのたるみ、いやはや化物だ。この上は、にこにこ でもするほか、見られるようになっている手はない。そういうときに、不愉快を顔に表わしたら どうなる。子供も、キャッと叫んで逃げ出すであろう。 腹が立ったら、まず、美容院へ行くか、恋愛映画を見るか、それだけのお金がなかったら、シ ャポンできれいに顔を洗い、あり合わせのお化粧品できれいにメークアップしてみせることだ。 メークアップとは作り上げることなのである。心と態度と表情をどうやら見られるように作り上 げるのだ。そしてインインメッメッたる暗さを、心の中から追放しなければならない。 の隣人への 妻は一日中、じっと夫の浮気のこと、金のないこと、舅姑に対する不満、アパ 1 ト はんすう 腹立たしさ、などを、チューインガムでもしゃふるように、心の中で反芻し、夫が帰ってきた ら、ああも言ってやろう、こうも言ってやろうと、待ち構えている。疲れ帰ってきた夫がそれに 対応できる訳はない。 しかし浮気や経済問題は、確かに気分をかえたくらいでは、なおらない重大な事柄であろう。
I 愛は何を欲求するか 帰ってくると暗い怨めしい表情の女房がいても辛い 「今まで、どこへ行ってたの ? 」 「今日は会社の新入社員の懇親会があってね [ 「これで今月は、三日と八日と、十一日、十八日、とに会があったのよ」 何となくそっとする。オンプお化けがついているような、刑事に見張られているようないやな 感じだ。 「あなたがその気ならいいわよ。私も勝手にやるから ! 」 そうか、それならどうぞ。それならオレは天下晴れて x 子と遊べるな。 一刻も早く捨てねばならない愛 いったん、興味を失った女に対して、男は実にさまざまの逃げ口上を言うものらしい。 「この恋を、結婚などという月並みな形で終らせたくないんだ」 「君は、恋人や妻以上のものだ」 「本当に愛しているんだ。会 0 ているだけで苦しいから、もう会わないでおこう」 「僕のような人間はとうてい君をしあわせにできないんだ。僕はそれがわか「ているから、辛い つら
間である。蛇や蛙を怖がる人は実際に多いが、きゃあと叫ぶよりも、こわさをじっと我慢してい る娘の方があわれではないだろうか。 蛇や蛙ばかりではない。耐えることは、実に大切なことで、歯をくいしばって何かに向き合っ ている女の姿は、そのまま、優しさにも、勇気にも、誠実にも、かよわさに通じる不思議な顔な のである。 妻が夫の浮気を防止するには、どうしたらいいかという場合にも、同じことが言える。つまり 男が家族に或るあわれみの心を持っていないといけない。俺がいなくなったら、こいつらは、何 もやっていけないんだ、という気持を起させないといけないのである。 「あなたの月給じゃとってもやってけないわよー などとつね日頃、女房が夫をいじめていれば、夫は女房をあわれむどころかである。 そうかどっちみち、オレがいたっていなくたっておんなじなんだな。それじゃ〇〇の x 子がこ 「あなたの顔みないと淋しいの。お願いだから又きて」 と言ってたから、あっちへ行ってやろう、ということにもなるであろう。 自分がいることによって女房が嬉嬉としていないといけないのだ。
I 愛は何を欲求するか は多分にムード的であった。しかし、彼の誠実は、もっと複雑で厳しそうだった。私がそう一一 = ロう と、三浦朱門は又、にやりと笑いながら言った。 「僕はウソつきです」 私は単純であったから「自分は嘘つきだ」という人は正直なのだ、と考えた。今ならばもう、 こんな手に簡単に乗りはしないけれど、そのときの私は、最低限、この人の誠実さは信頼するに 足るものだと考えたのだった。 「 : : : でなければ」という条件 最低限、という考え方は、私の生活の中でいつも深く根をおろしているのだった。キリスト教 の殉教者たちは、生活も、恋も、生命も捨てて、最低限、信仰だけを守った。そして私が中学校 二年の夏に終った戦争は、最低限、人間が生き続けるということに偉大な意味があることを教え てくれた。それ以上のものは、あればむろんありがたいが、ないからと言って、あるいは、捨て たからと言って、文句を一一一口うべき筋合のものではなかった。 両親があまり円満でない結婚生活を送っていたということは、世間的に見れは不幸なことであ る。しかし、私はその結果、決してあまり多くを望まないですむようになった。幸福というもの
恋から愛への変質 さて、心をふるわせるような恋の季節は、そうそう長続きしない。『アベラールとエロイ 1 ズ』 は、修道院の僧と尼の間に交された精神的愛の書簡だが、彼らのような幸福な境涯におかれる男 女は珍しいのである。もちろん、当世風に言えば、好意を持ち合っている男女が離れて暮すのは、 あわれだ、人権蹂躙だということになるかも知れない。 しかし、彼らは顔をつき合わせて自分の醜さを相手にさらさなくてすんだ、という点で、しあ わせだった、と私は言いたいのである。 燃えるような愛が消えたときに、かわりに細く長く生命をもつのが、許しである。その許しを 愛と呼ぶのである。 許しというと高低を連想するかも知れない。一方が他方より高にいて、その高い方が低い方 7 女の生きがいは何に見出すか じゅうりん
なんて科白を吐かせるようになったら、もう終りなのである。夫は、女房がそのことで自分を イジメたことを一生忘れない。 《用心しなきや》と彼は自分に言いきかせる。《とにかく、よそ の女のことは女房に一切言わんことだ》 そこで、この次、この哀れな夫は別の x >< 江さんに会うと、ついこの間までは、まったくなん ら危機感を持ち合わさなかったのに、突如として ( 妻にナイショだ、と思うだけで ) ひどく甘美な感 情を抱くようになる。恋愛に最も必要なのは、周囲の妨げなのである。今、世の中に氾濫してい 、こまっとしないのは、世の中 る恋愛が、どれも、のびて冷えかけたインスタントラーメンみたし冫ー じゅうの、親や先生や先輩や近隣が若者の恋愛に理解がありすぎて、二人の恋を邪魔しないから である。子供の恋愛に反対する親は、今や、本当に子供想いなのである。 どこを愛しているのか 日本人は西洋人と違って、夫婦の愛情の表現が多少違うから、「お前はいつ見ても美しい」な 「うちのおばさん」と三浦は私のこ ど言わないからと言って、愛していないことにはならない。 とを言うが、こういう言い方は妙に安定している。それで私も「うちのおじさん」と呼ぶことに している。 せりふ