ぶさほう するように不作法にばたばたとである。 「谷丘さん、八時になりましたよう。支度を始めますね工。」 婦長のあいさっと同時に、手術の準備が始まった。 てんてぎ 看護実習生の沢井さんが、点滴を担当した。 リンゲル液をスタンドに取り付け、すき通ったビニール管をつないで、その先端から 注射針で奈恵の腕の血管にさし込んだ。沢井さんは、注射針を奈恵の腕にさす時、手が ふるえていた。 さんそきゅうにゆう 奈恵を担当している看護婦の木村さんは、酸素吸入を担当した。滑車付の酸素ポン べからゴム管を伝わって送られる酸素を、奈恵の鼻から送り込むようにした。酸素が、 シュウっと音をたてた。 奈恵らしい姿は、もはや目だけとなった。 初めて見る顔の医師が、 ろうか 「家族の方、廊下へ出ててもらえますか ! 」 と、冷たくいった。 かんご したく かっしゃ 259
「 : : : あとは、だいじようぶだね。もし、何かあったら兄弟仲良く相談してやってちょ うだい。」 と、むすこたちの頭をなでた。 「光一、金管クラブどお ? 練習曲の″森の児山羊″トランペットで吹けるようになっ 「まだまだ。だって、トランペットの数が少ないから、マウスピースで息の練習ばっか 「そお。 お母さんはあの歌、大すき。お父さん、光一にトランペットを買ってやっ てくださいな。」 奈恵は、″森の児山羊″の歌を小声で歌った。小声で歌っても、基本をマスターして いるのだろう、聞きごたえがあった。 亮平は、奈恵が歌ったあの時この時の歌声が耳によみがえった。奈恵は万一を考え て、子どもの耳にも残しておきたいのだろう と思うとせつなかった。 そこへ医師一人、看護婦三人、ばたばたと病室に入って来た。まるで、片付け物でも 258
「そお ? 」 「気がっかなかったかい ? 」 「ええ。きっと、これから先どうなるのかが気になっていて、何を見ても目に入ってい ないのね。今が今だってそうよ。だから、わたしの目を見て正直に話して ! 」 その声からすると、亮平が今ふりむけば一滴の涙でも奈恵の心の画面に写ってしまう につ、つ 0 亮平は、ふりむけなかった。 「それじゃ、わたしが聞いたことを話します。もし、違っていたらそこだけ教えてくだ 亮平は答えなかった。 さいばうけんさ 「癌の疑いがたいへん濃い。確かめる方法は二つ。一つは、細胞検査、もう一つは、手 おせん 術。でも、細胞検査は、取り出す時健康な細胞を癌細胞で汚染する危険があるからやり たくない。手術ーこれなら癌であるなしにかかわらず取り除く必要のあるもの。だか そんしよう ともな ら、一番いい方法。なぜ、手術に迷うか。答え。声帯を損傷する危険が伴う。その選 、 0 256
て、家事もなく育児もない。 4 クしは休養にもなったらしく、いたって元気だった。 亮平が病室に入って行くと、うれしそうにべッドの上に起き上がった。 「ありがとう。大倉先生に面会してくださったんですって ? 」 「だれから聞いた ? 」 そうふちょう 「総婦長さんよ。 大倉先生、何ておっしやってました ? 」 「それがね、まだ、はっきりしないらしいんだ。」 「そお ? 」 奈恵の目が、テレビカメラのレンズになって、亮平の顔のところにびたりと向けられ た気持ちだ。 亮平は、今や、奈恵の心の画面に目いつばいクローズアップされていることだろう。 言うべきことを言いしぶっている亮平は、とまどいの色をどうかくせばいいのか、大ビ ンチだ。 けしき 亮平は、なにげないそぶりをして、病院の庭の景色を眺めた。 「木々の芽が、だいぶふくらんで来たね。」 255
しゅようせいたい 「腫瘍が声帯にへばりついているように映っています。つまり、人間の声の出るところ をギターのげんに例えますと、そこにガムがくつついて固まってしまった状態を想像し のぞ てみてください。そのガムを取り除くために、げんを切り取ってしまわなければならな い場合が考えられますね。つまり、声が出なくなる場合があるのですが、それでもいし か、ということです。」 「さあ、それは : 亮平は、返答に困った。奈恵は、もし、声を失なっても、生きていることを喜ぶだろ うか。声を失なった奈恵と、これまでと同じように仲良く暮らして行けるだろうか。亮 平の心の中のコン。ヒュータが、オー バーヒートするほど激しく回転した。 「奥さんのことは、あなたが一番よく知っているのですから、どういうふうにして決め たらいいか、それを考えていただきたいんです。」 亮平は、大倉先生に一礼して、カンファランス・ルームを出た。 奈恵は、入院したといってもまだ検査を受けただけである。その検査も一通り終わっ うつ 254
「やつばり癌だったのでしようか。」 「癌だとは言えません。しかし、癌でないとも言えません。」 「手術しないとわかりませんか。」 さいばう 「病気になっているところから、細胞を取って検査をする方法もあります。しかし、こ の方法だと、もし、癌であった場合、危険があります。癌細胞を途中で健康な細胞にふ れさせないで取り出すことができないのです。病気の部分を完全に切り取ってしまうの さいぜんさく が最善の策です。」 「癌でないことがはっきりした時は、どうするんですか ? 」 なお 「病気になっている甲状腺をとってしまいます。薬ではなかなか治りませんが、手術で なお したら一週間で治ってしまいます。」 「手術は安全でしようか ? 」 「安全でしたら、わたしの判断だけで手術してしまいますよ。」 大倉先生は、そういって立ち上がった。 とうし そして、線写真を透視台に載せて、病気の部分の説明を始めた。 253
奈恵の病室を見回りに行って、放射線科の婦長から外科に移されたことを聞いた亮平 は、足がすくんだ。 ーー検査の結果が黒なんだ ! びようとう 亮平は、すぐに外科病棟へ行って、大倉先生に面会を申し入れた。大倉先生も、奥 さんに頼んで来たところだといって、その足で面会に応じてくれた。 カンファランス・ルームに入ると、亮平に折りたたみ式のいすをすすめてから、移動 黒板を背にしてテーブルについた。 「奥さんは、何歳になられました ? 」 「三十二歳です。」 「まだまだ若いですねえ。」 「子どもさんは ? 」 「小学校五年生と二年生。男の子です。」 「そうですかあ。奥さんの人生は、これからというところですね。最善の策をとるべき でしような。」 252
「そうすると、これからはどうすればいいんだって ? 」 「附属病院放射線科の中本先生に診ていただくようにつて、この紹介状を書いてくだ さった。」 「な、なんだって。それじゃ、さっきの返事とは違うじゃないか。」 「違うって言えば違いますけど、手術が必要かどうか、それは、中本先生の検査結果を 見なければわからないそうよ。それは、仕方のないことだと思いますけどーー。」 亮平は言葉につまった。 いったいどんなコメントが書かれているのだろう。 目の前にある白い封筒の中には、 でんとう もしや見える部分があるのではないかと、亮平は、電灯に近づけてすかして見た。 しかし、中の便箋が黒い影になっているだけで、亮平をがっかりさせた。 奈恵は、附属病院に入院して、詳しい検査を受けた。 げかびようとう 三日後には検査が終わって、奈恵は外科病棟に移された。主治医も外科の大倉先生 に代わった。 びんせん くわ しゅじい おおくら 251
きのうこうしんしよう 「甲状腺機能亢進症っていう病気なんですって。当分の間、その治療をしてくれるそう だけど、六か月ぐらい様子を見てよくならなければ附属病院へ紹介してみましようつ ておっしやるの。」 「附属病院て、あの、癌専門の病院じゃないのか。胃癌とか乳癌てよく聞くけど、甲 状腺も癌になるのか ? 」 「そうなんですって。」 「まさかと思うけどねえ。」 亮平は、奈恵ののどぼとけのあたりをさわってみた。のどの右側におやゅびぐらいの 肉のかたまりがあって、ゆびでつまむとコリコリしていた。 「右側だけだね。」 それで、六か月 「そう。片方だけっていうのがどうもおかしいっておっしやるの。 ぐらい経過を見るんですって。」 まだ、附属病院行きが決まったわけではないんだから、甲状腺機能亢 「そうか。 進症の治療をおこたらないことだね。」 がん にゆう 249
「それじゃ、なんで早く言わないんだよ。心配してしまったじゃよ、、。 / し力」 「ごめんなさい。 からだが弱くて、あなたにめいわくばかりかけてしまって。」 と、奈恵が顔を上げた。その奈恵の両方の目から、涙があふれて、ほおの上をすべり落 ちた。 奈恵は、最初のうち、心臓がドキドキして息苦しくなったり、ゆび先がふるえておか しいといったりして、近所の医院で診てもらっていた。 「小学校の役員をしたり、近所のおっきあいがあったりで疲れるんだろう。ほど ほどにやっていればなおるだろうから、少し手を抜くといいよ。」 亮平は、本気でそう思っていた。 ところが、奈恵は日に日にからだがやせ、夜、眠れない状態が続くようになった。 しようかい そうなると、近所の医院では手に負えなくなって、 Z 国立病院に紹介された。 Z 国立病院で詳しく検査をしてもらった結果、ホルモンのパランスの悪いことがみつ かった。その原因は甲状腺にあった。 こうじようせん 248