「奈恵、よかったな。手術、終わったよ。」 「さ、坊っちゃんたちも ! 」 と、婦長。 「お母さん、起きて ! 」 「お母さん。光一、光一だよ、お母さん ! 」 いいご家族で・ 「谷丘さん、 と、沢井さんが声をつまらせた。その声につられて、洋介がわっと泣き出した。 「沢井さん、仕事でしよ。」 婦長にたしなめられて、沢井さんがまた声をしぼり出した。 「谷丘さん、手術、終わりましたよ ! 」 その時だ。 奈恵が、とろんとした目を開けて、 「ガイ、・ゴホウ : と、まるでけもののような声をあげた。 266
「もっと、元気よく吹けないか ! 」 「にいちゃん、がんばって ! 」 トランペットは、ますます高らかに鳴り響いた。その音色にさそわれるように、看護 婦の木村さんに押された車いすが近づいて来るのを、光一は気がっかなかった。 光一の目に涙があふれ、トランペッ トの音が途絶えた。 「うまいわねえ ! 」 と、突然声をかけたのは、木村さん。弱々しく、はくしゅをしたのは奈恵 ! 亮平たちはびつくりした。 「どうしたんだー と、亮平。 「午前中に、あの部屋から : : : 。」 と、ぜいぜいする声で答えたのは、奈恵。 「どうして、電話してくれなかったの ? 」 奈恵は、まだ、十分答えられるからだではなかった。木村さんが、 ひび ねいろ ? 91
「お母さんのそばまで行ける ? 」 「それは、まだだめだ。でも、もしかしたら、窓ガラスの向こうから顔を見せてくれ るかも知れない。それでも、 しし力し ? ・」 「うん。」 はやめ たいき 亮平は、その日、早目に病院の裏庭に待機した。奈恵の病室には、カーテンが下りて いた。まさか、ここまで来て病気の状態が悪くなったということもあるまい 亮平は、じっと腕時計をにらんだ。 十二時 ! どこからか、ラジオの時報が聞こえて来た。 みん 病人も皆な食事時だ。めいわくにはなるまい。 「光一。さあ、トランペットを吹け ! 」 亮平にうながされて、光一はトラン。ヘットのマウスビースに口を当てた。 曲は、もちろん、奈恵お気に入りの″森の児山羊″ , が、奈恵の病室のカーテンが動かない。
「よし、どいじようぶ。心配しないで ! 」 と、大倉先生が奈恵に声をかけて、また、引き上げて行った。後に残った婦長も、 「また、時々たんがつまると思いますから、その時は吸引してあげてくたさい。」 と、言い残して引き上げた。 奈恵は、呼吸がもとにもどって楽になるとすやすやと眠り始めた。 「光一、洋介と二人で帰れ。タクシ 1 に乗って行けばだいじようぶだ。」 亮平は、光一にタクシーに乗る場所へ行く道を言いふくめて、二人を帰した。 しばらくすると、奈恵が目を覚ました。 亮平が顔をのそくと、 「アハナア、ウフヒイ。」 と、いった。さっきより声に響きがある。 亮平には″あなた、苦しい〃とかなりはっきりと聞き取れた。 「奈恵、ことばがわかるよ。よかったね。」 270
「 : : : あとは、だいじようぶだね。もし、何かあったら兄弟仲良く相談してやってちょ うだい。」 と、むすこたちの頭をなでた。 「光一、金管クラブどお ? 練習曲の″森の児山羊″トランペットで吹けるようになっ 「まだまだ。だって、トランペットの数が少ないから、マウスピースで息の練習ばっか 「そお。 お母さんはあの歌、大すき。お父さん、光一にトランペットを買ってやっ てくださいな。」 奈恵は、″森の児山羊″の歌を小声で歌った。小声で歌っても、基本をマスターして いるのだろう、聞きごたえがあった。 亮平は、奈恵が歌ったあの時この時の歌声が耳によみがえった。奈恵は万一を考え て、子どもの耳にも残しておきたいのだろう と思うとせつなかった。 そこへ医師一人、看護婦三人、ばたばたと病室に入って来た。まるで、片付け物でも 258
「びつくりさせたかったんですって ! 」 と、奈恵に代わって答えてくれた。 「トランペットを吹いても顔が見えなかったから ! 」 と、光一は、奈恵の肩にひたいを押しつけた。 「ごめんね。でも明日、退院できるってから ! 」 と、奈恵は光一と、洋介の頭を代わるがわるなでた。 病院の庭の木々の茂みの中で、もうクマゼミが騒々しく嗚いていた。 ちょうごう 健康な人間だったら、例え寝ていても怠けていても、甲状腺が勝手に調合してくれ るホルモン 。奈恵は、それを今でも定期的に附属病院の検査でパランスを測定 し、かかりつけの病院で調合し、自分の手で口から補っている。 なま その姿は、あたかも甲状腺ででもあるかのように、亮平が寝ていようが怠けていよう が、奈恵は、それが当たり前だというようにやっている。 幸い、髪の毛にも骨にも異状は起こらなかった。今も元気に活躍している。 健康な亮平が、むしろ、そういう奈恵の姿に励まされて、生き生きと暮らしている。 おぎな 292
それからというもの、奈恵はいじらしいほど医師の指示に従って治療を受けた。 たと らいきやく 検査の時、前の晩から食事調整が必要だと言われれば、例え来客があっても物を口 にしなかった。次の朝、うつかり水を飲んでしまうといけないからーー・・と、食卓の上や いんしよくきんし 流し台に「飲食禁止」と書いたカードを置いていた。子育て中の奈恵にしてみれば、 気の休まるひまがなかっただろう。 それでも奈恵はヘこたれなかった。 しゆき 子どもたちの眠ったあと、さかんに医学書を読んでいた。癌とたたかった人々の手記 も読みあさっていた。 しかし、奈恵ののどはふくらむ一方であった。奈恵は、ひそかに附属病院行きを覚 悟していたことであろう。 そういう時の流れの中で、手術か飲み薬かが決まる日であったのだ。 光一も洋介も、いつの間にかめいめいの寝床にもぐって寝てしまった。光一が気をき かせてしめたのか、襖もびったりとしめてあった。 ご ふすま ちょうせい ねどこ 250
イシノョテイドオリケイカシティル。 タエテ、トキフマテ。リョウヘイ 0 奈恵が隔離されてから八日が過ぎた。 ゴ】ルに近づいたマラソンランナーのように、今が一番苦しい時かも知れない。 亮平は、最後のエ 1 ルを送ろうと考えた。 これも、電報作戦である。 ニチョウビ。コウイチガウラニワデトランペットヲフク。ョウスケ キョウハ モアイタイソウダ。ショウゴック。 でんぶん 光一も洋介も、亮平の電文を聞きつけてはしゃいだ。 「見舞いに行けるの ? 」 「うん ! 」
おかあさん、おたんじよう日、おめでとう。 こんや、おとうさんとおにいちゃんとぼくで、レストランへ行ったんだよ。でも、お かあさんがいなかったから、ぼく、さびしかった。おかあさん、はやく元気になってく ださい。はやく、びよういんからかえってきてください。 たにおかようすけ おかあさん、おたんじよう日おめでとうございます。心からお祝いいたします。 でも、病気で入院しているおかあさんこ、 冫いくらおたんじよう日だからっておめでと うございますということばを書くのは気がひけます。 おかあさん、おからだのぐあいはどうですか。ぼくは、おかあさんがいってくれたか らおとうさんにトランペットを買ってもらって毎日練習しています。森の児山羊は、だ いたいふけるようになりました。早く、おかあさんに聞いてもらいたいです。 では、おからだをお大切に 谷丘光一より 奈恵、誕生日おめでとう。
死ぬなよ、な 妻と子と、一家四人が全員そろってタ食の食卓を囲み、それそれにはしを動かしてい るというのに、みんなだまってロだけ動かしていた。 一言も それもそのはず、一家のポスである亮平が勤めから帰って来てから、まだ、 ロらしい口をきいていないのだ。長男の光一も、次男の洋介もまだ小学生。こういう場 合、父親のきげんが悪いのではないかと思って、神経がビリビリしているものだ。食卓 の上のおかずにはしをつける時、目つきが亮平を警戒しているからよくわかった。だか ら、 ( お前たちは心配しなくていいんだ。安心して腹いつばい食べな ! ) しんきよう そういってやりたいのだが、今夜の亮平にはその言葉さえすなおに出る心境ではな っこ 0 、カ子ー りようへい っと ? 40