「何 ? 」 と、信也は、時夫の顔を見た。 時夫の返事を待つまでもなく、女の人の声でアナウンスが始まった。 「こちらは、市民情報サービス放送です。 たいきおせんかんし 本日、午後二時一一十五分、市大気汚染監視センターより、光化学スモッグ注意報が 出されました。屋外にいる方は、健康に十分注意してください。繰返します : : : 。」 信也にとっては、初めて耳にする放送だ。 何をどうしてよいのかわからない。 妹の広子は、片隅の砂場で、そこいらにいた女の子たちと砂遊びをしている。 時夫はーーーと見ると、ポールを高く投げ上げてはそれをひとりで受けて遊んでいる。 「時くん、このままでいいのかい ? 」 「注意報だもん、どうってことないさ ! 」 「ほんとに ? 「そうだよ。 注意報ぐらいざらにあるのさ ! 学校では、外にいちゃいけないって 207
じりじりと照りつける真夏の太陽の下、いなか道は、草いきれでむんむんしていた。 ふそくぎみ おかば 水分の不足気味になった陸稲は、葉をきりつと丸めて、太陽の光線にむかっていた。 信也の母の生家は、 e 市の市街地を一望できる丘の上にあった。 いとこの時夫は、待ってましたとばかりに裏の公園へキャッチボールにさそってくれ 信也は、広子を連れて公園へ行った。公園は市街地の展望台になっている。 「兄ちゃん、町がおっきいね ! 」 広子が市街地を眺めて叫んだ。 りんかく 市街地は、薄い紫色のかすみがこもっていて、ビルの輪郭もさだかでない。薄くあ りんりつ るいは濃く見える高層のビルが、林立している景観は、まるでパノラマ写真を見ている よ、つだ。 信也は、いとこの時夫はこの大都会の一隅に暮らしているのだと思うと、そればかり でも時夫が立派に見えた。 むらさきいろ こうそう いちほう いちぐう 204
いた。看護婦は、時夫がのそいた気配に気づいたらしく、目を上げて、 「どうしました ? 」 と、聞、こ。 「あの、二〇三号の : 「あ、桜木さんのお食事ね。 「あの、食堂は : 「この廊下をまっすぐに行って、突き当たったら左イ、右ッ ! わかった ? 」 「はい、ありがとうございました。」 時夫は、不安な気持ちで廊下を進んだ。 ( 左イ、右ッ あった、あった。 食堂に入ると、ほかにも十人近くの特別食が作られていた。が、桜木広子の名前がな 、 0 今朝は特別な食事だから、食堂へ直接もらいに行って 229
ふと、空を見上げると、真っ天上にまん丸な太陽があった。うすぐもりで、太陽の輪 郭がまぶしく輝ゃいていなかったのだ。 パスや電車を乗りついで来たとはいえ、わずか三時間ばかり場所を移動しただけで、 こんなにも天気がちがうものなのだろうか。 「時くん、こっちの方は、朝から曇っていた ? 」 「なんで ? 」 と、時夫は変な顔をした。 ぞら 「だって、うちを出る時はカンカン照りだったけど、こっちは曇り空だからさ ! 」 「曇り空 ? どこに雲があるのさ。」 と、時夫は、空をゆびさした。 「雲って、別にちぎれ雲じゃないから、どことは言えないけどさ、ああやって太陽だっ うすぐも て薄雲の中にあるから、まともに見えるだろ。」 「なあんだ。 あれは雲じゃなくて、スモッグだよ。」 「スモッグ ? 」 で 205
教わったけど、今まで病人が出たってためしがないもん。まじめに守っているのは、小 っちゃい子たちぐらいのもんさ。」 時夫の言うとおり、広子と遊んでいた子たちが、ちょろちょろとかけて行くのが見え 広子は、放送の意味がよくわからなかったらしく、一人取り残されて砂遊びに熱中し ている様子だった。 信也は、何か悪いことでもしているようなうしろめたさを感じたが、そのまま、時夫 とキャッチボールを続けていた。 ちょうどその頃、太陽がやや西に傾きかけて、ひょこの入った水槽を照らし始めてい 水槽の中の温度は、ぐんぐん上昇するのに、ふたのすき間が狭いので、外へ逃げよ うがない。ひょこたちは、しだいにむし暑くなってくるのを感じて、落ち着かなくなっ て来た。 じようしよう 208
( あれ、どうすればいいんだろ ? ) 時夫は、とりあえず廊下へ出てみた。さいわい、二つ三つ先の病室の所まで、台車で 運ばれて来ていた。付き添いらしい人が三人、おぼんを取り出していた。 「あの、二〇三号室ですけど、ここにないみたいなんですけど : ・ : ・。」 時夫は、広子の名札が見当たらないので、あわててそばにいた人に聞いた。 「だれ ? 」 「桜木、あの桜木広子です。」 「桜木さんね : : : ないわねえ、ナースステーションで聞いてごらん ! 」 「どこにあるんですか ? 」 「ほら、そこのななめ前 ! 」 おばさんは、さもおかしそうに笑った。 笑われても仕方がなかった。目と鼻の先のところに″ナースステーション〃と書いた 本カかかっていたのだ。 ナースステーションをのそくと、さっきの看護婦が、机に向かって何か書き物をして 228
と、時夫はあきらめた。 「おじさんにだよ ! 」 おじさんは、すぐに電話に出た。 「もしもし。 あ、お前か。広子はどうだ。 : そうか。こっちは光化学スモッグ警 : ばかな、こっち 報でてんやわんやだ。信也はどうしてる ? 何、こっちだろうって ? ・ からは朝出たっきりだよ。 : うん、うん。じゃ、時くんにちょっと聞いてみる。この まま、待ってられるかい。 ・ : あ、そうか。それじゃ、五分したらかけてくれ。じゃ。」 おじさんが受話器を置いた。時夫は、おじさんとおばさんが、電話でどんな会話を交 わされたか、おおよそ察しがついた。もう、すべてを告白して、これからどうしたらい いのか、大人の判断を待っしかない、と覚悟を決めた。 「おじさん、ごめんなさい。 実は、信くんは、ひょこが心配になって、いなかへ行 きました。。ほ、ぼくがすすめたんです。ごめんなさい、ごめんなさい ! 」 「そうか、そうだったのか。こんなことがなけりや、お礼を言わなけりやいけないとこ ろなんだけど、ちょっとむちゃなことになってしまったから、それだけは言ってやれな かく′」 234
今度は、 「え ? 」 というように顔を上げた。 「げろ出なかった ? 」 ・少し、出た。」 「そう。いやだったわね。 「うん ! 」 「がんばったのね、えらいわ ! 」 看護婦は、それで出て行った。 時夫は、次はどんなことがあるのか不安になって来た。でも、いまさら逃げ出すわけ 、 / . し - カ / . し 。ヒンポーン チャイムが鳴った。 「朝食の準備ができました。取りに来て下さい。」 で で、もうだいじようぶ ? 」 227
を開けて、 「兄ちゃん : と、ロばしった。 が、すぐにまた目をつむってぐったりとなった。 「なんだよ、あまったれ。こんなところで眠っちまうやつがあるかよ。 と、信也は広子をおんぶした。 「どいじようぶかい ? 」 と、時夫が、広子のひたいに手を当てて、様子をみてくれた。 「ビロちゃんのひたい、なんだかびやっと冷たいような気がするけど : : : 。」 「それじゃ、少し熱でもあるのかな。」 「そうかも知れない。早くうちへ行ってみてもらおう ! 」 「うん ! 」 と、信也が一歩踏み出した時だ。 ほれ ! 」 210
「何 ? 」 「なんでもいいからさ ! 」 時夫は、面会所へ行った。 「ビロちゃん、だいじようぶそうじゃないか。」 「うん。だったら何 ? 」 「信くんのひょこのこと、タベおとうさんたちが話してたよ。」 「だからさ、それがどうしたんだよ。」 「ぼくがビロちゃんをみててやるから、行ってみて来いよ。往復六時間あれば行って来 れるだろう。そうすれば、お母さんには仕方がないとしても、おとうさんの方はきっと どいじようぶだよ。」 「ないしよじや行けっこないよ , 「どうしてさ ? 」 「電車賃がないもん ! 」 「いくらかかる ? 」 ゅう 221