魂 - みる会図書館


検索対象: 鎮魂歌
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1. 鎮魂歌

「大丈夫です。五月には必す金が入ります。勿論、延滞料も会社で負担いたします」 五月が来た。いよいよ木の伐り出しがはじまった。後藤は塩尻へ出かけて行った。彼は森林組 合との契約手続きを完了したといった。しかし森林組合は後藤に支払う金を松本信用金庫から借 りることになっている。その方の手続きのために一日二日の時間がかかるということだった。 それから暫くして彼は電話をかけて来た。 「ただ今、現地から連絡がございました。お喜び下さい、先生。いよいよ、今日の午後金が来ま す。これから八十二銀行に振り込むという連絡が今入りましたから、明日の朝にはお届けできる と田います」 その翌日の午後、私は後藤に電話をかけた。朝には届くといった金が届かないからだった。 「経理部長は昨日の夜塩尻へ行きました」 といつもの女事務員がいった。 「塩尻へ行った ? 」 私は驚いていった。 「何のために塩尻へ行くんです」 「振り込まれる筈のお金が入らないので、現地へ行って調べて来るといって : : : 」 「お金が入らないんですって : : : 」 私は叫んだ。

2. 鎮魂歌

125 鎮魂歌 てからにしてほしいという理由だった。しかし選挙が終れば必す出すといった金は、選挙が終っ ても出なかった。選挙が終ると同時に道明寺は息子ともども香港へ行ってしまったのだ。道明寺 はやがて香港から帰って来た。だがまた金は約束の日に出なかった。道明寺の息子の選挙違反が 露見して、彼は留置場へ入れられてしまったのだ。 後藤はかく相なりたる上は、道明寺ごときは相手にせず、山の木を伐ってその金を提供いたし ますといっこ。 「いやしくも後藤公平、男としてこのまま逃げ隠れはいたしませぬ。少くとも先生の税金の分な りとも、この後藤、首にかけてお返しいたします」 後藤の持山は長野県の塩尻にあった。後藤は塩尻へ出かけて行き間もなく意気揚々と帰って来 た。森林組合に山の木を売る話がまとまったのだ。 , 彼の山は約四千万円の評価を受けている。そ のうち千五百万円分を売って、第一回の支払として五百万もらうが、その金をとりあえす私の税 金分として返す。しかしその前にあらかじめ伐る木を選んで印をつけねばならぬ。その作業に人 夫を頼んで来たが、それは二、三日もあれば十分だと彼はいった。 しかしその翌日、山は猛吹雪に見舞われ、人夫は積雪のために山に入れなくなってしまったと 現地から連絡が来た。五月にならぬと雪は解けない。今回は自然のもたらした障害でありまして 決して人為的なものではございません、と彼はいった。彼は私の代りに税務署へ行って、税金を 五月五日附の会社の手形で受け取ってもらった。彼はいった。

3. 鎮魂歌

「ばく、今のお話、感激しました」 会場の灯を顔に受けた少年は凛々しい顔だちをしていた。 「サインして下さい」 少年は定時制高校をさばって講演会へ来たのだといった。彼はズックの鞄をさし出した。 「この鞄に書いて下さい。さっきのバイロンの言葉を」 私はサインのペンを受け取って鞄の底に書い 人は負けると知りつつも戦わねばならぬ時がある 「ありがと , っギ、いました」 と少年はいった。ふいに私は泣き出しそうになった。突然私の目に浮かんだ涙を少年は何と思 っただろう。 「先生、元気でいて下さい」 少年はいった。 「先生は女だけど、ばくは先生のような人になりたいです」 そのときこらえきれぬ涙が、瞼の縁からこばれ出た。 四月七日に道明寺の金が出なかった理由は、衆院選挙の応援で忙しいので金の方は選挙が終っ

4. 鎮魂歌

123 鎮魂歌 暖かい客席から満員の聴衆が私の方を見ていた。客席はいつばいで、通路にも、壁際にも人が 詰っていた。 一瞬私はすべてを夢と感じた。夢だ。悪夢だ。この私が二千の聴衆を前に演説をし ている。これが悪夢でなくて何であろう。 私は現代人が何かというとそろばん勘定しながら生きていることを、大きな不幸だと思う んです。そろばん弾いて、損か得かをまず考える。得だと思えばするが、損だと思えばしない。 しかしかっての人間の生き方の中には、損かもしれないがやる、という生き方があったにちがい ありまぜん。可能か不可能かを考えてからやるのではなく、不可能だがやってみようという夢を なぜ我々は持っことが出来ないのでしようか。現代には身を削るという思想がなくなっているん です。身を削らすに生きる。ーーそして生き甲斐は何か、現代には生き甲斐はないのかと探してい る。身を削らないで、安穏な道を歩いていて、そんなものがあるわけがないのです : : : 」 「そうだ、その通りだ , しいことい , っぞ」 聴衆の中から声がかかった 「ありがとう、賛成していただいて嬉しいです。でも今の方は多分明治生れの方でしよう」 波のように笑い声が起っていた。私は辛かった。もうしゃべるのがいやだった。それでも私は しゃべった。 「私は人生を合理的に整理しながら生きて行こうとは思いません。私は不合理を愛します : : : 」 私は呆然と壇を下りて会場を出た。一人の少年が私を追って来て声をかけた。

5. 鎮魂歌

夜遅く珠夫から電話がかかってきた。私は堰止められていた水が噴出するようにわめき立てた。 その間珠夫は黙ったまま、何もいわなかった。 「何を黙ってるの、男として何か一言くら、 し、いったらどうですか」 私は夢中で出来るだけ激越な一一一口葉を探した。 「あなたは泥棒をしたのよ ! 」 「四月七日には必ず返すよ」 珠夫の声は力がなかった。私がメガネプルに無力感を感じたように、珠夫は私に無力感を感じ ているのだ。私は叫んだ。 「四月七日に道明寺が金を出す ! あなた、本当にそれを信じているの ? 」 すると珠夫はカのない声でいった。 「それを信じなかったら、会社をつづけて行くことが出来ないよ」 私はその一言に沈黙した。それが信じられないとしても、ムリに信じなければ壊れてしまう世 界というものがあるのだ。その世界の絶望が私を黙らせた。 私は旅に出た。九州は春の真ただ中にあった。菜の花が咲き、柳の青みどりの下をゆるやかに たた 春の川が流れていた。海は鈍い白い光を湛え、うすぐもりの空と穏やかにつづいていた。私は車 で山を越えたり、海辺を走ったりした。穏やかな天気がつづき、講演会はどこも盛況だった。道 明寺が金を出す七日という日は、その旅の真中の日に当っていた。その日、私は小倉に着いた。 せき

6. 鎮魂歌

私は怒りの焔を背負ったまま、九州の講演旅行に旅立たねばならなかった。旅立ちの前に、や っとメガネプルは電話をかけて来た。道明寺は金は四月の七日に出すといっている。七日に出す のは道明寺が七という数を好きなためである、とメガネプルはいった。彼は道明寺が三月十日と いう約束の日をなぜ違えたかについてはもう説明をしなかった。とにかくもう一カ月待ってくれ と道明寺はいっているのだ。今度という今度はその日に違約はない。絶対に大丈夫だ。四月の七 日の午後一時に上福岡の農協で金を渡すとわざわざ先方からいってきたのた。彼はまた後藤公平 の首にかけて、という一一 = ロ葉を使った。 「後藤さん、最初から計算するとこれであなたの首は六つなければ間に合ない筈よ」 ムま、つこ。 「ともかく瀬一尸に今日中に電話をかけるようにいって下さい。男なら男らしく、自分のしたこと の謝罪に来るべきですよ。私は金が惜しいんじゃない。それが出来ない瀬戸が情けないのよ 「ごもっともです、ごもっともです。先生のお怒りは、この後藤公平、身にしみて理解いたしま 私は無力感を感じて口をつぐんだ。私は明日の九州行きまでに書きあげねばならぬ原稿があっ た。それが出来上らないのは、あなた方のせいてす、と私は叫んだ。瀬戸にいって下さい、私を 一文なしにした上に、仕事までさせない気かって :

7. 鎮魂歌

私は珠夫を探したが、珠夫はつかまらなかった。何度会社へ電話をかけても珠夫は留守だった。 連絡を頼んでおいても何もいって来なかった。珠夫ばかりでなく、メガネプルも同様だった。二 人は私から逃げ廻っているのだ。 私は電話に出て来る女事務員に毒づいた。 「瀬戸が来たら恥を知れといってちょうだい。それでも男か。男なら男らしく堂々と出てこいと ってちょうだい。 しいですか、私の手許には三百万の手形があるのよ。それを振り込めば、 つ。へんに会社はつぶれるのよ。私がお人よしだと思ってなめてるのかもしれないけれど、川添郁 はやる時はやりますよ。メガネプルにいっといてちょうだい。首をかけるということをあの人は 五回いったわ。いつ、首を持って来てくれるか、聞いといて下さい」 「あのう、失礼ですけど」 女事務員はいった。 「メガネプルというのはどなたのことでしようか」 「あなたのところの経理部長の顔をよく見てごらん ! 」 私はカまかせに電話を打ちおろした。それは私に久しぶりで訪れた憤激の嵐だった。家の中を 歩きまわる私の身体のまわりには、不動明王が背負っているあの大火焔が燃えているかのようだ った。怒りながら私は税金の心配をしなければならなかった。新聞社から前借りしただけではも う追いっかなくなってしまったのだ。

8. 鎮魂歌

117 鎮魂歌 思った。それは珠夫の弱さなのだと。強いていえば優しさなのだと。弱さが珠夫をしばしば裏切 者にするのだと。もし彼に余裕ができたときは、彼は何をおいても私の賭金を返すであろうこと を私は確信していた。 そうそう 五日間の旅を終って私は東京へ帰って来た。帰りの飛行機の中で、私は帰ったら匆々に納めね ばならぬ税金のことを考えた。私は二月の末に単行本の印税が銀行に振り込まれる筈であったこ とを思い出した。その印税に、近くの銀行に日常の生活費として預けてある若干の金を合せれば、 税金の三分の二は間に合うという計算が出た。あとの三分の一は新聞社から連載小説の原稿料を 前借りすれば払えぬことはない。 家へ帰った翌日、私は銀行へ電話をかけた。あるだけの金をかき集めて、とりあえす税務署へ 納入しようとしたのだ。すると銀行の人はいった。 「えー、川添郁さんの普通預金にはもう三万円しか残金はありませんが」 私は声を呑んだ。相手はいった。 「三日前に百三十万、引き出されています」 私は生活費を預けてある方の銀行にも電話をかけた。そうしてそこからも、五十五万円の最後 の金が引き出されていることを私は知った。

9. 鎮魂歌

115 鎮魂歌 だ。なぜ信じたのか ? その理由は私にもわからなかった。いや、もしかしたら私は信じたので はなかった。信じたいと思っただけだったのかもしれない。信じたいと思って私は賭けた。私が 信じたその心を、相手が受けとめるかどうか、不。 ムよ賭けすにはいられない 世の中には実に簡単な図式があった。多くの人間が、いつ、誰に教わったということもなく、 その図式を踏んで生きている。その図式の中には、人を信じるな、という条項がある。人を信じ てはいナよ、。伝 g じたいと田 5 ってもいけよ、。 人生を安全に生きるためには、人を疑わねばなら ぬ。人がいかに苦しもうとも、その苦しみに心を動かされてはならぬ。それに心を動かされて損 をする人間は、人生の智恵が足りなかったという反省をしなければならぬ。 多くの人はその基本を踏まえて生きていた。何よりもます人間としてしなければならないこと は、自分の身を守るということなのだ。我が身を守るために人を疑い、人の苦しみからソッポを 向くことは現代を生きる必須条項なのだ。 もしかしたら私が珠夫に金を出すのは、その世の中の図式に対する反発だったかもしれない いや反発というよりも、私にはそれが出来ないという極めて単純な事実がそこにあった。私はロ のうるさい怒りつばい人間だが、本当に人を憎んだことは一度もなかった。私は人間を愛してい た。そして人々の役に立ちたいという心をいつも持っていた。しかし私のこの願いはあまりに幼 稚で単純なので、却って人には理解されないのだった。 旅の間じゅう、私の胸を圧しているものは、必すしも返って来ない金に対する不安ばかりでは

10. 鎮魂歌

うのだった。 「だって、その人はあなたのおかげで女の不始末の尻拭いをしてもらい、その上にお嫁さんの世 話までしてもらったんじゃないんですか。なにもッムジ曲げることないでしよう」 禾・カい、つとメカネプルよ、つこ。 「それが先生、男というものには、まことにそのう、厄介な感情がございまして。権勢欲といし ますか、自尊心と申しますか : 「じゃあつまり私は、その女ぐせの悪いえばりやの息子の自尊心の犠牲になってるってわけです 「まことに申しわけございませんが、目下、鋭意、息子さんの方の説得にとりかかっております のでなにとそ、もう暫くのご猶予を」 それから間もなく息子の機嫌は直った。しかしその間に一千万の定期預金はまたもう一カ月、 満期が延びてしまった。 「税金の最終納入日には必ず間に合せます。三月十五日。この日づけでございましたなら、これ はもう、い配はいりません。どんなに遅くなっても十日には入る見込みでございますから : : : 」 私はかねてからメガネプルを信用していなかった。メガネプルの不自然な、必要以上にしゃち こばった態度は、彼が嘘つきか、そうでなければどこか普通でないところのある人間だと思って 、た。私は珠夫に向ってそう注意したこともあるくらいだ。それなのに私は彼の一一 = ロ葉を信じたの