声 - みる会図書館


検索対象: 鎮魂歌
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1. 鎮魂歌

私はその電話の主を憎んだ。 七日目の午後、私は机の前の凝固をといて、電話に手を伸ばした。私は珠夫のことを思い出し たのだ。 「やあ、どう ? 」 珠夫はいつもと変らぬ陽気な声で出てきた。私はその声を久しぶりで聞いた。 「あのね、気分が悪いのよ。とても」 私の声は我ながら元気がなかった。 「気分が悪い ? どうした ? 」 陽気な珠夫の声は急に心配そうにな、った。 「仕事し過ぎで疲れたんだろう ? 」 「そうじゃないの」 / ハま、つこ。 「ねえ、来てちょうだい。不 ム、仕事が出来ないの、一字も書けないの : : : 私、ダメになっちゃう 「ど , っしたんだ、いオし」 「どうしたもこうしたもないの。ダメなの・ : ・ : もうダメなの : : : 」 珠夫はちょっと考えてからいった。

2. 鎮魂歌

れたように電話帳を繰った。番号はすぐにわかった。紙切れにメモした番号を暫くの間目の前に 置いて、私はばんやりしていた。 階下のラジオが突然、大きな声を出した。 : 今日のような気持よく晴れた日は、家族モチは羨しいですねえ。独り者には天気がよくて もよくなくても : そこまでいって、ラジオは急に小さくなった。私の手はダイアルを廻していた。迷っているう ちに受話器が外された。外した受話器を耳に当てて返事をするまでに、それまでの話のつづきら しく何か声高にいう元気のいい女の声が聞え、それから、 「勝沼でございまアす」 と改めて甲高くはり上げた声がいった。それは私の耳には、昂揚した何かに浮き立っている声 に聞えた。私は黙って受話器を耳に当てていた。 と . 相王」はいし それから突然、はっと気がついたように黙った。私は急を詰めた。受話器を下 ろそうにも手が動かなかった。お互に受話器を耳に当てた同じ姿で、息を殺して対峙した女と女 歌を私は意識した。それはあの冬の夜と同じ清景だった。しかし私と彼女の秤の傾きは変っていた。 魂 ガチャンとカまかせに受話器が下ろされた。その強い響には、彼女の勝ち誇った嘲笑と軽蔑がこ れ見よがしに誇示されていた。四十五年間常に高く掲げて来た私の自尊心は、今私自身の手でそ の高みから落された。凝然と坐ったまま私はそれを思った。

3. 鎮魂歌

穏やかな勝沼の声がいった。その穏やかさは違う世界から吹いて来たあたたかい風のようだっ た。私は勝沼に見守られているように感じた。 「ごめんなさい」 「ど、つしたの ? ・ いつもと声が違うね」 私の目から涙があふれた。 「どうしたの、郁ちゃん、何かあったの ? 」 「何もない」 子供のように私はいった。 「でも、へんだ。元気がないよ」 ムま、つこ。 「 7 , っ : いやになった」 「いやになった ! 」 勝沼はびつくりしたよ、つに、つこ。 「ばノ、が何かした ? ・」 「そうじゃないの、人間がいやになったの : : : 」 「どうしたの、何があったんだい」

4. 鎮魂歌

「私、あなたに聞きたいことがあるのよ。あなたに女がいて、あなたはその女のところへ通う金 に困って、四苦八苦していたって。私のところから持って行った金も、会社に使うんじゃなくて、 女のために使ったんだって」 「誰がそんなこといったー 珠夫は低い怒りのこもった声を出した。 「天野さんから電話でそういってきたのよ。もう大分、前のことだけど。それで、もしそれが本 当だとしたら : : : 」 私の声はと切れた。 「私だって、行っていいんじゃないか : 「行きたいのか、郁は」 珠夫はいった。私は答えた。 : でも、あなたが行くなといったらやめる : : : 」 「行きたい : 「勝沼を好きなのか ? 」 日、好きだったのよ : : : 」 私は涙声になった。 「お嫁さんになりたかったのよ」 受話器の中で皿の音がしていた。

5. 鎮魂歌

「行くの ? 」 「今、集会があってね。遅くなりそうだから途中で抜け出して来たんだ」 珠夫は立ち上りながらいった。 「会社で電話を調べてすぐにかけるよ。役所の方へかければいいんだろう」 「でも土曜日だから、役所にはもういないわ」 「じゃあ、家へかけるよ。番号わかるかい」 「知らないの」 私はいった。私は勝沼の住所も電話番号も知らない。私は自分から知ろうとしなかったそのこ とを、そのときは「知らされていない」という風に感じた。 「教えないのよ、あの人は」 私は恨みをこめていった。 珠夫は帰って行った。一時間はどして電話がかカオ といった。その声だけで私はほっとした。 「家へ電話したんだけど、留守だったよ」 珠夫はいっこ。 「彼女が出て来たよ。ありゃあ、死ぬ女じゃない。絶対死なない」 「挈よっ ? ・」 ゝっこ。珠夫の元気な大きな声が「もしもし」

6. 鎮魂歌

「ある ! 」 私は叫んだ。その声は上すっていた 「あるのよ , っ ! 」 「延ばしてもらえないのか」 「本当は昨日、渡さなければいけなかったのよ。それをこんな風で書けないから、熱が出たとい って、延ばしてもらったの。でも書けないわ。一字も書けない。朝から何も食べてないんだも 私は上ずった声でいいつづけた。 「あの人はダメな人だわ。そう巴うわ。今はっきりそう思う。たとえどんなに怒っていたとして も、女が苦しんでいると知ったら、電話をかけるのが男というもんじゃないの。そこが男と女の 違いじゃないの」 のんき 「彼は気がっかないんだよ。案外、暢気に考えているのかもしれないよ」 「あなただったらこんなやり口はしないわ。私が辛がってると思ったら、どんなに怒っていても、 歌必す電話をくれるわ」 魂「ばくと彼とは ( 理 , つよ」 なだめるように珠夫はいった。 5 「だからばくは倒産したりするんだよ」

7. 鎮魂歌

4 ーティに出た。私がそういう席に出るのは、久しぶり 私は久しぶりである出版社の創立記念パ というより、殆どはじめてといってよかった。そこで私は一人の初老の男に声をかけられた。彼 はウイスキイグラスを捧げ、酔った足どりで近づきながら私の名をちゃんづけで呼んだが、私は 彼が何者なのか思い出すことが出来なかった。 「川添郁・ : ・ : 」 ・はいった。 「あんたは後家のがんばりという言葉を知ってるかね ? 」 「はあ、知っていますが」 と私はおとなしく答えた。 「あんたはそれだよ。川添郁。実に下品だそ。今日はそんないい着物を着てめかしておるが、そ の中身は下品そのものだ」 「そうですか」 仕方なく私はいった。すると相手はまた声をはり上げた。 「川添郁、あんたは自分の書くものをどう思っているか知らんが、あれは実にくだらんものだ」 私はその男を思い出そうとして、その顔をじっと見た。

8. 鎮魂歌

美子はそういったきり、暫く私のべッドのそばに立っていた。 「ママ、お仕事のしすぎなんじゃないの」 美子はいっこ。 「お医者さん、呼ばうか、ママ」 私にはもう返事をする力がなかった。原稿、子供、老母、借金、テレビ出演、座談会、講演 それは地平線までつづいている一筋道だ。私が行かねばならぬ道だ。気が狂いそうだ、と私 は田 5 った。ここでひょっこり起き上って笑ってみようか。笑い出せば間違いなくそれがきっかけ となって私は狂うだろう。私は布団の中にエビのようになって耐えた。、 たが、私のこの苦悶は勝 沼からの電話ひとつで解消する。勝沼の、郁ちゃん、どうした、というその声で私は地平線まで 続くその一筋道をたいして苦しいとも思わすに進むことが出来るのだ。それなのに勝沼は極めて 簡単なそのことをしようとしない 疲労が私を放心させた。電話のベルが鳴っている。私は飛び起きた。 「 7 もーし・も ) ー ) 」 歌珠夫の声がいった 魂「どう ? かかった ? 」 珠夫はいっこ。

9. 鎮魂歌

「ありがと、つ。こギ、いました」 黙っていてからいった。 というウェイトレスの声も聞えた。珠夫は長い間、 テタラメだ。誰がいい出したのか知らないが、よくもいい加減なことをい 「女のことはウソだ。・ ったものだ。あの連中は自分が女さえ見ればすぐに手出しをするものだから、人もそうだと思う しやが そういった珠夫の声は嗄れていた。 とにかくムフ夜 ~ 何くよ」 「この電話じゃ話せない。 「小田原へ行くのは明日なのよ」 「だから今夜行くよ」 「きっと来てね」 「うん、行く」 その夜私は待ったが珠夫は来なかった。翌日、昼まで待ったが電話もなかった。それで私は小 田原へ出かけた。その時になって、私の心の底には、珠夫が来ないことへのかすかな期待があっ やすな 歌たことに私は気がついた。勝沼の案内図では、保名というその宿の門を入ってから植込みの間を 魂 すぐに左に入る小径を辿ると離れの入口に出るということだった。 直接来れば宿の者と顔を合さなくてすみます と添書があった。私は門の前でタクシーを下り、案内図のままに左の小径を辿って行った。磨

10. 鎮魂歌

「必すさせて下さい。電話しなければ私、会社へ行って暴れます」 「はつ、わかりました」 しかしその翌日も珠夫は電話をかけてこなかった。その翌日も同じだった。三日目の夕方、電 舌 ; 印っこ。 いつもと変りのない、朗らかな珠夫の声がいった 「なにがもしもしょ ! 」 みなぎ 待ちかまえていたように私は叫んだ。みるみる身体中に新しい気力が集まり漲るのを感じた。 それは怒りというよりま、 。いうならば、闘牛場に臨んだ闘牛士の気魄といったようなものだった。 私は心が勇躍するのを覚えた。今こそ私は堂々と、心おきなく珠夫をやつつけることが出来るの だ。なぜなら珠夫は今はっきり私の加害者であったから。 「あの金ね、もう入っていると思うよ。昨日手形をふり込んだからね」 珠夫の明るい声があっさりいった。 「昨日、そっちへ行くつもりだったんだよ。それが相変らずガタガタしちゃってねえ。気になっ ていたんだが行けなかったんだ」 「なぜ : : : なぜ : : : 」 私は絶句した。怒りのために顎がガクガクして次の言葉が出なかった。