日なのですし屋は休みだったのだ。私たちは雨の中を歩き廻って、結局、スナックでサンドイツ チを食べた。 「ばくは滑稽だろう ? 」 別れ際に勝沼はいっこ。 「そ , っ思ってるんだろ , っ ? しかし、こ , つい、つことにばくは馴れていないんだ : 私が笑ったので勝沼も仕方なさそうに笑った。 「こら、またひとをバカにしているな」 勝沼は私の頭に大きな手を置いた。それが勝沼が私に触れた最初だった。私は首をすくめた。 勝沼の大きな手の下で、私はいっかのように自分が子供にかえって行くのを感じた。 数日して北海道の勝沼から手紙が来た。 「ばくは土曜日に飛行機で当地を発ち、五時頃、羽田着、そこから小田原へ行きます。その時、 郁ちゃんにも小田原へ来てほしいと思っています。 ばくは一度は郁ちゃんから遠ざかろうとしたが、結局、決心しました。こういう手紙は生れて はじめて書くので、うまく書けないが、とにかく、郁ちゃんも決心がついたら来て下さい。どち らにしてもばくは小田原へ行っています」 小田原には勝沼がゴルフへ行く時の定宿があることを私は知っていた。その宿の地図と電話番 田原へ行く日は手紙の着いたそ 号と、小田原駅を下りて改札口を出る道順まで書いてあった。小
「明後日、小田原に来られないか。話があるんだ」 「話ってなに」 私は敏感にいっこ。 「よくない話ね ? 奥さんのこと ? 」 勝沼は曖昧にロごもった。 「来られるかい ? 小田原」 「なによ、って」 私は執拗にいっこ。 「奥さん、どうかしたの ? 」 「ずーっとへんなんだよ」 勝沼は、つこ。 から 「ガス台の火をつけっ放しにして空鍋かけてあったり : : : 農薬の瓶を枕許に置いて寝たり、昨〔 などは出刃包丁を布団の中に入れてるんだよ」 歌私は黙った。 魂「車で出て行くと、あちこちぶつけて帰 0 て来るし : : : 役所にいても、留守中、何か起「てる , ないかと思うと落ち着かなくてね」 「ガス台の火はいつつけっ放しにしてあったの ? 」
そんなことがあっても私の生活は変らなかった。私の生活を根こそぎひっくり返すようなこと 、。ムの足は敷かれたレールにびたりと吸い着いたまま進んで行く。男のために は何も起らなし下 の運行が狂うというようなことはなかった。私はそんな自分のエネルギーに我ながら感心した。 小田原から帰って来ると私はいかにも仕事から帰って来た人間のようにせかせかと慌しく玄凹 を上った。私は小田原で二度入って来たことを隠してまた風呂へ入った。風呂から上ると食べた くもない茶漬を食べて美子とふざけた。美子は夕方に少し眠り、夜更けに起きる癖があった。 れは遅く帰って来る留守がちの母親のためについた習慣だった。美子はパジャマのまま私の後み をついて歩き、ふざけて叫んだ。 ママ , 「ややっ , ママは私のママじゃないね、宇宙人だね、宇宙人がママに化けているんが ムま、つこ。 「しまった ! 見破られたか ! 」 すると美子はいった。 「なーんだ、やつばりママだ。そういうことをいうのはママしかいオし」 勝沼に会ったあと数日の間、みごもった女のようなけだるい充足感が私の身体の中に沈んでい た。その快い重さは、多分幸福という一一一一口葉で呼んでいいものだったろう。私は仕事の手を止めて 身体の中のその重ったるい感じを確かめるようにじっとしていた。勝沼は私の中にいた。女た
「先生がご気分を悪くなさるといけないと思いまして、もうこの頃は、 " 謎の女″のことはかか ってきても申し上げないことにしております」 勝沼は布団の中に腹這いになって煙草を吸いながらいった。 ある日、勝沼と私は小田原にいた。 「ワイフのやっ、知っているんだ、ばくらのこと」 「挈よっ」 私は鏡台の前で櫛を使いながらいった。 「そうだと思ってたわ」 ムま、つこ。 「だって、始終、電話がかかってくるもの」 「電話 ? 」 勝沼は驚いたようにいって、首をもたげて鏡の中の私を見た。 「本当かい ? 「しよっちゅ , つよ」 「何だっていってくるんだい ? 」 オカいっ帰るかって : : : それてこ 「私がいるかって聞いて、いないっていったら、どこへ行っこ、、 っちから名前を聞くと切ってしまうんだって。家政婦は " 謎の女〃と呼んでるわ。それ、きっと
珠夫は笑った。その笑い声に私は泣いた。 「あの時、あなたが来てくれさえしたら : : : 」 泣きながら私はわめいた。 「あの時 : : : 小田原へ来いっていってきたとき : : : あの時、あなたが来てくれていたら、こんな ことにはならなかったのよ。あなたのせいだわ。あなたの : : : 」 電話の向うはシンとしていた。 「とにかく、あとで電話するよ。そう興奮しないで、ウイスキイでも飲んで、少し眠りなさい」 珠夫はいった。 「ウイスキイ、あるんだろう ? 」 「あるーーーー」 私は泣きながら電話を切った。今ではいったい何が悲しいのか、何が辛いのか、私にはわから 、・ツドのそばへ来ていった。 なくなっていた。私はペッドにもぐって泣いた。美子がヘ 「ママ、タご飯どうするの ? 」 、こ。ムま布団の中からいった。 日曜日で家政婦が休んでしオ不。 「おばあちゃんにいって、おすしをとってもらいなさい おばあちゃんにいってちょうだい」 「ママ、大丈夫 ? 」 ママはとても頭が痛いので寝ますって、
ふすま き上げた格子戸の向うに勝沼の靴が見えた。私は格子戸を開けた。その音に正面の襖が開いた。 そこに勝沼が立っていた。私は突っ立って彼を見上げた。彼は徴笑したが、私は笑えなかった。 「来てくれたんだね」 励ますよ , つに勝紹はいっこ。 小田原から帰った翌日、珠夫は来た。珠夫は私の部屋へ入って来た。私は万年筆を置いて黙っ て珠夫の方に身体を向けた。珠夫は私の机の向うに坐り、 「行ったの ? 」 「行ったわ」 ムは挑むように答えた。 「あなたは来なかったから : : : 」 珠夫はゆっくり煙草に火をつけた。 「なぜ来なかったの ? 」 珠夫は煙草を一本吸う間、何もいわなかった。やがて珠夫は灰皿に煙草を押し込んだ。 「ばくは郁に与えてやれるものが何もなくなってしまった」
「ありがと、つ。こギ、いました」 黙っていてからいった。 というウェイトレスの声も聞えた。珠夫は長い間、 テタラメだ。誰がいい出したのか知らないが、よくもいい加減なことをい 「女のことはウソだ。・ ったものだ。あの連中は自分が女さえ見ればすぐに手出しをするものだから、人もそうだと思う しやが そういった珠夫の声は嗄れていた。 とにかくムフ夜 ~ 何くよ」 「この電話じゃ話せない。 「小田原へ行くのは明日なのよ」 「だから今夜行くよ」 「きっと来てね」 「うん、行く」 その夜私は待ったが珠夫は来なかった。翌日、昼まで待ったが電話もなかった。それで私は小 田原へ出かけた。その時になって、私の心の底には、珠夫が来ないことへのかすかな期待があっ やすな 歌たことに私は気がついた。勝沼の案内図では、保名というその宿の門を入ってから植込みの間を 魂 すぐに左に入る小径を辿ると離れの入口に出るということだった。 直接来れば宿の者と顔を合さなくてすみます と添書があった。私は門の前でタクシーを下り、案内図のままに左の小径を辿って行った。磨
「ますます二枚目ぶるわね。そんなの田舎芝居のヘポ二枚目よ」 「だけど、本当にそう思うんだから仕方がないよ。勿論、ばくは郁ちゃんには手も触れなかった だろうね。それが男の生きる道だと思っていた : 勝紹は、つこ。 「何がおかしい ? 何で笑うんだ ? 」 私はますます笑いこけた。 「またばくのことをバカにしているな」 と勝沼は貰い笑いをしながらいった。 「この人は生意気な女になったなあ。昔は可愛かったのに : ときどき勝、沼は我に返ったよ、つにい , っことがあった。 「ばくらはまるで、低能になってしまったみたいだね」 私たちは日曜のたびに会っていたわけではなかった。私にも勝沼にもそれほどの暇はなかった。 会おうといって来るのは勝沼の方からに決っていた。会いたいと思っても私の方から勝沼に連絡 することは出来なかった。「さあ、帰ろう」というのもいつも勝沼だった。そんな時の勝沼のロ 調は、長い間人の上に立ってきた者の、習慣的な決断の調子が出ていた。 私たちは夜の十時過ぎに車で小田原を出た。車の中では私たちは殆ど口を利かなかった。勝沼 は黙って私の手をんでいた。その手は驚くほど大きく厚ばったくて、どんなに寒い時でもふし
四度目には家政婦は、 「今日もまたかかりました」 というたけになった。 私はその電話に出たことは一度もなかった。それほど私は出て歩くことが多かった。ホテルに こもって小説を書くことの外に講演旅行や取材やテレビ出演があり、その合間に勝沼に会った。 勝沼に会うためには、私は朝の五時に起きて原稿を書かねばならなかった。睡眠時間を削る以外 に、その時間を産み出す方法がなかったのだ。私たちが会う場所は小田原に決っていた。勝沼は 日曜日に箱根へゴルフに行く習慣があった。勝沼はゴルフの道具を持って家を出、真直ぐに小田 原の宿へ来た。 「女一房のこと話そうか」 勝沼はそういったことがある。 と即座に私はいった。 私たちは勝沼の妻のことを話題にしたことはなかった。私は彼の仕事についても何も知らなか った。私たちが会えば話すことは少年と少女だった頃のことだった。劣等生であった私の兄の話 がよく出た。中学生の頃、兄は授業中に教室の窓から飛び下りてタコ焼きを買いに行くのがうま かったというような他愛のない話だった。私たちは会うたびに同じことを話し合った。
「おい、レット , 「何だい、サポ ! 」 「人間がそのへんに来ているらしいそ ! 気をつけろ」 学校から帰ると美子は、レットとサポの一人二役を演じてひとりで遊んでいた。美子は上野さ んというすし屋の娘から貰ったパチンコの玉を一個、大事に持っていた。美子はそれを身につけ ていると魔法の力を持てると思い決めていた。 上野さんはその玉を隣のパチンコ屋の前の舗道で 拾ったのだ。 私は月に一度の美子の学校の父母会に顔を出したことがなかった。私は彼女の展覧会を見に行 く約束をしていたが、行くことが出来なかった。その日、私は北海道から帰れなかったのだ。私 は美子の運動会にも行けなかった。私は徹夜で小説を書いたので美子が運動会に出かける頃はま だ眠っていた。目が醒めたとき、美子はもう帰って来ていて、運動会で貰ったリンゴを食べてい た。また私は美子の学芸会を見に行く約束をしていた。しかしその日、私は勝沼に呼び出されて 小田原へ行った。私が帰って来ると美子は廊下でポーリングの真似をしていた。 「お帰んなさーい」 と美子はいっこ。 「ご苦労さんでしたア : : : 」 その一言は私の胸を突き刺した。