「えつ、何ですか、何かありましたか」 嵐はいつでも私には下手に出る。 「私はね、嵐さん、会社から金を貸してくれといわれた時、一度だって断ったことはありません よ。それは私は憎まれロは叩きます。けれどもせいぜいものの二十分も罵られるのを我慢すれば、 ほしいだけの金は出たじゃありませんか。そうでしよう ? え ? そうじゃありません ? 」 「はつ、そうです。いつもお世話になっています : : : 」 「それなのにどうしてこんな卑劣なやり口をするんですか。私の行き先は家の者に聞けばわかる んですよ。それをコソコソ無断でハンコを持ち出して、二百万出すなんて : : : 泥棒ですよ、これ 「えつ、瀬戸君が」 嵐はいっこ。 「ばくはちっとも知らないです。二百万 ? おかしいなあ、会社には昨日は二百万は入っていま せんよ。あ、ちょっと待って下さい。そういえば七十万、瀬戸君が入れましたね」 歌「七十万 ? じゃあとの百三十万はどうしたんでしよう」 魂「さあ、それは : : くは・ 嵐はいかにも年の若い社長らしく、困惑した声を出した。 「とにかく、明日、瀬戸君によく聞いてお返事します。いや本人に電話させます」
の電話を教えてくれというと、電話に出た男は、固く禁じられています なかった。彼のアパート ので教えられませんといった。 「もう郁のところへ来ても引き出す金がなくなったので来なくなったんだよ」 と私の母はいっこ。 ある朝、一枚の葉書が郵便物の中に混っていた。その葉書の宛名は私には心当りのない女名前 だったので、私はそれを郵便局へ返した。二、三日するとその葉書はまた来た。私は改めてそれ を読んだ。それは区役所から瀬一尸信子という女性に対する転入届けの催告状だった。私はそれを 区役所へ返送しようとして気がついた。瀬戸信子というのは、珠夫が一緒に暮している女のこと かもしれない。私は直感した。珠夫はその女を入籍したのだ。 珠夫の住民登録は私の家の住所になっていた。私たちは戸籍面は離婚したが、住居は珠夫の家 に私が同居しているという形にしていたのだ。従って珠夫が結婚したとなるとその妻は私の家に 入って来ることになる。戸主瀬戸珠夫に信子という妻がおり、同居人としてもとの妻川添郁とそ の母親がいる。そうして美子には ( 美子はまだ瀬戸珠夫の長女になっていたから ) 顔も知らぬ継 母が現れたのだ。 私はいつものように直ちに珠夫の会社の電話番号を廻すということをしなかった。私はむしろ これほどまでの悪意を彼に抱かせたその理由を考えた。そうして幾つかの理由らしきものを私は 考え出したが、彼が私にした仕打ちに比較して、その理由はどれも薄弱すぎるように私には思え
「そうなんです、銀行から八百万、高利貸しから五万」 「なんですって、じゃあ二番抵当まで入れてるの」 「三番もついているんです」 江崎はまるで私を驚かすのが楽しみなように私をた。 「三番はたしか五百万です」 私は声も出ずに江崎を凝視した。 「皆、狂ってるんじゃないの ! 」 暫くして私はいった。 「じゃあ、全部で千八百万も ? 」 江崎は肯いた。 「ばくが会社をやめようと決心したのは、それを知ったからです」 江崎はいっこ。 「去年の暮、嵐さんが社長をやめて、瀬戸さんが社長になられましたね。本当はその時にばく、 歌 やめたかったんです。嵐さんがやめたために、会社は苦境に陥ることがばくにはわかっていま、 魂 たから。しかし瀬戸さんの顔を見るとどうしてもやめるといえなかったんです」 江崎の賢そうな、キリッと引き緊ったなめらかな顔に赤味がさした。江崎はいった。 「嵐さんは子会社を作るといって、体よく逃げ出したんです。会社の前途に見切りをつけたん一
き取ってしまったのだ。珠夫は佐伯の家を三重担保にして金を借りたほかに、佐伯の妻が楽し , に蓄えていた百四十万円の貯金を彼女に内緒で会社へ入れさせていたのである。佐伯の妻は姙」 三カ月だった。それも結婚して九年目に漸く身籠った身だった。会社がつぶれるのはもう時間 ( 問題だといわれていた。どこへ行っても珠夫の悪口が渦を巻いていた。社員たちは働かすに珠 の悪口ばかりいって日を送っていた。 私は珠夫に会いたいと思った。珠夫に会って今の珠夫は何に己れの正当性を置いて生きてい「 のかを聞きたかった。人生について常に明快な方針を定め、自分は損をするとも決して他人に 身を切らせず正しく、清潔に生きて来た珠夫は今、人生についてどんな方針を定めているのか 自分をどんな風に認識しているのかそれを私は知りたかった。 ある朝、早く枕許の電話が鳴った。半ば眠りながら私が受話器を取ると、女の声が社長はい・ っしゃいますか、と尋ねた。 「社長 ? 社長って誰ですか」 眠っているところを起されて私はあからさまに不機嫌な声を出した。 歌 「瀬戸珠夫のことですか ? 」 魂 、自分は会社の事務員だといった。 相手はそうだといい 「瀬戸さんはいませんよ。この家には住んでません」 嫺相手はいった。
江崎は私を真直ぐに見ていった。 。いったいどういう人なんでしよう」 「先生、瀬一尸さんという人ま、 尸いに私は答えることが出来なかった。私の方こそ誰彼に向って同じことを聞きたかっ 江崎の 「瀬戸はバカなんですか ? 悪党なんですか ? 瀬一尸のすることをどう思うことが正しいんです か ? 憎むべきなんですか ? 憐れむべきなんですか ? 」 人々はその問いに対して正確に答えられるだろうか。答えられるとしたら、そのことは私には 不思議だった。 三年前、珠夫は彼を知るすべての人間から稀に見る善い人だといわれた。男も女も老人も幼児 、 ' 彼を嫌ったり批判した者は一人もいない。珠夫のことを表現する時、たいていの も彼を好した。 , 人は " 純粋 , という言葉を使った。だが今、人々ははっきり瀬戸珠夫は悪い奴だといっていた。 珠夫に欺されて金を巻き上げられ、告訴するといきまいている男がいるということを私は耳にし た。彼は競馬で一日に三十五万円をすったという話もあった。それを踏み倒されたノミ屋が珠夫 を探しまわっている。マージャンで三百五十万負けたということも聞いた。その相手の男も珠夫 を探している。金を手にするためならば、彼は手段を選ばなかった。佐伯の家では離婚話が出て いるという噂だった。佐伯の妻の父は珠夫のために財産を失いかけている佐伯を許さず、娘を引
私は怒りの焔を背負ったまま、九州の講演旅行に旅立たねばならなかった。旅立ちの前に、や っとメガネプルは電話をかけて来た。道明寺は金は四月の七日に出すといっている。七日に出す のは道明寺が七という数を好きなためである、とメガネプルはいった。彼は道明寺が三月十日と いう約束の日をなぜ違えたかについてはもう説明をしなかった。とにかくもう一カ月待ってくれ と道明寺はいっているのだ。今度という今度はその日に違約はない。絶対に大丈夫だ。四月の七 日の午後一時に上福岡の農協で金を渡すとわざわざ先方からいってきたのた。彼はまた後藤公平 の首にかけて、という一一 = ロ葉を使った。 「後藤さん、最初から計算するとこれであなたの首は六つなければ間に合ない筈よ」 ムま、つこ。 「ともかく瀬一尸に今日中に電話をかけるようにいって下さい。男なら男らしく、自分のしたこと の謝罪に来るべきですよ。私は金が惜しいんじゃない。それが出来ない瀬戸が情けないのよ 「ごもっともです、ごもっともです。先生のお怒りは、この後藤公平、身にしみて理解いたしま 私は無力感を感じて口をつぐんだ。私は明日の九州行きまでに書きあげねばならぬ原稿があっ た。それが出来上らないのは、あなた方のせいてす、と私は叫んだ。瀬戸にいって下さい、私を 一文なしにした上に、仕事までさせない気かって :
私は珠夫が、昔の文学友達の白井に金を借りに行ったということを人づてに聞いた。その男け 十年はど前は失業者で、モデルをしている妻の働きにたよって文学の勉強をしていた男だったが その後文学を断念して有名進学高校の英語教師となって生活が安定した。珠夫が彼に借りにいっ た金はたった三万円であることが私を暗い気持にした。 「三万円借りるのに、珠夫さんは運転手づきの車で来たんだって怒ってたわ」 と、その話を私にした友人はいった。それから間もなく、天野勇から電話がかかった 「瀬戸が金を借りに来たよ」 無造作に天野はいった。 「金を ? 「困ってるっていうから金額を聞いたんだけどいわないんだ。それで五十万、やったよ」 「やった ! 」 歌 思わず私は高い声を出した。 「受け取った ? 」 「ああ」 「何ていって ? 」
しようね。それで自分の出資金を引き上げてさっさと出て行ってしまいました。あんな会社でそ んなことをされればてきめんに響きます。嵐さんに出資金を返すために瀬戸さんは高利貸しから 金を借りてるんですからね」 「バカよ ! 」 私は冷やかにいった。 「その一言に尽きるわ」 「それで無理をした後がパクリ屋。そのあと経理部長の山の話に欺されて、あれを信じて佐伯の 家を担保に入れて金を借りたんです。山の金が入ったらすぐに返すという約束で : 「山の金で ! 」 山を売った金で佐伯のその借金を返したら、私の方へ廻って来る筈の金はなくなる勘定になる。 江崎はいった。 「ところが山の金が入るからというので、ほかにも貸してる人がいるんですよ」 今となっては私は無感動だった。私も貸した一人よ、という気はなかった。 「佐伯さんはどうなるの ? 」 私は聞いた。 「さあ」 江崎は首を傾け、
121 鎮魂歌 小倉の町は汚れた雲に包まれてどんよりと濁っていた。私はホテルの部屋から電話で東京を呼ん だ。電話口にはいつもの女事務員が出て来た。 「どうですか。道明寺さんからお金、入りましたか」 「いえ、それがまだなんです」 女事務員の声には今日は表情があった。それが私に緊迫した会社の空気を伝えた。 「瀬戸はいますか」 「今しがた出かけました。後藤さんの家へ : : : 」 「後藤さん ? なぜ後藤さんは社にいないんです」 「今日は上福岡の農協で一時にお金を受けとることになっていたものですから、後藤さんはそれ を受け取りに出かけたんです。そうしたらさっき電話がかかってきて、ダメになったというもの ですから」 「ダメだといわれてノコノコ自宅へ帰ったんですか、後藤さんは : 「後藤さんの家はその農協の近くなんです」 「で、なぜダメだというんですか、道明寺さんは ? 」 「さあ ? それがわからないものですから社長が出かけたんです」 「後藤さんが会社へ来ればいし 、じゃないの、会社へ ! 実際、あなたたちは何をどう考えている のか、さつばりわからないわ」
珠夫がそういうと、私はすぐに察した。珠夫は私の机の向うにアグラをかいて、微苦笑のよう な皺を目尻とロ許に浮かべて私を見ている。この情景と、深夜に私の部屋を覗いて、 「ただいま」 とにこにこし出すときの情景との二つが、私と珠夫の夫婦生活を代表するものであったかもし れない。 ームま、つこ。 そのいい方は多分、人の目には、傲慢で思い上ったものに見えたにちがいない 「 x 十万なんだがね」 珠夫は説明をはじめ、それは x 十万の時もあるし x 百万のときもある。 「そんな話、聞いてもしようがないわ」 私は威張っていう。 「私を金の成る木だと思ってるの。人間じゃないとでも ? 」 私の声は大きくなった。 「嵐さんは何をしてるの ? 会社の金ぐりは社長がするものじゃないの」 「嵐君だってやってるさ」 「やってる ? どういう風にやってるの ? 具体的に聞かせて頂戴。瀬戸の女房はアプク銭取っ