母は炬燵の向うから私の化粧した顔を見上げ、 「どっかへ行くの ? 」 と聞い 「ええ、ちょっと取材に」 私は化粧の顔を背けた。 「この一用にかい」 「そ , つよ」 「ふーん」 と母は露骨に不機嫌を表した。 「タ飯はどうなるの ? 」 「勿論帰って来て支度をしますよ」 「この雨に・ 母はまたいった。私は眠っている美子の額に手を当てた。 歌「大丈夫らしいわね。熱は下ってるわ」 弁解するように私はいった。 私は雨の中を表のバス通りに向って走った。それから肝腎の本を忘れたことに気がついて、通 りの本屋で自分の本を買った。六本木へ行くとすし屋の前に傘をさした勝沼が立っていた。日曜
139 鎮魂歌 夏の終り、私は勝沼と横浜の丘の上のホテルにいた。ホテルの窓からはプールのあるホテル ( 庭が見下ろせ、プールの向うには造船所の林立するマストと濁った海が見えていた。勝沼がヨ、 ロッパへ行っていたので私たちは夏の間、会うことが出来なかった。勝沼は元気がなかった。 じめ彼は、それをヨーロッパ旅行の疲れが今になって出てきたせいだといっていた。 「ばくの留守中は電話はかからなかっただろう ? 」 勝沼はいった。その顔に今まで私が見たことのなかった弱々しい微笑が浮かんでいるのを私「 見た 「電話 ? ああ謎の女の ? ええ、おかげさまで : : : あなたの飛行機が飛び立った爆音は休戦一 ツ。、、、こったわ」 勝沼は、つこ。 第四章
私はその電話の主を憎んだ。 七日目の午後、私は机の前の凝固をといて、電話に手を伸ばした。私は珠夫のことを思い出し たのだ。 「やあ、どう ? 」 珠夫はいつもと変らぬ陽気な声で出てきた。私はその声を久しぶりで聞いた。 「あのね、気分が悪いのよ。とても」 私の声は我ながら元気がなかった。 「気分が悪い ? どうした ? 」 陽気な珠夫の声は急に心配そうにな、った。 「仕事し過ぎで疲れたんだろう ? 」 「そうじゃないの」 / ハま、つこ。 「ねえ、来てちょうだい。不 ム、仕事が出来ないの、一字も書けないの : : : 私、ダメになっちゃう 「ど , っしたんだ、いオし」 「どうしたもこうしたもないの。ダメなの・ : ・ : もうダメなの : : : 」 珠夫はちょっと考えてからいった。
集英社文庫 昭和 54 年 7 月 25 日 昭和 52 年 6 月 30 日 鎮魂歌 第一刷 第 3 刷 著者 発行者 発行所 印刷 佐藤 堀内 株式 会社集 愛 末 英 子 男 社 0193 ー 750031 ー 3041 定価はカバーに表 示してあります。 東京都千代田区ーツ橋 2 ー 5 ー 10 ( 238 ) 2781 ( 販売 ) 電話東京 ( 23 の 6361 ( 編集 ) 〒 101 凸版印刷株式会社 著者と了解のうえ検印を廃します。 CA. tö 1977 ( 落丁本・乱丁本はおとりかえします ) Printed in
「で、彼は何といってるの ? 」 : 何ともいって来ないのよう : 「何もいってない : 珠夫は暫く考えた。珠夫が考え込むと私は不安になった。私は叫んだ。 : 別れるにしても、 「ねえ、このままじや仕事が出来ないのよう。ご飯も食べられないのよう : こんな喧嘩別れみたいなんじゃいやなの。こんな生殺しみたいなの、もう我慢出来ない : 明日渡す原稿があるのよう、どうすればいいの : : : 」 珠夫はいった。 「じゃあ、ばくが電話をかけてやろう」 私は珠夫を見た。 「、い配するな。必す今日中に電話がかかってくるようにしてやるよ」 珠夫は私を見て励ますようにいった。 「彼だってきっと迷ってるんだよ。郁を嫌いになったわけじゃないさ」 歌「ちがう、嫌いになったんだ。嫌いになったから奥さんと仲直りしたのよう」 魂「昨日まで出刃包丁を布団の中へ入れていた女と急に仲直り出来るわけがないよ。彼も今頃苦ー んでるんだ」 珠夫は煙草の吸殻を灰皿に入れた。私はとり縋るように彼を見上げた。 すが
てるから、いくら絞ってもかまわんと思ってるのね。今頃、社長室でハナ毛抜きながら、あなた が私をチョロまかして金をプン取って来るのを待ってるんでしよう ? 」 食べはじめると胃の腑が刺戟されて食欲が増すように、私は罵ったことによっていっそう居丈 高になった。 「ねえ、教えてほしいわ。大の男がガン首並べて、一つの会社も支えられないで女の働きに頼っ て来る時の気持ってどんな気持 ? それを教えてほしいわ」 「そんなこというなよ、郁」 珠夫は困ったように、しかし穏やかにいう。 「頭を下げて頼んでいるんじゃないか : 「恵まれていらっしやるわ。頭を下げれば金が手に入るなんて。私なんか頭を下げただけじゃあ 一円の金も取れないけど : : : 。書いて書いて、背中が板のようになるまで机に向っていて、そし てギリギリになってやっと眠る。眠るときが一番、嬉しいの。眠ること以外にこの世に楽しいこ となんて何もない : 歌「そういうなよ、郁」 魂珠夫にはそういうほかにどんな言葉もいえない。その珠夫の気持は私にわかる。どんな言葉も 珠夫にはただ同じ無意味な羅列にすぎないことが。 罵りはするが、私の中にはかってのような怒りは湧き上って来なかった。私にとって罵ること
の中で、まだ建材の匂いの消えない新しい飛行場の建物の中に明るい灯が灯り、その明るさが却 って寒々と淋しかった。 いつの季節でも、どこの飛行場でも、私は何となくもの悲しさを感じた。そのもの悲しさゆえ に私は飛行場が好きだった。飛行場を囲む草や空や風を見ると、いつも私はそこに故郷があるよ うな気がした。見捨てられ、忘れられた故郷が。見捨てられ忘れられながら、無心にそこに残っ ている自然の素直さが私の心にしみ入る。飛行場を歩きながら私は風に吹かれた。その風はどん な人間よりもなっかしく親しいものに感じられた。私は風に吹かれるあの草原の草になりたいと 田 5 った。 私が勝沼と和解したことを知った二日後、珠夫は私のところへ金を借りに来た 「二百万貸してもらえれば助かるんだけどね」 珠夫はいった。会社では今回、社長の嵐が社長をやめて珠夫が社長になることになった。それ で嵐の出資金を返さねばならなくなったのだと珠夫は説明した。私はその金を黙って貸した。私 はその金を惜しいとは思わなかった。勝沼との和解が成り立った途端に私に金を借りにこなけれ ばならぬ必要に迫られた珠夫の不連を、私は気の毒に思った。
一週間に一度か二度、夜の十時を過ぎると勝沼学から電話がかかってきた。それは珠夫が私た ちの家を出て行って間もない頃からのことだ。勝沼の電話は珠夫が来ている時にもかかった 「ど , つです - か、に . しい ? ・」 勝沼の最初の一一 = ロ葉はきまっていた。 歌「ええ、にしいようなにしくないような」 魂私もきまった答えかたをした。電話は私の書斎の机の上に一つと、茶の間の小机の上に一つと ある。電話がかかってくると、その二つの電話が同時に鳴り、先に受話器を外した方が相手とし 四ゃべることになる。勝沼の電話のベルを、私はいつも直感した。それで私は誰かが下で受話器を 「身体、大事にしろよな。もうガッガッ働くな」 「 , っ , ん」 電話を切ると習慣的に私は万年筆を取って窓の方へ目をやった。窓の外には壁に懸けた額の画 のよ , つに、 いつも同じ裏隣の屋根の一部とその庭にあるくぬぎの大木と、裏隣の家のそのはす向 うの二階家の閉された窓があった。くぬぎの大木の上に私の部屋の窓の敷居で劃されている空は、 濁った赤みを流したまま暮れようとしていた。珠夫に女がいるということは、私にたいした衝撃 を与えなかった。私はそれを信じなかったからだ。