話 - みる会図書館


検索対象: 鎮魂歌
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1. 鎮魂歌

% た。私たちは電話でその打合せをした。私は講演先の招待を断って勝沼が待っている山手の料亭 へ行った。勝沼と会うのは三度目だった。私たちはいつものように戦死した兄の話をした。私た ちの話題といえば兄の思い出話しかないのだ。私たちはこの前もした話をまたした。勝沼はその 都度その話をはじめて口にするかのように熱、いに話すのだった。 「良作のお悔みに行ったとき、あなたは紫の着物を着ていたね。はら、御殿女中がよく着ている ような柄の」 「矢絣でしよう ? 銘仙の」 私はいって笑った。その話題もこの前出た話題だった。 「たしかに御殿女中がよく着ているわね」 「あなたのお父さんがいったんだよ。郁もやっと決りましたって。ばくはそうですかといったん 君は机の上にお茶を出していたね。ばくは君の方を向いておめでとうといったんだ」 「覚えてるわ。勝沼さんはにこにこしてたわ」 「覚えてる ? はんとうか ? 」 勝沼はびつくりしたよ , つに、つこ。 「ここでにこにこしなくてはいかんと巴って一生懸命にこにこしたんだ」 「ム、はっきり覚えている。どうしてこの人はこんなに嬉しそうに笑うのかと思ったわ、私」

2. 鎮魂歌

「明後日、小田原に来られないか。話があるんだ」 「話ってなに」 私は敏感にいっこ。 「よくない話ね ? 奥さんのこと ? 」 勝沼は曖昧にロごもった。 「来られるかい ? 小田原」 「なによ、って」 私は執拗にいっこ。 「奥さん、どうかしたの ? 」 「ずーっとへんなんだよ」 勝沼は、つこ。 から 「ガス台の火をつけっ放しにして空鍋かけてあったり : : : 農薬の瓶を枕許に置いて寝たり、昨〔 などは出刃包丁を布団の中に入れてるんだよ」 歌私は黙った。 魂「車で出て行くと、あちこちぶつけて帰 0 て来るし : : : 役所にいても、留守中、何か起「てる , ないかと思うと落ち着かなくてね」 「ガス台の火はいつつけっ放しにしてあったの ? 」

3. 鎮魂歌

「いやだというんだよ。どんなことがあっても離婚しないというんだ。離婚するなら死ぬとい , 一 んだ」 私は「そう」というだけだった。それ以上に私に何をいう権利があるだろう。私は彼女の生 = の侵害者なのだ。たとえ、彼女がよい妻ではなく、彼ら夫婦の仲が冷えきったものであったと , ても、私はそれによって自分が侵害者であることを正当づけようとは思わない。私は彼女の悪〔 をいうまい、勝沼に彼女との離婚を要求したりはするまいと思い決めていた。だから勝沼が離 の話をしたり、妻のことをいったりするとき、私はただ「そう」としかいわなかった。その段 ~ では私はまだ " 賢い女。であろうとしていたのだ 「前はいつお電話をしても奥さんはお留守ですねといわれたものだ。だがこの頃は出かけなく ったようだよ。おかげさんで」 笑いながら勝沼がいったことがある。勝沼は極くたまにしか妻の話をしなかった。 「女房は車を乗り廻しているが、ばくは一度もそれに乗ったことがない。役所の車か、そうで かったらタクシーを使 , つ」 歌私は彼の妻について何も聞こうとはしなかったが、その代り彼がふと語る短い言葉は一言一 魂 もらさず、急速に私の中にしみ込んだ。そしてその言葉は私の中で膨脹し、毒々しい詳明なイ ' ジを形作った。 あるいは本当の彼女は私が私の中に焼きつけたイメージとは違う女かもしれない。いや多

4. 鎮魂歌

四度目には家政婦は、 「今日もまたかかりました」 というたけになった。 私はその電話に出たことは一度もなかった。それほど私は出て歩くことが多かった。ホテルに こもって小説を書くことの外に講演旅行や取材やテレビ出演があり、その合間に勝沼に会った。 勝沼に会うためには、私は朝の五時に起きて原稿を書かねばならなかった。睡眠時間を削る以外 に、その時間を産み出す方法がなかったのだ。私たちが会う場所は小田原に決っていた。勝沼は 日曜日に箱根へゴルフに行く習慣があった。勝沼はゴルフの道具を持って家を出、真直ぐに小田 原の宿へ来た。 「女一房のこと話そうか」 勝沼はそういったことがある。 と即座に私はいった。 私たちは勝沼の妻のことを話題にしたことはなかった。私は彼の仕事についても何も知らなか った。私たちが会えば話すことは少年と少女だった頃のことだった。劣等生であった私の兄の話 がよく出た。中学生の頃、兄は授業中に教室の窓から飛び下りてタコ焼きを買いに行くのがうま かったというような他愛のない話だった。私たちは会うたびに同じことを話し合った。

5. 鎮魂歌

ぎなほど温かいのだった。その手で手を握られているといい気持だった。勝沼は私の耳もとでふ 「ごめんね」 といった。私は黙って肯いたが、肯いたことがきっかけのようにある激しい感情が湧き溢れて くるのだった。それは怒りと呼んでいいものか、口惜しさと呼ぶべきものか私にはわからなかっ た。勝沼は憖つか、「ごめんね」などといわない方がよかったのだ。第一それは五十歳近い指導 者のいうべき言葉ではない しかし勝沼はその言葉以外に、どんな一 = ロ葉も考えつくことが出来な かったのであろう。どんな言葉も白々しいとり繕いに終ってしまうことを感じていたのかもしれ ない。勝沼は私が黙っていると、その沈黙の内側を測ろうとしていうのだった。 「また、考えているね」 そんなとき私はいつも黙って答えなかった。 ばくは女房の、女中の使い方がいやなんだ。だからばくは女中に優しくする。すると女房 は怒るんだ はじめて、勝沼の洩らした彼の妻についての話は、私の中に喰い込んでいた。そのたった一つ の話は私の中にひろがって、詳明なイメージを作り上げた。勝沼の妻は美人で評判の金持の一人 娘だった。私は兄の昔友達から屡々そのことを聞いていた。 「勝沼はあれで、案外、面クイなんだな、面さえよけりやいいんだ」 つくろ

6. 鎮魂歌

江崎は私を真直ぐに見ていった。 。いったいどういう人なんでしよう」 「先生、瀬一尸さんという人ま、 尸いに私は答えることが出来なかった。私の方こそ誰彼に向って同じことを聞きたかっ 江崎の 「瀬戸はバカなんですか ? 悪党なんですか ? 瀬一尸のすることをどう思うことが正しいんです か ? 憎むべきなんですか ? 憐れむべきなんですか ? 」 人々はその問いに対して正確に答えられるだろうか。答えられるとしたら、そのことは私には 不思議だった。 三年前、珠夫は彼を知るすべての人間から稀に見る善い人だといわれた。男も女も老人も幼児 、 ' 彼を嫌ったり批判した者は一人もいない。珠夫のことを表現する時、たいていの も彼を好した。 , 人は " 純粋 , という言葉を使った。だが今、人々ははっきり瀬戸珠夫は悪い奴だといっていた。 珠夫に欺されて金を巻き上げられ、告訴するといきまいている男がいるということを私は耳にし た。彼は競馬で一日に三十五万円をすったという話もあった。それを踏み倒されたノミ屋が珠夫 を探しまわっている。マージャンで三百五十万負けたということも聞いた。その相手の男も珠夫 を探している。金を手にするためならば、彼は手段を選ばなかった。佐伯の家では離婚話が出て いるという噂だった。佐伯の妻の父は珠夫のために財産を失いかけている佐伯を許さず、娘を引

7. 鎮魂歌

うわけではないようだった。それを知れば不央になることがわかっているのに、そうせすには いられない。 私は夫のいない家の中で電話に向ってダイアルを廻す中年女の姿を想像した。彼女は今、地獄 にいる。私にはその地獄の様相がまざまざとわかった。私はやりきれなかった。おそらくこの話 を聞く誰よりも、私にはその気持がわかる。彼女にそうさせるもの、その衝動力を批評するのは たやすいことだった。第三者は教養がないという一言でそれを片づけるだろう。ある人は誇りの ひんしゆく なさをいうだろう。彼女は同情されはするが、顰躄を買うだろう。今になって思うと、多分、 そのことが、その優位が、私にやさしさを与えていたのだ。 勝沼は毎晩、決った時間に必す電話をかけてくるわけではなかった。仕事の都合などで帰宅が 遅い時もある。すると私の机の上の電話は鳴りつづけた。チリンと鳴ってはすぐに切れ、また鳴 っては切れる。五分間隔で一時間も二時間もぶつ通しに鳴ることがある。何度かけても話し中で しカからの電話 ないので、彼女は躍起になって話し中にぶつかるまでかけつづけるのだ。たまにま、 で話し中になることがある。すると、彼女はそれを勝沼との電話だと思うのだろうか、それ以後、 びたりと電話は鳴るのをやめる。それはまるで勝沼と私が電話で話していることを確かめること によって、やっと心が落ち着くことが出来るかのようだった。 勝沼は彼の妻に離婚話を持ち出したが、彼女はそれを拒絶した。私はそれを当然のことだと思 つ ) 0

8. 鎮魂歌

「珠夫は藁にもすがるという気持で、あなたの山のお金が入って来るまで、とにかく会社をつぶ すまいとして、無理な借金を重ねているに違いありませんわ。あなたがそんなでたらめをいわな ければ、会社の負債は膨脹しなかったでしようよ。おそらくこの半年の間にたとえ、山のお金が 一千万円入ったとしてもどうにもならぬ状態になってしまったんでしよう。あなたはそれを見て、 お金を出す気を失ったんでしよう ? あなたは気が変った。それをハッキリいえないでその場し のぎをいって事態を混乱させている。そうでしよう ? 後藤さんーー」 珠夫の罪は彼が後藤を信じたという点にあった。そのために珠夫は悪人になった。気が変り約 束を破ったのは珠夫ではなかった。しかし珠夫は、後藤や道明寺の気まぐれや、その場しのぎの 嘘の咎まで背負わねばならない。それは珠夫が彼らを信じた罰なのだ。興奮のあまり私は、山の 話のために蒙った数百万の損失のことを忘れた。慄える声で私は叫んだ。 「後藤さん、あなたに少しでも良心が残っているとしたら、珠夫にいって下さい。今までの話は 。あなたが男なら 、ハッキリそ , つい , つべき 嘘でしたって。山の金など一文も入りませんって : 後藤はロをつぐんで私を見つめていた。その眼鏡の下のまん丸い目は、びつくり人形のように 私に向って見開かれているだけだった。その丸い目は嘘を隠して演技しているのか、身に覚えの なしししがかりをつけられ、ただ途方に暮れて呆然としているだけなのか、私にはわからなかっ

9. 鎮魂歌

十二月が来た。珠夫が破産して四回目の十二月だった。歳末大売出しの旗の立ち並んでいる ~ で、偶然、私は珠夫に会った。珠夫は横断歩道の向う側から歩いて来た。 , 。、 彼ま遠くの方から既〔 にこしていた。私たちはあの日以来、はじめて会うのだった。しかし珠夫は何ごともなか ( たように、懐かしげににこにこと私に近づいて来ていった。 「どうだい、その後 「元気よ」 珠夫は向きを変え、私と一緒に横断歩道を逆戻りした。 「後藤がね」 歌 と珠夫はいいかけた。 「まだいってるの、山の話 ! もういい加減になさいよ」 ムま、つこ。 齠「会社、まだつぶれないの ? 」 終章

10. 鎮魂歌

取らぬよう、急いで電話に出た。珠夫が来ている時勝沼は、 「誰かそこにいるの ? お客」 と敏感に聞いた。それで私は珠夫がいると、自分が理由もなく笑い声を立てていることに気が 「あ、こんばんは」 そういって笑う。なぜ笑い声になるのか自分でもわからなかったが、 ることが私には出来なかった。 = 口かいるのと聞かれると私は、 しし ' ん」 と否定し、 と反問した。 「いつもと声の調子が違うから」 「子よっ ? ・挈」 , つかーごら : : : 」 私はとばけた。私は電話の置いてある小机に向って身体をひねった姿勢でしゃべりながら、珠 夫の方に向けた横顔で珠夫が煙草をすいながら電話に注意を払ってるのを感じていた。といって 私たちは珠夫に聞かれると困るような話をするわけではなかった。しかしいい年をした者が何の 笑い声にならぬようにす