黙っ - みる会図書館


検索対象: 鎮魂歌
147件見つかりました。

1. 鎮魂歌

翌日は日曜日だった。勝沼からの電話はかからなかった。夕方、私は珠夫に電話をかけた。日 曜日だが、仕事があるので五時までは会社に出ていると珠夫はいった。五時までに珠夫を掴まえ なければ彼に連絡がっかなくなる。珠夫はすぐ電話口に出て来て、 「ど , っした ? 」 「かからないのよ , つ」 「かからない ? 」 珠夫は驚いたようにいった。そのまま黙って少し考えた。 「じゃあ、もう一度かけてみよう」 「そうしてくれる ? 」 「すぐにかけるよ」 歌電話は切れた。それからすぐ、ベルが鳴った。 魂「息子らしいのが出て来て、今日はみんないませんっていうんだ」 珠夫はいっこ。 「夜になってからもう一度かけてみるがね。しかしそのうちに必すかかってくると思うよ。きっ

2. 鎮魂歌

110 人間だわ。どうでもいい又にはウソをいうけど、この人と思う人、友情を感じる人には本当のこ とをいうわ。そして私がそんな風に対していることで、必ず相手も真実をもって私に対してくれ ると信じていたわ : : : 。私だけがひとりで正直踊りを踊っていて、相手はウソ踊りで私をたぶら かしているとは夢にも思わなかったわ」 珠夫はまだ黙っていた。彼が黙っているために私の興奮は昂まって行った。 「ああ、バカバカしい。考えてみれば、実際、よくもこれだけパ力にされたものだとっくづく感 心するわ。した方のあなたにも、された方の私にもよ。あの時、勝沼さんが小田原へ来てくれつ ていってきて、そうして私が行ってしまったあの時、あなたはいったわね。ばくには女なんかい 。私はあなた ない。今もいないし、これから後もいない。一生、ばくは女とは暮さないって : に呵責を感じたわ。倒産して、皆から軽蔑され、ひとりばっちで頑張っているあなたを、まるで 最後のとどめを刺すように私は蹴落したという意識がずっと私にはあったわ。私はあなたが貸し いったい全部でいくらに てくれといってくるお金を、一度だって断ったことがなかったわね ? なっていると思う ? この間のメガネプルの分も入れて、千三百万円になってるのよ。私の去年 の稼ぎは、税金と生活費に使ったほかは全部、あなたが持って行ったのよ。それでも私は文句を いわすに黙って出したわ。なぜ、出したのか。あなたが不幸だと思ってたからよ。あなたには何 の慰めもないのに、私にだけ慰めがあるのは申しわけないと思っていたからよ。あなたに慰めが あるとわかっていたら : : : 」

3. 鎮魂歌

「先生がご気分を悪くなさるといけないと思いまして、もうこの頃は、 " 謎の女″のことはかか ってきても申し上げないことにしております」 勝沼は布団の中に腹這いになって煙草を吸いながらいった。 ある日、勝沼と私は小田原にいた。 「ワイフのやっ、知っているんだ、ばくらのこと」 「挈よっ」 私は鏡台の前で櫛を使いながらいった。 「そうだと思ってたわ」 ムま、つこ。 「だって、始終、電話がかかってくるもの」 「電話 ? 」 勝沼は驚いたようにいって、首をもたげて鏡の中の私を見た。 「本当かい ? 「しよっちゅ , つよ」 「何だっていってくるんだい ? 」 オカいっ帰るかって : : : それてこ 「私がいるかって聞いて、いないっていったら、どこへ行っこ、、 っちから名前を聞くと切ってしまうんだって。家政婦は " 謎の女〃と呼んでるわ。それ、きっと

4. 鎮魂歌

私は探・貞のよ , つに、つこ。 「日曜の朝だよ」 「あなたのいる時ね。農薬は ? ただ置いてあるだけ ? 」 「今のところ置いてあるだけだ」 「つまり、あなたに見せる芝居ね」 私は希やかにしった。突然怒りがこみ上げてきた。 「あなたのいない時、例えば今夜などはそんなもの置いてないわ。きっと」 勝紹は黙った。 「いやがらせね。いや、そうじゃないわ。おどしね」 勝紹は、つこ。 「芝居にしろ何にしろ、とにかく頭がおかしくなっていることは確かた」 私はその言葉を奪った。 「おかしくなっているんじゃないのよ。もともとそういう人なのよ。極度の我儘が嵩じてるんだ わ。本当に頭がおかしくなっているのなら、あなたのいない時でもおかしい筈よ。女中さんに聞 いてごらんなさい。あなたが役所へ行っている間、おかしなことがあるかどうか。女中さんや子 供さん、何かいってる ? 」 「いや、べつに何も聞かないけどね」

5. 鎮魂歌

ぎなほど温かいのだった。その手で手を握られているといい気持だった。勝沼は私の耳もとでふ 「ごめんね」 といった。私は黙って肯いたが、肯いたことがきっかけのようにある激しい感情が湧き溢れて くるのだった。それは怒りと呼んでいいものか、口惜しさと呼ぶべきものか私にはわからなかっ た。勝沼は憖つか、「ごめんね」などといわない方がよかったのだ。第一それは五十歳近い指導 者のいうべき言葉ではない しかし勝沼はその言葉以外に、どんな一 = ロ葉も考えつくことが出来な かったのであろう。どんな言葉も白々しいとり繕いに終ってしまうことを感じていたのかもしれ ない。勝沼は私が黙っていると、その沈黙の内側を測ろうとしていうのだった。 「また、考えているね」 そんなとき私はいつも黙って答えなかった。 ばくは女房の、女中の使い方がいやなんだ。だからばくは女中に優しくする。すると女房 は怒るんだ はじめて、勝沼の洩らした彼の妻についての話は、私の中に喰い込んでいた。そのたった一つ の話は私の中にひろがって、詳明なイメージを作り上げた。勝沼の妻は美人で評判の金持の一人 娘だった。私は兄の昔友達から屡々そのことを聞いていた。 「勝沼はあれで、案外、面クイなんだな、面さえよけりやいいんだ」 つくろ

6. 鎮魂歌

夜遅く珠夫から電話がかかってきた。私は堰止められていた水が噴出するようにわめき立てた。 その間珠夫は黙ったまま、何もいわなかった。 「何を黙ってるの、男として何か一言くら、 し、いったらどうですか」 私は夢中で出来るだけ激越な一一一口葉を探した。 「あなたは泥棒をしたのよ ! 」 「四月七日には必ず返すよ」 珠夫の声は力がなかった。私がメガネプルに無力感を感じたように、珠夫は私に無力感を感じ ているのだ。私は叫んだ。 「四月七日に道明寺が金を出す ! あなた、本当にそれを信じているの ? 」 すると珠夫はカのない声でいった。 「それを信じなかったら、会社をつづけて行くことが出来ないよ」 私はその一言に沈黙した。それが信じられないとしても、ムリに信じなければ壊れてしまう世 界というものがあるのだ。その世界の絶望が私を黙らせた。 私は旅に出た。九州は春の真ただ中にあった。菜の花が咲き、柳の青みどりの下をゆるやかに たた 春の川が流れていた。海は鈍い白い光を湛え、うすぐもりの空と穏やかにつづいていた。私は車 で山を越えたり、海辺を走ったりした。穏やかな天気がつづき、講演会はどこも盛況だった。道 明寺が金を出す七日という日は、その旅の真中の日に当っていた。その日、私は小倉に着いた。 せき

7. 鎮魂歌

「で、彼は何といってるの ? 」 : 何ともいって来ないのよう : 「何もいってない : 珠夫は暫く考えた。珠夫が考え込むと私は不安になった。私は叫んだ。 : 別れるにしても、 「ねえ、このままじや仕事が出来ないのよう。ご飯も食べられないのよう : こんな喧嘩別れみたいなんじゃいやなの。こんな生殺しみたいなの、もう我慢出来ない : 明日渡す原稿があるのよう、どうすればいいの : : : 」 珠夫はいった。 「じゃあ、ばくが電話をかけてやろう」 私は珠夫を見た。 「、い配するな。必す今日中に電話がかかってくるようにしてやるよ」 珠夫は私を見て励ますようにいった。 「彼だってきっと迷ってるんだよ。郁を嫌いになったわけじゃないさ」 歌「ちがう、嫌いになったんだ。嫌いになったから奥さんと仲直りしたのよう」 魂「昨日まで出刃包丁を布団の中へ入れていた女と急に仲直り出来るわけがないよ。彼も今頃苦ー んでるんだ」 珠夫は煙草の吸殻を灰皿に入れた。私はとり縋るように彼を見上げた。 すが

8. 鎮魂歌

「ますます二枚目ぶるわね。そんなの田舎芝居のヘポ二枚目よ」 「だけど、本当にそう思うんだから仕方がないよ。勿論、ばくは郁ちゃんには手も触れなかった だろうね。それが男の生きる道だと思っていた : 勝紹は、つこ。 「何がおかしい ? 何で笑うんだ ? 」 私はますます笑いこけた。 「またばくのことをバカにしているな」 と勝沼は貰い笑いをしながらいった。 「この人は生意気な女になったなあ。昔は可愛かったのに : ときどき勝、沼は我に返ったよ、つにい , っことがあった。 「ばくらはまるで、低能になってしまったみたいだね」 私たちは日曜のたびに会っていたわけではなかった。私にも勝沼にもそれほどの暇はなかった。 会おうといって来るのは勝沼の方からに決っていた。会いたいと思っても私の方から勝沼に連絡 することは出来なかった。「さあ、帰ろう」というのもいつも勝沼だった。そんな時の勝沼のロ 調は、長い間人の上に立ってきた者の、習慣的な決断の調子が出ていた。 私たちは夜の十時過ぎに車で小田原を出た。車の中では私たちは殆ど口を利かなかった。勝沼 は黙って私の手をんでいた。その手は驚くほど大きく厚ばったくて、どんなに寒い時でもふし

9. 鎮魂歌

132 眺めてる名司令官のような落ち着きがあった。 「時期ですって ! あなたはいつもそういったわ」 私は叫んだ。 しいながら、損ばかりしてきたのよ」 「時期を見てる時期を見てると、 そう叫びながら、私は珠夫の平静さに一縷の望みを抱いて電話を切った。珠夫が私に持てる説 得力は、弁舌の力というよりは、どんな時も変らぬその平静さにあったといえる。 翌日、後藤は塩尻から帰って来たといって私の家へ来た。 「いやはや、今回という今回はマイりました」 彼は私から疑惑を持たれているかもしれないと疑う風もなくいった。 「私が行ってみますと、森林組合の係の男が交通事故で入院しておるんでございます」 「なんですって ! 今度は交通事故ですか」 「はい、胸をやられておりまして、茅野の病院に入院しているというので、茅野までタクシーで 駆けつけました」 「そういたしますと、繃帯のバケモノのようになっておりまして、昏睡状態で」 「係の人が倒れても森林組合は倒れたわけじゃないでしよう ? 」 「それが森林組合と、 しいましても三人しかおらんのでして : : : 金庫の中に、松本信用金庫に渡す

10. 鎮魂歌

「今後、私を甘くみることはやめていただきます ! 」 私はやっと口をつぐんだ。珠夫は煙草を灰皿の中へ入れた。私はこれから出るであろう珠夫の 一一一一口葉に対して身構えた。珠夫はいった。 「じゃ、また来るよ・ーーー」 身構えた私は呆気にとられて珠夫を見た。 「よく考えて、二、三日うちにまた来る」 それだけいって珠夫は立ち上った。 「何を考えるの ? 何を ? 誤魔化さないでよ ! 卑怯者 ! 」 私は叫んだ。その言葉で私は珠夫を罵ったのではなく、むしろ取り縋ったのだ。今、この場か ら珠夫に立ち去られたくなかった。珠夫は燃え立った私の怒りを鎮める義務がある。しかし珠夫 は静かに鈍感に ( 鈍感のふりをして ) 私をふり切った。彼は立ち上った。それを見て私は叫んだ。 「鍵を置いて行ってちょうだい , 鍵を ! 」 玄関の鍵と門の鍵は珠夫が私の家にいた頃の習慣のまま、まだ彼の手もとにあった。それがあ れば彼はどんな時間でも自由に私の家に出入りすることが出来たのだ。 珠夫は黙ってポケットを探り、鍵束から鍵を外して炬燵の上に置いた。彼は無表情だった。そ の無表情には怖ろしい深淵が口を開けていた。私はまざまざとそれを感じた。彼にとって、今一 緒にいる女は、何の意味もない存在なのだ。私は漠然とそれを感じた。それと同じように、私の