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検索対象: ドストエフスキイ全集 月報
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1. ドストエフスキイ全集 月報

7 いい日いいⅱⅱい日いい日ⅱいい日日日日いⅱい日い日い日日いいいい日い日いい日日い日いい日いいい日いい日いい日い日日日い日い日 衆を解放したいという純粋な希求からなされた政治へな作業は、ドストエーフスキイを生んだ国以外の研究 の接近、ベトラシェフスキー会への参加、弾圧に連座者には遠く及ばない至難のことである。そして、厖大 して逮捕、死刑宣告を受け、処刑直前に減刑されて死な資料をドストエーフスキイの読者や研究者の共有財 をまぬがれた異常な体験、政治犯としてシベリヤの流産になしえた点にこそ、本書のもっ価値のすべてがあ 刑地で送った孤独な日々、そしてふたたびペテルプル ると一一一口、んよう。 グにもどり作家として再出発し、『カラマーゾフの兄『ドストエーフスキイ』は、ソ連でももっとも大衆的 弟』にいたる数々の傑作を残した波瀾に充ちたドスト な偉人伝シリ ーズの一冊として出たものであって、本 エーフスキイの生涯を描きだしている。そして本書で書もそのシリ ーズの性格上、一種の読物として書かれ なによりも目を見はらされることは、ドストエーフスており、最初の一ページから最後の一ページまで、さ キイと同じ時代に生きた人々の回想や同時代の記録、 ながらドストエーフスキイを主人公とした小説を読む 著者がドストエーフスキイの第二の妻アンナ・グリゴようにして読むことができる。したがって、そこにド リエヴナから聞きだした事実など、すべて原資料にストエーフスキイの作品にたいする本格的な批評を求 裏づけられたドストエーフスキイ像の再構成を目ざしめるのは無理な願望ではあるが、「ドストエーフスキ た意図である。豊富な資料を自由に駆使したこのようイの創作の道程は複雑な、矛盾したものであった。彼 の小説には、ときおり、反動的な命題の比喩的表現が 顔を出すこともあるが、たいていその命題は、その人 本 間的苦悩に対する深い同情によって克服されている。 彼の並みはずれた才能が、その哲学、政治思想の多く さ 0 版 の問題的な傾向を克服する助けとなったのである」と 著者が結論するとき、たとえば『地下生活者の手記』 や『悪霊』の作品を内在的に批評する方法をみずから ヴ 放棄したものと言わねばなるまい ここには、一一〇年 代のグロスマンの鋭い批評意識の痕跡すらも見ること

2. ドストエフスキイ全集 月報

東京じゅうの古本屋をのそきまわった。ただ、純粋に本で読んで買わなかったし、『未成年』は、下巻が未 自分の趣味にかなった本だけをさがす立原とちがっ刊だったのか、わたしの手に入らなかったのか、岩波 て、わたしは一方で、飜訳文学書を買いあさった。と文庫に収められるまで、読まなかったような気がす いうのは前の本は蒐集のための蒐集、後の類は実際のる。そんなふうで、新潮文庫でドストエーフスキイの 読書用たったのである。もっとも岩波文庫のナイハ 作品が出れば、それを求め、岩波文庫が出れば、それ が千台に入るまでは、・ハルザックやスタンダールでさも買う。これはコレクション用ではないので、買うた え、わずかしか訳されていなかったが、ありがたいこびに読んだはずだ。ただ昭和十年ごろドストエーフス とにドストエーフスキイは、ゲーテやトルストイやモキイ再興の波に乗って出た豪華な全集は、第一回配本 ーパッサンとともにすでに全集が出ていた。ドストエ 『悪霊』を手にとってみたら、大正七、八年ごろの春 ーフスキイ全集と銘打ったものは二種類あった。 ; カ一秋社版全集の重訳『憑かれたる人々』の題名を取り換 方は春秋社版、背革の装幀で堂々たる見かけで巻数もえただけではないか。ひょっとしたら、古い紙型をそ 多いにもかかわらず、ほとんどが、英訳からの重訳で、 のまま使っていたのかもしれない。完全な全集を期待 ロシア的ムードがすっかり稀薄化されていることにあしていたわたしにとっては失望というより憤り以外の きれ、失望する以外にはなかった。もう一つは全集と何ものでもなかった。その発行所をわたしは何度も呪 いうより主要作品著作集たった。新潮社出版の青黒っ詛せずにはいられなかった。その後、重訳の分だけを ぽい表紙で、活字がぎっちりつまっていた。多くが米原語訳に改めて普及版が出たけれど、わたしの気持は 川正夫訳だったようにおぼえている、同じような型でおさまらなかった。 ツルゲ 1 ・ネフもそろっていたが、この方の訳者はいろ が、ただ一つ、その普及版全集のなかで、『罪と罰』 いろだった。それはともかく、この新潮社版はわたし だけは、まっさきに買った。というのは、それは米川 にドストエーフスキイの世界をひらいてくれた貴重な正夫訳たったからである。どうしてか、わたしは『罪 本だった。それも古本屋をさがして、一冊五十銭かそと罰』だけは米川訳を読んでいなかったのである。わ こらで買ったものだった。『悪霊』も『白痴』も一円たしがドストエーフスキイにはじめて接して心身とも 前後で読んだはずである。ただし『罪と罰』はほかのに震憾されたのは、『罪と罰』だった。それは新潮社

3. ドストエフスキイ全集 月報

同じ自覚が大正から昭和へかけての日本の文壇を襲 情、大体相手の存在そのものを見失ってしまうからな った。そこではそれは、すでに言ったように、表現の のである。 主体であると同時にその対象でもある「私」の構造の 「俺が生きる為に必要なものはもう俺自身ではない、 欲しいものはただ俺が俺自身を見失はない様に俺に話問題となって現れ、創作の当面する課題となった。そ しかけてくれる人間と、俺の為に多少はきいてくれるれに対する一解答として、昭和五年、横光利一は『機 人間だ」「俺の努めるのは、ありのまゝな自分を告白械』を書いた。それはおそらく、構造的に捉えられた するといふ一事である。ありのまゝな自分、俺はもう「私ーの文学的表現の最初の見事な試みであろう。こ この奇怪な言葉を疑ってはゐない。人は告白する相手の経験を踏えて彼はやがて『純粋小説論』を書くのだ が見附からない時だけ、この言葉について思ひ患ふ。 が、その骨子は昭和七年の『現実界隈』で整ってい 困難はー 聞いてくれる友を見附ける事だ。だがこの実際る。彼が展開した「四人称」の理論は結局あいまいだ 上の困難が、悪夢とみえるほど大きいのだ」 が、川端康成が言うように、それは「眼」と解く他は と、これは小林の『 >< への手紙』の主人公の告白でない。その眼とはおそらくシェストフのいわゆる「第 ある。「あなた」という相手を見失うことによって二の眼」であり、それが『地下室』の主題なのだと彼 「私」とモノとの関係は切れ、「私」と世界との関係はいう ( 『自明の超剋』昭和九年刊シェストフ選集所 はあいまいになる。これが近代リアリズムの帰結であ収 ) 。この横光の小説論に呼応して小林秀雄の『私小 った。そして文学の表現は行詰った。そこからの脱説論』が出、「個人性と社会性との各々に相対的な量 出、それにはわたしたちのうちにおける「あなた」をを規定する変換式の如きもの」としての「私」の文学 指向する言葉の機能の回復しかない。 この自覚から現的装置を論じた。 このようにして、昭和十年前後、私小説の表現の文 代文学は始った。前世紀末のジイドの試作、ヴァレリ イのテスト氏、『ュリシーズ』や『失われし時を求め脈において、ついにドストエーフスキイの文学は日本 こ定着するに至るのである。 て』の現実の暗面の探索等々、すべては言葉の機能のの作家たちの創作意識冫 ( 早稲田大学教授・ロシャ文学専攻 ) 回復への挑戦であり、それはあの地下室人のあまりに 5 原始的な問いから発したことにほかならない。

4. ドストエフスキイ全集 月報

いる面があり、屈折は二重である。全人類性と全体的 さらにまた、対外進出に際しての帝権と教権のみご となタイアップにもかかわらず、正教の政治性は、カ和解性を強調しながら、正教の皇帝を中心とした世界 トリック教会におけるような世界政策の恒常的追求に的君主国の樹立を願望するなどは、広義の西ヨーロッ まで発展することはなく、結果的には、普遍の強制よパ啓蒙思想の影響 ( 普遍的人類的価値 ( の目覚め ) の りも、諸民族の文化的個性と結合した正教会の樹立をほかに、皇帝観そのものの問題性が認識されなければ もたらす。ロシャの正教が、ロシャ固有の〃専倒みと ならない。′ ; 、 神がしなければ、すべてが許されること を民族性′と組みあわせられ、三位一体的に認識されになるみという有名な呻きは、そうであってはなるま るのは、むしろ近代以降のことであるが、このような という要請の前提命題として理解される以外に、 ( 皇帝 ) のもとでいかにいっさいが許されな 政教一致の一元論的認識の構造について、より正確にツア】リ いうならば、それは機能の上で分離している政治と宗かったかという重圧的情況の反語的表現でもあり得る 教が、人民の意識の上での政教未分化によって巧みにのである。結論的にいえば、ドストエーフスキイにと カヴァーされ、あたかも皇帝の一身に両者が統合されってのツアーリとは、僣称皇帝に最後の望みをかけっ ているかによそおわれた一元論的認識なのである。 づけた往年の蜂起せるロシャ農民のツアーリ観と同質 のものであり、時に現実のツアーリ個人をはなれると ドストエーフスキイの正教意識が、現実の正教と多しても、ツアーリの存在そのものを否定することには くの点で逆の内容をもち、矛盾に満ちていたことは、決してならないし、不特定ツアーリ讃頌の名辞は比較 すでにメレシコフスキイなどの鋭く指摘するところで的すらりと流れでてくるような性格をもつ。 問題はむしろ、一九世紀のロシャ正教が、制度とし あるが、この矛盾は本来、一九世紀後半のロシャ社会 における正教のありかたの矛盾がドストエーフスキイても機能としても、まったく非正教的となりながら、宗 の作家精神のなかで拡大され、鮮明化したものにすぎ教意識の面では、農民の共同体的な社会関係の広範な ない。その上、彼自身の人並はずれた鋭い感受性が、存続を背景として、神と人との交流を是認する非西方 銃殺寸前の恩赦、シベリヤ流刑といった異常な体験に教会的な伝統をたえず再生産しつづけたという点であ 3 よって、巧妙徹底した自己検閲のヴェールをまとってろう。′血の日曜日におけるツアーリの行動は、ま ナロ 1 ト

5. ドストエフスキイ全集 月報

嚊もっともらしいけれど、それにしても、ミーチャが入廷的な二重性を示しているように思える。つまりドスト したとき右側の弁護士席を見なかったのが狂気の証しエーフスキイ自身がそうである癇性格の、執拗さと だとなると、婦人席を見なかったのが異常の徴候だと興奮の両極にひきさかれた一一重性がそこに読みとれる いう老医師や、正面を向いていたから正常だという若ように思うのである。 旺盛な生活力に富むミーチャは、自己の全エネルギ い医師と程度において変りはしない。つまりミーチャ それは なる人間を三人が三人とも見誤っていること、科学者ーをあげて、目の前の事象にぶつかっていく。 などというものがいかに人間に無知であるかを作者は前後の見さかいの無い、単純で子供つぼい、しかも強 いっているのだ。 烈な情熱である。グルーシェンカをめぐる父への嫉妬 たしかにそう言うだけのことはある。ドストエーフも、信頼と疑惑との間を揺れ動きながら、次第にのつ びきならぬ強度にまで高まる。世界は女と父と自分の スキイの創造しえたミーチャの性格は驚くべきレアリ チャは世界に貼りつ テを持っ完成されたものである。それはいわゆるドス三角形の間に濃密に凝集し、ミー いたかのようである。かれの目は執拗に一点を凝視す トエーフスキイ的人物の総決算みたいなおもむきがあ る。カラマーゾフの兄弟のなかで、イヴァンが思想的るが、その目は実は落着きなく動き、次の飛躍を予告 しているのだ。ちょうど極点まで圧力のあがったポン に、アリヨーシャが宗教的に興味があるとすれば、ミ べが、ついには爆発をおこすように、世界に密着して ーチャは性格的にもっとも面白い人物である。 「痩せた顔は頬がこけて、何かしら不健康らしい黄いたかれのエネルギーは、突如、霹靂となって溢れで がかった色つやをしている。少し飛び出した大きな暗る。突発的な、残酷な、原始的な、すべてを破壊しつ 色の目は、一見したところ、何やらじっと執拗に見つくすような遮二無一一の行動がかれをとらえる。馬車で めているようであるが、よく見るとそわそわして落着走りまわり、誰かれをつかまえては喋りまくり、有頂 きがない」という描写に、すでにミーチャの二重性は天から霧のように重い憂愁の間を上下するのだ。 的確にとらえられている。それは作者がしばしば解説 こういったミーチャの二重性は、地下生活者をはじ する善と悪の二重性、「聖母の理想と悪行」という道めラスコーリニコフ、ムイシュキン、スタヴローギン 徳的価値判断を含む一一重性よりも、私にはもっと生命などのドストエーフスキイ的人物にもみられ、結局、

6. ドストエフスキイ全集 月報

の参加という行為そのものの選択によって、決定的な与を拒否する方向において真実に現実を変革する睹け 状況逆転者の地位からふりとばされ、やがては賭博状の問題がここで問われなければならないだろう。。フー シキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』における貴族 況そのものに押し流されてしまうのである。 の娘タチャーナが無権利な村娘たちの運命へと共同す かれにとって代る人物がイギリスの青年実業家、 ・アストレイである。ドストエーフスキイは スター る悲劇的な「くじ」の選択にはじまる睹けの問題は、 『睹博者』において、賭博行為への直接的不関与者と以後のロシャ文学において民衆の運命に自己の連命を してミスター・アストレイにおける小口スチャイルド 睹けることの深い悲劇性として一貫して追求されてぎ た。きびしい身分制階級社会においてみずからの特権 の問題を提出している。かれは睹博そのもののメカニ ズムにおいて資本主義的経済法則の支配が意志的に貫を行使せず自己の全存在的価値を民衆の絶対性に睹け 徹していることの認識者であり、同時にその目的を追ることの民衆性の問題は、同時に革命性の問題として 求すべき管理者として行為する。かれは睹博におけるたえずとらえなおされてきた。ドストエーフスキイの 極端に少数な状況的勝利者の現出によって大多数の潜『睹博者』にはきわめてかすかな亀裂においてしか民 在的敗北者を奴隷的熱狂性に駆りたて、「極端な革命衆の世界は描かれず、それも街頭的に描かれているに 性」に動員し、あらゆる人間的情熱を寡占的な資本主すぎないけれども、賭けにたいする作者の問題提起の 義体制にくみしく支配的立場を冷静に貫徹しているの鋭さと資本主義的な睹けに熱狂的に没入していく敗残 者の無惨な精神的荒廃の生地獄の活写には、やがて である。 『カラマーゾフの兄弟』において長男・ ドストエーフスキイ文学の根源的なテーマのひとっ は、資本主義的階級社会における異常性の追求であっそれに触発されてたどりつく転機の問題、すなわち民 た。しかしかれは、この異常性が日常性のうらがえし衆への睹けを失った自己の生活形象の犯罪性にたいす にすぎず、それへのアンチテーゼとなりえないことをる激しい告発へといたる過程の問題が奥ぶかく秘めら れていないとは決して言いきることができないのであ 『睹博者』の賭けの美学においてひらき示している。 アストレイが賭博への情熱をさげすむ実業的活動に対る。 ( 一九六九・六・三 ) 5 決するためには、アストレイ的な睹博への不関与の関 ( 大阪外国語大学助教授・ロシャ文学専攻 )

7. ドストエフスキイ全集 月報

2 れる推薦の言葉を書いてくれた。今度は生き残った私かりでなく米川は、この両者の近似性を自分でも早く が彼のために、彼の遺した最大の遣産「ドストエーフから意識していた。そしてこの点で彼は、生来の遠慮 スキイ全集」に対して、同じものを書くまわりあわせぶかい、女性的な一面に、ときとすると思いがけない になった。感無量である。 傲岸不遜な自信を見せて人を驚かすこともあったが、 米川は、その六十年に近い翻訳歴の中で、ロシャ文ここらもドストエ 1 フスキイとよく似ているといえば 学のめぼしいものは、ほとんど全部訳していて、量的 いえる。 には、全世界を通じても屈指の翻訳者の一人であるが、 こんなことを書いていると、フト浮んで来た思い出 なかんづくこの「ドストエーフスキイ全集」は、彼ががある。 死ぬ間際まで、不治の病床で原書をはなさなかったほ昭和四十年十二月二十九日、夜十時すぎてからで どの執念を残して完成したライフワークである。 あった。私は米川死去の電話を受けて、聖路加病院へ ドストエーフスキイが人間として作家としても稀急行した。風の寒い師走の晩であった。 有な存在であることはいまさらいうまでもないが、そひる間はいつも人出入りの多い、あわただしい空気 の訳者である米川が、気質的にも体質的にも日本人ばのあの大病院、それが電灯も暗く、人影もほとんどな なれして、この異常人である作者と多くの近似点を持く、妙に森閑としていたのが、無気味な第一印象であ っていたことは案外知られていないかもしれない。米った。電灯が一つきりそこだけにともっていた広いホ 川も、日本人としては珍しく、人間としては常識と非 1 ルの一隅で、私はまず家の人達に会った。ついで、 常識の複雑な混淆を一身に兼ね有し、ときに「ジキ 1 暗い廊下を、米川の長男哲夫君に、死体室へ伴われた。 ルと ( イド」のような一面を見せて、人をまごっかせまだ二、三日前病室で会った時「おれもとうとうやせ ることがあった。しかも文学の翻訳者としては、稀れるだけやせたよ」といって、細い腕をだして見せた米 に見る暢達な、行き届いたスタイルを持っていて、こ 川は、台の上にひとり死体になって横たわっていた。 の二人には、性格的にも才能的にもきわめて多くの類私たちがそこへはいると、それまで米川の枕頭に立 似点があった。 , これが米川を天成のドストエーフスキっていた白衣の人が、ちょっとといって出て行き、や Ⅷイ訳者とした第一のものであったと私は思う。それば がて案内の哲夫君も、何か用でも思いだしたらしく、

8. ドストエフスキイ全集 月報

もふれたかも知れない。その時の喪主がこのアンドレである。合葬式での筆者の式辞も、「手紙」を通して イ氏で、筆者はもちろん、初対面であった。 みた夫妻の関係を中心としたものであった。この度の 六月一一十一日、先方の希望で再会、二時間余り歓談しくわだてを強く支持したのは、作家同盟であったと、 アンドレイ老はった。 て、《合葬》に至る経過をくわしく知ることができた。 アンナ夫人が、夫の死後その遺産で、クリミャの保五十年もの長い間、それこそ一身同体といおうか、 ( 養地ャルタに買うことのできた小屋で亡くなったの連理の枝と称すべきか、結婚 ( 一八六七年 ) 後の作品 は、夫妻の合作といってもよいほどの遺骨同士が、い は、ソヴェート革命の直後、一九一八年六月。市民戦 ( 争のさ中では、遺骸を、遠い、しかも革命発祥の首都かに何千露里をはなれて遠いとはいえ同じ国内で、 っしょになれなかったのは、革命、建設時代の、それ へ移して、亡夫の墓に合葬することなど、とうていで どころではない国内事情、あわただしさ、第二次世界 きるものではなかった。アンドレイの父フョ ( ドストエーフスキイの長男、一八七一年生れ ) は、大戦、その後の復興という、私事にかかわるいとまの 母アンナの亡くなった時四十七歳であったから、アンなかった歴史的経過ではあったが、さきにものべた ドレイは、おそらくすでに成年に達していて、その後のように、要路の中心的な人びとの肩入れがあったにも 事情にくわしいはずである。筆者に語ったところによかかわらず、たえて実現できなかった《合葬》の事実 は、《スターリン崇拝》 ( 三〇ー四〇年 ) 時代のソヴ ると、夫妻遺骨合葬のくわだては、一九二〇年代 ( 二 エートにおける《ドストエーフスキイ評価》を反映し 五年ごろ ) 、当時の文化相、ルナチャールスキイの主 唱によって推進されたが達成されず、その後三〇年代ているものと考えられる。 ( 三四年ごろ ) 、交通相、アンドレーエフの奔走も空し革命前、アンナ夫人の手で刊行された「全集」 ( 一八 ( く、この度五十年ぶりで、ようやく、おさまるべぎと八一一亠二年、十四巻。一九〇四ー六年、十一一巻七版 ) ころにおさまったしだい。当然そうあるべきことは、 ( 他に、・・ローザノフ編、作品全集、十二巻、 全集読者のひとしく同感されるところとおもう。最初マルクス社版、一八九四ー五年。啓蒙社版、全集一一十 の日本語全訳をした『妻への手紙』 ( 岩波文庫、上・三巻、一九一一ー一八年 ) 、革命後、一九二六ー三〇 ーエフ編「作 下巻 ) の訳者として筆者も、ひとしおその感が深いの年、・トマシェフスキイ、・ハラ・ハ