問題 - みる会図書館


検索対象: ドストエフスキイ全集 月報
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1. ドストエフスキイ全集 月報

しての神人思想は、ニーチェにおける主題としての超 ールの存在を無視することはできない。彼はたしかに 人の思想とはまったく異質なものとなる。ニーチェに少数派であり、皇帝と同様に支配者の道楽でしかなか おいては、たとえ検閲があろうとなかろうと、皇帝崇 ったかもしれない。しかし、この少数派は、一九世紀 拝に類する言説は生まれ得ようもないが、ドストエー ロシャをつらぬいて確実に継承された少数派であるこ フスキイにあっては、神人キリストへの熱愛は、あり得とはまちがいなく、この赤い糸のところどころには、 ざる理想の皇帝への傾倒と表裏一体であり、当然ながナロードニキのような反体制派に属する人びとすら、 ら、現実の皇帝に対するなにがしかの期待がなり立ちつながりをもつ。身をツアリーズムと農奴制の決定的 得る。幻想のよきツアーリと、黙して語らぬイエスⅱ後進地帯におきながら、なおかっ先進西ヨーロッパ市 キリストのダブルイメージほど、非西ヨーロツ。ハ的な民社会の腐敗堕落と閉塞情況をいち早くみぬき、これ 想念はなく、この想念の意味を問いつめることなしにを弾劾することのできたナロードニキの思想的立脚点 は、ツアリーズム数百年の歴史は了解不能であろう。 の独自性を想うとき、あのマルクスさえ再考せざるを 産業革命、フランス革命の波濤がまきちらした輝か得なかった共同体的世界について、その新しい意味 しい「近代」の栄光が西ヨーロッパをおおっていた一を、あらためて問い直してみるべきではないのか。ロ 八一五年、ロシャの皇帝は、全ヨーロツ。ハの君主にむシャにおける変革の諸問題が、何らかの形で、共同体 かって、きわめて中世的なまじめさで、キリスト教的をどうするかという課題とむすびついていたように、 同胞愛にもとずく理想の政治の実現をよびかけ、神聖ロシャ日キリスト教の諸問題もまた、共同体の観念的 同盟を締結する。ナポレオン没落後の国際的反動期倒影であり、変容であり、葛藤であるような性格をも に、ロシャが演じさせられた道化の主役といえばそれつ。そこでは、市民的個我の欠落が問われているので までのことであり、オーストリアの近代的反動政治家はなく、個人の救いが問題なのではない。共同体的現 メッテルニッヒの暗い静かな嘲笑とみあう程度には、実をどのように止揚するかという長期、かつ自覚され ロシャの皇帝も醒めてはいたのだ、と思いたいところざる設問をとらえぬ限り、民衆レベルでの神人交歓的 である。しかし、いくらあざけられても、キリスト教信仰の意味は、ついに了解不能であろう。 ( 東洋大学教授・ロシャ中世史専攻 ) 5 的同胞愛を説いてやまなかった『戦争と平和』の。ヒ工

2. ドストエフスキイ全集 月報

の参加という行為そのものの選択によって、決定的な与を拒否する方向において真実に現実を変革する睹け 状況逆転者の地位からふりとばされ、やがては賭博状の問題がここで問われなければならないだろう。。フー シキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』における貴族 況そのものに押し流されてしまうのである。 の娘タチャーナが無権利な村娘たちの運命へと共同す かれにとって代る人物がイギリスの青年実業家、 ・アストレイである。ドストエーフスキイは スター る悲劇的な「くじ」の選択にはじまる睹けの問題は、 『睹博者』において、賭博行為への直接的不関与者と以後のロシャ文学において民衆の運命に自己の連命を してミスター・アストレイにおける小口スチャイルド 睹けることの深い悲劇性として一貫して追求されてぎ た。きびしい身分制階級社会においてみずからの特権 の問題を提出している。かれは睹博そのもののメカニ ズムにおいて資本主義的経済法則の支配が意志的に貫を行使せず自己の全存在的価値を民衆の絶対性に睹け 徹していることの認識者であり、同時にその目的を追ることの民衆性の問題は、同時に革命性の問題として 求すべき管理者として行為する。かれは睹博におけるたえずとらえなおされてきた。ドストエーフスキイの 極端に少数な状況的勝利者の現出によって大多数の潜『睹博者』にはきわめてかすかな亀裂においてしか民 在的敗北者を奴隷的熱狂性に駆りたて、「極端な革命衆の世界は描かれず、それも街頭的に描かれているに 性」に動員し、あらゆる人間的情熱を寡占的な資本主すぎないけれども、賭けにたいする作者の問題提起の 義体制にくみしく支配的立場を冷静に貫徹しているの鋭さと資本主義的な睹けに熱狂的に没入していく敗残 者の無惨な精神的荒廃の生地獄の活写には、やがて である。 『カラマーゾフの兄弟』において長男・ ドストエーフスキイ文学の根源的なテーマのひとっ は、資本主義的階級社会における異常性の追求であっそれに触発されてたどりつく転機の問題、すなわち民 た。しかしかれは、この異常性が日常性のうらがえし衆への睹けを失った自己の生活形象の犯罪性にたいす にすぎず、それへのアンチテーゼとなりえないことをる激しい告発へといたる過程の問題が奥ぶかく秘めら れていないとは決して言いきることができないのであ 『睹博者』の賭けの美学においてひらき示している。 アストレイが賭博への情熱をさげすむ実業的活動に対る。 ( 一九六九・六・三 ) 5 決するためには、アストレイ的な睹博への不関与の関 ( 大阪外国語大学助教授・ロシャ文学専攻 )

3. ドストエフスキイ全集 月報

同じ自覚が大正から昭和へかけての日本の文壇を襲 情、大体相手の存在そのものを見失ってしまうからな った。そこではそれは、すでに言ったように、表現の のである。 主体であると同時にその対象でもある「私」の構造の 「俺が生きる為に必要なものはもう俺自身ではない、 欲しいものはただ俺が俺自身を見失はない様に俺に話問題となって現れ、創作の当面する課題となった。そ しかけてくれる人間と、俺の為に多少はきいてくれるれに対する一解答として、昭和五年、横光利一は『機 人間だ」「俺の努めるのは、ありのまゝな自分を告白械』を書いた。それはおそらく、構造的に捉えられた するといふ一事である。ありのまゝな自分、俺はもう「私ーの文学的表現の最初の見事な試みであろう。こ この奇怪な言葉を疑ってはゐない。人は告白する相手の経験を踏えて彼はやがて『純粋小説論』を書くのだ が見附からない時だけ、この言葉について思ひ患ふ。 が、その骨子は昭和七年の『現実界隈』で整ってい 困難はー 聞いてくれる友を見附ける事だ。だがこの実際る。彼が展開した「四人称」の理論は結局あいまいだ 上の困難が、悪夢とみえるほど大きいのだ」 が、川端康成が言うように、それは「眼」と解く他は と、これは小林の『 >< への手紙』の主人公の告白でない。その眼とはおそらくシェストフのいわゆる「第 ある。「あなた」という相手を見失うことによって二の眼」であり、それが『地下室』の主題なのだと彼 「私」とモノとの関係は切れ、「私」と世界との関係はいう ( 『自明の超剋』昭和九年刊シェストフ選集所 はあいまいになる。これが近代リアリズムの帰結であ収 ) 。この横光の小説論に呼応して小林秀雄の『私小 った。そして文学の表現は行詰った。そこからの脱説論』が出、「個人性と社会性との各々に相対的な量 出、それにはわたしたちのうちにおける「あなた」をを規定する変換式の如きもの」としての「私」の文学 指向する言葉の機能の回復しかない。 この自覚から現的装置を論じた。 このようにして、昭和十年前後、私小説の表現の文 代文学は始った。前世紀末のジイドの試作、ヴァレリ イのテスト氏、『ュリシーズ』や『失われし時を求め脈において、ついにドストエーフスキイの文学は日本 こ定着するに至るのである。 て』の現実の暗面の探索等々、すべては言葉の機能のの作家たちの創作意識冫 ( 早稲田大学教授・ロシャ文学専攻 ) 回復への挑戦であり、それはあの地下室人のあまりに 5 原始的な問いから発したことにほかならない。

4. ドストエフスキイ全集 月報

実存主義的であったといえよう。 疎外と人間存在の根底的矛盾を、十九世紀においてす このことはドストエーフスキイをパスカルと比較しでに現実としてとらえ、こんにちの実存的問題性を生 て見るとき、明瞭になるように思われる。パスカルもきたのだった。キリスト教の神に睹けることができた また人間の現実をきびしい矛盾においてとらえて放さ パスカルは、いやヨーロッパは、神の死をいわねばな ず、「天使にもあらず、獣にもあらぬ」人間の固有のらなくなった今日的ヨーロッパからは、顧みてなお幸 悲惨を見すえて、積極的・主体的に人間を生きることせであったといえようが、ドストエーフスキイからす が基本的には自由において賭ける意味をまぬがれぬこるならば、その今日的ヨーロツ。 ( からさえも異質的に、 とを明らかにした思想家であり、実存思想の系譜にお要するに人間的ないかなるアプロ—チの射程内にも神 いては逸することのできない哲学者の一人である。彼はすでに不在で、しかし人間的全現実がその上で成り ク 1 ル が単に精神や知性でなく、心で、まさに生きた肉体と立つ大地に神は生きて、暗号的にのみその愛の息吹き ともに息づく心で、人間に接するとき、われわれはド を人間に感じさせる存在だったのである。天上の神に ストエーフスキイとの親近性を見ないわけにはいかオ よ睹けることのできる明るさを失ってからも、ヨーロッ いし、そこには両者に共通の実存的人間理解がある。 。 ( 的実存の暗さは地上でなお神の存否を問う次元を脱 にもかかわらず、。 ( スカルとドストエーフスキイとでしない。そこにヨーロツ。、・、 ノ力ある。しかしドストエ は、個性に大きな違いがある。前者は明るく、後者はフスキイにおけるロシャ的実存の暗さは、神が大地に 潜み、完全に匿名化してしか存在しないことにある。 暗いのである。 それはヨーロッパの市民とロシャの農民の違いに象こんにちの実存思想が、そのヨーロツ。 ( 的生い立ちに 徴され、西方教会の開化性と東方教会の土着性としてもかかわらず、ヨーロツ。 ( 的限界の自覚から「人間」 理解されることもできる。ドストエーフスキイは、文を生きる課題をになうとぎ、こうしたドストエーフス 字通り「大地に接吻する」ことのできる素朴なロシャキイ的実存は、すでに解明されたものの例証をあたえ るだけでなく、こんごの課題のために大きな示唆をあ 性のゆえに、すなわちその非ヨーロッパ性のゆえに、 ヨーロッパの市民が二十世紀になってようやく自覚すたえると思われる。 ( 一九七〇・二・一四 ) ( 東洋大学教授・西洋現代哲学専攻 ) 5 るにいたった事実、つまり近代的知性の故郷喪失者的

5. ドストエフスキイ全集 月報

にある小市民を反映した「貧しい人々」の言語が、同 : ドストエーフスキイ研究の名著⑩ じロシャ語ながら、おかしな、病めるもののように見 フォルマリズム運動の成果 えたのではあるまいか。 トルストイもそうであるがドストエーフスキイも ・ハフチン著ドストエーフスキイ論 「人生とはなんぞや」に答える人として、時には説教 長谷川四郎 者の風貌をおびることがあるかのように読まれがちの ようだ。前者においてはそれが「悪にたいする無抵抗」 などで後者にあってはーーー例えば「苦悩を人類の救済 ゴーリキイの書いたトルストイの思い出をよむと、 にまで高める」などである。しかしながら、こんど翻 トルストイがドストエーフスキイの文章一一一口語をわるく 言っているところが出てくる。「彼は美しくなく、わ訳の出た・ハフチンの『ドストエーフスキイ論』は創作 ざとみにくくさえ書いた。・ーー私は、嬌態からわざと方法の諸問題と副題がついていて、作品をいかなる特 や 0 たに相違ないと思う。」史 ) そしてしまいには、定の思想や説教やイデオロギイからも解放し、純粋に、 彼 ( ドストエーフスキイ ) は健康な人々を愛さなかっその形式や言語構成から分析したものであって、今さ た。彼は、もしも彼自身が病気なら、ーー全世界が病らながら、文学作品の研究はこうなくてはなるまいと 思わせるような本だ。 : と一一一口っている。 気なのだと信じていた : ・ トルストイとドストエーフスキイはほとんど同時代私はこの本を読んでしまったのではなく、読みつつ 人といっていいと思うが前者は農村居住の地主貴族であるというより、ほとんど読みかけたところで、いそ 後者は、都市居住の、出身は貧乏貴族であったにせよ、 いで、こういう本があると紹介する気になったのだが、 つまりは雑階級の人であって、トルストイを「ロシャ前に ( 一九六六年 ) 水野忠夫氏の訳で出た『ドストエ 農民の鏡」と呼んだレーニンにならうならば、ドスト 勁草 ) の著者シクロフ フスキー論ーー肯定と否定』 ( 書房 エーフスキイを「ロシャ町民の鏡」と呼んでもいいのスキイと同じく・ハフチンもオポャズ ( 詩語研究会 ) に ではなかろうか。けつきよくは農村的であったトルス属する文学者で、その『ドストエーフスキイ論・創作 トイからみると、発生期のロシャ資本主義の「重圧下」方法の諸問題』の初版は一九二九年に出たものであ

6. ドストエフスキイ全集 月報

2 読み、そのまま教室を休んで読み、昼飯を食べながら読命とユトビャ社会主義、そこへ引っかけたロシャ政府 み、ひるからも読み、それから夜読み、明日また教室の陰謀、逮捕、裁判、判決、その急転全体をとおして を休んで朝起きるとから読みつぐというようにして私の陰謀というくらいのことしか私は知っていない。そ は読んだ。いま考えて、何をどんな気持ちで読んだのこに、「四十年代の人々」ということが関係してくる だったかわからない。そうして、今なにがいちばん印のだろう。 象に残っているかというと こういう言い方にむろ「四十年代」といえば、私の祖父はむろん日本の百姓 ん危険はあるが 『死の家の記録』があざやかに残だったが、ちょうど一八四〇年に生れている。これを っている。そのある部分なそは、ある程度説明するこ面白いといえば言過ぎにもなろうが、とにかく孫とし とができる。 ていえば面白い。三十年ほど前に私は書いたことがあ それならば、ベトラシェーフスキイのことなんかにる。『アンナ・カレーニナ』は明治六年に出た。『処 注意が向いたかといえば、そんなところへは全く向か女地』は明治九年に出た。『人形の家』は明治十一年 なかった。シベリヤ流刑、そんなことも、その具体的に出た。『カラマーゾフの兄弟』は明治十三年に出 な模様なぞは知りもせす、知ろうとしてしらべて見るた。そして日本で、逍遙の『書生気質』が明治十八年 ということも一つもしなかった。また一体に、翻訳に出た。私の祖父が一八四〇年生れだったとしても、 者、紹介者たちも、その手のことはあまり問題にして十二年上のドストエーフスキイのように、ベトラシェ いなかったようにも思う。いや、いや、話がそこまで ーフスキイ右派になることなそはしよせん叶わぬ仕儀 来れば、ドストエーフスキイの件御引受所と看板を上だったというわけだったろう。話がいささか滑稽にな げたような一九六〇年代の人たちでも、案外にそこい るが , ーーそれを私はいとわぬーーーそれはそれだけのこ らは扱っていないのではないかとも思う。もっとも、 とに過ゼ」ない。 このごろ一向にそんなものを読まぬのだから、私がこ ういっては自分の怠け放題を白状することにもなるの やはり私は、少年の時の私のようにでなく、大審問 だろう 1 実のところ、事件そのものにしても、一八四官だの何だのの問題を読みとって考えるのが正しいド 九年のことというくらいしか、フーリエとの関係、革ストエーフスキイの読み方だろうと思う。読み直すと

7. ドストエフスキイ全集 月報

ある。神人イエスへの自由な愛、信仰によって調和を 間が否定されるのを知らせたのだ、とベルジャーエフ 、・ヘルジャーエフのドストエーフ 得ようとする信仰者たちと、神もなく不死もないならは立論する。ここに ば「すべては許されている」という確信の中で、何者スキイ論のキイストーンがある。「ドストエーフスキ にも頼ることなく自己を確立しようとするニヒリスト イの全作品は人間とその運命の擁護」であり、彼の観 たち・・ー彼らの″信仰を分っのは、現実における悪念弁証法は、悪、不合理の存在をめぐって神への反逆に の存在の問題であり、すべてはそれをどう解くかといまで高まるが、イヴァン的発想はけつきよく誤りであ うことにかかっている。悪は現世における躓きの石でり、それは自由を抹殺する方向へ進むーー大審問官の あり、その解釈は人間に任せられたままである。 一」こか 論理は自由の否定の上に成立するの他はない。 ベルジャーエフはこの悪の存在ーーー神の摂理 , ーーに らして革命の予見者としてのドストエーフスキイの視 対する反逆者たち、いっさいの自由を所有する反抗的点が出てくる。 人間を解析することから、′信仰者みの立場に出よう ベルジャーエフは、作家がアンチキリストの立場を とする。彼はドストエーフスキイの創造したニヒリス カトリシズムより、むしろ、社会主義と結びつけたこ トたちが「すべては許されている」という思想の中でとをドストエーフスキイの最大の創見として評価して 破減してゆくプロセスを自由の変質ーー自意志に変っ いる。「社会主義の問題は宗教問題、神と不死の問題」 た自由と考えであり、社会主義は「全世界の人間の結合、地上のエ る。作家は自国の建設という永遠の問題を解決」しようとしてお 意志、反逆のり、虚無主義と黙示主義の合一するロシャ人の極端な 道の究極にま性格が革命を招来するであろうと予見した点でドスト で彼らを導エーフスキイは現在ではなく未来を描いた作家であ り、ロシャ革命の予言者としての位置をも占めて然る き、自音ハに よって自由がべきだ、と・ヘルジャーエフは書く。 破壊され、反しかし、人間とその連命は、かかる地上の王国によ 逆によって人っても大審問官によっても人神によっても解決され コライ・ - ヾノレジャーエフ

8. ドストエフスキイ全集 月報

いる面があり、屈折は二重である。全人類性と全体的 さらにまた、対外進出に際しての帝権と教権のみご となタイアップにもかかわらず、正教の政治性は、カ和解性を強調しながら、正教の皇帝を中心とした世界 トリック教会におけるような世界政策の恒常的追求に的君主国の樹立を願望するなどは、広義の西ヨーロッ まで発展することはなく、結果的には、普遍の強制よパ啓蒙思想の影響 ( 普遍的人類的価値 ( の目覚め ) の りも、諸民族の文化的個性と結合した正教会の樹立をほかに、皇帝観そのものの問題性が認識されなければ もたらす。ロシャの正教が、ロシャ固有の〃専倒みと ならない。′ ; 、 神がしなければ、すべてが許されること を民族性′と組みあわせられ、三位一体的に認識されになるみという有名な呻きは、そうであってはなるま るのは、むしろ近代以降のことであるが、このような という要請の前提命題として理解される以外に、 ( 皇帝 ) のもとでいかにいっさいが許されな 政教一致の一元論的認識の構造について、より正確にツア】リ いうならば、それは機能の上で分離している政治と宗かったかという重圧的情況の反語的表現でもあり得る 教が、人民の意識の上での政教未分化によって巧みにのである。結論的にいえば、ドストエーフスキイにと カヴァーされ、あたかも皇帝の一身に両者が統合されってのツアーリとは、僣称皇帝に最後の望みをかけっ ているかによそおわれた一元論的認識なのである。 づけた往年の蜂起せるロシャ農民のツアーリ観と同質 のものであり、時に現実のツアーリ個人をはなれると ドストエーフスキイの正教意識が、現実の正教と多しても、ツアーリの存在そのものを否定することには くの点で逆の内容をもち、矛盾に満ちていたことは、決してならないし、不特定ツアーリ讃頌の名辞は比較 すでにメレシコフスキイなどの鋭く指摘するところで的すらりと流れでてくるような性格をもつ。 問題はむしろ、一九世紀のロシャ正教が、制度とし あるが、この矛盾は本来、一九世紀後半のロシャ社会 における正教のありかたの矛盾がドストエーフスキイても機能としても、まったく非正教的となりながら、宗 の作家精神のなかで拡大され、鮮明化したものにすぎ教意識の面では、農民の共同体的な社会関係の広範な ない。その上、彼自身の人並はずれた鋭い感受性が、存続を背景として、神と人との交流を是認する非西方 銃殺寸前の恩赦、シベリヤ流刑といった異常な体験に教会的な伝統をたえず再生産しつづけたという点であ 3 よって、巧妙徹底した自己検閲のヴェールをまとってろう。′血の日曜日におけるツアーリの行動は、ま ナロ 1 ト

9. ドストエフスキイ全集 月報

真継伸彦 私の人生を決めた一冊の本、というのは、ジャーナリズムが思いだしたようにと キリスト教にとっての・ハイ・フ りあげる話題だけれども、私にはそのように レ人生を決めた二人の作家、というテー ルのように決定的な本はない。しかし、ム ) マがもしあたえられたなら、私は躊躇なくドストエーフスキイとリルケと答える。 しかも、この順番で答えるのである。 ほとんどの人がそうだろうが、私にとっても思春期の、それもごく早い時期の読 書体験が決定的な意味をもっている。それは四十ちかくになった今からかえりみる と、おそろしいほど偶然に左右されている決定なのである。私はさいきんはフォー クナーから教えられる所が多いのだが、ときおり、もしももっと早い時期にこの作 家に出会っていたなら、自分はきっとかわっていただろう、感受性までかわってい ただろうと思うことがある。 まったく同様に、もしも九歳年上の長兄が岩波文庫で三巻の『罪と罰』を持って いなかったら、また、もしも高校の英語の先生が英作文の問題に『マルテの手記』 の一節をだし、ほとんどその直後に、私が大山定一氏訳の『マルテの手記』を古本 屋でみつけなかったとしたら、やはり私の人生はかわっていただろう。これは断言 できることなのである。 私が『罪と罰』を完読したのは中学三年のときだった。敗戦後一一年目のことで、 また、思春期にはいった直後のことでもあり、私にも自我の独立と性欲とを自覚す 『作家の日記』の思い出 以トエー万キ集月報。 第 14 巻作家の日記 ( 上 ) 河出書房新社

10. ドストエフスキイ全集 月報

6 ドストエーフスキイ研究の名著⑩ 関を語りうる要素がそこにあったことは、まらがいの ないところだろう。 革命への恐れと期待 それはともかく、この本の著者ヴォルインスキイは、 一八九〇年代から雑誌「北方報知」の事実上の編集長 ヴォルインスキイ著偉大なる憤怒の書 として、当時まだ正当な評価を受けられなかったロシ 江 卓 ヤ・シン・ホリズムの運動に力をかし、自身ペリンスキ イ、チェルヌイシェフスキイらに代表される社会批評 ローザノフの『大審問官伝説』 ( 一八九四 ) を先ぶれ的、功利主義的文芸観を攻撃して、「哲学的批評」の として、一九〇〇年代初頭には現代にも残るドストエ必要を唱えてきた人物である。その主張に、ドストエ ーフスキイ論の名著が異常なほど集中して発表されて ーフスキイという作家を媒介として肉づけを与えられ いる。メレジュコフスキイの『トルストイとドストエ たのが、『カラマーゾフの世界』と『偉大なる憤怒の ーフスキイ』が一九〇一ー二年、シェストフの『悲劇書』であったとも言えるわけで、その意味では、彼の の哲学』が一九〇一年、ヴォルインスキイの『カラマ ドストエーフスキイ論がはらんでいる熱気は、偉大な ーゾフの世界』がやはり一九〇一年、そしてこの『偉作家を通して語られた新しい文学運動の自己告白とし 大なる憤怒の書』が一九〇四年といった調子である。 ても説明できる。 もちろん、この現象は偶然的なものではなかった。 ところで、この本の表題『偉大なる憤怒の書』は、 ドストエーフスキイに対する関心が間歇的に高まると旧約聖書のヨナ記の説話からとられている。ョナは大 はよく指摘されることだが、一九〇五年の第一次ロシ魚に呑まれ、神への祈りが通じて無事に陸地に吐き出 ャ革命を前にした時点でのこのドストエーフスキイ・ されたことで有名な予言者だが、もちろんヴォルイン プームには、この問題を考えるうえでの貴重なヒン スキイは、ヨナが魚に呑まれた話を念頭に置いて表題 トがかくされているように思う。すくなくとも、ロシをきめたのではない。彼が注目するのは、その後ョナ ヤでの次のドストエーフスキイ・・フームとなった一九がニネヴェの町に赴き、神の怒りの使者として、この 一一〇年代、あるいは、日本の昭和十年代との内的な連異教徒の町の滅亡を予言する狂気にも似た憤怒のさま