じゃないー あいつは来ていたんだ、そこに腰かけてたん精霊、偉大なる精霊」であるにもかかわらす、彼を訪れる悪 魔はみすばらしい食客なのである。悪魔はイヴァンをからか だ、そこの長いすの上に」 って、「まったくきみは、ばくが焔の翼をつけ、雷のごとく こうして、悪魔の来訪は幻覚であったか現実であったか、 さめてから後もイヴァンは決しかねる。スメルジャコフ縊死はためき、太陽のごとく真紅に光り輝きながら、きみの前に の報を聞いても、もう前から知っていたような気がする。現われないで、こんなつつましやかな様子で出て来たので、 「つい今しがた、あいっ ( 悪魔 ) がばくにいったんだ」と彼腹を立てているんだろう。第一に、きみの審美感が侮辱され、 はアリヨーシャにいう。否定しながら肯定し、信じないのに第二に、きみの誇りが傷つけられたんだ。自分のようなこん イヴァンの分裂は完全なものとなってしまつな偉大な人間のところへ、どうしてこんな卑しい悪魔がやっ 信じる、 た。この幻想的なものと現実的なものとの、わかちがたい徴て来たんだろう、というわけでね」といっている。イヴァン 妙な交錯が、巨匠の筆によって見事に描出されている。イヴ自身も憤然としてアリヨーシャに訴える。「あいつの着物を アンはすでにその前から、悪魔の存在を信じていたかのごとひんむいたら、きっと長い尻尾が出るに相違ない。ちょうど くである。前夜アリヨーシャが、下手人はだれだというイヴデンマーグ犬みたいに、一アルシンくらいも長さのある、す アンの日 べっこい茶色の尻尾が : : : 」。ああ、はたしてこれがイヴァ 尸いにたいして、「あなたじゃない」と答えたとき、 アルターエゴ イヴァンは慄然としてアリヨーシャの肩をつかみ、「お前は ンの第二自己なのだろうか ? アルターエゴ あいつが来た夜、ばくのところにいたんだな : : : 白状しろ 幻ならぬ、肉体を有するイヴァンの第二自己は、スメルジ : お前はあいつを見たろう ? 」とロ走る。「あいつ」とは ヤコフである。彼もこの長編の中で、最も力強く描かれた人 いうまでもなく、もう前からしばしば幻覚に見ていた悪魔の物の一人である。彼はすぐれた知力を持っていると自信して ことであり、しかもこの時のイヴァンは、決して譫妄状態に いるにもかかわらず、私生児であるがために、下男の地位に 陥ってはいなかったのである。おなじ幻覚に襲われていた 甘んじなくてはならぬことにたいして、自分なりに社会の不 「悪霊』のスタヴローギンは、チーホンの庵室で、「ばくは正を強く意識している。たしかに、彼は凡ならざる知力を持 っているが、彼の頭脳も感情も憎悪にゆがめられている上 比喩や何かでなく、個体としての悪霊を合法的に信じます」 と「まじめに」いいきったが、イヴァンも半意識的に、それに、彼の本質は生まれながらにして、精神的なものに無縁な と同じことを自分で自分にいっていたのかもしれない。 のである。もっとも、宗教問題を論じて、素朴な老僕グリゴ ーリイを気死せしめることはできるけれど、それは彼の機知 しかし、イヴァンの鼈れていた悪肱は、大審問官を誘惑し た荒野の悪魔、「恐ろしくしかも賢なる精霊、自滅と虚無ののあらわれにすぎず、この問題が彼の関心事であるからでは
って生き、それがために悩みつづけた後、たまたま語るに価らぬ。この点にあなたの大きな悲しみがある」と喝破してい する人に遭遇したとき、その悩みを臆することなく堂々と披る。 瀝してみせるのである。しかし、アリヨーシャは兄の物語が ヴォルインスキイは、スメルジャコフの父親殺しに関し 終わったとき、そんな「幻想的な人間はぜんぜん存在するは ずが」ないと断言した。われわれも大審問官の陰鬱な悲壮美て、イヴァンに共犯者としての罪はない、と断定している。 にうたれ、その否応ない弁証法に圧倒されながらも、そこにその主な根拠は、神の使いともいうべきアリヨーシャが、イ ここでイヴァンの有名なヴァンに向かって、父を殺したのは「あなたじゃない ! 」と ある幻想性を感ぜざるをえない。 「不死の信仰がなければ、人間愛もない」という命題が想起いった言葉である。彼は、人間にはいっさいが許されている という思想を、スメルジャコフの前に開陳して、一種いきづ される。彼の創造した大審問官は神の信仰を失った。したが まるような頭脳の興味をいだきながら、まさに起こらんとす この三段論法によれば、 って当然、不死をも信じていない。 大審問官にも人間愛はありえないことになるのである。してるカタストロフを心の中で見つめていた。彼は、犯人になる みれば、これもイヴァンにとって、ヴェルシーロフが描いたのはスメルジャコフか、もしくはドミートリイかを、確実には 神なき黄金時代とおなじように、信仰なきものの人間愛の可知ることができなかったけれども、とにかく凶行の前日、父 能性を、ぎりぎりの限界においてとらえようとした、必死のの家を去ることによって、犯罪を防げなかった。にもかかわ とヴォルインスキイは力説す 試みであったかもしれない。それとも、ゾシマ長老の庵室でらず、イヴァンは犯人でない、 説明した教会裁判論のように、「単にずうずうしい茶番じみる。しかし、カタストロフの可能性がほとんど確実に近いの を承知し、しかも自分の在宅がこれを防ぎうることをも知り た冷笑にすぎない」のであろうか ? しかし、イヴァンには、そうとばかりいいきれない何ものながら、モスクワへ発って行ったということは、単に理論と かがある。彼はゾシマの庵室で、長老の祝福を受け、その手してカタストロフの可能性を観照したにすぎないとする、ヴ を接吻した。イヴァンのような人間が、もし内部に何か精神ォルインスキイの解釈を根拠のないものとせざるを得ない。 的火花が燃えないかぎり、単なる儀礼のみのために、このよアリヨーシャがイヴァンを無罪としたのは、スメルジャコフ がイヴァンの抽象的な理論に影響されて、あの凶行をおこな うな挙動に出るとは考えられない。いかなる弁証法にも消し ったと、その程度のことを推察したにすぎず、イヴァンの出 つくされぬ宗教性が、彼の魂の底ふかく潜んでいるかのごと くである。洞察力に富むゾシマは彼の分裂を見抜いて、「こ発の前夜、彼とスメルジャコフの間に交わされた会話と、そ の問題 ( 神と無神の問題 ) は、まだあなたの心中で決しておのとき成立した二人の暗黙の諒解については、知るよしもな
したがって歴史的現実はことごとく不合理となる。破壊とアて、かえって自分の主な論点を強化することになるからであ ナーキズムは、そこから生じる論理的帰結といわなければなる。神を受け入れて、神の創った世界を拒否するということ らない。イヴァンは研ぎすまされた鋭い理性の所有者であっ は、要するに、不合理にみちた混沌の世界にたいする責任 て、かっその理性を尊重し、誇りとしている。もし世界が理を、ことごとく神に転嫁して、その神聖を否定するためなの 匪によって是認されなければ、そのような世界を受け入れるである。イヴァンの論法の狡知に長けている点は、人間愛の わけにゆかない。ところが、彼の合理的意識は世界秩序の中ために神を否定し、苦しめるすべての人類の弁護者として、 に、なんらの意義をも見いだすことができない。この世界を敢然と神に抗して立ったかのごとき印象を与えることであ 充たしているのは、不合理であり、悪であり、苦痛である。 る。彼は同情、寛大、愛といったような、高潔な人間的感情 イヴァンは悪のもっとも純粋な現われの上に、その輝かしい に訴えているけれど、それらは単なる美辞麗句であって、冷 論証を築き上げる。すなわち、小児の苦痛である。サディスたい論理の産物にすぎない。「地球上には人間同士の愛をし ト的傾向をもっ変態的な両親に拷問される、わずか五歳の女いるようなものは決してない。人類を愛すべしという法則 の子の涙や、猟犬に狩り立てられて死んだ少年の苦しみは、 は、ぜんぜん存在していない。 もしこれまで地上に愛があっ 何ものをもっても説明することができず、弁明することがでたとすれば、それは人が自分の不死を信じていたからだ : きない。 もし永久の調和が是が非でも、こうした無辜の幼児この中に自然の法則が全部ふくまれているので、人類から不 たちの涙や血の上にうち建てられなければならぬならば、そ死の信仰を滅したならば、人類の愛はただちに枯死してしま のような調和など受け入れるわけにゆかない。「調和ってやう : : : その時は非道徳なものは少しもなくなって、すべての ことが許される」。これがわれわれのすでに知っているイヴ つがあまり高く値踏みされているので、そんな入場料を払う のは、まるでばくらの懐ろに合わないよ。だから、ばくは自アンの信念である。彼はもちろん不死を信じていないから、 分の入場券を急いでお返しする : : : ばくは神さまを承認しな他人を愛することもできないわけである。彼は神を受け入れ いのじゃない。ただ「調和』の入場券をつつしんでお返しするといっているけれども、それは論証をすすめてゆくための るだけだ」とイヴァンはアリヨーシャにいうのである。 仮定にすぎず、イヴァンのような信念を持っていれば、世界 彼は月並みな無神論者などのように、神の存在否定論を、 に悪が存在していることは、すなわち神がないことを証明し 素朴に真正面から振りかざしたりなどしない。彼の戦法はは なければならぬはずである。イヴァンは完全な無神論者なの である。 るかに巧みである。彼はもっとも肝要な点で敵に譲歩する。 つまり神の存在を許容するのである。この巧みな戦法によっ とはいえ、もしイヴァンが論理のみで固まった、血も涙も
またその理想もゾシマの光に消されて、独自のものを樹 識しがたいものであり、絶対的なメタフィジッグの真理であ る、ということを意味する。しかし、それらの種から、成長立するまでに到らない。そういう意味で、烈しい情熱の所有 しえたものが成長して、自然の機械的な法則によって園がで者であるドミートリイや、悪魘的な力強い弁証法を展開した きあがったのである。神の播いた種は残らず発芽したわけでイヴァンに比べて、彼は著しく影の薄い存在といわねばなら 。しかし、彼の内部生命の燃焼が強く読者に感じられる はない。砂礫の土地に落ちたものは亡びてしまって、ただ肥 沃な土に抱きとられた幸運な種のみが、発芽して見事に成長モメントが、二つある。それは彼の叛逆と、その克服であ る。 したのである。 アリヨーシャは長老ゾシマの死後、輝かしい光栄が師の影 ゾシマ長老の教訓は、ドストエーフスキイがいっていると おり、イヴァンの漬神論にたいする個条的な反駁にはなってを包むものと、心ひそかに期待していた。ところが、その棺 し平 / . し しかし、イヴァンの思想が、その輝かしい弁証法にからは時ならずして「腐屍の香」が発し、生前ゾシマを憎ん もかかわらず、彼の宿命的な自己分裂のゆえに、内部に不可でいた人々に勝どきを上げさせた。深い絶望が彼を襲うた。 避的な破綻を含んでいる以上、またゾシマが神に関するイヴ「彼に必要だったのは奇跡ではなくて、最高の正義であった」 アンの疑惑について、「肯定のはうへ解決できなければ、否と作者はいっている。アリヨーシャもあるいは奇跡をも期待 定のほうへも決して解決せられる時はない」と、早くから予していたであろうが、よしゃ奇跡でないまでも、少なくとも 言している以上、彼としてはイヴァンの論証に拘泥すること死後の尊敬くらいは確保されなければならない。にもかかわ なく、おのれ自身の所信を披瀝すれば足りる、ということもらず、聖者ともいうべきこの高僧の尊い記憶が、たちまち泥 。しったいどこに神の正義があ できるのである。しかし、小説中の行動にまったく関与せぬ土の中に踏みにじられるとま、、 にたいして抗議せすにい 人物としての役割を与えられているゾシマは、その無行動のるのか ? アリヨーシャは神の摂理 られなかった。則 日、彼の心を騒がしたイヴァンの叛逆が、 ために、人間像としての肉づけが充実していないことは、、 ここに反響を一小したということもできょ , つ。イヴァンの叛逆 なむべくもない も要するに、神の摂理にたいする抗議である。「きのう兄イ ゾシマの弟子であるアリヨーシャについても、それと同様ヴァンのいったことが、今しきりにアリヨーシャの記憶によ のことがいえる。彼は小説の主な登場人物たちの感じることみがえって、妙に脳ましい印象を与えるのであった」と作者 をともに感じ、彼らの体験することをともに体験するけれどは注釈している。 しかし、アリヨーシャの叛逆は、たとい夢の中とはい、よ も、物語の進行はアリヨーシャによって左右されることがな
ない非人間的な存在として終始したならば、『カラマーゾフで尊重しているような、ある種の功名が尊いのだ : ・ の兄弟』の芸術性は半減したであろう。しかし、イヴァンは は知識も論理もない、ただ内発的な愛があるばかりだ : ・ しかく単純でない。それどころか、彼は内部にあまりにも多粘っこい春の若葉、これはようやく誕生したばかりの生命 くの矛盾を秘めていて、そこに彼の恐るべき悲劇が胚胎するの発現であり、不可思議な神の世界の象徴ともいえる。イヴ のである。イヴァンの巨大な悪魔哲学の中核たる『叛逆』と アンもその神秘の前に心からなる感激をいだきうる素質を有 气大審問官』の序章をなしている『兄弟の接近』で、 し、「なんのためともわからないで好きにな」ったカチェリ トリイが「墓」と評した、冷たい沈黙でつつまれていた虚無ーナに恋するだけの熱情も持っている。しかし、彼は「論理 主義者イヴァンが、はじめて新詳な若々しい素顔を見せるのに逆らっても生活する」と宣言しながら、論理は彼の内部に である。アリヨーシャはたちまちそれを直感して、「若々しおいて、常に王座を占めねばやまない。彼が心情によって愛 く生き生きした、かわいい坊ちゃん」、「まだ嘴の黄色い青一一し、信ずるものを、理知と論理が否定するのである。 才」と定義した。イヴァンもそれを否定しない。彼も自分の 内部にカラマーゾフ的な、地上の力が深く根ざしていること イヴァンが、罪なき幼児の苦しみをゆるす権利はだれ一人 を、はっきり知っている。 として持っていない、その母親さえそういう権利を与えられ 「 : : : 三十まではばくの青春が、いっさいのものを征服しっていない、といったとき、アリヨーシャは、すべてのものに くすに相違ない、生にたいする嫌悪の念も、 いっさいの知識代わって自分の無辜の血を流した人、すなわちキリストの名 もね。ばくはよく心の中で、自分の持っている狂暴な、はとを挙げて、これこそすべてのものをゆるすことができる、と んど無作法といっていいくらいな生活欲を征服しうる絶望抗議した。するとイヴァンは、自分の書かれざる劇詩大審 が、世の中にあるかしらん、とこう自問自答する . のだ。そう 問官』の内容を語りはじめる。この「大審問官』こそは、ま してとうとう、そんな絶望はなさそうだと決めてしまったさに『カラマーゾフの兄弟』の頂点であるばかりでなく、ド : ばくは生活したい、だから論理に逆らっても生活するだストエーフスキイのもっとも偉大なる創造とさえいえるので 品けの話だ。たとえものの秩序を信じないとしても、ばくにとある。この劇詩。 こよキリストが登場するけれど、はじめから っては春芽を出したばかりの、粘っこい若葉が尊いのだ。瑠しまいまで一言も口をきかない、全編ことごとく高齢の大審 作璃色の空が尊いのだ。ときどきなんのためともわからないで問官のモノローグなのである。老人は烈しいカのこもった調 部好きになるだれかれの人間が尊いのだ。そうして、今ではと子で、キリストの教えを非難し、自分の是正もしくは裏切り 第うから意義を失っているけれど、古い習慣のために感情のみの正しさを、とうとうと力説する。それはキリストから叛い 3
かったからである。イヴァンは、凶行を予知しながら父の家お蝋燭を供えることだ : : : そのときこそ、ばくの苦痛は終わ を去ったということ、ただそれ一つだけによっても、たとい りを告げるのだ」。常に抽象的な論理の世界に住んで、はっ フヨードルを殺したのがスメルジャコフでなく、ドミートリ ることなき知的構築をくり返しながら、しかも最後的な解決 イであったとしても、彼は共犯の罪をまぬかれないのであに到達することのできないイヴァンは、素朴な信仰に安息を る。ましてや彼には理論的・頭脳的な興味ばかりでなく、遺見いだしたい欲求を、みずからそれと知らずして、心の底に 産分配の件についても、少なからぬ関心をもっていたとい 秘めていたのである。この意識せずして信仰を求めるこころ う、スメルジャコフの指摘も、意識下心理としてあり得たこ は、亠ー兆キロメ 1 ートル の空間を歩みつづけて、ついに天国の とと考えられるにおいてをや、である。 門へ入った無神論者の哲学者についての逸話にも、うかがう スメルジャコフとの三度目の面談レ こよって、父を殺した真ことができる。 犯人はこの私生児の下男であって、自分も共犯者たることを信と不信との間に分裂したイヴァンの急所をとらえるため 認めざるをえなかったばかりか、あるいはむしろ、スメルジ 、悪魔は相手に自分の現実性を信じさせようと努める。も ヤコフの主張するとおり、主犯でさえあるかもしれないとい しこの無神論者が悪魔の存在を信じるならば、彼の実証的世 う疑惑さえいだかされたイヴァンは、その夜おそろしい夢魔界は崩壊してしまうことになる。イヴァンは命がけの力をふ に悩まされる。この悪魔との対話の場面は、『大審問官』のるって、悪夢と戦いつづけ、憤怒にあえぎながら悪魔に叫ぶ 章と並んで、この長編の圧巻であるばかりでなく、ドストエー のである。「ばくは一分間だって、お前を実在のものとは思 フスキイを俟ってはじめて見ることのできる、真に偉大な天やしないよ。お前は虚偽だ、お前はばくの病気だ、お前は幻 才的創造である。このみすばらしい食客紳士の姿をした悪魔 だ : : : お前はばくの幻覚なんだ、お前はばく自身の化身だ。 は、大審問官の場合とおなじように、ほとんど全章を自分のしかし、ただばくの一面の化身、いちばんけがれた愚かしい 独白で充たしながら、イヴァン自身の意識下にひそんでいるばくの思想と感情の化身なんだ」。こう判断しながらも、や 思想や、感情や、苦悶を、さめているときには思いもよらぬはり彼はあたかも悪魔が実在のものであるかのごとく、この 品ような警抜独自な形式で、くりひろげて見せるのであった。 忌わしい夜の訪問者をなぐろうとして、椅子からおどりあが い魔はい , つ。「ば / 、は : : この地上では迷信ぶかくなる : ったり、蹴とばすといって威嚇したり、カまかせにコップを投 作 ばくの夢想してるのは、七プードもあるでぶでぶ肥った商家げつけたりせずにいられない。悪魔が姿を消した後も、彼は うわごと 部の内儀に化けることだ : : : そういう女が信じるものを残らずスメルジャコフ自殺の報をもたらしたアリヨーシャに譫言の 信じたいんだ。ばくの理想は会堂へ入って、純真な心持ちでようにロ走るのであった。「いや、いや、いや ! あれは夢
善・美の融合であるエロスの神が宿っている。最後に、意のま一方の側に立つアリヨーシャは、兄の狂暴と放縦にたいす 体現者はアリヨーシャである。彼は自己の志した実行的な愛る静穏と清純によって、一見まったく異質な存在のように見 の道を、ひたむきに進んでいる。しかし、彼らは三人とも血えるが、 ドミートリイの中に替んでいる宗教生が、聴法者の によって結ばれ、おなじ根源から生長したのである。この根アリヨーシャと強く結ばれるのである ( 作者は、アリヨーシ 源、すなわちカラマーゾフ的要素が、父アヨードルに蔵されヤの中にも、カラマーゾフ的な卑しい情欲の虫けらが住んで ているのはいうまでもない。 しかし、フヨードルには正統のいることを力説するけれども、実感としてはそれが浮き出て 子供らのほかに、一人の私生児スメルジャコフがいる。正統来ない ) 。イヴァンとアリヨーシャを結ぶものは、肉親とし の子供らが意識的、無意識的に善を志向しているのにたいしての血のつながりのほか、「永久の問題」にたいする二人の て、これは邪悪の具象化である。しかし、スメルジャコフは関心である。こうして、互にまったくことなる性格をもった 単に社会的な位置からばかりでなく、この長編の芸術的思想三人の兄弟は、それそれことなった道を歩みながら、人生探 からいっても、陰の存在であるから、正統の三人兄弟が複数求に全生命を捧げた点において、一体であるということがで きる、 的な主人公であることに変わりはない。スメルジャコフは、 ドミートリイは ( 打「によって、イヴァンは田 5 事示に イヴァンの分身にすぎない。 よって、アリヨーシャは信仰によって。 「カラマーゾフの兄弟』はその構成の完美さにおいても、ド カラマーゾフ一家の統一体としての意義は、女性との関係 ストエーフスキイ芸術の最高に位する。そこには均衡、比を通していっそう明瞭になる。フヨードルは子ドミートリ ( 里シンメトリ ーの法則が、見事に実現されている。ストー イと一人のグルーシェンカを争い、イヴァンはドミートリイ 丿ーの中、いにおかれているのは、ドミートリイである。彼はの許嫁カチェリーナに恋し、カチェリーナはイヴァンを愛し 三人の兄弟のうち唯一の行動者であり、劇的な事件の原動力ながら、ドミートリイに復讐感のまじった牽引を感じてい である。グルーシェンカにたいする情欲、おなじ恋人をめぐる。なおその上に、グルーシェンカは、自分を淪落の女と感 る肉親の父との烈しい争い、父の惨死、公判、流刑の判決、じるコンプレッグスから、聴法者のアリヨーシャを誘惑しょ これらが長編の外面的輪郭を形成するものである。その うとする。ただし、解説の中でも一言したとおり、ドスエ 一方には、イヴァンが立っている。彼はその理論によって、 ーフスキイの作品において、女性はただ補助的な役割をつと 作父親殺しの動因をつくり、ドミートリイの運命に深刻な影響めるに過ぎない。たとえば、トルストイの『戦争と平和』な 部を与える。彼らは性格的にも思想的にも、まったく相反してど、もしナターシャがいなかったなら、あの長編の魅力は半 第いながら、ともに父を憎悪する点で結び合わされている。 減するだろうし、『アンナ・カレーニナ』はまさしく題名の
手紙の言葉をかりていえば、「もとの流刑囚として」検閲をと、その精神的貧困を強調するために、そうした描写が必要 はばかりながら思想的に罪のない作品を構想したのか ? と だからである」 もあれ、「伯父様の夢』には、ゴーゴリのテーマと発想法が、 筆者は、この小説のテーマが、「人間の性格にたいする環 明瞭に指摘される。 境の破滅的影響」であるとは思わない。そういう考え方を持 まずこの作品のおもなテーマは、ソヴェート十巻選集の編ってきたら、ドストエーフスキイのそれまでのほとんどすべ 集者の言葉をかりるならば、「人間の性格にたいする環境のての作品に当てはまるはずである。軽いヴォードピル的な気 破滅的な影響である」。さらに引用をつづけるならば、「モル持ちで書かれたこの作品のテーマを、しいて求めるならば、 ダーソフ市の住民たちの生活、まずだれよりも第一 に、この頽廃してゆく貴族階級の表面を、人為的の技巧で蔽おうとし 物語のおもなる女主人公マリヤ・アレクサンドロヴナ・モスた、当時一般に見受けられた社会的現象の芸術化であろう。 カリヨーヴァの生活は、空虚で非道徳、俗悪なものである 初恋に破れたため母の懇願に負けて、廃墟と化した老公爵 ま、にもかかわらす、すべての人に紛れもない、真実なものと結婚しようと決心したジーナと、その初恋人の貧しい教師 として受け取られている。なにか人の意表を突くようなこととの関係は、ドストエーフスキイの流刑直前の作であり、か をいったり、したりすると、周囲の人々はそれを異常な現っ未完に終わった「ネートチカ・ネズヴァーノヴァ』の第三 象、一種のヒロイズムのように見なすのである。町の住民た 話を想起させる ( この場合の女主人公はアレグサンドラ・ミ ちの意識があまりに俗悪なため、高遠なるものと卑賤なもの ハイロヴナである ) 。 との境界が混合してしまって、中傷、陰謀、その他これに類形式的な面から見ると、「伯父様の夢』は内容より以上に、 から した「重大な』事件から成り立っている、家常茶飯事的な空初期の作品、ことに『分身』に見られたゴーゴリの影響がさ 騒ぎが、真に人間的な興味にすり変わってしまうのである。 らに明瞭である。つまり、ゴーゴリ的な皮肉と反語をこめた パセチッグな調子が支配調となっているのである。たとえ この町でもっとも強力な感情は、富と名声にたいする欲望で ゴーゴリの「イヴァン・イヴァーノヴィチがイヴァン・ ある。それがゆえに、崩れつくしたよばよばの廃墟であり、 『なかば構成された人物』であり、「なかば死んだ人間』でニキーフォロヴィチと喧嘩した話』の冒頭はこんなふうに書 ある公爵が、この社会では注意の焦点となり、崇拝の対象かれている。 となるのである。ドストエーフスキイは一再ならず、公爵の 「イヴァン・イヴァーノヴィチは実に素晴らしい毛皮つきの 外貌 ( 化粧 ) を描写している。それはほかでもなし 、、「伯父様上衣を持っている ! 飛切り上等のしろものだ ! そのまた いまいましい、真豕 の夢』のおもなテーマ、すなわち、貴族階級の生活の人工性小羊の毛皮が、なんともはや ! ちえつ、
とに確信が持て」ず、自分と悪魔と「どちらがはんとうなのいうものは存在しない、ただ偏見あるのみだ : : : 自身はあら かわからなくなる」というが、その後で、「ばくは悪魔を信ゆる偏見から自由になることができるが、しかし、この自山 じます、比喩や何かでなく、個体としての悪魔を合法的に信を獲得したら身は破滅だ」と書いている。もしこれが観念の じます」と断言し、それからさらに、「神を信じないで、悪世界にのみとどまることができたら、彼は知られざる超人も 魔を信じることができるか」とチーホンに問いかけている。 しくは悪魔主義者として終わったでもあろう。しかし、スタ 相手は肯定的な答えを与え、「完全な無神論のほうが、俗世ヴローギンはニーチ工と異なって、人並みはずれて豊富な肉 間の無関心な態度より、ずっと尊敬に価する」とつけ加えて体力と、逞しい知力を恵まれているのであるから、それが いる。チーホンは個体としての悪魔を、比喩としてのそれに行動にあらわれないはずがない。彼はありあまったカのれ すり変えている形だが、スタヴローギンもあえてそれを抗弁るままに、たえずそれを外部へ表現しなければならなかっ 知的方面における彼の探求は、三人の追随者の中に、世 しない。彼は前にもダーシャに向かって、それを病気としてた。 説明している。 カ彼自身はい 界文学のかって知らない思想を結品さした。。 : 「スタヴローギンの告白』における悪魔を完全にする意味ちずに破滅の道をたどらなければならなかった。なぜなら、 で、「決闘』の四はかけがえのない重要性を持つものである。その巨人的な力は、何に適用すべきかを知らず、結果的に 「これはいろんな形をしたばく自身なんだ」というスタヴロ は、混沌たる情欲と思想の旋風にわれとわが身を任すことに ーギンの一一一一口葉は、イヴァン・カラマーゾフの夢魔を想起せしなったからである。チーホンは別れに際して、スタヴローギ める。ドストエーフスキイがこの注目すべき一節を削ったのンに、「あなたは今のこの瞬間ほど、新しく大きな犯罪に近 は、「スタヴローギンの告白』が発表不能となったために相づいたことは、これまでかってなかったくらいですそ」と予 違ない。しかし、この悪魔の幻覚のテーマは、彼の内部に深言したが、それはまさしく的中した。やがて間もなく、スタ くひそみ、次第に熱してゆきながら、イヴァン・カラマーゾヴローギンがサングションを与えた、跛の女とその兄の殺人 フの悪魔という、驚嘆すべき創造となったのである。「ばか が遂行され、彼に身をゆるしたリーザも、彼の罪のために惨 のくせにずうすうしい・ ・ : 感の鈍い神学生」としてスタヴロ 殺された。こうして最後は、スタヴローギンの縊死で終わり ーギンに現われた悪魔は、イヴァンの幻覚では、落魄して居を告げるのである。 これに関連して、ここに一つの問題が起こってくる。スタ 作候になった、地主階級に属する紳士なのである。 部 スタヴローギンは自分の告白の中で、「自分は善悪の区別ヴローギンは死に臨んで、ダーシャに遺書をのこすが、作者 第を知りもしなければ、感じもしない : : もともと善悪などと はこの手紙について、次のようにいっている。
: 大きな広間へ引かれて行ったが、そこでは囚人隊を出発便局長、それからもう一人なにかの長 : : : イヴァン・ガヴリ させる準備中であった。そこには三百人からの男、女、子供 ーロヴィチがそばへ寄って来て、『足枷はつけたかね ? 』と が集まっていたが、年齢も民族もそれそれ違っていた。ある険しい調子できいた。『はい』とわれわれは答えた。「身体検 ものは足枷をはめられ、あるものは鉄の棒に差され、またあ査』と彼は号令をかけた。で、わたしたちはポケットを探り るものは頭を剃られていた。こうした光景はわたしに魂を揺まわされ、羞恥と憤懣に顔を赤らめた。そのときわが尊敬す すぶるような、身も世もあらぬような印象を与えた : : : わたべきイヴァン・ガヴリーロヴィチは、わたしがカザンで買っ したちは典獄の手に渡された : : : 零下四十度の寒さの中を夜た上等のラム酒の、まだほとんど一杯あるびんを没収した。 っぴて、そして翌日の大部分も旅行したのであってみれば、 これらすべてのことは、何ひとっとして、よい辻占いになる わたしがトボリスク到着を、なにかしら暖かい避難所と、熱ものはなかった。監房へつれて行かれた。細長くて、暗い寒 い茶といったような観念と結び合わしたのも無理からぬことし冫い部屋であった : : この部屋には蒲団がわりの、乾草 であろう。『収容された監獄でサモワールにありつけるでしをつめた汚らしい袋を三つと、同じような枕を三つ載せた寝 ようか ? 』というわたしの問いにたいして、イヴァン・ガヴリ板があった。あやめも分かぬ真の闇で、ドアの向こうの廊下 には、零下四十度の寒さの中をあちこちする歩哨の、重々し ーロヴィチ ( もは、別の問いで答えた。「い 0 たいあなたはシ べリヤの宿場宿場を、どういうふうに旅行するつもりなんでい足音が聞こえていた。わたしたちは腰を下ろし、背中を縮 す ? ここにはサモワールなんてありやしませんよ ! 』このめた。ドウロフは寝板の上、わたしはドストエーフスキイと 言葉はわたしに悲しい前途を描いてみせた。もしかしたら、並んで、床の上に。薄い壁、というより仕切板の向こう側に 幾千露里の道をとばとばと歩いて行くのかもしれない : : わは、後で知ったことだけれども、被告人たちがいて、ウォー たしたちは監獄事務所へついた。この暗い不潔な事務所で、 トカのびんや杯の触れ合う音をさしたり、トランプや独楽を まず第一にわたしの目についたのは、筆耕に余念ない役人ど闘わす叫びが聞こえた。その狂態、その悪態ぶり : もであった。彼らは粗末な囚人外套を着ていた。あるもののフは手足の凍傷にかかり、足は足枷のためにひどい傷ができ ストエーアスキイはなおその , フえに、アレグセ工 額には・ < ・の文字が書かれているし、あるものは小鼻ていた。ド を裂かれて、額に > ・ 0 ・という文字が書かれてある。面 ーフの半月堡以来の瘰癧が、顔にも、ロの中にもできていた。 構えも 5 1'avenant ( それに相応して ) いた : : : わたしたちのわたしは鼻の先を凍傷にやられた。そういうみじめな環境の そばへ、だれかまた三人ばかりの人がやって来た。あとでわ中で、わたしはペテルプルグ・時代の生活が思い起こされた。 かったのだけれども、これが上官だったのである。検事、郵キーエフとハリコフと、二つの大学の同窓である若い、好ま