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検索対象: ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究
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1. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

ン、ポレヴォイの『ロモノーソフ伝』などであった。文学的を、非常な興味をもって読了したことも覚えている。ところ記 な著述の中では、デルジャーヴィン ( ことに詩「神し、ジで、カラムジンのロシャ歴史は、彼の座右の書となってい = コーフスキイの翻訳ものの散文、カラムジンの小説『哀れて、何も新しいものがない時には、彼はいつもそれを読んで なるリーザ』「マルフア・ポサードニツア』、それから「ロシ いた。そのころ発刊された雑誌『読書文庫』も、わたしたち ャ旅行者の書簡』、プーシキンのものは主として小説を読んの家へ姿を現わした。今でもまざまざとこの雑誌を覚えてい だ。その後、『ューリイ・ミロスラーフスキイ』「氷の家』『近るが、毎月表紙の色が変わって、その片隅がめくれたような 衛兵』などという長編や、『ホルムスキイ一家』なる感傷主意匠になっており、そこに寄稿者である作家たちの名が印植 義の小説、それからカザーク・ルガンスキイの寓話なども読してあった。この雑誌はもう兄二人の専有になってしまっ んだ」 た。両親はてんで読まなかった。わたしが当時兄の読んでい 「兄フヨードル自身の言葉によると、彼は紀行類を熱愛し た若干の文学書の名をあげたのは、ほかでもない、こうした て、そうした読書の影響で、ヴ = = ス、コンスタンチノープ書名や著者の名前を、まだ子供であったわたしが覚えたの ルなどを訪れることが、彼の燃えるがごとき空想の対象とな も、まったく兄フヨードルのロうっしにほかならぬからであ った。概して東方の国々は、強く彼の空想をとらえたのである。概して、兄フヨードルはどちらかというと、まじめなも る」 のを好んで読んだが、兄ミハイルはそれと異なって、詩のほ 「兄たちは、ひまな時にはいつも本を読んでいた。兄フヨー うが好きで、塾の上級生の頃には、自分でも詩を書いていた ドルの一于には、よくウォルター・スコット、 『クウエン ( 兄フョ ードルは、そういうことはしなかった ) 。しかし、二 チン・ドルワード』や『ヴ = ヴァーリイ』が見受けられた。人はプーシキンで和睦した。二人ともどうやら、ほとんど全 うちには家蔵の本があ 0 たので、兄はぎごちない古くさい翻部暗唱していたらしい ( もちろん、たまたま彼らの手に入 0 訳をものともせず、一再ならずくり返し読んだのである。プたものだけである。なぜなら、プーシキンの全集はその当時 ーシキンの全著作も、そういうふうにくり返し、巻き返し読まだなかったからである ) 。なおつけ加えておかなければな まれたのである。兄フヨードルはナレージスイの小説も好きらないが、プーシキンはその頃まで現代の人で、彼のことに で、とりわけ「宗教学校生徒』は一度ならず読み返された。 ついては、現代詩人というところから、大学の講壇でもあま その当時、兄がゴーゴリのものを何か読んだかどうか、正確り講義されなかった。したがって、学校でも教師の要求で、 に己憶していないので、それについてはなんともいうことが彼の詩を暗唱するというようなことはなかった。プーシキン できない。同様に、彼がヴェリトマンの長編『心と思い』 の権威はその当時、学校の教師の間でも、ジュコーフスキイ

2. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

わがプーシキンは今いずく ? 彼はなしー いてまわったような気がする。兄の声と話し方を覚えている 人は、彼の声があまり自然でなく、ほんとうよりいささか胸 ああさなり、逞しき心を持てる の奥から出るような感じだった、ということに異存ないと思 詩人は地上の生に背きぬ ! 詩人は雲の上に昇りぬ 「父はペテルプルグから帰って後、すっかり田舎へ引っ越し かって住みにし世界へ去りぬー てしまおうという気になった ( 彼はもう辞表を提出したので ある ) 。そういうわけで、。 へテルプルグへ行く前から、母の 「父が二人の兄をつれてのペテルプルグ行きは、危く延期さ墓標を建てたがっていた。墓標の碑銘を選むことは、兄二人 れるところであった。というのは、兄フヨードルが病気した に任せた。兄たちは二人とも、姓名、生没年月日だけ刻むよ からである。何ひとつ目に見えた原因もないのに、喉の病い うに決めた。墓標の裏には、カラムジンの、『懐しき舎利、 が起こって、声が出なくなったのである。彼は一生懸命に骨喜ばしき朝まで、安らかにあれ』という句を選んだ。この見 折って、ひそひそ声で話したが、それは聞き取りにくかつ事な碑銘は墓標に刻まれた」 た。それは頑強な病いで、どうしても治療できなかった。あ「ついに出発の日が来た。ョアン ・パルシェフ司祭は、送別 りとあらゆる方法を試みて、なんの効果もないのを見た父の祈蒋を捧げ、旅人は馬車に乗って、出発した ( 彼らは乗換 今まで厳しい逆療法論者であったにもかかわらず、 え馬で行ったのである ) 。この旅行については、兄フヨー 他人の忠告に従って、同種療法を試みることに決心した。そヒゝ ノカ四十年たって、「作家の日記』のある号に、 いとも詩的 こで、兄フョ ードルはほとんど家族生活から隔離されて、食に物語っている」 事さえも別のテープルでした。それは、わたしたち健康者に これはいうまでもなく、一八七六年一月号である。 与えられる食物の匂いを嗅がないためである。にもかかわら 「わたしも長兄も、矢も楯もたまらず、新しい生活に憧れて ず、同種療法も目に見えた効果を奏さなかった。少しよくな : : 何かしら熱烈に信じていた。そして、二人ながら、入学 るかと思うと、また悪くなるのであった。とどのつまり、よ試験の数学問題がどんなに恐ろしいかを、百も承知している その医者たちが、兄の全快を待たないで出発するようにと勧くせに、ただもう詩だの、詩人だの、ということばかり空思 めた。一年のうちでも気候のいい時に旅行するのは、病人にしていた。兄は詩を一日に三つずつくらい作っていたが、旅 ききめがあると考えたのである。なるほど、そのとおりであ行中もそれをやめようとしなかったし、わたしもまたしじゅ った。しかし、兄フヨードルには、この病いの痕跡が一生つう頭の中で、ヴニスの生活を材料にした小説を組み立てて

3. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

の状態で過ごそうと思ったが、それはもう許されなかった」どいつも戸外で暮らした。そして、遊戯の時を除いては、ま幻 る一日、野良で過ごして、骨の折れる畑仕事を観察してい 「もうひとつ、これも兄フヨードルの考え出した遊戯は、 『ロビンソンごっこ』であった。この遊戯は、わたしと兄フた。百姓はだれもかれも、わたしたち、とくに兄フヨードルを ことのほか愛していた。兄はいきいきした性分で、何にでも ヨードルと二人でした。もちろん、兄がロビンソンで、わた しはフライデーの役割をするはめになった。わたしたちは菩手を出した。馬耙をつけた馬を曳かせてくれと頼んだり、鋤 提樹の林で、ロビンソンが無人島で経験した窮乏を演出しょをつけて歩く馬を追ってみたり、等々である。それから、百 姓たちと話をするのも好きであった。百姓たちも兄とはいっ うと、一生懸命だった」 が、これは遊戯でな も、進んで言葉を交わした。しかし、兄にとって最大の喜び 「それから、もうひとっ思い出す、 く、わたしたちのした特別な行列なのである。菩提樹の林のは、何かの用事をしたり、人に親切をつくしたり、人のため 向こうに墓場があって、その近くに古びた木造の礼拝堂が立に何か役に立っことであった。忘れもしない、ある百姓女 っており、その中の棚に聖像が置いてあった。この礼拝堂のが、幼い子供を揺り籠に入れて、野良へ刈入れに出たとこ 扉は、かって閉ざされていたことがなかった。あるとき、モろ、ふと水壺をこばしてしまって、かわいそうに、子供に水 スクワで雇って、うちに長くいた、ひどくはしつこい小間使を飲ますことができなくなった。兄はすぐ壺を取って、村へ ( 一露里半もあるのだ ) 。やがて、 をつれて、わたしたちはその礼拝堂へ行った : : : そして、あ水を汲みに走って行った まり長く思案もせずに、聖像を取り上げて、前に述べた小間水の一杯はいった壺を持って来て、母親を喜ばせた。兄は自 使を先頭に、種々さまざまな教会の歌や詩句を唄いながら、分でも、人から好かれているのを知っていた。彼が『作家の 日記』の中で、あれほど暖かみをこめて描いた百姓マレイの 原中をまわりはじめた」 アンドレイの言葉によると、二、三度はうまくいったこの場面は、この愛情を十分に示している」 百姓マレイは実在の人物である。彼は美しい百姓で、年は中年以上 ( 四 悪戯は、許すべからざる行為であった。しかし、彼らの受け 十ー四十五歳 ) 、頬からあごへかけてひげがふさふさと生えていたが、そこ た宗教的な教育から見ると、これは純な気持ちからなされた にはもう白いものが交っていた。彼は村でも牛にかけてはたいした物知りと こと、 少なくとも、彼ら少年たちの側からは、そうであ されていて、定期市で牛を買うことになると、いつもマレイがさし向けられ ていた。 ったと考えなければならぬ。とはいえ、これが母の耳に入っ たとき、彼らはそのために、かなり厳しく罰しられたのであ「うちの領地は、二つの小さな村から成っていて、それは一 る。 露里半の距離にあった。一つの村、すなわちダロヴォ工は、 「村では」とアンドレイはつづける。「わたしたちはほとんわたしたちの住んでいたところで、もう一つのほうはチェル まんが

4. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

エコフの作だと聞かされても、父はやはり、こんなものは不 の権威に比べて劣っていた。わたしたちの両親の間でもその とおりだったので、それは一再ならず二人の兄、とくに兄フ躾け千万だと主張した。というのは、そこにはある作家た ヨードルの熱烈な抗議を呼び起こすもととなった。忘れもせち、とくにジュコーフスキイに対する失礼な表現が含まれて ぬ、二人の兄が同時に二つの詩を暗記した。長兄は「ハプスいるからであった。その中学生の話から、わたしたちはエル プルグ伯』 ( スキイ ¯) 、兄フ , ードルはそれに対照させるためシ「フの童話「せむしの小馬』を知 0 て、みんなそれを暗記 かのように、「オレーグの死』 ( キ幻 。 ) を選んだ。この詩が二した」 ミルレルはこれに対して、こういう私見をつけ加えて 人の兄によって、両親の前で暗唱された時、おそらく作者の 権威がまさっていたためであろう、「ハプスプルグ伯』のほうる。 それもドスト 「もしヴァーニチカ・ウムノフを除いて、 力いいということになった。母はこの二つの詩がとても気に だれも同じ年頃の エーフスキイの塾の友だちではない、 入って、よく兄たちに朗読してもらっていた。病気の時でさ え、彼女は床に臥たまま ( 母は肺病で死んだのである ) 、楽少年が遊びに来なかったとすれば、それはおそらく両親、と くに父親の厳しい選択と、猜疑心から起こったものと思われ しそうにその朗読に聞き入っていた」 る。これは当のフヨードル・ミハイロヴィチの話だが、彼も 「ここで一つのエピソードを思い起こさずにはいられない。 兄たちのところへは、友だちというものがひとりも遊びに来友だちをつくろうと努力したけれど、極端な怒りつばい生分 よ、つこ 0 , ) 、よ ) しつも失敗に帰したとのことである。彼のデリケ 一度、長兄のところへ、クドリャーフツェフのために、、 ートな心は時とすると、友だちから ( これはよくあることだ という男が塾からやって来た。その返礼に訪問に行ってもい が ) 、粗暴な冗談や冷笑を浴びせられると、とうていたえき いという許しが兄に与えられたが、それでこの交遊は終わっ てしまった。その代わり一人の少年 ( ヴァーニチカ・ウムれなかったのである。その代わり、同窓の一人の追憶による ノフ ) が、わたしたちの家に出入りしていた。両親の知人のと、彼は他人、ことに新米を保護することも好きであった。 息子で、中学校へ通っており、兄たちよりやや年長であった。どの学校でも普通なことであるが、上級生は新米にからんだ 涯この中学生が、その当時流行していたヴォイエコフの諷刺詩り、強圧的な応対をするものである」 「狂人の家』をどこかで手に入れて、それを暗記した。二人「わたしたちの父親は」とアンドレイ・ミハイロヴィチはっ 生の兄もそれからロうっしに、この諷刺詩を暗記して、それをづける。「子供の品行を監督する点では、非常に熱心であっ 部父の前で朗唱した。父はひどく不機嫌で、これはおそらく中た。とくに、二人の兄が青年になったとき、それが厳しくな った。兄たちが単独で外出した場合など、ひとつも覚えてい 第学生どもの悪戯だろうという想像を口にした。これがヴォイ

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た。兄フヨードレく、 ない。それは、父にいわせると、作法にはずれたことであっ ノカこういうふうに自分の性質を現わす た。しかも、兄たちが両親の家にいた終わりの頃には、長兄ので、父は再三再四、「おい、フェージャ、おとなしくしろ はほとんど十七歳であり、フヨードル兄はほとんど十六歳によ、ろくなことはないぞ : : : 兵隊にやってしまうから ! 』と なっていた。彼らが塾へ行く時には、家の馬車で行き、帰宅いったものである」 する時もやはりそうであった。わたしたちの両親は、決して「わたしたちの病院には、ヨアン・ ・ハルシェフとい , っ司小が けちではなかったけれども、ーーーむしろ贅沢なくらいだった、 いた、ーー・、人に尊敬されている小柄な老人で、わたしたち共 おそらくその当時の考え方によると、若いものが、たと同の懺悔聴聞僧であった。この司祭には、もう成年に達した いわずかな額であろうとも、小遣銭を持っということは、作息子が二人あった。セルゲイ・イヴァーノヴィチ、ヤーコ 法にはずれたことと見なされていたのであろう。兄たちが、 フ・イヴァーノヴィチといって、二人とも後に有名な法学教 たとい少しばかりの金であろうと、勝手に使っていたなど授こよっこ。 ーオオ官費で外国へ旅行して帰った後、この二人の青 ということは、わたしの覚えていないところである。多分、年は父のもとへ帰って、わたしたちの両親をも訪れた。父は 彼らが金というものを知ったのは、父が彼らをベテルプルグよくわたしたちにいったものである。『ああ、うちの子供た へ置いて来たときが、初めてであったろう。前にもいったとちもこんなふうにえらくなるのを、おれがこの目で見ること おり、父はお説教や教訓を授けることはきらいだった。しか ができたら ! 』」 し、彼には、いまわたしの考えるところによると、一つの弱 「兄フヨードルが両親について述べた意見は、いわずにいら 点があったらしい。彼はしばしばわたしたちに向かって、自れない。それはさして遠い以前のことでなく、つまり一八七 分は貧乏な人間だから、子供たち、ことに男の子たちは、自〇年代の終わり頃のことである。わたしは何かの拍子で、と 分で人生の道をきり開く覚悟がなくてはならない、おれが死 くに過ぎ去った時代のことで、兄とすっかり話し込んでしま んだら、お前たちは乞食になるだろう、云々、云々、とくり ついでに父親のことを口にした。すると、兄はたちまち 返したものである。こういったことはすべて、陰惨な光景を活気づいて、わたしの腕の肘の上をつかみ ( それは、彼が心 描き出したわけである ! わたしはまた冫ノ ーこ、父のいった言底から話しだす時の、、 しつもの癖である ) 、熱した調子でいし 葉を記憶しているが、それはもう教訓というより、むしろ制 だした。」。ねえ、アンドレイ、あれは尖端的な人だったんだ : ああいう家 止であり、警戒であった。わたしが前にも一再ならずいったよ。今だって尖端的な人だったに違いない とおり、兄フヨードルはあまりにも熱性で、自分の確信を強庭のあるじ、ああいう父親には、おれもお前もとてもなれつ 硬に主張し、それに概して、言葉づかいがかなり烈しかっ こないよ、アンドレイ ! 』」

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く、よく知り合った人同士のように、大きな声で話し合って イロヴィチ、起きてください ! 』という声を聞いた。わたし はすっかり目がさめて、ガウンを羽織り、客間へ出た : : : そ : ここへ入って来る人の数は一刻一刻とふえていった い : : : ふと見 が、みんなお互い同士よく知り合っているらし こはもう完全に明るかった。わたしの目にはおびただしい人 の数が映った、憲兵大佐、憲兵中尉、警部、憲兵、それからると、兄のフヨードルがわたしのほうへ駆け寄ってくる。『ア ・「勅命によっ ンドレイ、お前はどうしてこんなとこへ来たんだ ? 』兄がロ 次の間にも幾人かの巡査がいるのであった : ・ てきみを逮捕に来ました』と憲兵大佐はいって、逮捕状をわをきいたのは、ただこれだけであった。二人の憲兵が走って たしに差し出した : : : それから出発の支度がはじまった。つきて、一人はわたしを、一人は兄を引いて、別々の部屋へ入 ・ : それ まり、わたしの所持品や書物を調べて、それをすべて袋の中れてしまった。これがわたしたちの最後の面会で、 から一八六四年の十二月に、つまり十五年以上たってから、 へつめ込むのである。その際、兄フヨードルの逮捕とおなじ わたしは ようやく顔を合わせたのである ! 」 ことが行なわれたわけである : : : 住居を出る時に、 ・「わたしはなにかもっと暖アンドレイは長兄のミハイルと混同して逮捕されたのであ 夏の軽い外套を着ようとした : かいものを着るようにお勧めしますね』と大佐がいった。わるが、ドストエーフスキイはアンドレイに向かって、この誤 りをなるべく長いあいだ、上司に訴えないようにせよ、ミハ たしはそれに従って、毛皮襟のついた厚い外套を着用した。 後で、湿った寒い監房に入れられた時、わたしは心の中で大イルは妻子のある身の上だから、逮捕されるにしても、でき 佐の勧告を感謝した : : : わたしは箱馬車に乗せられたが、そるかぎり後顧の愁いのないように、しかるべき処置をとる必 トア要があるからと頼んだ。これは彼自身が、ある人にあてた手 れには大佐も、警部と憲兵といっしょに乗り込んだ : がばたんと閉まって、プラインドが下ろされ、馬車は動きだ紙の中で、はっきりいっていることであるが、アンドレイは した : : : 三十分ほど走った後、馬車はびたりと停って、わたその点について、事情を明らかにしている。二人の兄弟が しは外へ出された。あたりを見まわして、これはフォンタ「白いホール」で顔を合わせたのは、ほんの一瞬であったか レートニイ・サ ンカの夏公園に近いところだということがわかった。これら、ドストエーフスキイはそのような依頼をするどころか、 こそすなわち皇帝直属庁の第三課なのである : : : わたしは二弟の逮捕が誤りであることを、知らせる暇さえなかったので ある。もしこれを知らせてもらえたら、十日間の監房生活が 降へ導かれて行き、大広間の人になった。これは兄フヨード とアンドレイは訴えて ルが後に「白いホール』と呼んだところである。わたしの少どんなに楽だったかわからない、 る。 たからず驚いたことには、このホールに二十人からの人がい た。やつばりつい今しがたここへ連れて来られたものらし 「もしかしたら、兄フヨードルはあのとき第三課で、この意

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彼の頭を撫でたものである。この記憶は彼の脳裡に食い込んくる」 で、一生この祈蒋をくり返し、自分の子供たちを眠りに就か 「父のミハイル・アンドレエヴィチ・ドストエーフスキイ一 す時にも、これを誦した。フヨードル ・ミハイロヴィチはな等軍医は、その当時存在していたモスグワ医科大学を、一 お同様に、自分たちが厳しく育てられ、早くから勉強を始め一二年に卒業した後、軍医として軍隊へ編入させられた。戦 えいじゅ させられたことをも記憶している。彼はもう四つの時から書争が終わってから、モスグワの衛戍病院に勤務した。一 物に向かわせられ、口癖のように「勉強しろ ! 』といわれた九年、モスグワの商人フヨードル・チモフェーヴィチ・ネチ ものである。ところが、外は暖かくて気持ちがよさそうなのヤーエフの娘、マリヤ・フヨードロヴナと結婚し、一八二〇 で、木陰の多い広々とした病院の庭へ心が誘われる ! で年には長兄ミハイルが生まれた。一八二〇年の末に、父は軍 も、その代わり、父が往診に行った時には、母が子供たちを務から文官勤務に転じ、一等軍医の肩書を持ったまま、モス 自由にさせてくれた」 グワのマリンスキイ病院へ、一医師として就職した。そこで ・ミハイロヴィチをはじめとして、そのほか しかし、ドストエーフスキイの幼年・少年時代の環境と生兄のフヨードル 活を知るために、最も豊富な資料を提供してくれるのは、文の子供が生まれた。例外は、いちばん下の妹だけである」 豪の弟アンドレイ・フヨードロヴィチの追憶であって、ミル 「父に与えられていた住居は、一階にあった。今の勤務員の レルもその本の中から、多くの引用をしているので、わたし官舎住いと比べて、昔の官舎ははるかに質素であったこと も若干の抜き書きをして見よう。 に、われともなく注意を向けずにはいられない。まさしく、 すでに一家のあるじとして、そのころ四、五人の子供を 一九三 C 年出版、著者はその三年後に死んだ。 持っていた父は、佐官の位を有しながら、玄関の控室と台所 「わたしは兄フヨードレ ノ・ミハイロヴィチより、三年と四かをのけて、たった二間だけの家に住んでいたのである。入口 月半だけ若かった。わたしの二人の兄ミハイルとフヨードル には、普通の家のとおり、窓一つしかない控室があって、そ 一八三七年の五月、父に伴なわれてモスグワからペテルのうしろのほうは、板壁で仕切られていた。そこにできた薄 プルグへ移った時、兄のフヨードルは十五年と七か月であ暗い小部屋が、二人の兄、すなわちミハイルとフヨードル・ り、わたしは十二歳あまりであった。そして、わたしは五つ ミハイロヴィチのための、子供部屋のっとめをしていた。そ かなりゆったりした部屋で、二つの窓は往 生の年から、意識的に自分を記憶しはじめた。このことを考量の先は広間、 部に取り入れるならば、兄フヨードルの少年時代は七年間、わ来に面し、三つの窓は清潔な内庭に向かっていた。その次 第たしの記憶に保存されることができた、ということになっては、往来に面した窓の二つついた客間で、そこにも同じよう〃

8. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

かに大きな影響を与えたかということを、無理に証明しよう たしたち四人は、ほとんどいつもいっしょにいたので、わた がためではない。彼女は善良な女で、わたしたちをかわいが したちの興味も、わたしたちの勉強も遊戯も、多くの共通性 ってくれた、 ただそれだけのことである。彼女はモスグ を持っていた」 ドストエーフスキイ自身の言葉によると、少年時代の彼はワの町人であったが ( ほかの人たちの記憶によると、まださ して年寄りではなかったけれども、かなり肥ったほうであっ 姉のヴァーリヤ ( ヴァルヴァーラ、後にカレーピンの妻とな た ) 、いくぶんものものしい調子で、自分のことを市民と称 った ) を、なみなみならず愛していたとのことである。 この女のことを、わが家の召使の一人として 「わたしがこれを想起するのは、ほかでもない」とアンドレしていた。 ・ミハイロヴィチにとって、後 イは言葉を続けている。「二人の兄の少年時代、前に述べた筆にした以上、兄フヨードル 時代の生活が、わたしの目の前にあったことを示すためであ日かれらに関する記憶が、いかに貴重なものであったかを、 いわずにはいられない。兄のおびただしい作品の中には、昔 る。彼らの仕事、彼らの会話のすべては、わたしのいるとこ ろで行なわれた。二人は、わたしがそばにいても遠慮などしのわたしたちの名前が数多く散在している。つまり、長編 なかった。ただほんの時々、わたしを腰巾着と呼んで、そば「悪霊』に出てくるリーザ・トウシナの保姆は、アリョ から追っ払っただけである。二人の兄は年子だったので、とナ・フローロヴナと呼ばれているし、百姓頭の出て来る場面 ても仲がよかった。この友情は、長兄の生涯の終わりまで続では、サーヴィン・マカーロフの名が使われ、手代はグリ 、た。しかし、この友情にもかかわらず、二人の性格はまっゴーリイ・ヴァシーリエフと呼ばれている、等々であるが、 これらはすべてわたしたちがかってモスグワ、ないし田 たく異なっていた。長兄のミハイルは少年時代から、フヨー ドルに比べておとなしく、精力も弱く、話す時にもさほど熱舎で使っていた人々の名前である」 アンドレイの力説するところによると、アリヨーナ・フロ がなかった。ところが、次兄はあらゆる点において、両親の ーロヴナは、プーシキンの保姆アリーナのように、昔話をす 言葉をかりると、ほんとうの火であった」 「家族のことを語るにあたって、ある一人の人物のことを黙ることは上手でなかった、とのことである。が、これは多く 涯過するわナこ、、 冫し力ない。それは自分の全生涯を通じ、自分のの親戚、および当のドストエーフスキイの追憶と、十分に一 全利害を捧げて、わたしたちの家庭に入り込んでいた女、す致しないのである。おそらくアリヨーナ・フローロヴナは、 生なわち保のアリヨーナ・フローロヴナである。わたしがこたとえば乳母たちのよのに、昔話が上手でなかったかもしれ とこうミルレルは注釈を加えている。しかし、わ の女のことをいうのは、アリ。ーナ・フ 0 ー 0 ヴナが、プー れわれはアンドレイの追憶に耳を傾けよう。 第シキンの保姆と同様、兄フヨードルの少年時代の発達に、い

9. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

取り出すのであった。こういう仕きたりになっていては、だ ジイの名を挙げることができる。兄フヨードル自身も、カ らしないことはやりにくいー しかし、重要なことは、わがチェノーフスキイ教授の息子シューマツへルと、ミュルハウ 老校長が誠意の人間だったということである。彼は自分に託ゼン ( 後にモスグワ大学総長 ) も、自分といっしょにチェル された少年たち、ことにモスクワに両親も親戚もなく、自分マーグの塾で学んだ、といっている」 ・チェルマーク のところにこもりきりで暮らしている少年たちのことについ 「後日、わたしの聞いたところでは、。 ては、こまかいところまで立ち入ってめんどうを見た。成績は、一八四〇年代の終わりに、自分の塾を閉じざるを得なく 優秀な学生、つまり四点を取った学生 ( その当時、五点満点のなり、はなはだしい貧困の中で死んでいったとのことであ 制度はなかった ) は、校長室へ呼んで、いとも荘重に小さな菓る。この事情を商業的な見地からみて、チ、ルマーグを不注 子を手渡ししたものである。どうかすると、上級の生徒がそ意な、もしくは不幸な破産者の範疇に入れるわけに、か うしたご褒美をもらうこともあったが、だれひとりとしてば 。ありったけの貯蓄 ( それはおそらく莫大なものであった かにしたような態度でそれを受けるものはなかった。塾でだろう ) を、チ , ルマーグはモスグワの青年たちへの捧げもの れか病気になると、チェルマーグはすぐ、「アヴグスタ・フラとしたー とい , フことができると思、フ」 ンツォヴナのところへ行きなさい』といって、階下にいる妻「右の次第で、二人の兄は一八三四年から、一週間泊まりと ヴァルヴ のところへ差し向けた。彼女はさっそく病人を寝させて、家いうことで、塾へ通いはじめた。姉 ( , ) もやはりこの時 庭的な応急処置をとり、それから一年契約になっている校医分、女学塾へ入れられた。両親の取り決めによって、二人の ~ しろいろ を迎えにやる。その頃の校医は・・トレイテルであった」兄と姉は、わたしの教育のため、日曜祭日ごとこ、、 「食物はちゃんとしたものであった。当のチェルマーグとそな科目を分担することになった。父はミハイルの受持ちとし の家族 ( ただし男性だけ ) は、いつも生徒と食卓をともにして、数学と地理を指定し、兄フヨードルには歴史とロシャ語 た。日曜祭日には、残った生徒が少ないため、彼の家族の女が当たり、姉はフランス語とドイツ語を教えるようにい、 性たちも塾の共同の食卓についた。チェルマーグはそのほと けられた。教師としての二人の兄と姉とのわたしにたいする んど模範的ともいうべき塾を、二十五年間以上も経営した。態度は、それまでにできあがっていた兄弟としての関係を、 彼の塾の生徒は、大学でも優秀な学生であった。その後、社 いささかも変更しなかった。土曜日にはもう朝から、家族ぜ 会で華々しい活動をした人々が、彼の学校で初等教育を受けんたいが生みの家へ集まるということが予感されていた。両 たのである。フヨードル・ドストエーフスキイと、ミハイ 親はふだんよりいくらかうきうきしてくるし、食卓には余分 ル・ドストエーフスキイのほか、わたしはグーベル、ゲンナのご馳走がついたりして、一口にいうと、なにか祭日めいた

10. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

一八三六年から七年へかけての冬が来た。もう秋の頃かうに語っている。 「どういうわけか知らないけれど、プーシキンの計報がわた ら、母は床についてしまって、もう起きられなくなったー それはわたしたちの少年時代で、最もつらい頃だった。わたしたちの家へ伝わったのは、母の葬式をすませた後であっ た。おそらく、わたしたち自身の悲しみと、家族ぜんたいが したちは一刻一刻と、母を失う覚悟をしていた ! 大勢の医 者や、当時の有名な学者が、自分の同胞救助のために、手を家に引きこもっていたことが、その原因になったのであろ さし伸べたにもかかわらず、最後は避けるべくもなく、一 う。忘れもしない、二人の兄はプーシキンの死と、その事情 を知って、気も狂わんばかりであった。兄フヨードルは、長 三七年二月二十七日に、わたしたちは母を失った」 「母の死からしばらくたって、父はペテルプルグへの旅を、兄との話のあいだに、もし自分の家が喪中でなかったら、プ シキンのために喪章をつけさせてもらうように、許しを乞 真剣になって考え始めた ( 彼はまだ一度も行ったことがない のである ) 。それは、上の二人の息子を、エ兵学校へ入れるうたはずなのにと、幾度もくり返していた。もちろん、その 当時は、プーシキンの死を悼んだレールモントフの詩は、ま ためであった」 だわたしたちのところまでは届かなかったが、二人の兄はど 「いっておかなければならないが、それよりもずっと前に、 父はマリンスキイ病院の医長アレグセイ・アレグサンドロヴこからか、わたしの知らない詩人の詩を手に入れた。二人は よくそれを朗唱していたので、わたしは四十五年もたった今 イチ・リヒテルの仲介で、二人の兄弟を官費で入れてもらい ですら、覚えているほどである。それは次のようなものであ たいと、ヴィルラーモフ . に願瞽をさし出したのである。ヴィ ルラーモフのこのうえもない吉左右は、まだ母が生きているった。 うちに届いて、もうそのとき、ペテルプルグ行きが決まった のである」 フヨードル・ミハイロヴィチの、心から愛していた伯母 へテルプルグへ行く ( 調に ( 新の ) ・・グマー = ナは、。 涯人の兄弟をセルギイ教会へつれて行ったが、兄弟はその途々 ずっと、詩を読んだり、朗唱したりしていた。 生その間に、兄弟の熱愛していた詩人プーシキンが亡くなっ 部た。彼らはこの詩人を、大人の真似でなく、自分自身の好み 第で愛していたのである。アンドレイはこれについて、次のよ 詩人は逝きぬ、運命は極まれり われらが国のパルナスは、空しくなりぬー プーシキン死す、プーシキン隠る とことわにわれらを棄てぬ 国よ、北国よ、汝が天才は今いずく 汝が奇跡の歌手は今いずく ? あるじ われらが喜びの主はいすく ?