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検索対象: ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究
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1. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

「この手紙は、立派にヨーロッパふうの教育を受けながら、 重結婚を決行したのである : : : けれども、ある娘の忠言にし ロシャ語の読み書きを十分に習得しなかった、ロシャ貴族のたがって、そこから逃げだした。この娘に余は何もかもうち 子弟の文体に特有な誤謬を : : : 一字一句たがわず再録したも明けてしまった。自分のあれほど望んだ女さえまるで愛して のである」 いないし、全体に、かって一度もだれひとり愛したことがな それと同時に、『スタヴローギンの告白』でも、説話者は ということまで告白したのである」という一節を取っ こんな断わり書きをつけ加えている。「わたしは : : : 正字法て、いくつにも分裂した、目的をもたぬスタヴローギンの文 上の誤りをあえて訂正した。こうした綴字の誤りはかなりた章、一つ一つの言葉が有機的につながり合わぬ、好適例とし くさんあった」と前置きしている。チーホンも告白を読んだている。原文では、この重要な報告の中に、なんの関心も含 後、「この書きものに、多少の訂正を加えるわけにゆきませまれていない、乾き切った響きが感じられるけれども、わた んかな : : : 少しばかりの文章を : : : 」といっている。それか しの翻訳では不才のため、その微妙なニュアンスを伝えるこ ら数ベージ後に、「あなたはただ形式の中にだけ、滑稽な点とができなかった。ともあれ、スタヴローギンの書いたもの を発見なさるんですね ? 」というスタヴローギンの引、 には、変態的な心理をもつ、知的犯人におこり得る、なめら いして、「まったくそのとおりです。醜さが致命傷を与えまかな連続性に欠けた表現が、明らかに観取できる。こういう す」とチーホンは答えている。 ふうに、教養のある登場人物の言語を、その性格の特異匪に スタヴローギンの文体の問題、ーー母なる大地から離れよって、目立たぬようにデフォルメするということは、実際 て、完全に分裂を遂げた貴族インテリの文体を、日本語の翻の人物をコビーするのでないかぎり、文学において至難なわ 訳によって論することは、不可能事冫 こ属する。第一、翻訳者ざであるが、ドストエーフスキイはかなり見事に、この課題 自身、スタイルのそうした微妙の特異性を、はとんど伝えるを克服した。 ことができなかった。と同様に、それを研究によって解剖す しかし、問題はまだ残っている。チーホンはスタヴローギ ることも困難で、かっ無益なわざのように思われる。しか ンの、「あなたはただ形式の中にだけ、滑稽な点を発見なさ し、レオニード・ グロッスマンに、『スタヴローギンの文体』るんですね ? 」という問いにたいして、「まったくそのとお という論文があるので、その一部を紹介することによって、 りです、醜さが致命傷を与えます」と答えている。しかし、 この問題を多少なりとも解明したいと思う。彼にいわせれ「醜さとはなんです」とスタヴローギンがさらに反問すると、 ば、スタヴローギンの次のような告白の一節、たとえば「余チーホンは「犯罪の醜さです」という。ここでがぜん、文章 は新しい犯罪への恐ろしい誘惑を感じた。ほかでもない、二の問題は倫理の問題に急転するのである。個体的な悪魔が比

2. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

って生き、それがために悩みつづけた後、たまたま語るに価らぬ。この点にあなたの大きな悲しみがある」と喝破してい する人に遭遇したとき、その悩みを臆することなく堂々と披る。 瀝してみせるのである。しかし、アリヨーシャは兄の物語が ヴォルインスキイは、スメルジャコフの父親殺しに関し 終わったとき、そんな「幻想的な人間はぜんぜん存在するは ずが」ないと断言した。われわれも大審問官の陰鬱な悲壮美て、イヴァンに共犯者としての罪はない、と断定している。 にうたれ、その否応ない弁証法に圧倒されながらも、そこにその主な根拠は、神の使いともいうべきアリヨーシャが、イ ここでイヴァンの有名なヴァンに向かって、父を殺したのは「あなたじゃない ! 」と ある幻想性を感ぜざるをえない。 「不死の信仰がなければ、人間愛もない」という命題が想起いった言葉である。彼は、人間にはいっさいが許されている という思想を、スメルジャコフの前に開陳して、一種いきづ される。彼の創造した大審問官は神の信仰を失った。したが まるような頭脳の興味をいだきながら、まさに起こらんとす この三段論法によれば、 って当然、不死をも信じていない。 大審問官にも人間愛はありえないことになるのである。してるカタストロフを心の中で見つめていた。彼は、犯人になる みれば、これもイヴァンにとって、ヴェルシーロフが描いたのはスメルジャコフか、もしくはドミートリイかを、確実には 神なき黄金時代とおなじように、信仰なきものの人間愛の可知ることができなかったけれども、とにかく凶行の前日、父 能性を、ぎりぎりの限界においてとらえようとした、必死のの家を去ることによって、犯罪を防げなかった。にもかかわ とヴォルインスキイは力説す 試みであったかもしれない。それとも、ゾシマ長老の庵室でらず、イヴァンは犯人でない、 説明した教会裁判論のように、「単にずうずうしい茶番じみる。しかし、カタストロフの可能性がほとんど確実に近いの を承知し、しかも自分の在宅がこれを防ぎうることをも知り た冷笑にすぎない」のであろうか ? しかし、イヴァンには、そうとばかりいいきれない何ものながら、モスクワへ発って行ったということは、単に理論と かがある。彼はゾシマの庵室で、長老の祝福を受け、その手してカタストロフの可能性を観照したにすぎないとする、ヴ を接吻した。イヴァンのような人間が、もし内部に何か精神ォルインスキイの解釈を根拠のないものとせざるを得ない。 的火花が燃えないかぎり、単なる儀礼のみのために、このよアリヨーシャがイヴァンを無罪としたのは、スメルジャコフ がイヴァンの抽象的な理論に影響されて、あの凶行をおこな うな挙動に出るとは考えられない。いかなる弁証法にも消し ったと、その程度のことを推察したにすぎず、イヴァンの出 つくされぬ宗教性が、彼の魂の底ふかく潜んでいるかのごと くである。洞察力に富むゾシマは彼の分裂を見抜いて、「こ発の前夜、彼とスメルジャコフの間に交わされた会話と、そ の問題 ( 神と無神の問題 ) は、まだあなたの心中で決しておのとき成立した二人の暗黙の諒解については、知るよしもな

3. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

というのです、 もちろん、聾で、愚鈍で、意地わるで、 が犯人を威嚇する度合いは、立法者が考えているよりはるか 病身の老婆にたいする行為を、犯罪と呼ぶことができるならに弱いものであって、その理由の幾分は、犯人自身が精神的 ばです。なにしろ、老婆は自分でもなんのためにこの世に生に罰を要求するからです。小生はこれを精神的発育の、きわ きているのか知らず、ひと月もたったら、ひとりでに死んでめて低い人々に見ました。このうえもなくはなはだしい偶 しまうのかもしれないのです。こうしたふうの犯罪がきわめ然の場合に見ました。 : 、 カ小生はこの思想がより明瞭に、よ て遂行しにくいにもかかわらず、換言すれば、ほとんど常に り感情的に表現されるように、精神的発育を遂げた、新時代 粗暴に名るはど馬脚をあらわし、証跡その他を残して、ほとの人物を借りて描写したかったのです。最近に起こったいく んど常に犯人を挙げてしまう場合がきわめて多いにもかかわっかの場合は、この主題が決してとっぴなものでないことを らす、彼はまったく偶然によってその犯罪を手早く、しかも確信させてくれました。ほかでもありません、殺人者は精神 巧みに遂行することができたのです。最後的なカタストロフ的に発育を遂げた、いな、むしろ善き傾向を有する青年なの が来るまで、約ひと月は無事に過ごしました。彼にたいしてです。小生が昨年聞いた話ですが、モスクワの大学騒動の後 はなんの嫌疑もかかりません。またかかり得ないのです。とで、除籍された一人の大学生が、郵便局へ押し入って、局員 ころが、そこにこの犯罪の心理的プロセスが、残りなく展開さを殺そうと決心したことです。そのほか、わが国の新聞を見 れていきます。解決することのできない問題が殺人者の前にても、もろもろの観念がはなはだしくぐらついているために、 立ち塞がり、夢にも想像しなかったような、思いがけない感情恐るべき事件をひき起こしています ( 当人同士の約東によっ が、彼の心を苦しめるのです。神の真理、地上の掟が勝ちをて、ある娘を納屋で殺し、昼食の席で捕縛された例の神学生 : 等々 ) 。要するに、、 生の主題はある程度、現代性を有 制して、彼はついに自汽せざるを得なくなります。せざるを しているものと確信します」 得なくなるというのは、たとい徒刑場で朽ち果てるとも、も これは、ドストエーフスキイが執筆に着手する前に、あら ういちど人間の仲間に加わらんがためなのです。犯罪遂行後 ただちに感じるようになった孤独感、人類との断絶感が、彼かじめ作品の主題と思想を正確に語っている唯一の場合で、 を苦しめはじめたのです。真実の法則と人間の自然性が勝ちわれわれはこれによって『罪と罰』を作者と同じ目で眺める ストエーフスキ を制して、犯人はおのれのわざを贖うために、みすから身に可能性を与えられたわけである。しかし、ド イはその頃この主題を、「印刷して五台か六台くらい」の中 苦悩を受けようと決意します。もっとも、この着想を完全に 一一一ⅱ日 月するのは困難です。なおそのほか、小生の小説には次の編に書き上げる予定を立てていたので、『酔いどれ』はまっ ような思想の暗示があります。法律によって課せられる刑罰たく別の独立した作品になるはずであったが、後になってマ

4. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

みはない、 ということである。『死の家』の中で、この自由カ 。 : 「死の家の記録』のいたるところに見られることは、前田 が最もいきいきと象徴化されているのは、かの傷つける鷲のに触れたとおりであるが、それを一個の人生観にまで高めた 解放の場合であろう。 真の強者に遭遇したことは、ドストエーフスキイにとって大 要するにドストエーフスキイは、右の引用に見られるとおきな驚異であった。彼が獄中で相識った強者にもいくつかの り、宮殿を自由意志に対象さしている。やがてほどなく、こ タイプがある。ガージンはその中でもっともプリミディヴな、 の宮殿の形象は、新しい思想的内容に充たされてくる。すべ醜悪なものである。ドストエーフスキイは彼を巨大な蜘蛛に て強制的な、合理化された社会組織、自由の価で買われた、 たとえているが、彼は別になんの動機もなく、ただ自分の快 功利的な地上の楽園は、それがたといフーリ 工の共産団であ感を充たすために、罪もない幼児を誘拐して、眉一つ動かす るにせよ、共産主義の共同体であるにせよ、 それらはすことなく、その幼いものをなぶり殺しにして、その恐怖と苦 べて「死の家」であり、塀をめぐらされた宮殿なのである。痛を享楽する、といわれている。その意味でガージンは本能 「死の家の記録』における自由の問題は、当然、個性の問題的な悪、すなわち純粋な悪の象徴であるということができょ につながってくる。囚人たちは自分が罪びとであることを承う。ルーチカは自分が無法者であり、悪漢であることをひけ 知して、不平もなく刑に服しているが、しかしいかなる烙印らかして、虚栄的な満足を得ようというタイプであって、強 も、いかなる足枷も、彼が人間であることを忘れさせはしな者の列へ入れるわけにはゆかない。。 へトロフは最高度に我 。長の年月、おとなしく静かに暮らしていた囚人がとっぜを発揮することができ、いかなる障害の前にも躊躇しない男 ん散財をして、乱暴を働き、また新しい犯罪さえもおかすこであるが、彼の自我発現は発作的であって、しつかりした根 とがある。「こうした思いもよらぬ爆発は」とドストエーフ底がないように見える。 スキイは書いている。「なやましい、痙攣的な個性のあらわ こう見てくると、『死の家』に登場する真の強者はオルロ れであり、自己にたいする本能的な憬であり、自己、 フである。これも同様に冷酷無残な凶悪犯人で、ガージンと 自己の卑しめられた個性を表明せんとする希望である。それ同様、幾人かの老人や子供を平然として斬り殺した経歴の所 は憎悪、狂憤、理性の昏迷、発作、痙攣にまで達するのであ有者である。ただ違うところは、彼がその犯罪を敢行するの る」 は、単なる本能や発作などではなく、はっきりした目的意識 個性の問題は、それをさらに深化してゆくと、我意の問題から出ているのであって、その目的を貫徹するためには、い にまで延長し、ついに超人哲学に高まる要素を含んでいる。 かなる障害の前にも躊躇することがなかった。彼にとって唯 自己の小さな個性を、些々たる日常事に発揮したい欲望 一なものはおのれの意志であって、そのほかのものは、法律

5. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

なる点は、ツルゲーネフによって問題にされたプーシキンの意をそらした、ともいったのである」 * ナロード 位置である。彼はプーシキンを完全に民衆的な詩人、すなわ * ナロードというのは、ロシャ語で民衆または国民という意味を持つ。ま * ナチ たナチオンは外米語であって、英語のネーションにあたる。この二つの言葉 ち独立した詩人と認めた。が、彼はさらに、プーシキンが国 は、小林秀雄の大きな関心を呼んで、この両語の間にいかなる区別を立てる 民的な詩人であるだろうか ? という問題を提出した。弁者 かを、非常な重大事とした。しかし、ナロードは純ロシャ語であるから、国 の意見によると、偉大な全世界的詩人のみが、国民的と呼ば 内的、ナチオンは外米語であるところから対外的な意味で用いられている、 といえば非常に簡単なのたが、実際においては、それはどはっきりしていな れ得るのである。なぜなら、もしもある詩人が完全にその国 い。しかし、この場合、ツルゲーネフはそのような意味で、この二つの言葉 民の精神を表現したなら、彼はそれによって偉大なる詩人で を使いわけている。 あり、したがってそれと同時に、人類の宝庫に寄与する全世 界的詩人でもある。このようにツルゲーネフは問題を提起し 「こういったようなこと、そのはか、なおそれに類似したよ た。しかし、彼がこの問題を提起したのは、それにたいするうなことは、ある人々にとって頭から気に入らなかった。こ 答えを拒否せんがためにすぎなかった。『わたしは、プーシの祝典の熱心な斡旋者の中に、ある種の不満足感、漠然とし キンがそれほどの意義を有しているとは断言しません。が、 た忌々しさ、といったようなものがひろがった。あるものは それを否定する勇気もありません』と彼はいったのである。批判的な態度でツルゲーネフの言葉を分析し、また翌日自身 この言葉は大変な騒ぎを引きおこした。中にはツルゲーネフで講演をする番に当たっている人々は、ツルゲーネフの見解 に向かって、どうしてそれを躇躊するのかと、膝詰談判をしを打破するような思想を表白しようと、張り切っていた。あ ようというものさえ現われた。というのは、彼はその講演のる人などは、早くも嘲笑的な詩を書いたものさえある。ただ ナチオン 中で、なぜプーシキンの国民的な意義を肯定する決心がっか し、もちろん、公衆の前で朗読するためではない。とはい なかったかということも、またなぜそれを否定する勇気がなえ、その翌日おこったことは、あらゆる期待と見通しを上ま かったかということも、何ひとっ口外しなかったからである。わるものであった。順序としては、ますアグサーコフが講演 なおそのほか、ツルゲーネフは、プーシキンを否定し嘲笑すをして、それからドストエーフスキイという番であったが、 る歴史的必然性をも、大いに力説した。この傾向は長いことどういうわけか知らないけれども、ドストエーフスキイが前 わが文学でつづき、つい最近ゃんだばかりである。人々はこ半に講演をすまして、アグサーコフは後半に ( この間に、ち れについても、いろいろやかましく論議した。のみならずッ よっとした休憩があった ) 登壇するということに変更され ルゲーネフは、復讐と悲表のミューズが、人々の注意を要請た。この変更は、はじめ講演者たち自身が考えたより、はる したため、自然の数として、わが偉大なる詩人から世人の注かに重大な意味を持っていたのである。・が口を切るや ナチオン ノ 86

6. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

化したので、ドストエーフスキイは比較的気候の和らかなヴ 『宿命的な問題』という論文を匿名で掲載した。これはポー ポーラン ラジーミルに転地させ、時おりその病床を見舞っていたが、 ランド事件に捧げられたもので、その要旨は、 ドと戦うには外面的手段のみによるのは不十分であって、彼それにもかかわらず、彼は再度の外遊を計画し、八月になっ らに対する勝利は精神的に証明されなければならぬ、なぜなてペテルプルグを出発した。それにはわけがあったのであ ら、ポーランドは文化的にロシャより古い歴史を持っているる。 から、というのであった。この論文は抽象的で明確を欠いて『ヴレーミャ』の投書家の中に、アポリナリヤ ( リ 。したが、十分に愛国的なものであって、検閲もそれを無事スロヴァという若い女性がいた。彼女はかってシェレメーテ に通過させたのである。にもかかわらす、かねて政府の弾圧 = フ伯爵の農奴であった男の娘で、典型的な六十年代の新し い女であった。ゲルツェンやプルードンを読んで、社会問題 方針に同調していた「モスクワ報知』が、同業者的嫉妬心も 手伝って、「宿命的な問題』にたいする激烈な攻撃文を載せに興味をいだき、婦人解放を唱導するようになった。彼女の た。これが導火線となって、ついに当局は『ヴレーミャ』の書いた傾向的な短編『どんづまり』『結婚まで』「自分の道 発行禁止を命じた。関係者をはじめとして、『ロシャ報知』を』などが、「ヴレーミャ』に掲載されるようになったが、 八六一年の秋、彼女はドストエーフスキイに、「ナイーヴ の発行者カトコフ、イヴァン・アグサーコフなどが、この発一 禁解除のために極力運動した。ドストエーフスキイは、『宿で詩的な手紙」を送った。その結果、文豪は二十も年下の寄 命的な問題』の真の論旨を詳述した一文を草して、『ペテル稿家に烈しい恋をいだくようになったのである。彼女のはう プルグ報知』に寄稿した。この弁駁文は活字にまで組まれなでも、この著名な作家の求愛をいれたが、間もなくこの恋愛 がら、ついに検閲を通過することができなかった。こうし関係を荷厄介にするようになった。翌年の夏、二人は外国旅 て、「ヴレーミャ』の復刊については、なんの見透しもっか行を申し合わせて、スースロヴァは六月頃ペテルプルグを発 オストエーフスキイは用事のために遅れたので、 ない状態であった。ツルゲーネフはこの雑誌のために、小説っこ。ド 「幻』の寄稿を約束して、その頃すでに作品もできあがってで落ち合うように約東した。しかし、スースロヴァはパリゝ 漣いた。ドストエーフスキイは彼に手紙を出して、「われわれはらドストエーフスキイに宛てて、残忍な手紙を出した。その ⅲした、と 一節に、「わたしは以前の二人の関係のために赤一ー 自分たちの雑誌がただ一時発行を停止されたに過ぎないとい 書くこともできたのですが、そんなことはきっとあなたにと 生う、一縷の期待をいだいている」といって、『幻』を他誌に って、何も珍しくないはずです。なぜって、わたしはそれを 部発表することを、しばらく待ってもらいたいと懇願している。 ・ドミートリエヴナの病気は次第に悪一度も隠さなかったし、外国へ発つ前にその関係を断とう ~ 第その頃、妻のマリヤ

7. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

一六一中日来、 ー井台罪と罰』ノオト」 ( 「劇作し一九四七年八一吉高崎徹「ドストエフスキイの生涯と作品」 (r 青年評 論』 ) 一九四八年十月 月 一六一一本多秋五「ドストエフスキイの生活について」 ( 「近代一唐木順三「ドストイ = フスキイーー・三人称世界から二 人称世界へーーー」釡叙説』第四輯 ) 一九四八年十月 文学し一九四七年十月 一六 = 古見日嘉「ドストエフスキーとシラー」釡ドイツ文学』一七六除村吉太郎「ドストエフスキーと現代」新小説し 一九四八年十月 第一号 ) 一九四七年十月 一神西清「ドストエフスキーの一季節」 (r 花し一九四一吉村善夫「ムイシ = キン公爵の生い立ち」 ( 『個性し 一九四九年三月 八年四月 一 ~ 釡竹山道雄「焼跡の審問官」 (r 新潮し一九四八年五月一大青野季吉「ドストエフスキ】と日本文学」 ( 『書評し 一九四九年六月 一六六荒正人他座談会「貧しき人々」「死の家の記録」「地下 一究村上仁「二人のてんかん思者ー・ーーフローベルとドスト 生活者の手記」 ( 『個性し一九四八年六月 エフスキー」 (r 世界人し一九四九年七月 一六七森有正「ドストエーフスキーーーー神と人間との対決」 一合鶴見俊輔「シモンズ著「ドストエフスキー』」世界評 ( 『人間美学し一九四八年八月 論し一九四九年十一月 一六〈田中耕太郎「ソロヴィョフのドストエフスキー論」 一〈一佐藤良雄「ドストエフスキー作品に於ける社会不正の 釡心し一九四八年八月 問題」開拓者』 ) 一九四九年十一一月 一六九赤岩栄「ドストエフスキー復興」思潮し一九四八 一全中田耕治「ドストエフスキイと倫理」 ( 『白痴し一九 四九年十二月 一セ 0 生島遼一「ジッドの「ドストエフスキー論』」 (r 世界文 一会中野好夫「求める神、語らぬ神ーーラスコーリニコフ 学し一九四八年九月 とスパンドレルの場合」 (r 展望』三九号 ) 一九四九年 献一七一福田裕「「自由』の問題ーーー・ヘルジャーエフの『ドスト 文 一会高坂正顕「歴史の予見ーードストエフスキイの「大審 エフスキー論』について」 ( 『思潮し一九四八年九月 問官』と現代」 (? 中央公論』 ) 一九五〇年一一月 ス一七 = 神西清「ドストエーフスキイの現実」 (r 世界文学し 一会ウラジーミル・ソロヴィョフ栗林種一訳「ドストエ 一九四八年九月 フスキーとロシャの課題」近代文学し一九五〇年一一 一七三土井虎賀寿「『罪と罰』についてのモノローグ」 ( 『思 ス 月 潮し一九四八年九月 年九月 429

8. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

ーし という、自家掃着的な課題をみずから課したに相違ない。 かも彼自身、自分は詩人であって、芸術家でないと始終いっ ている。つまり、思想や感情は独自のものを持っているけれ ど、それを適当な形式に表現する才能に欠けている、という 意味である。それはまさにそのとおりで、ドストエーフスキ イの作品から、「美しい形式」を感じ取るものは、おそらく 一八七六年十一月の『作家の日記』に発表された中編『お だれもないにきまっている。しかし、そこにはアポロ的な美 となしい女』は、ドストエーフスキイの作ロ中で、もっとも はよ、にしても、ディオニソス的なダイナミズムの美は、し たるところに洛れている。のみならず、『未成年』について芸術的に完成されたものの一つであるが、この作品の構想が いえば、この作品の主要部の一つをなしているアルカージイ熟していった経路を、われわれは『日記』の中であとづける の追憶は、きわめて繊細な抒情味に溢れ、美しい憂愁を基調ことができる。ドストエーフスキイは、ロシャで次第に顕著 になってゆく、青年の自殺という現象に、烈しい不安を感じ としている点で、ドストエーフスキイの長編としては、ユニ ーグなものであるということができる。スカビチェーフスキていた。おなじ年の五月号に掲載された『一つのふさわしか イが「未成年』を、ドストエーフスキイの作品中もっとも芸らぬ思想』と題する文章で、彼はビーサレヴァという若い産 術的なものとしたのも、ゆえなきにあらずという感じがす婆の自殺を取り上げて、この現象を論じながら、「ほんとう る。 に、近頃は自殺がはげしくなって、もうそれを口に出すもの もなくなったくらいである。ロシャの大地は、人間を支える 力を失ったようである : ・ : ・《生きたカ》や、それなくしては 一つの社会も生存ができず、また地球が立ってもゆけない生 きた生存の感清は、全体どこへ行ってしまうのか、いっこう に解せない」と慨嘆している。それから五か月の後、ドスト エーフスキイはさらに『二つの自殺』と題する文章で、また もやこの問題を取り上げた。二つの自殺のうち第一のものは 「ある非常に有名なロシャの亡命者 ( ゲルツェン ) の娘」の ニヒリスチックな自設であり、第二はペテルプルグの貧しい 第十四章おとなしい女 おかしな人間の夢 352

9. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

イはこのテーマを後年、かの「ペテルプルグの夢』の中でく り返している。そこではつつましく貧しい小役人のことが語 られているが、彼はロやかましい女房に責めつけられて、ふ いに自分はガリ・ハルジイだといいだして、気ちがい病院へ放 り込まれるのである、ちょうど『狂人日記』のポプリーシチ ンが、自分をスペインの王様と妄想して、精神病院へ入れら れたように。この小役人は新聞でガリバルジイのことを読ん「主婦』 ( 一八四七年 ) はドストエーフスキイが書いたすべて で、自分こそイタリアの叛逆者であり、海賊であり、自然のの作品を通じて、形式の未熟という意味でも、また発想の不 秩序の破壊者であると思い込んだのである。 完全さにおいても、最も大きな失敗作である。が、それと同 『プロハルチン氏』を書いた時には、叛逆者とか、自然の秩時に、初期の小説の中で、研究の対象として最も興味ふかい 序の破壊者などという思想は、作者によって明瞭に意識され作品でもある。 ていなかったかもしれないが、芸術的直感によって、おばろ まず第一に注意しなければならぬのは、この中編におい げながらこのテーマに行きあたったに相違ない。ナポレオンて、ドストエーフスキイが空想家・空想主義という問題を提 の問題は、「死の家』の経験を味わい、『ペテルプルグの夢』出したことである ( この空想主義のテーマは後に「白夜』の の試みをへて、ついに「罪と罰』のラスコーリニコフに結晶中でも、もう一度とり上げられた ) 。しかし、この問題、と されたのである。 いうより、ドストエーフスキイの創作上の一契機となった感 それからなおひとつ、このナポレオンのテーマは、『プロ想は、すでに「主婦』の発表 ( 一八四七年十月 ) に先立っ半年 ハルチン氏』の中でロスチャイルドのテーマにもつながって前 ] に、『ペテルプルグ新聞』に掲載された「ペテルプルグ年 いる。ロスチャイルドは「未成年』のアルカージイの理想で代記』と題する雑録の中で、かなり明瞭な形を取って表白さ あるが、ナポレオンにしてもロスチャイルドにしても、権力れている。この雑録は四回にわたって連載されたが、その内 の象徴である点において、根元を一にしている。一は武力で容を検討するにあたって、まずドストエーフスキイが、この あり、他は金力である。この点を指摘したエルミーロフは、貴族的・保守主義的な新聞になぜ関係するようになったか、 作さすがにすぐれた批評家といわなければならない。 その事情を考えてみよう。 一八四七年の春、長くこの新聞の雑録を担当していたグー ベルという男が死んだので、その位置がドストエーフスキイ 第四章主婦

10. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

一八七一年 ( 五〇歳 ) 第一章 ( 「市民』紙第一号所載 ) 執筆。「悪霊」第三編後半を 一月、『悪霊』を「ロシャ報知』に連載開始。三月、富裕な「ロシャ報知』十二月号に発表、完結。 叔母アレグサンドラ・フヨードロヴナ・クマーニナ死去。遺一八七三年 ( 五二歳 ) 産分配問題をめぐって親類間に不和おこる。妹ヴェーラとも二月、ミハイローフスキイ、祖国の記録』誌上で『作家の 絶縁。姪ソフィヤとの文通と絶える。三月 ~ 五月、。ハリ・コ 日記』、「悪霊』を批判。「市民』一一月十九日号、七月一一十三 ミューン。ドストエーフスキイ、否定的見解表明 ( ストラー 日号でミハイローフスキイに反論。六月、「市民』編集人ド ホフあて書簡 ) 。四月、ルレット熱さめる。七月一日、ネチストエーフスキイ、メシチェールスキイの論文聖ペテルプ ャーエフ事件の審理開始。審理経過は「政府通報』に公表。ルグにおけるキルギスの代表者たち』を無許可掲載のかどで ドストエーフスキイ、本事件の最も重要な政治文書「革命家検閲規定違反に問われる。罰金二十五ループリ、拘置二日間 問答教示書』を特にあらゆる角度から研究、公表分のデテー の判決。夏、スターラヤ・ルッサ、グリッペ中佐の別荘に住 ルとあわせて「悪霊』第二編、第三編に利用。五月、ドレスむ。七月十五日、詩人チ = ッチェフ死去。二十三日チ = ッチ 。、日、ペテルプル デンからベルリン経由で帰国の途につく エフ追悼の一文を掲載市民』三十号 ) 。七三年「作家の日 グに帰還。十六日、長男フヨードレ ノ誕生。十一月、『悪霊」記』 C 「昔の人々』 ( ペリンスキイとの交遊回想 ) 、国 第二編完結 ( 一月、二月、四月、七月、九月、十月、十一月ヴラス』、罰ポポーグ』、「小景』、『現代的欺瞞の一 号に掲載 ) 。以後約一年にわたり発表中絶。十二月末 ~ 翌年っし等所載。『悪霊』をかなりの部分にわたって改訂、単行 一月、モスグワ滞在。ベトロフスコ・ラズーモフスコ工へお本とする。哲学者ヴラジーミル・ソロヴィョフ ( 一八五三年 もむき、イヴァーノフ ( シャートフ ) 殺害現場を実地検証。生 ) 、手紙を添えて論文を送り、交遊始まる。ペテルプルグ 一八七ニ年 ( 五一歳 ) 刑務所の青少年犯罪者収容所を訪れ、浮浪児の精神状態につ 五月、スターラヤ・ルッサ ( ペテルプルグの南方約二百キロ いての資料を蒐集。 の鉱泉地 ) に旅行。以後夏を当地で送る。九月初旬、ペテル 一八七四年 ( 五三歳 ) プルグに帰還。イズマイロフスキイ連隊第二中隊の兵営敷地三月、サマーラ県の飢餓救済のための文集「醵金』公刊。ド 内の二階建の傍屋に移り住む。以後の作品はすべてここで執ストエーフスキイ、この救済運動に参加、同文集に「途上 筆。十一月、「悪霊』第三編前半をロシャ報知』十一月号小景』を掲載。二十一 ~ 二十三日、さきの検閲違反の実刑 に発表。十二月、『市民』 ( 極右系週刊新聞 ) 編集長を受諾。執行ーーセンナヤの営倉に留置される。営倉内で「レ・ミゼ 編集とともに「作家の日記」欄を受けもつ。『作家の日記し ラブル』を読む。四月、「市民』編集長辞職。五月、スター