ォルスーフィエヴナへの恋に、その精神力を集中していた分をさがしはじめる。が、彼の鼻は一個の独立した存在とな が、恋人を華やかな背景を持っ競争者に奪われたとき、つい って、堂々たる官吏の制服をつけて、馬車を乗りまわしてい に癲狂院へ送られることになった。『狂人日記』もはば同じるのである。この持主から離れた鼻は、まさにコヴァリョフ 原因のために誇大妄想狂となり、作品にははっきり書かれての分身と見なすことができる。現に、コヴァリョフが自分の いないけれども、ゴリャードキンと同様の運命をたどったら鼻の所在をつきとめるため、新聞社へ出て捜索広告を出そう しく想像される。ただし、「分身』の結末は、冷酷無惨な医としたとき、係りのものが飼大の搜索ですかときいたとき、 師の一一「ロ葉で終わっているのにたいして、「狂人日記』は主人彼は憤然としてこう答えている。 公の、「お母さん、この哀れな息子を助けてください 「わたしは大のことを広告しようとしているのではなくて、 という感傷的な叫びで結んでいる。わたしは、こういう一一「ロ葉わたし自身の鼻のことです。だから、わたし自身のこととほ が完全な狂人の口から洩れるとは、信じられない。にもかか とんど同じじゃありませんか」 しかし、ドストエーフスキイ自身よ、 わらず、エルミーロフは、『狂人日記』の中には詩があるけ 、、こ「・〔界』、がレア れども、「分身』にはただ精神病理学があるのみだ、と断定リズムの手法とファンタスチッグを見事に融合させているに している ! それよりもさらに一世紀前にべリンスキイは、 しても、この作を笑話的なものと受けとったに相違なく、こ 『分身』によって初めて芸術化された近代文明の産物、近代の中から分裂のモチーフを受け継いだとは考えられない。そ 都会の生んだ現象を、いとも簡単に否定したばかりか、嘲笑の証拠には、自作の短編『鰐』の創作動機を弁明した一文 せんばかりであった。ところが、ドストエーフスキイは、こ「個人的のこと』 (r 作家の日記』一八七三年 ) の中で、次のよう れを科学の反面である文学によって、大きく肉づけしたのみにいっている。 ならず、かかる現象にたいして人類的な悲哀をいだき、これ「わたしはゴーゴリの短編「鼻』を真似て、ひとっファンタ スチッグな物語を書こう、と思いついた。わたしはまだファ を絶滅せんことを、おそらく無意識に念願したのである。 ロシャ文学において、自己分裂のモチーフは、ゴーゴリのンタスチックなものを書いたことがなかった。それはたた読 品〔。鼻』から出たといってもよかろう ( 断わっておくカ 、はた者を笑わせるための、純文学的な悪戯なのであった。実際、 してゴーゴリがこの短編で、このモチーフを思想的に取り上ある滑稽なシチュエーションが浮かんだので、わたしはそれ 作げたかどうかは、疑問である ) 。『鼻』の主人公のコヴァリョを展開させたかったのである」 ( ここで注を入れておくが、 部フも、一種の自己分裂者であった。理髪師の誤ちで鼻を切り この場入口ドストエーフスキイのい、フファンタスチッグは、現 第取られた六等官コヴァリョフは、半狂乱で自分の肉体の一部実の中に時として感じられる幻想的なものでなく、真の現実 、一ム々」 2 ! 5
りたいと念願する。たとえば、彼はある日、出勤日であるに いるような気がした。彼は自分の高潔を口癖のようにいって もかかわらず、貸馬車を雇って、街なかを乗りまわしている いるが、しかも競争者である第二のゴリャードキンを傷つけ と、自分の課長に出会う ( これは物語のはじめのほうの出来ようと、やっきとなっている。第二のゴリャードキンは、第 事である ) 。そのとき彼は、腹の中でこんなことを考える。 一のゴリャードキンの中に隠れているいっさいの卑しい、陋 「名乗りを上げたものか ? それとも、おれではなくて、だ劣なものを具象している。それはスタヴローギン ( 「悪霊しが れかとてもよく似た別の人間みたいなふりをしようか ? ま猿といってののしるピヨートル・ヴェルホーヴェンスキイ、 さにそのとおり、おれではないんだ、おれではないんだ、そイヴァン・カラマーゾフのアルター・エゴであるスメルジャ れつきりの話さ」と彼は独りごっ。 コフの、最初の萌芽ということができる。第一のゴリャード こうして、外部世界にたいする恐怖と、それをのがれようキンは、第二のゴリャードキンを摘発し、暴露しているうち とする一心のために、「自分」と、「自分によく似た人間」と 、この陋劣な憎むべき敵が、ほかならぬおのれ自身である いう観念が生まれて、そこから徐々に自己分裂がはじまり、 ことに、悲しくも思いあたらなければならなかった。 この観念が次第に生長して、ついに第二のゴリャードキンの「分身』は、一八六五年、ステローフスキイ版の著作集に収 形象に肉体化されたのである。 録されたとき、「ペテルプルグの叙事詩』という副題がつけ ふえっ 後年の「地下生活者』も、自分自身の中に閉じこもってい られ、「祖国雑誌』に発表されたテキストに大斧鉞が加えら る間は、オリジナルな人間であり、独得な強者であるけれどれた。流刑から帰った後のドストエーフスキイは、この作品 も、一歩、現実世界へ踏み出すと、なんの意味もない、哀れに大きな価値を認めて、これを根本的に改作しようという意 な、むしろ滑稽な存在になってしまう。ゴリャードキンもそ図を、たえずいだきつづけ、そのプランを時々ノートに書き れと同様に、自分の地下の世界では、おのれ自身の秘密の感つづけたが、長年にわたるこの願望は、ついにはたされなか 情で生きている。猜疑心の反動から生じた自尊心は狂的なほ った。とまれ、ドストエーフスキイがこの作品に、二十年た どで、野望は方図もなくひろがっていくのであるが、実現さ ってから『ペテルプルグの叙事詩』というサプタイトルを付 れない願望は結局、イデー・フィックスとなり、追跡恐怖症したのは、青年時代にはっきり自覚しなかった社会的意義 となって、最後は精神病院行きで終わらざるを得なかった。 を、具体的につかむことができたことを、証明するものであ 作ゴリャードキンはありとあらゆるものを疑い、何びとをも信ると思う。 部じない。彼はたえず、自分が強力な敵に囲まれていて、いた晩年のドストエーフスキイはしばしば、「ロシャ歴史の・ヘ 第るところ策略と奸計に充ち、恐ろしい陥穽が自分を脅かしてテルプルグ時代」ということをくり返したが、『分身』を『ペ 幻 7
れがその眼識を持ち、だれがその実力を有するかにあるの見、あらゆることを聞く神のごとき存在であるから、この形 だ」まさしくドストエーフスキイの非凡な目は、わすか数行式もあながち「空想的な」ものといいきることはできない。 の三面記事から、一つの深刻な悲劇を創造したのである。 それはともかくとして、愛する妻の変死のために逆上して、 しかし、ドストエーフスキイの芸術の独自性は、貧しい失自殺の原因を突きとめようとしている不幸な男の、しどろも 業者の自殺という社会的なテーマを、心理的な面へ移したと どろな、矛盾にみちた言葉をそのまま再現しながら、男女間 いうことに、はっきりと観取されるのである。貧しい若い娘の複雑きわまる葛藤を詳かに描き出した点において、この小 のモチーフは、単に物語の発端に利用されただけであるが、 さな中編はドストエーフスキイの創作の中でも、他に比類の ないものといわねばならない。 同時に、聖像を抱いての投身は、動かすべからざるフィナー レとして、最初から予定されていたに違いない。 この発端と この独白形式は、欧米の近代文学にも広く普及したけれど 終末をつなぐ線を注視することによって、ドストエーフスキも、欧米におけるこの種の作品は、主人公の精神生活を混沌 イの芸術の秘密が、部分的にもうかがえるように田 5 われる。 たる意識の流れに帰結してしまう傾向があり、主人公はおの 作者はおとなしい女の運命を決定する人物として、「地下生れの感覚の迷宮をさまよいながら、常に受身の立場におかれ 活者の手記』の主人公を思わすような、自己に集中した、気ている。それに反して、ドストエーフスキイの主人公の精神 むずかしい、 ヒボコンデリッグな男を設定した。このことに 生活は、エネルギーとドラマチズムにみちている。彼らは受 よって、作品の中心はおとなしい女から男のほうへ移り、物動的におのれの感覚の流れに身を任さず、極度に意志を緊張 謐は独白の形式を取ることになって、彼女の生涯は、男の追さして、解決の道を発見しようと努める。『おとなしい女』 憶として伝えられることになったのである。 の主人公もその一人で、彼の独白は自分自身との絶え間ない 「おとなしい女』には、「空想的な物語』という副題がつい ポレミッグということができる。彼はおのれの行為の意味を せんめい ている。作者は序文の中で、物語自身はもっとも現実的なも闡明しようと努めながら、おのれの内部に潜むエゴと、自分 のと考えるが、空想的なものはその形式に含まれている、との外部的行為の矛盾に突き当たる。この独自なる表現形式の 説明している。というのは、主人公の独白が手記でなく、完跡をたどりながら、読者は彼の悲勹 環の複雑さを感得するので 全な意味における独白であって、もしだれか物陰に姿を潜めある。 ていて、速記でも取らないかぎり、この独白を文字にとどめ「おとなしい女』の夫は「傲慢の夢」をいだいていた。彼は ることは不可能だからである。しかし、作家は本質的に、自『地下生活者』とおなじように「滑な性格」の持主で、そ 分の作品に関するかぎり、随所に遍在して、あらゆるものをのためにかって人に好かれることがなかった。彼はある些細
ゴリャードキンはおのれ自身の生活の空虚を感じて、限り凅 に存在しない荒唐無檮をさしているのである ) 。 要するにドストエーフスキイは、「鼻』から笑話的な要素ない孤独の世界へ逃避してしまう。それから、自分自身との を除去して、この作から直感した自己分裂のテーマを取り上もの狂おしい闘争がはじまるのである。彼は自分が独立不覊 げて、『分身』という鬼気せまるような作品を書き上げたのの人間であって、他の何びとでもない独自の個性を持った人 である。 取りかえることも、すりかえることもできぬ人間で あることを、だれよりもまず自分自身にたいして、証明した かくしてドストエーフスキイは、『狂人日記』のポプー しかし、それは単に空しいあがきであり、 シチンの発狂、「鼻』のコヴァリョフの分裂という二つのテくてたまらない。 ーマを総合して、先師をはるかに凌ぐ思想的な作品を創造し何ものにも触れることのできないからまわりに過ぎない。ゴ た。彼は自分の鋭い感覚と知性をもって、ゴーゴリの幻想的リャードキンはただ自己を他人から隔離することによって、 な作品の蔵する魅力を分析し、その思想を深化し、現代化しおのれの個性を救おうと必死なのである。それは生命の糧の たうえ、どうしてこのような現象が起こるかを示したのであない地下に潜んだ鼠を連想させる。その意味において、彼は る。 最初の地下生活者であるともいえよう。しかし、ドストエー ( 則にもしったよ , っこ、・ コリャードキンが野望と自卑の門 フスキイが後年創造した「地下生活者』が、孤独の空想か を、振子のように動揺したのは、内在的資質によることもむら、不敵な哲学を生み出したのに反して、ゴリャードキンの ろんであるが、外界の影響も大きな役割をつとめている。彼空想はついに狂気に終わったのである。 「おれはこういいたいのだ。おれは自分の道を進んでいる。 は幻想的なペテルプルグに住み、大きな官庁に勤務して、書 類の間に埋もれ、上官の譴責、同僚間の反目、嫉視、競争、おれは特別なのだ、だれの世話にもなっていない。おれはお 陥穽、といったような環境の、忌わしさ、醜さを身にしみてとなしい人間だ。おれの道は人とは別なのだ : : : おれはだれ 感じつづけた。そして、自分というものが、国家という巨大のことも知らない。だから、おれにさわってもらうまい。お な、妖怪めいた機械の小さな歯車にすぎないことを、ひしひれも諸君にさわりはしない。おれは別ものだ」とゴリャード しと思い匁った。。 コリャードキンのような下級官吏は、官僚キンは豪語する。 しかし、この「おれは別ものだ」は、強者の宣一言ではなく 制度の苛酷さによって、人格さえも奪われてしまうのである。 とくの昔に個陸を踏みに この世界に住んでいると、人間は人間としての価値を失って、て、臆病者の無力の声でしかない。 そこでものをいうのはただ官等ばかりである。人間同士の関じられたゴリャードキンには、おのれを守り通す力がなかっ 係は機械化され、人間自身が物と化してしまうのである。 た。時おり彼は生活にたいする恐怖のために、消えてなくな
かったからである。イヴァンは、凶行を予知しながら父の家お蝋燭を供えることだ : : : そのときこそ、ばくの苦痛は終わ を去ったということ、ただそれ一つだけによっても、たとい りを告げるのだ」。常に抽象的な論理の世界に住んで、はっ フヨードルを殺したのがスメルジャコフでなく、ドミートリ ることなき知的構築をくり返しながら、しかも最後的な解決 イであったとしても、彼は共犯の罪をまぬかれないのであに到達することのできないイヴァンは、素朴な信仰に安息を る。ましてや彼には理論的・頭脳的な興味ばかりでなく、遺見いだしたい欲求を、みずからそれと知らずして、心の底に 産分配の件についても、少なからぬ関心をもっていたとい 秘めていたのである。この意識せずして信仰を求めるこころ う、スメルジャコフの指摘も、意識下心理としてあり得たこ は、亠ー兆キロメ 1 ートル の空間を歩みつづけて、ついに天国の とと考えられるにおいてをや、である。 門へ入った無神論者の哲学者についての逸話にも、うかがう スメルジャコフとの三度目の面談レ こよって、父を殺した真ことができる。 犯人はこの私生児の下男であって、自分も共犯者たることを信と不信との間に分裂したイヴァンの急所をとらえるため 認めざるをえなかったばかりか、あるいはむしろ、スメルジ 、悪魔は相手に自分の現実性を信じさせようと努める。も ヤコフの主張するとおり、主犯でさえあるかもしれないとい しこの無神論者が悪魔の存在を信じるならば、彼の実証的世 う疑惑さえいだかされたイヴァンは、その夜おそろしい夢魔界は崩壊してしまうことになる。イヴァンは命がけの力をふ に悩まされる。この悪魔との対話の場面は、『大審問官』のるって、悪夢と戦いつづけ、憤怒にあえぎながら悪魔に叫ぶ 章と並んで、この長編の圧巻であるばかりでなく、ドストエー のである。「ばくは一分間だって、お前を実在のものとは思 フスキイを俟ってはじめて見ることのできる、真に偉大な天やしないよ。お前は虚偽だ、お前はばくの病気だ、お前は幻 才的創造である。このみすばらしい食客紳士の姿をした悪魔 だ : : : お前はばくの幻覚なんだ、お前はばく自身の化身だ。 は、大審問官の場合とおなじように、ほとんど全章を自分のしかし、ただばくの一面の化身、いちばんけがれた愚かしい 独白で充たしながら、イヴァン自身の意識下にひそんでいるばくの思想と感情の化身なんだ」。こう判断しながらも、や 思想や、感情や、苦悶を、さめているときには思いもよらぬはり彼はあたかも悪魔が実在のものであるかのごとく、この 品ような警抜独自な形式で、くりひろげて見せるのであった。 忌わしい夜の訪問者をなぐろうとして、椅子からおどりあが い魔はい , つ。「ば / 、は : : この地上では迷信ぶかくなる : ったり、蹴とばすといって威嚇したり、カまかせにコップを投 作 ばくの夢想してるのは、七プードもあるでぶでぶ肥った商家げつけたりせずにいられない。悪魔が姿を消した後も、彼は うわごと 部の内儀に化けることだ : : : そういう女が信じるものを残らずスメルジャコフ自殺の報をもたらしたアリヨーシャに譫言の 信じたいんだ。ばくの理想は会堂へ入って、純真な心持ちでようにロ走るのであった。「いや、いや、いや ! あれは夢
が、『分身』ではそれが何かなみなみならぬものとして、す第にマニヤの形を取ってゆくが 、しかし彼は控え目な性質 べての読者に感知されたのである。なるはど、彼は直接ゴー で、ある程度潔白でもある。彼にはよい意味の自尊心がある ゴリの『狂人日記』にヒントを得たに相違ない。そして、こから、他人を押しのけても前へ出ようという、厚顔な出世主 の先師のプリミテイミズムやグロテスグの手法を踏襲しなが義者とは大きな隔りがある。そのうえ彼には、機に臨んで適 ら、ゴーゴリの夢にも想像しなかったような、尖端的心理小 宜な行動を取り、巧みに相手の心理をつかむという社交的な 説の領域に突入したのである。これに比べると、ゴーゴリの才もない。 しかも、虚栄心と野望は、自己の主張を放棄しな 『狂人日記』は、いかにエルミーロフがその逆を力説するに いのである。このあくなき野望に悩まされながら、同時にそ しても、芸術的完成味の点では分身』よりはるかにすぐれれを達成する資質の欠乏を意識するところから、彼は次第に ていることを別として、内容の大きさ、深さという点では、 強度の神経衰弱に陥っていって、やがて完全な分裂症とな しよせん比較にならないのである。 り、ついには幻視、幻聴にまで進むのである。ゴリャードキ ゴリャードキンの発狂は自己分裂からはじまる。このテー ンが発狂に至るまでの経路が、いかに正確に描破されている マはすでに「貧しき人々』に暗示されていた。前にも述べた かは、精神病理学者のチージュが証明している。 とおり、ジェーヴシキンの中には、自己卑下とプライド、忍「分身』の主人公の、しよせん達することのできない野望 従と反抗がたえず相剋していた。しかし、彼はこの世に存在は、彼の幻覚でしかない第二のゴリャードキンという形をと する貧富の差を見、現在の社会組織の不公平を感じても、そって現われた。この分身は、現実のゴリャードキンの持た れに向かって敢然として闘おうというほどの強さはなかっぬ、あらゆる資質と才能を有しているのである。事務上の要 た。彼の理想は、貧しいには貧しいながら、人間としての体領、世馴れた社交的手腕、上官に取り入る才能、競争者を蹴 面を保つこと、ということであった。したがって、彼の二重落とす容赦のなさ、 これらすべては、第一のゴリャード 性は軽度のもので、烈しい相剋を内部に蔵していず、分裂とキンの心に、 焦躁と憤怒を呼び起こす原因となる。第一のゴ までいっていない。ところが、「分身』となると、そこに大 リャードキンは、おのれの分身を実在のものと信じて、これ きな差異が感じられる。 に嫉妬したり、これと争ったり、時にはこれに諂ったり、時 ゴリャードキンを動かしている・ハネは、虚栄心であり、野には和睦を申し込んだりする ( しかし、和睦はあり得ない。 望であり、出世欲であり、たとえ規模は小さいにしても権力なぜなら、ゴリャードキンは自身の分身の本体である野望 にたいする渇望である ( こうした要素は、ジェーヴシキンにを、意のままに切り離すことができないからである ) 。 はまったくない ) 。この野望はゴリャードキンの内部で、次 一 : っして、ゴリャードキンは・出世「とつながったグララ・ 幻 4
と感じていた。 ドストエーフスキイは、自分の性格と生涯をある程度規定たしは何かの啓示を耳にするにちがいない、 したこの癲に当然ながら深い関心を示して、自分の作中とふいに、彼の開いたロから恐ろしい無意味な響きが長々と リン、洩れて、彼は部屋の真ん中の床に、意識を失って倒れた。そ の諸人物にこの病いを賦与した。まず『主婦』のムー 『虐げられし人々』のネルリ、『白痴』のムイシュキン、『悪の時の発作は強いものではなかった。ただ痙攣のために全身 霊』のキリーロフ、『カラマーゾフの兄弟』のスメルジャコが硬直して、ロの両隅に泡があらわれただけである。三十分 フがそれである。なかんずく、ムイシュキンとキリーロフは、 の後、彼は意識を回復したので、あまり遠くない住居まで送 って行った。フヨードル・ミハイロヴィチはよくわたしに舌 発作直前の恍惚感、もしくは天国に近い三昧境と、それにつ づく堪えがたいほど苦しい痴呆感と虚脱感を、前人未到の精したことだが、発作の前には有頂天の瞬間がやって来るので ある。『はんのわずかな刹那』と彼はいった。『わたしはなん 密さで描写している。しかし、われわれはもう少しストラー ともいえぬ幸福を感じるのです。それは普通の状態ではあり ホフの語るところに耳を傾けよう。 「わたし自身もある時、その実見者となったが、・の発得ないもので、ほかの人は想像もできません。わたしは自分 イ。。に烈しいものである。それはおそらく一 八六三年、ちの中にも全世界にも完全な調和を感じます。しかも、その感 ようど復活祭の前夜だったと思う。夜おそく十時過ぎに、彼じが実に強烈で甘美なので、こうした数瞬間の三眛境のため には、十年、いやおそらく、全生涯を捧げてもいいくらいで はわたしの家へ寄った。で、わたしたちはひどくはずんで話 し込んだものである。それがなんの話かは思い出せないけれす』。発作の結果は、時として倒れた拍子に偶然できた打身 ども、 くらいなものであるが、それと同芋こ、」、 Ⅱ冫烈しいに甚えた に重大な、抽象的な話題であったことは覚えてい ために生じる筋肉の痛みが伴なった。まれには顔が赤くなっ る。・はひどく興奮して、部屋の中を歩きまわっていた たり、時としては斑紋が生ずることもあった。しかし、何よ が、わたしはテープルの前に腰かけたままであった。彼は何 りも主なことは、彼が意識を失って、二日も三日も打ちのめ か高遠な、喜ばしいことについて話していた。わたしが何か されたような感じになるのであった。そういうにの「イに の感想を述べて、彼の思想に賛意を表したとき、彼はインス 涯ビレーションに充ちた顔つきで、わたしのほうへ振り向いたは重苦しく、彼は自分で自分の憂悶と鋭い感受性を、ほとん が、それは彼の感激が極度に達したことを示していた。彼はど持てあますほどであった。この憂悶の特性は、彼の言葉に 生自分の思想のために言葉を探るかのように、一瞬あゆみを停よると、自分が何かの犯人のように感じられることで、自分 部めて、もうロを開いていた。わたしは注意を緊張させて彼をでもわからない罪、偉大な悪行が、重石のようにのしかかっ 第見つめながら、これは何か異常なことをいうに相違ない、わているような気がしたのである」 ノ 17
ているのに、ドストエーフスキイは万人の眼前で、ゴーゴリ の句をパラフレーズし、それどころか、丸ごとくり返してい る」とまで極言したものである。 なるほど、表面的に見ると、部分的にはそのとおりである ことはいなめない。一例を挙げると、ゴーゴリの「鼻』に次 のような一節がある。 「とっぜん、彼はある家の戸口で、釘づけにされたように立 ドストエーフスキイはその第二作「分身』 ( 一八四六年 ) に おいて、「貧しき人々』では単に暗示を与えたに過ぎなかっち止まった。彼の眼前で、名状すべからざる現象が起こった た二重人格、自己分裂のテーマと、真正面に取り組んだ。しのである。一人の紳士が背を屈めて飛び出し、階段を駟け昇 った。それが自分自身の鼻であると知った時、コヴァリョフ かも、『ペテルプルグの叙事詩』と副題を付したこの作では、 冫 + 。しかはかりであったろう」 大都会の幻想性が大きな全体の背景となっているのであるの恐怖と、同時こ驚咢よ、 ところで、『分身』のはうを見ると、故意か偶然か、いす ( ただし、発表の時の副題は『ゴリャードキン氏の冒険』で あったが、 一八八七年のステローフスキイ版で、現在のごとれにしても、驚くばかりの類似が発見されるのである。 「名状すべからざる不安をいだきながら、彼はあたりを見ま く改称された ) 。「分身』も処女作と同様に、ふたたびゴーゴ リの世界が取り上げられている。ここでもおもな舞台は役所わしはじめた。彼は釘づけにされたように立ち止まり、身ぶ であり、登場人物は官吏であり、閣下である。そして、それるいし、じっと目を据えたが、驚愕と恐怖のために、あっと らの人物は、ゴーゴリ的グロテスクの手法によって、人形芝叫んだ。彼は足がへなへなしてきた。それがかの見知らぬ通 居めいた感じで描かれている。要するに、作者は依然として行人だったからである」 これは単に一例であって、こうした語句の類似はいたると ゴーゴリの魅惑から脱し切れないでいるが、同時にその克服 ころに指摘される。そのほか、抒情詩的な挿入、皮肉を内に をも執拗につづけているのは、「貧しき人々』の場合とおな じである。ただし、当時の批評家は、そこにゴーゴリの模倣秘めたわざとらしい咏嘆法の用い方、などといったような文 のみを認めて、それに対する叛逆を感取しなかった。コンス体上の手法も、ゴーゴリから来ていることが一目瞭然である。 この小説に非常に大きな抱負をいだいていたドストエーフ タンチン・アグサーコフは、 「どうしてこの小説が出現し得たのか、われわれは了解にくスキイにとって、もっとも手痛い打撃は、冗長という異ロ同 るしむ。全ロシャがゴーゴリを知り、ほとんどそれを暗唱し音の非難であった。そこには、似通った事件の反復のほか、 第二章分身 幻 2
から日が射し込んで、あたりは清らかで、美しく、居心地が に、ズボンを質に置いているのに、どうして創作などができ よかった。彼は自分自身をも清らかな、尊敬に価するものと るものですかー なに、小生や小生の飢えなんか、どうだっ てかまいません。しかし、妻はなにしろ赤ん坊に乳を飲ませ感じた。彼の体ぜんたいに、満足と平安の感覚が浴れてい ているのですから、あれが自分の暖かい毛織のスカートを持た。彼はしんからの享楽主義者なので、肉体的満足感の快い いったいどんなも状態を、少しでも楽しむために、起床をぐずぐずしていた。 って、自分で質屋へ行っているとしたら、 のでしよう ! しかも、ここではもう昨日から雪が降ってい眠りと目ざめの間にいながら、彼は最近の外国旅行に関連し た、さまざまな美しい瞬間を、心の中で反芻していた。彼は るのですから ( うそではありません、新聞で調べてくださ ミュンヘン画廊の聖ツェッィリヤのあらわな肩に落ちてし い ) 」 しかし、その二百ループリは無事に届いて、彼は『ザリヤる、魅惑的な一条の光線を、ふたたび目の前に見るのであっ ストエーフスた。それから、近ごろ読んだ『世界の美と調和について』と ー』のために、「永遠の夫』の稿を進めた。ド いう本の中の聡明な一句が、またもや記憶に浮かんできた」 キイの作品の中で、最も均斉のとれた見事な中編は、『ザリ とふいに、央適な空想や反芻の最頂点で、彼はなにかしら ャー』の一八七〇年の一・二月号に掲載された。この名作に ついては、アンナ・コルヴィン日クルコーフスカヤの妹、ソ不快な内部の痛みを感じた。漠とした追憶である。古い傷か フィヤ・コヴァレーフスカヤが、その思い出の中で次のようら弾丸の抜き取られていない人々は、よくそういうことがあ 八六六年、ドストエーフスキイはある時コる。四、五分まえには、いささかの苦痛もなかったのに、と に語っている。一 ルヴィンⅡグルコーフスキイ家で、ある長編の一場面を物語っぜん、古傷がうずき始めて、ずきずきするのだ。これはど った ( 作者自身はストラーホフへの手紙で、この中編の構想うしたことだろうと、地主はいろいろと考えはじめる。何も は兄の死んだ年にさかのばると書いている。つまり一八六五痛むところはない、なんの悲しみもない。にもかかわらず、 年である ) 。コヴァレーフスカヤはこの場面を次のように述なにかしら心臟をいよいよ強くしめつけるものがある。つい に彼は察しがついてきた。そこには何かの追憶があるのだ。 べている。 「主人公は中年の地主で、立派な繊細な教養を身につけ、外彼は記憶力を緊張させているうちに、たしかに思い出した。 国で暮らしたこともあり、すぐれた書物を読み、絵や版画をしかも、それがいかにも生き生きとして、現実的なので、ま 買っている。若い時には放埒な生活を送ったが、その後いくるでそれが二十年まえでなく、つい昨日の出米事であるかの らかまじめになり、妻と子供らに一身を捧げ、人々から尊敬ように、彼の入、仔在が烈しい嫌悪を感じた。その二十年門 この出来事は彼にいささかの不安を感じさせなかったの されるようになった。ある朝、彼は目をさました。寝室の窓
テルプルグの叙事詩』と称したのも、この思想につながってあった。その後、十五年たって、うんと直したけれど、その しるレオ違なし前にも述べたとおり、ペテルプルグはビョ時もこの作品がまったくの失敗作だということを、ふたたび ートル大帝が新しく攻略したフィンランドの一地方に、西欧確信した。もしいまわたしがこの着想を取り上げるとした へ直通する海港の条件を備えているという、ただそれだけのら、ぜんぜん別の形式を与えたであろう」 理由によって、不適当な地形上の条件をもいっさい無視し、 一八四六年ドストエーフスキイが「分身』の筆を執った時 あらゆる困難を排除して、古い伝統的なモスグワとは似ても分は、ゴーゴリの自然主義的な手法からまだ脱却しきれなか 似つかぬ、西欧ふうの近代都市を現出したのである。その結ったため、レディーメードの形式に新しい内容を盛った。っ 果として、民俗の自然的進化を無視する、強制的な西欧文明まり、古き皮袋に新しき酒を入れたわけである。しかし、ゴ ーゴリの喜劇的なグロテスクのジャンルは、ドストエーフス の輸入がおこなわれ、それに伴なう小不ンテリの悲劇がし たるところにくりひろげられた。それを最初に芸術的形象にキイの本質にはるか遠いものであった。 うち出したのは、プーシキンの『青銅の騎士』である。しか 流刑から帰ったドストエーフスキイは、新しい思想的・心 し、『青銅の騎士』は直接的なテーマも、『分身』とは異なっ理的ロマンの分野を開拓しようと志した。一八五九年、彼は ているし、叙事詩という形式の制約もあって、精細な心理分トヴェーリから兄ミハイルへ宛てて、「分身』改作のプラン 析や芸術的批判は、深く底のほうに秘められている。それにを報告している。 反して『分身』は、心理分析の面においては、ロシャ文学に「十二月の中ごろには、『分身』に手を入れたのを送ります。 おいて、最初の驚異的現象であった。主人公のゴリャードキ ・ : 誓っていいますが、この序言っきの改訂版は、まったく ンは、単に地下生活者のみならず、『悪霊』のスタヴローギ新作というべき価値があります。彼らもついに、「分身』が : 最 ~ に、もしいま「分 ン、『未成年』のヴェルシーロフ、イヴァン・カラマーゾフなんであるかを悟るでしよう ! : ・ の先駆者として、ドストエーフスキイの創作において、最初身』を改訂しなかったら、いっそれをする時があるでしょ の大きな道標の役をつとめている。ドストエーフスキイ自身う ? なぜばくはあの素晴らしい想を、ふいにしなくちゃな も、その意義を自覚して、一八七七年の「作家の日記』で、 らないのでしよう。あれは社会的な重要性からいって、じっ こんなことをいっている。 にたいした典型で、ばくがはじめて発見し、宣伝したもので 「この小説は断然失敗であったが、その着想はかなり立派なす」 もので、あの構想以上にまじめなものは、わたしもかって文 この改作「分身』はついに完成されなかったが、一 学の中へ導入したことがない。が、形式はぜんぜん不成功で年頃とおばしきドストエーフスキイの創作ノートの中に、明 幻 8