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検索対象: ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究
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1. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

イはこのテーマを後年、かの「ペテルプルグの夢』の中でく り返している。そこではつつましく貧しい小役人のことが語 られているが、彼はロやかましい女房に責めつけられて、ふ いに自分はガリ・ハルジイだといいだして、気ちがい病院へ放 り込まれるのである、ちょうど『狂人日記』のポプリーシチ ンが、自分をスペインの王様と妄想して、精神病院へ入れら れたように。この小役人は新聞でガリバルジイのことを読ん「主婦』 ( 一八四七年 ) はドストエーフスキイが書いたすべて で、自分こそイタリアの叛逆者であり、海賊であり、自然のの作品を通じて、形式の未熟という意味でも、また発想の不 秩序の破壊者であると思い込んだのである。 完全さにおいても、最も大きな失敗作である。が、それと同 『プロハルチン氏』を書いた時には、叛逆者とか、自然の秩時に、初期の小説の中で、研究の対象として最も興味ふかい 序の破壊者などという思想は、作者によって明瞭に意識され作品でもある。 ていなかったかもしれないが、芸術的直感によって、おばろ まず第一に注意しなければならぬのは、この中編におい げながらこのテーマに行きあたったに相違ない。ナポレオンて、ドストエーフスキイが空想家・空想主義という問題を提 の問題は、「死の家』の経験を味わい、『ペテルプルグの夢』出したことである ( この空想主義のテーマは後に「白夜』の の試みをへて、ついに「罪と罰』のラスコーリニコフに結晶中でも、もう一度とり上げられた ) 。しかし、この問題、と されたのである。 いうより、ドストエーフスキイの創作上の一契機となった感 それからなおひとつ、このナポレオンのテーマは、『プロ想は、すでに「主婦』の発表 ( 一八四七年十月 ) に先立っ半年 ハルチン氏』の中でロスチャイルドのテーマにもつながって前 ] に、『ペテルプルグ新聞』に掲載された「ペテルプルグ年 いる。ロスチャイルドは「未成年』のアルカージイの理想で代記』と題する雑録の中で、かなり明瞭な形を取って表白さ あるが、ナポレオンにしてもロスチャイルドにしても、権力れている。この雑録は四回にわたって連載されたが、その内 の象徴である点において、根元を一にしている。一は武力で容を検討するにあたって、まずドストエーフスキイが、この あり、他は金力である。この点を指摘したエルミーロフは、貴族的・保守主義的な新聞になぜ関係するようになったか、 作さすがにすぐれた批評家といわなければならない。 その事情を考えてみよう。 一八四七年の春、長くこの新聞の雑録を担当していたグー ベルという男が死んだので、その位置がドストエーフスキイ 第四章主婦

2. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

よ : ていない ) 、彼の空想は、グレオパトラ、ヴァルトロメイの この空想主義の定義の中には、後年ドストエーフスキイが夜、ディアナ・ヴェルノン、イヴァン雷帝、ダントン、ペレ 吐いた有名な一一一一口葉、ファンタスチッグとあい境する現実主義ジナ河の戦闘、などといったような歴史上の種々様々な事件 という、彼の芸術の根本を喝破した思想が、ここに早くもそ に集中する。要するに、人類、人間の運命が、彼の思索の大 の萌芽を示している。それを見のがしてはならない。 きな部分を占めているのである。その意味で、彼はオルディ し、ドストエーフスキイは、自分の空想への沈潜にたいし ノフの発展であり、生長であるということができる。 て、反省の言葉を発している。『白夜』の主人公はいう。 『白夜』の主人公は、「弱い、い』のヴァーシャ・シュムコフ 「生活は夢でも幻でもない。永久に更新せられる若々しい生のごとく、かりに下級官吏とはなっているけれども、まさし 活で、その一刻一刻は互いに少しも似かよっていない。とこ く文学者であり、作者自身である。この主人公の性格の独自 ろが、臆病な幻想は憂鬱で、俗悪なほど単調なのです。それ性は、彼が真の地下生活者でないということである。彼が自 は影の奴隷です、理念の奴隷です : : : とどのつまり、不断の分の片隅へ閉じこもったのは、傲慢な人間侮蔑のためでな く、はにかみが原因なのであって、心情は単純素朴で、愛に 緊張のために幻想は疲れてしまいます。この尺、きることなき 幻想が涸渇してしまうのです。だって、なにぶんにも、自分たいする欲求が、彼の生活の大きな動力となっている。 『白夜』の題材とテーマこま、 冫。いくらか「貧しき人々』と丑ハ がたえず生長して、以前の理想を脱皮してゆくからです」 ドストエーフスキイは、おそらくこういおうとしたのであ通なものが感じられる。両者ともおなじく、報いられざる恋 ろう、 空想は自己に沈潜することを助け、自己の掘り下にもかかわらす、恋人の幸福のために、おのれの悲しみを克 げを深め、形而上的な ( この言葉は肯定的な意味で用いてい 服しながら、できるかぎりの努力を払うのである。しかし、 るのである ) 思索を強化してゆくと同時に、生きた生活、すそのフィナーレには大きな相違がある。「貧しき人々』のジ なわち外的現実から遊離させて、人間を大地から足の浮いた エーヴシキンの最後が、疑いもなき破滅であるのに反して、 存在にする惧れがあるからである。この最も顕著な例は、。 へ「白夜』の主人公には、ドストエーフスキイにおけるごとく、 テルプルグの屋根裏の住人の一人であったラスコーリニコフ洋々たる前途が感じられる。女主人公のナスチェンカが、最 である。 後の宣言を下した時にも、彼は決して絶望することなく、恋 「白夜』の主人公は、「主婦』のオルディノアと同じく、孤人の将来を祝福している。 」に ( しかし、その 独の中に住みながら恋にあこがれるとい 「どうかお前の心の空の晴れやかであれかし、お前の愛らし 亦いはオルディノフと正反 ' 冫しささ力も午な陰を有し い微笑の明るく穏やかであれかし、またお前自身、愛の三眛 240

3. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

になりました。共同の總というものは、これくらい大きいのた未来の掟と考えられていたのである。われわれは一八四八 です ! 」またさらに、「共同ということが何かわかるでしょ年のパリ革命よりもよほど前に、こうした思想の魅惑的な感 化に捉われていた」 う ? われわれが別々に働いたら、倒れたり、臆したり、精 一八四六年の春、彼は詩人プレシチェーエフの紹介によっ 神的に貧困になったりしますが、二人が同じ目的のために一 つになると、これは話が別になります」 て、プタシェーヴィチ・ベトラシェーフスキイと相識になっ た。このベトラシェーフスキイというのは、大学出の若い外 ロマンチックな理想主義から社会主義へ移るのは、ドスト リーロフという匿名のもとに出版し エーフスキイにあっては、じつに自然なことであった。彼は務省官吏であったが、キ ジョルジ た『外来語辞典』によって、進歩的な人々の間に名を知られ 早くから黄金時代の到来を空想して、ユーゴー ュ・サント ・、パルザッグなどに体現されている新しいキリスるようになった。「外来第辞典』は彼一人の仕事ではなく、 ト教的芸術は、世界を更新し、人類に幸福をもたらす使命を数人の仲間の共同執筆にかかるもので、批評家のヴァレリア 右している、と信じきっていたのである。そこで彼は、サン・マイコフなどは、もっとも多くの項目を分担したといわ ン・シモン、フーリ 工、プルードンなどの空想的社会主義れている。この辞典は、たとえば、「キリスト教ーーー自由と が、よりよい社会にたいする彼のロマンチックな夢想を充た私有財産の廃止を目的としたが、まだノーマルな発達を遂げ してくれる、と考えるようになったのである。この時代を回ていない」。またあるいは、「オプチミズムーー・生活上の事実 に鼓舞された実践的無神論の圧倒的な攻撃にたいして、有神 想して、ドストエーフスキイは「作家の日記』 ( 一八七三年、 「現代的欺瞞の一つ』 ) の中で、次のように語っている。 論を守ろうとする成功おばっかない試み」といったような表 「その当時はまだこの問題がこのうえもなく明るい、天国の現によって、新思想を普及しようとする巧妙な偽装出版物で あったが、間もなく発売禁止の処分を受けた。 ように道徳的な光を帯びたものと解釈されていたのである。 ドストエーフスキイは彼の書庫から、社会主義的・キリス 実際のところ、そのころ生まれかかっていた社会主義は、そ の領袖の中にある人々にさえも、キリスト教と同一視されト教的な内容の本を借りはじめた。サン・シモンの「新しき て、単に時代と文明に応じて訂正され、改良されたものにほキリスト教』、カ・ヘの『イエス・キリストにもとづく真のキ リスト教』、プルードンの「日曜の式について』などである。 かならぬ、と考えられていたのである。こうしたふうな当時 こ , っした の新しい思想は、われわれペテルプルグの人たちにおそろしベトラシェーフスキイのもとには、毎週金曜日に、 ストエーフ く御意に召して、このうえもなく神聖な、道徳的なものと思問題に興味をもっ青年たちが集まっていたが、ド われたばかりか、何よりもまず一般人類的なものに与えられスキイもその頃から、この金曜日の出席者の一人になった。

4. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

情熱を、ドストエーフスキイが学問といっているのは、作品ゆる思想、あらゆる空想、彼が生活で体験したいっさいのも の上の虚構であって、そのじっ芸術という一「〕葉に置き換えらの、書物で読んだいっさいのもの、もうとっくに忘れていた れなければならない。ォルディノフⅡドストエーフスキイの いっさいのもの、ーー何もかもが生命を与えられ、形象づけ 、い境は、まさしく芸術家のそれである。それを証明するのられ、肉づけされて、巨大な形をとって彼の前にあらわれ、 は、「科学における芸術家」という言葉である。芸術家とい 彼の周囲にむれ動くのであった : : : 彼の見ている前で、多く う言葉はしばしばくり返されているけれども、学者という言の大都会が建設され、崩壊され、あまたの墓地がおのれの死 葉は一度も作品中に出てこない。これはすなわち、作品の中人を地下から送り出して、その亡者たちが新しい生活をはじ で露骨に自己を語ることを欲しないドストエーフスキイが、 めるのであった。幾多の民族や国民が、彼の眼前で移住した おのれを糊塗せんとした拙い手段だったに過ぎないことは、 り、生まれたり、衰滅したりした : ・ : また最後に、彼は肉体 あらためていうまでもない。 を持たぬ観念でなく、完全な創造、完全な世界として思索す トストエーフスキイはオルディノフを通して、さまざまにる、 彼はさながら塵ひじのごとく、この奇怪な、はてし 自己を語っている。たとえば、 のない、歩きつくせない世界を飛びまわるのだ」 「この清熱は今のところ彼の青春を食いへらし、酔わすよう要するに、ドストエーフスキイはオルディノフに、自己の な毒で夜ごとの安眠をそこない、健全な食物と新詳な空気を内面生活を託したのであって、彼が後年「大審問官』や『お 奪った : ・ : が、オルディノフはおのれの情熱に酔いしれて、 かしな人間の夢』等々で表現した人類の運命に関する偉大な それに気づこうとも思わなかった」などのごときである。 思想は、すでに三十四、五年前から、この「主婦」において胚 この芸術家的な熱情は、きびしい孤独感を伴なうけれど子を示したのである。ォルディノフに託して、自己の空想的 も、これは高邁な精神を証明するものであって、『ペテルプな青年時代を描くとともに、ド ストエーフスキイは「主婦』 ルグ年代記』の言葉をかりれば、「悲劇」でこそあれ、決しの中で、おのれ自身の魂の悲劇的な矛盾をえぐり出そうと試 て「カリカチュア」ではない。ォルディノフの空想は、予言みたのである。ォルディノフⅡ トストエーフスキイは、空思 者的洞察の域にせまり、その思想や感覚は魔法のような力の世界では君主でありながら、現実世界では一個の幼児にす で、偉大な形象に肉づけされていく。彼の空想裡には人類のぎないのである。彼は兄にあてた前記の手紙の中で、次のよ 作歴史、民族の興亡の画面が、後から後からとくりひろげられうにいっている。 部ていくのである。 「われわれ自身の精神と内部生活が充実すればするほど、わ 第「彼の子供時代のとりとめもない妄想をはじめとして、あられわれの住む小さな片隅もその生活も、それだけ美しくなる

5. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

「それはまたよく晴れた暖かい日であった。早朝六時頃に、 概してドストエーフスキイに自然描写が少ないのは、内部・ 彼は河岸の仕事場へ出かけて行った。そこには一軒の小屋が から濤れてくる思想のため、自然に注意を向ける暇がなかっ あって、雪花石膏を焼く竈の設備があり、そこで焼いた石をたのである。たまたま現われる描写も陰鬱な色彩に塗られて 春くのであった。みなで三人の働き手がそこへ出かけた。囚 いるのは、ドストエーフスキイが不幸な人間に関する思索に 徒の一人は看手について、何かの道具をとりに要塞へ行っ没頭していたからである。「白夜』の自然描写も、人との関 オいま一人は薪をこしらえて、それを竈の中に積みはじめ連においてなされていることは、きわめて暗示的である。 た。ラスコーリニコフは小屋から川つぶちへ行って、小屋の 『白夜』はそのサプタイトルに、「感傷的ロマン、空想家の そばに積んである丸太に腰を下ろし、荒寥とした広い大河を追憶より」と書かれている。これは「主婦』のロマンチシズ 眺めはじめた。高い岸からは広々とした周囲の眺望が展け ムより一歩後退の形であるが、文学的には明らかな前進を示 遠い向こうの岸からは、かすかな歌声が伝わって来た。 している。 そこには日光のみなぎった目もとどかぬ草原の上に、遊牧民『白夜』のスト ーリーは簡単である。空想家の主人公が、夏 のテントが、ようやくそれと見分けられるはどの点をなしのペテルプルグの薄明の夜に、たまたま遭遇した少女に恋を て、ばつばっと黒く見えていた。そこには自由があった。そ感じ、その恋はようやく成就するかのように思われたが、少 して、ここの人とは似ても似つかぬ、まるで違った人間が生女の元の恋人の帰還のために、もろくも崩 れてしまう、とい 活しているのだ。そこでは時そのものまでが歩みをとめて、 うただそれだけの物語である。しかし、ここで注目すべき さながらアプラハムとその牧群の時代が、まだ過ぎ去ってい トストエーフスキイの空想主義の発展と生長である。主 ないかのようであった」 人公は恋する少女に向かって、自分のことを次のように定義 なんという荒寥たる風景であろう。もちろん、これはシベする。 。ししながら、そこ リヤの流刑地であるから、当然なこととま、 「ばくはタイプです : : : 変わり者です、実に滑稽な人物で こまヨーーロツ。、 。ロシャの自然に見られる色彩さえもない。 す」とまず第一に切り出すが、しかしこの「滑稽」という言 こだし、ここには「白夜』の自然におけると同様に、暗い絶葉は、通俗的に用いられるものとは異なったニュアンスを持 望感はない。それは主人公のラスコーリニコフが、新生へ転 っていて、晩年の短編「おかしな人間の夢』の「おかしな」 作向する前奏曲としての役割をつとめているからである。「白と、ほば同じ内容を有しているのである。「この 23 生活 部夜』の自然描写が、その憂愁にもかかわらず、明るい感じに は、何かしら端に幻想的なものと、熱烈な理想主義的なも 第充ちている理由は、後に説くことにする。 のと、色褪せた散文的な日常茶飯的なものとの混合なんです

6. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

「わたしにとって神聖な天使であるアーニヤ、どうかわかっ用しよう。 「わたしの小説の根本の思想は、わたしが古くから愛でいっ ておくれ、わたしはまじめにいっているのだから。これから は別な生活が始まるのだ。お前もいよいよはんとうに、仕事くしんだものですが、あまり困難なものですから、長いこと いっさいを回復手をつける勇気がなかったのです。今度それに手をつけたの をしているわたしを見ることになるだろう。 は、ほとんど絶望的な状態に落ちたからにはかなりません。 し、救済する。この前は死んだようになって帰って行った この長編の主要な思想は、しんじっ美しい人間を描くことで が、今度はわたしの胸に希望がある : : : わたしがその五十フ ランで勝負をするだろうなどとは、どうか考えないでおくす。これ以上に困難なことはこの世にありません、ことに現 れ」。今まで何十たびとなくくり返されたこの誓いの一一 = ロ葉代では。すべての作家は、単にわが国ばかりでなく、すべて ヨーロッパの作家ですらも、しんじっ美しい人物の描写にか も、今度は真実のものとなった。それ以来、彼のルレット・ マニヤは、つきものが落ちたように跡を断った、ただ一つのかった人は、だれでも常に失敗したものです。なぜなら、そ 例外を除いて。七年後、ドストエーフスキイは『未成年』のれは量り知れぬほど大きな仕事だからです。美しきものは理 想でありますが、理想はわが国のものにしても、ヨーロッパ 中で、この賭博本能を芸術的空想に託して満足さした。 サクソン・レ・ ・ハンから帰った後、ドストエーフスキイはのものにしても、まだまだ遠く完成されていません。この世 キリストで にしんじっ美しい人がただ一人あります、 「白痴』のノートを読み返して見たが、そこに形成されてい るプランは、彼の内部に渺湃としている理念を展開させるにす。というわけで、この量り知れず、限りなく美しき人物の は、不適当であることを感じた。十二月四日、彼はまた新し出現は、もうもちろん、永遠の奇跡です : : : キリスト教文学 における美しき人々の中で、最も完成されたものは、ドン・ い構想をまとめ、執筆にかかった。彼は寒い部屋で、外套を 着たまま書きつづけた。プランの変史というのはほかでもなキホーテです。しかし、彼が美しいのは、同時に彼が滑稽で い、「白痴』の主人公は、それまで彼の脳裡にあった傲慢不ある、ただそのためにはかなりません。デイケンズの。ヒクヴ イグ ( ドン・キホーテに比べれば、無限にカ弱い思想です 遜な反逆児から、聖者のごとく謙抑なムイシュキン公爵に、 百八十度の転回を遂げたのである。それからひと月たらずのが、なんといっても巨大なものです ) も、やはり滑稽で、た 後、彼は第一編の原稿を「ロシャ報知』に送り、遅れて発行だそれだけでひきつけるのです。人から嘲笑されつつ、おの された一月号に間に合った。『白痴』の根本に置かれているれの価値を知らない美しきものにたいする憐憫が表現されて 思想は、愛する姪のソフィヤ・イヴァーノヴァへ宛てた手紙 いるので、したがって読者の内部にも同情が生まれる。この 八六八年一月一日付 ) に要約されているから、その部分を引同情の喚起こそューモアの秘密であります。ジャン・ヴァル 8

7. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

ており、あらゆる地上の悲しみ、あらゆる地上の涙は、人間スト』のマルガレーテである。彼女もやはり聖母マリヤに非 の悦びであり、おのれの涙で足もとの土を五寸、一尺と、だのゆるしを祈り、幼児のことを空想している。こう考えてみ んだん深く濡らしてゆくうちに、すべてのことを悦びと感すると、スタヴローギンはまさにロシャのファウストである。 るよ、フになる、 こう教えられてから、彼女は祈蒋のたびただし、救われずして亡びゆくファウストである。しかも、 レ一ョ . ーレ ごとに大地に接吻して、涙を流すのであった。ラスコーリニそのファウストにはメフィストフェレス、 コフに大地に接吻することを勧めたソーニヤには、、 しくらかヴェルホーヴェンスキイがついている。 象的なところが感じられるけれども、このなかば狂して、 常に夢幻の世界に住している跛の女が、同じようにこの思想 を説くとき、われわれは豊かな詩情にみちた純な芸術とし て、それを受けとることができる。マリヤはかって、大きな 重荷を負おうとしていた時代のスタヴローギンに、伝説の王 子のような美を感じて、処女が理想的な男性にたいしていだ くようなあこがれを持っていた。しかし、『夜 ( つづき ) 』の 章で、スタヴローギンがマリヤの部屋へ入ったとき、彼女は 胸に虫けらがはい込んだような気がして、夫であると信ずる ことができず、彼を悪魔として詛いの言葉を発した。スタ ヴローギンが彼女の死を望んでいることを、ユロージヴァャ 朝 9 ) の直感でさと 0 たのであろう。 ここに一つの興味あることがらについて、読者の注意をう ながしたい。マリヤは処女であるにもかかわらず、自分の産 ゆくえ んだ子供があると信じて、行方のしれぬその子のことを思っ て泣いているのである。これはあるいは、聖母マリヤの処女 懐胎の伝説が、彼女の空想に働きかけて、幼いキリストを夢 みているのかもしれないが、これはわたしの想像のゆきすぎ であろう。しかし、これについて想起されるのは、『ファウ

8. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

に提供された。すでにその前年からベトラシェーフスキイのするのである。ドストエーアスキイの雑録は、ポレヴォイの サーグルに出入りしていたドストエーフスキイが、どうして いわゆる「気のきいた洒落で味つけした市井ニュースの寄せ 反動的な新聞の招きに応じたか ? それにはいろいろな理由集め」ではなく、抒情詩的な告白となった。『ペテルプルグ が考えられる。第一、いつも金に困っていたこの青年作家年代記』は、後年の「作家の日記』の若々しい胚子なのであ は、収入をふやすために与えられたチャンスを一つでものがる。これは単なる雑文ではあるけれども、流刑をもって一線 すまいという、もっとも単純な理由で、自己を正当化したのを画する、ドストエーフスキイ前期の諸作品に、さまざまな かもしれない。第二には、たとい保守新聞に執筆するにもせ形で、テーマとモチーフを与えている。なかんずく、『主婦』 よ、自分の書くものが反動におもねるものでなければ、みずとの関係は大きい。 ここで空想主義の宣言ともいうべき、い から省みて恥するところはない、とそう思ったかもしれな くつかの節を引用する。 第三には、ドストエーフスキイがベトラシェーフスキイ「諸君、空想家がはたしてなんであるか、諸君は知っていら を訪れたのは、単に新しい思想を知ろうという好奇心のためれるか ? それはペテルプルグの悪夢であり、具象化された であって、当時その思想に共鳴してはいなかったのかもしれ罪悪であり、発端と結末、あらゆる破局と異変を含んだ、言 ナしいずれにもせよ、〕。ペテルプルグ新聞』は文学的な面葉なき、神秘めかしい、陰鬱な、奇怪きわまる悲劇である では、プーシキンの伝統を守って、ゴーゴリ的傾向には反感 : 諸君は時として、こういう人間に出会われるであろう、 を示していたので、この新聞に参加することは、『現代人』 全体にばんやりして、目つきはとりとめがなくどんより しつも何かやり の同人たちにたいして挑戦を投げつけることになって、ひそし、顔はしばしば青ざめてもみくたになり、、 かな痛快みを感じることができるわけである。 きれないほど重苦しい、頭の割れそうな仕事に没頭して、時 が、それよりも何よりも、『ペテルプルグ年代記』がわれには苦しい労働でヘとへとになり、疲弊しつくしたような恰 われにとって重大なのは、これによってドストエーフスキイ好をしてはいるものの、ほんとうのところは何も生産的なこ とをしていない、 という、自由にのびのびした形式を発見し これが外而的に見た空想家である。空 が雑録 ( し というのは、極端にむらがあるから て、読者を相手に打ちくつろいだ、縦横自在な会話の道をリ 新想家はいつも重苦しい いたことである。彼は「ペテルプルグ年代記』の中で、自分である。あんまり陽気すぎるかと思うと、あんまり気むずか をこの都会の漫歩者と称して、途上所見を描き、印象を語り、 し過ぎ、暴れものであるかと思うと、注意がゆき届いて優し く、エゴイストかと思えば、高潔無比な感情を動かす力を持 書評をまじえ、人物像をはさみ、芝居や音楽会の感想を述 べ、そのあいだあいだに、皮肉な考察や個人的な告白が潜入っている」「彼らは主として、寄りつくこともできないよう

9. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

ゴリャードキンはおのれ自身の生活の空虚を感じて、限り凅 に存在しない荒唐無檮をさしているのである ) 。 要するにドストエーフスキイは、「鼻』から笑話的な要素ない孤独の世界へ逃避してしまう。それから、自分自身との を除去して、この作から直感した自己分裂のテーマを取り上もの狂おしい闘争がはじまるのである。彼は自分が独立不覊 げて、『分身』という鬼気せまるような作品を書き上げたのの人間であって、他の何びとでもない独自の個性を持った人 である。 取りかえることも、すりかえることもできぬ人間で あることを、だれよりもまず自分自身にたいして、証明した かくしてドストエーフスキイは、『狂人日記』のポプー しかし、それは単に空しいあがきであり、 シチンの発狂、「鼻』のコヴァリョフの分裂という二つのテくてたまらない。 ーマを総合して、先師をはるかに凌ぐ思想的な作品を創造し何ものにも触れることのできないからまわりに過ぎない。ゴ た。彼は自分の鋭い感覚と知性をもって、ゴーゴリの幻想的リャードキンはただ自己を他人から隔離することによって、 な作品の蔵する魅力を分析し、その思想を深化し、現代化しおのれの個性を救おうと必死なのである。それは生命の糧の たうえ、どうしてこのような現象が起こるかを示したのであない地下に潜んだ鼠を連想させる。その意味において、彼は る。 最初の地下生活者であるともいえよう。しかし、ドストエー ( 則にもしったよ , っこ、・ コリャードキンが野望と自卑の門 フスキイが後年創造した「地下生活者』が、孤独の空想か を、振子のように動揺したのは、内在的資質によることもむら、不敵な哲学を生み出したのに反して、ゴリャードキンの ろんであるが、外界の影響も大きな役割をつとめている。彼空想はついに狂気に終わったのである。 「おれはこういいたいのだ。おれは自分の道を進んでいる。 は幻想的なペテルプルグに住み、大きな官庁に勤務して、書 類の間に埋もれ、上官の譴責、同僚間の反目、嫉視、競争、おれは特別なのだ、だれの世話にもなっていない。おれはお 陥穽、といったような環境の、忌わしさ、醜さを身にしみてとなしい人間だ。おれの道は人とは別なのだ : : : おれはだれ 感じつづけた。そして、自分というものが、国家という巨大のことも知らない。だから、おれにさわってもらうまい。お な、妖怪めいた機械の小さな歯車にすぎないことを、ひしひれも諸君にさわりはしない。おれは別ものだ」とゴリャード しと思い匁った。。 コリャードキンのような下級官吏は、官僚キンは豪語する。 しかし、この「おれは別ものだ」は、強者の宣一言ではなく 制度の苛酷さによって、人格さえも奪われてしまうのである。 とくの昔に個陸を踏みに この世界に住んでいると、人間は人間としての価値を失って、て、臆病者の無力の声でしかない。 そこでものをいうのはただ官等ばかりである。人間同士の関じられたゴリャードキンには、おのれを守り通す力がなかっ 係は機械化され、人間自身が物と化してしまうのである。 た。時おり彼は生活にたいする恐怖のために、消えてなくな

10. ドストエーフスキイ全集別巻 ドストエーフスキイ研究

に、セルゲイ公爵が衆人環視の前で、彼に平手打ちの侮辱をシーロフはわが子の愛に価する人物であることがわかった。 加えたが、彼は決闘の申し込みをもってそれに答えなかっ彼はアルカージイの理想を見ぬいて、嘲笑的な調子でいうの た。これらの風聞は未成年の心に、自分を棄てて顧みなかつであった。「わたしはもうちゃんとお前の理想の内容を知っ た父にたいする復讐感を満足させるとともに、長年あこがれてるよ。間違いのないところがこうだろう、 「われは あらの わたっていた父の映像を傷つけられ、幻減と屈辱を覚えるの曠野に退かん』・ : この子はロスチャイルドか何かになっ であった。彼はいう。「ところが、この人間はたんにわたして、自分の尊厳の中に退こうとしてるんでしよう」。未成年 の空想にすぎないのだ : : : 事実に現われたのは、わたしの空はその洞察力に内心圧倒される。彼は自分の孤独を誇りとし 想よりか数等おとった人間だった : : : わたしはそもそもどうていたのに、その殻が破られてしまったのだ。こうして、ア いうわけで、まだ子供の時分、あの短い一瞬間に、永久わすルカージイはその思想、感情とともに、父の意識に吸収され れることができないほど、あの人間に惣れ込んでしまったのてしまったことになり、彼の孤独な理想は致命的な傷を負う : しかし、滑稽なのは、わたしが以前「毛布の下のである。ここに至って読者は、「未成年』の真の主人公は で』空想したということではなくて、わたしが自分のおもなアルカージイでなく、ヴェルシーロフであることを感じさせ 目的 ( 理想 ) を忘れて、彼のために、この頭の中ででっちあられる。しかし、未成年は驚異を感じはしたものの、完全に げた人物のために、わざわざここまでやって来たことである」征服されたものとは思わない。彼ははたして父がほんとうに しかし、読者はそれと同時に、老公のロを通して、かって高潔な、尊敬に値する人間であるかどうかを、最後に試験す る意図をもって、偶然手に入れた手紙を父に渡す。それは最 ヴェルシーロフが社交界で一種聖者のような役割をつとめ、 おもめ 修道僧のように苦行の錘を体につけていたということも聞か近ヴェルシーロフが訴訟で勝ちを占めた遺産相続に関するも されている。のみならず、ほとんど教育らしい教育も受けてのであった。それは、ヴェルシーロフの権利が絶対のもの いない農婦あがりのソフィヤを、終始事実上の妻として、日でないということを、裏書きするていのものであった。する 常は暴君のようにふるまってはいるけれども、とにかく見棄とヴェルシーロフは、一瞬もためらうことなく、裁判で決定 てないでいる。父にたいするアルカージイの有罪判決は、世された遺産にたいする権利を放棄してしまったのである。ア なれぬ純真な未成年の性急さによるものではなかろうか ? ルカージイの父にたいする憎悪は、たちまち歓喜の爆発と変 作ヴェルシーロフの本質を知ろうという読者の好奇心は次第にわって、「あの人間は「死したりしがよみがえり、失せたり けれど見いだされぬ』」と叫ぶのである。それから、ヴェル 部高まってゆく。 シーロフに関するいかがわしい風説は、一つ一つその虚妄性 第するとがぜん、まばろしは生きた人間に変わった。ヴェル