ゴリャードキン - みる会図書館


検索対象: ドストエーフスキイ全集1 貧しき人々
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1. ドストエーフスキイ全集1 貧しき人々

あがり、見せかけの友に紳士らしくほほ笑みかけながら、こらくゴリャードキン氏の方図の知れぬ忍耐力をあてこんだも うして相手を手なずけ、元気づけ、新しく友情を結ばうと努のだろう、またしても無作法な悪洒落を始めた。ふとっちょ めた。 のドイツ女は、明らかにロシャ語がわからないと見え、愛想 「では、失礼いたします、閣下」と、新ゴリャードキン氏はわらいをしながら、錫のような光沢をした意味のない目で二 だしぬけに叫んだ。わが主人公は、敵の顔に何か馬鹿陽気な人の客を眺めた。わが主人公は、恥を知らぬ新ゴリャードキ ところさえあるのに、いづいて、思わずぎよっとした。で、たン氏の言葉を聞いて、火のように真っ赤になった。で、もは だ、い加減にあしらっておくために、不徳義漢のさし伸べたや自己を抑制する力もなく、ついに相手におどりかかってい カここでも : 手に自分の二本指を与えた。、 : ここでも新ゴった。明らかに彼を八つ裂きにし、 いっさいのかたをつけて リャードキン氏の厚顔無恥は、、 っさいの想像をこえて しまお、つ、とい , つつもりらしかった。けれど、←ゴリャード こ。旧ゴリャードキン氏の二本指を取って、まずそれを握りキン氏ま、、 。しつもの卑怯な癖で、もう遠く離れていた。彼は しめた後、このやくぎ者はさっそくその場で、ゴリャードキ いち早く逃げのびて、ちゃんと入口階段に立っていた。当然 ン氏の見ている目の前で、ずうずうしくも今朝と同じ厚顔なのことながら、旧ゴリャードキン氏は、最初しばらく棒立ち 悪ふざけを繰り返したのである。人間としてあたう限りの忍 になっていたが、やがてわれに返ると、韋駄天走りに無礼者 耐もついにつきはてた : の跡を追った。もうそのとき敵は、明らかに自分を待ってい 相手が自分の指を拭いたハンカチを、早くもポケットへして万事承知らしい辻馬車に乗ろうとしているところであっ まった時、旧ゴリャードキン氏はわれに返り、彼の後を追っ た。しかし、その瞬間、ふとっちょのドイツ女は二人の客が て次の間へ飛び出した。不倶戴天の仇はいつもの卑怯なやり食い逃げするのを見て、きやっとばかり叫び声をあげ、あり 方で、たちまち姿をくらまそうとしたのである。彼はけろり ったけのカで呼鈴を鳴らした。わが主人公はほとんど足をも とした顔つきで、売台の前に立って肉饅頭を食べながら、品 とめず振り返って、自分の分はもちろん、払いもせすに行っ 行方正な君子然として、悠々とおかみのドイツ女にお愛想をた破廉恥漢の分まで金を投げつけ、釣銭を受け取ろうともし いっているのであった。「婦人の前でやるわけにはいかんて』 なかった。そして、だいぶ手間どったにもかかわらず、どう と考えたわが主人公は、興奮のあまり前後も覚えす売台に近やらやっと敵に追いついて、すでに動き出した馬車の中でつ づいた。 かまえることができた。わが主人公は、自然から授けられた 「どうです、まったくのところ相当ふめる女じゃありませんあらゆる方法を利用して、馬車の泥除けに食いさがり、新ゴ か ! どうお思いですな ? 」と新ゴリャードキン氏は、おそ リャードキン氏が必死になって防戦するのもかまわず、馬車

2. ドストエーフスキイ全集1 貧しき人々

のうえもない満脱のしるしに、涙の出るほどくしやみをするが、なんという恐ろしいことか ! 馭者はなんとしても、ゴ のであった。しかも、驚くべきことは、それが瞬き一つする リャードキン氏を乗せて行こうとしないのである。「だんな、 間にできてしまうのである。やくざで曖昧なゴリャードキン まるでそっくりそのままのお方を二人、お乗せするわけには 氏の手際の早さは、真に驚歎すべきものがあった。たとえ いきません、れつきとした人間は、どうかして正直に暮らそ ば、一人の人に慇懃を通じて、その好感を得たかと思うと、 うとしているので、怪しげな真似はするもんじゃありません、 たちまちあっという間もなく、次の人を手の中に丸めこんで一人の人間が二重になるなんて、そんなことがあるもんです しまうのである。次の人とこっそりよしみを通じて、好意に か』正直無比のゴリャードキン氏は恥ずかしさに顔から火が 満ちた微笑をもぎ取ると、短くて丸っこ、 し、いささか丸太棒出る思いで、あたりを見まわした。と、馭者どもも、彼らと じみた足をびよんと跳ねて、早くも第三の人の傍へ飛んで行 っしょに駆け出したベトルーシカも、まったくい、つことが く。第三の人をも手練手管で丸めてしまい、もうさっそく親間違っていないのを自分の目でしかと確かめた。というの 友の接吻をかわすのである。口を開けてあきれる暇もなく、 伊の堕落したゴリャードキン氏がまぎれもなく、あまり 彼はすでに第四の人の傍に立っており、その第四の人ともも遠くもないすぐそこに立っていたのである。そして、例のい う同じ関係を結んでしまう。じつに恐るべきもので、魔術とまわしい癖で、ここでも、こののるかそるかという場合にも、 、力ししト , っ一か・ . なしー だれも彼もが彼を歓迎し、だれも彼必ず何か思いきりぶしつけなことをしてやろうと、身構えて もが彼を愛し、だれも彼もが彼をはめそやし、だれも彼もが声 いるのであった。この行為は、普通教養によって獲得される を揃えて、彼の愛想のよさと機智縦横ぶりは、本物のゴリヤ上品さを証明するものではごうもなかった。にもかかわら ードキン氏の愛想のよさと機智縦横ぶりよりはるかに勝ってず、いまわしい第二のゴリャードキン氏は、機会あるごとに いるとはやしたて、罪のない本物のゴリャードキン氏を恥すこの上品さを自分から吹聴しているのだ。恥すかしさと絶望 かしめ、正直なゴリャードキン氏を排斥し、心がけのよいゴの念に前後を忘れて、正直一途でありながら破滅の悲運にお リャードキン氏を迫害し、隣人に対する愛をもって聞こえたちいったゴリャードキン氏は、運を天にまかせて、足の向く 本物のゴリャードキン氏を、爪はじきするのであった , ままに駆け出した。しかし、その一歩ごとに、彼の足が鋪道 みかげいし 悩ましさ、恐ろしさ、腹立たしさに、受難のゴリャードキの花崗岩を踏むたびに、彼とそっくり瓜二つの堕落した心を ン氏は往来へ飛び出して、辻馬車をやとおうとした。真っ直持ったいまわしいゴリャードキン氏が、地中から出てくるよ ぐに閣下のもとへ駆けつけるか、さもなくば、少なくともア うにひょいひょいと一人すっ飛び出すのであった。しかも、 ンドレイ・フィリッポヴィチのところへ行こ , フとったのだ このどこからどこまでそっくりそのままの人間が飛び出すが

3. ドストエーフスキイ全集1 貧しき人々

たずねた。 っと身動きしないでいた : : : ついにその場から身をもぎはな舅 高らかな笑い声がゴリャードキン氏のまわりで、どっとばすようにして、料理屋を飛び出した。引き止めようとする者 かりに起こった。給仕までがにたりと笑った。ゴリャードキを、だれかれの容赦なく突きのけはねのけして、手あたり次 ン氏はここでもしくじりをやって、何か恐ろしく馬鹿なこと第の辻馬車に、ほとんど正気を失った身を投じ、そのままわ を仕出かしたのだな、と気がついた。そう気がつくと、彼はが家へ飛ばして行った。 すっかりへどもどして、しようことなしにポケットへ手を突自分の住居の入口で、彼は役所の小使ミヘーエフに出会っ っこんで、ハンカチを探った。それはおそらく、ただばんやた。手に公用の封書を持っている。「わかってるよ、お前 り立っていないで、何かするためだったらしい ところが、何もかもわかっているよ」と、へとへとに疲れ切ったわが主 彼自身はもちろんのこと、居合わす人々の驚き入ったことに人公は、弱々しい悩ましげな声で答えた。「それ、公川なん ハンカチの代わりに何かの薬瓶を取り出したのである。 だろう : : : 」封筒の中には、事実アンドレイ・フィリッポヴ 例の四日前にグレスチャン・イヴァーノヴィチが処方してく イチの署名したゴリャードキン氏宛ての辞令が入っていて、 れたものである。『薬は例の薬屋へ行って』という言葉がゴ彼の預っているいっさいの事務をイヴァン・セミョーノヴィ リャードキン氏の頭にひらめいた : : : ふいに、彼はぶるっとチに引き渡せ、とのことであった。封書を受け取って、小使 身慄いして、思わず恐怖の叫びをあげんばかりであった。まに十コペイカ握らせると、ゴリャードキン氏は自分の部屋へ た新しい一道の光明が流れた : ・ : どす赤い、いやな色をした入った、ベトルーシカは自分のがらくたを一纏めにして、せ 水薬が、不吉な光をはなって、ゴリャードキン氏の目を射たっせと荷造りをしているところであった。明らかにゴリャー ・ : 瓶は彼の手を滑り落ちて、その場でこなごなに砕けた。 ドキン氏を見棄てて、エフスターフィの代わりに使ってあげ わが主人公はあっと叫んで、流れ拡がる液体から、二歩ばかるとそそのかしたカロリーナ・イヴァーノヴナのところへく り跳びのいた : : : 彼は全身をわなわなと慄わしていた。汗がらがえするつもりらしい こめかみと額からにじみ出た。「してみると、命が危いの だ ! 』その間に、部屋の中が騒然とざわめいて来た。一同は ゴリャードキン氏を取り囲んだ、だれも彼もがゴリャードキ ン氏に話しかけた。中には、ゴリャードキン氏をつかまえよ ベトルーシカは体をゆらゆらさせながら、妙こ しくだけた態 うとする者さえあった。けれど、わが主人公は唖のようにロ度で、顔には下司張った得意らしい表情を浮かべて、入って をつぐみ、何一つ見ず、何一つ聞かず、何一つ感じずに、じ来た。彼が何やら考えついて、われこそ完全に正当な権利を

4. ドストエーフスキイ全集1 貧しき人々

めに大へんなけがれでもつけられたかのように、その手をふのゴリャードキン氏を指さして甲高くさえずり始めた。「さ るうのであった。それでもまだ足りないで、脇のほうへべつあ、君、接吻しよう ! 」と彼は現在自分が欺瞞的なやり方で と唾を吐いた。それには一々、無礼きわまる身振りが伴うの侮辱した相手のほうへ進みながら、鼻もちならないような馴 であった。そのうえにかてて加えて、ハンカチをポケットかれなれしさで言葉をつづけた。やくざな新ゴリャードキン氏 ら取り出して、すぐにその場で、遠慮も会釈もなく、ほんののこの洒落は、ある人々の間に共鳴を呼びさましたらしい ことにその中には、すべての人に知れ渡っているらしい、あ いっとき旧ゴリャードキン氏の掌の中にあった自分の指を、 る一つの事実を暗示する狡猾なたくらみが隠されていたから 一本一本丁寧に拭いたものである。こんな真似をしながら、 なおさらである。わが主人公は、自分の肩に敵の手がのせら 新ゴリャードキン氏はいつもの下劣な癖で、わざわざあたり を見まわして、自分の所作がみんなの目に入るようにしむけれているのを重苦しく感じた。もっとも、彼はすでに、はらを た。そして、一同の目をのぞきこみながら、旧ゴリャードキ決めていたのである。あおざめた顔に両の眼をぎらぎらと輝 かせ、じっと凍りついたような徴笑を浮かべたまま、彼はど ン氏にとってありとあらゆる不利益なことを、みんなの心に うやらこうやら群衆の囲みを脱して、不揃いな小刻みな足取 吹きこもうと苦心している、それがありありと目に見えるの であった。新ゴリャードキン氏の陋劣な行為は、どうやら彼りで、閣下の室をさして真っ直ぐに進んで行った。一つ手前 らを取り巻く役人たち一同に、義憤の念を呼び起こしたらしの部屋で、彼はたった今、閣下のもとを退出したばかりのア ンドレイ・フィリッポヴィチに出会った。その部屋には、ゴ い。軽薄な若い連中ですら不満の色を表わしたほどである。 リャードキン氏にとってその場合まったく無関係な人が大勢 あたりにぶつぶついう穏かならぬ話し声が起こった。一同の どよめきは、旧ゴリャードキン氏の耳に入らぬはずがなかっ いたけれども、わが主人公はそれしきのことには、一顧の注 た。けれども、新ゴリャードキン氏がうまいしおに口から洩意も払おうともしなかった。彼は真っ直ぐに、決然と、大胆 に、内心われとわが勇気に驚き、かっ感心しながら、一刻の らした冗談は、わが主人公の最後の望みを跡形もなく打ち砕 はかり いて、世論の衡を逆に傾け、ついに形勢は彼にとって不倶戴猶予もなく、アンドレイ・フィリッポヴィチにぶつつかって 行った。相手のほうでは、この思いがけない攻撃にひどく面 天の仇であるやくざ者のために有利となったのである。 「諸君、これはわがロシャのフォプラズであります。ひとっくらった様子であった。 「ああ ! : どうしたのだ : : なんの用だね ! 」ゴリャード 身この若きフォプラズを紹介さしていただきましよ、フ」と新ゴ リャードキン氏は持ちまえのすうずうしさで、役人たちの間キン氏がなにやら吃りながらいうのを聞こうともしないで、 分を縫いながら、ちょこちょこ駆けまわり、茫然自失した本物課長はこう問い返した。

5. ドストエーフスキイ全集1 貧しき人々

「なんです ? 早くいってください」 から軽く頭を下げると、しばらくその場で足踏みして左右を こういいながら、ゴリャードキン氏の昨夜の客は、いやい見まわしていたが、やがて目を伏せて、脇のほうの屏にきっ ゃながら不承不承に足をとめて、ゴリャードキン氏の鼻っ先と目をつけ、自分は特別任務をおびているので、と早口にさ さやいたと思うと、次の間へちょろりと潜りこんでしまっ へ耳を持ってきた。 た。あっという間のことであった。 「ばくはあえていいますが、ヤーコフ・ベトローヴィチ、ば : そうい 「いやはや、これはどうだ : : 』とわが主人公はつかの間、 くはきみの態度にびつくりしてしまいましたよ。 ここではも 棒立ちになってつぶやいた。「これはどうだー う態度を取られようとは、ばくゆめにも思わなかった」 : 』その時ゴリャードキ 「何事にも一定の形式というものがあります。まず閣下の秘うこんなことになっているのかー 書官のところへ行って、それから規定の順序を踏んで、事務ン氏は体じゅう蟻でも這いまわるような気持ちがした。『も っとも』と彼は自分の部屋へ向かいながらはらの中で考えっ 主任殿に報告なさい。諞原でもあるんですか ? 」 「きみ、ヤーコフ・ベトローヴィチ、ばくにはムロ点がいきまづけた。『もっとも、おれはも , っ ( 劇から、こ、フい , っことにな せん ! これはどうも、開いたロがふさがらない、ヤーコるだろうといってたのだ、あの男が特別任務を命ぜられるだ まったく、 フ・ベトローヴィチ ! きみはきっとばくがだれかわからなろうと、前からちゃんと予感していたのだ、 いんでしよう。それとも、もちまえの陽気な性分で、ふざけつい昨夜も、あの男は必ずだれかに特別任務を命じられるに てでもいるんですか ? 」 違いないといったじゃないか』 「ヤーコフ・ベトローヴィチ、昨日の書類はできあがったか 「ああ、あなたでしたか ! 」と新ゴリャードキン氏は、今は ね ? 」とアントン・アントーノヴィチ・セートチキンが、ゴ じめて旧ゴリャードキン氏を見わけたようにこういった。 冫しカカてした、よくおやすみ リャードキン氏の傍に腰をおろしながら、問いかけた。「あ 「あなたでしたか ? ときこ、、、。、。 れは、ここにあるかしらん ? 」 になれましたか ? 」 一 : ついって、新ゴリャードキン氏はにやっと大し 形「あります」とゴリャードキン氏は多少うろたえ気味で、係 式的なあらたまった徴笑を浮かべて ( それはまったく彼とし主任を見ながらささやいた。 じつは、アンドレイ・フィリッポヴィ 「そりやよかったー てはけしからぬ笑い方であった。なにぶんにも、彼は旧ゴリ チが二度もきかれたのでね。いっ閣下がご請求になるかしれ 身ャードキン氏に恩を受けているのではないか ) ーー・そこで、 ないから・ : : ・」 形式的なあらたまった徴笑を浮かべながら、ゴリャードキン 分氏がよくおやすみになれて自分も嬉しいとつけ加えた。それ「いいえ、あれはできています : : : 」 ~ 99

6. ドストエーフスキイ全集1 貧しき人々

長いあいだむなしく職を求めて歩いたとか、貯えを費い果た人間には罪がなくて、自然が干渉しているにすぎないのだか してほとんど往来で野宿同然の暮らしをしたとか、こっこつら、それしきのことが、人の顔に泥を塗ったり、自尊心を傷 のパンを涙でしめしてのみ下したとか、床板の上に何も敷かけたり、栄達の道をふさいだりするはずがない。のみなら ないで寝たとか、最後にだれか親切な人が彼のために奔走しず、客は庇護を求めているではないか、客は泣いているでは てくれて紹介の労をとり、おかげで今度の位置につくことが なしか、客は運命をかこっているではないか、狡猾なところ できたとかいうような話ばかりであった。ゴリャードキン氏もなければ悪気もなく、頭の単純な、みじめな、とるにも足 の客はこの物語をしながら、しくしく泣いていた。そして、 らぬ人間に見えるではないか。現に、今も自分が不思議にも 青い格子縞のハンカチで涙を拭いたが、それがひどく模造皮主人に酷似しているのを恐縮しているではないか ( もっと に似ているのであった。とどのつまり、彼は何から何までゴも、それは別の点で恐縮しているのかもしれないが ) 。態度 リャードキン氏にぶちまけてしまって、今のところ生活費も がこのうえなく温順で、主人の御意に召そうとする様子があ なければ、身分相当の住居をととのえることもできないばか りありと見え、いかにも良心の呵責にくるしめられ、相手に といったよ , つな りか、ちゃんとした制服を求める金もない、 対して申しわけないといったような顔つきをしているのだ。 うち明け話をしたあげく、じつのところ、靴代さえ工面するたとえば、話が何かはっきりしないような点に触れると、客 ことができず、制服も誰かから一時借用している始末だとつは急いでゴリャードキン氏の意見に賛成してしまうのであっ け加えた。 た。またどうかした拍子に誤って、自分の意見がゴリャード ゴリャードキン氏は身につまされて、心から感動してしまキン氏の反対になって、横道にそれたなと気がつくと、さっ った。客の物語はきわめて平凡なものであったにもかかわらそく自説を訂正し、いろいろに釈明して、自分は万事につけ 日約聖書出エジプト記にで ず、その一言一言が天から降「たマナ ( ー ) てご主人と同じように理解もし考えもしており、あらゆる事 てくるせんべいに似たパン のごとく肝に銘じるのであった。要するに、ゴリャードキン物をご主人と同じ目で眺めている、ということを猶予なくは 氏は先ほどまでの疑いも忘れつくして、ほっとばかり、自由のめかすのであった。ひと口にいえば、客はゴリャードキン と喜びの息をついた。そして、ついには心の中で、自分で自氏にとりいる』ために、ありとあらゆる努力を払ったの 分を阿呆よばわりさえしたほどである。何もかもじつに自然で、とうとうゴリャードキン氏も、自分の客はあらゆる点に ではないかー 何もあんなに心配して大騒ぎすることはなかおいて、きわめて愛すべき人間である、と決めてしまった。 ったのだ ! もっとも、一つおかしい点がないでもない、 コリャードキン さて、お茶が出て、時間は八をまわった。・ 実際のところ、それも大したことではないのだ。 氏はすっかり上機嫌になってしまい、うきうきとしてしだい

7. ドストエーフスキイ全集1 貧しき人々

を彼のほうに集注しているのだった。男連中はやや近くに固を見まわした。彼の睫毛には涙の露が宿った ) 。きみ、繰り まって聞き耳を立てているし、婦人連は少し離れたところ返していうが」とわが主人公は言葉を結んだ。「きみはとん で、心配そうにささやき交わしていた。当のあるじは、ゴリでもない思い違いをしたんだよ、許すことのできない間違い ャードキン氏からごく近いところに姿を見せた。その様子ををしでかしたんだよ : : : 」 コリャードキン氏は、自分の 見ただけでは、ゴリャードキン氏追い立て事件に、直接の関それは厳粛な一瞬であった。・ 係を持っているとは断言できなかったが ( なにしろ、それは言葉が的確無比な効果を奏したものと思った。ゴリャード キン氏はつつましやかに目を伏せ、オルスーフィ・イヴァ 穏便に行なわれたのであるから ) 、しかし、何から何までい しよいよ危機一髪ノヴィチの抱擁を期待しながら立っていた。客人たちの間に っさいの具合から察して、わが主人公は、、 の瞬間が到来したなと感じた。ゴリャードキン氏は、今こそは目に見えて、動揺と困惑の色が現われた。ものに動ぜぬ恐 るべきゲラーシムイチでさえも、「とんでもないことで』の 勇猛果敢な一撃を与えて、敵を粉砕すべき時が到ったのを、 しささか躊躇を感じたはどである : : : と、 一言を発するのこ、、 明らかに見てとった。ゴリャードキン氏は興奮していた。ゴ ふいにその時、これというきっかけもないのに、見計らいの リャードキン氏は一種の霊感を覚え、様子いかにと待ってい るゲラーシムイチのほうへ振り向きながら、震えをおびた荘ないオーケストラが、ポルカを奏しはじめた。何もかも霧散 し、消失してしまった。ゴリャードキン氏はびくりつとし 重な声で再び口をきった。 た、ゲラーシムイチは一歩うしろへよろけた。広間に居合わ 「ちがうよ、きみ、だれもばくを訪ねてなんか来やしない さわざわと海のようにざわめき始めた。ヴラ よ。きみの考え違いだ。それどころか、さらに一歩すすんでせた一同は、・ いうが、きみは今朝も考え違いをしたんだ。あのとききみジーミル・セミョーノヴィチは、グララ・オルスーフィエヴ は、こ , フいったね・ : いやさ、生意気にもこんな失礼なことナと組んで、真っ先に踊り出した。美男子の中尉は、チェフ オいか ( ゴリャードキン氏はここでチェハーノヴァ公爵令嬢と組になった。人々は好奇の念と歓 を抜け抜けといったじゃよ ォルスーフィ・イヴァーノヴィチが、喜を面に浮かべながら、ポルカを踊る男女を見物しようとひ 声を張り上げた ) 、 なにぶんこれは最新流行の面白い舞踏 しめき合った。 古い古い昔からばくの恩人であり、ある意味においては 父親代わりにさえなっていただいているご主人が、父親としで、当時、世間の人を夢中にさせたものである。ゴリャード キン氏は、一時みんなから忘れられた。が、突如あたりのい てもっともよろこばしいこの荘重な家庭的祝日にあたって、 っさいが波立ち、入り交り、あたふたし始めた。楽隊はやん ばくのために門戸を閉じよと命令されたなんて ( ゴリャード だ : : : そして、奇怪なことが起こったのである。踊りくたび キン氏は得々として、しかし深い感情をこめながら、あたり イ 06

8. ドストエーフスキイ全集1 貧しき人々

追われる駝鳥が熱い砂の中へ首を突っこむように。新参の男これは正しく不思議な、醜怪きわまる、もっての外の出来事 はアンドレイ・フィリッポヴィチに会釈した。すると、それであって、一座がざわめくくらいなことはあってもよかりそ につづいて、すべての役所で長官が新参の部下に話しかけるうなはずである。が、もちろん、これらのことはただちらと ような、形式的な愛想のいい声が響き出した。「さあ、そこゴリャードキン氏の頭をかすめただけであった。彼自身はま へかけたまえ』とアンドレイ・フィリッポヴィチはアントるでとろ火にあぶられているようだった。もっとも、それに ン・アントーノヴィチの机をさしながらいった。『そら、こは仔細があったのである。今ゴリャードキン氏の向かいに坐 のゴリャードキン氏の真向かいに。仕事はすぐにあてがってっているのは、・ コリャードキン氏の恐怖であった、ゴリャー あげるから』アンドレイ・フィリッポヴィチは新参の男に上ドキン氏の羞恥であった、・ コリャードキン氏の昨夜の悪夢で 品な、何かさとすような身振りを素早くして見せて、それであった、これを要するに、ゴリャードキン氏自身であった、 接見をうち切りにし、目の前に山と積まれた書類に没頭し始 といっても、今やロをばかんと開け、手にじっとペンを めた。 持ったままいすに腰掛けているゴリャードキン氏ではない。 ゴリャードキン氏はついに目を上げた。よくも気を失わな係主任の助手という資格で勤務しているゴリャードキン氏で かったのは、ただただ彼が初めから、すでに事のいっさいをはない。好んでわれとわが身を隠し群衆の中にまぎれこむあ 予感していたからにすぎない。彼はこの新参者を心ひそかにのゴリャードキン氏ではない。また最後に「わたしにかまわ 直覚して、あらかじめ万事を知り抜いていたのである。ゴリ ないでくれ、わたしも諸君にはかまわないから』とか、ある ャードキン氏の最初の動作は素早くあたりを見まわすことで いは『わたしにかまわないでくれ、現にわたしも諸君にかま あった。 何かひそひそ話でもやっていはしないか、この ったりなどしないではないか』といわんばかりの歩き振りを ことについてお役所式の洒落でも飛んではいないか、だれかするゴリャードキン氏ではない。否、それは別のゴリャード の顔があきれてひん曲ってはいないだろうか、それともだれキン氏、まったく別のゴリヤ ] ドキン氏であったが、同時に かがびつくり仰天して机の下に倒れてはいないだろうか ? また恐ろしくよく似ているのであった。 背恰好も同じな しかし、ゴリャードキン氏の驚いたことには、だれを見てもら、体格も同じ、服装も同様であり、頭の薄いところまでそ つくり、 いっこうそんな様子はなかった。同僚諸君の態度はゴリャー ひと口にいえば、相似を完全にするために何ひ ドキン氏を一驚させた。それはまるで常識はすれのように思 とっ忘れたところがない。かような次第で、もし二人を並べ われた。ゴリャードキン氏はこうした異常な沈黙ぶりにあきていっしょに立たせたら、はたしてどちらが本当のゴリャー れ返ったほどである。ことの本質は明白に見え透いている、 ドキン氏で、どちらが贋物であるか、どちらが古いほうでど ノ 80

9. ドストエーフスキイ全集1 貧しき人々

男をどこへ連れて行こうとしているのだ ? 自分で罠へ首を腹の中を察しようと努めている様子だった。何かしら、虐げ られ、いじめぬかれ、おどしつけられたようなところが、彼 突っこんでいるようなもんじゃないか。ベトルーシカだっ て、おれたち二人がいっしょにいるところを見たら、なんとの身振りという身振りに現われているので、比喩が許される としたら、彼はこの瞬間、自分の着物がないために、人の借 考えるだろう ? あの畜生野郎め、これからどんな生意気な ことを考えるかしれたものじゃないぞ。おまけに、あいつは着をしている男に酷似していた。両袖は上のほうへ吊りあが り、胴のくくりの所がはとんど背中の上に来ている。当人は : 』しかし、もう後悔してもおつつかな 疑ぐり深いからな : のべっ短いチョッキを引っ張りながら、体をはすかいにして かった。・ コリャードキン氏はノッグした。扉が開いて、ベト ルーシカが客と主人との外套を脱がせ始めた。ゴリャードキもじもじしたり、わきのほうへよけたりして、隙もあらばど ン氏は、下男の顔色を読んで、その腹の中を見抜こうと努めこかへ姿をくらまそうとしている。かと思えば一同の目色を うかがって、人が何か自分のことをいってはいないか ながら、ちらとベトルーシカを眺めた。といっても、ほんの ってはいないか、自分のために恥すかしい思いをしてはいな ちょっと一暼を投げたばかりである。しかし、あきれはてた いかと聞き耳を立て、ー , 顔を真っ赤にして、とはうにくれ、 ことには、下男はびつくりしようなどという気さえなく、む しろこういったふうのことを予期していたような様子さえ見自尊、いの悩みを感じている : : : ゴリャードキン氏は帽子を窓 えた。もちろん、彼は今もやはり仏頂面をして、そっぱをにの上へのせた。すると、不注意に身を動かした拍子に、帽子 らみ、まるでだれかを噛み殺してやろうと心構えしているよが床の上へ落ちた。客はすぐさま飛んで行って拾い上げ、埃 うなふうであった。 を綺麗に払い落とし、さも大事そうに元の場所へ戻して、自 「こいつあ、だれかが今日みんなを妖術にかけたのじゃある分はいすの端へちょこなんと腰を掛けて、そのわきの床の上 まいか』とわが主人公は考えた。「悪魔か何かがそこいらじへ自分の帽子を置いた。このちょっとした事実が、ある程度 ゴリャードキン氏の目を開けてくれた。彼。客が自分という ゅうを駟けまわったんだー 今日はきっとみんなだれも彼も まいましいオ 何か変になっているに相違ない。ちえつ、い よ人間を極度に必要としていることを悟った。そこで、この客 んて拷問だ ! 』のべっこんなふうに繰り返し巻き返し考えな に対していかなる態度をとるべきかについて、もはや心を苦 しめなくなった。つまり、当然な話ではあるが、客自身の出 から、ゴリャードキン氏は客を自分の部屋へ案内し、慇懃に 身席をすすめた。客は、どうやらひどくまごっいているらしようにまかせることとしたのである。客も客で、やはり口を 気おくれしたのか、多少恥すかしいのか く、むやみにおずおずして、うやうやしい態度であるじの一切らなかった、 分挙一動を見のがさぬようにし、その目色をうかがって、その主人の皮切りを待とうという礼儀心から出たのか、その辺は肥

10. ドストエーフスキイ全集1 貧しき人々

った。わが主人公はにやにや笑い、何やらロの中でつぶやき分を圧迫するような感じである : : : ゴリャードキン氏は、ふ応 ながら、いささか合点のゆかないふうではあったが、いずれと通りすがりに、例の鬘をかぶった顧問官をみとめた。顧問 にしても人間と運命に和解しきった様子で、人垣を押し分け官は厳しい、試験するような目つきで彼を眺めた、ゴリャー ながら、どこへやら進んで行った。一同は彼のために道を開ドキン氏に対する一同の同青こ、、 ーしささかも心をやわらげら けた。しかし、だれも彼もがなんとなく奇妙な好奇心を浮かれない様子であった : : : わが主人公は真っ直ぐにそのほうに べ、なんとも説明の仕様のない謎めいた同情を示しながら、近づいて笑いかけ、さっそく胸襟を開いて語り合おうと決心 彼を眺めていた。わが主人公は次の間に入った。どこへ行っ したが、それはどうしたものか、うまくゆかなかった。ゴ丿 ても、同様に注意の的であった。一群の人が自分の後からひャードキン氏はちょっと一瞬間、ほとんど前後を忘れて気を しめき合いながらついて来るのを、彼はおばろげながら感じ失ったのである : : : ふとわれに返った時、大きな輸を作って た。人々は、彼の一歩一歩に目を注ぎ、お互い同士に小さな自分を取り巻いている客達の間でうろうろしている自分に気 声で、何か面白そうな問題を論じ合い、首を振り、噂をし、 がついた。突然、次の間からゴリャードキン氏を呼ぶ声がし 評定をし、ひそひそささやいていた。・ コリャードキン氏、は、 た。その叫びはたちまち人々の口からロへ伝わった。あたり 何をみんながそんなに評定したり、ひそひそいったりしてい は騒然と波立って来た。一同は第一の広間の戸口を目がけ るのか、知りたくってたまらなかった。あたりを見まわすて、どっと押し寄せた。わが主人公は、ほとんど人々の手に と、すぐ傍に新ゴリャードキン氏がいるのに心づいた。彼ののせて運ばれないばかりであった。その時、例の石のような 手をとって、脇のほうへ連れて行かなければならない内部の 心を持った鬘の顧問官は、・ コリャードキン氏のすぐ傍につい 要求を感じて、ゴリャードキン氏は、第二のヤーコフ・ベト ていた。ついに彼はゴリャードキン氏の手をとって自分の傍 ローヴィチに、これからさきことを始める場合には、ぜひ力へ坐らせた。そこはオルスーフィ・イヴァーノヴィチの肘掛 を貸してはしい、そして危急の場合には自分を見すてないよ けいすの真向かいであったが、しかしかなり間を隔てていた。 うにと、しきりに折り入って頼み始めた。新ゴリャードキンそこに居合わせたすべての人は、ゴリャードキン氏とオルス 氏は鹿爪らしくうなずいて、旧ゴリャードキン氏の手をしつ ーフィ・イヴァーノヴィチを囲んで、幾つかの列を作って腰 かりと握りしめた。わが主人公は感情のるるままに、心臓を下ろした。あたりはひっそりと静かになった。一同は荘重 か激しく鼓動した。とはいえ、彼は息がつまりそうであっ な沈黙を守っていた。だれも彼もが明らかに、異常なことを た。なんだかむやみにぎゅうぎゅう締めつけられるような気待ち設けている様子で、オルスーフィ・イヴァーノヴィチを がした。こちらへ向けられている一同の視線が、なんだか自見つめていた。ォルスーフィ・イヴァーノヴィチの肘掛けい