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検索対象: ドストエーフスキイ全集10 悪霊(下) 永遠の夫
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1. ドストエーフスキイ全集10 悪霊(下) 永遠の夫

きびす ・ : 」固く男の手 うの、だけど恐ろしい、死ぬのが恐ろしい マヴリーキイの叫び声だった。ビヨートルはたちまち踵を転 じて、スタヴローギン家の門内へ引っ返し、大急ぎで自分のを握りしめながら、彼女はこうつぶやいた。 ーロシキイ 「ああ、だれでも、 しいから来てくれるといいのになあ ! 」彼 軽車に乗ってしまった。 ザのは絶望したように、あたりを見廻した。「せめてだれか通り マヴリーキイは恐ろしい驚愕におそわれながら、リー 傍に立った。こちらは、す早く身を起こしていた。彼は上か合わせの人でもあればなあ ! あなた、足を濡らしてしまい らかがみ込むようにして、女の手を両の掌に包むのであつますよ、あなたは : : : 気がちがってしまいますよ ! 」 た。この邂逅の奇怪きわまる情景は、彼の頭脳を震盪させて「大丈夫、大丈夫よ」と彼女は相手をはげました。「これで いいの。あなたが傍についててくださると、あたしそれほど しまった。涙は彼の顔を伝って流れた。今まで自分の崇拝し リこ、こんな天気に、外套もなく、昨日怖くはないわ。じっと手を握って、あたしを連れてってくだ ていた女がこんな時亥 さいな : : : そして、今あたしたちはどこへ行くんでしよう、 の華やかな衣裳を着けたまま ( それも今は揉みくたになっ しいえ、あたし殺された人たちをさきに見たいの。 て、しかも倒れたために泥まみれだった ) 、原中を狂ったよ家へ ? うに走っている姿を、目の前に見せられたのである : : : 彼はあの人の奥さんが殺されたんですとさ。そして、あの人のい うには、あの人が自分で殺したんですって。そんなことは嘘 ひと言も口をきけないで、無言のまま自分の外套を脱ぎ、震 える手で女の肩に着せ始めた。ふいに彼は、思わずあっと叫だ。嘘たわねえ ? あたし殺された人たちを自分で見たいの ・ : あたしのためなんですもの : : : あの人はね、あの人たち んだ。彼女の唇が自分の手にさわったのに気がついたのであ が殺されたために、一晩であたしが嫌いになったんですって る。 : あたし自分で見にいって、何もかも見抜いてしまうわ。 「リーサ」と彼は叫んだ。「ばくはなに一つ能のない男です さ、早く、早く、あたしあの家を知ってるんだから : : : あの が、どうかあなたの傍を追っぱらわないでください ! 」 「ええ、ええ。さあ、早くここを出てしまいましよう。どう火事のあった所よ : : : マヴリーキイさん、ねえ、あたしをゆ か、あたしをうっちゃらないでね ! 」彼女は自分のほうからるしちゃいけませんよ、あたしは穢れた女なんですから ! ええ、あたしみたいなものがゆるされるはずはないわ ! な 男の手を取って、さきに立ってぐんぐんしょ引くのであっ んだって、お泣きになるんですの ? さあ、あたしの頬っぺ この原中で、野良大みたいに殺してち たを打ってください、 「マヴリーキイさん」彼女はふいに声をひそめた。「あたし、 ようだい ! 」 あすこでは、始終、から元気を出してたけれど、ここへ来た ら、死ぬのが怖くなった。あたし死ぬの、もうすぐ死んじま「今、あなたを裁くものは、だれもありません」マヴリーキ こ 0

2. ドストエーフスキイ全集10 悪霊(下) 永遠の夫

いに身を起こして、目を輝かしながら、こういった。 ことは、火をみるよりも明らかだった。彼女は、そのままほ 「ニコライ・スタヴローギンは悪党です ! 」 かの産婦を見舞うのが、ついででもあれば近道でもあったけ こういうと、彼女はなぎ倒されでもしたように、カなく顔 れど、ヴィルギンスキイにこのことを知らせたかったので、 を枕にうずめながら、くず折れてしまった。ヒステリッグな わざわざわが家へ駆け戻った。 と、すすり泣きの声をあげて、じっとシャートフの手を握りしめ 「マリイ、あの女は、しばらく寝ないでいるほうがいいし たまま。 ったよ。もっとも、そんなことはずいぶんむずかしそうだが この瞬間から、彼女はもう一刻も、男を傍から離さなかっ ね : ・・ : 」とシャートフは臆病そうにいい出した。「ばくはあ た。彼女はシャートフに向かって、枕もとへ坐ってくれと、 の窓のところに坐って、お前を見ていてあげよう、ね ? 」 こういって、彼は長いすのうしろ側の、窓際に腰を下ろしどこまでもいい張るのであった。自分ではあまり話ができな た。で、彼の姿は産婦の目に入らなくなったわけだ。けれかったけれど、絶えず男の顔を見つめながら、さも幸福そう にほほ笑んでいた。彼女は突然ばかな小娘になってしまっ ど、一分と経たぬうちに、彼女は彼を呼び寄せて、枕の具合 を直してくれと、気むずかしげな声で頼んだ。彼は直しにかて、何もかもすっかり生まれ変わったようだった。シャート フは、時には子供のように泣くかと思うと、時には田 5 い切っ かった。こちらは腹立たしそうに壁を見つめていた。 ・ : なんて無器用な手て突拍子もないことを、奇妙な、むせ返るような、うちょう 「そうじゃない、ああ、そうじゃな、 てんな調子でしゃべり立てた。時には、マリイの手に接吻す でしようねえ ! 」 ることもあった。彼女は嬉しそうに聞いていたが、言葉の意 シャートフはまたやり直した。 「わたしのほうへかがんでちょうだい」できるだけ相手の顔味はよくわからなかったかもしれぬ。けれど、カの抜けた手 を見ないようにしながら、彼女は出しぬけに奇妙な声でこうで、男の髪をやさしくいじったり、撫でおろしたり、じっと 眺めたりするのであった。彼はキリーロフのことや、また二 彼はぎくっとしたが、いわれるままにかがみ込んだ。 人でこれから「新しく永久に』生活を始めようということ 「もっと : ・・ : そ、つじゃよ、 . : もっとこっちへ」というかとや、神の存在していることや、すべての人が善良だというこ 思うと、ふいにその左の手が、つと男の首にかかった。彼はとなどを話した。彼は歓喜のあまり、またしても赤ん坊を引 くちづけ き出して、眺めるのであった。 霊自分の額に力のこもった、しっとりした接吻を感じた。 「マリイ」両手に赤ん坊を支えながら、彼はこう叫んだ。「古 いうわごとも、屈辱も、死屍も、そんなことはみんなすんでた 悪彼女の唇は慄えた。彼女はじっと押しこたえていたが、ふ

3. ドストエーフスキイ全集10 悪霊(下) 永遠の夫

出た。彼は町々を歩きながら、何事か期待した。だれかにば ったり出会ってみたい、よしんば見知らぬ人でもかまわな 分析批判 い、だれかと言葉を交じえたい、こういう気持ちがしきりに 込み上げてきた。すると、それから自然と医者のことを連想 なみなみならぬ大きな喜びの感情が、彼の全幅を領した。 何かしら終わりを告げ、大団円となったのだ。何か得体の知し、手をちゃんと本式に包帯してもらわなくちゃならない、 れぬふさぎの虫がどこかへ行って、跡かたもなく霧散したのと考えついた。前から知り合いの医者は、彼の傷を診察し だ、と彼には思われた。思えば、このふさぎの虫は五週間もて、『どうしてこんなことになったのです ? J と不思議がっ た。ヴェリチャーニノフは冗談ー こまぎらして呵々大笑した つづいたのである。彼は手をあげて、血のにじんだ手ぬぐ が、実はあやうく何もかも打ちまけてしまいたかったのを、 をながめ、ロの中でつぶやいた。「いや。もう今度こそいよ いよ何もかもおしまいになったのだ ! 』そして、その朝じゅようやく自制したのである。医者はどうしても脈をとってみ ーザのことをほとんど考えもずにはいられなくなった。すると、昨夜の発作の頑末がわか う、三週間このかた初めて、 ったので、折りふし手もとにありあわせた何かの鎮静剤を今 しなかった。まるであの負傷した指から流れ出た血が、この 憂悶すらも「総勘定』をつけてくれたようなぐあいであっすぐ服用するようにすすめた。手のけがのはうも「なに別に 大した結果になる気づかいはありません』といって彼の気を 彼は恐るべき危険の過ぎ去ったことを、はっきりと意識し落ちつかした。ヴェリチャーニノフは声高に笑いながら、も た。「ああいう手合いは』と彼は考えた。『つまり、つい一分うさっそくすばらしい結果が生じたのだと、しきりにい、張 前まで殺すつもりか、どうか自分でもわかりかねるような連ったのである。何もかもうち明けてしまいたいという、矢も 中は、いったんふるえる手に刃物を握り、自分の指に熱い血楯もたまらぬ欲望が、この日また二度も彼の心に生じた。一 の最初のほとばしりを感じるが早いか、もう斬り殺すくらい度などは、まるで見も知らぬ男と喫茶店で落ち合った時、自 は愚かなこと、首さえ斬り落としかねないのだ。囚人の言葉分のほうから話を持ちかけて、あやうく口をすべらしかけた を借りていうと、「ちょんぎって」しまうのだ。それはそのほどであった。今までの彼は、外出先で知らない人に話しか けるなんて、大きらいだったのである。 とおりだ』 夫彼は家にじっとしていられなくなって、今すぐ何かしなけ彼は方々の店へ寄ったり、新聞を買ったり、ひいきの仕立 の ればならぬ、でなければ、必ず何か自然と、自分の身に持ち屋に寄って、服をあつらえたりした。ボゴレーリツェフ家を 永あがるに相違ないという確信をいだきながら、ふらりと外へ訪問するのは、いぜんとして考えただけでもいやだ「たの 6 てんまっ

4. ドストエーフスキイ全集10 悪霊(下) 永遠の夫

長いこと彼は蟾燭を手にしたまま、決しかねたようにたたきゃならないわけだ : : : ああ、また、またしても向こうがひ ずんでいた。いまドアを開けた一瞬間に、彼はほんのちらり っそりした ! 本当に恐ろしいくらいだ。出しぬけに戸を開 としか中の様子を見分けることができなかったが、それでも けたらどうだろう : : : 何よりもいまいましいのは、きやつが 部屋の奥の窓近く立っているキリーロフの顔と、ふいに自分坊主以上に神を信じてることだ : : もうけっして自殺なんか のほうへ飛びかかって来た彼の野獣のような、獰猛な意気組しつこないー : あの「自分相当のところへ行き着いた』連 とが目をかすめたのである。ピヨートルはぎくりとなって、 中が、このごろ馬鹿に殖えて来やがった。やくざ者め ! ふ 手早く蝋燭をテープルの上に置くと、ピストルを用意して、 う、こん畜生、蝋燭が、燭が ! もう十五分たったら、き 反対側の隅へ爪立ちでひょいと飛びのいた。で、もしキリー っとなくなってしまう : : : 早く片づけてしまわなきや。どん : ど、つなるも ロフがドアを開けて、ピストルを手にテープルのほうへ飛びなことがあったって、片づけなきゃならない : 出したにしても、彼はキリーロフに先んじて狙いを定め、引のか、こうなったら、もう殺したってかまわないのだ。この 金を下ろすことができるのだった。 手紙があったら、どんなやつだって、おれが殺したなどと、 自殺などということは、ビヨートルも今はまったく本当に考える気づかいはない。あいつの手に発射したビストルを握 しなかった。 らせて、床の上に具合よくねかしておいたら、必すやつが自 「部屋の真ん中に立って、考え込んでいたつけ』こういう想分でやったものと思うに違いな、 んえ、あん畜生、どう 念がまるで旋風のように、ビヨートルの頭脳を走り過ぎた。 して殺してやろうかなあ ? おれが戸を開けると、やつがま 「それに、真っ暗な恐ろしい部屋だ : : : あいっ恐ろしい呻き た飛びかかって来て、おれよりさきに火蓋を切ったら : : : え 声を立てて飛びかかったが、あれには二つの可能性が含まれえ、畜生、きっとしくじるに相違ない ! 』 てるわけだ、 つまり、あいつが引金を下ろそうとした瞬彼は相手の心中を測りかねて、自分の不決断に身を慄わし 間に、おれがかえって邪魔をしたのか、それとも : : : それと ながら、悩みつづけていたが、とうとう燭を手に取り、ピ も、あすこにじっと立っていて、どうしておれを殺したものストルをさし上げて身がまえしながら、戸口のほうへ近づい かと、考えてたのかもしれない。そうだ、それはそうに違い た。そして、蝋燭を持っている左の手で、錠前のハンドルを ない、あいっ考えてたのだ : ・ : もしあいつが臆病風を吹かし じっと抑えた。けれども、それが、つまくいカオカオノン たら、おれはあいつを殺さずに帰らないってことを、きやっ ドルがかちりと鳴って、軋むような音を立てたのである。 も自分で承知してるのだ、 つまり、あいつの身になった 「もうきっと射っ ! 』という考えが、ピヨートルの頭に閃め 悪ら、おれに殺されないさきに、自分のほうからおれを殺さな いた。彼はカまかせに足で戸を蹴放して、蝋燭を上げながら

5. ドストエーフスキイ全集10 悪霊(下) 永遠の夫

てんまっ うなぐあいであった。彼はものすごい勢いで、ぐいとパーヴ なたがわたしを斬り殺そうとされた頑末を話しましようか エル・ ーヴロヴィチの肩をつかんだ。 ね、 え ? 」 「もしわたしが、わたしがあなたにこの手を差し出したら」 「とんでもない、なにをおっしやる ! 」とパーヴェル・。、 あと ヴロヴィチはびつくりぎようてんした。「めっそうもない話と彼は左手の掌を出して見せた。そこには太い切り傷の痕が ですよ ! 」 まざまざと残っていた。「そうしたら、あなたはそれを握り ーヴロヴィチ ! 「パー . ヴ .. エル・ ーヴロヴ返したことでしような ! 」と彼は血の気が失せて、わなわな とふるえる唇でささやいた。 イチ ! 」と呼ぶふたりの声が、またしても聞こえて来る。 ーヴェル ーヴロヴィチも同じくさっと青ざめて、同 「じゃ、も、ついらっしゃ い ! 」とヴェリチャーニノフは、相 変わらずいい機嫌で笑いながら、やっとのことで彼を放してじく唇をわななかせた。何か痙攣のようなものが、ふいに彼 やった。 の顔をかすめて走った。 「では、きっとお見えになりませんな ? 」とパーヴェル・パ 「では、あのリーザは ? 」彼はおばっかない舌で、早口にさ ーヴロヴィチは、ほとんど命がけの様子で、最後にもう一度さやいた。すると、ふいにそのくちびるも、頬も、下あご ささやきながら、昔ふうに両の掌を合わせて、彼を拝むまねも、一時におどり出して、目から涙がさっとほとばしり出 までした。 ヴェリチャーニノフは、彼の前に化石したように立ちすく 「ええ、誓っていいますよ。断じて行きませんてば ! 早く かけだしていらっしゃい、あとが大変ですからね ! 」 んだ。 ーヴロヴィチ ! ノーヴロヴ / ーヴロヴィチに そういって、彼は勢いよくパーヴェル・。、 差し伸べて、思わずぎくっとした。パ 手を差し伸べた、 イチ ! 」と、まるで斬り殺されでもするように、けたたまし ーヴェル・ とたんに汽笛が ーヴロヴィチはその手を取ろうとしないのみ い声が汽車の中から聞こえたと思うと、 か、かえって自分の手を引っ込めたほどである。 ひびき渡った。 、ーヴ . エル . 。、 ーヴロヴィチははっとわれに返って、両手 第三鈴が鳴り渡った。 せつな と、その刹那、何かしら奇怪なことがふたりのうえに生じを打ち鳴らすと、一目散にかけだした。汽車はもう動き出し ていたが、彼はどうにかこうにかハンドルにしがみついて、 夫た。ふたりともまるで人が変わったようになったのである。 のつい一分前まであんなに笑っていたヴェリチャーニノフの内自分の車に首尾よく飛び乗った。ヴェリチャーニノフはその せき 〔水部で、何ものかがぐらっと動揺して、にわかに堰を切ったよまま停車場に居残って、ようやくタ景ちかいころについた次 」 0 けいれん

6. ドストエーフスキイ全集10 悪霊(下) 永遠の夫

調子で発作でも起こったようにすすり上げながら。 からね」 「さあ、お落ちつきなさい、お落ちつきなさい。ね、いい子 ダーシャは命を行なうべく飛んで行った。スチェパン氏は だから、ね、スチェパン・トロフィーモヴィチ ! ああ、ど 相変わらず、おびえたように目を見はりながら、じっと夫人 うしたらいいのだろう、本当に気を落ちつけてちょうだいよ を見つめていた。あおざめた唇はわなわな慄えていた。 「待ってちょうだい、スチェパン・トロフィーモヴィチ、待う ! 」と、夫人はやけに叫んだ。「ああ、あなたはどこまで ってちょうだいね、 しいでしよう ! 」夫人はまるで子供でもわたしを苦しめるんです。永久にわたしを苦しめるつもりな んですね ! 」 あやすようにいった。「ね、待ってちょうだい、今にダ 「ソフィャさん」ようやくスチェパン氏はこうつぶやいた。 ヤが戻って来たら : : : ああ、どうしたらいいんだろう、おか みさん、おかみさん、まあ、ちょっと、あんたでもいいから「あなたお願いですから、ちょっとあっちへ行ってくれませ んか、少し話があるんですから : : : 」 来てちょうだい、ねえ ! 」 ソフィヤはすぐに大急ぎで座をはずした。 夫人はじりじりしながら、主婦のほうへ駆け出した。 ンエリー 「親愛な人 : : : 親愛な人 : : : 」と彼は喘ぎ喘ぎいった。 「すぐ、今すぐあの女をもう一ど呼び返して。あの女を引き 「まあ、しばらく話をしないでいらっしゃい、スチェパン・ 戻すんですよう ! 」 幸いソフィヤはまだ家を出きらないで、例の袋と風呂敷包トロフィーモヴィチ。少し待って。しばらくお休みなさい みを持って、ちょうど門を出かかっているところだった。人よ。さあ、水をあげましよう。あら、お待ちなさいというの 人は彼女を呼び返した。彼女は極度の驚愕のために、手足さ えわなわな慄わしていた。ヴァルヴァーラ夫人は、鳶が雛っ夫人はふたたび椅子に腰を下ろした。スチエバン氏はしつ かりその手を握っていた。夫人は長いこと彼にものをいわせ 子でもっかんだように彼女の手を取って、しやにむにスチェ なかった。彼は夫人の手を唇へ押し当てて、続けさまに接吻 ハン氏のところへ引っ張って来た。 「さあ、このひとをあなたにお返ししますよ。ね、わたしだを始めた。夫人はどこか隅のほうに目をそらしながら、じっ って、このひとを取って食やしなかったでしよう ? あなたと歯を食いしばっていた。 「 Je vous aimais. ( わたしはあなたを愛していた ! ) 」とい、フ声 は本当に、わたしが取って食ってしまったと、考えてらしつ が、ついに彼の唇を破って出た。夫人は今まで一度も彼のロ たんでしよう ? 」 スチェパン氏はヴァルヴァーラ夫人の手を取って、自分のから、こんな言葉が発しられたのを聞いたことがなかった。 「ふむ ! 」と夫人は返事の代わりに呻くような声を出した。 目へ押し当てると、そのままさめざめと泣き出した。病的な

7. ドストエーフスキイ全集10 悪霊(下) 永遠の夫

「いや、そんなはずはない。火事は心の中にあるのだ、家の 「閣下」彼の傍へ一人の巡査が現われた。「お宅へお帰りに なって、おやすみ遊ばしたらいかがでございます : : : こんな屋根の上じゃない。あの男を引き摺り下ろせ。そして、何も 、つつ かも、フっちゃってしまえ ! うっちゃったほうがいい、 所に閣下が立っていらっしゃいましては、まことに危険でご ざいますから : ・・ : 」 ちゃってしまったほ , フがしし ! 勝手にどうなとなるがいし 後で聞いたところでは、この巡査は絶えずレムプケーののだ ! あっ、まだだれやら泣いている ! 婆さんだ ! 婆 傍へ付き添って彼を保護し、なるべく家へ連れて帰るようさんがわめいているのだ、どうして婆さんを忘れて来たん に努力した上で、何か危険が生じた場合には、腕力にすら訴だ ? 」 えなければならないという、明らかにこの巡査には及びそ なるはど、燃えさかる離れの階下のほうで、置き忘れられ うもない訓令を、警察署長から授かっていたのだそうであた老婆が声をかぎりに叫んでいた。これは家主の商人の親戚 る。 にあたる八十の老婆だった。もっとも、彼女は置き忘れられ 「家を焼かれたものの涙は拭いてももらえるだろう。しカ たのではなく、まだ火のついてない隅っこの小部屋から、自 し、町はすっかり焼き払われるに相違ない。これはみんなあ分の羽蒲団を引き出そうというむやみな考えを起こして、焼 の四人の悪党、ーー四人半の悪党の仕業だ。あの悪党の張本けている家の中へわれと引っ返したのである。その時はまだ 人を逮捕してしまえ ! 目ざす相手は一人だ、四人半のやっ入れた。が、すぐにその小部屋へも火がついたので、老婆は はそいつの泥をかぶっているんだ。あいつめときたら、よそ煙にむせ、火気にあぶられて、わめき叫びながら、それでも の家庭へ忍び込んで、その名誉を蹂躪するようなやつだ。そ毀れた窓ガラスの間から、よばよばした手で一生懸命に、羽 して、家を焼くために、家庭教師なんかをだしに使ったの蒲団を押し出そうともがいているのであった。レムプケーは だ。卑劣だ、実に卑劣だ ? あっ、あの男は何をしてるんそのほラへ救助に飛びかかった。彼が窓の傍へ駆け寄って、 だ ? 」ふと燃えさかる離れの屋根に一人の消防手を見つけ羽蒲団の隅に手をかけると、カまかせに窓から引っ張り出し て、彼はこう叫んだ。火は、その消防手の踏んでいる屋根をこ、、 冫カカったのは、一同の目にも映った。と、運悪くもこの瞬 突き抜けて、あたり一面に焔を吐いていた。「あの男を引き間に、毀れた板が一枚屋根から落ちてきて、不幸なレムプケ 摺り下ろせ。引き摺り下ろせ。落ちてしまう、焼けてしま ーに当たったのである。板は落ちる拍子に、ちょっとはじが 電う。あれを消してやれ : : いったいあれはあすこで何をして頸へ触っただけで、別に命を取るようなことはなかったが、 るんだ ? 」 レムプケーの公生涯は ( 少なくもこの町では ) 終わりを告げ 悪 「消しておるのでございます、閣下」 てしまった。この打撃に足をとられて、彼はそのまま知覚を した

8. ドストエーフスキイ全集10 悪霊(下) 永遠の夫

じろ見まわしていた。何やらしきりに思案をめぐらして、何かそれと違っていた。先ほどまでヒボコンデリイ患者であ やら決行しようとしているらしかった。男はちょ 0 と手を上り、猫疑心の強い苦労性な人間だったヴ = リチャ げて、額に指でも当てたようなふうであった。とうとう決心が、まるでがらりと変わってしまった。もうこれはまったく 別人であった。声を立てぬ神経性の笑いが、彼の胸からほと がついたらしく、彼はきよろきよろあたりを見まわした後、 ばしり出た。しめきった扉のかげで、見知らぬ男の一挙一動 足音を盗むようにつまだちで、せかせかと通りを横切った。 。しオ ( こを、手に取るように見透かしたのである。 果たせるかな、彼は門を抜けてくぐりのほうへま、つこ かんめき 「ははあ ! はいって来たな。あがって来やがったぞ。あた のくぐりは夏分、どうかすると、三時ごろまで閂をささな いことがよくあった ) 。『あいつ、おれのところへやって来るりの様子をうかがっている。階段の下の様子に聞き耳を立て んだ』という想念が、ちらとヴェリチャーニノフの頭をかすてるぞ。息をするのもこわごわで、ぬき足さし足だ : ハンドルに手をかけて、引っぱって見てやがる ! 鍵 めた。と、ふいに彼はまっしぐらに、しかも同じくつまさきあー ドアのをかけてないのを当てこんでやがるな ! してみると、おれ 立ちで、控え室の扉口まで走って行った。そして がときどき戸締まりを忘れるのを、ちゃんと承知してるん 前にびったり立ちどまると、期待の念に息を擬らしながら、 だ ! またハンドルを引っぱってるぞ。いったいやっこさ さきほど自分のさした栓にふるえる右手を軽くのせたまま、 やがて階段に響くであろうかすかな足音に、じっとけんめ いん、栓がはずれるとでも思ってやがるのか ? このまま別れ に耳を澄まし始めた。 るのが残念だ、手をむなしゅうして帰るのが残念だ、とでも い , フのかい ? ・』 心臓の鼓動があまり激しかったので、彼は見知らぬ男がっ まだちで階段をのばって来たとき、その足音を聞きもらしは案の定、すべては想像どおりらしかった。ほんとうにだれ せぬかと心配したほどである。事実そのものはよくわからな か戸口の外に立って、そっと聞こえないように錠のしまりを いなりに、彼は直覚的に、何もかもふだんに十倍するほどのためしてみて、ハンドルを引っぱっているのだ。そして 充実した鋭さで感知した。まるで、先ほどの夢が現実と溶け「もういうまでもなく、何か目的がある』に相違なかった。 合ったようなぐあいだった。ヴェリチャーニノフは生まれつけれど、ヴェリチャーニノフのほうでは、もうちゃんと問題 き胆の太い男であった。どうかすると、ほとんど何か一種のの解決案ができていた。彼は一種の歓喜の情をもって、息の 夫気どりに近いほど、危険を待ち受ける時の剛胆さを徹底さす合う瞬間を待ちもうけながら、身構えをして、折りをうかが の ことがあった。だれも見ていなくともかまわない、ただ自分っていた。彼はいきなり栓をはずして、出しぬけに扉をさっ 永に見とれるような気持ちなのである。しかし、今のはなんだ とあけ放し、そのまま「曲者』に面と面を突き合わせて見た

9. ドストエーフスキイ全集10 悪霊(下) 永遠の夫

い、いつもの彼の笑い方は、ふつう砂糖酢みたいな感じのす わたしはもう仰天してしまって、われとわが目を信ずること ができないほどだった。大尉はちょっと鼻白んだらしく、演るものだった ) 。手には一葉の書簡紙を持っていた。小刻み 壇の奥深いところに立ちどまった。とっぜん聴衆の中からな忙しい足どりで、彼は演壇の端へ進み出た。 『レビャードキン ! きみはいったい ? 』という叫び声が聞「諸君」と彼は聴衆に呼びかけた。「ちょっとした不注意の ために、滑稽な手違いが生じましたが、それもすでに片づい こえた。 大尉の愚かしい真っ赤な顔には ( 彼はすっかり酔いくらってしまいました。ところで、わたしはこの土地における詩作 ていた ) 、この叫びを聞くとひとしく、鈍そうな薄笑いがば家の一人から、きわめて懇切鄭重なる依頼を受けまして、成 っと広がったように思われた。彼は手を挙げて額を押し拭う功の希望をいだきながら、その任を引き受けたのであります ・ : それは外形こそなんでありますけれど : : : 人道的な高尚 と、もしやもしやした頭を一振りした。そして、もうどんな ことだってやって見せるぞ、と決心したように、ずかずかとな目的 : : : つまり、本県における教育のある、貧しい乙女た が、急にぶっと噴き出してしまちの涙を拭うてやろうという、われわれ一同をここに結東さ 二歩まえへ踏み出した、 った。あまり大きくないが、引き伸ばしたような、高く低くしたと同じ目的を、深く心にひめたこの紳士は、いや、その : なるべく名を出したくないという、平 ・ : 土地の詩人は : 揺れるような、さも幸福げな笑い声を立てながら、肥満した 体をゆり立てて、目を細めるのであった。このありさまを見素の希望にもかかわらず : : : この舞踏会の初めに : て、ほとんど聴衆の大半が笑い出した。二十人ばかりの者その、朗読会の初めに当たって、自作の詩が朗読されるのを は、手さえ叩いた。聴衆の中でも真面目な人々は、浮かぬ顔見たいと、熱望しておる次第であります。もっとも、この詩 : なぜとい つきで互いに目と目を見合わせていた。もっともこれはほんは番外で、プログラムに入ってはおりませんが : の三十秒たらすの間だった。突然、例の幹事のリポンを付けって、手に入ってから、まだやっと三十分ぐらいしかならん からで : : : しかし、われわれは ( いったいわれわれとはだれ たリプーチンが、二人の小使を連れて演壇へ駆け登った。小 使が用心深く大尉の両手を取ると、リプーチンは何やらそののことだろう ? とにかく、わたしはこの途ぎれ途ぎれな、 耳にささやいた。大尉は眉をひそめながら、「ふん、そうい覚東ない演説を、一語一語そのままに記しておこう ) 、驚く うわけならどうも」とつぶやいて片手を振ると、幅の広い背べき快活と、同様に驚くべき無邪気な感情を結合した点にお いて、この詩の朗読も或いは妙かもしれんと思ったのであり 電中を聴衆のほうへ向け、三人のものに伴われて姿を隠した。 しかし、すぐにまたリプーチンは、演壇へ飛びあがった。彼ます。もちろん真面目な作品としてでなく、ただこの盛会に 悪の唇には思い切って甘ったるい微笑が浮かんでいた ( いったふさわしいあるものとしてであります : : : 手短かにいえば、

10. ドストエーフスキイ全集10 悪霊(下) 永遠の夫

が、きみはなんということを仕出かしたのだ ? もしきみが田 「いったいあのスタヴローギン氏のくだらない陰謀が」リプあの男を出発させたら、何も起こらないですんだんだよ」 「しかし、あの男を演壇に出して、詩を読ませたら面白かろ ーチンはかっとなった。「共同の事業にどういう関係を持っ てるんです ? あの人が中央本部と何か秘密の関係を結んでう、という暗示を与えたのは、あれはあなたじゃありません いるのは勝手です。ただしそのお伽噺めいた中央本部なるも 「暗示は命令じゃありません。命令は出発させろということ のが、実際に存在しているとすればだが、そんなことは別に 知りたくもありませんよ。ところで、今度あの殺人が遂行さでした」 、ヂ」や 「命令 ? ずいぶん奇妙な言葉ですねえ : : : それどころか、 れて、警察が騒ぎ出した。糸を手繰って行けば、しまし ~ あなたは出発を中止するように命令したのです」 糸巻まで探り当てる道理ですからね」 「あなたがスタヴローギンといっしょに捕まえられたら、わ「きみは思い違いをしたのです。そして自己の愚劣と僣越を れわれも同様にやられることになるんですよ」と民情通がい暴露したのです。ところで、あの殺人事件はフェージカの仕 業で、下手人はあの男一人、つまり強盗の目的でやったこと い添えた。 「そして、共同の事業のためには、ぜんぜん無益なことですだ。きみは世間の噂を聞き込んで、それを信じてしまったん だ。きみはおじけがついたんだ。スタヴローギンはそんな馬 からね」とヴィルギンスキイが大儀そうに語を結んだ。 「なんてくだらないことを ! あの人殺しはまったくの偶発鹿じゃない。その証拠には、あの人はきよう昼の十二時に、 副知事と会見した後で、ペテルプルグへ立ってしまった。も 事件だよ。フェージカが強盗の目的でやったことじゃない し何かきみのいうようなことがあったとすれば、昼の日中、 力」 「ふん ! しかし、妙な暗合ですね」とリプーチンは体をもあの人をベテルプルグへ立たすはずがないじゃよ、 「そりやばくだって、スタヴローギン氏がみずから手を下し じもじさせた。 「お望みとあればいってしまおう、あれはみんなきみの手をたと、断言しやしませんよ」毒を含んだ無遠慮な調子で、 プーチンはこう引き取った。「スタヴローギン氏はばくと同 通して行なわれたことなんだよ」 「どうしてばくの手を通して ? 」 様に、なんにも知らなかったかもわかりませんさ。ねえ、ば くは羊肉が鍋へぶち込まれるように、この事件に引き込まれ 「第一にね、リプーチン君、きみ自身この陰謀に加担してた じゃよ、 たかもしれないが、わけは少しも知らなかった。それはあな オしか。また第二には、レビャードキンを送り出すよう に命令を受けて、金を渡されたのはきみじゃないか。ところたにも、わかり過ぎるほどわかっているはずです」