いいくらいだよ。もし何かの拍子で、わしにそんなことが起そのときふいに侍僕がはいって来て、来客を報じた。わた こるか、それとも人が勧めるかしたら、実際わしはことわっ しはまたもとの椅子に腰をおろした。 てしまうよ。え、考えてもごらん、わしが今日かりにクラブ 4 で食事をしておると、急にわしの体が、永久に腐らん聖物に なってしまうなんて ! それこそお笑い草だあね ! このこ 二人の婦人がはいって来た。二人とも処女だった。 一人は とは当時、わしがあの人にいっておいたがな : : : あの人は苦亡くなった公爵夫人の従兄の養女か何か、そんなふうの者 行の錘を体につけておったんだよ」 で、やはり彼に養育された娘の一人だったが、もうちゃんと わたしは憤怒のあまり真っ赤になった。 持参金を分けてもらって、自分の金というものを持っている 「あなたは自分で錘をごらんになったのですか ? 」 のだ ( これは後々の必要のためにいっておく ) 。いま一人は 「自分で見はせんが、しかし : アンナ・アンドレーエヴナ・ヴェルシーロヴァ、つまりわた 「それじゃ、ばくがあなたに断言します。それはうそです、 しより三つ年上のヴェルシーロフの娘である。彼女は兄とい 敵のたくらみが積り積った結果です。誹謗です。敵といってっしょに母方の里のファナリオートフ家に住んでいたが、わ もいちばん残酷な、いちばん非人情な一人をさすのです。な たしは今までこの女をたった一度往来でちらりと見受けたば ぜって、ヴェルシーロフの敵は一人しかないのですから : かりである。もっとも、兄のほうとはやはり一度モスグワで それははかでもない、あなたの娘さんです ! 」 衝突したことがある ( この衝突については、もし余白があっ すると今度は老公が激昻してきた。 たら、後で話すかもしれないが、実際のところ大したことで 「 Mon cher お願いだから、今後決してわしの前で、あのい もないのだ ) 。このアンナは子供の時分から、老公から特別 まわしい事件といっしょに、わしの娘の名を口にせんでくれの寵愛を受けていた ( ヴェルシーロフと公爵との交際は、ず たまえ、わしはかたくきみに禁じとくよ」 いぶん前から始まっていたのである ) 。 ばくは立ちあがった。彼はもうわれを忘れて、下顎がぶる わたしはさきほどの出来事で、すっかり狼狽してしまった、 ぶるふるえていた。 彼女ら二人がはいって来たとき、老公がすぐ立ちあがって出 「 Cette histoire infåme 一・ ・ ( あの不名誉な話 : : : ) わしはほ迎えたにもかかわらず、わたしはまるで席を立たなかったほ 年んとうにしなかった、どんなことがあってもほんとうにした どである。それかといって、後からのめのめ腰を上げるのも 成くなかった。それだのにみんながほんとうにしろ、ほんとう璃すかしかったので、とうとうそのままじっとしていた。何 未 にしらというので、わしは : よりもいちばんわたしがまごっいたのは、つい三分間まえ 3 おもり
「どんな場景だって ? わたしはいまでもやはり、しよっち念は彼らの心に消え失せて、今後はそれを新しいものにかえ なければならない。彼らが見捨てた神にたいする愛のおびた ゅうこんなふうなことを心に描いて見るのだ、なにぶんに だしい過剰は、そのとき自然とか、世界とか、人間とか、そ も、こればかりは考えずにいられないからね。わたしはとき おり想像してみるのだが、人間は神がなかったらいったいどの他一本一本の小さい草にまで向けられるだろう。人類は大 うしてやっていくのだろう、また、概してそういうことがで地と生活を愛するが、しかしそれはもはや昔日の愛ではな 。彼らは自然の中に、いままで想像もしなかった現象や、 」こますっかり白状し きるものだろうか。アルカーシャ、お前しし 秘密を発見するようになるだろうが、それというのも、彼ら てしまおう、わたしが再三再四到着した結論はだね、そうい うことはあり得ない、結局のところ、なんといってもわれわが「それを〕恋する男が、愛人を見るような目で見ることに とこ、つい、つわけだ。きっ なるからだ。しかも〔以前の功利主義者のように〕人間 れは、神に到着するのが落ちだ ! と、おそらくある時期がやってくるよ : : 論理の結果としてだ利得、功利、私欲、そして烈しい好奇心にのみ奉仕してい た前時代のように、刀やメスを手に持ってやるのとは違うん ね。〔さて、そこで〕わたしはこういうことを想像するんだ、 だ。彼らは目が醒めたように、互いに〔愛撫し〕接吻し、互 いっさいの塵埃と騒 戦争が終わって殺戮と呪詛と〔流血と〕 いに愛し合うだろう。なぜなら、一人一人のものがわれ人と 擾ののち、人間は思いがけなく自分たちがこの地上で一人ば もに生涯の日の長からぬことを知っていて、しかもそれがわ っちだということを意識しなければならなかった。そこには ちょうどグロード・ロランの絵にあると同じような、招くがれわれ各人の持っているすべてであることを承知しているか あか ごとき壮麗な、とはいえ人類の最後の日を証すような、沈みらだ。彼らはお互い同士のために働き合って、一人一人が自 分の財産を隣人に分かち与え、ただそれのみに幸福を見いだ く太陽があるのだ。そのときまで、人類を養い暖めてい しる〕もっと た偉大な力の源は、この太陽と同じように枯渇していき、人すに相違ない。すべての子供は「自分の周囲に、 も軽率な人間ですらが自分の父母に等しいことを感じ、理解 間は突如として自分が孤児になったことを痛感するにいこ 、。「たとえ明日が自分の最後の日になっても る。わたしはね、アルカーシャ、いままで人間というものするに過ぎなし を、感謝を知らないばかな奴だなどとは、どうしても想像すかまやしない ! 』と、一人一人のものは沈みいく太陽を眺め ノることができなかった。孤児のように一人ばっちになった彼ながら、こういうふうに考えるだろう。「おれが死んでも大 らは、たちまち前よりも密接に結びつき、一段と深い愛情をしたことはありやしない。なぜなら、彼ら一同が残るだろう 年もって互いに手をさしのべ、自分たちだけがお互いにとってし、彼らの後にはその子供らが残るだろうから ! 』この思 和すべてであるということを悟るだろう。不死という偉大な理想、ーーすべての人々が後に残って互いに愛し合い、細やかの
こんなやつらこそわたしはかえって奴隷だと思っているが、 この努力は情欲的な憧憬を伴なうのを常とする。 やつらはだれも彼もわたしをまごっかせるだけの力を持って おお、たしかに、あるものは奴隷的に繁栄した。 いなかった〕」 ( 夫人写本 ) しかし、またあるものは嫉妬と憤怒をもって。 ついこの間も、彼女はほとんどだれ一人にも注意しなかっ 「黄金時代、これこそかってこの地上に存在した空想の中 で、最も荒唐無稽なものだ。けれど人々はそのために全生涯 彼らの数はなかなかたいへんなものだったのに。 と全精力を捧げた。そのために〔十字架の上で〕死んだ : ・ ・ : それがロシャ貴族の憧れだったのだ。 Je 一 , gentilhomme avant 【 ou (. ( わたしはなによりもまず貴そんなことは別にしても、わたしはいっさいが過ぎ去ること 族である ) を知っていた、古い欧州の世界が跡かたもなく面影を消して しまうのを知っていた、 遅かれ早かれ、そのときはくる 彼らに関して。貴族的新憬。 のだ〔いますぐでなければ将来にね〕しかしわたしはロシャ 単に憧憬。われわれは千人いる、千人の中の一人 : ・ チャーツキイ。 の欧州人として「つまり口シャの貴族として〕それをうっち やっておくことができなかった : : : その当時広いヨーロッパ そして、わたしはヨーロッパでは何ものか ? にただ一人のヨーロッパ人もいなかった〔そして彼らすべて ヨーロッパでわたしは秩序に告別をした」 後に語られる作家、すなわちトルストイを指すものと想像せられる。 のうち、そもそもだれがわたしを理解することができたろ う ? くり返していうが、わたしは自分一個のことをいって いるのじゃないよ。アルカーシャ、未来の世界はロシャ人の 『ロストフ ( 民衆の中における ) 』 「農奴制度 ? お前はわたしが農奴制度に名残りを惜しんで思いのうちにこめられているのだ、ただロシャの教養人のみ しるとでも思 , つのかね ? ・ いや違うよ、アルカーシャ、そが世界的理念の捧持者なのだ〕わたし一人だけがすべての石 れどころか、わたしたちこそ解放者だったんだよ。皇帝が解汕屋に〔わたしの純ロシャ的な心は彼らの間におかれていた 放を命ぜられて、われわれがそれを実行に移したのさ : : : わのだ〕面と向かって、お前たちのチュイルリイの破壊は誤り だったということができた。すべての保守的な復讐者のあい ノれわれはそのときみんな報酬なんか少しももらいはしなかっ だにあって、 わたしは同じロシャ人として、やはり純な 鯏た、といって、やはり断わっておくが、わたしのような人間 心をもってこの連中といっしょにいたのだーーーチュイルリイ 年だけの話だがね〔新しい理想をだしに使って懐を暖めるよう を灰燼にしたのは論理的ではあるけれども、やはり誤りだっ 未なこそこそ泥棒や、自由を看板にする厚かましい大道香具師、 こ 0 0 イ 0
. た。グロード・ロランの絵に描かれた、招くがごとき偉大な分の財産を万人にわかち与え、ただそれのみに幸福を感する 。太陽と同じように、それまで彼らを養い暖めていた偉大な力に相違ない。すべての子供は、地上に住むあらゆる人が自分 の源泉は、次第に枯れていった。それはもはや人類にとっ の父母にひとしいことを知り、かっ直感するに相違ない。一 て、最後の日ともいうべきものだ。人々は忽然として、自分人一人のものは沈み行く太陽を眺めながら、こういうふうに ' がまったく 一人ばっちになったのを感じ、急に偉大なる孤独考えるだろう。『たとえ明日が自分の最後の日になってもか を痛感したのだ。アルカーシャ、わたしは今までどうしてまやしない。おれが死んでも、彼ら一同が残るだろう。また も、人間がばかになって感謝の念を知らなくなるなどとは、彼の後には、その子供が成長するだろう』この思想、ーーー人 想像することができなかった。孤独になった人間は、すぐさ人が依然として互いを愛し、互いのために胸をおどらせなが ま前よりさらに親密な愛情をもって、互いにひしと寄り添うら、生きながらえるだろうというこの思想こそ、来世におけ に違いない。いまこそ自分たちはお互い同士にとって生活のる再会の思想にかわるべきはずだ。ああ、彼らは心内の偉大 なる憂愁を消すために、急いで愛し合うべきはずなのだ。自 , 全部であると悟って、手に手をかたく握り合うに相違ない。 偉大な不死の理想は消え失せて、それを新しいものにかえな分自身はどうかというと、傲岸かつ大胆でありながら、お互 い同士の間では臆病なほど柔和になるだろう。一人一人が他 ければならない。今まで不死そのものだった神に対する愛の 偉大な過剰は、自然とか、人間とか、その他ありとあらゆる人の生命と幸福のために戦々恐々とするに相違ない。彼らは 草の葉にまで向けられるだろう。彼らは大地と人生を無節制互いにやさしくしあって、今のようにそれを恥すかしがらぬ ようになるだろう。そしてお互い同士子供のように愛撫しあ に愛するようになるだろう。が、 しかし自分たちのはかなさ うに違いない。途中で出会っても、意味ふかい目つきで互い や局限性を漸次自覚していくに相違ないのだから、それはも う一種特別な愛で、以前のような愛とはまるで違うのだ。彼に眺めあう。そして彼らの目つきには愛情と憂愁が読まれる らは以前想像もしなかったような現象や秘密を自然の中に観のだ : : : アルカーシャ」 察し、発見するようになるだろう。それは新しい目でーー恋彼は急に微笑を浮かべながら、自分で自分の話をさえぎつ する男が愛人を見るような目で、自然を見るようになるからた。 「こんなことはみんな幻想だ、それこそありうべからざる幻 だ。彼らは生命の短かさを意識しながら、これが自分たちに 年残された唯一のものであると直覚して、まるで夢からさめた想だ。だがわたしはあまりしよっちゅうこの幻想をくり返し 。成ようにあわてて互いに接吻し合い、愛することを急ぐに相違すぎた、今までこれなしには生きていくこともできなかった ! 禾ない。ノ 彼らはお互い同士のために働き合って、一人一人が自し、またこれを考えすにいることもできなかったくらいなの
力も、わかりすぎるほどわかっている。しかし、ロシャにおを、はっきり知っていた。しかし、それでもわたしはわびし ける最高文化思想の保持者として、わたしはそれを許容するかった。わたしはね、アルカーシャ、自分の貴族性を尊重し ことができなかったのだ。ロシャの最高思想は、あらゆる観ないわけにいかない。お前は笑っているようだね ? 」 念の融和なんだからね、その当時、世界でこういう思想を理「いえ、笑ってやしません」とわたしはしんみりした調子で 解しうるものはだれもなかった。で、わたしは一人で彷徨し いった。「決して笑いなどしません。あなたは黄金時代の夢 ていたのだ。わたしは自分一個のことをいってるのじゃな物語でばくの心を震撼してしまったのです。どうか信じてく ロシャ思想ぜんたいのことをいってるのだ。ヨーロッパ たさし冫 まくはあなたがわかりかけました。しかし、何より ではただ論争と理論があるばかりだった。フランス人は単にもうれしいのは、あなたが自分を尊敬なさっているというこ フランス人であるにすぎないし、ドイツ人はドイツ人であるとです。わたしは急いでそれを声明します。これはまるであ にすぎない。しかもそれが、彼らの歴史ぜんたいを通じてか なたから期待してなかったことなんですからね ! 」 って見られなかったほど烈しい緊張をともなっているのだ。 「わたしは前にそういったろう、お前の叫びが大好きだっ したがって、まったくその時代ほど、フランス人がフランスて」彼はわたしの無邪気な叫びに対して、またにつと笑っ を害し、ドイツ人がドイツを害したことは、未曾有といってた。そして肘掛けいすから立ちあがると、自分でもそれに気 いいくらいだ ! その時分は広いヨーロッパぜんたいに、 がっかず、部屋の中をあちこち歩きはじめた。わたしも同様 人のヨーロツ・ハ人もいなかった。ただわたし一人 だけが、すに腰を浮かした。彼は例の奇妙な言葉で話しつづけたが、そ べての石油屋の間にあって、彼らに面と向かって、お前たちこには深い思索の徹底が感じられた。 のチュイルリイは誤謬だ、ということができたのだ。ただわ 3 たし一人だけが、すべての保守主義的復讐者の間にあって、 チュイルリイは犯罪ではあるけれど、それでもやはり論理的「そうなんだ、アルカージイ、くり返していうが、わたしは だと、これらの復讐者にいうことができたのだ。だから、ア自分の貴族性を尊敬しないわけにはいかないのだ。ロシャに ルカーシャ、ただわたしだけがロシャ人として、当時のヨー は、世界じゅうどこをさがしてもほかの国に見られない一種 ロッパにおける唯一のヨーロッパ人だったのだ。わたしは自の優れた文化的タイプが、幾世紀かの間につくりあげられた 年分一個のことをいってるのじゃない。 ロシャ思想ぜんたいの それは万人のために悩む世界苦のタイプだ。これはロシ 成ことをいってるのだ。わたしは彷徨した、長いこと彷徨しヤ人のタイプなのだが、 しかしロシャ人民の中でも、文化的 未た。わたしは沈黙して、彷徨しなければならないということ上層階級に現われたので、したがって、わたしもこれに所属
たという権利を持っていたのはわたしだけだった。ただわた し一人きりだった。それというのもアルカーシャ、ただわた 写真。 しだけがロシャ人として、当時のヨーロッパにおける唯一の神聖なるロシャの女 : 欧州人だったからだ。 一と寝入りした。グロード・ロラン。 ママ。 「わたしはそうしてはいたものの、フランス人が単にフラン ス人であるように、またドイツ人が単なるドイツ人にとどま ママに対する愛について。 っているよ、つに、単なるロシャ人にとどまっていたよりも、 「神の草茎、生長せよ、そなたが愛をとおして限りなく繁殖 はるかに多く口シャのために奉仕したよ。〕わたしはね、アした後に」 9 ーシキンの家保存手記 ) ルカーシャ、自分の貴族性を尊重しないわけにいかない。お 前は笑っているようだね ? 〔ヨーロッパではまだ当分のあ「そりや、わたしも : : : 彼女といっしょになるとたちまち冷 いだ、だれもこういうことがわからないんだよ。〕」 めてしまう、それは自分でもあの時分から知り過ぎるほど知 「いえ、笑ってやしません」とわたしは言葉をはさんだ。「こ っていたが、そのときは何かしら別なものがこの遊戯じみた れはまるであなたから期待していなかったことなんですから関係の中にあった。そのときわたしはまったく一新された感 ね。 情をもって彼女を待ち焦れていた。それはあとで自分に確め 〔わたしはいままで、あなたがそれほどの信仰を持っていらたことだが、わたしは限りなくソーニヤを愛する、しかもき っしやろうとは思わなかった : : これはど断固たる言葉を口 ようはいままでのいつにもまして、だ」 ( 夫人写本 ) になさろうとは : : : 〕」 「ヴェニス、ローマ、 : それはわたしにとってロシャ わたしの想念 ( その後彼女にたいする恋から生じた狂気の よりも懐かしい。ただ未来の思念においてのみ、 その未形式で ) 9 ーシキンの家保存手記 ) わたしはロシャをヨーロッ * その後とは、ヴェルシーロフの青年に対する告白の後 ( コマローヴィ 来を担うものはロシャだが、 チの解釈 ) 、彼女はもちろんアフマーコヴァである。 パぜんたいの人類よりも高く見つもるのだ , ・ロシャは ただ一佃の国として自分自身のためにのみ生きているのでな C 万人のために、まるで千年の間、一個のロシャ〕ヨーロ 「けれど、ここでわたしはいつも別の場景を想像したもの ッパのために生きているのだ」 ( 同前 ) 「どんな場景です ? 」 0
いたのだ。だって、わたしはお前のお母さんをほんとうに抽ひそんでいる愛、お前のお母さんに対する愛の深さを、完全 象的でなく、心から愛していたんだからね。もしそういう愛に了解するようになった。それまでは、自分がどれほどソー ニヤを愛しているか、かいもくわからなかったんだからね。 し方をしていなかったら、わざわざ迎えをやったりなどしな いで手近なドイツ人かドイツ女を「幸福にした』はずじゃなあれといっしょに暮らしているときは、あれの顔が美しい間 もしそういう想念を考え出したとすればさ。とこだけ慰みものにして、それから後はわがまま放題にやってい ろで、生涯のうちにただ一人の人間でも必ず何かで幸福にすた。ところがドイツへ来てから、あれを愛していることがや ること、ただし実際的にはんとうに幸福にすること、 っとわかった。それはソーニヤのこけた頬からはじまったの れをわたしはすべての教養ある人のために掟としたいよ。そだ。わたしは心の痛みなしには、どうしてもそれを思い起こ れはちょうどすべての百姓に対して、ロシャ植林の目的のたすことができなかった。それどころか、ときとすると形容で めに、一生涯にただの一本でも木を植えるということを、法なしに、文字どおり生理的な痛みを感じないでは、まともに 律あるいは義務にしたいと思うのと同じ理屈なのさ。ただ 見ることができないほどだった。アルカーシャ、まったくほ し、一本だけじやたりないだろう。一年に一本ずつ植えるよんとうの痛みをもたらすような病的な追憶が存在するもんだ うに命令してもいいね。最高の教養を受けた人が、高尚な目よ。それはほとんどだれにでもある。ただ人はそれを忘れて 的を追及するうちに、すっかり実際上のことからそれてしま いるのだが、何かの拍子でひょっこり思い出すと、ほんのち って、滑稽で冷淡な気まぐれ者になってしまう、いや、それよっとした一線一画でも思いおこすと、それこそもう追い払 どころか、ばかになってしまう例も少なくない。 しかも、実うことができなくなる。わたしはソーニヤと暮らしていた時 際生活ばかりでなく、しまし。 、こま自分の理論のほうでもばか代のデテールを、数かぎりなく思い出すようになった。はて になってしまうのだ。こういうわけで、実地の仕事に従事しはそれがひとりでに心に浮かんできて、払っても払ってもっ て、実践的に一人の人間でも幸福にするという義務は、し きまとうのだ。わたしはソーニヤを待っているあいだ、ほと さいの過失を償い、その当人をも更新させるに相違ない。 こんどへとへとになるはど悩み抜いた。何よりもわたしを苦し れは理論としてははなはだ滑稽なものだが、 しかし実行に移めたのは、彼女がいつもわたしに卑下した態度をとってい されて習慣となってしまったら、それこそ、決してばかにでた、そのことに関する追憶なのだ。あれはあらゆる点におい 肉体的にさえ、わたしより限 きない。わたしは自分でそれを実験したのだ。この新しい訓てーーまあ、どうだろう、 戒に関する思想を発展させはじめると同時にーーーむろん初めりなく劣っていると考えていたのだ。わたしがときおりあれ は冗談半分だったがーーーわたしは忽然として、自分の内部にの手や指を見つめると、あれは恥ずかしそうにして、さっと
らず、わたしの頭に、もうそれこそまったく無意味な一つの度もなかったという、実際的な結論があるにすぎない。 てっとりばやくいうと、わたしは簡単明瞭に彼に言明し 疑問が、のべつうかんできた、いや、今でもうかんでくるの た、ーー事件が名誉に関する異常なものだから、介添人とし だ。『今ああして、みんな一生懸命にもがいたり、あがいた りしているけれど、しかしこんなことはみんな、だれかの夢て出かけてもらえるような人は、ペテルプルグじゅうに彼を ところが、彼はわたしの昔馴染みだ にすぎないかもしれない。今ここにはだれ一人として、ほんおいて一人も知らない。 から、わたしの頼みを拒絶する権利はない。そこで、わたし とうの真実な人もいなければ、また一つとして実在の行為と いうものもないかもしれない。もしとっぜん、こういう夢をはこんど近衛中尉ソコーリスキイ公爵に決闘を申し込もうと ふいに何もかもばっと消思う。理由は一年あまり前、彼がエムスでわたしの父ヴェル 見ている人が目をさましたら、 こういう意味の えてしまうかもしれない。だれだって、そうでないという反シーロフに平手打ちをくらわせた事件だ 証を挙げうるものはないではないか ? 』しかし、わたしはあことをしゃべったものである。ここでちょっとことわってお くが、ズヴェーレフはわたしの家庭の事情も、わたしとヴェ まりわきのほうへそれすぎた。 ルシーロフの関係も、ぜんたいとしてヴェルシーロフの件に 前もってことわっておくが、どんな人でも、一生に一度く らい、思いきってとっぴな、一見して狂気の沙汰としか思わっいてわたしの知ってることは、ほとんど残らず詳しく知っ れないような企てや、空想をいだくことがあるものだ。わたていた。それはわたし自身がそのときどきに話して聞かせた しもこの朝そうした一つの空想をいだいて、ズヴェーレフののだ。もっとも、二三の秘密はもちろんこのかぎりでない。 ところへ来たのである。わたしがズヴェーレフを選んだの彼はいつもの癖で、籠の雀よろしく妙にふくれ返りなが は、ほかにそんな相談を持ちかけられるような人が、ペテルら、じっと耳を傾けていた。白っぱい髪を振り乱して、ぶよ プルグじゅうさがしても、だれ一人いなかったからで。とこぶよ肥えてむつつりした顔は、ばかにまじめくさっている。 ろが、ズヴェーレフはどうかというと、もしちょっとでもわそして、じっと据わって動かぬ嘲るような徴笑が、しじゅう たしに選択の余裕があったら、必すいちばん最後にそういう彼の唇に浮かんでいる。この徴笑は当然こしらえものでな く、自然に出てくるものだけに、なおわたしはいやでたまら と思われるような人物だっ 相談をもちかけたに相違ない、 た。わたしが彼の前に座を占めたとき、なんだか妄想と奇矯なかった。見受けたところ、彼はこの瞬間、はんとうに自分 の権化が、中庸と散文の権化と相対したように、われながらのほうが頭脳からいっても、性格からいっても、わたしなど うわて 感じられるものだ。しかし、わたしのほうには理念と、正義よりずっと上手だと、信じているらしかった。おまけに、彼 の感情があるけれども、彼のほうにはそんなことはついそ一は昨日デルガチョフの家で起こったことのために、わたしを ノ 44
っぜん自分の獲物の前に立ちはだかって、いかつい高慢ちきているが、一人の教師が ( それが後にも先にもたった一人き な目つきで、まじまじとしばらくのあいだ観察している。新りであった ) 、わたしの心は『復讐的な市民的観念に充ち 米はその前に無言で立ったまま、臆病者でないかぎりじっとている』と評した。しかし、全体からいうと、人々はこうし 横目を使いながら、何か起こるだろうと覚悟しているのだ。 た言行を、わたしにしてみれば一種いまいましい、考え深そ 「きみの苗字はなんてえの ? 」 うな態度で眺めるのだった。とうとう学生仲間の一人が ( こ 「に . ルゴル 1 ・キ・ 4 」 れはすこぶる皮肉な少年で、わたしは一年に一度くらいしか 「ドルゴルーキイ公かい ? 」 話をしたことがない ) まじめくさった顔つきをしながら、そ 「いや、ただドルゴルーキイなの」 れでもちょっとそっぱを向いて、わたしにこういうのであっ 「ああ、ただかー 実際、彼のいうとおりだ。公爵でもないくせに、・ 、「ル・コル 「そういう感情は、もちろん、きみの価値を増すゆえんで、 きみは立派に誇るべき理由を持ってるに違いない。 ーキイ翁しを名のるほどばかげたことはないのだ。このば かばかしさをわたしは罪なくして、一生涯しよってまわってばくがきみの位置に立ったら、私生児に生まれたってこと るのだ。その後、わたしがもうだいぶん怒りつばくなったこを、そんなに祝いはしなかったろうよ : : きみはまるで命名 ろ、 日にあたった人みたいだものね ! 」 「きみは公爵かい ? 」という問いに対して、 それ以来、わたしは私生児ということを自慢しないように よっこ。 「いや、ばくはもと農奴だったお邸つき百姓の子だ」 といつも答えたものである。 くり返していうが、ロシャ語で書くのは実に骨が折れる。 それからまた後で、わたしがすっかりふてくされてしまつわたしはもうまる三ページ、自分の苗字のために一生涯業を たとき、きみは公爵かという問いに対して、一度きつばりこ煮やした頑末を、こまかい文字でいつばい書きつぶしたけれ う答えたことがある。 ど、きっと読者はわたしが業を煮やしたのは、公爵ならぬた 「いや、ただドルゴルーキイだ。もとの主人筋にあたるヴェ だのドルゴルーキイであるがためだ、という結論を帰納した ルシーロフ氏の私生児だ」 に相違ない。しかし、もう一度説明しなおしたりするのは、 わたしがこれを考えだしたのは、中学の六年級のときであわたしにとって屈辱である。 った。そして間もなく、ばかなことだと気はついたけれど、 それでもこのばかはなかなか急にやめなかった。今でも覚え 学 ) 0
ところで、このマカール・イヴァーノヴィチのほか、大勢イ ( 彼は当時陰気くさい人物だったという ) の結婚の望みを いた邸つきの召使の中に、十八ばかりになる娘が一人あった しりぞけなかったばかりでなく、かえってどういうわけか、 が、そのとき五十になるマカールが、とっぜんこの娘と夫婦熱心にこれに賛成したのである。ソフィヤ・アンドレエヴナ になりたいという希望を表明したのである。だれでも知って ( これは例の十八の娘、つまりわたしの母の名である ) は、も のとおり、農奴制時代のお邸つきの召使の結婚は、主人の許うなん年間か、まるつきり身寄りのない孤児になっていた。 可をえなければ成立しなかった。時とすると、頭からその命ところが、生前非常にマカールを尊敬していて、しかも何か 令によって行なわれることもあった。 彼に恩を受けたことのあるソフィヤの父親 ( やはり邸つきの 当時、領地内に叔母さんがいた。といっても、実際のとこ百姓だった ) がその六年前いまわの際に臨終の床で、 ろ、この人は叔母さんではなく、一本立ちの女地主であったの話では最後の息を引き取る十五分前だったそうだから、し うわ′一と が、どういうわけか知らないけれども、一生涯この人のこと たがって必要次第では譫言にしてしまうこともできるわけ を、単にわたし一人の叔母さんのみでなく、ヴェルシーロフだ。実際それでなくとも一介の農奴として、権利を持たぬ人 の家族全体の叔母さんであるかのように呼びならわして、 間なのであるーー - ーマカールを枕もとへ呼び寄せて、下男たち た。また実際この人とヴェルシーロフ家とは、ほとんど親戚のみんないるところで、僧侶を前に据えて、自分の娘を指さ 同様の関係になっていたのである。それはタチャーナ・ しながら、しつかりした思い入った調子で、『この子を育て ヴロヴナ・プルトコーヴァという婦人であった。その時分こて嫁にもらってくれ』といったそうである。このことはだれ へつに管もが聞いて知っていた。 の人も同県同郡に三十五人の農奴を持っていたが、。 理をしていたというわけではないけれど、近所同士のよしみ マカールはどうかというに、その後はんと、フにこの娘と結 で、五百人の百姓を持っているヴェルシーロフの領地の監督婚した。けれど、それがどういう意味なのか、つまり非常に をしていた。この監督は、わたしの聞き及んだところでは、 満足を感じたのか、それとも単に自分の義務をはたすためな 学問のある管理人の監督にも匹敵するくらいだという話であのか、そのへんはわたしにもわからない。しかし、彼がその った。もっとも、この人の技倆なんそ、わたしの知ったこと ときとんと無興味な様子をしていたというのが、もっとも真 ではさらさらない。わたしはただひとこと世辞や追従をいっ実に近いらしい。彼はもうその時分から「自己を発揮する』 年さいぬきにして、このタチャーナ叔母は心のきれいな、しか ことのできる人物だった。彼はべつに読書家とか物知りとか 成も一風変わった人物であることだけつけ足しておく。 いうわけでもなければ ( もっとも、彼は教会の勤行を全部知 未 ところで、この婦人が陰気くさいマカール・ドルゴルーキりつくし、いろいろな聖者の伝記などことによく心得ていた 9