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検索対象: ドストエーフスキイ全集11 未成年
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1. ドストエーフスキイ全集11 未成年

も、妹も、タチャーナ叔母も、故アンドロニコフの遺族も って起こした訴訟が、勝訴になる望みがあって、彼は近いう R ( これはその三か月ばかり前になくなった役所の課長であり、 ちに価格七万ループ リか、あるいはそれ以上の領地をもらえ 同時にヴェルシーロフの財産に関する事務も切りまわしてい るかもしれないのだが、それはしばらくいわないでおこう。 た人で、遺族というのはうようよと数えきれないくらいの婦前にも述べたとおり、このヴェルシーロフは今までに、三つ 人だった ) 、まるで祟り神かなんぞのように彼を恐れ敬っての遺産を使いはたしたものだが、今度もまた遺産で窮境から いた。これはわたしの想像しえなかったところである。 救い出されるわけである ! この事件は近く法廷で決せられ ちょっといい添えておくが、九年前の彼は、比較にならぬることになっていた。わたしがやって来た目的もここにある はど瀟洒たる紳士だった。前にも一言したとおり、彼はわたのだ。しかし、希望を抵当にはだれも金を貸してくれない。 しの想像の中で後光でも背負っているような具合だったの借りるところがどこにもないので、当分やりくりをつづけて で、どういうわけであれからたった九年やそこいらの間に、 いるわけであった。 ああまで老けて世帯ずれがしたのかと、不思議なくらいだっ しかし、ヴェルシーロフはよくいちんち家をあけるくせ た。わたしはとたんにもの悲しいような、涙ぐまし、、ら し耳ずに、だれのところも訪ねて行かなかった。もう一年あまり前 , かしい気持ちを覚えた。彼の姿を見るということが、わたし 、彼は社交界を追い出されたのであろ。この事件は、わた の上京後、何よりも苦しい第一印象の一つだった。もっとも、 しがペテルプルグへ来てから、ひと月も暮らしているにもか 彼はまだ決して老人ではなかった。やっと四十五になったば かわらず、どんなに骨を折っても、いちばんかんじんな点が かりなのである。だんだん観察しているうちに、わたしは彼いまだにわからないのだ。いったい彼に罪があるのかないの の有している美の中に、わたしの記憶が保存していたもの以 これがわたしにとって重大な問題なのだ。わたしが ・上に、人の心を打っ何ものかを発見した。あの当時の華々しやって来たのも、要するにこれがためである。あるうわさの さ、押出しの立派さ、優美さは少なくなっているけれど、し ために、だれも彼もが彼に背を向けてしまったのだ。その中 かし生活はこの顔の中に、以前よりもはるかに興味のある何には、日ごろ彼が上手に関係を保ってきた勢力家の貴顕紳士 ものかをしるしたのである。 も、少なからずあった。そのうわさというのは一年あまり とはいえ、貧窮は彼の失敗の十分の一、もしくは二十分の前、彼はドイツできわめて下劣な行ないをしたうえに ( 何よ 一くらいのものであった。わたしはそれを知りすぎるほど知 りも悪いことには、『社交界』の人を目の前に据えてやった っている。貧窮以外はるかに重大なものが迫っていた。一年のだ ) 、また、そのとき、他ならぬソコーリスキイ公爵家の ばかり前ヴェルシーロフが、ソコーリスキイ公爵家を相手ど一人からみなの面前で平手打ちさえ受けて、しかもそれに対

2. ドストエーフスキイ全集11 未成年

索に没頭する癖をどうしてもやめられないのでね。それでも・ 「わたしはそっと近寄って彼女を接吻した」 わたしはいつもこの空想の画面を、あのハイネの書いたパル 「ひとつお前に秘密をうち明けよう」 あれ チッグ海上の幻といったようなもので結んだものだ」 ( 同前欄外 ) 、 「わたしは急に彼女のことを思いだして、愛情を感じた」 「あれはケーニヒスペルグまでさえこなかった」 「 : : : ねえ、かわいいアルカージイ、お前は二三日前に熱中し 彼女に関して、 「それは断じて情欲ではない、彼女に 対する愛がどんな種類のものだったか、わたしもわからない」てある一言を口にだしたね、わたしはその一言にひどく驚か これは明らかにソーニヤではなく、アアマーコヴァである。 された。それはほかでもない『端麗さ』という言葉だ。お前 は、わたしの解釈したところによれば、わたしたちはその端 時々額にしわが寄って、憎悪の色さえ浮かべる。 「わたしの錘がどうかって ? そんなことはみんなくだらな麗さを持たなければならないと思ってるらしいね。お前は自 い話だよ ! それでもね、一つだけお前に告白しよう、わた意識というものを獲得してからこの方、それをさがし求め しは『彼』なしに人類を想像することもできないくらいだって、そのためにわたしたちに背中を向け、どこかにそれを見一 つけだそうと前進をはじめたらしい。それはまあ、たしかに た」 ( 同前 ) 正しいことだ。わたしはお前に端麗さを示すことができない のを自分でも知っているから、わたしはいままでお前を呼ば 順序 なかった。お前はほとんど偶然にこのモスグワへやって来た ヴェニスと人々。 クロ、ーにー・ロ一フン。 わけだ。それにしても、お前は到底想像もできないだろう が、お前がその端麗さを高唱しはじめてから、どれだけ二人 実現されたる神秘、しからずんば無神論。 の間が接近してきたか、またわたしもお前をどんなによく了 キリストの出現。 、。『いったいおれたちは 解するようになったか知れやしなし 母に関する思いがけなき想念。 ほんとうにそれほどよく似ているのだろうか ? 』とわたしは 彼女。 ( 同簡 ) ひとりで考えてみて、これまでにも増して内心ひそかにお前 「アルカーシャ、これは単に幻想でしかない、むしろはんとが好きになったのだ。そのときわたしはそれについていささ 佐げ , つらしくないといっても 、いはどだ。しかし〔誓っていうか反省してみたところ、結局お前は自分自身について、いっ こう何も新しいことをいいはしなかった、それはみんなわた 年が〕わたしは〔未来の世界ということを考えるとき〕よくこ しが二年前、いやおそらく五年も前から知っていたことだ、 未の幻を目の前に見るのだ。というのは、わたしはこの種の思 あれ の 9

3. ドストエーフスキイ全集11 未成年

的となるべきものは、アルカーシャ、わたしとお母さんとのしが再びわが家へ帰ったとき、わたしの心は、いわば暗翳に 2 あれ 関係を知りたいと思ってる、そのお前の希みなのさ。彼女が閉ざされてしまった」 ( 同前 ) いっさいを理解することができたとい , フことは。 この憂 鬱症の中に更生の胚子が含まれているのだよ。わたしはお母 わが愛する夢想家よ , さんのことを想いだし、お母さんのことを空想しはじめた。 黄金時代と無神論の夢想家よ 「修道僧のような戒律 : ・・ : もしなんなら、錘といってもいし これこそわれになによりも貴きものなれ : ほんとうの想念 : これそまさしくわれに欠けたるものなれば 「わたしはお母さんのこけた頬のために貴族の思想の多くが ( 同前 ) 根底のないものとなるような気がするよⅢ」等。 ( 同前 ) 「わたしはあの老人を抱いて、接吻した、それはお前も見て 知っている、わたしはあの男の話を聞いて感激したよ。わた しはあの男を一個の貴族と認める。そしてね、ロシャの民衆 がぜんぶ貴族になるときも遠くはないと信ずる : : : わたしは この来るべき真実を直感した、理解した、だから無益な苦痛 冫冫し力ないのた。なんといっこ のために悲しんだりするわナこ、、 って、すべては神の王国で終わりを告げるだろうからね。こ の無益な苦痛のゆえにわれわれはともかくも神の王国に入れ るのだ」 ( 同前 ) 「そして、彼からあれだけの侮辱を加えられておきながら、 彼女が彼に手紙を送ろうと決心し、まるで足もとから鳥が立 つように、どうか自分をゆるして結婚してくれと頼んだと ま、まさに、 一つの驚異ではないか ! ああいうことがあっ たあとで、どうして彼女は彼に合わす顔があるのだ ? わた

4. ドストエーフスキイ全集11 未成年

眺めると、その中に何があるだろう。いまに技師たちが神秘その前に、 三十五年も前に、この珍しいものを見たことがあ田 という神秘をあばきつくして、何ひとっ残してくれやしなるなどとは、ヴァレリャーヌイチの前で、そぶりにも見せな そのことが合点ゆくだろうよ』ほんとうにこういったのかったよ。なにぶん、どえらい得意な様子で、みんなに見せ だ、わしはちゃんと覚えておる。ところでな、わしはこの顕ていなさるのが、ちゃあんとわかっておったのでな。そこ 微鏡を、それより三十五年も前に、アレクサンドル・ヴラジで、わしはわざとびつくりしたり、たまげたりして見せたく ーミルイチ・マルガーソフのとこで、見たことがあるのだ。 らいだ。そのときビヨートル・ヴァレリャーヌイチは、期限 ヴェルシ ーロフ それは、アンドレイ・ベトローヴィチ ( ) の母方の叔父を切「てわしに問いをかけられた。その期限が来たとき、 御にあたる、わしたちのご主人様でな、この方の亡くなられ『さあ、爺さん、今日こそお前の考えを聞かせてもらおう』 た後で、そのご領地は、アンドレイ・ベトローヴィチのものとおたずねなされた。わしはまず会釈をしてこういった。 のたま になったわけだ。立派な旦那さまで、えらい大将で、素晴ら「神、光あれと宣いければ、すなわち光ありき』すると、ビ しい猟大隊をかかえておいでなされた。わしも長年、勢子をヨートル・ヴァレリャーヌイチはふいにすかさず、「闇あり っとめたものだ。ちょうどそのころ、この方がやはり同じ顕きじゃないのか ? 』そのいい方が実にどうも奇妙で、にやり 微鏡をお備えになった。やつばり外国から持ってお帰りにな と変な笑い方までなさるのだ。そのとき、わしが不思議そう ったものだそうだよ。そこで、家じゅうの召使は、男といわな顔をすると、先方は腹の立ったような風つきで、びったり ず女といわず、一人一人そばへ寄って拝見したものだ。ご多口をつぐんでしまわれた」 「そりや、なあに、わかりきってますよ。あなたのビヨート 分にもれず、蚤だの、虱だの、針の先だの、毛筋だの、水の 雫などを見せてもらったのだが、いや、もう面白いことだっ ル・ヴァレリャーヌイチは、僧院で聖飯を食べたり、礼拝を たよ。みんなそばへ寄るのが怖いのだ。それに、日一那さまも したりなんかしているけれど、神様は信じていないんです 亠、つこ、 癇の強い人だったからな。中には、まるつきよ。あなたは、ちょうどそういうときにぶつつかったんで す、それだけのこってすよ」とわたしはいった。「そのうえ、 り何も見ずにすました者もある。こう目を細くするのだが、 なんにも見えやしない。また中にはおじけづいて、大きな声先生かなり滑槽な人間じゃありませんか。きっとその前に十 をするものもある。百姓頭のサーヴィン・マカーロフなどペんくらい、顕微鏡をみたに相違ないんだが、なんだって十 は、両手で目をふさいじまって、『たとえどんな目にあわさ 一ペんめになって、急に気を狂わせたんでしよう ? れたって、 ・ : 僧院で練りあげたんで 行きやしねえ ! 』とわめきだす騒ぎだ。そり神経質な感受性じゃありませんか : ゃいろいろ笑い草がもちあがったものだ。けれども、わしはすね」

5. ドストエーフスキイ全集11 未成年

酒屋へもって行って、すっ裸になるまで飲んじまうのだ。出れから五人の子供が残った。若い後家さんが、亭主なしにや て来るときにや、正真正銘の裸一貫、糸屑ひとっ身についてっていくのは、巣のない燕と同じこって、なかなかなまやさ おりやせんわ。それからもう一つおまけに、やつらは恥知らしいことじゃない。ところが、そのうえに五人の小さいもの ずだ。居酒屋の前の石に腰をかけて、泣き言をならべだすじ がいて、それに食わしてやるものさえない始末だからな。た ゃなしか。「ああ、おっ母、いったいなぜお前は、こんな箸った一つ残った財産は、木造家屋一軒だったが、それまでマ かた にも棒にもかからん酔っぱらいを、この世へ生み落としてくクシム・イヴァーヌイチが、借金の抵当にとりあげようとし しっそお産のと れたんだ ? こんなやくざな酔っぱらいは、、 た。母親は五人の子供を、みんな教会の玄関のわきにならば きに、押し潰してくれりやよかったものを ! 」まあ、ぜんたせた。いちばん上が八つになる男の子で、あとはみんな女ば いこれが人一間かい ? 人間じゃありやせん、獣だ。あんなやかり、しかも年子だった。長女が四つで、いちばん下はまだ つらは、まず何よりも一番に、教育してやらにゃならん。金母親に抱かれて、乳を飲んでおるありさまだ。祈蒋式がすん をやるのはそれからの話だ。いつやったらいいか、そいつはで、マグシム・イヴァーヌイチが出て来ると、五人の子供は おれがちゃんと承知しとる』 ずらりとならんで、その前に膝をついた、 つまり、母親 マクシム・イヴァーヌイチは、アフィーミエフ町の人たちがその前に教えこんだのだ、 そして、みんな揃って紅葉 をこんなふうにいっておった。そのいい方もよくないに相違のような手を合わせたものだ。すると、母親も五人目の子供 なしが、でもはんとうはほんとうだった。町の人たちは意気をかかえたまま、大勢の見ておる前で、地べたに額をつけて 地なしで、こらえ性というものがなかった。 お辞儀をした。 同じこの町にもう一人の商人が住んでおったが、これはそ『マグシム・イヴァーヌイチ、どうかこの身なし児をかわい の後死んでしまった。まだ若いので、軽はずみな人間だったそうと思って、たった一つ残った財産をとりあげないでくだ しんし上う し、それに火事でまる焼けになって、身上ありったけ棒に振さい、生みの家から追い出さないでくださいまし ! 』すると、 ってしまった。死ぬ当年などは、まるで砂の上へ抛り出されその場に居合わせたものはだれもかれも、みんなもらい泣き なんとも実によく教え込んだものだった。後家 た魚同然に、もがき通したが、しかし、とうとう命数がっきをした、 さんの考えでは、「人の見ている前ではつい気まえを見せて、 たわけだ。マクシム・イヴァーヌイチとはしじゅ、つ折りあい が悪くって、しかも借金で頭があがらなんだ。臨終の間ぎわ少しは容赦してくれるだろう。身なし児に家を返してくれる だろう』という腹だったが、どっこいそうはいかん。マクシ でも、マグシム・イヴァーヌイチを呪いつづけたほどだっ た。いよいよ死んでしまうと、その後にまだ若い女房と、そム・イヴァーヌイチは足をとめて、『お前は後家といっても

6. ドストエーフスキイ全集11 未成年

とうと、つみなで二百人近くの大人数になった。それはみんな 「いや、清浄潔白なお方で、高尚な考えを持っておられた よ」と老人はしみじみとした調子でいった。「それに、決しアニーキイ、グリゴーリイ両尊者のありがたいお遺骸に口を つけようと思って、急いで行く人たちなのだ。前の晩はな、 て無信者ではない。ただ知恵が深い深い森ほどあって、心に 落ちつきがないだけなのだ。このごろそういう人が、貴族やお前、みんな野宿をしたものだが、そのあくる日、わしは朝 学者がたの中から、ずいぶんたくさん出て来たよ。もう一つ早く目をさました。まだみんな寝ておって、お日様も森のか わしはお前にいっておくがな、そういう人は自分で自分を罰げからおのぞきにならないくらいだった。わしはな、頭をも するようになるのだ。お前さん、そういう人たちは避けて通ちあげ、あたりを見まわして、ほっと溜息をついたよ ! ど 何もかもひ るようにして、うるさがらしちゃいかんよ。そして、夜ねるこも、かしこも、一一一口葉につくされぬ美しさだ ! っそりとして、空気はいかにも軽そうでな、その中で草が伸 前には、そういう人たちのことを、祈り添えておくがよい。 小鳥が歌っておる、 よびているのだ、草よ、伸びていけー そういう人たちこそ、神様を求めておるのだからな。お前。 鳥よ、歌え ! 一人の女の手に抱かれた赤ん坊が、細い声で ねる前にお祈りをするかえ ? 」 泣く、小さな人間よ、神様のお慈悲で仕合わせに大きくなれ、 「いや、そんなことは無意味な形式だと思っています。だが あなたのビヨー 幼いものよ ! そのときわしは生まれてはじめて、こういう ばく、正直にいわなくちゃなりません、 トル・ヴァレリャーヌイチは気に入りましたよ。すくなくとものをすっかり、自分の中へ収めたような気がした : : : それ からまた横になって、なんともいえないほど軽い気持ちで寝 も、乾物なぞじゃなくって、なんといっても人間ですよ。し 入ったよ。この世に生きておるのはよいものだよ、お前ー かも、お互いにとって縁の近い人に、お互いのよく知ってい こうして、わしはなんだか身が軽くなったような気がする、 に ~ いくらか似たところがありますよ」 る一人の人」 老人は、わたしの答えの前半だけにしか注意をはらわなかまた生涯の春に戻ったようなあんばいだ。神秘があるという こともかえってけっこうなくらいだよ。それは恐ろしい気持 「お前、お祈りしないのは間違っとるよ。お祈りはけっこうちもするが、また不思議でもある。この恐ろしさは、結局、こ ころを浮きたたせてくれる。『神よ、すべては汝の中にあり、 なものだ。心が浮き浮きしてくるよ。寝る前でも、寝て起き たときでも、夜中に目のさめたときでもな。これはわしがおわれ自身も汝の中にあり、乞うわれを受けよ ! 』といった気 年前によくいっておくよ。この夏の七月の月に、わしはボゴロ持ちだ。不平をいってはいけないよ。お前、神秘があるのは、 かえって美しいことなんだからな」と彼は感にたえたように 成 ードスキイ修道院のお祭りに急いで出かけたが、目ざすとこ つけ加えた。 未ろが近くなればなるはど、だんだん道づれがふえていって、 379

7. ドストエーフスキイ全集11 未成年

に両の掌を前で合わせた ( これは母の癖なのである ) 。 高慢なんだ。それを思うと、ばく腹が立ってたまらない ! 」 「自分こそ熊の子みたいな無作法もののくせに、他人に礼儀「今日 ? 」タチャーナはいきなりぎくっとなった。「そんな ことがあるはずはない。 もしそうなら、あの人が話をしてる 作法の講釈をしてるよ。ねえ、あなた、これからさきお母さ はずだ。あの人はあんたにその話をして ? 」と彼女は母のほ んのいる前で いえ、わたしのいる前でも、「ヴェルシー はんと うへ振り向いた。 ロフ』などと名呼びにするのは、お控えなさい、 「あ、 え、今日ということは話しませんでしたよ。だか うに聞いていられやしない ! 」とタチャーナ叔母は目をぎら ぎらさせた。 ら、わたしはまる一週間というもの、心配のしどおしでした 「お母さん、ばくきよう月給をもらって来ましたよ、五十ルの。もう敗訴になってもかまわないから、ただ少しも早く、 さあ ! 」 こんな心配から肩を抜いてしまって、またもともとどおりの ープリ、どうか受け取ってください わたしは母に近寄って金をわたした。彼女はとたんにそわ暮らしに返りたいと、わたしは、ほんとに祈らないばかりで そわしだした。 したの」 「まあ、わたしはどうしたものかわからないねえ ! 」まるで 「じゃお母さん、あの人はあなたにもいわなかったんです ね ! 」とわたしは叫んだ。「なんて人間だろう ! さあ、こ 金に手をふれるのが恐ろしいように、彼女はそういっこ。 わたしは入口点がい力なカた れがあの人の高慢で冷淡な実例ですよ 。、まばくがなんと、 いました ! 」 「何をおっしやるんです、お母さん、もしあなたがばくを自 「どうきまったんだろう、判決はどうだったろうかねえ ? 分の家族だ、息子だ、兄だと思ってくださるなら : : : 」 「ああ、アルカージイ、わたしが悪かった。ちょっとね、おぜんたいだれがお前さんにそんなことをいったの ? 」とタチ ってばさ 前に白状しなければならぬことがあるのだけど、どうも気にヤーナ叔母はあわてだした。「さあ、早くお かかることがあるのでね : : : 」 母は臆病な、機嫌でも取るような微笑をうかべながらいっ 「ほら、本物のあの人が来てますよ ! 多分あの人が自分で た。わたしはまだなんのことやらわからずさえぎった。 話すでしようよ」ふと彼の足音が廊下でするのを聞きつけ 「ついでにちょっとおききしますが、アンドレイ・ベトロー て、わたしはこういい、大急ぎでリーザのそばへ腰をおろし ヴィチと、ソコーリ スキイ公爵家の訴訟事件が、きよう法廷 で判決になったこと、お母さんは知ってらっしやる ? 」 「兄さん、後生だから、お母さんを気の毒だと思って、アン 「ああ、知ってますよ ! 」と彼女は叫んで、さも恐ろしそう ドレイ・ベトローヴィチに短気なことをいわないでちょうだ ノ 06

8. ドストエーフスキイ全集11 未成年

で挨拶しないことがあった。それに、、 しつも今より少し早めしお邪魔でなかったら、しばらくここにすわらしていただき に帰って、屋根裏の居間へ食事を持って来てもらうのが常例ますよ」 だった。ところが、今度は入りしなにとっぜん、『ご機嫌よ 「まあ・ : ・ : 何をいうんです ! しいとも、すわってらっしゃ う、お母さん』といった。こんなことは、今までついぞなか 、。ノ、よ 7 も、ファン ) レ ったのである。が、それでも一種の羞恥心のために、今度も 「お母さん、心配しないでくださし しいてまともに母の顔を見ることができず、部屋の向こうのイ・ベトローヴィチ ( ー ヴルシ ) に、無作法なことなんかいやし 端に腰をおろした。わたしはひどく疲れていたが、 しかしそませんから」とわたしは一気にいってのけた。 んなことは念頭になかった。 「おや、まあ、このお方ったら、なんというお慈悲ぶかいこ 「この無作法ものは、やはり前と同じように、不行儀千万なとだろう ! 」とタチャーナ叔母が叫んだ。「ねえ、ソーニヤ はいり方をしているんですね」とタチャーナ叔母がわたしに さん、あんたはまだこの子にあなた言葉を使ってるんじゃな くってかかった。 いの ? この人はまあぜんたいどんなお身分の人でしよう。 彼女はこうした悪口を、前から無遠慮に浴びせていたのこんなに祭り上げられるなんて、しかも自分の生みの母親か で、こんな話し方がわたしたち二人の間のしきたりになってら ? まあ、ごらんなさい。あんたはこの子の前で、すっか し ( った。 りまごっいてしまったじゃないの、なんて恥さらしでしょ ・」わたしがあんな挨拶をしたので、とたんう ? 」 「ばく自身もね、お母さん、あなたがばくにお前といってく にまごっいてしまった母は答えた。「ご飯はもう前から用意 してあるんですよ」と母はほとんどきまり悪そうな調子でつだすったら、非常にうれしいんですがね」 「ああ、そう : け足した。「だが、スープが冷めていなけれま、、、、、 冫ししカね、カ ・よに、よろしい、そうしますよ」と母はせ ツレツはわたしがすぐに、、つけて : ・ : ・」 きこみながらいった。「わたし : : : わたしだって、いつでも 彼女は急いで立ちあがり、勝手へ行こうとした。と、わたそういってるわけじゃないんですよ : : : ええ、これから心得 しは初めて、ーー。・実際まる一か月の間に初めてかもしれな ますよ」 母がわたしの用事をするためあまり気軽に飛びあが 母は顔を真っ赤にした。彼女の顔はどうかすると、実にな 年るのが、急に恥ずかしくなった。今までわたしは自分からそんともいえないほど、魅力をおびてくることがあった。彼女 成れを要求していたのである。 の顔はきわめて素朴だったけれど、決して間が抜けていたわ 米「ありがとう、お母さん、ばくもう食事をしたんですよ。も けではない。血の気の少ない、やや蒼褪めただ。煩はひど

9. ドストエーフスキイ全集11 未成年

た。この日記の最後の一節は、発射の寸前に記入したものでめるため酒を一ばい飲もうと思ったが、そうすれば血の出か刀 あり、ほとんど真暗な中で、字形さえ弁ぜずに書いたのだ、 たが多くなるだろうと考え、やめてしまった』と書いてあっ としるされてあった。彼は自分の死後火事などひき起こすのた。すべてこういったような調子なのだ、とヴァーシンは言 葉を結んだ。 を恐れて、蝋燭をつけなかったとのことである。 「いったんつけたものを発射の前に、ちょうど自分の命と同「あなたは、それも下らないことだというんですね ! 」とわ たしは叫んだ。 じように、また消してしまうのはいやだ」ほとんど最後の行 「いつばくがそんなことをいいました ? ばくはただ写しを こういう奇妙なことがつけ足してあった。 この自殺の前の日記は、おととい彼がペテルプルグへ帰るとらなかっただけです。しかし、下らんことでないとして とすぐ、まだデルガチョフのとこへ行かない前に書き始めた も、実際あの日記はかなり平凡なもの、というより、むしろ のだ。わたしが彼のもとを辞してからは、ほとんど十五分ご自然なものでした。つまり、こういう場合に、とうぜん書か とに書き入れをしている。ことに最後の三四節は、もう五分れるべき種類のものなんです : : : 」 おきくらいに書き込んでいるとのことだった。ヴァーシンが 「しかし、なんにしたって、最後の思想じゃありませんか、 この日記を長いこと、自分の目の前にすえておきながら ( 彼最後の思想ですよ ! 」 はそれを読ましてもらったのである ) その写しをとっておか 「最後の思想は、どうかすると、非常に下らないことがある なかったのを、わたしはぎようさんにいぶかり咎めた。それもんですよ。ある一人の自殺者が、やはりあんなふうな日記 に、日記は全部で大判一枚くらいのものだし、感想もみんなの中で、こうした重大な瞬間だから、せめて一つでも『高遠 短いものばかりだったというから、なおさらである。 な理想』が訪れてもよさそうなものだのに、かえってどれも これもみな浅薄な、空虚なものばかりだ、と訴えています 「せめて最後の一行だけでも、写しとけばよかったのに ! 」 するとヴァーシンはほほ笑みを含みながら、彼の感想はまよ」 るつきり系統がなくって、頭に浮かんで来ることを乱雑に書「寒けがするというのも、空虚な思想ですか ? 」 とこういうのだ。わたしは、それ「きみはほんとうに、寒けや血のことをいってるんですか ? き込んでいるにすぎない、 がこの場合何よりも貴重なのだと論じかけたが、それはすぐところがね、こういう事実が一般に知れわたっていますよ、 にやめてしまい、何か思い出して話してくれ、とねだりだし 自殺といなとを問わず、眼前に迫っている自分の死を考 た。彼は死ぬちょうど一時間まえに書いた幾行かを、思い出える力のあるものは、たいていあとにのこる自分の死骸の体 してくれた。それには『寒けがして仕方がないので、体を暖裁を心配するのですよ。この意味でグラフトも、血がたくさ

10. ドストエーフスキイ全集11 未成年

この家ではだれに俸給を請求するのか、とたずねた。する いった形で、わたしを一枚加えたのである。けれども、わた と、彼はあきれたような薄笑いを浮かべながら、わたしを見 しはすぐに書斎に移された。そして、ほんのお体裁だ つめた ( 彼はわたしをきらっていたのだ ) 。 も、書類や帳簿を前に置かないことがしよっちゅうあった。 「じゃ、きみは俸給をもらっているんですか ? 」 わたしは今、もうとうの昔しらふに返った人間として、 いにひきつづいて、『いったいなん わたしは、彼がそのに 多くの点において、ほとんど傍観者としてこれを書いて いるのだ。しかし、あの当時わたしの胸に食い込んでいた憂のためです ? 』といい足すだろうと思った。 愁や ( わたしは今それをなまなまと思い出す ) 、夜な夜な寝けれど、彼はただ『なんにも知りません』と答えて、罫を 引いた帳簿の中へ首を突っ込んでしまった。彼はそれへ何か られないくらい渾沌とした、熱病やみのような状態に陥っ の紙きれから、勘定を書き入れているのだった。 た、あの当時のわたしの動揺を、どんなに描き出したらいい のだろう、 しかも、それらはみんなわたしの性急から起もっともこの男だって、わたしが何やかやしたということ こったのである。わたしがあまりふんだんに自分で自分に謎は、まんざら知らないはずはないのだ。二週間まえに、わた っ しはちょうど四日間、彼が自分で渡してくれた仕事にかか をかけたがためである。 ていたのである。それは下書きを清書するのだったが、結ー一 / 2 としては、ぜんぶ文章を作り替えることになってしまった。 金を請求するということは、たとえ俸給のようなものでそれは、老公爵が株主総会へ提出しようと企てていた、いろ も、もしどこか良心の奥のはうに、自分はそれを受ける価値んな『思想』の雑然たる堆積だった。それをすっかり一つの がないと感じた場合、実になんともいえないいやなものであ統一あるものにまとめて文章を直さなければならなかった。 る。ところが、前の晩、母は妹とひそひそ相談しながら、ヴわたしはその後、老公爵といっしょに、この書類を前に置い エルシーロフに内証で ( それは『アンドレイ・ベトローヴィて、一日じゅうすわり込んでいた。彼はむやみに熱くなっ チに心配をかけないため』なのだ ) 、なぜか母にとって大切て、わたしと議論したが、結局、わたしの仕事に満足の意を な聖像を、厨子の中から取り出して、質屋へ持って行くこと表した。ただその書面を提出したかどうかは知らない。それ にきめたのである。わたしは五十ループリで勤めていたのだ から公爵の乞いによって、これもやはり事務上の手紙を二三 が、どうしてそれを受け取ったものか、皆目わからなかっ通書いたけれど、そんなことなそわたしは改めていわないこ とにする。 た。わたしをここに入れるとき、なんともいってくれなかっ 俸給を請求するのがいまいましかったわけは、まだ一つ別 たからである。三日ばかり前、下で例の官吏に会ったので、