仰ぐのをゆるがせにしなかったのはいうまでもなく、読者に ンによって創作段階、執筆年代別に整理され、詳細な注が 対してはなはだしく良心のやましさを感じないですむのでは つけられており、ドイツ語版とことなって、ドストエーフ ないかと考えている。 スキイの創作の経路を仔細に追うことを可能にする貴重な ′ー 1 三ロ 資料である。なお「ノート』原本の保管場所も、文書保存 『未成年』の創作ノート解説は、第三次個人訳全集の第十局と学術研究機関の改組によってかわり、現在は国立文 七巻のために、昭和二十七年十二月に書かれたものであ 学・芸術中央文書保存局 ( モスクワ ) 、国立レーニン図書 る。この時から現在まで、『創作ノート』に関しては二つ館 ( モスグワ ) 、科学アカデミー・ ロシャ文学研究所 ( プー の重大な変化があった。 シキンの家 ) ( レニングラード ) の三個所となっている。 一つは、第三次全集で、『罪と罰』ノート なお、ロシャ語版『末成年』ノートが日本の書店に入っ が Z 版の たのは、昭和四十一年春であった。 フランス語訳をテキストとして、それをププノワ女史にロ シャ語に還元してもらい、さらにそれを日本語に訳すとい ( 一九六九・一〇米川哲夫 ) う方法がとられたが、その後ソヴェート版の原書を入手す Ⅲ「偉大なる罪人の生涯』について ることができ、新しく口シャ語から全訳して、本全集に収 つみびと 録された。 『偉大なる罪人の生涯』は、『未成年』に対して直接のつな 一八六九年から一八七〇年へかけて、ドストエ 「未成年創作ノートについて』の解説では、第三次全集のがりはない。 解説から、この間の経緯にふれた部分がけずってある。そ ーフスキイは新婚の妻とともに外国を放浪中、ロシャの全社 の外の部分はまったく第三次全集のときのものと同文であ会を抱擁するような大長編を構想した。その題名は初め『無 るが、現在ではソ連での事情が、『解説』に述べられてい 神者』後に『偉大なる罪人の生涯』と改められた。その るのといちじるしく異っている。これが第二に指摘しなけ覚え書は一八六九年の十二月二十日から始められ、一八七 0 ればならない点である。 年一月二十四日に終わっており、かの『悪霊』のノートの書 一九六五年 ( 昭和四十年 ) にモスグワのナウカ出版所かき留められたレーニン図書館 ( モスグワ ) 保存の手帖第二号 ら、シリーズ『文学遺産』の第七十七巻として、ソ連ではの一部を成している。しかし、この覚え書はついに独立の作 が刊行された。他のどの作品としては完成されなかったけれども、その根底において 説じめて『未成年』の創作ノート 品のノートより豊富な「未成年ノート』は、四六倍版三百「未成年』に一脈相通するものがあるのは、読むもののひと 解七十六ページにおよぶ大冊であり、編者・・ドリーニしく首肯するところであろう。その共通点は未成年アルカ
うが、わたしはまだこのことを彼女に知らせていないのだ。 なかったそうである。人の話では、もと彼はどこかで顧問官 わたしはたちまち悟った、 みながわたしをこの病的なをしていて、一度なぞは彼に委嘱されたある事件で抜群の功 老人のところへ入れたのは、ただ彼を『慰める』だけのため績を立てたとのことである。わたしは彼を知ってからひと月 で、それが、『勤務』の全部なのであった。もちろん、これにもなるけれど、彼に顧問官を勤める力があろうとは、しょ はわたしにとって侮辱だった。で、わたしはすぐに相当の策せん想像することができなかった。 を講じようと思ったが、そのうちに間もなくこの年とった変わたしは気がっかなかったけれど、人々の観察によると、 人が、わたしにある思いがけない印象を与えた。それは憐愍あの発作後、彼はなぜか一時も早く結婚したいという、妙な といったようなものだった。そしてひと月の後には、妙にこ傾向を次第に増してきて、なんでもこの一年半の間に一度な の老人に親しみを感じてきた。少なくとも、無作法な真似をらず、この希望の実現に手を着けたことがあるそうだ。この しようという考えは棄ててしまった。もっとも、彼は六十をことは世間でも知っていて、中にはそれを気にかけている向 越してはいなかった。この人にはある容易ならぬ事件がもちきもあるらしい。しかしこの希望は、老公爵をとり巻いてい あがったのである。 る人々の利害と、あまりにはなはだしく背馳するので、老人 一年半ばかり前、彼は急に発作を起こした。どこかへ旅行は四方からみなに監視されることとなった。彼自身も家族と いうのはごく少なかった。彼はもう二十年からやもめで通し の途中、発狂したのである。それで一時、醜い騒ぎが起こっ て、ペテルプルグでもだいぶうわさに上ったものだが、そうていて、子というものは、娘一人きりしかなかった。それは 目下きようあすにも、モスグワからの帰来を待たれている将 いう場合の常套策として、彼はすぐ外国へ連れて行かれた。 ところが五か月ばかりたって、とっぜんまた姿を現わした。軍未亡人で、まだ年の若い婦人であったが、彼は疑いもな そして、官職こそやめてしまったけれど、ぜんぜん健康な人 く、その気性を恐れているのであった。そのほか、彼には数 と変わりがなかった。ヴェルシーロフはまじめな、しかも目限りのない遠縁の親戚があった。それはおもに、亡くなった 立って熱心な調子で、発狂などということはまるでなかっ夫人の筋で、みんなほとんど乞食同然の境涯だった。まだお た、あれはただ一種の神経的な発作にすぎない、 と主張しまけに、彼に養われて恩になった男や女がうんとあり、それ た。この熱心な調子を、わたしはさっそく見て取ったのであが揃いも揃って遺言の端くれをあてにしているので、みんな る。もっとも、わたし自身もはとんど彼と意見を同じゅうし将軍未亡人の老人監督に加勢しているのだ。 それに、彼は若いころから、貧しい娘を方々へ嫁にやると ていた。ただ老人はどうかすると、年に似合わず度はずれに 軽はずみな真似をするようだった。そんなことは以前決して いう奇妙な癖があった。滑槽な癖かどうか知らない。彼はも
ヴロヴナに世話を頼んだ。この人はそういう場合、すぐどこそれどころか、かえってできるだけものものしい改まった調 子で、きわめて一般的な出来事や、一般的な感情 ( もし感情 からか飛び出して来た。 彼らはモスグワにも住んだし、ほかの村や町にも暮らしたをそう呼ぶことができるならば ) の報知だけにしようと努め し、おまけに外国へまで行ったあげく、とうとうべテルプルているらしかった。まず第一に自分の健康の報告、それから 相手方のご機嫌うかがい、つづいて希望の言葉と、しかつめ グに落ちついた。こういうことは後で詳しく話すとしよう。 それつきりなのである。実際この らしい挨拶と、祝福、 いやそうする値打ちもない。ただ一ついっておこう。マカー ルと別れてから一年後に、わたしがこの世に生まれたのであ一般的で没個人的なところに、この社会の上品な調子と、社 る。つづいてまた一年あとで妹ができた。それから今度は十交術の最高知識が現われているように思える。 『最愛の妻ソフィヤ・アンドレエヴナに、くれぐれもよろし 年か十一年たって、病身な男の子、ーー、、、わたしの弟が生まれた が、これは何か月かの後に死んでしまった。この子のお産でくご鳳声下されたく願い上げ候し 苦しんだために、母の容色はすっかり消え失せてしまった。 『愛子にも永久に亡ぶることなき父の祝福を授け中し候』 少なくとも皆がそういっている。彼女は間もなく老い込ん といったような調子である。「愛子』はだんだんとふえて で、よばよばしはじめた。 いくにしたがって、一人ずつ名前を挙げて書き並べてあっ しかし、マカール・イヴァーノヴィチとの関係は、それでた。わたしもその中にはいっているのだ。ついでにちょっと しい添えておくが、マカールは「尊敬すべきアンドレイ・ペ も決して切れなかった。ヴェルシーロフ一家がどこにいて ヴェルシ も、一つところに幾年も暮らしているときでも、旅から旅へ ーロフ トローヴィチ』 ( ) のことを、決して自分の「恩人」と 動きまわっているときでも、マカールは必ずこの「家族」に書かなかった。そのくせどの手紙でも、くれぐれも彼の慈悲 自分の近状を報ずるのだった。何かしら妙な関係、幾分ものを乞うたり、また、自分自身に神の祝福を乞い願ったりして、 ものしい まじめくさった関係が生じたのである。貴族の生このうえもない敬皮の意を示していた。そのくらいマカール 活ではこうした関係には、なんとなく滑稽な分子がまじりがは皮肉なのだ。マカールへの返事は、いつでも母がさっそく ちのものだが ( それはわたしも知っている ) 、この場合に限出すことにきめていた。文体はいつも、向こうから来るの ってそういうことはなかった。手紙は一年にちょうど二度ずとまるで同じであった。ヴェルシーロフはもちろんこの文 年っ来た。それより多くも少なくもなかった。そして、どれも通に関係しなかった。マカールは、ロシャの国のあらゆる隅 成みな同じようなものばかりだった。わたしもこの手紙を読ん隅から、時とすると、長く逗留することもあった方々の町 末でみたが、そこにはほとんど個人的な分子は微塵もなかった。や僧院から手紙をよこした。彼はいわゆる巡礼になったのでわ
紅顔の少年で、顔からはまるで健康の気がほとばしり出てる なかったですが、二年たって、ばくたちはひょっこり往米で のに、そんなに女がきらいなんだからなあ ! きみくらいの出あいましこ。 オラン・ヘルトは、こんどばくのところへ遊びに どうして婦人が一定の影響を与えないんだろうな ? 来ると約東しました。ばくはそのときもう中学校へ入って、 わしなそはな、 mon cher ( きみ ) 、まだ十一ぐらいの年から、 ニコライ・セミョーヌイチのところに住んでいました。彼は レートニイ・サード ( 夏の園 ) の女神の彫像をあまり一心に見ある朝、ばくんとこへ来て、五百ループリの金を出して見せ、 つめすぎるといって、家庭教師に注意されたくらいだよ」 っしょに来いというのです。彼は二年まえばくをなぐうて 「あなたはなんでしよう、 冫くがここのジョゼフィーヌとか はいたけれど、いつもばくという人間を必要としていたので なんとかいう女のところへ通って、それをあなたのとこへ報す。むろん、単に靴を脱がすばかりじゃありません。彼はば 告に来ればいし てなことを一生懸命に考えておいでなんでくに何もかも話して聞かせました。彼のいうのに、金は母親 しよう。そんなことをしたって仕方がありませんよ。ばくはの手箱の中から、合鍵をこしらえて今日盗み出したのだ。な まだ十三の年に、それこそ真っ裸の女を見て、それ以来ぞっぜって、父の残した金はぜんぶ自分のもので、母はそれを自 としちゃったんです」 分によこさないなんて、そんな権利を持っていない。昨日も 「へえ ? しかし che 「 enfant ( きみ ) 、若い美しい女は林檎リゴ神父が自分に訓戒をしに来た。そして、居間へ入って来 の匂いがするぜ、どうしてそっとするどころか ? 」 て、自分のそばに立ちながら、泣き声を出したり、恐ろしそ 「ばくは中学校へ入る前に、 トウシャールというフランス人うな身振りをしたり、両手を天のほうへ差し上げたりするの のけちな塾にいましたが、そこにランベルトという友達があだ。「そのときおれはナイフを取り出して、ぶった斬ってし ったのです。その男はのべつばくをなぐっていました。それまうそ ! といってやった』とこういうんです ( ランベルト は、ばくより年が三つ以上も多かったからで。ばくはその男は「ぶったひっちまう」と発音しましたがね ) 。ばくたちは にこき使われ、靴まで脱がさせられていたもんです。その男グズネーツキイへ出かけました。道々彼はばくに向かって、 が堅信礼を受けたとき、リゴというカトリッグの僧院長が家自分の母親がリゴ神父と関係している、自分はちゃんとそれ へやって来て、最初の聖餐の祝いを述べたのです。二人は涙に気がついた。だから、自分は何もかもばかばかしくなって を流しながら、互いに相手の肩へ飛びついた。リゴ神父はい しまった、やつらが聖餐だのなんだのというのも、みんな下 ろんな身振りをしながらランベルトを自分の胸へ締めつけまらない寝言だ、というのです。まだいろんなことをしゃべり した。ばくも同様、泣きながら、友達を羨んだものです。そましたが、ばくはこの男がそら恐ろしくなりました。クズネ の後、彼は父親が死んだので塾を出て、二年の間まるで会わ ーツキイで、ランベルトは二連発の鉄砲と猟嚢と、実弾入り
自然と気が変わるということもありうる道理でね : : : 少なく たが、いったいどういうふうに別な人だったのです ? 」 「はっきりどういうことか、わたしもいまだにわからないんとも、彼がいくぶんわたしを容赦してくれるだろうと、 いや、われわれ二人を ( つまりわたしとお母さんを ) 容赦し だよ。しかし、何かしら別なものなんだ。しかも、非常にし つかりした人物なんだ。わたしがこういう結論をするのはてくれるだろうと、あてにしてたんだ。少なくとも、ちょっ とくらい待ってくれてもよさそうなもんだ、と思ったのさ。 ね、彼のそばにいるのが、しまいにはいよいよ心苦しくなっ てきたからだ。彼はその翌日、なんにもいわず旅行を承諾しところが、少しも猶予してくれなかったよ : : : 」 ( ここでわたしはぜひなくてはならぬ注釈を入れておく。も た。けれど、わたしの約東した報酬を何一つとして忘れなか し母がヴェルシーロフの後に生き残ったら、それこを年をと ったのはもちろんだ」 ってから、文字どおりに一文なしで、路頭に迷わねばならな 「金も取りましたか ? 」 まった かったのだ。ところが、マカール・イヴァーヌイチは、も、フ 「取ったとも、おまけにその取り方がひどいのだー くこの点では、わたしも荒胆をひしがれたよ。三千という金が利を生んで倍くらいに殖えた例の三千ループリを、去年 はもちろん、そのとき、わたしのふところに持ち合わせがなすっかり一ループリも残さす母へ譲るように、遺言して死ん だのである。彼はもうその時分から、ヴェルシーロフの人物 かったから、わたしは七百ループリだけ工面して、まずとり あえず彼にわたしたのだ。ところがどうだろう ? 彼は残金を見抜いていたのだ ) 二千三百ループリを借用証文にしたうえ、しかも正確を期す「いっかのお話によると、マカール・イヴァーヌイチは幾度 も逗留に来て、いつもお母さんの住居に泊まって行くそうじ るために、ある商人の名宛てにしてくれと要求するじゃない ゃありませんか ? 」 か。それから二年たって、この証文の金額に利子まで計算し 「そうだよ、アルカージイ。実のところ、わたしは初めのう たのを、訴訟までしてわたしからふんだくったのだ。わたし はすっかり荒胆をひしがれちゃったよ。そのくせ、彼はまっち、こうした訪問にすこぶる恐れをなしていたのだ。この二 たく文字どおりに神の宮の建立を勧進に出かけて、それから十年の間、彼は前後あわせて六度か七度やって来たろう。わ たしはね、はな二三度は、もし冢に居合わすようなことがあ もう二十年のあいだ、漂泊をつづけてるんだからね。いった ったら、隠れて顔を見せなかったものだ。いったいそれはな いなんのためにそんな金が巡礼に必要なのか、とんと合点が と 年いかないよ : : : 金は実際、俗世界のものだからなあ : : : もちんのことだろう、なんのためにやってくるのだろう、 いうことさえ、初めのうちはわからなかったくらいだよ。し 成ろん、わたしはそのとき一時の感激にまかせて、真心から提 かし、その後いろいろ思い合わせてみたところ、それは彼とし 未供した金なんだけれど、その後だいぶん時がたつにつれて、 ~ 32
も、妹も、タチャーナ叔母も、故アンドロニコフの遺族も って起こした訴訟が、勝訴になる望みがあって、彼は近いう R ( これはその三か月ばかり前になくなった役所の課長であり、 ちに価格七万ループ リか、あるいはそれ以上の領地をもらえ 同時にヴェルシーロフの財産に関する事務も切りまわしてい るかもしれないのだが、それはしばらくいわないでおこう。 た人で、遺族というのはうようよと数えきれないくらいの婦前にも述べたとおり、このヴェルシーロフは今までに、三つ 人だった ) 、まるで祟り神かなんぞのように彼を恐れ敬っての遺産を使いはたしたものだが、今度もまた遺産で窮境から いた。これはわたしの想像しえなかったところである。 救い出されるわけである ! この事件は近く法廷で決せられ ちょっといい添えておくが、九年前の彼は、比較にならぬることになっていた。わたしがやって来た目的もここにある はど瀟洒たる紳士だった。前にも一言したとおり、彼はわたのだ。しかし、希望を抵当にはだれも金を貸してくれない。 しの想像の中で後光でも背負っているような具合だったの借りるところがどこにもないので、当分やりくりをつづけて で、どういうわけであれからたった九年やそこいらの間に、 いるわけであった。 ああまで老けて世帯ずれがしたのかと、不思議なくらいだっ しかし、ヴェルシーロフはよくいちんち家をあけるくせ た。わたしはとたんにもの悲しいような、涙ぐまし、、ら し耳ずに、だれのところも訪ねて行かなかった。もう一年あまり前 , かしい気持ちを覚えた。彼の姿を見るということが、わたし 、彼は社交界を追い出されたのであろ。この事件は、わた の上京後、何よりも苦しい第一印象の一つだった。もっとも、 しがペテルプルグへ来てから、ひと月も暮らしているにもか 彼はまだ決して老人ではなかった。やっと四十五になったば かわらず、どんなに骨を折っても、いちばんかんじんな点が かりなのである。だんだん観察しているうちに、わたしは彼いまだにわからないのだ。いったい彼に罪があるのかないの の有している美の中に、わたしの記憶が保存していたもの以 これがわたしにとって重大な問題なのだ。わたしが ・上に、人の心を打っ何ものかを発見した。あの当時の華々しやって来たのも、要するにこれがためである。あるうわさの さ、押出しの立派さ、優美さは少なくなっているけれど、し ために、だれも彼もが彼に背を向けてしまったのだ。その中 かし生活はこの顔の中に、以前よりもはるかに興味のある何には、日ごろ彼が上手に関係を保ってきた勢力家の貴顕紳士 ものかをしるしたのである。 も、少なからずあった。そのうわさというのは一年あまり とはいえ、貧窮は彼の失敗の十分の一、もしくは二十分の前、彼はドイツできわめて下劣な行ないをしたうえに ( 何よ 一くらいのものであった。わたしはそれを知りすぎるほど知 りも悪いことには、『社交界』の人を目の前に据えてやった っている。貧窮以外はるかに重大なものが迫っていた。一年のだ ) 、また、そのとき、他ならぬソコーリスキイ公爵家の ばかり前ヴェルシーロフが、ソコーリスキイ公爵家を相手ど一人からみなの面前で平手打ちさえ受けて、しかもそれに対
ドストエーフスキイ全集 ト・か←々 ◎ 1969 初版発行 9 版発行 昭和 44 年 11 月 30 日 昭和 48 年 3 月 10 日 訳者米川正夫 発行者中島隆之 印刷者多田基 定価 980 円 印刷多田印刷株式会社 製本岸田製本紙工業株式会社 東京都千代田区神田小川町 3 の 6 0397 ー 411111 ー 0961 落丁本・乱丁本はお取替えいたします 発行所樊冫可出 : 書 :. 房「ネヒ電話東京 ( 292 ) 3711 振替口座東京 10802
「しかし、今ではこんなものになんの用もないのだ』すべて望が生じるのだった。『さあ、きみはばくを侮辱した、だ、 のものが妙によそよそしくなり、何もかもふいにわたしのもらばくはもっとひどい屈辱を自分に加えるから、一つ見てく サがある、れたまえ、見物してくれたまえ ! 』といったような気持ちな のでなくなった。『ばくにはお母さんがあり、リー こトウシャールはわたしを折檻して、わたしが元老 だが、それがどうしたのだ ? 何もかもおしまいだ、何のだ。現し もかも一時におしまいになっちまったのだ。ただ一つだけお院議員の息子などと違った、一介のポーイにすぎないという しまいにならないものは、 ことを証明しようとすると、わたしはさっそく、自分でポー おれが永久に泥棒だというこ イの役まわりを買って出たではないか。わたしは彼に外套を とだ』 着せたばかりでなく、自分からプラシを取って、あるかない 「おれが泥棒でないことを、どうして証明できるだろう ? いったいそんなことがいま可能だろうか ? アメリカへでも かの塵まで払いはじめたものだ。決して向こうから頼んだ 行ってしまおうか ? だが、それで何を証明しようというんり、命令したりするわけでもないのに、どうかすると、自分 だ ? ヴェルシーロフは第一番に、おれが盗んだということでプラシを手に持って、彼のあとを追っかけながら、ポーイ をほんとうにするだろう ! 「理想」は ? 何が「理想」な的熱心の充ちあふれるままに、彼のフロッグから目に見えな のだ ? いま、「理想」など何になるんだ ? 五十年か百年いほどの塵を払おうとした。で、ときとすると、もう向こう たったとき、おれが人生の行路を進んでいるとき、おれを指のほうから、「たくさん、たくさん、アルカージイ、もうた さしながら、「ほら、あれは泥棒だよ。あいつはルレットのくさんだよ』と押し止めるほどだった。よく彼がかえって来 わたしはそれをきれいに手入 金を盗むことを、自分の理想の振り出しにしたのだ」というて、上着を脱ぎすてると、 が、いつでも必す出て来るに相違ない : れして、丁寧にたたんだうえ、格子縞の絹のハンカチをかぶ そのとき、わたしの心中に憎悪の念があったか ? それはせたものだ。友だちはそれを見て、笑い、軽蔑した。それは わからないが、もしかしたら、あったかもしれない。奇怪なわたしもよく知っていた。が、しかしつまり、それが望みだ ことだが、わたしにはいつも、 あるいはごく幼いときか ったのである。『ばくをポーイに仕立てるのが望みだったん らかもしれない、 こういったような評があった。人に悪 だから、このとおりポーイになって見せてやる。下司にした いのなら、 いことをされて、極度にまで、ぎりぎり決着のところまで侮 さあ、これで立派な下司じゃないか』これに 年辱を加えられると、わたしの心中には必ずきまって、受動的類した受動的な憎悪と、深く心に秘めた憤怒を、わたしは幾 成 にその侮辱に身をゆだねたい、それどころか、進んで相手の年でもつづけることができた。 末意を迎えるような態度さえとりたいという、 いなみがたい欲ところで、どうだろう ? ゼルシチコフの賭博場で、わた
らず、彼はときどきなみ一通りでない愛情をもって、わたし重に行ないすまして、すつばりと自分の望みを断っていらっ を眺めたと断言しても、決して間違いではないと思う。彼はしやるのに、 どうして本式に僧籍におはいりになりませ さもいとしげに自分の掌をわたしの手の上にのせたり、わたんので ? そうなされば、今よりもっと円満具足の人になら しの肩を撫でたりした : ・ : が、またどうかすると、すっかりれるわけじゃありませんか ? 』すると、その人の返事はこう わたしのことなど忘れてしまった様子で、部屋の中には自分だ。『お爺さん、なんだってお前はわしの知恵のことなどい 、し だけしかいないような、そぶりを見せることもあった。熱 い出すのだ。かえってその知恵のために、わしは虜になって に話しつづけてはいるのだが、どこか空に向かって、ひとり いるのかもしれないし、それに知恵をかためたのも、わしの ごとをいっているような具合だった。それは白状しなければカじゃないかもわからん。また、わしが厳重に行ないすまし ならない。 ているなどとい , つけれど、わしはも、つと、フから、即度とい、つ ものをなくしているかもしれないじゃよ、 「ときに」と彼は一新葉をつづけた。「ゲンナージイの僧院に、 オしか。それから、望 偉い知恵をもった人が、ひとり住んでおる。由緒ある生まれみを断っているなどと、ばかなことをいうものじゃない。わ の人で、官等は中佐、それに大変な財産をもっておるのだ。 しは今すぐにもありたけの金をほうり出すこともできるし、 娑婆に住んでおる時分も、わが身を縛るのはいやだといっ位を返上することもなんでもないし、勲章もすっかり今この て、結婚しなかった。で、もう十年ばかり前に、しんとしたテープルの上へ投げ出してもみせるが、しかし、煙草というや 静かな隠れ家が好きになってな、俗世の煩いから心を静めるつは、もう十年このかたもがいているけれど、どうしてもや ために隠遁の生活にはいってしまったのだが、僧院の掟は一めるわけにい、 こんなふうで、どうして僧籍にはいれ から , 卞まで守りながら、描旧にはいることはいやだとい、つ。 るものか、禁欲などと吹聴されては、赤面のいたりだ ! 』わ その人の持っておる本といったら大したものでな、お前、あしはそのとき、これほどまでヘりくだったお気持ちに、ほと んなにたくさんの本を持った人を見たことがないくらいだ、 ほと感じ入ったものだよ。ところが、ちょうど去年の夏、聖 自分でもそういっていたが、八千ループリがものはあるベトロ祭のとき、わしはまたその僧院へ寄ることになった、 そうだ。ビョ ートル・ヴァレリャーヌイチという名削だよ。 神様のお引き合わせでな、ーー見ると、顕徴鏡が置いて この人が、時にふれ折につけて、いろんなことを教えてくれあるじゃないか。大金を出して、外国から取り寄せたもの 年たが、わしはこの人の話を聞くのが大好きだった。あるとき だ。『ちょっとお待ち、爺さん、お前に不思議なものを見せ 成わしはこういったものだ。『いったいあなたは、そんな大してやる。まだこんなものを見たことがないだろう。ただ見れ 未た知恵を持っていらっしやるうえに、もう十年から僧院で厳ば、まるで涙みたいなきれいな水の一しずくだが、さて、よく
黒パンばかり食べているなんて、あまりに醜態ではなかろうそして、精神的にはたえず秘密な歓喜と陶酔に浸っていた。 か ? これらの問題は後まわしとして、今はただこの目的貫食べ物など少しも惜しがらなかったばかりか、もうまるで有 徹が可能かいなか、その点を研究することにしよう。 頂天になっていた。 一年がおわったとき、わたしはいかなる わたしが『自分の理想』を考えだしたとき ( この理想こそ精進にも堪えうる確信をえて、みなと同じような食物をと 赤熱の部に属するものだ ) 、自分が修道院の禁欲生活に適しり、みなといっしょに食堂にすわることにした。この試験ひ ているかどうか、試験しはじめた。この目的でわたしはまるとつに満足できず、わたしはさらに第二の試験をやってみ 一か月、ただパンと水ばかりで暮らした。黒パンは毎日二斤た。当時、わたしはニコライ氏に支払う食費以外に、小遣銭 半より以上はいらなかった。この計画を貫徹するために、わとして毎月五ループリずつ給与されていたが、そのうち半分 たしは賢明なるニコライ・セミョーヌイチと、わたしのためだけしか使わないことに決心した。これはなかなか困難な試 を思ってくれるマリヤ夫人を、欺かなければならなかった。煉ではあったけれども、二年余りたったのち、ペテルプルグ わたしはぜひとも食事を自分の部屋へ運んでもらわねばならへやって来たときは、ほかにもらった金以外に七十ループリ ぬとし 、いはって、夫人を悲しませ、精緻な観察力をもったニというものがわたしのポケットにあった。それはただただこ コライ氏にけげんの念をいだかせたものである。わたしは自の貯蓄によって得たものである。この二つの試験の結果は、 分の部屋で、その食事をあっさり投げ棄てたのだ。スープはわたしにとって偉大なものだった。わたしは自分の目的を達 窓の外の麻の中か、それともいま一つ別な場所 ( びへ流しするだけの意欲を有しうる、ということを的確に突き止めた てしまうし、牛肉は窓から大に投げてやるか、または紙に包のである。くり返していうが、これがつまり『わたしの理 んでポケットへひそませ、それから外へ持って出て、捨てて想』であって、これからさきはみんなつまらないことなのだ。 しまう、すべてそういったあんばいである。パンは食事のと 2 き、二斤半よりずっと少なかったから、内証で自分の金を出 して、買い足さなければならなかった。 とはいえ、つまらないことでも、一応検討してみる必要が わたしはこの一か月を無事に辛抱しおおせた。まあ、ちょある。 っと胃をそこなったくらいのものだろう。しかし、次の月か わたしは自分でやった二つの試験をのべた。ところで、ペ 年ら、わたしはパンにスープを増して、朝晩には茶を一杯すっ テルプルグへ来てから、もう前に書いたように、第三の試験 成飲んだ。そして、まったくのところ、わたしはこうしてまるをした、 例の竸売である。そして、一挙にして七ループ 未一年の間、この上ない健康と満足のうちに過ごしたのである。 リ九十五コペイカの儲けを握った。もちろん、あれははんと