庵室 - みる会図書館


検索対象: ドストエーフスキイ全集12 カラマーゾフの兄弟(上)
74件見つかりました。

1. ドストエーフスキイ全集12 カラマーゾフの兄弟(上)

じられた。彼はずっと前から、これを予感していたけれどで見受けられた。彼は至るところでいろいろなことをきき出 も、事実は彼の期待を越えたのである。興奮した僧たちに出し、至るところで耳を傾け、至るところでなにやらひどく秘 会うたびごとに、彼はいちいちいましめるのであった。「そ密めかしい顔つきをして、ひそひそとささやきあっていた。 のように、あまり性急に偉大な事柄を待ちもうけるのは』と顔の表情は極度にいらだたしそうで、期待があまり長く実現 彼は言った。『俗世の人にのみありうべき軽率な挙動で、わされないために、業をにやしているようにすら見受けられた。 れわれとしてあるまじきことです』とはいえ、彼の言葉に耳ラキーチンのほうはどうかというと、彼がこんなに早くか を傾けるものはほとんどなかった。。、 ノイーシイ主教は、不安ら庵室へ姿を現わしたのは、ホフラコーヴァ夫人の特別な依 の念をいだきながら、これに注目していた。しかし、彼自身頼のためだということが、あとでわかった。人はいいけれ も ( 正直にありのままをしるすならば ) 、ありまにもいらだど、見識のない夫人は、自分で庵室へ入れてもらうわけにゆ たしい期待の情をにがにがしく感じて、その中に軽挙妄動をかないために、朝目をさまして、長老の死を知るやいなや、 発見したにもかかわらず、心の奥のほうでは、これらの興奮いきなり性急な好奇心に全心を領されて、さっそくラキーチ した人たちと、ほとんど同じようなものを待ち望んでいるのンを代理として庵室へ送り、そこで起こったことをすっかり であった。これは自分でも認めないわけにゆかなかった。そくわしく観察して、約三十分ごとに、手紙をもって報告させ れにしても、彼はある種の人に行きあったとき、とくに不快ることにしたのである。夫人はラキーチンを潔白な、信仰の の念を覚えた。なにか予感のようなものがあって、深い疑惑厚い青年と思いこんでいた、 それほど彼は巧みにすべて にとらわれたからである。 の人に取り入って、少しでも自分のためになることと見てと とう 長老の庵室内に群がっている人ごみの中に、まだ僧院に逗ったら、相手の希望どおりな人間になってみせるのがじよう りゅう 留しているオブドールスクの客僧や、ラキーチンなどの姿をずだった。 けんお 見つけたとき、 ・ハイーシイは嫌悪の情を禁じ得なかった ( も それは晴れやかな輝かしい日であった。参詣の巡礼者は多 っとも、彼はそのときすぐに、 こうした心持ちになる自分をく墓のまわりに群がっていた。墓はおもに本堂の周囲にかた 弟自分で責めた ) 。彼はこのふたりをどういうわけか、怪しい まっていたが、また庵室をかこんで諸所に散在しているもの の人物とにらんでいた。しかし、こういう意味の注意人物は、 / ィーシイ主教はふ もあった。庵室をめぐっているうちに、。、 ゾ彼らふたりにかぎったわけではなかったのだ。オブドールスとアリヨーシャのことを思い出した。もうかなり前から、ほ マグの僧は、興奮した人々の中でも、とりわけおちつきのない とんど夜中とおばしいころから、この青年の姿を見受けなか カ人物として目に立った。彼の姿は至るところ、あらゆる場所ったのである。彼のことをこうして思いだすと同時に、パ

2. ドストエーフスキイ全集12 カラマーゾフの兄弟(上)

かなかの老練家らしい。花壇はいろいろな堂のかこいうちに しよ、つ。わしはびつくりしてしまいましたぜ、まったく , ・」 も、墓と墓の間にもしつらえてあった。長老の庵室のある小 ミウーソフがこの皮肉にたいして答える暇のないうちに、 さな木造の平家も、同様に花を植えめぐらしてある。家の入一同は内部へ招じられた。彼はいくぶんいらいらした気味で り口の前には廊下があった。 はいって行った : 「これは前長老のヴァルソノーフィさまの時分からあったん「もう前からちゃんとわかってる、おれはかんしやくを起こ ですかな ? あのかたは優美なことが大きらいで、貴婦人た して、けんかをおつばじめる : : : そして、のばせてしまっ ちにさえおどりかかってつえでぶたれたとかいう話ですが」て、自分も自分の思想もいやしめるようになるのがおちだ』 とフヨードルは正面の階段をのばりながら言った。 という考えが彼の頭にひらめいた。 「ヴァルソノ ] フィ長老はまったく、ときとして、ユロージ ヴィ ( 宗教的奇人 ) のように見えることがありましたが、世間 第 2 老いたる道化 の人たちの話にはずいぶんばかげたことも多うございます。 ことにつえで人をぶたれたことなぞは一度もありません」と彼らが中へはいったのは、長老が自分の寝室から出て来る 僧は答えた。「ちょっとみなさんお待ちくださいませ、ただのと、はとんど同時であった。庵室では一行に先立ってふた いまみなさんのおいでを知らせてまいりますから」 りの僧が、長老の出て来るのを待っていた。ひとりは図書が 「フヨードレ . 。、 ノーヴロヴィチ、これが最後の約東ですよ、 かりで、いまひとりは博学のうわさの高い 、さして年寄りで しいですか。ほんとうに言行に気をつけてください、それでもないけれど病身な、。、 ノイーシイという僧であった。そのは ないとばくも考えがありますからね」ミウーソフはその間に かにもうひとり、片すみに立っている若い男があった ( この またこ、つささやいた。 男は、それから後もすっと立ち通しであった ) 。見たところ 「いかなれば、きみはかかる偉大なる興奮を感じたもうか、 二十二くらいの年かっこうで、普通のフロックコートを着て がてん どうもさつばり合点がいきませんなあ」とフヨードルはおひ いる。これはなにかわけがあって僧院と僧侶団から保護を受 やらかすように言った。「それとも、身の罪のほどが恐ろし けている神学校卒業生で、未来の神学者なのであった。彼は いんですかな ? なんでも長老は人の目つきを見ただけで、 かなり背の高いほうで、色つやのいい顔はほお骨が広く、利 どんな罪を持っているかということを知るそうですからな。 ロそうな注意ぶかい目は小さくてとび色をしている。その顔 しかし、あなたのようなちやきちやきのパリっ子で、第一流にはきわめてうやうやしい表情が浮かんでいるが、それはき の紳士が、どうしてそんなに坊主どもの思わくを恐れるんでわめて礼儀にかなったもので、少しも卑屈らしいところが見

3. ドストエーフスキイ全集12 カラマーゾフの兄弟(上)

言も口をきかなかったけれど、きわめて危険な反対者であっ った。人々のうわさでは ( またこのうわさはほんとうであっ た。危険なというおもな理由は、修行者たちの多くのものが た ) 、彼の食物は三日に二斤のパンきりで、そのほかには何 すっかり彼に同情を寄せているうえに、参詣に来る一般世間 ) なかっこ。パンは近くのみつばち小屋に住んでいるはち飼 の人も偉大な戒律の守り手、苦行者として、非常に尊敬して いが、三日に一度ずつ運ぶのがあったが、自分のためにこん いたからである。もっとも、彼が疑いもないユロージヴィな労をとってくれるはち飼いとも、やはり言葉を交えること ( 宗教的奇人 ) だということはみんなのものも信じていたが、 は少なかった。この四斤のパンと、それから日曜ごとに規則 それがかえって人々を魅了していたのである。ゾシマ長老のただしく夜の祈蒋式のあとで僧院長から送られる聖餅と、こ ところへは一度も行ったことがない。 , し 彼ま庵室に暮らしてい の二つが一週間の彼の食物の全部であった。コップの水は日 こ : 、曽院でも別段彼に庵室の規則をしいはしなかっこ。 に一度とりかえることになっていた。 まり、彼が純然たるユロージヴィのごとくふるまっているか 祈蒋式に出ることはめったになかった。ときどきひざをつ らであった。 いたままわき目もふらないで、ひねもす祈疇をしながら起き 彼は七十五くらい、あるいはそれ以上の年かっこうであっ ようともしない彼の姿を、参詣の人々は見受けることがあっ た。いつもみつばち小屋の向こうのへいの片すみにある、ほ た。何かの拍子で参詣の人々と言葉を交えることがあって とんど崩れかかった古い木造の庵室に起臥している。それは も、その話しぶりは簡単で、断片的で、奇妙で、しかもお ずいぶん遠い昔、 前世紀のころ、百五歳の長寿を保ったおむね粗暴であった。もっとも、彼が外来の人と長いあいだ ョナという、同様に沈黙と禁欲の偉大な行者のために建てら話しこむことも、ごくたまにあったが、そんな場合、たいて れたものである。このヨナという人の事跡に関してま、、 手のものに大きななぞをかけるような一一一口葉を何か一つ必 だにこの僧院内でも、近在でも、いろいろおもしろい話が残ず話の間にはさむ、そして、あとからなんと言って頼んで っている。フェラボントは長年の念願を達して、ついに七年も、決して説明してくれなかった。彼は僧位というものを何 ばかり前この百姓小屋にもひとしい寂しい庵室に住まわしても持っていない平の僧侶にすぎなかった。また、これはきわ もらうこととなった。しかし、この庵室は礼拝堂によく似てめて無知な人たちの間にかぎっていたけれども、非常に奇怪 いた。なぜなら、そこには人々の寄進にかかる聖像がたくさ な一つのうわさが流されていた。ほかでもない、フェラボン んあって、その前には同じく寄進された燈明が、永久に消え トは天の諸精霊と交通して、これら精霊のみを話相手として ることなくともっているからである。それゆえ、フェラボン いるから、それで人間にたいしてはいつも沈黙を守ってい トはこの燈明の馞人として、ここにおかれたようなものである、というのであった。

4. ドストエーフスキイ全集12 カラマーゾフの兄弟(上)

なふざけた態度は、同席の人々、少なくともその中のある者 しにプラトン大僧正のところへ行ったことを、いまだに信じ ておるのですよ : : : 」 に、いぶかりと驚愕の念をひき起こした。ふたりの僧はそれ ミウーソフは立ちあがった。それは単にがまんしきれなくでもいっこう顔色を変えないで、長老がなんと言うだろうか なったためばかりでなく、前後を忘れてしまったからであと、まじめな態度で注視していたが、やはりミウーソフと同 る。彼はもの狂おしい怒りにかられていたが、そのために自じように、もはや座にたえない様子であった。アリヨーシャ は今にも泣きだしそうになって、こうべをたれながら立って 分までがこつけいに見えることも自覚していた。じっさい いた。何よりふしぎなのは兄イヴァンである。彼は父にたい 庵室の中には、何かしらほとんどありうべからざるようなこ してかなり勢力を持っている唯一の人であるから、今にも父 とが生じたのである。この庵室へは、前々代の長老のときか ら、もう四、五十年のあいだ、毎日来訪者が集まって来たの無作法を制止してくれるかと、そればかりアリヨーシャは が、それはすべて、深い處の念をいだいて来るものばかりあてにしているのに、彼は目を伏せたまま、身動きもしない であった。この庵室へ通される人は、だれでも非常な恩恵をでいすに腰かけている。そして、この事件になんの関係もな い他人のように、一種好奇の色を浮かべながら、事件がどん 与えられたような心持ちで、ここへはいって来るのであっ た。多くのものは初めからしまいまで、いったん突いたひざなふうに落着するかと待ち設けているかのようであった。ラ を上げることができなかった。単なる好奇心か、あるいはそキーチン ( 神学生 ) のほうをも、アリヨーシャはふり向くこ の他の動機によってたずねて来る上流の人々や、第一流の学とができなかった。この男はやはり彼の知り合いで、はとん 、いほどの間柄であるから、その腹の中も ど親友と言ってもし 者のみならず、過激な思想をいだいた人たちでさえも、ほか の者といっしよか、またはさし向かいの対談を許されて庵室よくわかっていた ( もっとも、それがわかるのは僧院じゅう の中へはいって来ると、すべてひとりの例外もなく、初めからでアリヨーシャひとりきりであった ) 。 「どうそおゆるしください」ミウーソフは長老に向かって口 終わりまで深い尊敬を示し礼儀を守るのを、第一の義務と心 得ていたものである。そのうえ、ここでは金というものは少をきった。「ことによったら、わたくしもこの悪いしゃれの 弟しも問題にならないで、一方の側からは愛と慈悲、いま一方共謀人のように、あなたのお目に映るかもしれませんが、カ のの側からは悔悟と渇望、ーーなににあれ困難な精神上の問題、ラマーゾフ氏のような人でさえ、こういう尊敬すべきおかた ゾもしくは自分の心霊生活の困難な瞬間を解決しようという渇を訪問するときには、自分の尺、くすべき義務をわきまえるこ とと信じたのが、わたくしの考え違いでございました : : : わ こういうものが存在するばかりなのであった。 マ望、 たくしはまさかこの人といっしょに来たことで、おゆるしを カそれゆえ、今のフヨードルの場所柄もわきまえぬ傍若無人

5. ドストエーフスキイ全集12 カラマーゾフの兄弟(上)

なんとも答えなかった。その沈黙が自分の品位を重んずる心るのでございます。今もひとりの貴婦人のかたが、ハリコフ から出たものであることは、明瞭すぎるくらいであった。ミ の地主でホフラコーヴァ夫人というかたが、病み衰えた娘さ ゥーソフはいっそう眉をしかめた。 んを連れて待っておられます。たぶんお会いなさるように、 「ええ、こん畜生、何百年もかかってこしらえあげたしかっ約東をなさったのでございましよう。もっとも、このごろた いそうご衰弱で、平民の人たちにもめったにお会いになりま めらしい顔をしているが、ほんとうのところは詐欺だ、まや せんが」 かしだ ! 』こういう考えが彼の頭をかすめた。 「ああ、あれが庵室た、いよいよ着きましたぜ ! 」とフヨー 「じゃ、なんですか、やつばり庵室から奥さんがたのところ ドルが叫んだ。「ちゃんとかこいがしてあって門がしまっとへ、抜け穴が作ってあるんですな。いや、なに、あなた、わ る」 しが何か妙なことを考えてると思わんでください。わしはた だ、その : : : ところで、アトスではご承知でもありましよう 彼は門の上や、その両側に描いてある聖徒の像に向かっ によしよう て、ぎようさんな十字を切り始めた。 が、女性の訪問が禁制になっとるばかりでなく、どんな生き 1 一う ものでも雌はならん、雌でも、雌の七面鳥でも、雌牛の小 「郷に入れば郷に従えということがあるが」と彼は言いだし しようにん た。「この庵室の中には二十五人からの聖人さまが浮世をのさいのでも : : : 」 ーヴロヴィチ、ばくはあなたをひとりここ がれて、お互いににらめつこしながらキャ・ヘッばかり食べて「フヨードル・ いなさる。そのくせ女はひとりもこの門をはいることができ へ、フっちゃっといて、「知ってしまいますよ。ばくがしナカ ん、ここがかんじんなところなんですよ。これはまったくほ たら、あなたなんぞ両手を取って引っぱり出されっちまう、 んとうのことなんですよ。しかし、長老が婦人がたにお会いそれはばくが予言しておきますよ」 っこ、どうしてあなたのじゃまになるんですね、 なさるという話を聞きましたが、それはどういうわけでしょ 「わし : 、刀 / 1 》 うな ? 」ふし ミウーソフさん ? おや、ごらんなさい」庵室のかこいうち 、に皮は案内の僧に向かってこうきいた。 によし上う 「平民の女性は、今でもそれ、あすこの廊下のそばに待ってへ一歩踏みこんだとき、彼はだしぬけにこう叫んだ。「ごら 弟おります。ところで、上流の貴婦人がたのためには小部屋がんなさい、 ここの人たちはまるでばらの谷の中に暮らしてお かこるんですな ! 」 の二つ、この廊下の中に建て添えてありますが、しかし、 ゾいそとになっておりますので。それ、あそこに見えておる窓見ると、ばらの花こそ今はなかったが、めずらしく美しい マがそうです。長老はご気分のよいときに内部の廊下を通っ秋の花が、植えられそうなところは少しも余さず、おびただ カて、やはりかこいのそとへ出てから、婦人がたにお会いなさ しく咲き誇っていた。世話をする人は、見受けるところ、な引

6. ドストエーフスキイ全集12 カラマーゾフの兄弟(上)

ほど明瞭に、式場の作法を破るなみなみならぬ物音が、彼の のにむりに一般の規則へ当てはめるのは、非礼と言っていし 聴覚を刺激した。と、ドアがさっとあけ放たれて、フェラボ くらいだからである。もし、そんなことをしたら、僧たちは こう言うにちがいない。『あのかたはわれわれのだれより最ントの姿がしきいの上に現われた。それにつづいて大勢の僧 入り口の階 侶が、その中には俗世の人々もまじっていたが、 も神聖な人で、規則に従うよりも、もっと困難な義務をはた しておいでになるのだ。あのかたが会堂へ出られないのは、段の下に群がる気配がした。これは庵室の中からもはっきり つまり、いつ出たらいいか、ちゃんと承知していら 0 しやると見えた。取り巻きの連中は中へもはいらなければ、入り口 からだ。あのおかたには自分の規則があるのだ』こういう不の階段へもあがらないで、これからフ = ラボントが、どんな 平や騒ぎの起こりうべきことを想像して、フ = ラボントを放ことを言「たりしたりするかと、じ「とたたずみながら、待 ちかまえていた。彼らは、自分たちがずいぶん無作法な言行 任しているのであった。彼がゾシマ長老を非常にきらってい るのは、一同に知れ渡った事実である。ところが、今とっぜをあえてしているにもかかわらず、フ = ラボントがここへや って来たのは何か、思惑あってに相違ないと想像して、一種 ん彼の庵室へ、「あれは神のさばきだ、人間わざではない。 自然律さえも超越している』という報知が伝わった。第一番の恐怖さえ感じたのである。 フェラボントがしきいに立って、両手を上へさし伸べたと に彼のもとへ駆けつけた人の中には、きのう彼を訪れて、恐 怖をいだきながら辞し去「た、オブドールスクの客僧も交じき、オブドールスグの客僧の好奇に輝く鋭い目が、その右手 の下の方からちらりとのぞいた。彼は、自分のはげしい好奇 っていたものと考えなければならぬ。 これも前に言ったことがあるが、 ( ィーシイ主教は確固不心をがまんすることができないで、フ = ラボントのあとから 抜の姿勢で、棺のそばに立って読経していた。彼は庵室の外階段を駆けのばったただひとりであった。ほかの者は、ドア で起こったことを、見聞するわけにゆかなかったが、それでががたんとあけ放されるやいなや、思いがけない恐怖におそ も、おもなる経過はことごとく、心の中で誤りなく推察してわれて、かえって互いに押しあいながら、なおあとずさりし たものである。両手を高くさし上げると、フェラボントはふ 。彼よ周囲の人々の腹の中を、たなごころを指すように いに叫びだした。 見抜いていたのである。しかし、彼は困惑など感じるような 「われあくまでもしりそけん ! 」彼はかわるがわる四方八方 ことはなく、なんの恐れげもなく、起こりうべきいっさいの に向き直りながら、庵室の壁と四隅に十字をきり始めた。取 ことを待ちもうけていた。そして、今は自分の心眼に映する り巻きの連中は、たちまちこの動作の意味を了解した。彼は 騒動の経過を、刺し透すような目つきで見まもるのであった。 どこへはいるときでも、必すこれをやって悪霊を追い払わな そのとき入り口のほうにあたって、もはや疑う余地のない 394

7. ドストエーフスキイ全集12 カラマーゾフの兄弟(上)

長老に敬服していた人たちのうちにさえ、この出来事のためなつもりの少しもなか「た人たちまで、今はわざわぎ駆けっ に、自分が侮辱を受けたように感した人が、すぐさま幾たり けて来た。その中には位の高い名士も幾たりか交じって、 か現われた。事件は次のような順序をふんで展開していっ た。とはいえ、表面の儀礼はまだ破られなかった。パ イ主教はいかめしい顔をして、しつかりした調子で、一語一 腐敗が発見されるやいなや、故長老の庵室〈はい「て来る語くぎるようにしながら、引きつづいて福音書を声高に読 僧たちの顔を見たばかりで、なんのためにやって来たのか、 していた。彼は早くから、何か異常なことが起こったのに気 察することができた。彼らははい「て来ても、あまり長くはづいていたが、それでも何も知らないそぶりをしていた。と 立「ていず、群れをなして外で待っているはかの連中に、少ころが、しまいには、人々の話声が彼の耳にまではいるよう しも早くうわさの裏書をしようと思って、そわそわと出て行 になった。その声は初めごくごく低かったが、 しだいに大胆 くのであった。外で待っている連中のうちには、うれわしげ な、しつかりした調子になってきた。 に首を振るものもあったけれど、その他の者は、毒々しい目 「つまり、神さまのおさばきなのだ、人間わざじゃない ! 』 の中に、ありありと輝きだした喜びの色を隠そうともしなか とっぜん、こういう声をパイーシイ主教は聞きつけた。そ った。もはやだれひとりこれをとがめるものもなかった。だれをまっさきにロに出したのは、かなり年とった町の官吏 れひとりこれに抗議するものがなかった。それはじつにふしで、信仰家として通っている人であった。が、これはすで ぎなほどであった。なんといっても、長老に信服している人 に、だいぶ前から僧たちがお互い同士でささやきあっていた は、僧院内で多数を占めているはずなのである。しかし、察ことを、公然とくりかえしたにすぎないのである。僧たちは するところ、このたびは神が少数のものに、一時の勝利を与もうとうから、この非道な言葉を口にしていたが、何よりも えられたのであろう。 悪いことには、この種の言葉が発せられるたびに、一種勝ち まもなく僧侶以外の人も、密使として庵室の中へはいって誇ったような気分が頭をもたげて、それが刻一刻と募ってゆ 来るようになった。それはおもに、教育のある人が多かっ くのであった。やがて、まもなく、式場の作法さえくずれだ じゅうりん 弟た。平民階級の人たちは、庵室の門のあたりに、大勢群らが した。しかも、人々はそれを蹂躙する権利があるような気持 のっていたけれど、庵室の中へはあまりはいって来なかった。 ちでいるらしかった。 ゾ三時から後は、町の人の弔問が目に見えて多くなった。それ「どうしてこんなことが起こったのだろう』僧たちの中に マは疑いもなく、例の人の心をそそるようなうわさのためであは、なんとなくあわれむような調子で、こう言いだすものが カった。きよう決してここへ来るはずのない人たち、 そんあった。『あの人のからだは非常に小柄で、かわききって、 3

8. ドストエーフスキイ全集12 カラマーゾフの兄弟(上)

- 一うけっ に会って祝福を受けるためにやって来た平民の女たちの中 音を説き聞かしてやってくだされ : : : 決して彼らの膏血をし 、ばることがないように : : : 金銭を愛したくわえてはなりませ 町からきたひとりの老婆でプローホロヴナという下士官 、た。彼女は長老に向かって、自分のむすこのヴ ぬそ : : : ひたすら信仰の旗をひるがえして : : : それをば高うの未亡人力 アーセンカが勤務の関係から、遠くシベリヤのイルグーッグ 押し立ててくだされ : : : 」 もっとも、長老の話はここにしるしたよりも、つまりあとへおもむいたが、もう一年ばかり少しの便りもないから、死 でアリヨーシャが書き取ったよりも、ずっと断片的なものでんたものとして教会で供養をすることができるかとたずね あった。ときどき彼は新しく力を集めるかのように、すっか た。これにたいして長老はいかめしい調子で、こういう種類 り言葉をやめて、せいせい息を切らしていたが、しかし、歓喜の供養を売僧の所業にひとしいものとして固く禁じた後、し かし知らぬことゆえゆるしてやると言い、『まるで未来の本 に包まれているように見えた。人々は感激して聞いていた。 もっとも、中には長老の言葉に暗い影を認めて、驚いたものでも読んでいるように』 ( とホフラコーヴァ夫人は書いてい もあった : : : みんなはあとになって、これらの言葉を思い浮た ) 、次のような慰めの言葉をつけたした。「おまえのむすこ かべたものであった。アリヨーシャが何かの用事でちょっとヴァーシャは、疑いもなく生きておる。そして近いうちに自 庵室を出た時、彼は庵室の中とその周囲にむらがっている修分で母のもとへ帰って来るか、それとも手紙をよこすに違い 行僧たちの、異常な興奮と期待に一驚した。その期待は、あないから、おまえも自分の家へ帰って待っておるがよい』 うちょ・つ る人々においては不安げに、またある人々においては勝ち誇『ところが、どうでしよう ? 』とホフラコーヴァ夫人は有頂 めいもく てん しえ、それ ったもののように見えた。一同は、長老の瞑目後ただちに起天になって書いている。「予言は文字どおりに、、 こるべき偉大なあるものを期待しているのであった。この期以上に的中しました』老婆が家へ帰るが早いか、もうちゃん 待は一方から見ると、ほとんどあさはかなものとも思われた とシベリヤからの手紙が彼女を待ち受けていた。しかもそれ が、最も厳格な老僧たちですらこれにおちいっていた。中ばかりでなく、ヴァーセンカは、途中工カチェリンプルグか ノイーシイであった。 で最もいかめしい顔をしているのは、・、 ら出したこの手紙で、自分は今ある官吏といっしょにロシャ アリヨーシャが庵室を出たのは、たったいま町から帰ったラ へ帰っているから、この手紙が着いてから三週間の後には母 キーチンが、ひとりの僧を通して内証で彼を呼び出したからを抱くことができる、などとしたためていた。ホフラコーヴ である。彼は、アリヨーシャにあてたホフラコーヴァ夫人のア夫人は、新たに実現せられたこの予言の奇跡を、さっそく僧 ひろう 寄妙な手紙を持って来た。夫人はちょうどこの場にふさわし院長はじめ修行僧一同に披露してくれと、一生けんめいアリ ヨーシャに頼んでいた。「これはもうすべての人に知られな い興味ある知らせを伝えていた。ほかでもない、きのう長老 ノ 90

9. ドストエーフスキイ全集12 カラマーゾフの兄弟(上)

一同は門を抜けて木立ちの道を進んで行った。マクシーモ うと言おうとしたが、ふいと口をつぐんでしまった。それは ふんまん 罪のない自由主義的な皮肉が、もうほとんど憤懣の念に変わフは六十くらいの年輩であったが、いまにも身ぶるいせんば かりに極端なまではげしい好奇心をむきだしにして一行をな りかかっていたからである。 「ちょっ、、 : このわけのわからんところがめまわしながら、横っちょのほうから、歩くというよりむ したいここでは・ これか しろちょこちょこ走ってついて来るのであった。その目はい では、だれにものをたずねていいかわかりやしない。 らまずきめてかからなきゃならん。時間はぐんぐんたってしまにもとびだしそうなくらいで、どことなく厚かましい感じ があった。 まうばかりだ」だしぬけに彼はひとりごとかなんそのよう 「じつはね、ばくたちがあの長老のところへ行くのは、特別 こ、つ一一「ロった。 な用事のためなんです」とミウーソフはきびしい調子で彼に このときとっぜん一行のそばへ、頭のはげかかったひとり ねんばい の年輩の男が、だぶだぶした夏外套を着て、甘ったるい目っ注意した。「ばくたちはいわば「あのかた』に謁見を許され きをしながらしゆっしゆっという音を出しながら、だれとい たんだからね、道案内をしてくださるのはありがたいけれ うことなしに一同に向かって、自分はトウーラ県の地主マクど、いっしょにおはいりを願うわけにゆかないんですよ」 シーモフであると名乗りを上げると、さっそく一行の関心事「わたくしはまいりました、まいりました、わたくしはもう まいりました・・・・ : Un chevalie 「 pa 「 fait! ( りつばな騎士でござり に口を入れるのであった。 あんしつ ます ) 」と地主は空へ向けて指をばちりと鳴らした。 「長老ゾシマさまは庵室に暮らしておいでなされます。僧院 から四百歩ばかりの庵室に閉じこもっておられます。木立ち「シュヴァリエ ( 騎士 ) ってだれのことです ? 」 「長老さまでございます。世にも珍しい長老さまでごぎいま を越すのでござります。木立ちを越すので : : : 」 「それはわたしも知っておりますよ、木立ちを越すというこす。あの長老さまは : : : まったくこの僧院の誉れでござりま とはな」とフヨードレ : ノカ答えた。「ところで、わしらは道をす。ゾシマさま : : : あのかたはまことに : しかし、このとりとめもない一言葉は、ちょうど一行に追い はっきり覚えておらんのだて。だいぶ長く来たことがないの ころも ずきん ついたひとりの僧にさえぎられた。それは頭巾つきの法衣を 弟でな」 の「ああ、それはこの門をはいってまっすぐに木立ちを通って着た、せいの低い、恐ろしくやせてあおい顔の僧であった。 ゾ : ・・ : 木立ちを通って : ・・ : さあ、まいりましよう。もしなんなフヨードルとミウーソフは立ちどまった。僧は頭が腰まで下 がるくらいていねいなあいさつをして言った。 マら、わたくしもごいっしょに : : : わたくしが、その : : : さ 「みなさま、庵室のお話がすみましたら、僧院長が、みなさ 3 力あ、こちらへ、こちらへ :

10. ドストエーフスキイ全集12 カラマーゾフの兄弟(上)

中へ納めた ( これはすっと前から用意してあったので ) 。棺田 一日安置しておくことにした は庵室のとつつきの広間に、 ( それは、故長老が同宿や参詣者と接見した部屋である ) 。 故長老は大主教の僧位を持っていたから、主教や助祭たち どくじゅ は詩編でなく、福音書を読誦しなければならなかった。ヨシ フ主教は、鎮魂祭がすむと、すぐ読誦を始めた。バイーシイ 主教は、一日一晩読み通すつもりであったけれど、今のとこ ろ庵室取締りとともどもに、だいぶ忙しそうな様子であっ た。それは、僧院の同宿の間にも、僧院付属の宿泊所や町う 第ノ腐れゆくむくろの匂い ちから押し寄せた人々の間にも、何かしら異常な、前代未聞 永眠せる大主教ゾシマ長老の遺骸は、官位に相当する一定の「類のない』動揺と、いらだたしい期待の色が現われて、 の儀式をふんで葬らなければならなかった。人々はその準備一刻一刻と目立ってきたからである。庵室取締りとパイーシ に着手した。これはだれしも知るところであるが、僧侶や隠イ主教は、かくまで騒がしく波だってくる群衆を鎮撫するの ゆかん に、ありたけの力をそそいでいた。やがて、かなり日が高く 遞者の死体は湯灌しないことになっている。『僧位にあるも の、神のみもとへ去りたるときは ( と『大聖礼記』にも書いなってきたとき、町から病人、ことに子供を連れて来るもの てある ) 、式をとり行なう僧 ( すなわち指命された僧 ) 、これが、ぞくぞくと現われはじめた。彼らは今こそ猶予なく、治 が遺骸を温湯もてぬぐい、そのひたい、胸、手、足、ひざに、療の秘力が発顕するものと信じて、前からこの瞬間を待ちも 海綿もて十字を描くものとす。その他なにごともなすべからうけていたものらしい 。この地方の人々が、故長老を疑いも ず』これらのことをことごとく、パイーシイ主教は故長老のなく偉大なる聖者として、まだ在世のころから、どれほど尊 遺骸に行なった。湯でふいたのち、法衣を着せ袍をまとわ敬しつづけてきたか、このときはじめて明らかになったので せたが、その際、規則に従って外袍を十字状に巻くために、 ある。群衆の中には、決して平民ということのできないよう 少しばかりはさみで切り開いた。そして、頭には八脚十字架な人たちもあった。 ずきん のついた頭巾をかぶせた。頭巾はボタンをかけずにおいて、 こうして、あまりにも性急に、あまりにもあらわに表現さ しゃ 長老の顔を黒い紗のきれでおおい、手には救世主の聖像を握れた信者たちの異常な期待の情、というより、むしろいらだ らせた。こういう姿に仕立ててから、夜明けごろ遺骸を棺のたしい要求は、く ノイーシイ主教の目に、疑いもなく迷いと観 第七編アリヨーシャ