そのくせ、自分自身としては、決して後悔なぞすることなしらざる誠意がある、いや、一歩すすんで要求がある。それに 依然たる野蛮人のままで、ヨーロッパ式の舞踏会から帰みえそのものも、ここではかえってよき働きを示している。 って来るのを、立派に承知しているのだ。けれど、彼らはせなぜならば、みえとはそもそも何をいうのか ? みえとは、悪 めて理想の上だけでも、善行を尊重したと考え、みずから慰行が善行に払わねばならぬ例の貢物である。実践において背 めている。もちろん、これが単なる蜃気楼にすぎないこと徳漢でありながら、なおせめて心の中では善行と絶縁したく は、よくわきまえている。しかし、舞踏会にいる間は、「このないという人間にとって、これはなによりの慰藉となる思想 ・蜃気楼もしばらくつづくだろう。なにか目に見えない異常なである。おお、実に悪行は善行に貢物を払うことを好む。し しことなのだ。今のところ、われわれにとっ 力で、当分の間ささえられて行くだろう。そして、自分自身かも、それはい、 もいきなり広間のまん中へ飛び出して、純粋のお国訛りでなてはそれだけでもたくさんではないか ? それゆえ、モスグ ワで大広間のまん中へ飛び出して、大声にわめきたてた大尉 にかどなりつけるなんて、そんな元気は出るものではない」 殿は、ただ依然たる例外にすぎないせつかちな人間である、 と、こう固く信じている。そして、ほかの人がそんなことは 少なくとも、当分のうちはそうなのだ。この「当分のう また今後とてもさせはすまいと考えると、ば させはしない、 ち」という一言葉も、今のような動揺きわまりなき時代にあっ 力にいい気持ちになるのである。 どれほどまでに野蛮人がヨーロッパを愛し得るか、とうてては、むしろ慰藉になるくらいではないか。 い想像できるものではない。なんだか、そうすれば、世界の右の次第で、夜会はよき意味において、だんぜん保守的な ものである。しかも、わたしがこういうのは、決して洒落や 文化に参与しているような気がするのであろう。もっとも、 冗談ではないのだ。 彼ら自身、この文化がいかなるものであるかを、はっきりい いあらわすことができないのだ。例えば、フレスタコーフは、 4 黄金時代は懐中にあり 上流社会の舞踏会で使う百ループリの西瓜、これこそ文化で しかし、わたしは退屈であった。いな、退屈なのではな あると思い込んでいる。あるいはスグヴォズニッグ・ドムハ ノフスキイも、フレスタコーフの正体を看破して、心中軽蔑 し。少々じれったくなったのだ。「子」の舞踏は終わって、 するにいたったのにもかかわらず、西瓜に関しては今日まで「父」の舞踏が始まったが、まあ、なんという情けない無器用 記依然として、同じ信念をいだきつづけているのかもしれなさだ ! みんな新しい服を着ているが、だれひとり着こなし 、。彼はせめて西瓜の中にでも善行を認めて尊重したいのを知らない。みんなはしゃいでいるが、だれひとり楽しそう 作だ。この心持ちには決してみえなど混っていない。むしろ偽なのはいない。みんな自尊心が強いくせに、だれひとり自分
わたしの枕の下に秘められていた。わたしはときどきそれをを張っているに相違ない。彼が自分の公民としての義務を、 これは 訣み、他人にも読んで聞かせた。一人の囚人には、この本で高度に意識している場合でも、やはり変わりはない。 文字を教えてやった。わたしの周囲にいた人々は、・ヘリンス何かの具合で、自然の法則そのものから出ているように思わ キイの信念によると、犯罪を遂行せずにいられなかった人々れる。で、今でも覚えているが、わが国で新しい ( 正しい ) 一であり、したがって、ただほかのものより不幸な人間だっ裁判制度が樹立されたばかりの当時、わたしはある意味でひ たにすぎないのである。わたしは知っているが、すべてロシどく興味を感じたことがある。わたしの空想の中には、陪審 ヤの民衆はやはりわたしたちを「不仕合わせな人間」と呼ん員会議の光景が浮かんできた。そこには、たとえば、昨日ま で農奴であった百姓たちが、ほとんど全員を占めているので でいる。この呼び名を幾度も幾度も、大勢の人の口から聞い : 、つある。検事や弁護士たちは、その目色をうかがったり、機嫌 た。しかしそこには何かしら別なもの、・ヘリンスキイカし たのとも違えば、この頃わが国の陪審員たちが下す判決文にをとったりしながら、彼らに話しかける。ところが、わが百 見受けられるのとも、まったく違った何ものかがあった。こ姓諸君は、黙りこくってすわりこんだまま、腹の中でこんな こっち の「不仕合わせな人間」という言葉、すなわち、ロシャ民衆ことを考えている。「さあ、今こそどんなもんだい、 の判決の中には、ある別種の思想が響いていた。四年の懲役がその気になれば無罪になるが、気がむかなけりや、シベリ 、生活は、思えば長い学校であった。わたしは確信をつかむ時ャ行きだそ」 ところで、そうはいうものの、いま注目すべき現象はほか 日を与えられたのだ : : : つまり、今そのことを話したいと思 でもない、彼らが懲罰を下さないで、いつもほとんど例外な らつのである。 く無罪にしていることである。むろん、これもやはり権利の 3 環境 濫用で、ほとんど限度を越しているほどである。しかし、そ 世界の、ことにわが国のあらゆる陪審員に共通の感じの一れはいかなる方向をさしているのだろう ? 感傷的な方向だ けれど、わが国 それは容易にわからない、 つは ( むろん、その他さまざまな感じは別にして ) 、おそらろうか、 ・く権力意識、というより、むしろ独裁権意識に相違なかろの到るところで、ほとんど先入見になっているかと思われる ほど、共通な一つの方向をさしているのは間違いない。それ ・う。それは時として醜悪な感じである。すなわち、これが他 の感じを圧倒した場合の話である。けれども、たとえその他はまるで、だれもかれもが申し合わせでもしたようである。 の高潔無比な感覚群に圧倒されて目立たないような形をしてその「方向」の共通していることは、疑いの余地がない。是 が非でも無罪にせねばならぬというマニヤが、昨日まで辱か いる時でも、とまれこの感じは、一人一人の陪審員の魂に根
かたら 行く ( これは事実なのである ) 。「キリスト教徒の中には、わわがロシャには「優れた人々」の象が失われないのみか、か しが戦争に行っている間、娘を守ってくれる人もいるでしえっていつの時代よりも、明るく輝きだした。その姿の具現 ようよ」と人々のロ 門いに対して彼は答えるのであった。「だ者、保持者、帯持者は、民衆である。われわれが文化の傲慢 から、わしは思いきって出かけて、神の仕事にお仕えするのと同時に素朴な無知のために、まったく「資格のない」もの ・ : こんな例は幾千となく挙げらと考えていた平凡なロシャの民衆である。なぜにわれわれ教 た」こういって歩いて行く : れる ! 養人はこのことを大胆に、正面から期待することができるか という問題、これこそわたしの結論したいと念ずるところの もうちょっと以前、例えばこの冬あたり、こんなことがロ シャに起こるだろうというものがあっても、われわれははんものである。「優れた人々」の問題において、民衆が「優れ とうにしなかったろう、ーーー現に開始された ( まだまだ完成た人々」をさし示している形式が、はなはだしく無邪気で素 朴であるにかかわらず、なぜわれわれの「教養」の要求が民 までには遠いが ) この「十字軍」を信じはしなかったろう。 夢ならぬうつつにこれを目撃している今でさえ、どうかする衆の指示と合致することができるか、この点をわたしはとく と、「いったいどうしてこんなことが起こったのだろう、どに論じたいのである。要は形式にあらずして、その内容であ うしてこんなだれひとり予期しないことが成就されたのだろる ( もっとも、形式も見事なものではあるが ) 。内容にいた っては、議論の余地がないほどである。そのゆえにこそ、わ う ? 」と、われともなしに、自問することがある。ロシャの 土が敬い信じているいっさいのものを、ロシャの土が口ずかれわれは喜んで新しい期待に身をまかせることができるので ある。わが国の地平線はあまりにも美しい晴れ渡った、われ ら声明した。ロシャの土が優れたものと見なしているもの、 われの新しい太陽はあまりにも明らかにさし昇ってきた : 「優れた人間」として尊敬している人々を、ロシャの土が、 その指が示したのである。が、「それはいかなる人々であるもしわれわれ一同が、今後だれを「優れた人」と見なすかと いう解釈で、民衆と一致合流することができさえすれば、お かいかなる理想が指し示されたか」ということは、次の 「日記』まで預かることにしよう。実際のところ、これらのそらく今年の夏から、ロシャの歴史に新しい時代が始まるで あろう。 「理想」や「優れた人々」は、一見して明らかなのである。 民衆の観念による「優れた人々」は、物質的誘惑に頭を下げ たゆ なかったもののいいである。常に撓まず倦まず、神のための 仕事を求め、真実を愛し、必要とあれば家をも家族をも棄 て、生命さえ犠牲にして、立って真実に仕えるものである。
ない。彼らがその醜悪の中に沈湎しながら、常に憧憬してい分で一番それを苦に病んで、こんなものははんの外来の一時 る偉大にして神聖なる事物に準拠しなければならぬ。それ的のものだ、悪魔の使嗾だ、今にこうして暗黒時代は終わり 、民衆もみな穢らわしい人間ばかりではない。中には聖人を告げて、いっかは必ず永遠の光が輝きわたるに相違ないと セルギ といっていいようなものさえある。しかも、自分自身光を放信じている。わたしは今さら彼らの歴史的理想、 ち、ほかのものの道も照らしているような、とび離れて立派イや、洞穴寺院のフェオドーシイのような高僧たちのこと なものさえある ! わたしはなぜか盲目的にこう信じき 0 てや、チーホン・ザドンスキイ ( の ゾシ「長老 ) のことさえ、引きム 0. ロシャの民衆の中にいる卑屈漢、陋劣漢は、だれ いに出そうとは思わない。ついでだからいっておくがい でもきっと自分は卑屈だ、陋劣だと承知している。ところたい、チーホン・ザドンスキイのことを知っているものが、 が、これがほかの社会であったら、陋劣な真似をしておきなそうたくさんいるだろうか ? なぜこういうふうなことをぜ がら、自分でそれを自慢して、主義かなにかに祭りあげてしんぜん知る必要がないと考えたり、ぜんぜん読むまいと誓っ まい、この中にこそ l'Ordre ( 秩序 ) が含まれているのだ、文たりするようなことが必要なのであろう ? 忙しくて暇がな 明の光が蔵されているのだ、と広言するような連中が往々あ いとでもいうのだろうか ? 大方の諸賢よ、わたしはあえて る。そして、結局、その連中はかわいそうに、心底から盲目明言するが、諸賢はその中に多くの美しいものを発見して、 的に、しかも公明正大な心持ちで、それを信じるようになる一驚を吃せられるに相違ないであろう。 ロシャの民衆を のである。ところが、こちらはそうでない。 しかし、それよりむしろロシャの文学に目を転じよう。プ 現在の姿において論じてはならぬ。彼らがかくありたいと望 ーシキンの創造した恭順で淳朴なペールキンのタイプを初め んでいるところのものに準拠しなければならぬ。彼らの理想として、ロシャ文学の中における真に美しいものは、すべて は力強く神聖である。それゆえにこそ幾百年にわたる苦痛の民衆の中から取られているではないか。ロシャではすべてが 中にも、彼らは救われ得たのである。これらの理想は、遠いプーシキンを起源としている。彼の創作生活の中でもきわめ せいちよく 昔から彼らの魂とともに生成して、単純と正直と、誠実と、 て初期に属するあの時代に、彼が忽然として視界を民衆のほ すべてのものに向かって開かれた広い理解力とをもって、そうへ転じたということは、実に比類のない驚嘆に値すべき出 の魂を守ってきた。しかも、これらすべてのものが渾然とし来事であって、あの時代としては思いもよらぬ、新しい言葉 た、きわめて美しい調和を保っているのだ。 を発したものである。ああいう出来事は奇跡でないとすれ よし、こういうものとならんで、穢れたものもまた少なか ば、なみなみならぬ偉大な天才によるとでもいわなくては、 らず彼らの中にあるとしても、ロシャの民衆はだれよりも自ほかに説明のしようがない。ついでながら、われわれは今日 ちんめん しそう
はたして諸君はこれを黙過されるであろうか ? 」 欲望を制御する力のない、暴君のようにわがままな人物が出 たのである。検事当局もこの人物を前にして当惑のあまり、 2 地方的な新しい言葉 彼女は狂人ではないかという疑問を発した。鑑定人の一部は カイーロヴァの事件を事新しく持ち出すのは ( すでに周知 断然これを否定し、一部は狂気の可能を認容した。ただし、 それも彼女の人格ではなく、その行為の中に認めたのみであのことと思うので ) 今さら遅まきすぎるし、またわが公衆が る。けれど、この出来事ぜんたいを通じて顔を出しているのかように特質的な気分に包まれている中にあって、かように は狂女でなくして、いっさいの神聖なものを極端に否定する特質的な現代生活の現象を取り扱うに際ー、わたしなどのい にいたった女である。彼女にとっては、家庭も自分以外の女うことに何かの意味があろうはずはない。けれど、この「事 の権利も眼中にない、夫に対する他人の権利ばかりか、生命件」を機縁として、たとえ遅れ馳せであっても、ほんの一言 そのものに対する他人の権利も存在しないのである、 しておくのは、やつばり必要なことかもしれない。なぜな ら、したがっ っさいは彼女一人のために、彼女の本能的欲望のために存在ら、物事はなに一つ終結するものではないか しているのである。 て、なに一つ遅いというわけはないからである。むしろあら 彼女を無罪としたのは、おそらく狂人としてであろう。こゆることは常に継続して、たとえその最初の段階は過ぎ去っ れはまだしもありがたしー 少なくとも、道徳的放逸は知性たにせよ、常に更新されるものである。かんじんな点として の進歩に関係のあるものでなく、精神病の範疇に属するものは、くり返していうが、わたしに手紙を寄せた読者よ、この である。 抜き書きを容教していただきたい。わたし一人が受け取る手 しかし、『もつばら婦人によって占められている下の傍聴紙から察してみても、さきに暗示したように、ロシャ生活の 中でもきわめて注目すべき現象に関して、一つの除外例を作 席では拍手が聞こえた』 ( 『取引所報知』 ) 何を拍手したのだろう ? 狂女が無罪になったことか、あることができそうである。すなわち、だれもかれもが不安を るいは自己を失った情欲の本性が勝利を得たことか、あるい 感じ、すべてのことに参与し、だれもが意見を披瀝し、自己 を表明しようと望んでいるが、しかし各々が自分の意見の中 はこの女に表出されたシニズムか ? 婦人たちも拍手する、妻や母たちも拍手する ! かように に孤立するのと、全体の整然とした合唱の中に合流するの 女の理想を凌辱されたら、彼女らは拍手するどころか、泣くと、どちらをよけいに望んでいるかという一事にいたって のがあたりまえだのに : は、決定しかねるのである。これは地方から来た一私人の手 紙である。しかし、ついでにいっておくが、ロシャの地方は (Z ・わたしはここであまりに激烈な数行を省いた ) 2
要求、すなわち委員会の決定を期待している社会の要求を満しかし、 < ・ Z ・アグサーコフの家には、ばねと針金が一 たすことによって、気俺を下げることを欲しなかった。委員面に引っぱりまわしてあり、そのうえ、霊媒者の足の間に 会は社会の要求にはあまり心配しないで ( もしそうでなけれは、がたがた音のする器械のようなものがあるとしておこう ば、委員会はてんでこの要求を理解できなかった、と人は想 ( この委員の狡猾な推察については Z ・・ヴァグネルが公 像したかもしれない ) 、「闇の中に閃めいたグリノリン ( 腰張けに発表している ) 。しかし、だれでも「まじめ」な降神術 これは、は り ) のばね」くらいで、いったん害われた人間の迷いを解くの信者は ( おお、この言葉を笑わないでほしい。 こともできなければ、なに一つ証明できないということさんとうにまじめな話である ) 、この報告を読んで反問するだ ろう。「どうして、自分の宅でも、ーー妻や、子供、身内、 え、考えてもみなかったのである。『報告』を読んで見ると、 これらの学者たちは、降神術はペテルプルグの <t ・ Z ・アグ知人、すべて掌をさすように知り抜いている自分の宅でも、 サーコフの宅にのみ存在するものと想像して、社会に現われどうして同一の現象が起こるのだろう、なぜテープルが揺れ て、持ちあがって、音がして、理にかなった答えが得られ た降神術に対する渇望についても、また何を根底として降神 術がわがロシャ人の間にひろまりはじめたか ? という問題るのだろう。わたしの家には器械もなければ、針金もない。 についても、ほとんど知るところがなかったように思われてわたしの妻子はわたしをだましつこない、それはわたしもた くる。しかし、彼らはこれを知り抜いていながら、ただ無視しかに知っている。十分に信じきっている」第一、こういう していたのである。 、つさいから推量するに、わが社会が降ことをいったり、考えたりする人が、ペテルプルグやモスク 神術に惑溺しているという話を聞きながら、彼らはこの惑溺ワをはじめ、ロシャにはもうかなり多くなった、いや、非常・ を愚弄したり、嘲笑したりしながら、それさえほんのついでに多くなった。これは学者としても、象牙の塔から下りて、 に問題にするという、普通人と同じ態度をとっている。しか 一考しなくてはならないことである。なにしろこれは伝染病 なのだ、こうした人たちは救ってやらなければならない。け し、委員会を組織した以上、彼ら学者たちは社会活動家にな ったわけで、もはや単なる個人ではない。すなわち、彼らはれど、委員会は気位が高くて、そんなことはいっこう考えも しない。「なに、ただ軽率で教養のたりない人間たちだか 使命を担ったのである。それを彼らは念頭におこうとしない で、まったく以前のとおり、個人の資格のままで嘲笑し、せら、それで信ずるのだ」といっている。「それなら、そうと 記せら笑いしながら、ただこんなばかげたことをまじめに研究しておくがいいさ」とまじめな降神術の信者は、主張しつづ ける ( 彼らはまだ最初の驚愕と、不安に捉われているのであ のするはめになったのをいくぶん憤慨しながら、降神術の机に る、 作着席したのである。 なにしろ新しい、異常なことだから ) 。「かりにわた引
民衆は零であるのか ? わたしは断言するが、われわれ文化家が現われるやいなや、その多くが握り屋やかたりになるな 人の間には、この点、極度に曖昧なところがあって、「文化どとは、断じていいきれるものでない。 これを断言する人た 人」の中で、これに正しい解答を与え得るのは、寥々たるものちょ、、 。しったいどこで成長したのだろう。わたしは子供の時 である。それどころか、めいめいが自分勝手に、まちまちな から今日にいたるまで、まったく違ったことを見てきた。わ ことをいっているので、なぜ松は七年間に成長しないで、七 たしがわずかに九歳の時であった。ある時、降誕祭の三日目 倍もよけいの年月を成育に要するか、といったような皮肉の晩、五時頃に、われわれ一家族、父、母、兄弟、姉妺が は、きわめてありふれたことで、ポトウーギン輩ばかりでなそろって茶を飲みながら、円いテープルに着いていた。ちょ く、もっと教養のある人の口からも、しばしば聞かされるこ うど一同は田舎のことや、夏にはみんなでそこへ行こうなど とである。まして、アフセエンコ氏にいたっては、いわずも という話をしていた。ところへ、急に扉が開いたかと思う がなである。それから、この編のはじめに提出した「われわと、たったいま田舎から着いたばかりの邸づきの百姓、グリ れは民衆の文化を一蹴して、自分たちの文化を讃美するほゴーリイ・ヴァシーリエフが閾ぎわに現われた。主人の不在 ど、たしかに間違いなく優れているか、誤りなく文化を受け中は、この男が村の管理さえまかされていたのである。とこ ているか ? われわれがなにものかをもたらしたとすれば、 ろが、いつもはドイツふうのフロックコートを着込み、もっ それはなんであるか ? 」という問題に移ろう。わたしはこれたいらしい様子をして、「支配人」然としていた彼が、旧い に対して、われわれはほとんどすべての点において、民衆よ百姓上着をまとい、木の皮靴をはいて現われた。田舎から徒 りもはるかに劣っている、と率直に答えよう。 歩で来たのである。部屋の中に入ると、ひとこともいわない 民衆の中に活動家が現われたかと思うと、すぐに握屋 りかで突っ立っている。 かたりになるという ( これを主張するのは、アフセエンコ氏「どうしたのだ ? 」と父は驚いて叫んだ。「どうしたという のみではない。それに概して、アフセエンコ氏は決してなにのだ ! 」 一つ、新しいことをいいはしない ) 。第一に、これはうそで「お邸が焼けました ! 」とグリゴーリイ・ヴァシーリ エフは ある。第二には、はたして文化的なロシャ人の間にも、似たり低い声でいった。 寄ったりの握り屋や、かたりがふんだんにいないだろうか ? それからさきのことはくだくだしく述べまい。父母は富裕 むしろもっと多いくらいである。しかも、彼らは文化を受けではなく、自分で働いて暮らす人たちであった。それなの のているのに、民衆はそれを受けていないから、いよいよもって 聞いてみ に、降誕祭にこのような贈物を受け取ったのだ , 作恥すべきである。けれど、かんじんなことは、民衆の中に活動ると、す 0 かり丸焼けになったとのことである。百姓の住居 一三い
ったらしい。わたしは彼らが孤独の中に考えこんでいるのをしてみると、この次の時も、やはりあんなふうにやってかま石 見た。わたしは彼らが教会で懺悔の前に祈る姿を見た。彼らわないんだな。おれはあんなに困ったんだもの、どうして盗 が突如として吐く断片的な言葉や、感に堪えたような叫び声まずにいられよう、そりやわかりきった話だ」 に、耳を傾けたこともある。そうした彼らの顔を今でも覚え はたして諸君は、彼らをみんな一人のこさず無罪にしてや ている。 おお、わたしは誓っていうが、彼らはだれ一人ったり、または「いかにも情状酌量の余地がある」といって として、自分が正しいとは、内心考えてはいなかったのであ許してやることによって、彼らに悔悟の機会を与えてやった と考えていられるか ? なんの、彼らが諸君へのお義理に改 わたしは自分の言葉を残酷ととられたくはない。しかし、 心などしようか ! 彼らにとっては何もたいしたことはない それでも、わたしはあえて最後までいってしまおう。率直に のだ ? 「してみると、おれはまったく罪はないらしい」結 語るが、諸君は厳酷な刑罰、牢獄、懲役などによって、ある局のところ、彼はこんなことをいうだろう。諸君自身が彼を いは彼らの半数を救い得るかもしれない。 それは彼らのかような結論へ突きやったわけである。なによりいけないの 良心を楽にこそすれ、苦しめはしないであろう。苦悩によるは、国法と民衆の真理に対する信念がぐらついてくることで 自己浄化のほうが容易に違いない。 わたしはあえていうある。つい最近、わたしは外国でひきつづき数年を送った。 が、諸君が例外なしに法廷で無罪にしてやって、彼らの多くわたしがロシャを出発する時は、まだ新しい裁判制度が、わ のものに授けているような運命よりも、むしろ容易なわけでが国でははじまりかかっていたばかりである。わたしはどん ある。諸君はその行為によって、彼らの魂の中に無恥の精神なに貪るような気持ちで、わが新聞紙上に掲載されたロシャ を植えつけて、彼らの心に躓きの石ともなるべき疑問と、諸の裁判に関するすべての記事を外国で読んだことか。外国に 君自身に対する嘲笑を残すにすぎないのだ。諸君はそれを信いる頃、わたしはまたロシャの外国在留民や、母国の言葉さ じないのか ? それは諸君と、諸君の裁きと、全国土の裁きえ知らないような、ないし忘れかけているようなその子供ら に対する嘲笑なのである ! 諸君は彼らの魂に民衆の真理、 を、悲しみの目をもって眺めたものである。彼らの半数が、 および神の真理に対する不信の念を注入しているのである。事情のしからしむるところから、結局、移住民と変わってい 彼らを困惑さしたままでうっちゃっているのだ・ : ・ : 彼らは法くということは、わたしの目に明瞭であった。わたヒはこの 廷を去りながら、こう考えるだろう。「やあ、今ではこんな かばかりのカ、か ことを考えると、いつも苦しかった。 ふうになったのか、掟なんてものはないのだ。人間が少々利ばかりの優れた人々が、空しく失われていく。しかも、わが 口になったんだ、きっと。こわがっているのかもしれない。 国では、あれほど有為の人物に不足を感じているではない
魔の存在を容認する人がいなくてはならない、たとえ仮定のし悪魔がだしぬけに自分の威力を発揮して、無数の大発見を いったいどんなことになったろ 上でも容認しなければならぬ。しかし、彼らのうちたった一もって人間を圧倒したら、 う ? 例えば、彼らが電信を発見したり ( かりにこれがまだ 人でも、悪魔を信じているものがあるかどうか、おばっかな いものだ。もっとも、神を信じないくせに、なんの苦もなく発見されてなかったと仮定しての話だ ) 、人間にいろいろな 悦んで悪魔を信じるものは、掃いて棄てるほどあるのだ。こ秘密を伝えたとすればどうだろう ? 「あすこを掘ってみろ しんびよう 宝ものが出て来るぞ、でなけりや石炭の層が出て来る ういうわけで、右の委員会は十分信憑すべきものといえな ところで、一つ困ったことに、わたし自身どうしても悪そ」 ( よけいな口をきくようだが、今は薪もなかなか高いの いったい何を驚くのだ、こんなのはまだつまら 魔を信ずることができない。そこで、わたしは降神術に関しだから ) て明澈このうえない、驚嘆すべき論理を案出しはしたものないことではないか ? の、単に悪魔の存在ということ一つを出発点においているの人間の科学はまだまだ幼稚の域にあって、やっと仕事にカ だから、もし悪魔がいなかったら、わたしの論理も自然崩壊かったばかりである。もし科学がなにか保証された点を持っ 有終の美を完うせしめているとすれば、それはまあ、今のところ、どうやら一人だ してしま、つことになるが、とにかく、 るために、この論理を読者に伝えようと思う。実は、わたしちができるようになった、というくらいのことにすぎない。 は悪魔を弁護するつもりなのだ。今度はだれもかれもむやみこれはもちろん、読者諸君もご承知のことと思う。ところ が、とっぜん、太陽はじっとしていて、地球がそのまわりを に悪魔を攻撃して、彼らをばか者扱いにしているが、乞う、 回転している、といったような発見を幾つも幾つも、一時に 意を安んぜよ。彼らはちゃんとなすべきことをわきまえてい 振り撒かれたらどうだろう ( 実際、規模において、これに譲 る。このことをわたしは立証したいと思う。 第一に、新聞雑誌の書きたてるところによると、霊魂はばらぬほどの無数の大事実が、まだ今日まで発見されずにいる ばかりか、現代の賢者たちの夢にさえ浮かばないでいるの かだということである ( 霊魂というのは悪魔のことであり、 穢れたる力である。実際、悪魔以外この場合、どんな霊魂がは、疑う余地もないことである ) 。こうしたすべての知識が あり得るものか ? ) 。彼らを呼び出してたずねてみると ( 例一時に、しかも贈物といったふうの形で、まったくただもん の机踊りで呼び出すのだ ) 、彼らはくだらないことばかり答めに、人類の頭上に降りかかったらどうだろう ? わたしは えて、文法も知りやしない、なに一つ新しい思想、新しい発そのとき人々がどんなになるかときいているのだ。おお、も ちろん、はじめはみな歓喜のあまり夢中になってしまうであ こう書きたてている。しかし、 見を伝えることもできない、 かような判断を下すのは、とんでもない大間違いなのだ。もろう。人々は感きわまって抱き合い、新しい発見の研究に突
しない、わたしははかならぬこの問いを、二度までも自分に 8 ちど彼女から浮彫石 ( ごくお粗末な ) をとったことがある、 後で気がついて、われながら驚いたのだが、わたしも金かけてみた。「値するだろうか ? 値するだろうか ? 」そし 銀以外のものは決してとらなかったのに、彼女にだけ浮彫石て、笑いながら、腹の中でそれを肯定の意味に解決した。そ をさし許したのである。これが当時、彼女に関する第二の想の時、わたしはもうやたらにうきうきしていた。しかし、こ れはよからぬ感情ではなかった。わたしは心あって、計画的 念であった、わたしはそれをよく覚えている。 彼女は今度は、というのはつまり、モーゼルのところを出にそうしたのである。わたしは彼女を試してみたかった、と いうのは、わたしの頭にはそのときふいに、彼女を目あてに 代物とし たその足で、琥珀の葉巻パイプを持って来た、 ては相当なもので、道楽向きの品だったが、われわれのとこある考えが湧いてきたからである。これが彼女についてわた ろでは結局、一文の値うちもないのであった。なにぶん、わしがいだいた第三の特別な考えであった。 : さて、こうして、それ以来すべてが始まったのだ。も れわれは金製品しか扱わないのだから。しかし、彼女は昨日 の叛逆のあとでやって来たのだから、わたしは厳かに彼女をちろん、わたしは早速わきのほうからいっさいの事情を探り 迎えた。わたしの厳かというのは、そっけない態度のことで出そうと骨折った。そして、特別こらえきれぬ思いで彼女の ある。そのくせ、彼女に二ループリの金をわたしながら、わ来るのを待っていた。彼女が間もなくやって来るのを予感し たしはついこらえかねて、いくぶんいらだたしさを見せながていたのだ。いよいよやって来た時、わたしは特別の慇懃さ ら、「まったくあなただからお貸しするんですよ。モーゼルで、愛想のいい話をはじめた。なにしろ、わたしは相当の教 なんか、こんなものは受けつけやしませんからね」といって育を受けているし、行儀作法も心得ている。ふむ ! その時 しまった。「あなただから」という言葉にわたしはとくに力はじめて、これは心だての優しい、おとなしい女だな、とわ たしは察した。心だての優しいおとなしいものは、長く突っ を入れた。つまり、ある意味を持たせたのである。わたしは 意地が悪かった。この「あなただから」を聞くと、彼女はま張ることをしない、決してむやみにうち明け話もしないけれ たかっとあかくなったが、黙りこくって、金もはうり出さずど、話をそらしたりすることはどうしてもできないのであ に乂け取 . った、 貧乏の悲しさである ! それにしても、 る。ロ数こそ少ないけれど、答えることは答える。そして、 なんて真っ赤になったことか ! わたしはまんまと一本刺しさきへ行けば行くほど、だんだん言葉数が多くなる。もし何 たなと悟った。彼女が出て行ってしまうと、急にわたしは自か知りたかったら、こちらに根気さえあればいいのである。 分にたすねた、 では、はたして彼女に対するこの勝利 もちろん、そのとき彼女は自分からは何もいわなかった。 が、二ループリに値するだろうか ? へ、へ、ヘ ! 忘れも 『ゴーロス』紙のことも、そのほかいっさいのことも、みん