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検索対象: ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)
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1. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

に神秘な piccola bestia のことを書いているとき、ふとこんかしておかなけりゃならんて」 な考えが頭に浮かんだ。ほかでもない、わたしが、この比喩 蜘蛛、蜘蛛、 piccola bestia なるほど、おそろしく似てい でビーコンスフィールド子爵を描写しようとしているのだる。ほんとに小さな毛むくじゃらな bestia だ ! そして、 と、もし読者が考えたらどうしよう ? しかし、断言するあの走り方のはやいこと ! 現にあのプルガリヤ人の虐殺に が、それは違う piccola bestia は単なる思想であって、人間しても、 それは彼が事ここに到らしめたのではないか。 ではないし、それにビーコンスフィーレド ; ノカ大いに piccola なんの、それどころか、自分で筋書を書いたのではないか。 bestia に似ているのは認めなければならぬとはいえ、それなにしろ彼は小説家で、これは彼の chef ・ d'æuvre ( 傑作 ) な は彼として過分の光栄である。その演説の中で、セルビヤがのだ。しかし、彼はもう七十歳からで、間もなく土に帰らな トルコに宣戦したのは不正な行為であり、今セルビヤが戦っければならぬ、彼は自分でもそれを知っているはずだ。彼は ている戦いは不正な戦争であると高調したうえ、そんなふう子爵の位を授けられた時に、さそやどんなにか喜んだであろ にして、彼の知らないでいようはずのないロシャの運動、ロ う。また小説を書いていたうちから、きっとこれを生涯空想 シャの感激、犠牲、希望、祈りに、ほとんど真っ向から唾をしていたに違いない。こういう人たちょ、、 ( したい何を信じ 吐きかけんばかりにして、このイスラエル人、イギリスにおているのだろう、夜はどんなふうに眠って、どんな夢を見る けるこの新しい名誉の判官は、次のようにつづけている ( わのだろう、自分の魂とさし向かいになったとき、何をしてい たしは逐字的に伝えるわけではない ) 。 るのだろう ? おお、彼らの魂は、さぞかし優雅なもので充 「ロシャはもちろん、自国のこうした破壊的要素をセルビャ満しているに相違ないー : ・彼ら自身は毎日、洗練され機知 へ送り出すのを喜んだ次第であるが、ただ彼らがそこで結東に富んだ話し相手と一座しながら、素晴らしい昼餐をしたた し、合体し、密約し、組織を作り、一個の勢力をなすまでにめ、晩には、きわめて優雅なきわめて高尚な社交界で、美し 成長するであろうということは、つい念頭から逸しているの いレディたちに愛撫されて暮らしている。 おお、彼らの である」・ ・「この新しい脅威となるべき勢力に、ヨーロッ生活はこのようにお品よく、胃の消化カたるや驚嘆すべきも パは注意しなければならぬ」とビーコンスフィールドは念をので、夢はみどりごのように安らかである。最近わたしは、 シ・ブズク 押して、ロシャおよび近東における将来の社会主義で、イギトルコの不正規兵が二人の僧をはりつけにした記事を読ん リスの農場経営者を威嚇している。「ロシャでも、この社会だ、ーー両人は、想像を絶した苦痛のうちに、一昼夜たって 主義に関する余の諷刺的言句を認めるであろう」それからす死んだ。ビーコンスフィ ! ルドは、はじめ議会でいっさいの ぐに、彼はもちろん腹の中で考える。「ロシャもちょっと脅惨苦、きわめて小さな惨苦すら否定はしたものの、もちろん、

2. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

にこれは、何よりもまず公正であろうとする要求、真理のみまたロシャの鬱然たる威容の前に、スラヴ諸族の個性を滅却 を探求せんとする要求である。一言にしてつくせば、これはさせるためでもなく、むしろ個性を再建して、ヨーロッパに おそらく、われらの宝である正教を人類への奉仕に適用する対し人類に対して、当然あるべき関係におくためである。ま 手はじめであり、第一歩である。これこそ、正教にあらかじた最後の理山としては、彼らに安息の可能を与えて、数世紀 め予定されていた使命であって、まぎれもなくその真の本質にわたる無数の苦悩から休息せしめるためであり、気力を養 をなしているところのものである。かくして、ビヨートルのい新しい力を感じたうえで、その努力の結品を人類の精神的 改革を通じて旧来のわが思想、ロシャのモスグワ的理念の拡宝庫にささげ、文化の競争場裡で自己の言葉をいわしめんが 大が行なわれ、その増大し強化された理解が得られたのであためである。いや、もちろん、諸君は、上に述べたロシャの る。われわれはそれによって、ロシャの全世界的使命を認識使命云々の「空想」を笑うことはできるが、しかしこれだけ し、人類の一員としてのわが人格と役割を自覚したうえに、 は聞いておきたい、 はたしてすべてロシャ人は、ヨーロ この使命と役割が他国民のそれと、似ても似つかぬものであッパが疑ぐっているように、スラヴ族を政治的にロシャに隷 ることを認めざるを得なかった。なぜなら、かの地における属さしてロシャの政治的勢力を強化せんためでは断じてな 各々の国民的人格は、ただ自己のために、おのれの内部に閉く、前述の精神において、すなわち、彼らの完全な人格的自 じこもって生きているのに反して、われわれは時節到来した由と彼らの精神の更生のために、スラヴ民族の復興を望んで 今日の日から手はじめとして、全世界的和解のために、万人いるのではないだろうか ? まったくこのとおりで、間違い のしもべとなろうとしているのである。これは決して恥ずべはないはずである。したがって、すでにこのことだけからい きことではないどころか、人類の最後的一致団結へ導くものっても、前述の「空想」はたとえ部分的にでも是認されはし であるがゆえに、かえってこの中にこそ、われらの偉大さが ないか ? 自明の道理として、この目的のためにもコンスタ 含まれているのである。神のみ国において最高の位置を欲すンチノープルは、ーーー遅かれ早かれわれらのものでなければ るものは、 ならぬ : まず万人のしもべとなれ。わたしは理想とし てのロシャの使命を、かく解するものである。 もしオーストリア人なりイギリス人なりが、上述の空想を ートル大帝以後、わが新しき政策の第一歩も、おのず読む機会を持ち、がぜん右のような断定的結論に読みいたっ とんな嘲笑をもらすことだろう ? 「コン から方向を明らかにした。この第一歩は、いわば、ロシャのたら、いやはや、・ の翼下に全スラヴ族を結合することでなければならなかった。 スタンチノープル、金角湾、世界第一の政治的地点、 れがどうして侵略でないものか ? 」 作この結合は優略のためでもなければ、暴力のためでもなく、 369

3. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

得ていると思われない。しかし、あれだけの学者からなってせることになろう。 いる委員会が、そもそもの始めにこのばかげた思想を揉み消 4 珍しい例外的な現象 すことができるものと、まじめに考えていたのであろうか ? 力なり面白い別種 ああ、もし委員会が「まやかし」の最も明瞭かっ端的な証拠けれど、わが国にはとくに青年の間に、、 を提出するか、あるいは実際に「瞞着を働いているもの」をの現象がある。もっとも、今のところ例外的な現象である。 「民衆の中へ行く」不幸な青年たちに関する話題とならん 引っ捕まえて、その正体を剥いでみせたならば ( もっとも、 そんなことは決して起こらなかったが ) 、その時は降神術にで、まったく異なった青年に関する話題が起こり始めた。こ 打ち込んだものも、打ち込もうとしているものも、神秘的なれらの新しい青年も同じく不安に駆られて、われわれのとこ 、ろいろの疑惑や、論文や、意外な 思想においては、最も数学的な証明さえなんの意義も持たなろへ手紙をよこしたり、、 い人性永劫の法則によって、一人として信ずるものはなくな思想をひっさげて、訪間したりするのである。ただし、その るだろう。ロシャに起こりつつある降神術の中には、誓って思想は、われわれが今日までの青年の間に見なれていたもの これで見ると、ロシャ 。しささかも似かよっていない。 いうが、ただ神秘的思想のみが第一位を占めている。してみとよ、、 れば、これをどうすることができよう ? 信仰と数学的証明青年の間には、以前とはまったく反対の、ある種の運動が始 とは、両立しがたいものである。信ぜんと欲するものを抑制まっていることが想像される。いや、これはおそらく予期す するわけにはゆかない。おまけにこの場合は、証明すらなかべきことであったかもしれない。実際、彼らはだれの子であ るか ? 彼らは今の皇帝が即位の後、ロシャ再生の初めにあ なか数学的ではない。 それにしても、報告は有益のものたることを失うまい。またって、進歩と自山はこれにありとばかりに、大挙して共同の だ邪道に入らない人々、まだ降神術に無関心な人々にとって事業を放棄した「リペラルな」父たちの子である。しかし、 その頃リべラリス これは一部過去のことになるが、 は、疑いもなく有益であろう。が今日「信ぜんとする意 欲」は存しているのだから、その意欲に新しい武器が与えらトはたくさんいたろうか、例えば、さきごろ故人になった・ヘ リンスキイのように、真に苦しんだ純潔誠実な人がたくさん れたわけである。それから、報告のあまりに侮蔑的にお高く いたろうか ? ( 彼の知性については、あえていわないことと とまった調子は、やわらげてもよいと思う。まったくのとこ 肥ろ、これを読むと、尊敬すべき人たちが二つに分れて、観察して。 ) いな、それどころか、彼らは大部分ちつばけな無神 、といったような印象を論者や、甲羅に毛の生えた恥知らすや、守銭奴や、「ちつば ののおりなぜか個人的に争ったらしい けな暴君」であり、自山主義の中に破廉恥の権利ばかりさが 作受ける。これは「報告』にとって不利な見解を大衆にいだか

4. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

ておいた。しかし、質問はいまだに絶えないから、今は公けっ有益なものを見いだすに違いない、という信念にもとづく の刊行物でこれを断わっておく必要を認める。わたしは毎からにほかならない、 それ以上くわしいことは、『光』 日、読者から手紙を受け取るが、その手紙で見ると、なぜか についてなんら知るところがない。 この刊行物はわたしにと 読者諸君は、「光』におけるわたしの参加の範囲は、ヴァグってなんのゆかりもなく、現在、わたしの知っていること ネル教授の広告に記されているよりはるかに広汎である、すは、新聞の広告を読んだすべての人にも知れているだけのこ なわちわたしがほとんど「光』に移って新しい活動をはじめ、とである。 また以前の活動をも拡大して、未来の雑誌の刊行者や編集者 * この広告には、「刊行の参加者は、・・ドストエーフスキイ、・・ ポロンスキイ、 ・・メンデレーエフ、・ä・プトレーロフ、»-«・・ でないまでも、必ずやその思想・企図・計画などの協力者で セーチェーフ、・ Z ・べケートフである」と明記されている。〔訳注〕 あると思い込んでいるらしい * * 「光 J は月刊で、一八七七年から七九年に科学・文芸誌として発行され これに対して、わたしは今はっきり声明しておくが、来る た。ドストエーフスキイは短編掲載の約束は果たさなかった。〔訳注〕 一八七七年には『作家の日記』を刊行するのみであり、前年 3 問題はいまいかなる点にあるか の例にならって、この『日記』にのみわたしの著作家として の全活動が属するものである。新雑誌「光』については、企 一年は終わった。この第十二号で『作家の日記』刊行の第 図にも、計画にも、編集には参加しない。第一、この雑誌の一年も終わらんとしている。わたしは読者からも、きわめて 思想すら、わたしにはまだまったくわかっていないので、わ過分な同感をもって迎えられた。にもかかわらず、わたしは たしは初めてそれに接するために、創刊号の発売を待ってい いおうと思ったことの百分の一もいわなかった。今におよん るのである。思うに、わたしが「光』にとくべっ近い関係でで述べきたったところをかえりみると、一度で明瞭になるよ もあるように早合点されたのは、『作家の日記』にこの雑誌 うな表現をなし得なかったことが山々ある、反対の意味に解 の最初の広告が掲載されたのに、その後どうしたわけか、か 釈されたことすらしばしばあった。それはもちろん、だれよ なり長いこと、どの新聞にもこの広告がくり返されなかった りも自分に罪があると思っている。しかし、今まであまり多 からであろう。いずれにしても、他の刊行物に小説をやる約くの発言をする暇がなかったにせよ、読者諸君はすでに本年 東をしたからとて、自分のものをやめてその刊行物に移ると述べたところによって、来年の「日記』の性質と方向を理解 いうことにはならない。尊敬すべき Z ・・ヴァグネル氏のしてくださることと嘱望する。『日記』の主要な目的は今の 事業に対して、わたしが衷心から成功を望むのは、ひとえにところ、できるかぎりわれわれの国民的な精神的自主の理想 わたしの個人的な期待の情と、氏の雑誌に何か新しい独得かを闡明し、できるかぎり眼前に推移する事実の中にこれを指

5. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

である。うわさによると、傍聴席から叱咜の声さえ起こった しかし、司法制度万歳である。なんといっても、われわれは ということである。しかし、弁護士は元来、外交家ではない やつらに灸をすえたのだ ! 「そら、これが今日の堕落した のだから、この比較は実質的に誤りなのである。だから、依取引所時代の罰だ、われわれがみんなエゴイストになった罰 頼人を指して、「陪審員諸氏よ、諸氏のうちからだれかはた だ、われわれが人生の幸福とか、人生の享楽とかに関して、 して罪なきものありや ? 」と福音書ばりの問いを発したほう こんな陋劣な、物質的見解をいだいている罰だ、情味のない がほんとうだった、ずっとほんとうだったのだ。いやいや、背信的な自己保存の気持ちに提われている罰だ ! 」実際、わ わたしはなにも宣告に反対するわけではない。宣告は正鵠をれわれ自身が犯した罪に対して、たとえ一つの銀行でも問責 , つがっている、 その点わたしも頭を下げる。この宣告は、するのは、世道人心を益することである : たとえ一つの銀行だけに対してでも発せられなければならな しかし、いやはや、わたしはなんという脱線をしたこと かったのだ。この事件の性質からいっても、この不幸にしてか。わたしはなにも「ストルスペルグ事件」のことを書いて リつかかった」モスグワ貸付銀行を「社会の良心によって」 いるのではないではないか ? もうたくさんだ、急いで端折 問貴するのは、同時にすべてのわが国の銀行や、取引所や、 ることにしよう。わたしは「優れた人々」について語り、結 相場師を叱責することなのである。よし彼らがまだ引っかか論として、現在の優れた人間の理想が、「自然な人間」の理 っていないとしても、それは要するに同じことなのである。 想さえもが、いちじるしく溷濁しそうなおそれがあると、そ さて、それでは、だれがこれと同じような罪を犯していない のことをいいたかったまでである。「古いものは破壊され、 か、良心にかえりみて恥じないものがあるか ? だれかが早磨りへらされたし、新しいものはまだ空想の中を浮游してい くも新聞に、罰が手ぬるすぎると書いた。あらかじめ予防線る。ところで、現実には、なにかしらいまいましいものがわれ を張っておくが、わたしはランダウのことをさしていってい われの眼前で現われて、かってロシャで聞いたこともないよ るのではない。 この男は実際、何か特別な罪を犯しているの うな発展をしはじめた」この新興勢力である黄金の袋にささ で、わたしはそれをかれこれと穿鑿だてしたくない。けれどげられた崇拝の念は、取越し苦労な人々の心に、危惧の念、 も、「詐欺」で有罪の宣告を受けたダニーラ・シュマツへル 例えば、民衆に対する恐怖を呼びさましはじめた。われわれ はまったく恐ろしい刑罰を受けた。お互いに自分の心をのそ上流社会は、たとえこの新しい像に誘惑されたとしても、 いてみると、はたしてわれわれの多くが、これと同じような跡かたもなく没落してしまうようなことはあるまい。二百年 ことをしないといえるだろうか ? 口に出して告白する必要間われらの頭上に輝いていた教養の炬火は、無駄になりはし はないにしろ、心の中だけでも考えてみなければなるまい ない。われわれは文化の武器に身を固めているから、この怪

6. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

第で、まず当座の慰めともいうべきことは、「優れた人々」 これらすべては、なにもこうした言葉や、こうした疑問の の以前の階級形式が、完全に瓦解とまではゆかぬまでも、少形で発せられたのではないかもしれないが、この「動揺」が ・なくとも、いちじるしく脆弱となりがたついてきたために、 なんらかの形で、わが社会に体験されたことは疑いをいれ 彼らの各々は以前通りの意義を保持しようとすれば、いやでぬ。熱烈な感激派は、懐疑家に向かって、「新しい人」はい もおうでも「条件的の優れた人々」から「自然の優れた人る、発見された、決定された、出現した、と叫んだ。結局、 人」に移行せざるを得なくなったことである。そこで、「自この新しい「優れた」人というのは、単に文化人、以前の偏 然の人々」がかくして徐々に、以前の「優れた人々」の地位見を持たない科学の人である、ということにきまった。この を占めてゆくという、美しい希望が現われてきた。しかし、意見は、しかしきわめて多くの人の受け入れるところとなら これがいかにして成就されるかは、 もちろん、謎としてなかった。というのは、教育ある人が必ずしも清廉でなく、 残った。とはいえ、社会的地位のある、しかし熱情的、自由科学も人間の美徳を保証してはくれないからという、はなは 主義的な人々の多くにとっては、そこにはなんらの謎もなかだ単純な考察によるものであった。 った。彼らにあっては、なにもかもが書式通りに早くも決定 この一般的動揺と不安定のただ中に、民衆と民衆の精神を されていた。中には、すでにいっさいが獲得されて、「自然 たたいてみたらどうか、と提議を試みる人もあった。しか の人々」は今日明日にも第一位を占めるにきまっている、た し、「民衆の精神」という言葉だけでも、すでに多くの人し だちょっとでも夜が白みかければ、間違いなくその位置に立とっては、いまわしく、憎むべきものに思われていた。それ てる、とこんなふうに考えているものさえあった : に、民衆自体も解放されて以来、・ とうしたものか美徳の方面 し、比較的思慮ぶかい人々は、以前のテーマに対する疑問をからは、たいして真価を発揮しようとしなかったので、民衆 提出することをやめはしなかった。「いったいその自然の人の中にかような問題の解決を求めることは、頭からうさんく 人というのはだれのことだ ? いま優れた人々がなんと呼ばさく思われるのであった。それどころか、民衆に関しては、 れているのか、それをだれか知っているのだろうか ? それ無秩序、放埒、恐ろしい濁り酒、いっこうものにならない自 どころか、優れた人々の理想なんぞ、われわれの間では完全治制度、以前の地位をおそわんとしている富農と高利貸、そ に失われているのではないかしら ? いま一般から認められうしてはてはユダヤ人のうわさまでが耳に入るようにな ている「優れた人々』ま、、 。しったいどこにいるのだろう ? た。「賢明無比な」作家連中まで、この富農や高利貸が民衆 全社会こぞって尊ぶべきはだれなのか、何であるのか、またの間に君臨しているばかりか、かんじんの民衆が進んでそれ だれにならったらよいのか ? 」 を真に「優れた人々」とはき違えている、などと吹聴する始 490

7. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

ば、これらの新しく発見された「不幸な人々」は、それこそように、永久の真理を悟り、誘惑や情欲や悪徳を避けるよう 三層倍も罪が深いことになる。「彼らは学資を与えられて、 になると、信じきっていられるのか ? 諸君の考えによる 高等の学業を卒え、徹底的に勉強した人間だから、彼らを弁と、これらの学業を終わった青年たちは、決していかなる罪 護する言葉はない。彼らは発達の不十分なのらくら者より、業にも陥ることのない、一種の小さな法王とでもいうような 三層倍も憐憫に値しない人間だ ! 」これこそ諸君の論理からものになってしまうのであろうか ? 端的に生ずる結果なのである。 しったいどういうわけで、ネチャーエフ式の人物は必ず狂 信者でなければならないと、諸君は考えられるのか ? 彼ら さて、諸君 ( わたしは単に『ロシャ世界』の同人のみにい が単なる騙児にすぎない場合も、しばしば見受けられる。 っているのではなく、一般にいっているのである ) 、諸君は 「ばくは騙児なので、社会主義者ではない」とわたしの小説 「事実の否定」にもとづいて、ネチャーエフ式の人々は必ず「悪霊』の中で、ある一人のネチャーエフが、こういってい 白痴であり、「白痴的狂信者」でなければならないと主張さるとしよう。しかし、誓っていうが、彼は現実にもこの言 れる。しかし、くり返してい、つカ : 、はたしてそうだろうか ? を吐き得るのである。彼らはきわめて狡猾な騙児で、人間の それは肯綮にあたっているのか ? この場合、ネチャーエフ魂、ことに青年の魂の寛大な方面を研究しつくして、それを のことは除外して、「ネチャーエフたち」と複数にしておく。 楽器のごとくに弄ぶのである。わが国で、ネチャーエフ式の そうだ、ネテャーエフ式の人たちはきわめて陰鬱な、きわめ人間が傘下に集めうる新しい帰依者たちは、必ずただののら て不愉快な、捻じ歪められた人間で、その発生上きわめて複くら者にすぎないなどと、諸君は本気で考えていられるの 雑な権勢欲と、権謀術数に対する渇望をいだき、個性を表現 か ? わたしはそれを信じない。みながみな、そんなものげ しようという熱烈な要求を病的なほど早く現わすものである かりではないのだ。わたし自身も、古い「ネチャーエフ党」 しかしなぜ彼らが「白痴」なのであるか ? それはむしの一人で、同じく死刑を宣告されて、処刑台に立ったことが ろ反対で、彼らの中でもまぎれのないモンスター的存在でさある。けれど、誓って申しあげるが、わたしはそのとき教養 え、非常 ~ こ発育程度の高い、狡知にたけた人々で、教養さえある人々の仲間に入っていたのである。この仲間のほとんど も備えているのである。それとも、諸君は、知識とか「学すべては、最高学府の課程を卒えていた。中には、その後す 問」や、学校の与える知識 ( たとえ大学の学問であろうとべてが過去のことになった時、卓越した専門の知識や、優れ も ) 、そういうものが決定的に青年の魂を作りあげ、卒業免た著述で名声を馳せた人もある。断じてネチャーエフ式の入 状を受け取ると同時に、当人は確固不動の護符でも授かった 人は、必ずしもただのなまけ者ばかりでもなければ、まるで かたり

8. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

なにしをみとめない、 絶対にみとめることをこばんで、そこで しかし、こんな予防線でうまくゆくはずがないー それはわれ ろ、地獄だって、善意で道路がしきつめられているというで一段落ついてしまった。いずれが正しいか、 : なしか。ドストエーフスキイ氏も、「実践の伴わない信仰われが決定しなくとも、おそらく割合にはやく決定されるだ は死物である』ことは知っているはずである。いったいこのろう。近ごろロシャには、保護的な力を持ったものが何もな いようだ、なぜならば、「保護すべきなにものもない」から、 理想は、どういうところから知られるにいたったか ? もし いっさいの現実が理想に矛盾撞着し、理想にかけ離れているという意味の声が高い。実際、もし自分の理想というものが とすれば、 いかなる予言者ないしは心理学者がこれに透徹なければ、心配したり、なにかを守ったりする必要がないわ し、これを推知することができるのか ? トストエーフスキけである。もしかような考え方が静謐をもたらすならば、そ イ氏は、「彼らも少しは喧嘩するが、そのかわり、もう洒はれこそおめでとう、である。 口にしない』という意味で、わが民衆を弁護している。けれ「民衆は恐ろしくやくざなものだが、彼らの理想だけは良 ど、そういってしまえば、『むしろ理想は悪くとも、現実の い」この句、もしくはこの思想は、わたしのかっていった覚 良いのが望ましい』という教訓に落ちて行くのは、造作のなえがないものである。わたしはそれを明らかにするために、 これだけをガンマ氏に答えておく。それどころか、わたしは いことである」 民衆の中にも、「まるで聖人のようなものがある、中にはみす この引川の中で、最も重大なのは、「、つこ、 しオしこの理想 ( すから光を放って、われわれ一同の道を照らすものさえある」 なわち民衆の理想 ) はどうして知れたのか ? 」というガンマとのべたのである。尊敬すべき評論家よ、彼らは実際に存在 氏の質問である。しかし、わたしはこういう質問に答えるしているのであって、彼らの本体を見分け得るものは、幸福 のは頭からお断わりである。なぜなら、どれだけガンマ氏とである。わたしはそこに、これらの一一「ロ葉には、少しも曖昧な この問題を論じ合ったところで、いかなる結論にも到着しつ ところがないと思う。元来、曖昧というものは、筆者が曖昧 こないからである。これは非常に長たらしい議論になるが、 なために起こるとは決まっていず、時には、まったく反対の われわれにとっては最も重大なものである。民衆には理想が理山から生ずることもあるのだ : これこそわれわれに あるか、あるいはぜんぜんないか、 きみが論文の終わりにいっている、「むしろ理想は悪くと とって生か死かの問題である。この議論はすいぶん久しい前も、現実の良いのが望ましい」という教訓については、これ からたたかわされているが、あるものにとっては、この理想はまったく有り得べからざる希望である、と申しあげたい。 が太陽のごとく明白となっているのに、他のものは毫もこれなぜなら、理想がなくては、すなわちより良きものに対する、

9. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

よう ? しかし、変事はちょうどいい時に来てくれた。ビスりなどをし、晩には時おり、わたしの書棚から本をとり出し羽 トルの試練にたえたわたしは、自分の陰鬱な過去ぜんたいにて読んでいた。その書物の選択も、わたしのために有利に転 復讐したのである。このことはだれも知らなかったが、彼女向していることを証明するものでなければならなかった。彼 は知っていた。これはわたしにとってすべてであった、なぜ女はほとんどどこへも出て行かなかった。食後、たそがれ前 なら、彼女はわたしにとってすべてであり、空想裡におけるに、わたしは毎日彼女を散歩に連れ出した。こうして、わた わたしの未来の希望の全部であったから ! 彼女は、わたし したちは運動をしたが、以前のような、まったくのだんまり が自分のために用意していた唯一の人であって、ほかの人間とはかぎらなかった。わたしは、二人は黙っているのではな は入用がなかった、 その彼女がいっさいを知ったのだ。 、、仲よく話し合っているのだ、といった様子をすることに 少なくとも、あまりあわててわたしの敵に加担しようと急い努めてはいたものの、前にもいったとおり、わたしたちは一一 だのだが、 正しくなかったことを知ったのである。この想念人とも、くだくだしいことはいわないようにしていたのであ はわたしを有頂天にした。彼女の目にわたしはもはや卑劣漢る。わたしはことさらそうしたのだが、彼女にはぜひとも ではなく、ただ風変わりな人間、というくらいなものであつ「余裕を与え」なければならぬものと考えていた。もちろん、 た。今ああいうことの起こったあとでは、こう考えるのも、奇妙なことながら、自分では彼女をぬすみ見るのが楽しいの わたしとしてあながちうれしくないことでもなかった。風変だけれども、冬じゅう一度も、わたしにそそがれた彼女の視・ わりは悪徳でないどころか、時としては、かえって女性をひ線を捉えることができなかったのに、そのことはほとんど冬 きつけるものである。手つとり早くいえば、わたしは故意に の終わりまで、ついぞ頭に浮かばなかった ! わたしはそれ 大団円を遠ざけたのである。あの出来事はさしあたり、わたを彼女の内気からくることと思っていた。それに、病後の彼・ しを安心させるのに十分すぎるくらいであり、わたしの空想女は、、かにも臆病らしくおとなしい、弱々しい様子をして にとって、あまりに多くの画面と材料を含んでいた。この、 いたのである。いや、やはり時を待つにかぎる、そうすれ わたしが空想家だったということがいけなかったのだ。つまば、「あれのほうから急にこっちへ近づいて来るだろう : り、わたしには材料が十分だったので、彼女は待っていてく この想念は否応なく、わたしを有頂天にさせた。つけ加え れるだろうと考えたのである。 ておくが、ときどきわたしはまるでわざとのように、われと こうして、一種の期待の情のうちに一冬過ぎた。わたしわが心を燃え立たせて、実際、彼女が憎らしくなるまで、自 は、彼女が自分の小さいテープルの前に腰かけているのを、分の魂と知性を緊張させたものである。しばらくこんな様子 そっとぬすみ見るのが好きであった。彼女は編物や肌着いじでつづいていった。しかし、わたしの憎悪はどうしてもわた

10. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

た。したがって、彼らの薄弱さと空想的なことが見え透いて 8 治派は富豪の利益のみを念頭におき、民主主義は貧民の利益 いるにもかかわらず、フランスにおける継承権は、精神的に のみを考えている。科学の旗幟を立てて、科学からすべての ことを、つまり人類の新しい団結と、数学的に確固不動な社彼らに移ったかのようであり、これは衆人の感じているとこ 会組織の新原則を、期待している空想的な社会主義者と、空ろである。けれど、ここに最も恐るべきことは、空想的なも 想的な実際主義者を除くのはかは、社会の福祉や、万人の利の以外に、最も残酷で非人間的な風潮、もはや空想的ではな くして実際的な、歴史的にまぬかれ得ない風潮が現われたこ 益や、フランスの将来を配慮するものは、今やだれ一人いな しかし、彼らがこれほどに期待している科学も今ただちとである。それは「 0 ( e ( 0 一 de lå' que m'y mette ・」 ( そこ にこういう仕事に着手し得るかどうかおばっかない。科学がをどけ、おれがお前の代わりに立つのだ ! ) という諺にい、 それこそ違算なく、社会組織の新しい法則を樹立し得るほどっくされている。数百万のデモスは ( きわめて少数の例外を までに、人間の本性を十分に知り抜いていようとは、想像し除き ) 、資産家の掠奪ということを何よりも第一に、あらゆ かたいことである。が、これは狐疑逡巡すべきことでないかる欲望にさきんじて抱懐しているのである。しかし、貧民を ら、ここに起こらざるを得ない問題は、科学が現在において責めてはいけよい。寡頭政治派が、彼らをかような暗黒の中 に引き留めていたのである。それがために、きわめて徴々た この任務を遂行する用意ができているかどうか、ということ である。わるくしたらこの任務は、たとえ将米科学が発達しる例外を除くはかは、これら幾百万の不幸にして盲目な民衆 ても、その力に余るくらいかもしれない ( この任務が必ず人は、事実疑いもなく、掠奪を通してこそ自分たちは富裕にな り得るのだと、しごく単純に考えている次第であって、領袖 類の科学の力におよばないか、将来科学が十分に発達した時 もその手に余るか、これは当分、確言することをさし控えよ連が説いて聞かせる社会の理想は、挙げてことごとくそこに う ) 。科学は必ずや、かような要求に答えることを拒むでああるのだと思っている。それに、どうして彼らは空想家の指 ろうから、フランスにおいては ( また世界中のどこでも ) 、導者の言葉や、あるいは科学の予一言などを理解することがで きよ、つ ? ・ にもかかわらず、彼らは必ず勝利を得るにきまっ デモスの運動を支配するのは、当分のあいだ空想家であり、 その空想家を支配するのはありとあらゆる投機師だ、というている。で、もし富豪たちが適当な時に譲歩しなければ、恐 ことが明らかになってくる。それに、また科学そのものの中るべき結果が生するに違いない。けれどおそらく、だれも適 に、はたして空想家がいないだろうか ? フランス中で、万当な時に譲歩するものはあるまい。それはあるいは、譲歩の 人の結合と将来を憂慮しているのは空想家ばかりであるか時機がすでに過ぎてしまったからかもしれない。また貧民に してからが、譲歩などを欲しないだろう。たとえすべてを与 ら、彼らは当然の権利として、運動を支配するようになっ