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検索対象: ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)
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1. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

新教徒が呪ってやまないカトリッグ教の非教育的な鎖国主義すべてのイギリス人よりもはるかに実際的で、分別のある深夘 や、独善主義とご同様な代物である。かような言葉は、「神い見解をもった人間である、とさえいうことができる。しか し、イギリス人は自分の信念をも、彼らに対するわれらの結 なんそはない、信仰は下らないものだ、けれど宗教は愚民に とって必要である。なぜならば、宗教なくして彼らを抑える論をも恥としない。彼らのなみなみならぬ誡実には、時とし ことができないから」という各国家、各民族の「深遠な政治て深い感銘を覚えることがある。次に掲げるのは、ヨーロッ 的・国家的思想家」の所説と似ていないだろうか ? ただ違 ハでとくにこの現象を観察した人の話であるが、イギリスに うところは、これら国家的名士の意見は、根底に冷たい残忍おける徹底した無神論的風潮の特質が、遺憾なく語られてい な堕落を蔵しているのに反して、シドニイ・ドベルは人類のる。 きんらん 親友であって、その直接の利益のみを配慮しているところに 「教会にはいると、儀式が荘重に行なわれている。錦襴の袈 存する・そのかわり、当の利益に対する見解は貴重なもので裟、香の匂い、荘厳、静寂、祈疇者の敬虔な態度。聖書が読 ある。すべて利益というものは、あらゆる判断と結論のためまれる、人々は進み寄って、涙をたたえ、愛をこめて、聖い書 に門一尸が開放されている、という点に存する。知へも情へも物にロづけをする。ところが、どうだろう ? これが無神論ー entrée et sortie libres ( 出入りは自由 ) であって、なに一つ者の教会なのである。すべての祈蒋者は神を信じていない 閉ざされていない、なんの障碍もない。はてしのない海を自この教会に入るために必然な教義と条件は、無神論である。 由に泳いで、勝手に自分で自分を救え、というわけである。 しからば、なぜに彼らは聖書に接吻し、謹んで読経を聴き、 この判断は、しかしながら、漢然として広すぎる、はてしの涙をそそぐのか ? それは、神を斥けて、つ人類』にひれ伏 ' ない海のように広い。それこそもう、「波のうねりに何も見したからである。今や彼らは人類を信じ、人類を神として拝、 えない」ことはもちろんであるが、そのかわりお国ふうの判ー 危している。が、あの幾世紀という長い間、人類にとってこ 断である。おお、そこには深い誠実がある。けれど、この誠の神聖な書物以上に貴いものが、はたして何かあったろう 実は自暴自棄と境を接していはしないだろうか。それにまた か ? 今や彼らは聖書の人類に対する愛と、人類の聖書に対、 思索の方法が特異である。これらの人々が考えたり、書いたする愛を感謝して、この本の前に跪いているのである。聖書、 り、憂慮したりしていることが特異である。例えば、わが評は幾世紀を通じて人類に恵みを垂れた、聖書は太陽のごとく 論家たちは、こんな空想的な事柄について憂慮したり、書い人類を照らし、カと生命をそそいだ。『今やその意義は消朱 たりするであろうか、こんな事柄をあれほど高遠な問題に担した』としても、依然人類を愛し崇拝している彼らは、 ぎあげるだろうか ? だから、われわれロシャ人は、これらさら忘恩の徒となって、聖書の人類にもたらした徳を忘れる

2. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

ことができないのである」・ と彼 ( ー ヴ、ルシ ) はもの思わしげな徴笑を浮かべながらいいだし この中には多くの感銘に値するものがあり、無量の感激がた。「戦いはもう終わって、戦塵も収まった。呪詛と、土塊 ある。ここには人類に対する真の崇拝があり、おのれの愛をと、叱声の後に、静寂がおそってきた。人々はかねて望んで いたとおり、一人ばっちになった。以前の大理想を彼らは見 発揮しようとする熱烈な要求がある。これらの無神論者に は、祈蒋と拝跪との限りない渇望があり、神と信仰に対する捨てた。グロード・ロランの絵に描かれた、招くがごとき偉 渇きが横溢しているが、そこには生き生きした明るい生と、大な太陽と同じように、それまで彼らを養い暖めていた偉大 清冽な泉のようにほとばしる青春と力と希望の代わりに、底な力の源泉は、次第に枯れて行った。それはもう人類にとっ 知れぬ哀愁と葬送曲の響きがひそんでいる ! けれど、葬送て最後の日ともいうべきものだ。人々は忽然として、自分が か、あるいは新しい未来のカか、それはまだ多くの人にとつまったく一人ばっちになったのを感じた。そして、急に偉大 て問題である。わたしは自分の近作「未成年』から、あえてなる孤独を痛感したのだ。アルカーシャ、わたしは今までど・ 一節を抜萃することにしよう。わたしがこの「無神論者の教うしても、人間がばかになって、感謝の念を知らなくなるな 会」について知ったのは、ついこの間のことで、自分の小説どとは、想像することができなかった。孤独になった人閭 を脱稿し、印刷し終わってからずっと後である。わたしの書は、すぐさま前よりいっそう親密な愛情をもって、互いにひ いたものにも無神論のことがある。が、それは現代、すなわしと寄り添うに違いない。今こそ自分たちはお互い同士にと ち四十年代のロシャ人を題材としたもので、もとの地主階級って、生活の全部だということを悟って、手と手をかたく握 に属する進歩主義者であり、実際生活に大口シャふうの多角り合うに相違ない。偉大な不死の理想は消え失せて、それを 性を有する、熱烈高潔な空想家の一人が夢みている幻想にす新しいものに換えなければならない。今まで不死そのものだ ぎない。 った神に対する愛の偉大な過剩は、自然とか、人間とか、そ この地主も信仰というものをさらに持たないで、 「進歩せるロシャ人がとるべき態度」として、人類を崇拝しの他ありとあらゆる草の葉にまで向けられるだろう。彼らは ている。彼の見解によれば、この地上ぜんたいには、神に関大地と人生を、無節制に愛するようになるだろうが、しかし するいっさいの観念が人類から消滅する時が必ずやってくる自分たちのはかなさや局限性を漸次自覚してゆくに相違ない ので、彼はその未来の人類に関する幻想を語っているのであのだから、それはもう一種特別な愛で、以前のような愛とは 己る。 まるで違うのだ。彼らは、以前想像もしなかったような現象 や秘密を自然の中に観察し、発見するだろう。それは新しい 目で、恋する男が愛人を見るような目で、自然を見ることにた 作「わたしはこ、フいうふうに思ってるんだよ、アルカージイ」

3. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

しようよ、フ り鞏固に、より多くの責任をもってロシャ人たれと慫慂した国である西欧の人々の感ずると同様の親しみを感じさせる。 のである、すなわち、全人類的傾向は、ロシャ人の最も主要わたしは断言して反覆するが、すべてのヨーロッパの詩人、 な特徴であり、使命であることを理解していたがゆえであ思想家、博愛家は、おのれ自身の国土を除くと、常に世界中 る。とはいえ、これらはすべてまだいろいろと闡明を要すのどこよりもロシャにおいて最も深く、最も親身に理解さ る。全人類的理想に奉仕することと、勝手気ままに祖国を見れ、受け入れられている。シェイグスピア、・ハイロン、ウォ 棄てて、軽率にヨーロツ。ハをうろっくことは、まったく相反ルター・スコット、デイケンズは、例えば、ドイツ人などに くらべると、ロシャ人にとってははるかに親しみ深く、より した二つの事柄であるにもかかわらず、人々はいまだにそれ いうまでもなく、わが国に を混淆している。すでにそれからして問題なのである。事実多く理解されている。もっとも、 / カら取って自国は、これらの文豪の著作の翻訳は、出版の盛んなドイツより はまったく正反対で、われわれがヨーロツ。、、 へ移植したものの多くは、きわめて多くのことは、主人に仕見れば、十分の一の部数もひろまってはいないのであるが。 える奴隷のような模倣でなく、ポトウーギン輩が是が非でも九十三年のフランスの国民公会は、 au poete allemand 要求しているような、単なる模倣でなくして、われわれのオ Schi11er' l'ami de l'humanité ( 人類の友なるドイツ詩人シ ルガニズムに接種し、われわれの血肉に取り入れたのであルレルに ) 公民権の許可を送り、それによって、美しい偉大 な予言的行為をなしたのであるが、しかしこの同じシルレル る。むしろ中には、かの西欧の人々が自分自身のこととし て、身ぢかに感じたのと、一分一厘ちがわない、しかも同時が、ヨーロッパの他の一端、すなわち野蛮なロシャにおいて に、それとはまったく独立した体験をして、苦心惨憺の末には、フランスにおけるよりもはるかに親縁が深く、はるかに かちえたものすらある。ヨーロッパの人たちは、そういって国民的であることを、疑ってもみなかったのである。たたに 聞かされたとて、金輸際、信じようとはしないだろう、彼ら当時のフランスばかりでなく、その後すっと今世紀を通じ はわれわれを知らないからであるが、今のところ、そのほうて、フランスの公民であり、 l'ami de l'humanitéである シルレルを知っていたのは、ただ文学の教授たちばかり、そ が結局いいのだ。そのほうが、後日、全世界を驚倒させるべ き不可避な過程を、あまり目立たぬよう、しずかに完成するれも全部の人でなく、その知識も徴々たるものにすぎなかっ のに好都合である。すでにこの過程は、部分的にいうと、他た。ところが、わが国では、彼はジュコーフスキイとともに 国民の文学に対するわれわれの態度の上にも、きわめて明瞭ロシャ人の魂の中へ吸い込まれ、そこに烙印を残し、われわ に、実感的に探知し得るのである。彼らの詩人はわれわれれの発達の歴史にほとんど一時期を画したのである。世界文 、少なくとも、わが国の進歩せる人々の大多数に、その母学に対するこのようなロシャ人の態度は、世界史を通観して

4. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

るかに抜いたもののように思われ、その点で人々を誘惑した良な人々でさえも、かような身の毛もよだっ悪業の中へ捲き のである。われわれ、といっても、単にベトラシェーフスキ込まれて行く、その多種多様をきわめた動機を描き出そうと イ党ばかりのことではなく、一般に その当時こそこの試みたのである。つまり、わが国では、時とすると、まるで 思想に感染していたけれど、後になって、人類の再生と復活悪漢でもないのに、最もいまわしく穢らわしい行為をなし得 の名をかりて、人類に暗黒と恐怖をもたらすこの有害な空想るところに、恐怖すべきものが潜んでいるのである ! それ を、断乎として否定した人々ぜんたいをさすのであるが、 はあえてわが国ばかりでなく、世界じゅう到るところそのと それらの人々は、当時まだ自分の病因を知らなかったのおりで、昔から、人々の生活に震撼が生じた時代、懐疑と否 で、したがって、それと闘うことができなかった。そういう定の時代、スケプチズムの時代、社会の根本的信念に動揺を わけなので、ネチャーエフ式の殺人行為でさえも、もちろきたした時代、過渡時代には、すべてそうなのである。しか ん、ぜんぶではないまでも、すくなくとも、われわれの中のし、わが国ではどこの国よりもそれが起こりやすい、ことに あるものを抑制することができたろうなどと、どうして考え現代においてしかりである。これは最も病的な特質であり、 られるか ? なにしろ、あの当時は、みんなが夢中になってわが国の現代において寒心すべき点なのである。明瞭な争う いて、われわれは自分の祖国のことさえ忘れてしまいなが余地のないほど醜悪な行為をしながら、自分は陋劣漢でない ら、熱病やみにも似た緊張ぶりで、魂を圧倒するような学説と考えたり、時としては、ほとんど事実上陋劣漢にならずに や、天地を震撼するようなヨーロッパの大事件を注視してい すまされる、 つまり、そこにわが現代の不幸が存するの たのである。 である ! モスクワにおける奇怪ないまわしいイヴァノフ虐殺事件 諸君は、青年たちがはんの少しでも学業にたずさわり、勤 は、なんらの疑いもなく、主唱者ネチャーエフによって、未勉に学び始めるが早いか、彼らの父たちでさえ持ち合わした 来の「一般的な偉大なる事業」のために有益であり、かっ政こともなく、現代ではことに欠乏を感じている毅然たる精神 策上必要な行為として、その犠牲たる「ネチャーエフ党の人と、信念の円熟を要求するが、いったい青年たちは他の年齢 人」に提示されたに相違ない。さもなければ、どうして幾人の人々にくらべて、なにかそれほど特別な擁護を受けている かの青年が ( それがよしだれであったにもせよ ) あのようにのだろうか。わが知識階級の若き人々は、自分の家庭で発育 記陰惨な犯罪に同意できたのか、合点がゆかないではないか。 を遂げてきたのであるが、その家庭内で現在もっともしばし のまたしても自分のことになるが、わたしはあの小説『悪霊』ば見受けられるものは ( その階級のインテリ性にもかかわら 作の中で、このうえもなく純潔な心を持った、きわめて正直善ず ) 、不満と、焦燥と粗野な無恥である。そこではほとんど

5. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

老婆はスラヴ族のために、自分の一コペイカを寄付して「正が国にはロシャ人、しかも正真正銘のロシャ人が多い、 教の事業のために」とつけ加えた。ジャーナリストはこの一 今日まで同じく正真正銘のロシャ人の多数が思っているよ 言をとらえて、それを心からなる敬皮の念をもって新聞紙上り、比較にならぬほど多いということが、とっぜんわかって に伝える。しかも、彼ら自身また心から、同じ「正教の事業」きたのである。 に味方していることを、認めてやらねばならぬ。諸君はその では、はたして何がこれらの人々を一体に結び合わしたの 記事を読みながら、それを感ずるのだ。おそらくは、わが国か、いや、さらに正確にいえば、 そもそも何が彼らに向 のなんら信仰を持たないものすらが、今日ではついに正教と かって、彼らのだれもが重要な点では前から分裂してはいな 「正教の事業」ということが、ロシャ国民にとって本質的に かった、ということを啓示したのであるか ? しかし要は、 何を意味するかを、理解したであろう。これは決して、単スラヴ思想なるものが、その最高の意味において、単にスラ なる儀式的な教会風のものでもなければ、また一方決してヴ主義者だけのものではなくなって、情勢の圧力を受けて、 fanatisme réligieux ( 宗教上の狂信主義 ) ( ロシャにおける現がぜんロシャ社会の核心へ移行し、一般の意識の中に明確に 下の一般的運動について、ヨーロッパではすでにこういう表あらわれ、生きた感情の中で全民衆の運動に一致したのであ 現を用いかけている ) でもなく、これこそ正しく人類の進歩る。しかしそれでは、その「最高の意味におけるスラヴ思 であり、 いっさいをキリストから導き、その将来のいっさ い想」とは、なんであるか ? そのなんであるかは、今やすべ をキリストとキリストの真理のうちに体現し、キリストなしての人々に明々白々になってきた。それは、何よりもまず、 には自分を想像することもできないロシャ国民によって理解すなわち歴史的、政治的、その他のあらゆる論議にさきだっ きれている人類の全面的人間化である、それを彼ら、信仰をて、まず犠牲である。同胞のために自己をさえ犠牲にせんと ・持たないものも理解したのである。自由主義者も、否定派する要求である。スラヴ民族中の最強者が、弱きものの味方 も、懐疑派も、社会思想の宣伝者も、 だにれ、も彼 7 も、が大・如 . たらんとする自発的義務の感情である。ただし、それらは自 として、少なくとも大部分、熱烈なロシャの愛国者となった由と政治的独立を保ちながら、弱きものをおのれと同等のも のだ。いや、彼らも当然もとより、愛国者ではあったのだのとした後、それによって将来キリストの真理の名におけ が、しかしわれわれはいままでそれを知っていた、と断言でる、 いいかえれば、全人類への利益と愛と奉仕を目的とす 記きるだろうか。いな、それどころか、今日では多くの点におる、偉大なる全スラヴ族の大同団結を基礎づけ、全世界のあ のいて無意味なものとなったおびただしい相互の苦々しい非難らゆる弱きもの、虐げられたるものを擁護することを条件と の声が、これまでかまびすしく聞こえなかったろうか ? わしているのである。そして、これは決して理論ではなく、む

6. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

最後の言葉だということである。この最後の言葉は、すでに虱つぶしに亡ばして行く、 しかも、これが呪うべき文 発せられ、闡明された。それは今や周知となっている、それ明の敵である、野蛮な、穢らわしい回教徒の徒党の仕業なの は十八世紀にわたる発達全体の結果であり、人類の人間化運である。この破壊は組織的に行なわれる。これは戦争の動乱 動ぜんたいの結品である。 や無秩序に乗じて、偶然に飛び出しはしたものの、法の制裁 入上ヨーロツ。、、、 ノ少なくとも、その第一流の代表者といわれを恐れる匪賊の群れではない。い や、そこには組織があるの る人々や国民、 かの奴隷制度に反対を絶叫し、黒人の売だ、これは巨大な帝国の戦法なのである。匪賊どもは、大臣 買を廃止し、自国の専制政治を廃し、人類の権利を宣揚し、 や、国家の為政者や、スルタン自身の指示命令によって行動 科学を創造して、その力をもって世界を驚かし、芸術とそのしているのである。しかるに、ヨーロッパは、キリストを奉 神聖なる理想をもって人間の精神に霊感と感激をもたらし、ずるヨーロッパは、偉大なる文明は、「、つこ、、 しオししつになっ 近き将来に正義と真理を約東して、人々の心に歓喜と信仰をたらあの南京虫どもは圧し潰されるだろう ! 」と、じりじり 燃え立たせた人々や国民が、みな ( ほとんどだれもかれも ) 今しながら見物しているのだ : : : のみならす、ヨーロッパでは や突如として数百万の不幸な人々、辱かしめられ滅亡に瀕し事実を反駁し、国民議会でそれを否定して、信じようとしな ているキリスト教徒、すなわち自分たちの同胞から顔をそむ 信じないようなふりをしているのだ。これら国民の指導 けて、希望と待ち遠しさの念をいだきながら、いつになった者たちは、だれも彼も肚の中では、それがみんな事実である らこの不幸な人々が一人のこらず爬虫類か、南京虫のように ことを承知していながら、争って互いにはぐらかし合、 圧し潰されてしまうか、しったいいつになったら救けてくれ「それは事実ではない、そんなことはありはしなかった。 という絶望的叫喚がやむことか、ヨーロッパをいらだたす不れは誇張だ、それは彼ら自身が味方のプルガリヤ人六万人を 安にする悲鳴が沈黙することかと、待ちこがれているのであ殺しておいて、トルコ人になすりつけているのだ」といって いな、それよりもっ る。まったく爬虫類か南京虫あっかい、 いる。「閣下、あれは、われとわが身を笞うったのですよー ゴーゴリ『検察官』の市長か、警官に答うたれた下十の妻の訴えを 」フレス と悪いくらいである。数万、数十万のキリスト教徒が、まる ( 揉み潰そうとして、偽検察官フレスタコーフに向かっていうせりふ かいせん で有害な疥癬ででもあるように迫害され、この地表から根こ タコーフの輩、スクウォズニク・ドウムハノーフスキイ市長 。しュノし」、つー ) たごこレ」 そぎに、跡かたもなく抹殺されようとしているのだ。死に瀕の輩は災難である ! しかし、これよ、つこ、、、 している兄弟の面前で彼らの姉妹を凌辱したり、母親の面前なのだろう、彼らはそもそも何を恐れているのか、なぜ見よ でその嬰児を高々とほうりあげて、銃剣の尖で受け止めた うとも聞こうともしないで、自分で自分にうそをつき、われ そうめつ り、村落を勦滅し、教会を木つば微塵に破壊し、 いっさいをとわが顔に泥を塗っているのだろう ? 384

7. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

れを「人類愛」のうちに見いだそうとした。「自分はだめだ リ暇があろう。 わたしの自殺者は自己の思想、つまり自殺の必要という思としても、人類は幸福であり得るだろう。そして、いっかは 想の熱烈な表現者であって、無関心主義者でもなければ、鉄調和に到達するだろう。この思想は自分を地上に引きとどめ のような人間でもない。彼は実際なやみ苦しんだ、このことることもできたはずなのだ」と、彼は不用意に口をすべらせ はすでにわたしが明瞭に表現したはずである。自分が生きてている。これはもういうまでもなく、寛大な思想である。寛 ゆかれないということは、彼にとってあまりに明白である。大な、そして殉教者的な思想である。しかしながら、人類の そして、その考えが間違いのないものであり、それをくつが生命は本質的に見て、彼自身のそれと同じく東の間のものに すぎず、「調和」の達成されたその翌日は ( この空想が達成 えすことが不可能なのを、彼はあまりによく知りすぎてい されるものと信じるとして ) 、人類は自然の蒙昧な法則に引 る。彼の前には最高にして最初の疑問、「動物的に生きると いうことは人間としていまわしい、変則な、不十分なものできずられて、零に帰してしまう。しかも、それがこの空想実 あることを意識した時、人ははたしてなんのために生くべ現のために、あれほどの苦悩を忍んだ後なのである。この牢 きであるか ? かかる場合に、何が彼を地上に引きとめる固として抜くべからざる信念が、この思想が、彼の魂を根底 から憤激させるのである。つまり、人類に対する愛から憤激 か ? 」という疑問が、否応のない力をもって立ち塞がってい るのである。これらの疑問に対する解決を得ることは不可能を催させ、全人類のために侮辱を感じさせ、そして、 であり、彼もまたそれを承知しているのである。なぜなら、想反撥の法則によって、ーーー・彼の内部における人類愛そのも のをすら殺してしまうのである。これと同様のことは、われ 彼の表現を借りると、「全体としての調和」のあることは認 識したけれども、「自分は」と彼はいう、「それを理解しなわれの再三目撃するところであって、例えば、餓死に瀕して いる一家にあって、父親なり母親なりが、ついに子供たち いつになっても理解する力がないし、自分自身でそれに 参与することがないとすれば、これはもう必須のことで、自の苦痛がたえがたいものになると、その苦しみが見ていられ よいばっかりに、あれはどかわいがっていた子供たちを憎み 然の帰結なのだ」からである。つまり、この明瞭さが彼にと だすものである。のみならず、わたしは断言するが、苦しん どめを刺したのである。いったい不幸は那辺に存するのか、 彼は何を誤ったのか ? 不幸のもとはただ一つ、不死に対すでいる人類を助けることはおろか、せめてなんらかの利益な り苦痛の緩和なりをもたらすことについて、おのれの完全な 記る信仰の喪失である。 の しかし、彼は自身熱心に和解を求めている ( いな、生きてる無力を意識すると、この人類の苦悩を心底から確信してい その人の心いだいている人類愛が、人類に 作いる間じゅう求めたのだ、苦しみ求めたのである ) 。彼はそるだけに、 55 ノ

8. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

もちろん、わたしはあまり真剣に考えすぎているかもしれな唖のごとき周囲の蒙眛に対する憎悪によって次第次第に、地 い。が、それでも率直にいってしまうが、これほどのわたし上における人間の生存がまったく無意義であるという、必然 の敏感性にもかかわらず、わたしはこの集団には答えまいと的信念に到達する。生きることに同意し得るものは、ただ下 思うのである。それは決して彼らを蔑視するからではなく等動物に似た連中だけであることが、彼にとっては火をみる ( どうして人々を相手に語らずにいられよう ? ) ただたた ごとく明らかになってくる。この連中は自覚の発達が遅れて この号に紙面が少ないからである。そういうわけで、今ここ いるのと、純肉体的な要求の発達しているおかげで、より多 で答弁をして、紙面を犠牲にするとすれば、それはいわば自く動物のタイプに近づいている。彼らは動物として生きるこ 分自身の疑いに、なおいわば自分自身に答えるにすぎないのと、すなわち「食い、飲み、眠り、巣を作り、子供を産む」 である。十月号のわたしの文章には猶予なく教訓をつけ加 ために生きることに同意しているのである。おお、牛飲馬食 え、その目的を明らかにし、噛んでふくめるようにしなけれすること、眠ること、汚すこと、柔らかいものにすわること ばならないのが、自分でもわかってきた。そうすれば、少な は、なおなお長いあいだ人間を地上にひきつけてゆくだろう くとも、わたしの良心は安らかになるであろう、そこがかんが、それは高級のタイプではない。 ところで、高級なタイプ じんなのだ。 は現在でも地上に君臨しているが、過去においても常に君臨 していた。そして、いつもとどのつまりは、時到れば、数百 3 言葉だけの確定 万の人間が彼らの後にしたがって進んだものである。 わたしの小文『宣告』は、人間生存の根本的な最高思想、 い崇高な言葉、崇高な思想とはなんであるか ? この言葉、 ーー人間霊魂の不滅を信ずることが欠くべからず、避くべか この思想 ( それなくしては人類が生きてゆけないもの ) を らざる緊要事である、という点にふれているのである。「論初にロにするのは、貧しい、目立たない、なんらの意義をも きわめてしばしば迫害を受けて、迫害のうちに名 理的自殺」で滅びゆく人のこの懺悔の裏打ちは、自分の魂と持たない、 その不死を信することなしには、人間の生存は不自然であり、 もなく死んでゆく人々である場合が、最も普通である。しか 考えることもできないほどたえがたいものであるという結論し、思想は、しかし彼らの口から発せられた言葉は、死んで が、すぐその場で必要なことである。そこでわたしは、論理しまうということはない、決して跡かたなく消え失せはしな 記的自殺者の公式を明瞭に表現し、発見したような気がしたの いしったん口から発せられた以上、断じて消え失せること のである。不死に対する信仰は彼にとっては存在しない、彼はのできないものである。これは人類にあって驚嘆すべきこと 作それを冒頭に説明している。彼は、自分の無目的を思う心と、でさえある。かくして、次の世代となるか、あるいは二、三

9. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

到るところ、真の教養が他人の意見の厚顔な否定に代えらの下で足をばたばたさせる暴れん坊でもないのである。諸君 れ、物質的動機がいっさいの高級な思想の上に君臨し、子供はおそらく笑い出して、なんのためにぜひこのような名前を らはしつかりした地盤もなく、自然の真理を無視して教育さ担ぎ出そうなどと考えだしたのかと、質問されるに相違な れ、祖国に対する不敬ないしは無関心と、人民に対する冷笑 そのわけはほかでもない、熱心に勉強しているわが国の 的軽蔑をたたきこまれている。この人民に対する軽蔑は、最インテリゲントな青年たちを談ずるにあたって、彼らが人生 近ことに蔓延してきた、 こういう家庭に育ったわが青年の第一歩において、これらの名前を素通りして行ったなどと たちが、こういう泉の中からはたして真理を汲み取り、人生は、想像することも困難だからである。はたしてロシャ青年 における第一歩のために正しい方向を学ぶことができるだろは、これらの欧州進歩思想の指導者やまたそれと同様の人々 うか ? 実に、ここにこそ悪の根源が存するのである。すなの影響に対して、ことに彼らの学説のロシャ的な方面に対し わち、古くからの伝統や思想の継承の中に、数代にわたる思て、無関心であり得るだろうか ? この「彼らの学説のロシ 想の独立性を自己の内部に抑圧する国民的習慣の中に、ロシャ的な方面」という滑稽な言葉は、大目に見ていただきた ヤ人としての自分を軽蔑することを必須の条件として、ヨー というのは、これらの学説のロシャ的方面は、じじっ存 ロツ。、 ノ人の肩書をありがたがる気持ちの中に、すべての悪の在しているからである。それはつまり、ロシャでのみ行なわ 根源が存するのである ! れているこれらの学説の演繹で、牢として抜くべからざる原 理の形式を取るのである。ところが、ヨーロッパでは、そうい しかし、諸君はこのあまりに一般的な言説を、どうやら信う演繹をなし得るということさえ、夢にも考えられないそう じていられないらしい。「教養とは勤勉である」と諸君はカである。わたしの言葉に対して人はおそらく、「あの連中は 説されるであろう。「しかるに、彼らはなまけ者で、発達が決して悪業などを教えてはいない、たとえシュトラウスがキ 十分でない」とまたくり返されるだろう。諸君、ここでご注リストを憎んでいて、キリストを冷笑し嘲罵するのを、生涯 意を願っておくが、すべてああいったふうなヨーロッパ最高の目的のように考えているにもせよ、やはりぜんたいとして の教師たち、 われわれの光明であり、希望である、かのの人類を尊敬しているので、彼の教義はこのうえもなく高尚 ミルとか、ダーウインだとか、シュトラウスだとかいう人々で潔白である」というであろう。それはなにもかも大きにあ は、ときとすると、現代人の道徳的義務というものにつ りそうなことで、すべて現代欧州の進歩思想の指導者の目的 て、世にも不思議な見方をしている。ところが、彼らは決しは、人類愛に富んでいて、崇高なものかもしれない。そのか てなに一つ勉強しなかったなまけ者でもなければ、テープルわり、わたしにとっては、次のことが疑いもない事実のよう 160

10. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

する憎悪に変わることすらあり得るのである。鉄の観念をしはあえて断定し言明する。つまり、思想としてである。そ 持っ紳士がたは、むろんこんなことは信じないだろうし、第れを是認し得るのはただ感情のみである。しかし、その感情 も、人間霊魂の不滅に対する信念と共存する場合においての 一、おそらく頭から理解しないであろう。彼らにとっては、 人類に対する愛とか、人類の幸福とかいうようなものは、なみ可能なのである ( これもやはり言葉のうえだけのことにし にもかも、今さら考える値うちもないほど安価に、便宜に作ておく ) 。 られたものであり、とうの昔に与えられ、書かれたものなの右の結果として、不死の観念喪失に伴う自殺は、その発達 においていささかなりとも畜類に優った人間にとっては、あ である。しかし、わたしは徹的に彼らを笑わせてやろうと 思っている。わたしは公言するが ( またしても今のところ証くまで避けがたい必要なものとさえなるのは明白である。そ 明ぬきで ) 、人類に対する愛は、ーー、人間の霊魂の不滅に対れどころか、不死は永遠の生を約東しつつ、それによ 0 て人 日をますます強く地上に結びつけるものである。こういえ する信仰と共存するのでなければ、とうてい考えられもせ門 ば、一見矛盾しているようにさえ感じられるかもしれぬ、 ず、理解もされず、またまったく不可能なのである。人間カ もし生命がそんなにたくさんあるとすれば、つまり、こ ら人間の不死に対する信仰を奪って、人生の高い目的という 意味におけるこの信仰を、「人類に対する愛」とすり換えよの地上のもの以外に不死の生命まであるとすれば、なにも地 うとするものは、わたしはいうが、われとわが身に手をかけ上の生命をそれほど尊重することはないではないか ? とこ んとするものである。なぜなら、それは人類に対する愛の代ろが、事実はまったく反対になるのである。なぜなら、人間 、わ、りな、こ、、こ オ人類に対する憎悪の胚子を、信仰を失ったものは自己の不死を信ずる場合にのみ、地上生活における自己の の心に植えつけるにすぎないからである。鉄のごとき観念を合理的な目的を捕捉するものだからである。おのれの不死に 抱懐する賢人らは、かような断定を聞いて、勝手に肩をそび対する信仰がなかったら、人間と地との絆は切れかかってき しかし、この思想は彼らの明知よりも賢明でて、だんだん細ってゆき、だんだん朽ちやすくなってしま やかすがよい う。そして、人生の最高意義の喪失は ( たとえそれが単にき あり、いっかは人類の公理となるであろうことを、わたしは 信じて疑わないものである。ただし、わたしはまたしてもこわめて無意識的な憂愁の形において感じられるにもせよ ) 、 れを今のところ、単に言葉のうえだけで提示しておくにとど疑いもなく自殺を招来するものである。ここから逆に、わた しの十月号の論文の教訓が生じてくるわけである。すなわ める。 思想としては、人ち、「もし不死に対する信念が、人間の生存にとって、しか 人類に対する愛は、一般にいって、 く必要なものであるとすれば、それは当然、人類の正常な状 知にとって最も理解しがたい思想の一つであることを、わた