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検索対象: ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)
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1. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

心を乾からびさすなにか新しい学校を、心の中に思い浮かべ る。それは必要に応じて、すこやかな感情を毀損する学校で ある。需要と要求に応じて、大胆不敵にあらゆる侵犯をおこ なって、しかも罰せられることのない学校である。われわれ の不馴れなために、かかる行為を一種の原則のように祭りあ げ、まるでえらいことか何そのように、衆人に拍手されなが ら、不断にうむことなく活動している学校である。はたして 「理想はむしろ悪くとも現実の良いの わたしは、弁護士制と新しい裁判を侵害しようとしているの が切王工しい」とは正しき田相か ? ・ だろうか ? とんでもない、わたしはただわれわれ一同がも ガンマ氏の『一葉の紙』と題する論文の中でゴーロス与 う少しよくなるように望んでいるばかりである。希望は最も つつましいものであるが、悲しいかな、それが最も高い理想紙第六十七号 ) わたしは、二月の『日記』に載せた民衆に関 するわたしの感想に対して、次のような批評を読んだ。 となるのである。わたしはとうてい矯正することのできない 理想主義者である。わたしは神聖さを求めている。わたしは 「とにもかくにも、わずか一か月のへだたりで、同一の作家、 それを愛する。わたしの心はそれを渇望している。なぜな 、民衆について極端に相反する二つの意見を発表しているの ら、わたしは神聖さがなくては生きられないように創られてが いるのだから。しかも、わたしは少しでもよけいに神聖な聖を、われわれは見せられたわけである。それは茶番でもなけ れば、巡回展覧会の絵でもない、生きた有機体に下した宣告 物がほしい、さもなくば、崇拝する値打ちがないではない か ? いずれにしても、わたしは憂鬱な題目に法外もない贅である。これは人間のからだをナイフで抉るのと同じことで 言を費して、二月の日記を台なしにしてしまった、というのある。ドストエーフスキイ氏は、『彼らのあるがままの姿に も、ただただこの題目があまりに強いショックを与えたからよらずして、彼らがかくあらんと望んでいるものによって』 である。けれど、 il faut avoir le courage de son 名一・民衆を批判することをわれわれに勧めて、自分の現実的もし くは架空的矛盾に予防線を張っている。実際の民衆は、ご承 n ぎ n. ( 自己の主張に忠なる勇気がなくてはならぬ ) 。そして、この 記賢いフランスの諺は、迷いやすいこの現代において、自己の知のとおり、恐ろしくやくざなものであるが、そのかわり、 の疑問に対する答えを求めている多くの人たちにとって、一つ彼らには良き理想がある。その理想は『強くかっ神聖で』あ って、それが『苦悩時代に民衆をすくった』といっている。謇 作の指針ともなるであろう。

2. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

' それに反して、この大いなる団結力なくしては、彼らがたとて、大きな誘惑であろう。他の諸強国は常にこの種の「期 えいっか現在のごときヨーロッパ人や回教徒への隷属状態か待」を、押しなべて軽蔑と嘲笑をもって眺めるだけで、人類 ら、政治的に独立することがあっても、おそらくはまた相互の同胞性、諸民族の一致和合、人類に対する奉仕を礎とする の不和と軋轢から疲弊してしまうということを、彼ら自身悟同盟はいうにおよばず、最後に、キリストの真精神による人 類の更新をさえもまじめに信ずることができる、ということ ・るだろうから。 すら理解し得ないのである。もしロシャが統合された正教の 何がゆえに言葉を弄ぶか、と人々はわたしにいうだろう。 、よ頭に立って、全世界に語り得べきこの「新しき言葉」を信ず いったいそここま、 その「正教」とはそもそも何か ? ートビア」であり、嘲笑にしか値いしないもの る特殊思想があり、民族団結の特権などというものがあるのることが「ユ ート。ヒアンの一 要するにそれは、よしんばきわめて広い基礎の上に立であるならば、勝手にわたしをもそれらのユ 笑いぐさになることはわたしが自分でち つものにせよ、アメリカ合衆国とかあるいはそれ以上広い基人に数えるがいい ようだいしておく。 礎に立つものにせよ、結局これに類似した他のいっさいのも ? これがわた 「ロシャがいっかはスラヴ民族の頭に立って、コンスタンチ のと同様、純然たる政治上の同盟ではないか しに突きつけられそうな疑問である。ひとっそれにも答えてノープルへ入ることを許されるだろうと想像する、これから ートピアである。空想するのは勝手だが、それ みよ、フ 。、な、これはそんなものと違う、これは言葉の戯れしてすでにユ ではない、そこには事実一種特別な、前代未聞のことがあるはどこまでも空想にすぎない ! 」と人はおそらくまた抗言す のである。これは決して単なる政治的団結ではなく、ましてるだろう。 ヨーーロツ。、ー ノカそれ以外には想像し得ないような政治的略取そうだろうか、たしかにそのとおりだろうか ? しかし、 ロシャが強国であり、ことによったら、自身で考えているよ や、暴力のためではさらさらない。またそれは商人根生や、 りはるかに強いかもしれないのは別として、 , ーー最近、数十 僵人的利益や、賤民以外には事実だれひとり信ずるものもな し公式キリストの仮面をつけて行なわれる、相も変わらぬ年間、ヨーロッパには幾つとなく強大な勢力が擡頭し、君臨 神聖化された悪徳行為のためでもない。いな、これこそは東したが、その一つは一朝にして、神風に吹き払われて、塵あ 方に保存されているキリストの真理の正しい樹立である。キくたのごとく消滅してしまい、その跡へ、カの点ではかって この地上になかったような、新しい帝国が出現したのは、わ リストの十字架の真の新しき建設であり、すでに久しく口シ ヤを盟主としている正教の最後の言葉である。これこそすなれわれの眼前で起こった出来事ではなかったろうか。そし わち、現世の強者として今まで勝利を誇って来た国々にとって、だれがはたしてこれをあらかじめ予言し得たか ? われ

3. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

し出そうとする、大言壮語者の蕪雑な集団にすぎなかったの訓を斥けるようなこともあったろう。右の次第で、かような である。その時分、 いかにしばしば醜悪な行為が正義と勇気「自由主義的」な教育は、少なくも若干の場合においては、 で通って行ったことか、いかなることが公言され、主張されまったく反対の結果を惹起したかもしれない。今やこれらの たことか。本質的にいえば、それは粗野な街頭光景で、潔白青年や未成年は、おそらく新しい道を求めているだろう。そ な思想が巷にはうり出されたのである。ちょうどそこへ農奴して、まず第一に手はじめとして、幼年時代に自分の哀れな 解放という事件が生じた。と同時に、あらゆる意味における生みの巣で遭遇した、、 しとうべき思想の系列に抵抗すること わが知識階級の解体と「個別化」がおそったのである。人々 から出発するであろう。 は互いに見分けがっかず、自由主義者たちも自分の同志を見 5 ュ】リイ・サマ ーリンについて 分けることができなかった。その後の悲しい疑惑と、苦しい 幻滅はいかばかりであったろう ! 時には、破廉恥きわまる鞏固な意志と信念を有する人たちが、次々と逝ってしま う。ューリイ・サマ ーリンが死んだ。彼は抜くべからざる信 保守主義者が、進歩主義者か指導者のような顔をして、急に 前のほうへとび出して功を納めたりした。当時の子供たち念と、有為の才を持った活動家であった。世の中には、所信 は、自分の父に何を見ることができたか、少年時代や青年時を異にした人たちにさえも、尊敬されずにはおかない人々が 代のいかなる追憶が彼らに残ったか ? ある。「ノーヴォエ・ヴレーミャ』紙は彼について非常に特 そこには破廉恥と嘲笑と、子供たちの優しい聖らかな信仰徴のある物語を報道した。ついこの」、 に二月の末、ペテルプ の無慚な侵害があるのみである。それから、しばしば見らルグを通って行く途すがら、サマ ーリンは『祖国雑誌』の二 れたのは、父母の大っぴらな放縦である。しかも、これがほ月号で、ヴァシリチコフ公の『黒土とその将来』という論文 んとうで、真に「冷静な」態度であると主張したり、教訓しを読んだ。この論文が、一晩中ねむれないほど彼を動かした たりしたものである。これに加うるに、続々と漬れてゆく多のである。 くの家の身代、その結果として、物質上の失敗に対する利己「これは実に好い正しい論文だ ( とサマ ーリンはあくる朝、 A 」、つ 1 ) て 7 も 的なけちくさい憤怒を隠す空景気の叫びと、性急な不満の友だちにいった ) 。ばくは昨夕これを読んだが、、、 おお、青年はついにその真相をわきまえ、正邪を解眠れないほどの印象を受けた。一晩中、わがロシャの黒土帯 することができたのである ! 青春は清く、明るく、寛大でが、間断なき無制限な山林の濫伐から、水もない赤裸の沙漠 あるから、もちろん、青年たちのあるものは、おそらくかよ に変わって行く、恐ろしい光景が目先にちらついた」 うな父に追随するをいさぎよしとせず、彼らの「冷静な」教「ロシャには、祖国のことが気になって、眠りを失うような

4. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

の救済的な、深刻な目的を認識することができよう ? それて偶然的なものとのみはいえない。それはおそらくただちに 、彼らは今までの自分の信仰いっさいを、単に儀式としか衰えて、はじめから干固まってしまい、ついにはロシャの教 派の大多数のように、ふたたび単なる儀式に堕してしまうか 考えなかったのである。 もしれない ことに、外部から手を触れないでおいた場合に つまり、儀式に抗したわけである。 はなおのことである。けれど、なにはともあれ、この出来事 だが、それは無理からぬこととしておこう。けれど、どう して彼らはかくも急激に、反抗しようなどという気を起こしの中には、くり返していうが、やはりある予言的なものが宿 されているかもしれない。すべて未来のことがかくも謎のよ たのか。どこに彼らを動かした原因があるのか ? つまうに思われる現代においては、予言を信ずることさえ時には その原因はきわめて一般的なものかもしれない、 許さるべきであろう。 り、二月十九日以来、新しい生活の光が彼らに輝きだしたか そこで、もし何かそういったようなものが全ロシャに展開 らでもあろう。彼らは第一歩から蹉跌して、新しい道の上に しかし、必ずや目ざめたにちがいなするとしたら、どうであろう ? それはこの事実そのもので 倒れたのかもしれない。 シュトウンダ教派の事件ではない ( ことに、人のい そして、ひとたび目ざめるや、彼らは突如として自分がはよ、、 うところによれば、すでにしかるべき手段が講ぜられたとの いかにも「みじめで、貧しくて、盲目で、無一文で、素裸」 なのを見たのである。かんじんなのは、よし今日まで神聖でことであるから、さしてこだわる必要はない ) 。ただそれに あったいっさいを犠牲に供しようとも、真実がほしかった。類したものがひろまったとすれば、どうだろう ? もし全国 こ堕落民が醜悪の極限に達して、自己のみすばらしさを熟視したあ 是が非でも真実がほしかった、という点である。い力し し、圧迫され、侮辱されようとも、真実に対するわれらの渇げく、「醜さはほしくない、洒は飲みたくない、神の真理と 望を民衆の心の中に死滅させ、絶滅させることはできないか畏怖とがほしいのだ、ことに何よりも真理が、真実がほしい らである。その渇望が国民にとってはなによりも尊いからでのた」ととっぜん、自分自身にいったらどうだろう。 要するに、その点 ある。彼らは恐ろしい堕落に陥るかもしれないが、しかし彼国民が真理を渇望するということ、 に喜ばしい徴候が存するのである。けれど、真理の代わり らは醜悪な人間は自分だけにすぎず、どこかに最高の真理が に、ちょうどシュトウンダ教徒におけるごとく、はなはだし あって、その真理がなによりも尊いことを、最もいとわしく い虚偽が出て来るかもしれない。 醜悪な瞬間にさえも、常に記憶するであろう。 さて、実際のところ、わが民衆がどんな新教徒になれると これがその出来事である。これは今のところ、ただある一 いうのか、またどんなドイツ人になれると思うのか ? 詩編 隅に起こった唯一の出来事にすぎないかもしれないが、決し

5. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

彼女はあまりに多くの約東を与えたので、それを守ることは ー、冫力。なカたか、それが不田 5 議でたまらない。わたし 不可能だと悟って、愕然としたのだ、 ことは明々白々であは、あのとき彼女が厳しい驚きの色を浮かべてわたしを見た 力あるのだ。 る。そこにはまったく恐ろしいそこばくの事情ゞ、 その瞬間まで、まったく反対のことを確信していたのであ なぜなら、そもそもなんのために彼女は死んだのか ? こる。まったく厳しい驚きであった。そのときわたしはたちま の点が依然、疑問として残っているからである。疑問はどきち即座に、彼女がわたしを軽蔑していることを悟った。それ んどきんと音を立てている、わたしの脳壁をたたいている。 こそ永久に取り返しのつかない気持ち ! ああ、いくらで わたしはむろん、彼女がそのままであることを望むのだった いくらでも、一生涯でも軽蔑していてくれたら、 ら、そのままにしておいたろう。ところが、彼女はそれを信 生きてさえいてくれたら、生きてさえいてくれたらー じなかった、それがいけないのだ ! いや、いや、わたしは まだついさきはどまで歩いたり、ものをいったりしていたの でたらめをいっている、そんなことはまるで違う。ほかでも に。どうして窓からなど身を投げたのか、わたしにはとんと ない、わたしに対しては正直でなければならないからだ、愛合点がゆかないー せめて五分前にでも、なんとかして予想 する以上は全的に愛さなければならぬので、あの商人を愛すすることができたら ? わたしはルケリヤを呼んだ。今はも るような愛し方ではいけないからである。彼女は、商人に必うどんなことがあってもルケリヤは離さない、どんなことが 要な程度の愛に応するには、あまりに純潔で、あまりに無垢あってもー であったから、わたしをだます気になれなかったのである。 おお、わたしたちはまだ話し合うこともできたはすなの 愛の仮面をかぶった中途半端な愛や、四分の一の愛で欺くの 。わたしたちはただ冬の間に、ひどく離ればなれの気分に をいさぎよしとしなかったのである。あまりにも正直であっ なっていたが、しかしもう一度うち解けることカ 、、、、はたして た、これが原因なのだ ! 記憶しておられるかどうかしらな不可能であ「たろうか ? なぜ、なぜわたしたちは意気投合 いが、わたしはあのとき心の寛さを接木しようと企てたものして、もういちど新しい生活を始めることができなかったの だ。なんと奇妙な考えだろう。 すると、 か ? わたしは寛大だし、彼女も同様である、 ここで大いに興味のある問題は、彼女がわたしを尊敬してここに結合点が存在するわけだー もう数言の説明と二日の いたかどうかということである。わたしとしては、彼女がわ日数、ーーそれ以上は不要だ。そうすれば、彼女はもうすべ 記たしを軽蔑していたかどうかしらない。が、軽蔑していたとてを理解したのだ。 の は思えない。それにしても、彼女がわたしを軽蔑しているか 何よりもいまいましいのは、すべてが偶然だということで 作もしれぬという考えが、どうして冬の間に一度もわたしの頭ある、 単純な、野蛮な、蒙昧な偶然だということであ

6. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

思いきり独得な生活をはじめ、ほとんど都会から解放されよんとうにそうだったろうか ? それどころか、百五十年を通 うと欲しているのである。これはわたし一人が認めたことでじて、ペテルプルグとモスグワに流れ集まっていたのは、ロ はない、わたしよりもずっと早く新聞に論じられたのであシャぜんたいではなかったろうか ? そのロシャは、各地方 る。わたしの卓上にはすでに二か月も、カサンで発行されたや辺境から流れ込んで来る新しい力によって、常に自己を更 『第一歩』という浩瀚な文集が載っている。それについては生させながら、自分で進んで来たのではなかろうか ? それ とっくに一言すべきであった。なぜなら、この本は都会とちらの地方ないし辺境の任務は、ついでにいってみると、モス クワでも、ペテルプルグでも、リガでも、コーカサスでも、 がった地方的の、「緊急に必要な」新しい言葉を発表する、 堅い意図をもって出現したのである。ところが、どうだろあるいはほかのどこにもせよ、すべてのロシャ人に与えられ う、これは旧いロシャの合唱に含まれた新しい声にすぎなているものと、まったく同一なのであった。ペテルプルグ は、モスグワとモスクワの全思想に反抗して創設されたとい し。それゆえに有益なのであり、どう間違っても面白いこと へテルプルグとモスク は確かである。この新しい傾向は、いずれ何かから取ってきう主旨において、理論上からいえば、。 たものである。なるほど、これらの計画的な新しい言葉からワほど相反したものは、ほかにないと思われるくらいであ は、実際、まだ一つも新しいことはいわれていないが、ことる。しかるに、このロシャの生活の二中心地は、事実一つの によったら、ほんとうにわが地方や辺境から、未曾有なこと中心を構成している。これは、この両首都の性格が相反して いるにもかかわらず、最初から、改革のそもそもから、真実 が聴かれるかもしれない。 抽象的学理的に察すれば、すべてがそうなるべきはすであなのである。ペテルプルグに生まれて発達したのとまったく る。ビヨートル大帝の当時から、ロシャを導いていたのはペ同じものが、それと寸分たがわず、さっそくモスグワにも独 テルプルグとモスグワである。今やペテルプルグが役目をは立して生まれ、かっ発達したともいえるし、またその反対の たし、ヨーロッパに向かって打ち抜かれた窓の文化時代が終こともいえる。この両首都ばかりでなく、ロシャの隅々でも、 わりを告げた時ーーー今や : : : しかし、今日ペテルプルグとモ精神はまったく同一であった。それゆえ、ロシャ中どこへ行 っても、それぞれのところにロシャぜんたいがあったのであ スグワとの役目ははたして終わったか、という問題が起こっ てくる。わたしの考えでは、たとえ役目が変わったとしてる。おお、いうまでもなく、ロシャの各地が自分の地方的特 記も、その変化はきわめて徴々たるものであろう。それに、以徴と、それを発達させる権利を持っことができ、また持たな の前のことにしても、百五十年のあいだロシャを導いていたのければならないことは、われわれも了解する。しかし、その 作は、はたしてペテルプルグとモスグワであったろうか ? ほ 特徴とは、精神の分裂や、あるいは単になんらかの疑惑を、

7. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

れは民衆劇場のために書かれたもので、その方面のことに関も、とにかく良いものがあったにもかかわらず、それはほと こういうすべてのことが、キシ・ する知識を備え、疑うべからざる才能を持って、はっきりとんどなに一つ残っていない。 エンスキイ氏の戯曲の中には、少なくもわれわれの理解する 書きあげられている。これはほとんど新しい才能の現われな かぎりではことごとく反映を見せているのである。そこに現 い現代においては、とくに重視さるべきものである。 ここに現われる人物はすべて「工場部落」の労働者のさまわれているのはすべて過渡期的のもので、なにもかも動揺し ぎまなタイプで、はなはだしく多種多様をきわめ、しかも堅ていて、しかも悲しいかな、より良き未来に対する暗示さえ もないのである。 実に描破されている。筋は現に本誌に載っていることだか ら、今さららしく詳説しないことにしよう。が、そこに盛ら著者は教育というものを救いと見なし、ただ一つの血路と・ れた思想は、まじめで深刻なものである。これは完全なる悲してこれを力説しているが、しかし今のところではウォート : 、つさいを包み、いっさいを毒して、ますますよからぬ・ 劇であって、その fatum ( 宿命 ) となるものはウォートカでカカし 引きま方面へ導いて行き、民衆をとりこにし、奴隷化している。っ ある。ウォートカがいっさいを東縛し、とりこにし、 わし、破滅させるのである。とはいえ、作者は真の芸術家とまり、こういう新しい奴隷状態、ロシャの農民が以前の奴隷 して、自分の描いている世界を、より広い目で見すにはいら状態から脱したと思うと、またたちまちに落ち込んだこの新 れなかった。ただし、彼は自分のテーマが、「杯の底まで飲しい奴隷状態の、陰惨にして恐るべき光景を、キシェンスキ めば良い結果は見られない」ということであるのを、戯曲のイ氏は描いているのである。 ここには二種の型がある。一つは自分の生涯を終わろうと 表題そのもので明瞭にしているけれど。その他、戯曲の中に は、現在の治世に行なわれた大改革の経済方面、精神方面にしている人々で、他は新しい若き世代の人々である。 若き世代は作者の熟知するところである。作者の愛を受け およばした非常な激動が、残りなくその反映を見せている。 以前の世界、以前の秩序 ( それはきわめて組悪なものではあて、未来に対する希望のごとくにさし示され、陰鬱な場面の るが、なんといっても秩序には相違なかった ) は跡形もなく輝きとなっているもろもろの型は、かなりうまく書けている 消えてしまった。そして、不思議なことには、以前の秩序の ( それは非常に不思議なことである。「肯定的な」タイプは、 暗澹たる精神的方面、すなわちエゴイズム、シニズム、奴隷わが文学者にとって、ほとんど常に成功しがたいものとなっ 記根性、分裂、売節などは、農奴制度の撤廃とともに消滅しなているからである ) 。少なくとも、マリヤは難なく書けて、 いいなずけ のかったのみならず、むしろいっそう強化し、発達し、増大しる。その許婚のイヴァンは、描写が精確であるにもかかわら 作たかのように思われる。しかるに、古い生活の道徳的方面にず、やや出来栄えが劣る。それは若くて、美しい、大胆な、 卩 7

8. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

ーリンが彼女のことを書いた文章最高の位置を占めていたといっても、おそらく誤りではなか の後、四十八年に、プルガ を「北方の蜜蜂』誌上に掲載して、彼女は毎日、見付の付近ろう。ほとんど同時にわが国に現われたデイケンズさえ、わ 哲学者、政治家。サンシモン主義に同 でビエール・ルル ) と酒を飲が世人の関心という点では、あるいは彼女に一籌を輸したか 調、サンドと協力して雑誌を創刊した もしれない。彼女以前に出現して、しかも三十年代に「ウー み、内務省へ出入りして、あの盗賊のような内務大臣ルドリ ジェニイ・グランデ』『ゴリオ爺さん』などという作ロを ュ・ロランの催す乱宴に加わっている、などと書き立てた。 えた・ハルザッグについては ( この作家に対してペリンスキイ わたしはこの目でそれを読んだので、ようつく覚えている。 は、フランス文学におけるその意義を完全に見落として、大 しかし、この当・時、四亠ー八・には、ジョルジュ・サンドはも いに公正を欠いていた ) 、わたしはあえて言をもちいない。 はやわが国のほとんど全読書階級に知られていたので、だれ もっとも、これは決して厳正な批評的見地からいっているの ンを信ずるものはなかった。 一人プルガー 彼女の作品が初めてロシャ語で現われたのは、大たい二十ではなく、ただただ当時のロシャの読者大衆の趣味と、直接 年の半ば頃であった。残念なことに、わたしはいついかなる彼らの受けた印象を想い起こしているにすぎない。要は読者 っさいのものを、小説か 。、、当時あれほど警戒されていたい イ品が、初めてわが国に翻訳されたかを覚えてもいず、知り らも引き出すことができた、という点である。少なくとも、 もしないが、それだけ受けた感銘は大きかったに違いない。 思うに、すべての人々はまだ青年であったわたし同様、当時四十年代中葉のわが国では、ジョルジュ・サンドは、前世紀 の終わりに起こった血腥いフランス革命 ( 正しくはヨーロ その典型と理想との純潔無比な清らかさと、物語の精厳な、 パ革命 ) が、その活動の終結としたあの「積極的」獲得物 節度ある調子の、しとやかな魅力に打たれたことであったろ ところが、こうした婦人がズボンをはいて歩いたを、真っ向から否定することによって、自己の活動を始めた り、みだらな真似をしているというのである ! わたしが初ので、当時のヨーロッパに出現した新人の群れに属する、か めて彼女の小説「ユスコク』ーーー優婉無比な彼女の初期の作のきわめて鮮明かっ悛厳な、正しい女流代表者の一人である 品の一つを読んだのは、たしか十六の時であったと思う。忘ことを、わが読者大衆はたとえ部分的にせよ知っていたので れもしない、わたしはそれを読んだ後、一晩じゅう、熱にうある。 革命が終わると ( ナポレオン一世以後 ) 、新しい希望と新し かされたよ、つになっていた。田 5 , つにジョルジュ・サンドは、 記少なくとも、わたしの記憶によって判断するかぎりでは、当い理想を表明しようとする、新しい試みが現われた。識者 は、専制主義が単に衣を更えたにすぎず、 Ote ・ toi de lå que の時突如として全ヨーロッパにその名を轟かした多くの新しい 作作家群の中にあって、わが国において引きつづき、ほとんど」 e m ・ y mette ( お前そこをどけ、おれが代わる ) といったふう

9. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

はほかでもない、おんみらの無邪気さを信じうる予想されたる。と、ふいに、ああなんという恐ろしいことだろう ! 見 る新しい購読者ではあるまいか ? おんみらは両人ともよくると、広間の片隅に筆の上の竸争者がいるではないか。彼は 知り抜いている、 おんみらの憤りや、自己強制や、努力もうおんみよりも前に到着していたのだが、彼がこの家の知 が、すべて徒労におわるということも、アントロープカが呼人だろうとは、今の今まで夢にも思わなかったのである。お び声に応じないということも、おんみらが一人の読者をも互んみはさっと顔色を変える。しかし、主人はそれをほんのち いに奪い得ないということも、読者はそれでなくともすでに よっと瞬間的に気分が悪くなったものと考えて、無邪気にも 食傷しているということも、十分承知しているのである。け急いでおんみを論敵に引き合わそうとする。おんみらはちょ れど、おんみらはもうすっかりこの遊戯にはまり込んでしまっと唸り声を立てて、すぐにくるりと背中を向け合ってしま って、血のにじむほど胸を掻きむしる力ない雑文稼業のヒス う。主人は当惑するが、しかしこれは自分が勤め向きの忙し テリーじみた努力が、すっかりとお気に召してしまったのさに紛れて、まだ知らずにいる新しい文学社会の態度なのだ で、おんみらはどうにも自制力がなくなったのである ! かろうと考えて、やっと気を取り直す。かれこれする間に、早 くて、毎週ある一定の日に、わが文壇を包むあやめもわかぬ早カルタが始まる。主婦は持ちまえの愛想のいい態度で、お 夜の闇をつんざいて、「アントロープカ ! アントロープんみをエララーシ = ( カルタ ) に招く。おんみは競争者のそ カ ! 」というヒステリーじみた狂暴な叫びが響き渡る。わればをのがれたさ力し ま、つばいで、大喜びでカルタを手に取る。 われはその声を聞くのである。 ところが、またもや恐ろしいことになってしまった。行って ここであえてもう一つ比喩を中しあげよう。 見ると、おんみら二人は、同じテープルで向かい合うことと おんみが立派な社交界へ招待されたと仮定しよう。なぜな もう断わるわけにはゆかない。さばけこ なっているのだ ! ら、おんみも立派な社交界の各方面へ出入りするものと想像愛想のいい婦人が二人、おんみらの組になっているからであ するからである。例えば、五等官の住居へ命名日の夜会に招る。二人の婦人はそそくさと座につく。すると、そのまわり 待されて乗り込んだと仮定する。客はもうあらかじめ主人の には、親戚や知合いの婦人が幾人か集まって、みんな二人の 口から、おんみの機知を承知している。おんみは作法正しく文学者の話を聞こうと一生懸命になって、おんみらのロを見 入って来る。服装も相当で、主婦に向かっても、片足を引き つめ、瞬きもせすに、おんみらの最初の一言を捕えようとし 記ながらうやうやしく会釈をして、お愛想をふり撒く。おんみている。おんみの競争者はおちつきはらって、一人の婦人に の は一同の視線が自分のほうへ注がれているのを、 ) はあなたの番のようです いい気持ち向かい、「奥さん、今度の親り 作でそれとなく感じながら、人をあっといわそうと心組んでい な」という。一同は徴笑を浮かべながら、互いに目と目を見

10. ドストエーフスキイ全集14 作家の日記(上)

るべき軍隊には、結局、おのれの依存すべき真の力がどこにゆる時代と時期の主宰者である。彼は今やお前たちの時期が R あるかを、十分に見分ける鋭い目がある。おのれの味方たる到来したものと決定した。これまで、信仰のおもな力は従順 帝王たちを失ったカトリック教は、必ずデモスのほうにとんということであったが、今度は従順などというものの時期は で行くにちがいない。彼らの間には数万の誘惑者、賢者、巧終わったのだ。法王はあらゆる権力を授けられているから、 者、霊魂洞察者、心理学者、弁証家、説教者があるが、民衆それを廃する権力も有している。まことに、お前たちはすべ は常にどこでも率直善良であった。あまっさえフランスでて兄弟である。キリストは万人すべて同胞たれと命じた。も は、いな、今日ではヨーロツ・ハの各地でも、民衆は信仰を嫌し兄たちがお前たちを弟として遇しなければ、お前たちは杖 悪し侮蔑しているとはいい条、福音書をまるで知らない、すを取って彼らの家に入り、カずくで兄弟にさせなくてはなら ない。キリストは久しい間、放蕩な兄たちが懺悔するのを待 くなくもフランスではそうである。これらの霊魂洞察者と心 理学者は民衆に投じて、彼らに新しいキリストを押しつけるっていた。しかし、今や法王は "Fraternité ou la mort" であろう。それはどんなことにもくみするキリストであり、 ( おれの兄弟になれ、さもなくば首をちょん切るぞ ! ) と声 不信心な最近のローマ宗教会議で声明されたキリストなので明することをわれわれにゆるしている。もしお前の兄弟が、 ある。 お前と財産を等分することを欲しなければ、彼らからすべて 「まことに、わが ~ 从よ、はらからよ、 と彼らはいうであのものを奪うがいい。なぜならば、キリストは久しく彼らの ろう、 お前たちの得んと欲するものは、残らずわれわれ改心を待っていたが、今や憤怒と復讐の期がきたからであ が持っていて、とうからこの本に書いてある。ただそれをおる。お前たちの過去ならびに将米の罪は、お前たちの責任で ないと知るがよい。なぜなら、お前たちの罪は一つ残らず、 前たちの指導者が、われわれの手からぬすんだにすぎない。 今までわれわれがお前たちに説いていたことが、いくらかこお前たちの貧困から生じたのであるから。もし以前、お前た れと違っているのは、お前たちが幼子と同じであって、真理ちのもとの指導者や教師が、これを宣言したとすれば、たと を知るには早すぎたからである。しかし、今はお前たちの真え彼らの言葉が真実であったとしても、時機の来ない前に、 実が現われる時がきた。よく心得ておくがよい、法王には聖それを公言する権利がなかったのである。なぜなら、この権 ペテロの鍵がある 。神に対する信仰は、法王に対する信仰でカは法王一人のみが神から授かったのだからである。その証 ある。なぜならば、法王は神みずからその名代として、お前拠には、これらの教師はお前たちを刑罰と、恐ろしい災禍に たちのために地上へ送りたもうたものだからである。彼は不導いたばかりで、なに一つ道理にかなったことを示すことが 可侵の存在であって、神の権力を授けられている。彼はあらできず、彼らの企てはおのずと滅びたではないか。のみなら