なれば、物の本質は人間に把握しがたいもので、人間はそのければ、流れ移る形においてでなく、すでに完成した姿にお いて描かれる歴史的現実などとは正反対なものである ( ここ 感情を通して、彼のイデーに反映する自然を感受するにすぎ ないからである。したがって、理念をもっと自由に働かせて、で注を入れておくが、われわれは「自分の目で見た」といっ たが、デイケンズは決して自分の目でビグウィッグを見はし 理想的なものを恐れぬようにしなければならぬ。例えば、肖 なかった。ただ自分の観察した現実の種々相の中にそれを認 像画家は自分の描こうとする人をすわらせて、しばらくは準 備をしながら、じっと見つめるものである。それはなんのためて、一つの人物を創造し、自己の観察の結果として表示し たのである。かようなわけで、デイケンズは現実の中からた めにするか ? ほかでもない、彼は人間がいつも自分自身に だ理想を取って来ただけであるが、この人物は真に実在した 似ているものではないということを、実験に徴して知ってい ものと同じように、現実的なのである ) 。しかるに、わが国 るので、「その人の相貌のおもなる理念」をつかもうとする、 しいかえれば、対象人物が最も自分自身に似る瞬間を求めるでは現実というものに関する観念の混淆が生じている。例え のである。この瞬間を求めかっ把握する能力にこそ、肖像画ば、芸術における歴史的現実は、移り流れる現実 ( ジャン ル ) とは同一でない。なぜというに、それは完了したもので、 家の天分が存するのである。したがって、この場合、画家は なにをしているかというと、つまり、目前の現実よりもむしろ移り流れるものでないからである。どんな心理学者にきい もし過去の事 てみても、次のように説明するであろう、 ・自分の理念を ( すなわち理想を ) 信頼していることになる。 実際、理想も移り流れる現実と同じく合法的ではないか。わ件、ことに遠い過去において完了した歴史的な事件を想像す るならば ( 生きていて過去を想像せぬということは不可能で が国ではどうも多数の人がそれを知らないらしい。例えば、 プロンニコフの『ビタゴラス派の頌歌』などがそれである。 ある ) 、事件は必ずや完了した形において浮かんでくるに相 風俗派の画家は ( 最も才能すぐれた人々さえ ) 、どうして現違ない。それのみか、芸術家が人物なり事件なりを想像しょ 代画家がかような主題を取り扱うことができるかと、驚いてうと努めているその歴史的瞬間には、まだ発生しなかった次 いるほどである。しかるに、かようなテーマ ( ほとんどフアの事件の展開までも残りなく伴なって来るであろう。それゆ ンタスチッグな ) が、移り流れる現実とひとしく現実的であえ、歴史的事件の本質は画家の想像には、現実に行なわれた のと寸分たがわずに浮かぶということは、あり得ないのであ り、芸術にも人間にも必要欠くべからざるものなのである。 風俗画とはそもそもいかなるものか ? 風俗画は画家自身る。かような次第で、画家は心にもなく「理想派ぶる」こと のがみずから内的に体験し、自分自身の目で見た移り流れる現になり、彼らの考え方によると、うそをつくことになりはせ 作代の現実の再現であって、自分自身の目で見ることもできなぬかという迷信的な恐怖に捕えられる。この仮想の誤謬を避
ができましよう ? しかも、まあ、ど、つでしよ、つ、それがそ が茫然として自分の住居へ帰って来ると、自分が将来あのよ つくりわたしの住居へ入って来るのですよ。しかも、わたし うな光まばゆい婦人の所有者となり、半身となるのだという あなたは笑ってます 考えが、おもりのようにわたしを圧倒してしまいました。わは部屋着一枚でいるかもしれない、 ね ? しかし、これは考えてもぞっとするようなことです たしは、自分の家具に目をすべらした、それはみすばらし、 が、しかしわたしにとってはきわめて必要な、いかにも独身者よ ! そこにもう一つ、こういう問題があります。もしそう した完成品が恐ろしくって、自分を不釣合いのように感じる らしい持ち物ばかりでした、ーーーすると、自分という人間も、 よら、 いっそむさい女を ( といっても、断じて道徳的にむさ 社会上の自分の地位も、自分の姿も、髪の毛も、こまごまし た持ち物も、知恵や心の浅薄なことも、なにもかもが恥ずかい女じゃありません ) もらったらいいじゃないか、とこうく しくてたまらなくなり、自分のようなこんな選りに選ってつるでしよう。ところが、どうして、どうして、憤然として承 ささかも条件を引き下げよ、つとしない。 まらない人間が、ああした不釣合いな宝をわが物にするかと知しないのみか、い 一口にいえば、わたしはいちいち、微に入り細を穿って申し 思うと、まったく自分の運命を呪いたくさえなるのでした。 こんなことをあなたに事々しく申しあげるのは、結婚真理のあげないが、まあ、すべてこういった調子です。例えば、わ たしが絶望のあまりカつきて、長いすの上に身を投げた時 あまり知られていないある一面、もっとわかりよくいえば、 ( お断わりしておかなければなりませんが、それは古物市場 許婚になった男が残念ながらきわめてまれにしか経験しない 感情を表明せんがためなのです。ほかでもありません、結婚で買って来た、・ハネのこわれた、この世にまたとないような ひどい長いすなんです ) 、一つの情けない考えがわたしの頭 するには、愚劣きわまるうぬばれをたぶんに持ち合わせてい なくちゃならない。それも思いきってばかばかしい、鼻持ちを訪れたのです。『さあ、やがて結婚したら、いよいよもう まあ、裁 ばろ切れに困るようなことはなくなるだろう、 のならないようなやつなんです。しかも、そいつを、心のこ まやかな人間にはとてもできそうもないほど、きわめて滑檮ち屑ででもペンを拭くか』ねえ、こうした考えなんかごくあ な調子でやつつけなければならないんです。ところで、教養りふれたもので、その中にはいっこうなにも恐ろしいことな しい、うすものの衣裳と、 、舞踏といし んかないじゃありませんか ? この考えは疑いもなく、ふと 、巻髪と、 純潔さといい、単純ではあるが同時に社交的に磨きあげられ何かの拍子に閃いたのです。それはあなた自身、わかって くださらなけりゃならんはずです。なぜって、どうかすると た感情と理性の美しさといい、何から何まで洗練された完成 品に対して、社交界の令嬢であるそうした婦人に対して、ど人間の心には、断頭台へ引いて行かれる瞬間にさえ、どんな うして自分のような人間を、ほんの一瞬間でも比較すること考えが閃くか知れないはどですものね。ところで、ばくが 4 ノ 8
りながら、この出来事の意味を発見しよう、「自分の考えを 一点に集中しよう」と努めているのだ。おまけに彼は、自分 で自分を相手にしゃべるといったふうの、病い膏肓に入った ヒボコンデリー患者である。現に彼は自分を相手に話をし て、事件のいきさつを物語り、それを自分に闡明しているの である。その話は一見順序だっているようだが、それにもか かわらす、彼は論理においても、感情においても、しよっち ゅう自己撞着をしているのである。いま自分を弁護して、彼 著者より 女を責めているかと思えば、今度は無関係なよそごとの説明 わたしはまずもって読者諸君に、今度、いつもの形式をと をはじめる。そこには思想と心情の粗野な面が現われたかと った「日記』の代わりに、一編の小説のみを供することにつ 思うと、深遠な感情がうかがわれる。やがて次第次第に、彼 いて、お許しを願わねばならぬこととなった。しかしながは実際、事件を自分自身に闡明して、「思想を一点に」集中 ら、事実一か月の大部分、わたしはこの小説にかかっていたしてくる。彼の幾多の追憶は、ついに否応なく彼を真実へ導 のである。いすれにしても、わたしは読者の寛恕を乞う次第いてくる。と、真実は必然的に彼の理性と、い情を高めて である。 く。終わりに近づくにしたがって、物語の調子までが無秩序 さて、これから、当の物語について一言丁る。わたし自身は な冒頭と比較して変わってくる。真理は不幸な男の眼前にか この物語を最高度に現実的なものと考えているくせに、「空なりはっきり、決定的に展開されるのだ、少なくとも彼自身 にとっては。 想的」という傍題を冠した。しかし、この中にはまったく空 想的なところがある。というのは、物語の形式自体なのであ これが主題である。もちろん、物語の過程はちぐはぐな形 るが、この点、まえもって説明しておく必要があると思う。式をとって、と切れたり、間をおいたりしながら、数時間に 問題は、これが物語でもなければ、手記でもないという点わたってつづく。いま彼は、自分自身に話しかけているかと にあるのである。まず一人の夫を想像していただきたい。そ思うと、今度はまた目に見えない聴き手や、何か裁判官のよ の妻は数時間前に窓から身を投げて自殺し、遺骸がテープル うなものに話しかける、かのようなあんばいである。しか のの上に安置されているのである。彼は動頑してしまって、まし、これは現実でもよくあることだ。もし速記者がその場に 作だ自分の考えをまとめる暇がない。彼は部屋の中を歩きまわ居合わせ、彼の言葉を聞いて、後から後から残らず書きつけ四 十一月 おとなしい女 空想的な物語
号を、端的に証明するものだからである。ところが、いまて 4 れるかいなかという点に、彼らは疑いをさし挾ん・だのであ は反対に、「これはわたしにはわからない」という文句が、 る。それどころか、むしろ正反対の印象を人に与えはしない だろうか ? のみならず、人によっては、ことにそれまですでほとんど誇りをもって、少なくとも、さも偉そうにロにされ にピストルや、首吊繩のことを念頭に浮かべはじめた人たちることが、きわめてしばしばである。ご当人はこの一句によ って、たちまち王座の上にでも登ったように、聴き手からふ は、それを読んだために、かえって誘惑を感じ、自分たちの 一り仰がれるのである。今日では、「ばくにはラファエルはち 不幸な意図をさらに堅めるようなことはないだろうか ? 口にいえば、わたし自身の内部にすでに萌していたのと、寸分っともわからん」とか、「ばくはわざわざシェイクスピアを ちがわない疑いが表明されたのである。その結果として、文ぜんぶ読破したが、正直なところ、その中になに一つ特殊な 章の末尾に作者の立場から、明瞭な一一一一口葉でもって、直截簡明ものを見いださなかった」とかいったような言葉が、ただ に、深刻な頭脳のしるしとしてばかりでなく、なにか高邁な に、この一文をものした目的を説明したうえ、同じく端的に教 こと、とい , フより、ほとんど精神的偉業のよ、フにさえ受け取 訓を書き加うべきであった、という結論が生じたのである。 わたしはそれに同意した。それに、わたし自身、まだそのられるのである。いや、今日こうした裁きと疑いを蒙ってい 文章を書いていた時から、教訓の必要なことを感じていたのるのは、ひとりシェイグスピアのみであろうか、ラファエル だが、わたしはその時はなぜかしら、それを書き添えるのがのみであろうか ? わたしがここに自分の言葉で伝えた傲慢な物知らずに関す 気恥ずかしかったのである。読者の中で最も単純な人々です ら、あの文章の裏を察することができず、その目的や教訓をるこの意見は、かなり正確である。事実、物知らずの傲慢は みすから読みとり得ないほど単純であろう、などと予想する方図の知れないほどになってきた。発達程度の低い魯鈍な人 たちは、自分たちのこの不幸な性質をいささかも恥とせぬの のが、わたしは気恥ずかしかったのだ。わたし自身には、こ みか、かえっていっとはなしに、それによって「士気を鼓舞 の目的はきわめて明白であったから、だれにでも同じくらい 明白であろうと、つい想像してしまったのだが、それがわたされる」ようなことになってしまった。なおそのほか、文学 においても、個人の生活においても、いちじるしく特殊化が しの思い違いであったことがわかった。 目立ってきて、知識の多面性が消滅していくのに、わたしは 二、三年前に、ある作家のいった言葉は肯綮をうがってい る。つまり、ある種の事柄についてわからないと自白するのしばしば気づいたものである。ロ角泡を飛ばしてまで、自分 は、かって恥辱と考えられていた。なぜなら、それは自白すの敵を論駁していた人々が、ときには十年くらいも、論敵の るものの鈍さと、その理知や心情の貧しさと、知的能力の薄書いたものを一行も読まずにいて、「おれはあんなのとは別
苦痛こそ、すなわち、わたしたちにとって刑罰となるであろものとして、人間を完全な無人格に引き下ろし、個人のあら う。もしこの苦痛が真実なものであって、強烈な力を持ってゆる道徳的義務や、あらゆる独立性からまったく解放してし いるならば、それはわたしたちを浄めて、より良い人間にしまい、想像し得るかぎりの醜悪無比な奴隷状態にまで徹底し てくれるだろう。実際、自分自身がより良くなれば、われわてしまうのである。こういうふうに考えると、人が煙草を吸 れは環境をも矯正して、より良いものとするに違いない。実 いたくなった時、金の持ち合わせがないからとて、煙草を得 にただこれのみによって矯正し得るのである。ところで、自んがために他人を殺してもよい とい、つことになってくる。 分自身の憐憫を避けて、自分自身で苦しまないために、次か とんでもない話だ。「自分の要求が満たされないために、教 ら次へと被告を無罪にしてやる、 これこそ容易千万な話養のないものよりもいっそうつよく苦痛を感ずる教養人が、 その欲求を満たすために金を必要とする、 それなら、も である。こんなことをしていたら、犯罪などは全然ない、 「すべて環境が悪いのだ」というような結論へ、次第次第に しそのほかに、金銭を手に入れる方法がないとすれば、なぜ 落ち込んでしまうではないか。それどころか、犯罪は義務彼は教養なきものを殺してはならないのか ? 」はたして諸君 だ、「環境」に対する高潔なる反抗だなどと、順送りに考えはこういう弁護士の声に耳を傾けなかったか ? 「むろん、 るようにさえなるだろう。「社会組織がこんなに忌わしくで国法が侵犯された以上、彼が教養なきものを殺したというこ きている以上、こんな世の中では抗議せずには、とうてい生とは、むろん、犯罪です。しかし、陪審員諸君よ、こういう きていかれない、犯罪をやらずにはいられない」「社会組織ことも考慮に入れてください」云々。実際のところ、もうほ がこんなにも忌わしくできている以上、手に刀を持たないでとんどこれに類した声が発せられたのだ。いや、ほとんどと は、そこから抜け出すことはできない」これこそ環境説の唱もいえないくらいである : えるところで、キリスト教とはおよそ正反対である。キリス 「さよう、けれども、きみは」とだれかの刺を含んだ声がわ ト教は環境の圧迫を十分に認めて、罪人に憐憫を声明しなが たしの耳に聞こえる。「きみは環境論の最新哲学を、民衆に ら、しかも、環境に対する戦いを人間の道徳的義務とする、押しつけようとしているらしいですね、いったいどうしてそ そして、どの辺で環境が終わり、どこから義務が始まるかとんなものが民衆の中へ舞い込んだのでしよう ? いう境界を人間に示すのである。 の十二人の陪審員たちは、時によると、みながみな百姓たち 人間に義務責任を付与しながら、キリスト教はそれによっ から選ばれたものばかりで、彼らはだれもかれもが精進日に て人間の自由をも認めているのである。環境の力を主張する肉食するのを、死に当たるほどの罪悪と考えているじゃあり 学説は、人間を社会組織内のあらゆる不正不備に左右されるませんか。きみは社会的傾向の点で、頭から彼らを非難した とげ
フランス風なりイギリス風なり、なんなりと自分自身のものだけは、、かなる場所でも自分の顔を恥じないということ菊 が、自己の尊厳の最も重要な本質的な点であると承知してい でない顔をとってつければ、なんとなくはるかに品位を増し こういう内面のる。だからこそ、彼は少しも早くフランス人か、イギリス人 て、たれにも真相を見破られる心配がなし 確信から出てくることなのである。ついでに、一つきわめてのように見られようとする。つまり、決してどこでも自分の 一刻も早くとあせるからである。 特質的な点を指摘しておくが、このやくざな自己羞恥と完全顔を恥じないように、 な自己否定は、多くの場合、無意識的なものである。それは もう耳にたこのできるはどい 「子供じみた話だ、古くさい 一種痙攣のようなもの・で、どうにもならないのである。しか し、その意味の中では、ロシャ人はたとえどんなに病い膏肓い古されている」と、また人はいうだろう。それは勝手にい に達した自己否定者でも、やはりそうむざむざと自分のやくわしておこうが、ここに一つもっと特質的なことがある。知 ぎさ加減に同意するものではなく、必ず尊敬を要求するもの識階級の範疇に属するすべてのロシャ人が、なにかの会合な である。「おれはまったくイギリス人と同じなのだ」とロシり人中なりに出て行く時、あくまで強く主張して、どうして も譲歩することのできない点が一つある ( 自分の家にいる時 ヤ人は思案する。「したがって、おれも尊敬してもらわなく とか、自分一人きりでいる時などは話が別である ) 。この点 ちゃならない。だって、イギリス人はだれでも尊敬されるじ ゃないか」ロシャ社会のこのおもなる型は、二百年の歳月をというのは、実際よりも賢く見られたい欲望である。しか 費して作りあげられたのである。それには、二百年前から示も、注意すべきことには、それは決してだれよりもいちばん きれた原則が必ずついてまわる。日く「決していかなること賢く見られたいとか、あるいは単に人よりも賢く見られたい があっても、自分自身のままでいないで、ほかの顔をとってとかいうのではなくて、ただだれよりもばかに見られたくな つけること、自分の顔には永久に唾を吐きかけて、常に自分いという願望なのである。「わたしがだれよりもばかではな 、と認めてくれ、そうすればわたしのはうでも、きみが人よ を恥じること、断じて自分自身に似ないこと」この結果は実 にⅡざましいものである。ドイツ人にしても、フランス人にりばかでないことを認めるから」というわけである。ここで もやはり、一種の相互的な感謝といったようなものが存在す しても、イギリス人にしても、もしなにも悪いことをしない という心底からの確信があれば、他人といっしょにすわりなる。例えば、ロシャ人はヨーロッパのオーソリティの前には がら、自分の顔を恥じるようなものは、広い世界にだれ一人急いで跪拝し、それに幸福を感じて、分析さえもあえてしな 、ほどである。それどころか、こういう場合には、とくに分 いないはずである。ロシャ人は、そんなイギリス人などどこ にもいないことをよく知っている。ただ教養のあるロシャ人析を好まないくらいである。けれど、ああ、もし天才的な人
民衆に関する問題、民衆の見方に関する問題、民衆の解釈・ にいたるまで、この天才の偉大さをまだ十分に評価できない に関する問題は、目下ロシャにとってなによりもっとも重大一 でいるのだ。現代の文学に現われた純国民的なもろもろのタ イプについては、今さらくり返すのをやめにするが、ただオな問題で、この中にわが国の未来ぜんたいが含まれている。 ツルゲーネフの「貴それゆえ、現代のロシャにとって、もっとも実際的な問題だ プローモフを思い出していただきたい。 くらいである ! とはいうものの、民衆はわ 族の巣しを想起していただきたい・むろんこの中に出て来るといってもいい 人々は農民ではないけれど、ゴンチャロフとツルゲーネフのれわれ一同にとって、まだ依然として一つの理論にすぎず、 創り出したこれらのタイプの有している永遠な美しいもの一個の謎であることに変わりはない。われわれ民衆の愛慕者 と称するやからは、すべて彼らを理論として眺めているのみ は、すべて民衆にふれたところから生まれて来たのである。 この民衆との接触が、彼らになみなみならぬ力を賦与したのである。そして、まだわれわれのうちだれ一人として、現在 である。彼らは民衆から単純と、謙抑と広い理解力と、毒念あるがままのものとして彼らを愛しているむのは、ないらし 。われわれはすべて、おのおの自分の心に描いている民衆 を解せぬ心とを借りたのである。すべてひねこじれた贋もの 、。はなはだしき場合には、も の付焼刃や、卑屈な借りものに正反対ないっさいのものを習を愛しているにすぎないらしし し後でロシャの民衆が、おのおのの心に描いているようなも・ 得したのだ。どうか、わたしがとっぜんロシャ文学の話など 始めたのに、驚かないでいただきたい。 しかしわがロシャ文のでないとわかったら、彼らに熱烈な愛をいだいているにも一 学の功績はほかでもない、すなわち現代のインテリゲンチャかかわらず、われわれはすべて、少しも惜しげなく、さっそ にさきんじて ( この事実にとくに注意していただきたい ) 、 く彼らに背を向けてしまう。わたしはすべての人についてい その優れたる代表者を挙げてことごとく、民衆の有せる真理っているので、スラヴ主義者さえ除外例とはしていない。そ の前に跪拝して、民衆の理想をもって真にうるわしき理想とれどころか、彼らこそ一番ひどいかもしれない。 認めた点に存するのである。もっとも、ロシャ文学が民衆の わたし自身のことに関しては、わたしは自分の信念を隠そ うとは思わない。なぜなら、わたしは不要な誤解を避けるた 理想を取って範としたのは、、 しくぶん無意識的にほかから強 制せられたような気味もある。つまり、みずから進んでやつめに、この「日記』の進むべき方向を、いっそう明瞭に指示 たというより、むしろ芸術的敏感のほうが余分に働いているしておきたいからである。そうすれば、文学者としてわたし 記らしい しかし、文学の話は今のところ、こんなものでたく に手をさし伸べる必要があるかないかを、世間の人が前もっ のさんだ。それにわたしがこんな話を持ち出したのも、ただ民て承知してくれるに相違ない。わたしはこんなふうに考えて われわれは自分自身を民衆の理想として誇り、民 衆のことがいいたかったからである。
は、典型派はまったく自分自身を持ちこたえることができなると同時に、反対に自分自身を称揚しなければならなかった はずである ( この点に関しては、こういう人々は自尊心なぞ かった。そこで、恐ろしいばかげた結果になってしまって、 このうえもない無恥厚顔な態度 僧職の身でありながら奇跡を冷笑したり、それを不可思議な毛筋ほども持っていない。 ものと、しからざるものに分けたりするのである ! これはで、彼らは自己賞讃の文を自身手ずから書いて、それを印刷 よくないことだ、典型派諸君よ。 するくらい平気なものである ) 。ところが、驚き入ったこと には、この典型派は自分自身でなく、才能あるレスコフ氏を わたしは一歩進んで、「聖歌読誦僧」も同じ人のペンにな ったものだと考える。この拙劣な職人は末尾において、あま持ち出し、しきりに賞めそやしているではないか。ここには りに度を越した無邪気さを発揮したからである。つまり、聖なにか他に仔細があるので、必ずやその間の事情が明瞭にな 歌読誦僧の「危惧の念」をさすので、これはあまりといえばる時があろう。しかし、仮装人物であることにはなんの疑い あまり知恵がなさすぎる。一口にいえば、諸君よ、これらは それにしても、これを掲載した『ロシャ世界』はどういう すべて看板絵かきのような仕事で、まあ、小説の中ならどう にか通用するだろうが、くり返していうけれど、現実にふれ関係になるのか ? まるきり見当がっかない。わたしはかっ るが早いか、すぐさまひとたまりもなく尻っ尾を出してしまて今まで「ロシャ世界』となんの関係ももったこともなけれ うだろう。芸術家諸君よ、きみがたの腕で年功を経た文学者ば、またもとうとも思っていない。なんのために人がさし出 をごまかせるものではないのだ。 がましいことをするのか、それは神のみがごそんじである。 いったいこれはなんだろう、単に彼らの冗談にすぎないの 空想と幻想 に「わ、つ、カ ? ・ これは、 いやいや、決して冗談ではない。 これはいわばダーヴィニズムであり、生存競争である。つま というわけであ り、おれたちの畑に踏み込んでもらうまい る。諸君よ 、いったいネド ーリン氏は、、かなる点で諸君に われわれは前号の「グラジダニン』誌で、飲酒のことにつ 害をしたのだろうか ? 誓っていうが、彼は断じて僧侶階級いて、というより、むしろ全国民を飲酒の毒害から救う可能 の世相的方面を描こうという意図を持ってはいなかった。そについて、またわれらの希望について、近く来るべきより良 れはどこまでも安心されてよろしい 。もっとも、ある奇妙なき未来に対するわれらの信仰について、語ったことである。 事実がちょっとわたしに当惑を感じさせた。もし仮装した典しかし、すでに久しい以前から、知らずしらず憂愁と疑惑が 型派が、ネド ) ン氏を攻撃したものとすれば、氏を攻撃す心に忍び入っている。むろん、目前の重大事に追われて ( わ
1 さロ あえていいますが、 は一言しておきます。どこの国民、どこの民族の間にも、男皮肉も含むいわれがないのは、 子はとくにその国民、その民族の間で、女を求め愛さなけれわたし自身あるロシャの婦人から恩恵を受けた人間である、 ばならぬという自然の法則が、当然あるべきはずのように思という一事によっても明瞭です。そうですとも、よしわたし われるのですが、そうじゃないでしようか ? もし男が他国がどんな人間であっても、またあなたの目にいかなる人間に いいなずけ いっときわたし自身、あるロシャ婦人の許婚だ の女を自分の国の女より以上に評価して、もつばら外国の女映ろうとも、 ったことがあるんですからね。この娘は、いわば社交界の位 たちに魅惑を感するようになれば、その時は国民の解体がは じまり、民族の基礎動揺の時がくるのです。誓っていいます置からいえば、わたしより上なくらいだったし、あまたの求 が、わが国にも最近百年の間に、つまりわれわれと民衆との婚者にも取りまかれていたのですから、自由に選択ができた わけなのですが、彼女は : : : 」 分裂に比例して、これに類似したあるものが起こりかけてい 「あなたを選んだというわけですね ? 失礼、つい知らなか ます。われわれはポーランド女やフランス女、はてはドイツ 女にすら、魅惑を感じてきたものです。今はほらこのとおったのですから : : : 」 り、イギリス女を自分の国の女より上におこうという、有志 「いや選んだのではありません、わたしをベケにしたので 者が現われてきました。わたしにいわせれば、かかる徴候のす。しかし、要はことごとくこの点にあるのです ! 腹蔵な く申しますが、わたしが許婚にならなかったうちは、、 中には、一点の心やりとなるべきものとてありません。そこ には二つの点がある。すなわち、民族との精神的分離か、単いなにごともなく、ばくはほとんど毎日この淑女を見られ なるハレム趣味かです。自国の女に立ち帰らなくちゃいけまる、というだけで幸福を感じていたのです。ほんの言葉っい せん。自国の女を研究しなければいけませんよ、もしわれわでに、ちょっと注を入れさしていただきますが、ひょっとし たら、わたしもあながち悪い印象をあたえなかったに違いな れが彼女らを理解することを忘れてしまったとすれば : 「わたしは、自然なり民族なりに、そうした法則があるかど いと思うのです。それからもう一つ、この娘はわが家の中で かなり自由であったこともつけ加えておきます。さて、 うか知りませんが、あなたのお説には万事快く賛同したいとは、 思っています。しかし、失礼ながら、おたすねしますが、わそこである時、まったくもって不可思議な、何に譬えようも たしがさきほど、そのパンフレットの著者はきっと独身者ない ( とさえもいえるくらいの ) 瞬間に、その女がとっぜ その時わたしがど で、ロシャ婦人のあらゆる高い資質を知る機会を持たなかつん、わたしに約束してくれたのです。 。もちろ のたに違いないこいったのを、なぜあなたは皮肉のようにお考うなったか、あなた想像もおできになりますま、 作えになったのでしよう ? わたしとして、これつばかしのん、それはみな二人の間だけの秘密でした。しかし、わたし 4 】 2
れを「人類愛」のうちに見いだそうとした。「自分はだめだ リ暇があろう。 わたしの自殺者は自己の思想、つまり自殺の必要という思としても、人類は幸福であり得るだろう。そして、いっかは 想の熱烈な表現者であって、無関心主義者でもなければ、鉄調和に到達するだろう。この思想は自分を地上に引きとどめ のような人間でもない。彼は実際なやみ苦しんだ、このことることもできたはずなのだ」と、彼は不用意に口をすべらせ はすでにわたしが明瞭に表現したはずである。自分が生きてている。これはもういうまでもなく、寛大な思想である。寛 ゆかれないということは、彼にとってあまりに明白である。大な、そして殉教者的な思想である。しかしながら、人類の そして、その考えが間違いのないものであり、それをくつが生命は本質的に見て、彼自身のそれと同じく東の間のものに すぎず、「調和」の達成されたその翌日は ( この空想が達成 えすことが不可能なのを、彼はあまりによく知りすぎてい されるものと信じるとして ) 、人類は自然の蒙昧な法則に引 る。彼の前には最高にして最初の疑問、「動物的に生きると いうことは人間としていまわしい、変則な、不十分なものできずられて、零に帰してしまう。しかも、それがこの空想実 あることを意識した時、人ははたしてなんのために生くべ現のために、あれほどの苦悩を忍んだ後なのである。この牢 きであるか ? かかる場合に、何が彼を地上に引きとめる固として抜くべからざる信念が、この思想が、彼の魂を根底 から憤激させるのである。つまり、人類に対する愛から憤激 か ? 」という疑問が、否応のない力をもって立ち塞がってい るのである。これらの疑問に対する解決を得ることは不可能を催させ、全人類のために侮辱を感じさせ、そして、 であり、彼もまたそれを承知しているのである。なぜなら、想反撥の法則によって、ーーー・彼の内部における人類愛そのも のをすら殺してしまうのである。これと同様のことは、われ 彼の表現を借りると、「全体としての調和」のあることは認 識したけれども、「自分は」と彼はいう、「それを理解しなわれの再三目撃するところであって、例えば、餓死に瀕して いる一家にあって、父親なり母親なりが、ついに子供たち いつになっても理解する力がないし、自分自身でそれに 参与することがないとすれば、これはもう必須のことで、自の苦痛がたえがたいものになると、その苦しみが見ていられ よいばっかりに、あれはどかわいがっていた子供たちを憎み 然の帰結なのだ」からである。つまり、この明瞭さが彼にと だすものである。のみならず、わたしは断言するが、苦しん どめを刺したのである。いったい不幸は那辺に存するのか、 彼は何を誤ったのか ? 不幸のもとはただ一つ、不死に対すでいる人類を助けることはおろか、せめてなんらかの利益な り苦痛の緩和なりをもたらすことについて、おのれの完全な 記る信仰の喪失である。 の しかし、彼は自身熱心に和解を求めている ( いな、生きてる無力を意識すると、この人類の苦悩を心底から確信してい その人の心いだいている人類愛が、人類に 作いる間じゅう求めたのだ、苦しみ求めたのである ) 。彼はそるだけに、 55 ノ