れは、いわば、人類の歴史を実験台上にのばして、再現して見 せたものであって、ドストエーフスキイの探求精神がますま ャす高邁になり、不敵な逞しさをおびてきたことを、如実に示 スすものである。ひとたび死を宣せられたドストエーフスキイ なればこそ、この物語を書きこの思想を主張する権利を有す 工 るのだ。形こそ小さいけれども、他の長編と相並んで、ドス ス トエーフスキイの芸術における一道標をなすものと思う。 一八七七年の『日記』には、そのほか純然たる創作はない けれども、五・六月号の第一章三『現代生活から取った暴露 サ 小説のプラン』は、ドストエーフスキイの創作の原型、もし ア くは胚子をうかがう好個のよすがである。単なる創作ノート から一歩すすめて、エスキーズの形をとったものと見られ、 ドストエーフスキイの仕事場の内秘を思わせる好資料であ る。同時に、オリジナルな形式をとった小説と見なしても、 一八七七年の「日記』を、例によって分類してみると、創決して無理なこじつけではない。 七・八月号第一章四の『裁判長の与えた架空の訓示』も、 作の部では、前にちょっと一言しておいた『おかしな人間の 夢』 ( 一八七七年四月第二章 ) が最も重要なページを形づくって奔放きわまりなきドストエーフスキイの創作的空想の所産で くる。主人公のおかしな男は、かのレールモントフのごとく、あって、『カラマーゾフの兄弟』の検事の論告と、弁護士の 生活の彼岸における美しい記憶を、生まれながらにして賦与弁論のエチ = ードであるかのごとき観を呈している。 されているがため、この世のあらゆるものが、あまりにも卑文学評論の方面では、トルストイの『アンナ・カレーニ 賤に、醜悪に感じられて、ついに自殺を決心するが、たまたナ』を論じた二月号第二章、および七・八月号の大部分が最 ま見た夢の啓示によって、更生の道に入る。この地下生活者も重要なページを成している。ドストエーフスキイは概し 説と一脈の共通点を有する主人公の心理も、ドストエーフスキて、トルストイの価値を高く評価していて、『未成年』の中 イ的な深みを蔵していることはいうまでもないが、一編の重でも、「幼年・少年時代』『戦争と平和』を対象として、かか 解点は、しかし、彼の見た夢そのものの中に含まれている。そるものこそ、真の家庭を写した本格的小説であると論じてい引
をもって迎えられた。彼はあらかじめ用意した草稿を朗読しの接近は完全な最後的のものではなく、祭典の歓びと感激と a たのであるが、しかしそれは機械的な朗読ではなくて、肺腑興奮に呼びおこされた一時的のものであったかもしれない をついて出る生きた熱烈な言葉であった。由来、名人芸をも が、少なくとも、ドストエーフスキイ自身もいっているとお って聞こえていたドストエーフスキイの朗読は、深い真実味り、彼の講演を契機として、スラヴ主義者のほうから、接近 と自然味を遺憾なく伝えたのである。 の第一歩が踏み出されたことは事実なのである。保守的国粋 彼が講演を終わった時の感激と興奮は、一一一一口語を絶するはど主義者であると同時に、西欧の高い文化に対して深い憧れ であった。うしろの幹部席に居並んでいた人々は、いきなり と、尊敬をいだきつづけてきたドストエーフスキイであり、 立ってドストエーフスキイを抱擁し、接吻した。中には聴衆早くから土地主義者と自称して、西欧派とスラヴ主義の融合 席から演壇に駆けあがるものさえあった。アグサーコフは彼を志したドストエーフスキイであってみれば、このプーシキ に向かって、「あなたの講演を聞いた後では、西欧派の代表ン記念祭で彼の演じた役割は当然の帰結というべきであろ 者であるツルゲーネフも、スラヴ主義の代表者と見なされてう。 いるわたしも、同じように最上級の同感と感謝を表明せざる を得ません」といった。やがて、彼は演壇に立って、「ドス 終刊号の第一章は財政論と銘を打ちながら、そのじっ思 トエーフスキイ氏の講演の後では、わたしの書いたものはす想・文化に関するあらゆる問題を論じ去り論じ米った文章 べてあの天才的な講演の貧弱なヴァリエーションにすぎませで、ドストエーフスキイ一流の巧妙な、一脈の諧謔をたたえ ん : : : フヨードル ・ミハイロヴィチの講演は、わが国の文学 、縦横無の発想法は、ここで十分にその特色を発揮して における、一つの事件であります」と述べ、自分の講演を不いる。第二章のアジアへの発展を高唱した文章も、彼の政治 必要として辞退したほどである。かくして、この祝祭に主役的達観の非凡さを証明するさらに新しき一例である。 を演じた中心的存在は、ツルゲーネフではなくしてドストエ 米川正夫 ーフスキイと決定されたのである。 トストエーフスキイのプーシキン論は、簡潔な言葉の中 に、この天才の芸術の意義を的確に指摘すると同時に、その 国民的特質と世界性・全人類性を強調することによって、こ れまでにらみ合っていた西欧派とスラヴ主義者の両陣営を接 近させた点に、大きな功績が存するのである。もちろん、そ
想を、自由に、心ゆくまで表現し得たのである。この書の真 髄は、社会評論的方面に存するけれども、しかし彼の作品に 対する作者自身の注釈や、過去の追憶などの随筆文学、それ から初期のそれとは比較にならぬほど深遠な思想に裏づけさ れた短編・中編の数々は、ひとえにこの「作家の日記』があ ったればこそわれわれに残されたのである。 作家の日記』は二つのグループに分けられる。その一は、 『作家の日記」について ドストエーフスキイが一八七二年の暮れに、雑誌『市民』 『作家の日記』《ÅHEBHHK flHCATEJIfl 》は量からいつの編集者となったため、かねて念願していた自分の随想を思 て『カラマーゾフの兄弟』の倍以上もあり、ドストエーフス うがままに発表し得る機会に恵まれ、翌年一月から十二月ま キイの労作の中でもきわめて重要なものである。ドストエー で連載したものである。 フスキイを完全に知悉する上からいって、この「日記』を逸第二のグループに属するものは、それから四年をへた後、 することは断じて許されない。それほど日記』はドストエ トストエーフスキイが「作家の日記』と題する個人雑誌を自 ーフスキイの創作において、小説とはまったく異なった別種費で刊行し、その誌面の全部を自身の文章で埋めたものであ の面をなしているのである。しかるに従来は、この『日記』 って、刊行が二年以上にわたっただけに、前者とくらべて分 は、ほとんどその中に混えられた短編・中編のためのみに読 量もはるかに多く、約五倍に達している。そして、政治・社 まれたのであって、ある評家などは「この茫漠たる砂漠の中会評論的なものは、ほとんど全部このグループに収められて グラジダニン る。まず最初に、ドストエーフスキイが「市民』に関係 から、わずかな黄金の粒を見いだすのは、容易ならぬ業であい る」などとまで放一一 = ロしている。思えば、ドストエーフスキイ した頑末を、一言のべておこう。 五か年にわたる外国生活から帰って来て、ペテルプルグに の本格的な研究は、まことに近米のことであるといわなけれ ばならぬ。 居を構えたドストエーフスキイは、財政的にもやや安定を得 『作家の日記』という、 しかしこの場合、日記なる言葉るにいたったので、かねての宿願である雑誌発行を計画した 説は約東的なものであって、その実これは日記ではなく、随 、資金関係で実現するにいたらなかった。彼はかって流刑 ヴ . レーミャ から帰京の後、兄と雑誌『時』および「時代』を経営したこ 想、批評、評 = ⅲ、倉作の集大成である。この中でドストエー とがあるので、この方面にも彼らしい抱負があったのであ B 解フスキイは、小説という枠の中ではしよせんゆるされない思 解説 グラジダニン
を後者の陣営に属するもののごとく書いたが、それは概観的 にはさして誤っていないとはいうものの、ここに多少の釈明 麸を加えなければならぬ。彼は一八六一年、兄ミ ( イルととも ヴレーミャ ポーチヴェンニキ ン に雑誌『時』を発行するにあたって、土地主義者と称する新 レ 語をつくって標語とした。これは要するに、西欧主義とスラ カ ヴ主義との折衷を意図したものであって、西欧主義にあって は西欧の近代物質文明と、権利にもとづく人間関係のみに眩 ル に、スラヴ派においては、外来のものを絶対に排斥せんとす ヴ る固陋な保守的態度を非としたのである。で、結局ドストエ 妹 ーフスキイは、西欧の文芸思想に含まれている精神的なもの を採り入れ、この光によって祖国における真に優れたもの る深い関心を証明する一つの顕著な例であって、彼の創作とを、明確に見きわめることを提唱したものである。しかし、 ポーチヴァ はまた趣きを異にした興味を喚起する文章である。 土地主義なる言葉は、土地から離れた知識階級への警告にカ さて、『作家の日記』の大部分を占めている社会・政治評点をおいたものである以上、ドストエーフスキイの好意と同 論の内容であるが、その対象として、取りあげられたのは、情が、より多くスラヴ主義のほうに傾いていることは、察す 小は市井の犯罪事件から大は国際的な政治問題をはじめとしるにかたくない。 て、当時ドストエーフスキイの目に触れ、耳に入った種々雑土地主義者としての彼の態度は、「作家の日記』時代にも ヴレーミャ 多な出来事であることはいうまでもない。 しかし、それらの変わりはなかった ( もっとも、土地主義という言葉は『時』 文章を貫いている一つの思想は、西欧とロシャ、インテリゲ以後、かって口にしなくなった。おそらくそれは、彼自身の ンチャとナロード ( 民衆 ) 、 しいかえれば、西欧主義とスラ つくり出した言葉でなく、アポロン・グリゴーリエフから借 ヴ主義の問題であって、ド ストエーフスキイが前者の否定者用したからでもあろうか ) 。しかし、この時代においては、 であり、後者の熱烈な主唱者であるのは、これまた論をまた西欧とロシャの対立の上で最も重要な役割を勤めているの ぬ。 は、ローマン・カトリック教に対するロシャ正教であり、ロ 筆者は西欧主義とスラヴ主義といい、ドストエーフスキイ シャが西欧に啓示すべき新しき真理である。この思想はすで 6 引 0
る。その頃ドストエーフスキイが新たに得た知友の中に、メの時間を浪費することに嫌悪を感ずるようになり、そのうえ 8 グラジダニン シチェールスキイ公爵なる青年貴族があった。彼は『市民』メシチェールスキイ公爵と意見の衝突さえみるにいたったた と称する週刊雑誌を創刊したが、僧侶階級や宮廷方面に多少め、一八七四年、ついに職を辞してしまった。 の購読者を獲得したばかりで、成績はあまり香ばしくなかっ 「市民』に掲載された日記の文章は、大たいにおいて追憶、 たので、公爵はドストエーフスキイを編集者に招聘すること文芸批評、社会批評、自作注釈、反駁文、政治評論、短編、 によって、勢力を盛り返そうと考えついた。なぜドストエー随筆、というふうに分類することができよう。しかし、十六 フスキイが、浅薄な反動派の雑誌に関係することを承諾した編の文章が、右に挙げた種目によって截然と分かれているわ かは明らかでないが、社会主義否定の立場をとっていたドスけではなく、追憶の中に人物月旦が混入したり ( 第二編『昔 トエーフスキイは、この雑誌を単なる反動主義でなく、自分の人々し、自作に対する釈明に終わったり ( 第四編『個人的 の特異な思想によって、深みのあるものになし得る自信があのことし、文芸批評が同時に社会批評であったり ( 第七編 ったものと想像せられる。 『受難の御顔』第十一一編『一つの新しい戯曲についてし、な しかし、作家である彼にとっては、煩瑣な事務的な仕事にどするのはもちろんである。 よって、さなきだに頑健ならぬ肉体を疲憊させ、貴重な創作 中でも、われわれにとって最も興味があり、かつ重大性を おびているのは、最後の『現代的欺瞞の一つ』であろう。こ れは社会時評的なテーマから出発している追憶文とも見なす べきものであって、そこにはドストエーフスキイを徒刑にま で追いやったベトラシ = ーフスキイ事件の回顧が語られ、社 、一の会主義からキリスト教への転向が告白せられてい、この偉人 キの思想を闡明するうえに、きわめて大きな暗示を投げかける フ ものである。 工 社会評論に属するものの中では、『ヴラス』も興味ある出 ス来事を捉えた好文字であるが、しかし最もドストエーフスキ イらしい特色を発揮した一文は第三編の『環境』であろう。 これは彼が四年後の『作家の日記』で一再ならず取りあげた、 刑事裁判事件に捧げられたものである。元来ドストエーフス M ・ F ・コテリニ
に収録した。一八七八年・ハルカン半島でスラヴ国民の独立戦が次々と刊行され、その部数は今日の標準から見れば驚くば田 がたたかわれ、ロシャもこれが援助のためトルコに対して兵かり小さなものではあったけれども、当時としては相当の収 を進めていたので、トルコ側の黒幕となっていたイギリスの入をあげたのである。 宰相ビーコンスフィールドに、この諷刺的戯文の征矢が軽く この生活の余裕と、出版刊行の便を有していた事実とは、 一筋放たれている。この・ハルカンの戦争が後年の『日記』に ドストエーフスキイをしてかねての宿願であった『作家の日 おいて、ドストエーフスキイの政治的論策の重大な契機とな 記』を、個人雑誌の形式で発行しようという計画をたてさせ ったことをも、ことのついでに一言っけ加えておく。 た。この計画はただちにアンナ夫人の賛成を得て、猶予なく 文芸評論の部に属するものとしては、前掲の『受難の御実行に移された。その事務にあたったのはもちろんアンナ大 顔』二つの新しい戯曲について』のほか、「展覧会に関し人で、彼女は印刷屋との交渉から、広告、購読申込みの受付 て』と『仮装人物』がある。後の二つは、取りあげた題材こけ、 発送まで、ひとりで切ってまわした。事務所は住居の一 そは小さいけれども、そこにはドストエーフスキイの根本的室がこれにあてられたばかりで、社員といっては走り使いの な芸術観が披瀝されていて、「日記』の中でも重要なページ給仕のほかにはだれもいなかった。こうして、一八七六年の をなしている。 一月に「作家の日記』創刊号が世に送られ、爾後一八七七年 十二月まで規則的に刊行されていった ( ただし夏李の七、 四か年の外国旅行を終えてペテルプルグに帰ったドストエ両月は合併号であった ) 。部数初め四千程度であったが、 ーフスキイは、その後一年一年と生活の安定を得て、過去の次第に反響が大きくなってゆき、二年目には六千部に達し 長い生活を通じて宿命であるかのごとき観を呈していた債鬼 とのたたかいも、この頃から次第に緩和されるようになった。 この華々しい成功にもかかわらず、ドストエーフスキイは 一八七四年の秋には、スターラヤ・ルッサという鉱泉地に居一八七八年および一八七九年の二か年にわたって、雑誌『作 を移して、小説「未成年』の稿を起こしたが、一八七六年の家の日記』を中断した。ほかでもない、畢生の大作『カラマ 春には、この鉱泉地に一軒の別荘を買い求めるほどの余裕が ーゾフの兄弟』の想が熟して、その準備と執筆に没頭しなけ ドストエーアスキイの財政がこのような立ち直りをればならなくなったからである。一八八〇年八月、臨時号の 見せた最も大きな原因は、アンナ・グリゴーリエヴナ夫人を形で「作家の日記』がただ一冊だけ発行された。それは六月 おもな経営者とする自費出版の事業であった。「虐げられしモスクワにおけるプーシキンの銅像除幕式を機として、「ロ 人々』『死の家の記録』「罪と罰』『白痴』「悪霊』などの旧著シャ文学愛好者協会」の催した記会講演会の席上で、ドスト ? ) 0
トルストイの農民観、時局観を主として取りあげて問題と るが、この日記でも「命名日にあたる人』 ( 一八七七年一月第 し、小説的内容に関する批評よりも、社会的論評としての言 二章四 ) の少年自殺者を論じて、やはり『少年時代』を引き 説により多くのページを割いている。しかも、その社会的問 合いに出している。 トルストイがドストエーフスキイの芸術に対もて、冷淡で題が、当時のドストエーフスキイにとって最大の関心事であ この あるかのごとき印象を与えたのに反して、ドストエーフスキるパルカンの戦争に凝集したのは、怪しむにたりない。 点において、普通の意味の文芸批評を期待する読者は失望を イはこの同時代の作家に対して最大の敬意をはらっていた。 七・八月号ではこの小説の最終編 ( 第八編 ) が単行本として感ずるかもしれぬが、これを独得のトルストイ論として見る 出版されたのを機として、ふたたびこの傑作にページを割く時は、教えらるるところきわめて多いのをさとるであろう。 たとえば、レーヴィンを評して、ネクラーソフの「ヴラ ことを必要と感じたのである。彼は『アンナ・カレーニナ』 の完成をもって、ロシャが西欧に向かって誇り得べき独自のス』のように、偉大なる感激と恐怖に駆られておのれの財産 ものであるという友人 ( おそらくゴンチャロフ ) の一一 = ロ葉に満を他人に分かち与え、よしや神の教会の建立に寄付を勧進に 腔の賛意を表しながらも、同時に思想家としてのトルストイ出かけないまでも、何かそれと同じような功業を行なうに相 違ないと断言している。「アンナ・カレーニナ』のレ 1 ヴィ の偏狭性を認めずにはいられなかった。 ンが、ほとんど完全な意味におけるトルストイ自身であるこ 司アンナ・カレーニナ』の作者は、その偉大な芸術的才能に 、、十っ とは、発表当時から周知の事実であったことを思えば、ドス もかかわらず、ただ自分の目の前にあるものだけしカ トエーフスキイのこれらの言葉は、宗教的転機後のトルスト きり見えないので、ただその一点だけをひた押しに押して行 く、そういったようなロシャ的知性の所有者なんですね。わイ、なかんずく、最後の家出にそのままあてはまるではない か。この予言こそはまさに適中したものというべきである。 きのほうに立っているものを熟視するために、首を左右に向 なお、文学評論の部に属するものとして、二月号第一章一 けるということが、明瞭に不可能なので、そうするためには 体ぜんたいを、胴体ぜんたいを、くるりとまわさなくちゃなの、『西方スラヴの歌』 ( プーシキン ) が取りあげられる。こ らないんです」という驚くべき肯綮をうがった評言は、『作れは例によって、スラヴ問題との関連において論じられたも 家の日記』 ( 一八七七年七・八月第一章一 ) の中では対話者の言のではあるけれども、作品論としての興味をも十分に備えて 苺となっているけれども、わたしはメレジュコーアスキイと ともに、ドストエーフスキイ自身に帰するものである。 九月号第二章一「虚偽は虚偽によって救われる』も、ドス エフスキイのドン・キホーテ観として、貴重なページで そこでドストエーフスキイは、レーヴィンに託されているトー 516
「この論文は、わたし自身の見解と確信とにいかにも一致し こり、トルコ政府は叛軍鎮定のために軍隊を出動させた。長 ているので、わたしはところどころ自分たちの結論に差異の いあいだ力の捌け口を見いだせないでいたロシャの愛国心 ないことを発見して、驚嘆している次第です。わたしはもう は、これを機として旺盛な活動を開始した。チェルニャーエ 二年も前から、自分の思想を断片的に書きつけてきました。 フ将軍を指揮者とする義勇軍の出発、新聞や慈善団体による というのは、きわめて似かよった標題で、同じ傾向、同じ論義捐金の募集等、同胞でありかっキリスト教徒であるスラヴ 法の文章を書こうと思ったからです。わたしがいっか実現し民族を、異教徒トルコ人の暴虐より救済せよとの叫びは、非 ようと望んでいた計画は実現されました。しかも、わたしが常な勢いでロシャ全国にひろがっていった。こうして、農奴 書こうと思っても書けないほど、理路整然と見事な調和の中解放者たるアレグサンドル二世の政府は、一八七七年、スラ に実現されているのを見ると、驚喜せざるを得ません」 ヴ民族解放を名として、トルコに戦いを宣した。 ドストエーフスキイ自身もいっているとおり、彼は『ロシ 当時、ロシャのインテリゲンチャの大部分は、反戦的な気 ヤとヨーロッパ』の中に、なに一つ新しいものを発見したわ分をうちに蔵して、懐疑論を口にしていたにもかかわらず、 けではあるまいが、おそらく自分の所信に科学的裏づけを得 ドストエーフスキイは満腔の熱意をもって、この戦争を歓迎 たような気がしたに相違ない。なにぶんにもグリミャ戦争のし、支持したのみならず、「コンスタンチノープルはわれら 失敗 ( 一八五五年 ) とポーランドの叛乱鎮圧 ( 一八六三年 ) によのものたらざるべからず」という主張をはばからず堂々と高 って、ロシャに対するヨーロッパの反感憎悪はようやく深刻 唱したのである。この叫びは、「歴史のユ ートピア的解釈』 化して、ロシャ人の愛国心は数々の苦悩を味わなければなら ( 一八七六年六月第二章四 ) にまず第一声を発し、さらに翌一 ぬ時だったので、時宜を得たダニレーフスキイの論文の出現七七年の日記においても、一再ならずくり返された。それが は、彼にとって溜飲の下るような思いだったろうと想像されために進歩主義の論者から、度すべからざる好戦主義者、侵 ひんしゆく る。ことに一八七六年、ちょうど「作家の日記』の創刊の年略論者として蹙されたのはいうまでもなかろう。 に勃発したパルカン戦争は、この論文の思想にさらに拍車を最高の意味におけるレアリストであったドストエーフスキ ゝけ、これを事実によって肉体化せんとする要求にまで駆り が、はたしてツアーリの政府のコンスタンチノープルに対 立てたのである。 する侵略的野心を疑うことなく、ナイーヴにこの宣戦を単な この戦争のロ火を切ったのは、一八七五年へルツェゴヴィ る人道的同胞愛を動機とするものと信じていただろうか ? ナとモンテネグロにおこった叛乱であって、つづいて翌年プわれわれはこれに対して「しかり」と答えるには、あまりにも ルガリヤにも、トルコの暴圧政治に抗する大規模な叛乱がお ドストエーフスキイの複雑さを知りすぎている。おそらく、
彼は自分の宗教的・人道主義的ュートビアと、政治的現実とつの見事な贈物を捧げられたことである。ほかでもない、十 の斬りむすぶ一点に、なんらかのより良きものが生まれ出る一月の全巻が小説「おとなしい女』にあてられたのである。 登場人物わずか両三人の単純な物語ではあるけれども、その ものと期待していたのであろう。 心理的深みは、まさしく円熟の極に達したドストエーフスキ なおそのほか、謙抑なキリスト教愛の宣伝者であるドスト エーフスキイが、たとえ『逆説家』 ( 一八七六年四月第二章二 ) イの世界であって、前半の『百姓マレイ』が追憶小品とし に藉ロしているとはいえ、極端な戦争讃美論を力説しているて、掌編としての極致であるのに対して、これは小説家とし こと、ロシャのインテリゲンチャとともに貴族地主階級の攻てのドストエーフスキイが、心血をこめて完成した短編の代 撃者である彼が、その温床となっていた独裁政体の擁護にこ表的なものであり、量においても価値においても、一八七七 れ努めていること、西欧を憎悪しながらも、同時に西欧をわ年四月号にかかげられたおかしな人間の夢』と好一対をな れらの第二の故郷と呼んでいること、ーー等々の矛盾も、ゲすものであろう。なおそのほか、十月号の『宣告』も当然、 スの創作の一つと数えてよかろう。この創作されたる自殺者の遺 ルツェンによっていみじくも引用された有名なヘロドト トの手記を想起せしめ 書は、『白痴』に出てくるイツポリー 言葉 , ーー「蜥場の目をもった野蛮人」では片づけきれない、 るが、同一の思想がここではさらに尖鋭化され、もはや不可 複雑微妙なものを含んでいる。 一八七六年の後半に書かれた『日記』も、大たいにおいて能というところまで圧縮されている。 前半と大差ない。すなわち、文化一般、文学、政治、社会等七・八月号の『現代の婦人に恩恵を受けた男の一人』は半 の間題を扱った論文、随筆的性質のもの、創作、といったふば風俗批評、半ば創作的性質をおびた文章で、かの四月号に うに区分することができるが、そのうち最も多くのページを現われた逆説家との対話の形で書かれているが、その発想法 占めているのは、やはり政治関係の文章である。というのは『カラマーゾフの兄弟』におけるイヴァンと悪との会話 一脈通じるところがある。 は、前に述べたパルカンの戦争が次第に進展していって、つ 一言しておいたカイーロ 社会問題に属するものでは、前に いにロンヤ政府軍の出動すべき気運が近づいたからである。 随筆的文章は、七・八月号のドイツ紀行を中心として、かヴァの継児殺し米遂事件を論じた文章が、十月号と十二月号 に、『単純な、しかし厄介な事件』と題して収められている。 なり豊富ではあるけれども、これまた単に趣味を語るていの ドストエーフスキイは被告の無罪を主張したが、その透徹し 説いわゆる随筆と異なって、ほとんどみな文化批評的な角度か 心理考察は、いかなる弁護士の弁論にもまして司法当局を ら書かれたものばかりである。 いったんシベリヤ懲役の宣告が下されたにもかかわ この巻で最も特筆大書すべきは、創作の領域において、一動かし、 解 513
解説 に」。白痴』『悪霊』の頃から鋒鋩をあらわしていたが、冖 彼をし人も知るごとく、四十年代のスラヴ主義は西欧主義と同様 てこの思想に確固不動の態勢をとらしめるにいたったのは、 に、ドイツの理想主義哲学を母胎として生まれたものである そこにある外的影響を認めなければならぬ。というのは、一が、六十年代の終わりから七十年代にかけては、もはやそう 八六九年、彼が外国旅行中に小説「永遠の夫』を寄稿したこした抽象的なものに満足することのできない、実証主義的科 とのある雑誌『曙』に掲載された Z 。—・ダニレーフスキイ学的時代となっていた。この時代的要求に応じて、スラヴ主 の論文「ロシャとヨーロッパ』である。これはかのベトラシ義に厳密な科学的基礎を与えようとしたのが、ダニレーフス エーフスキイの研究会に所属していた熱心なフーリ エリストキイの『ロシャとヨーロッパ』であって、そこにこの書 で、ドストエーフスキイとともに検挙されたが、出獄後転向 リャー』掲載後まもなく単行本となって、一八八八年にはす して、スラヴ派の陣営に加わり、アグサーコフ、ホミヤコフでに三版を出している ) の成功の原因が存している。しカ の後を受けて、指導的位置に立った。右に挙げた『ロシャと し、この厳密なる科学的基礎づけなるものは、表看板だけの ヨーロッパ』は、当時のインテリゲンチャの右翼に非常な ものであって、結論ははなはだしく主観的な、むしろ空想的 影響を与え、スラヴ主義の法典とさえも呼ばれたはどであなものに堕し終わっている。 る。 ダニレーフスキイにいわせれば、ヨーロッパ文化は十六世 紀、十七世紀において精神的頂点に達し、十九世紀にいたっ て物質的頂点をきわめたので、今やすでに崩壊の前夜にのそ んでいるが、それに反して、スラヴ文化は若々しい強健新鮮 な力を中に蓄えているから、老朽したヨーロッパ文明に代わ って、将来の世界歴史において主役を演じるべきである。そ のさい、スラヴ諸民族はロシャを盟主に頂いて連邦を組織 たーいは、 ギリシャ正教の大旆を翻えし、その総本山たるソフィャ 大伽藍の所在地であるコンスタンチノープルを、すべからく 連邦の首都となすべしというのである。 この論文は、当時フローレンスにあったドストエーフスキ イにも、異常な感銘を与えた。彼は親友である詩人アポロ ン・マイコフに宛てた手紙の中で、次のようにいっている。 キ 工 ス レ ン ア