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検索対象: ドストエーフスキイ全集15 作家の日記(下)
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1. ドストエーフスキイ全集15 作家の日記(下)

し止めておいたのに ! ばくはイギリス女を雇うことにきめを生むものである。なぜなら、かような時代にあってはただ 8 た、が、それでもうまくゆくかしらんて ? 」それから、もう少数の人のみが、明瞭に自己の前方を視、進路を踏みはずさ 一人の紳士は、やっと十五になるかならないかの男の子に、ずにいられるからである。大多数のものは混乱に陥って、糸 自分で情婦をさがしてやっているのである。「そうしないと口を見失い、最後にはめんどうくさいと手を振って、「え ね、あなた、例の恐るべき少年の悪癖がひどくなるか、それえ、勝手にしろ ! だれひとり満足になんにもものがいえな でなければ陋巷へ足を踏み入れて、悪い病気を背負い込んで 、のに、義務も糞もあるものか ! まあ、自分一人だけがよ 来るかもしれませんからね : いや、その点をあらかじめちんとか生涯を終わればけっこうなほうで、義務どころのさわ ゃんと保証してやっといたほうがいいです : : : 」さらにまたぎかい」こういった怠惰組は、もし金持ちであれば、ちゃん ある人は、十七歳になる息子に最も尖端的な、「思想」を吹と自分のすべきことを実行する。子供たちにいいなりをさ き込んだので、息子のほうは自然の道理として ( なぜなら、 せ、うまいものを食べさせ、保姆や家庭教師を雇って、つい 生活と経験をさきくぐりしたある種の知識から 、、かなる結には大学にまで入れるかもしれない、 カ : : : そこには父親は 果が生じるかは、わかりきった話だから ) 、この尖端的な ( 時なかったのだ、家庭はなかったのだ。青年は一人ばっちで人 としては非常に立派な ) 思想を、「もしなに一つ神聖なもの生へ踏み込んで行く、彼は心で生活しなかったので、彼の心 がなければ、どんな穢らわしいことをしてもかまわない」とは過去、家庭、幼年時代と、なにものによっても結ばれていな いうほうへ持っていくのである。かりにこの場合、父親のほ それにまた、こういうことも考えなければならない。な うが熱くなりすぎたのだとしても、彼らの多くがこの熱を何にぶん、今いったのは金持ちの話で、彼らには生活の余裕があ かまじめなもの、たとえば思想なり、苦痛なりで証明しただる。しかし生活に余裕のある人たちがそれほど多数を占めて ろうか ? そういったような人々が、わが国にたくさんいる いるだろうか ? 大多数、おびただしい大多数は、これこと だろうか ? いな、大多数の場合は他人のロ真似をした自由ごとく貧しい人々であり、したがって、父親が家庭の義務に 主義的なせせら笑いのみである。そこで、子供はいっさいの対して怠慢であれば、子供らはもうまったく偶然にゆだねら ものにかてて加えて、父親に関する滑稽な記憶とその滑稽なれてしまうのだ ! 父親の困窮と不安は、幼年時代から陰惨 面影を人生へ担っていくのである。 な光景として、時には生命を毒する追憶として、彼らの心に しかし、これは「まめ」な父親たちであって、彼らの数は反映する。子供らはずっと老年にいたるまで、父親の浅はか それはど多くない。比較にならぬほど多いのは怠惰な父親たさ、家庭内のい、争論、非難、苦い譴責のみか、よけいな ちである。すべて過渡的な腐敗した社会状態は、怠惰と倦怠養い口である子供らに向けられた呪いの言葉すらも思い起こ

2. ドストエーフスキイ全集15 作家の日記(下)

て来たもとのなっかしい地球に対する、やむにやまれぬ烈し ら待っていた。すると、ふいに、なにかしら馴染みのある、 い愛情に身をふるわせながら叫んだ。かって辱しめた哀れな ・はげしく呼び招くような感じが、おれの全心をゆすぶった。 見ると、思いがけなく、わが太陽が目にはいるではないか ! 娘の面影が、おれの眼前をひらめき過ぎた。 おれは、これがわれわれの地球を生んだわれわれの太陽であ「なにもかも今にわかるよ」とおれの道づれは答えたが、そ り得ないことを知っていた。おれたちは、われわれの太陽かの言葉の中には何かある哀調が響いていた。しかし、おれた ら、無限の距離にへだてられているのだ。にもかかわらず、ちはぐんぐんとその遊星に近づいた。遊星は、見ているうち おれは自分の全存在をもって、これはわれわれの太陽とまっ に大きくなってきて、おれは大洋を見分け、ヨーロッパの輪 たく同じようなものである、その反覆であり、双生児である郭を認めるようになった。とふいに、なにかしら偉大な、神 ということを知った。甘い呼び招くような感情が、おれの魂聖な嫉妬とでもいったような、不思議な感情がおれの心に燃 の中で歓喜の曲をかなではじめた。光、おれを生んだ光のなえあがった。「どうしてこんな反覆があり得るのだろう、ま つかしい力が、おれの心の中に反応し、それをよみがえらしたいったいなんのためなのだ ? おれはただおれの見棄てて た。おれは生命を感じた。墓に入って以来はじめて、もとの来た地球を愛するのみだ。忘恩なおれが心臓に撃ち込んだ一 発の弾丸で、われとわが生命の火を消したときの、おれの血 生命を感じた。 「だが、もしあれが太陽だとすれば、われわれの太陽とまつのしぶきが残っているあの地球のみしか、愛するわけにゆか たく同じものだとすれば」とおれは叫んだ。「いったい地球ない。おれは決して一度だって、あの地球を愛することをや はどこにあるのだ ? 」すると、おれの道づれは、闇の中でエめはしなかった。あの夜だって、生命に別れを告げながらも、 いつにもましていっそう脳ましく、地球を愛していたかもし メラルドのような輝きを放っている小さな星をさし示した。 れないのだ。いったいあの地球にも苦悶があるだろうか ? おれたちはまっすぐにそのほうへ飛んで行った。 われわれの地球では、真の愛はただ苦悶とともに、苦悶を通 「いったい宇宙にはこうした反覆があり得るものだろうか、 : もしあしてのみ味わうことができるのだ ! われわれはそれよりほ いったい自然の法則とはこういうものだろうか ? : かの愛し方ができず、それ以外の愛を知らない。おれは愛せ すこに地球があるとすれば、それはわれわれの地球と同じも のだろうか : : : あれとそっくりそのまま、不仕合わせな、貧んがために苦悶を欲するのだ。おれは今この瞬間、涙を流し 記しい、しかし永久に愛すべき貴いものであって、自分の最もながら、おれの見棄てて来たあの地球に接吻したい、ただあ の忘恩な子供たちの心にさえ、苦しい、愛着の念を呼びさますの地球のみを渇望する、そのほかの生活なんか望まない、い 作力を持っているのだろうか ? : : : 」と、おれは自分の見棄てっさい受けつけないー 227

3. ドストエーフスキイ全集15 作家の日記(下)

り、自暴自棄的なものであるが、刻下の問題はその実質に存の結論さえ生じてくるのだ。もし生活の経験のない青年が、 するのではなく、この理念が現に存在し、生きた生命をもつやがてそのうちに一個の英雄となろうと空想しているとして て生きているということであり、これを宣伝する人々は、フも、それがいったいなんだろう ? 誓っていうが、おそらく ランスの大半を占めているその他の人々のように、懐疑や意は、こうした尊大な思いあがった空想のほうが、年歯十六に 気消沈を感じていないということである。それから、一方、して早くも「静かな幸福のほうが英雄になるよりましだ」と いう処世訓を信じている他の少年の賢い分別よりも、はるか イギリス人を見てみたまえ。上層下層、貴族または労働者、 に人間を生かす力を持った、有益なものであるかもしれない 学者あるいは無教育者、ありとあらゆるイギリス人を個別に のだ。たとえ分別のある少年が、一生ビロードを着て暮らす 観察すると、彼らの一人一人がまず何よりも第一に、イギリ ス人たらんと努め、私的たると、社会的たると、政治的たる運命を担っていようとも、その竹馬の友である青年の生涯の ほうが、多くの不幸と失敗を重ねた後でさえも、仲間の平穏 と、一般人間的たるとを問わず、いっさいの生活様式におい て、イギリス人としての体面を保とうとしているのを、確信無事な生活よりも、全体としてはやはり美しいのである。こ することができる。彼らは人類を愛するのさえ、イギリス人うした自己信頼は、決して不道理でもなければ、唾棄すべき らしい体裁を備えたものにかぎるのである。 空自慢でもない。国民とてもまったくそれと同じである。分 人あるいはいうであろう、 たといかりにそうであるに 別に富んだ、正直な、中庸を得ておちつきのある、しかも熱 もせよ、何から何までわたしのいうとおりであるにもせよ、 烈な希求を持たぬ国民、例えば、商人と造船業者を主とした かような自己瞞着と過大自負心は、それらの大国民にとって国民があって、裕福に、きわめて身ぎれいに暮らしているの むしろ恥辱であって、その中に含まれたエゴイズムと、偏狭はいっこうにさしつかえない。それはまあそれで、勝手にや な愛国主義によって、彼らの価値を減じ、彼らに生活力を添らしておいたらいいのだが、そんなのはたいしたことはしで えるどころか、かえってその生活を出発点においてそこな かさない。彼らは人類になんの貢献もしない凡庸で終わるだ 堕落させるだろう、と。そうした気ちがいじみた尊大なろう。彼らにはあの激しいエネルギーがない。彼らにはあの 思想は、模倣するどころか、むしろ偏見を撲滅する理知の光偉大なる懐疑がない。彼らの足下には、すべての偉大なる国 をもって絶滅すべきである、とこうもいうであろう。これは民をささえている、かのゆらゆら動く三匹の鯨がいないので ある。われこそは世界に向かって最後の言葉を発しよう、と 一方から見ると、大いにもっともであるとしておこう。が、 のそれにしてもやはり、別の半面から観察することも必須であ いう意志があるのみならず、これを発することができるとい 作る。そうすれば、ただに恥辱でないばかりか、ぜんぜん反対う確信、自分たちのいきいきしたカの余剰で、ついに世界を

4. ドストエーフスキイ全集15 作家の日記(下)

とに、今まで国民的要求のエゴイズムで、各国民の自由な交 一新するという確信、自分たちの理想は神聖なものであると いう確信、人類に対する自分たちの愛と、これに奉仕せんと流を妨げていた自然的障害や偏見が一掃され、各国民はその - よ・つばう かかる確信こ時はじめて理知と愛とによって、共通の調和に志しながら、 する翹望が力強いものであるという確信、 そは、国民の高遠なる生活に対する保証である、ただこれに同胞のごとく、一心一体となって生活しはじめるものと信じ よってのみ、その国民はおのれの使命をはたして、人類に公ているのだ。諸君、はたして諸君の抱懐していられるこの信 益をもたらすことができ、創国以来、天から予定されていた 仰以上に高尚で、神聖なものがあり得るだろうか ? 何より とおり、自己の生命力の一部分と有機的理念を、未来の人類にもかんじんなことは、この信仰が世界中どこをさがしてもま 受け継がすことができるのである。かくのごとき信念によっ たと二つ見つけられないということである。例えば、ヨーロ てかためられた国民にして、はじめて高遠な生活にたいするツバの国民にしても同じことなので、ヨーロッパでは国民の 権利を有しているのである。古い伝説の騎士は、ただ「正義、個性が、あまりくつきりとした輪郭を有しているので、よし 純潔、清貧」の誓いを忠実に守りさえすれば、あらゆる障んばこうした信仰があるとしても、要するに、思弁的な自覚 へんげ という程度にすぎない。それは烈々火のごときものであるに 害、妖怪、変化も彼の前に影を消し、自分はすべてのもの、 すべての人に打ち勝って、いっさいを獲得することができるもせよ、結局、書斎的自覚以上には出ないのである。ところ が、諸君にあっては、いや諸君ではない、われわれにあって と信じていた。こんなことをいえば、なに、それは単なる伝 説であり詩であって、そんなものを信じるのは、ドン・キホは、われわれすべてのロシャ人にあっては、この信仰が一般 ーテ一人ぐらいのものだ、現実の国民生活の法則はそんなも共通の生きたものであり、最も重要なものである。わが国で のではない、 とこう反駁されるに相違ない。い や、それならは万人がこれを信じている、意識的にも、素朴な形でも、知 民衆は生き ば、ひとつ、わたしがわざと諸君をとっちめて、諸君も要す識人の世界においても、一般民衆の間でも、 るに、同じようなドン・キホーテにすぎず、諸君自身も同じる直感をもって、これを信じているのだ。宗教もまた彼ら に、これを信ぜよと命じるのである。諸君よ、 いったい諸君 ようなおのれの信する理想を持っていて、それによって人類 を更新させようと思っているのだ、ということを証明して見は、われこそはロシャの全知識階級の中の「普遍的人間」で せよ、フ ! あって、他の人々は単にスラヴ主義者か、あるいは民族主義 ほんとうのところ、諸君はいったい何を信じていられるの者にすぎないと思っていられたのか ? が、実はそうではな か ? 諸君は ( わたしも諸君とご同様であるが ) 、一般人間 スラヴ主義者や民族主義者も、諸君とまったく同じもの 性を信じていられる。つまり、いっかは理知と自覚の光のもを信仰しているのだ。いオ よ、むしろ諸君よりさらに固な〕信

5. ドストエーフスキイ全集15 作家の日記(下)

作家の日記 中風にやられて臥つかないのか ? 克服し、おのれを鎮撫せよ、さすれば、かって想像したこと もないほど自由な身となって、偉大な仕事をはじめ、他人を も自由にして、やがては幸福を望むことができるだろう。なと叫ぶところなどは、とくにしかりである。 しかし、いま物語のはじめにあたっては、彼はまだ半分伊 ぜなら、汝の生活が充実して、ついには自国の民衆と、その 聖なる真実を理解するからである。もし、汝自身が第一にそ達者で、社交界の紳士であり、十分この人生に幻滅を感じる には、まだあまりにも生活経験が少なかった。しかし、彼の れに値しない、意地わるな、傲慢な人間であって、ただ生命 を要求し、それに値をはらわなければならぬことさえ知らずところへもまた早くも にいるならば、世界的調和はジプシーの群れにも、またその ひそかなる倦怠のお上品な悪魘 ほかのどこにも見いださないだろう」問題のかかる解決は、 プーシキンのこの叙事詩の中に、もうはっきりと暗示されて いるが、それは「エヴゲーニイ・オネーギン』の中にさらにが訪れて、不安を感じさせるようになるのである。 へきすう 祖国の中心ともいうべき僻陬の地に閉じこもっても、彼は 明瞭に表現されている。これはもはや幻想的なものでなく、 手にふれ得るがごとく現実的な叙事詩で、その中にはロシャもちろん、わが家におちついているような気がしない。彼は こま見られなかったよそこで何をしていいかわからず、われながら自分の家にい のほんとうの生活が、プーシキン以前し。 うな、またおそらくその以後にも見られないであろうようなて、客にでも来ているような気がするのだ。その後、憂愁に 駆られて、故郷や外国の土地土地をさまよいはじめた時も、 創造力と、完成味をもって具象されているのである。 これは疑いもなく聡明で、疑いもなく誠実な人間である彼は、なお オネーギンは、ペテルプルグからやって来る、 これは一編の叙さら自分がわれながら他人であるように感じたものである。 必ずべテルプルグからでなければならない。 もっとも、彼とても故郷を愛してはいるけれど、それを信頓 事詩の中に、ぜひとも必須な事柄であって、プーシキンは、 しないのである。もちろん、祖国の理想についてもうわさは 自分の主人公の伝記におけるかほど重要な現実的特質を、見 のがすわけにゆかなかったのである。もういちどくり返す聞いたが、それを信じようとはしない。彼が信じているの は、何事にもあれ祖国の耕地で仕事をするのは完全に不可能 が、これは依然たるかのアレーコであって、ことにその後、 だ、ということばかりである。この可能を信じているものが 彼が憂愁に駆られながら、 それは当時も今と同様に少数ではあったが、 あれば、 彼はもの悲しい嘲笑を浮かべて、それらの人々を眺める なぜおれはトウーラの議員のように 417

6. ドストエーフスキイ全集15 作家の日記(下)

ゆかないではないか 。しかし、わたしとしては、わが社会の敵視することによって、自分自身と自分の活動を変態的な状 生活におけるきわめて重大な、意味深き瞬間が歪曲され、誤態に陥れているのであるが、もし一致協定すれば、すべてを って説明されるのを見るのが、たまらないのである。わたし高め、すべてを救い、無限の力を呼びさまし、新しい、健 の奉仕している理念が、街上を引きすりまわされているのを全な、偉大な、未曾有の生活に、ロシャを誘導することがで 見るのが、たまらなかったのだ。現にきみはそれを引きずりきるかもしれないのである ! まわしたのである。 わたしは四方八方から、わたしのに比較すればかなり短い きみの論文に対して、こんなに長い文章を書くのは滑檮でも あるし、またそれだけの値うちもないという意見が出るの は、百も承知である。くり返していうが、きみの論文は、た だきっかけとして役立ったにすぎず、わたしとしては一般的 に、なにやかや胸中を吐露したかったのである。わたしは来 年から『作家の日記』を復活させる意向であるから、本号の 「日記』は将来に対するわたしの、 profession de foi ( 信条 告白 ) として、いわば、試験的のものとして役立たせたいの である。 なお、わたしがきみに答えを書いたことによって、モスク ワでなした自分の「演説」の意味を完全にぶちこわしてしま った、という人があるかもしれない。なるほど、あの演説の 中では、わたし自身、ロシャの両党派の和睦と提携を首唱 、、、、しかし一、つ、まっ し、各派の合理性を認めたに相違なしが たく違う。「演説」の意味は決してぶちこわしになってはい ない。のみならずむしろますます強固にされたくらいであ る。なぜならば、わたしはきみに対する答えの中で、次の思 想を明らかにしたからである。両党派は互いに相乖離し、相

7. ドストエーフスキイ全集15 作家の日記(下)

家的に領有しようという野心に化してしまっているのだ。カれ、もしそれが実現すれば、その後はたしかに人肉嗜食の時 トリッグを信ずる人類が、彼らのキリストと称して表示する代が再来し、人類は一万年前と同じように、またそろなにも 妖怪的な姿にあきれて顔をそむけた時、幾世紀かの間プロテかも初めからやり直さなければならなくなるだろう。カトリ ックはこれをすっかり呑み込んでいるので、巧みに地下潜行 スト、宗教改革、等々がつづいた後、ついに現世紀の初頭か ら、神とキリストを抜きにして、生活の建て直しをしようと闘争の指導者を誘惑するだろう。彼らは彼らにいうだろう。 きみ 「きみがたは事を行なうのに中心がない、秩序がない、 いう試みが現われた。 蜜蜂や蟻のごとく、誤りなく正確に蜂窩や蟻塚を建設するがたは全世界に分散したカである。ことに今はフランスの没 本能を持たないくせに、人々は一種人間的な正確無比な蟻塚落によって圧伏されている。だから、われわれが諸君の統一 を建設せんとする望みをおこした。神から発して、天啓によ力となって、まだわれわれを信じているすべてのものをひき って人間に告知された唯一の救いの公式、すなわち「すべか寄せてあげる」とまれかくまれ、提携は成立する。カトリッ らく隣人をおのれみずからのごとく愛せよ」という掟を斥けクは死滅を欲しないし、社会革命と新しき社会制度の時代 て、 Chacun pour soi et Dieu pour tous ( 各自は自分のためは、間違いなくやってくる、こうして、二つの勢力は疑いも 神は万人のため ) といったような実際的結論や「生存競争」となく協定し、二つの流れは相合するだろう。もちろん、カト リックにとっては、 ~ 聊りへロい 流血、掠奪はいうもさらな いったたぐいの科学的公理に、取り替えてしまったのであ る。動物がそれによって生活し、かっ、誤りなく自分の生活り、人肉嗜食ですら有利なのである。つまり、そこで、彼ら を組織している本能を持たないくせに、人間は傲然と科学にとしては、水の濁った隙に乗じて、もういちど自分の魚を鉤 にかけるあてが出てくる。混沌と無秩序に悩み抜いた人類 望みをかけ、社会創造のような大事業のためには、科学など が、カトリックの抱擁の中に飛び込むと、その時こそカトリ おしめ時代同様の状態にあることを忘れたのである。さまざ ックはふたたび「地上の君主となり、この世の権威となる」 まな空想が現われた。未来のパベルの塔は全人類の理想とな ったが、また一方その恐怖ともなった。けれど、間もなく空しかも、今度こそは完全に、現実に、だれとも分け合うこと なく、すべて一人占めになり、それでいよいよ自分の宿望を 想家の後から、もっと単純な、だれにでもわかりいい牙な 教義が現われた。「金持ちを掠奪して、世界に血を流す、それ達する、そういった瞬間を予感するからである。この絵巻物 記からさきはなにもかも、なんとか自然とおさまるだろう」、とは、悲しいかな、幻想ではないのだ。わたしは断然確言する のいったようなたぐいである。それから最後に、これらの教師が、西欧ではすでにきわめて多数の人々が、この光景を透視 作たちよりも進んだのが出て来て、無政府主義の教えがあらわしているのである。おそらくドイツの支配者たちも透視して

8. ドストエーフスキイ全集15 作家の日記(下)

さと、不断の心配以外に、はたしていかなる利益をロシャにあろう。初めは災厄の場合にロシャの援けを求め、やがては もたらしたか ? そのふところに帰り、ついには完全な小児のごとき信頼をい これに対する答えは目下困難であって、明瞭なものではあだいて、離れ得なくなるに相違ない。一同は生みの巣へとも どって来るのだ。おお、多くのロシャ人の間には、今でもさ り得ない。 第一、ロシャには周知のごとく、スラヴ民族を犠牲にしてまざまな学術的・芸術的な見解が存在している。これらのロ 自国の領土をひろげようとか、政治的に彼らを併合しようと シャ人は、解放されて新生活に更生したスラヴ国民が、ます か、彼らの土地で県をふやそうとか、そういったような考え生みの母であり解放者であるロシャに密着して、やがて疑い はもうとうないし、また決してあり得ないのだ。すべてのスもなく、ロシャの生活に未曾有の新しい要素をもたらし、ロ シャのスラヴ精神、ロシャの魂を富ますばかりでなく、ロシ ラヴ民族は、現在でさえも全ヨーロッパとひとしなみに、ロ シャがこの野心を持っているように疑っている、これから百ヤの言語、文学、創作にさえ影響を与え、精神的にロシャを 年さきも、依然として疑いつづけるだろう。しかし、神はロ豊富にし、新しい視界を示すだろう、とこういうふうに期待 シャを守護して、かかる野心を抑えたもうであろう。ロシャしているのである。白状すると、わたしにはいつも、これが がスラヴ族に対して、完全な政治的無私無欲を示せば示すほ学者の心酔から出たものでしかないような気がしていた。実 ど、長い世紀の間には、百年もさきには、自己の周囲に彼ら際のところは、もちろん、それに類したこともおこるのは、 を団結せしめる可能性が、ますます確実になるだろう。それ疑いをいれないけれども、百年くらいより早くはやって来な い。で、当分の間、もしかしたら、まだまる一世紀くらい どころか、最初からスラヴ民族にできるだけ政治的自由を与 ロシャとしては思想方面でも、文学方面でも、スラヴ民族か えて、彼らに対する後見や監督の役を避けるようにし、ただ だれにもあれ、彼らの自山や国民性を侵さんとするものがあら取るべきものはなに一つないだろう。われわれを教えるに は、彼らはまだ恐ろしく生長が遅れているのである。反対 れば、容赦なく剣を抜くということを声明しておいたら、ロ 記司、ロシャはスラヴ民族の浅薄、狄 に、おそらくこの一世糸 シャはそれによって、後見役や政治的勢力を武力で保持する うるさい心配や、めんどうをまぬがれるわけである、まして量、悪習とたたかわなければなるまい。それから、彼らは政 この勢力は、彼ら自身にとっては憎むべきもの、ヨーロッパ 治・社会組織の方面におけるヨーロッパ形式を、貪欲に追求 にとってはいつもうさんくさいものに田 5 われているにおいてするがゆえに、疑いもなく近い将来において、スラヴ精神にそ をやである。こうして、完全な無私無欲を示すことによっむくであろうが、それともたたかわねばならないのである。 スラヴ問題が解決した後、ロシャは当然、近東問題の最後 て、ロシャはっし ~ 、こスラヴ民族の心を克服し、ひきつけるで

9. ドストエーフスキイ全集15 作家の日記(下)

らす分子のためには、万人に共通な懲戒処分が存在すべきで しかるに、貴君は『ジュウ』のことを口にせられる際、ロ あります。これはあらゆる社会生活の根本法則ですが、貴君シャにおける三百万のユダヤ民族のうち、恐るべき赤貧状態 ははたしてこの見解にまでみすからを高めることがおできに にある大衆ぜんぶを、この観念の中に含めておられるのであ ならないのでしようか ? : ・ : なぜすべてのユダヤ人は、そのります。少なくとも、二百九十万人は、惨憺たる生存をつづ 権利を制限されなければならないのか、またなぜ彼らのためけるために、死物狂いの苦闘をつづけておりますが、道徳的 には特殊な刑罰の法規が必要なのか ? 外国人 ( ユダヤ人は には、単に他の諸国民のみならず、貴君の崇敬してやまない とにもかくにもロシャの臣民であります ) 、たとえば、ロシャロシャ国民にくらべてさえも、より純潔なのであります。な にうようよしているドイツ人、イギリス人、ギリシャ人、なお貴君はこのジュウなる名称の中に、最高の教育を受けて、 どの搾取行為は、何がゆえにユダヤ人のそれに勝るのでしょ国家生活のあらゆる領域に頭角を現わしている、一群の尊敬 うか ? 今や、ロシャ全国におびただしく瀰漫した正教を奉すべきユダヤ人をさえ、混淆していられるのであります。例 ずる富農、百姓いじめ、酒屋、高利貸の輩は、いかなる点でえば・ ユダヤ人の同業者よりも優れているのか ? ユダヤ人はなん といってもその活動範囲が狭いのではないか。そもそも何ゅ ( ここで彼は、またもや幾人かの名を挙げているが、わたし えに、しかじかの者はしかじかの者に勝れりとするか : はゴルドシュタインをのぞいて、それらの名を公表する権利 ないように思う。というのは、彼らのある者は、自分たち ( ここでわが尊敬すべき通信者は、知名なロシャの搾取者数がユダヤ人の出生であることを知られるのを、おそらく不愉 名を挙げて、ユダヤ人のそれと対比させ、ロシャ人も決して快に感ずるだろうと思われるからである。 ) 劣るものではない、 という意味を表示している。しかし、こ れがいったい何を証明するというのか ? なにぶん、われわ「 : : : ゴルドシュタイン ( スラヴ民族の理想のために、セル れは自国の搾取者たちを誇りとして、模倣に値する亀鑑あっ ビヤで英雄的な最期を遂げた人 ) 、および社会人類の福祉の 力いにしないばかりか、むしろそのいずれもがよろしくない ためにつくしている多くの人々を、なんと思われますか ? ということを、十二分に承知しているのである。 ) にまでおよ 『ジュウ』に対する貴君の憎悪は、ディズレーリ んでいますが、彼はおそらく自分でも、祖先がかってスペイ 「この種の疑問は、なお無数に貴君に提出し得るのでありま ンのユダヤ人であったことを知らず、したがってもちろん 「ジュウ』としての見地から、イギリスの保守党の政策を指 す。

10. ドストエーフスキイ全集15 作家の日記(下)

しまった。やっと消極的な方面で結合したけれど、それもほ現実における多くの典型的なものが、はっきりと浮き出てい田 んの申しわけ的で、だれもかれも積極的な面では分離してしる。しかも、何より驚くべきことは、これがきわめてありふ まった。そして本質的には自分でも自分をなに一つ信じてされた家常茶飯事だという点である。まったくいまロシャに えもいない。なぜなら、他人のロ真似をして他人の生活、他は、こういったような家庭がおびただしく多いに違いな 人の思想に付随して、生みの母であるロシャの生活といっさ ということが感じられる。もちろん、そのとおりの形を いの脈絡を失ったからである。 とっているのでもなければ、また踵を掻く ( このことは、後 しかし、くりかえしていうが、こうした熱のあるのは少数で述べよう ) というような偶然事も、もちろんそうざらに ついでに で、怠惰なもののほうが数えきれないほど多い。 あるわけではない。 しかし、ことの本質は、このような家庭 諸君はジュンコーフスキイの事件を記憶していられるか ? の根本的特徴が、結局、同一であるということなのだ。これ これはごく最近の裁判事件で、つい今年の六月十日に、カル はまさしく、わたしがたったいまいったばかりの「怠惰な家 ーガ地方裁判所で審理されたばかりである。この事件は、当庭」の型である。よしんば完全な、非常に正しい型でないま 面の大事件の騒ぎにまぎれて、あまり注意をはらった人はなでも ( ある種のきわめて例外的な、特質的な、細目について いかもしれない。わたしはそれを『ノーヴォエ・ヴレーミ判断したところでは、ことにそうであるが ) なんといって ャ』紙で読んだのであるが、まだどこかほかに転載されたか もこの型の顕著なる一例である。しかし、これは読者自身の どうかよく知らない。 これはペレムイシュルの地主である少判断にまかせよう。被告両人はモスクワ高等法院の決定によ 佐アレグサンドル・アファナーシェフ・ジュンコーフスキイ って、裁判に付せられたのである。ここで一つ起訴理由を回 ( 五十歳 ) とその妻工カチェリーナ・ベトローヴナ・ジュン顧してみよう。わたしは「ノーヴォエ・ヴレーミャ』紙に報 コーフスカヤ ( 四十歳 ) に関する事件で、夫婦の者は幼年の道されていたとおりの形式で、つまり、簡潔な形でここに転 載する。 実子ニコライ、アレグサンドル、オリガの三人を虐待したか どで起訴されたのである : : : ここで一言注意しておく必要が 3 ジュンコーフスキイ夫婦とその実子 あると思うが、間題の子供たちの年齢は、ニコライ十三歳、 の事脅 オリガ十二歳、アレクサンドル十一歳である。なお、先まわ りしてつけ加えておくが、裁判所は被告両人に無罪の宣告を「被告ジュンコーフスキイ夫婦はある程度の資産を有し、こ したのである。 れに準ずる召使を擁しながら、実子ニコライ、アレクサンド この裁判事件の中には、わたしの考えによると、わが国のル、オリガの三人に、他の子供とはまったく異なる待遇をし