ドストエーフスキイ全集 16 目次 書簡 9 八三二年 : ・ 一八三四年 : 一八三五年 : ・ 一八三七年 : 一八三九年 : 一八四〇年 : 一八四一年・ 一八四二年 : 一八四三年 : 55 52
わたしはそれを追い払うことができません。わたしがどんな にあなたに会いたいと思っているか、どんなに再会の喜びを 待ちかねているか、お母さんにはとてもわからないでしょ いつもあなたのことを思い出すとき、わたしはお母さん が達者でいらっしやるようにと、神様にお祈りしています。 なっかしいお母さん、無事にお着きになったかどうか、知ら せてください。わたしのかわりにアンドリューシャと、ヴェ ーロチカに接吻してください。あなたのお手に接吻します。 あなたの従順な息子 ・ドストエーフスキイ 一八三五年 3 母マリヤへ 一八三四年 ^ モスクワ、一八三五年五月九日〉 なっかしいお母さん ! わたしたちが達者で無事なことを 手紙でお知らせするのは、もうこれで三度目です。今日、と 2 母マリヤへ いうのは木曜日のことですが、祭日なものですから、お父さ んがわたしたちをうちへつれて帰ってくださいました。で、 ^ モスグワ、一八三四年春 ( ? ) 〉 なっかしいお母さん ! あなたがわたしたちのところからわたしたちは、なっかしいお母さん、あなただけを除いて、み ダロヴ、なっかしい母上、わたしはとてもんないっしょになりました。わたしたちがまだ長いことお母 簡立 0 て行かれた時 ( , = () さんと別れていなければならないのは、残念なことです。こ 淋しくなりました。今でもあなたのことを思い出すと、なっ こ。こちらはとて んな時が、どうか早くたってくれますよう冫 かしい母上、なんともいえないもの淋しい気持ちになって、 父ミハイルへ へダロヴォ工、一 八三二年六月二十九日〉 わたしたちはみんな父上に深い尊敬の意を表し、あなたの お手に接吻します。大事な大事な父上。 ミハイル、フヨード ル、ヴァルヴァーラ、アンド リューシャ 八三二年 7
には、知人を通して ( 小生には知人がたくさんあります ) 、 リ市、ガリャーノフ持ち家、郵便本局わきです。小生のこと 8 ペテルプルグで、なんでもさがし当てることができます。ま はもっと詳しくお便りします。 あなたのフヨードル・ドストエーフスキイ ったくなんでもです。くり返していいますが、来年いつばい に生があなたに何かお知らせするとすれば、それは確かな 6 アレクサンドル二世へ はっきりした話で、あやふやなものでないことをお約東しま 〈トヴェーリ、 す。しかし、あなたに少しでも損になるようなことではなり 一八五九年十月十日ー十八日 ません。あなたがシベリヤにとどまるということは、小生と陛下 してもきわめて遺憾のかぎりなので、したがってあなたの関かっての政治犯人であるわたくしが、あえて偉大なる玉座 心事は、常に小生の心を占めているわけです。もし何かいし の前に、つつましやかな請願を呈上いたします。わたくしは 口が見つかったら、あなたとしてもけっこうなわけです。 陛下のお慈悲に値せぬものであり、広大なるご仁慈に望みを 生は今後たしかな、はっきりした事実をお知らせしますが、 繋ぎ得る最後の一人であることは、みずから承知しておりま 最後的な決定はもちろんあなたのお心次第です。どうか何かす。とは申せ、わたくしは不幸な身の上でございまして、陛 書いてよこしてください、そしてあなたのご意向をお知らせ下のご仁慈は無限でございます。このような書面を呈上する 願います。高潔無比なるビヨートル・アンドレエヴィチ、あことをおゆるしのうえ、ご仁慈に飢えている不幸な人間を陛 なたが単なる筆不精のために、ト / 生との親交をお忘れになる下の逆鱗によってお罰しになりませんよう、懇願いたします。 ようなことはないと、確信しています。お手紙をちょうだい わたくしは一八四九年、サングト・ペテルプルグで、国家 したら、これよりもっと詳しいお返事をします。というの的犯罪のため裁判に付せられ、奪官のうえ、 いっさいの権利 は、今のところただかんじんの要件だけをお知らせする、とを奪われて、シベリヤ流刑、第二類懲役囚として要塞監獄に いうことだけが目的なのですから。ナスターシャ・ベトロー 禁固、四年の刑期を終えたる後、一兵卒に編入の宣告を受け ヴナにくれぐれもよろしく。妻もやはりよろしくと申し出まました。一八五四年、オムスグ要塞出獄の後、わたくしはシ した。もし家族の方々にこの手紙をお見せになるようでしたペリヤ第七常備軍大隊へ一兵卒として入隊、一八五五年、下 ら、よろしくご伝亠尸ください 士官に昇級、一八五六年、陛下の限りなきご仁慈により将校 では、さようなら、なっかしきビヨートル・アンドレエヴに任官いたしました。一八五八年、陛下はわたくしに歴代の イチ。ご健康とご成功を祈ります。セミパラチンスグのこと貴族権をご返還くださいました。同年、わたくしは徒刑生活 について、何か知らせてください。 小生の住所は、トヴェ の第一年に発見された癲剃の病のため辞表を呈出いたし、現
簡 よ、フ学に . し / すことの不可能なるを痛感いたし候。少年を家庭より遠く離 れて教育することの困難かっ不利なるを別としても、天涯に 寄るべなき孤児をこの地に残すは、継父に見棄てられるごと き形と相成り、小生として望ましからぬ儀に有之候。最後の 4 兄ミハイルへ 理由として、彼は母親の一人子にして、母親は永久に別るる ことを欲せざる次第にご座候。かかる別離はほとんど永別とセ ミ・ハラチンスク、一八五九年三月十四日 ひとしく感じらるるものに候えば。 尊き友ミーシャ、取り急ぎ返事をしたためます。一時間し 右のごとき些事を具陳して、閣下をあえてお煩わし申し上か暇がないのに、兄さんとプレシチェーエフに手紙を書かな ぐることを、なにとぞご海容くだされ度、ただ小官としては万くちゃならないのです。ぐずぐずしてると郵便に遅れます。 やむを得ざる事情を閣下の前に披瀝したるうえ、イサーエフ第一に、優しい兄さん、クシェリョフの件について、いろい を向後ロシャ内地にて、家庭より遠く離れずして教育を続けろ奔走してくだすったことを感謝します。それは何もかもけ させんがため、シベリヤ幼年学校より退学せしむる件を、ご っこうです。しかし、ばくは後日でなく、今すぐ金が入用な 許可相成りたく、伏してお願い申し上ぐる次第にご座候。かのだということを、もしかしたら十分強調してくたさらなか かる請願をあえてするに際し、小官はこの件に関し閣下が公 ったのじゃないでしようか。そうしないと、先方はどれだけ 平にして人間愛に充ちたるご裁可を下したまわらんことを、 悠然とやるか知れたものじゃありません。月曜日はロシャ内 心より期待するものに有之候。頓首敬白。 地から郵便が来る日ですが ( 今日は土曜日です ) 、もし次の月 フヨードル・ドストエーフスキイ曜日に届かなかったら、ばくがどんなに困るか、想像もおっ * この年の末に書かれたと思われるもので、日付けは、年だけで、月日の己 言きにならないでしよう。金銭関係でばくの状態は、今や窮迫 入がない。退官と内地帰還の許可がおりたと書いてあるが、実際に許可され たのは翌五九年三月十八日のこと、また、義理の息子バーシャは、五九年七の極に達しているのです。ああ、友よ、おそらく近いうちに 月、ドストエーフキイに連れられロシャ内地に立つまで、幼年学校に入って退官命令が出るでしようが、ばくは気が揉めてたまらないの いた。おそらく、五八年の初めに請願を出して以米、日夜その許可を待ち望 です。金のことでは、いまもちろん、安心しています。きっ む気持ちがつのるうち、ついにこういう書状までととのえ、許可がおりしだ い正確な日付けを入れるつもりだったのでもあろうか。 と送ってくれるでしよう。しかし、千ループリくらいで、出 発準備だの、旅費だの、その他すべてのことに足りるでしょ うか。ばくは胸算用してみたのですが、足りないことはわか 一八五九年
けだ。これをいちいち詳しくお前に知らせるのは、とても不 て行ったのです。それについては、彼の受領証があります。 ジャコノフ君に払わなければならぬのも、彼であって、ばく可能だが、簡単にいうと、ーーー仕事はもう前から、戦争とそ じゃありません。ばくは個人間の勘定に立ち入りなどしませれに続いた金融危機と、一般的な信用の低落のために、ひど ん。ばくがジャコノフ君に金を渡したのは、あの晩、彼が金く具合がわるくなったのだ。莫大な負債がたまってしまっ た。ばくたちは雑誌の発行をはじめて、金もたくさんつかっ を取りに来た時で、ばくのポケット・マネーから出してやっ たが、やはり借金しないではすまなかった。しかし、その代 たのです。あの飲んだくれのべリャーエフが彼をだまして、 払ってやらないだろうということが、わかっていたからでわり、二年目からは、予約購読者が四千人になって、つまり す。もう二度目です。 運転資金が六万ループリということになった。それがずっと つづいて、今の「エボーハ』でもそれだけある。しかし、負 3 弟アンドレイへ 債は依然として払えなかった。それは古いのと新しいのとい っしょにして、都合二万ループリ残っていた。「ヴレーミャ』 ^ ペテルプルグ、一八六四年七月二十九日〉 なっかしい弟アンドレイ。時間はまるつきりないのだけれが、発行禁止になった時の話だ。予約金は、兄さんが借金払 、に、も , っすっかりつかってしまっていた。しかし、世旧金を ども、さっそくお前の望みをかなえることにする。兄さんの 仕事は、当然なことだが、みんなばくの肩にかかって来て、規則的に払って行けば、信用も維持され、必要な運転資金も ばくはもうこれでかれこれ三週間、無我夢申のありさまだ。 続けていけたのだ ( これを詳しく説明すると、長い話にな ミーシャ兄さんは肝臓腫瘍と、それから起こった胆汁の血る ) 。これがあれば、雑誌の刊行を年の終わりまで、たいし 液混入のために死んだのだ。これが兄さんの病気だったのた困難なく立派に持続していけたはずなのだが、とっぜん、 だ。病気は前からはじまっていた。医者は、二年といってい雑誌の禁止でなにもかも崩壊してしまった、信用もなくなっ てしまった。それは苦しい年で、兄さんの健康もひどくやら た。しかし、肝臓病の病人は、そんなことを気にかけない で、相当長いこと動きまわれるものだ。ことに、にしい人れたのだ。やっとのことで「エボーハ』の刊行権を獲得した 間はなおさらだ。ところが、兄さんはいつも用事が山ほどあが、それは損しながら出さなければならなかったのだ。とい うのは、四千の予約購読者に、年六ループリで雑誌を配布し った。去年、雑誌が禁止になった。これがために、兄さんは 簡雷に打たれたようなショッグを受けて、仕事はすっかり減茶なければならなかったからだ ( 購読料は全額で十五ル 1 プ リ ) 。しかし、兄さんはそれをうまく処理して行った。金も 滅茶になり、恐るべき危機が迫ったので、兄さんは最後の一 書年間す 0 と、不安と、興奮と、危惧のなかに過ごしていたわ調達いたし、一年の間には正確な運転方法も頭に持「ていた
でもなんでもけっこうです。小生はあるプランのために必要すところなのでした。 お互いに話の種、追憶の種はたくさんあります。小生とし なのです。ある文章を構成しているのです。こんなに遅くお てはとくにそうする理由がありますので、お会いした折すっ 騒がせするのをおゆるしください。完全に貴下のものなる ・ドストエーフスキイ かり申し上げます。お手紙に書いてありますご令嬢のこと、 ご令嬢が小生に注意を払ってくださること、それは小生にと 9 ペリンスキイ夫人へ って身に余る光栄です。どうそ小生からご令嬢に、くれぐれ もよろしくとお伝えください。お近づきになったら、ご昵懇 ^ べテルプルグ、一八六三年一月五日〉 になるかもしれません。小生自身については、ただ今なにも エヴナ、貴女からちょ 尊敬してやまぬマリヤ・ヴァシーリ うだいした美しく優しいお手紙に対して、かくも長い間ご返申し上げることができません。目下妻帯しており、癲剃を病 事しなかったことを、なにとぞご海容ください。初めは多忙み、文学を業とし、雑誌の刊行に携わり、かってシベリヤを のためでしたが、その後、病気したものですから、それで遅旅行した、等々です。それらのことはお会いした時、ロでな れたわけです。貴女のお手紙は、小生に並み並みならず快いらまだ話せますが、十五年もお別れしていたあとで筆に写す 印象を与えました。小生は忘れがたきご夫君を熱愛し、尊敬のは、むずかしいというより不可能です。 しておりましたし、同時に小生の生涯において最もよき時代では、失礼します。お手を固く握らしていただきます。お を追憶する快さのために、貴女が小生に手紙をくださるお気妹ごさまにくれぐれもよろしく。小生を忘れすにいてくだす 持ちになられたことを、心の中で深く感謝した次第です。来ったことを、お礼いってください。兄がよろしくと申してい 年の夏か、ことによったら春あたり、必すモスグワにまいります。兄嫁も同様です。兄たちは古いことをすっかり覚えて ますから、今度こそ必ずお伺いいたします。正直に申しますいます。なにしろこれは、十五年も経ったとは申しながら、 と、昨年モスグワに五日ばかり滞在しました時、小生はお宅まるで掌をさすように近い感じですから。尊敬と信頼を捧げ を訪問して、自分のことも思い起こしていただき、昔話もしつつ、完全に貴女のものなる ・ドストエーフスキイ ようという考えがうかんだのですが、それはちょうど夏のこ とでして、いろいろな事情のため二日もモスグワで過ごさ 9 CQ ・・ウーチン〈 ( 会の監査役 ) 簡ず、親戚の別荘で暮らしたので、とうとうお寄りできません ペテルプルグ、一八六三年二月十八日、火曜 でした。しかし、誓って申しますが、お手紙をちょうだいし 尊敬してやまぬポリース・イサーコヴィチ、一八六一年三 書なくとも、この次にモスクワを訪れたら早速、その意を果た
組み立てたり、つり合いを取ったり、個々の場面をそっくり 8 完全に書き留めたり、それに主として、材料を集めたりする 一八五八年 ほうが、面白かったのです。三年間そういう仕事を続けなが ら、それに対する熱が冷めないどころか、かえって情熱をい ロシャ報 だくようになりました。そのうえ小生の事情は、システマテ ・ Z ・カトコフ ( ( イグに、根気よく仕事をすることを、どうしても許さなかっ たのです。しかし、昨年の五月に、いい よよ本格的な仕事に へセミパラチンスク、一八五八年一月十一日〉 拝啓すでに去年八月、貴誌の寄稿者プレシチェーエフか着手しました。下書きの形では、第一巻のほとんど全部と、 ルーズキイ・ヴェストニグ ら、小生の作品を何か「ロシャ報知』に掲載してもよいとの第二巻の一部が、すでに書き上げられています。にもかかわ ご意向である山を、知らせてまいりました。小生はもう早くらず、小生は今日にいたるまで、第一巻さえも完結すること から、長編を載せていただきたく、その申し入れをしたいと ができないのです。とはいえ、仕事は間断なくつづけていま 思っていたところです。それは、小生が目下執筆中のものです。小生の長編は、三巻に分かれていますが、各巻は ( もっ すが、まだ完結していないので、申し入れをするわけにもまとも、それを編に分けることもできるのですが、小生はただ 」どナこしました ) 、各巻はそれ自身、完全に独立した作 いりませんでした。つまり、はじめに貴下にその長編を読ん章オし 品なのです。そういうわけで、小生はまず初め第一巻だけを でいたたいて、それからご相談をしようという考えなのでし た。小生は九年ばかり前、たくさんの駄作を発表するような貴誌に提供しようと思った次第です。第二巻のほうは都合が はめになりましたので、自然の道理として、できていない作わるいのです。それに、同じ年に二つ発表したくありませ 品について契約したくないと思いました。しかし、小生の事ん。第三巻も同様です。しかし、三年の間には、三巻ぜんぶ 情が変わって来ましたので、はじめ予定したとおりに行動で発表してかまいません。第一巻を読んでご覧になったら、そ きなくなったのです。そのわけを説明させてください。 ういう分け方が十分可能だということを、認めてくださるこ この長編は、まだ小生がオムスグにいた頃、ひまひまに構とと思います。今年になってからの小生の事情というのは、 想したものです。三年前にオムスクを出て、紙とペンを持つはかでもありません、小生は生活状態を一変してから、ひど く金に困るようになったのです。そこで長編 ( 第一巻 ) を原 ことができるようになると、さっそく仕事にかかりました。 しかし、急いで仕事をしようとはしませんでした。小生とし 稿のまま貴下にお見せして、掲載前に金を送っていただくよ ては、 いっさいを最後のデテールまで考えぬき、部分部分をうに、お願いしよう、あるいは貴下も、小生の乞いを容れて
だにばくはクズネーッグへ四度も往復して、当時まで許婚で それができあがったら、ペテルプルグ生活から取材した、『貧 しぎ人々』に類した長編を書きます ( しかし、着想は『貧しあった妻のことで、おびただしい金をつかいました。それか き人々』より優れています ) 。この二つの作品はどちらもずら、三年のあいだにホメントーフスキイその他の人々から借 っと前にかかっていて、一部分はもう書いてあり、骨は折れりた銀貨三百ループリも返済しましたし ( なにぶん、彼女の そうにありません。仕事はうまく進んでいますから、十二月夫が死んだ時、ばくは金がいったのです ) 、そのほかいろい の十五日には『ロシャ報知』へばくの最初の中編を発送しまろあるのです。しかも、セミパラチンスクは世界じゅうでい す。あすこは前金でくれ、しかも相当のものをくれます。そちばん物価の高い町です、ここはまるで、ロビンソンが地金 きん れで、金が手に入るわけです。ところが、ここに困ったことの黄金を発見した無人島のようなもので、どんなに金をだし たところで、必要な品が買えません。ここに州政が布かれる は、一月一日までにぜんぜん無一文になることです。そこ で、この手紙を書きはじめる時、ばくは自分の状況を残らずようになってから、なにもかも高くなったのです。早い話 が、ばくは薪も水も付かずに、月に銀貨八ループリの家賃を うち明けて、何やかやお願いしようと決心したのですから、 払っています。もっと小ぶりで安い住居を見つけたいのです その用事にとりかかります。 AJ ッ 7 もかーレ ) 7 も が、そんなのがありません。というのは、。 ばくは二月に結婚する時、当地で銀貨六百五十ループリ借 いつばいになっているからです。三年前に百人からの官吏が 金しました。ある紳士から借りたのですが、それはごくれつ きとした人物でありながら、変人なのです。ばくはこの人と流れ込んで来て、しかもいまだにだれひとり家を建てないの 親しい関係でした。年は五十がらみですが、彼はばくに金をです。田舎のしきたりで、だれが来ても一口たべさせなけれ ばなりません。ところで、どうでしよう、いちばん下等なロシ 渡す時 ( 金持ちなのです ) 、期限は一年どころか、二年だっ てかまわない、 心配しないでくれ、自分には金があるのだかャチーズが、一フントで銀貨一ループリからするのですから ら、カになって上げるのがうれしいのだといって、借用証文ね。ここには商人が百五十人いますが、その商売はアジャ流 なのです。西欧ふうの ( つまり紳士向きの ) 品をあきなって さえ取ろうとしなかったのです。その後、ばくはグズネーツ クから帰って来て、モスクワの伯父さんから銀貨六百ループ いる商人は、三人か四人です。モスクワの工場のペけものを リ受け取り、その後からまた百ループリ送ってもらいまし仕込んで来て、熱に浮かされた気ちがいでなければつけられ こ。、ばくの全財産といったら、軍服のほかには枕と蒲団ないような、お話にならぬ値をつけるのです。軍服なりズボ があるばかりです。何もかも、最後のこまごましたものまでンなりを注文してごらんなさい、モスクワで銀貨二ループリ くらいな値打ちのラシャに、五ループリから取られます。一 新調しなければなりませんでした。のみならず、一年のあい
んだ医師の意見にしたがって、苦しい病いを治癒することが閣下 ! 小生のごときもののお願いによって、あえて閣下をお煩わ できるものと、望みをかけているのでございます。のみなら ず、小生はいずれにしても、ペテルプルグへ移れば、肉親のせすることをおゆるしくださいまし、小生はかって政治犯人 として、一八四九年、サンクト・ペテルプルグにおいて予審 ものたちから、小生自身にたいしても、小生の家族にたいし ても、助力を仰ぐことができます。その助力は病人の小生におよび公判を受け、同年、勅令によって、シベリヤ流刑、要 塞内の末決加算四年間懲役、右刑期満了の上、一兵卒として とって、必須なものであります。 ここに義務として閣下に申し上げなければならぬことがご勤務の判決を受けました。徒刑期満了後、一八五四年、第七 ざいます。二週間前、小生は皇帝陛下に上奏文をしたためたシベリヤ正規大隊に入隊、一八五六年、勅令によって下士官 のです。トヴーリ県知事・ハラーノフ伯爵が、アドレルベルに任官、同年十月一日見習士官拝命、同大隊勤続、一八五八 グ伯爵にそれを送って、陛下に渡していただくようお願いし年、陛下のお慈悲をもって、先祖伝来の貴族の名称返還の光 ました。その上奏文の中で、小生は目下の不幸な状態を開陳栄に浴しました。同年、小生は重き癲癇の病の故をもって、 し、病気治療のためペテルプルグへの移住の許可を賜わるよ退職願を呈出いたし、今一八五九年、少尉の官等にて現役を う、寛仁きわまりなき陛下に、お慈悲をお願い申し上げたの免ぜられ、トヴ = ーリ市に転住、同市にもはや三か月ちかく です。なおその上奏文で、歴代貴族である小生の継子、当年在留いたしております。 十二歳のパーヴ , ル・イサーエフを、ペテルプルグの中学校エドウアルド・イヴァーノヴィチ・トットレーベン閣下 は、小生、ペテルプルグ居住の許可を皇帝陛下にお願い申し の一つへ採用していただけるよう、陛下にお願い申しまし た。この上奏文に対する回答を、パラーノフ伯爵は今日にい上ぐるよう、閣下にご依頼ありしむね、小生にご通報くださ いました。トットレーベン閣下はその手紙に、閣下がそれに たるまで、アドレルベルグ伯爵から受け取っておられません。 小生の運命にたいする閣下のご好意とご同情に望みを繋ぎ対してご好意ある承諾をお与えくださいました由を、お書き ながら、小生の深甚なる尊敬と、心からなる信服の念をお受添えくださいました。小生はトットレーベン閣下のご報知に 力を得て、小生を現在の苦しき状態にお見棄てなきよう、み けくださるようお願いいたします。 フヨードル・ドストエーフスキイずから謹んで閣下にお願い申し上ぐることを決意した次第で ございます。小生は癲剃を病んでおりますが、それにもかか 6 ドルゴルーキイ公爵へ わらず、妻を養い、幼き継子の将来を完うするため、勤労い たさねばなりません。持病を治療しうるという希望のため、 一八五九年十一月八日 トヴ . エー . リ
へ出向き、年とった金持ちの伯母にねだって、一万ループリ けることですが、ばくは第一の方法を取らなかったことが、 残念でたまりません ! もちろん、債権者たちは二割も手にの金をもらいました。それはばくの分として、遺一一一一〔状に書い 入らなか 0 たでしようが、遺族は相続権を拒否すれば、法ておいてあ 0 たのです。さてペテルプルグへかえると、雑誌 律上なにも払う義務はなくなります。ばくはこの五年間を通の刊行をはじめました。しかし、もう事態がひどく傷つけら じて、兄のところで働いたり、ほうばうの雑誌に書いたりしれていたのです。雑誌の復刊のためには、検閲局の許可を得 て、年に八千から一万ループリまで儲けていました。とすれなければならなかったのですが、これがまた長びいて、八月 ば、遺族と自分を養うことができたわけです、。ーーもちろん、の終わりにやっと六月号が出るような始末でした。そんなこ 一生、朝から晩まで働いての話です。しかし、ばくは第二のとにはなんのおかまいもない予約読者は、不平をいいはじめ 方法を選んだのです。つまり、雑誌の刊行をつづけるほうでました。検閲局はばくの名を、編集人としても、発行人とし す。もっとも、それを選んだのは、ばくひとりではありませても、雑誌に掲げることを許さなかったのです。で、思いき った手段に訴えなければならなくなりました。ばくは金に糸 ん。親友も、以前の編集同人も、おなじ意見だったのです。 目をつけず、一時に三軒の印刷所でやらせました。自分の健 康も力も惜しみませんでした。編集者はばく一人で、校正も 四月十四日 やれば、寄稿家や検閲局との交渉もし、掲載する文章も直せ ば、金策もして、夜明けの六時までもすわりとおして、一昼 また中絶しました : : : アレグサンドル・エゴーロヴィチ、 ばくがどんなに恐ろしい、やりきれない仕事の中に時を過ご夜に五時間しか眠らないで、やっと雑誌に格好をつけました が、もう手遅れでした。ほんとうにしてくださるかどうか知 したか、よろしくご賢察を願います ! 先を続けます、 その上に、兄の負債を支払わなくちゃなりません。兄のりませんが、十一月の二十八日に九月号が出、一八六五年の 名によからぬ記憶が残るのが、ばくとしては、いやだったの二月十三日に一月号が出たのですから、つまり、十六日ごと です。その方法としては、明年度の予約まで漕ぎつけて、負に一冊の雑誌が出たのですが、毎号三十五台からあったので 債の一部を返し、雑誌を一年一年とよくして、三、四年後にす。これがばくにとってどんな努力を要したことでしよう ! は債務を償却して、兄の遺族の生活を保証したのち、雑誌をしかし、最も重大なのは、この懲役のような重労働をつづけ ながら、ばく自身は雑誌に一行も載せることができなかった 簡だれかに譲ることです。その時こそばくはほっとするわけ で、その時こそもうふたたび執筆を始めて、前から表白したのです。読者はばくの名を見ることがないものだから、地方 書かったことが書けるわけです。ばくは肚をきめて、モスグワどころかべテルプルグでさえも、ばくがあの雑誌の編集をし