第一、これは秘密な事柄ですから、ある時期が来るまではヴセローフスキイとかいう男と友だちなのですが、ヴセ あなたの家からどこへも出ないよう、だれの耳にも入らぬよ ローフスキイは、ニコライ・ミハイロヴィチ ( わたしの弟であ うにしてください。ちょっとお断わりしておきますが、このなたの叔父 ) といっしょここれはマイコフの知らせによ。たもので、 ドストエーフスキイ家の後見人になっています。このヴェセ 夏、わたしはみんなに見放されてしまって、だれもただの一 行もわたしに手紙をくれなかったのです。ところが、とっぜローフスキイがカシュビリョフに話したところによると、伯 ん二、三日まえ二通の手紙を受け取りました。マイコフとス母さんの死後、遺言状が残されたが、それには四万ループリ トラーホフから来たのです。二通の手紙が一つの封筒に入っの金を「なんとかいう修道院」へ寄付することになってい ていて、特別な用件を含んでいるのです。ほかでもない、伯る。しかし、この遺一言状を書いたときには、伯母さんは正気 母さんの死去を知らせてきたわけです。ペテルプルグにいるでなかったのだから、「これは容易に無効にすることができ 肉親の連中は、わたしのアドレスを知っているくせに、ひとる」とのことでした。それからさらに、「ドストエーフスキ ことも通知してきません。それはもしかしたら、伯母さんのイ一族の中で ( とヴェセローフスキイはいうのです ) 、自分 しるし 遺言で金をもらったという兆かもしれません。どうかそうあはとくにフヨードル ・ミハイロヴィチを尊敬しているが、あ ってほしいもので、わたしはそれを心から望んでいます。さの人は有名人であるだけに裕福な人だと思っていた」ところ て、わたしのお願いというのは、伯母さんはいつ、どんなで、それは「逆比例」だということを知って ( これはマイコ ふうに、どういう状況で亡くなられたのか ? あなた方ご自フの表現です ) 、「もしフヨードル ・ミハイロヴィチ ( つまり 身どうして知られましたか ? あなた方も何かもらわれましわたし ) が、たとい書面ででも自分に諾意を表してくれた たか ? それを知せてください。 ( 、 っ遺言についてあなたの知ら、自分はあの遺一一一口破棄について運動を始める心がまえがあ っておられるすべてのこと、 だれが遺一一一一口執行人だったる」といったそうです。彼ヴェセローフスキイは、もしわた か、だれが幾らもらったか ( 一人ずつ名前を挙げて ) 、ÜO( しがペテルプルグにいたら、この事件を相談するために、自 テルプルグの親戚 ( ドストエーフスキイ、ゴリヤノーフスキ分でモスグワからわたしのところへやって来るところだっ イなど ) は何かもらったか、もらったとすれば幾らか ? と た、と付け加えたそうです。 いうことをご一報ください マイコフは以上のことを残らず報告した後、これに付け日 最後に重要なこと、 マイコフとストラーホフが手紙をえて、猶予なく遺言破棄の運動をヴェセローフスキイを通じ よこしたのには、ある目的があったのです。「サリヤ ー』のて開始するようにと、熱心にわたしに勧めているのです。し 発行者カシュビリョフは、ヴラジーミル・イヴァーノヴィチ・かもそのうえ、あなた方一同は ( つまり、亡兄ミーシャの家
ドストエーフスキイ全集 17 目次 書簡 八六六年 : ・ 一八六七年 一八六八年 : 一八六九年・ : 一八七〇年・ : 一八七一年 : 一八七二年・ : 一八七三年 : 8 0 3 5 4 ロ絵ドストエーフスキイの妻アンナと息子フ日 1 トル、娘リュポフィ ( 一八八〇年代 )
なっかしい大切なソーネチカ、長く手紙を書かなかったの一日のあいだに、モスクワへ行くつもりです。さあ、こうし 2 に腹を立てないでください。ル 、つもじきじきお目にかかる時てあなたにほんの二、三行だけ書きました。これより以上な を待っていたのと、ドレスデンでは金を待っ間、じつに恐ろにひとっ書くことができません。うちはてんやわんやです。 しい状態になっていて、仕事をすることもできなければ、生女中がいやな女で、わたしが走り使いをしているのです。ど きている空もなかったのです。 んな気持ちでいるか、よろしくお察し願います。この手紙は 七月の七日、われわれはドレスデンを出発して、九日には 『ロシャ報知』社へあててだします。ちゃんと遅れないよう もうべテルプルグに着きました。急行列車に乗って来ましたに届けてくれるかしらん ? あなたを抱擁し、接吻します。 が、妻は臨月が迫っているし、リュー ・ハには守がいないの昨晩イヴァン・グリゴーリエヴィチが来ました。お会いにな ーヴロヴナにはと で、わたしが自分で抱かねばならす、ーーー二昼夜のあいだ眠りった人みなみなによろしく。エレーナ・ もせず、途中おりて休みもしませんでした。ペテルプルグでりわけよろしく。アーニヤがよろしく申し出ました、リュー はいきなり住居をさがしにかかり、じつにひどい chambre ・ハとフェージカも同様。われわれはみんなあなたの親友で、 garnis ( 家具付の部屋 ) を見つけました。とても高いのです。 あなたを愛しています。 フヨードル・ドストエーフスキイ 家主がいやなユダヤ人夫婦なので、めんどうなことがたくさ んあります。それから親戚や知人がどっと押しかけて、ゆっ なっかしいソーネチカ、お願いだから折り返し返事をくだ くり眠る暇もありません。ところが、七月十五日の夜から十さい。そして、その時カトコフがモスクワにいるかどうか知 六日の朝へかけて、妻がとっぜん陣痛を感じはじめました。 らせてください。もし彼がモスクワにいなかったら、モスグ 十六日、金曜日の朝六時に神様がわたしに息子のフヨードルワへ行くなんて冒険をするのはほとんど不可能です。 おしめ を授けてくださいました ( ちょうどいま襁褓を換えてもら わたしのアドレスは、ユスーボア庭園わき、ポリシャ っているところですが、健康そうな力のある声で泣き立ててヤ・サドーヴァャ街とエカチェリンゴフ通りの角、エカチェ います ) 。そういうわけで、仕事もできなかったし、今モス リンゴフ通り三番、七号、フヨードル・ミハイロヴィチ・ グワへ行くこともできません ( カトコフとは直接くわしい話ストエーフスキイ。 がしたくてたまらないのですが ) 。いま仕事に向かったとこ 2 姪ソーニヤ・イヴァーノヴァへ ろですが、頭のなかがばっとして、必ず発作のきそうな予感 がします。へとへとに疲れてしまいました。もしここでのつ ペテルプルグ、一八七一年八月九日 びきならぬ事情に妨げられなかったら、七月二十一日と八月大事なソーネチカ、エレーナ・ ーヴロヴナ。いったいコ
おくれ。後生だからアーニヤ、あの子たちを大事にしておく貴家でお会いする喜びをみずから失うのを、このうえもなく 遺憾にそんじます。 れ。お前を抱擁し接吻する。 貴兄の・ドストエーフスキイ 頭から足の先までお前の・ドストエーフスキイ 午前十一時。夜ひどい発作があった。頭が痛い。仕事をし なければならないのだが、どうしたらいいかわからない。ヴ 一八七三年 工セローフスキイのところへは行かなかった。寝すごしたの だ。今日は昼すぎにでも、当てずつばに自宅か、それとも裁 判所へ行って見なくちゃならない。コ ーリヤ ( 弟 ) のおかげで、 5 > ・Ø・ソロヴィョフへ あちこち駟けまわらされて、とんだ苦労をするものだ。 ( 陏名な哲学者ヴラジーミルの兄で歴史 * 弟ニコライは、伯母グマーニンの遺産について、いちばん貧乏くじを引い たらしく、ドストエーフスキイは彼の依頼で奔走した。 〈ペテルプルグ、一八七三年一月一日〉 なっかしきフセヴォロド・セルゲエヴィチ ! しじゅう手 ・—・ヴラジスラーヴレフへ 5 紙を差し上げようと思いながら、自分で自分の時間がわから ないものですから、延び延びになりました。朝から晩まで、 〈・ヘテルプルグ〉一八七二年十一月六日 尊敬してやまぬミハイル・イヴァーノヴィチ。遺憾千万のそして夜中まで仕事に忙殺されているのです。今お寄りした ことながら、十一月八日のありがたいご招待をお受けすることころ、残念ながらお留守でした。小生は午後八時ごろ在宅 とは、今のところどうしてもできかねそうです。かなり重ですが、いつもとは限りません。小生は今度あたらしい職務 、もう一一週間も続いているアンナの病気が、目下のとこ ン』広編」 ) についたものですから、何もかもごった返しで、 つおいでくださいと正確なことを申してよいか、われなが ろ、たえず小生を家に引き止めています、主として子供のそい ばですが。もうぎりぎりのところまでせつばつまった自分のらわからない有様です。固く握手します。 貴兄の・ドストエーフスキイ 仕事は、もはや口実にいたしません。いずれにしても、貴兄 の命名日を陰ながらお祝い申します。そして、なお今後も幾 5 ・・アレグサンドロフへ 簡度となく、この日をご無事に楽しくご家庭の中で迎えられる した工場の植字工長 ) よう、心からお祈りします。右の次第で、なっかしい親友諸 ^ ペテルプルグ、一八七三年一月初旬〉 書君、ことにラマンスキイとグリゴーリエフ蜉赭おス ) に、 42
りしたよりも、きっと余分の値打ちがありますから、その時はをも知らせてよこしました ( それは貴下の知人である雑誌 またパ ーシャのために少々ばかり割いてやることができます『ザリャー』の発行者カシュビリョフ氏から聞いたのです ) 。 ( 「少々」はなんといっても、「何もない」よりましですから貴下のご意見によると、伯母の遺言状には、四万ループリの ね ) 。小生自身もその時分には、どれだけ金が入り用になる金をある修道院へ寄付するという項目があるが、伯母がこの 0 ・つ - っ ~ 、 かわかりません。兄嫁のほうはたぶんいくらかもらったの遺言を書いた時は、もうすっかり耄碌していたので、「この で、しばらくの間は小生を必要としないだろうと思われま項目も遺言状ぜんたいも、容易に廃棄することができる」と す。どうかその点をお知らせ願います。なお貴兄ご自身のこのことです。その際マイコフは、次のような貴下のお言葉を この手付け加えております ( これもやはりカシュビリョフ氏を通し とも書いてください。お約東の長い手紙をください。 紙がペテルプルグへ着くころには、貴兄も別荘から帰られるて聞いたものです ) 。もし小生が貴下に、たとえ書面でも、 ことと思います。貴兄に固く握手をします。ご令閨によろし訴訟開始の同意を表明したならば、貴下は遺言廃棄について 。実は時おり小生の頭に浮かぶことですが、われわれ二人ごめんどうを見てくださるとのことです。 ます最初に、貴下が小生およびドストエーフスキイ一家の は一見して感じられるよりも、ずっと間が遠くなってしまっ て、そのために手紙で自分の思想を伝えるのは、もはや困難利害にたいし関心をお寄せくださいましたことを、心から深 く感謝申し上げて、さっそく問題に入ることをお許し願いま になってきたようです。永久に貴兄のものなる す。 フヨードル・ドストエーフスキイ 小生はたったいまマイコフから、遺言状の項目の ・・ヴェセローフスキイへ 6 > ことばかりでなく、伯母の死そのものさえ初めて承知した次 第であります。だれも通知してくれるものがなかったので ドレスデン、一八六九年八月十四日 ( 二十六日 ) 尊敬するヴラジーミル・イヴァーノヴィチ。数日前ペテルす。そういうわけで、何よりも先に次の点について、書面を プルグのアポロン・マイコフから、モスグワの伯母アレグサもって、当地ドレスデンへご通報くださるよう、折り入って ンドラ・フヨードロヴナ・クマーニナの死について、最初のお願い申し上げます。伯母が亡くなったのは正確にいつのこ とか ? その遺言状はどういうものか ? ( たとえ簡単にで 報知を受け取りました。そして、貴下が小生の弟ニコライ・ ミハイロヴィチとともに、ドストエーフスキイ一家 ( すなわも。 ) 兄の遺児と弟ニコライ・ドストエーフスキイの分け前は ち、亡兄ミハイル・ミハイロヴィチの遺児たち ) の後見人で幾らか ? イヴァーノフ一家と弟アンドレイ・ドストエーフ あることも知りました。それと同時にマイコフは、次のことスキイの分け前は ? それから、その他の親戚や、伯母の甥
ったところ、ソーニヤはとても喜んでくれた。何もかもけっ たいを原稿でお送りできるものと、堅く信じています。心か こうだといって、ålaYunge ( ュンゲのように ) 障生口を認め らの尊敬の念を捧げつつ 貴下の・ドストエーフスキイず、そんなことを否定した。もちろん、あまり詳細にわたら ないでいっさいを簡単に話したのだから、ソーニヤとはまだ 9 ・ C ・スニートキナへ いろいろ話し合わなくちゃならない。カトコフに関する話 八六六年十二月二十九日 モスグワ、一 三千ループ ) こは、ソーニヤも幾らか疑いを持 0 て、首をひね 前借の件 っていた。そういう話は、ほんのちょっとしたことでまとま かけがえのない永遠の友であるわたしのアーニヤ、今日は ほんの二、三行しか書かないから、どうか腹を立てないでおりもすれば、こわれもするという意味で、気を揉んでいるわ ーヴロヴナは、わ けだ。わたしはソーニヤに、エレーナ・ くれ。これはただお前に挨拶して、接吻を送り、無事に着い たしのいない時、わたしのことをうわさしていたか ? とた たことを知らせる、ただそれだけのためなのだから。なにし ずねてみた。すると、その答は、ええ、もちろんですわ、の ろ、モスグワへ着いてから、まだどこへも顔をださないでい るありさまだ。途中何も変わったことはなかった。寝台車はべつでしたわ、ということだった。しかし、そんなのは愛と 実にいやな、ばかげたしろ物だ。醜態なはど湿けていて、寒呼ぶことはできまいと思う。 * 有名な眼科医で、ドストエーフスキイの友人。スニートキナとの結婚につ くて、炭酸ガスがこもっているのだ。一日一晩、夜の明ける いて、二十歳以上も歳のひらきがあることを理由に、否定的な意見をの・ヘた まで歯痛で悩まされた ( しかも、なかなか烈しいやつだ ) 。じ もの。 っとすわってるか横になるかして、しじゅ、つ最初のひと月半 * * エレーナの夫は不治の病にかか 0 ていたので、エレーナの義姉になるヴ エーラはその死後、兄ドストエーフスキイと結婚させることを望ましく思い の思い出を呼びさましていた。明けがたに寝ついてからは、 両方にその意向を洩らした。ドストエーフスキイもエレーナに、もしあなた が自山の身であったらわたしと結婚しますか ? とたずねたが、エレーナは ぐっすりと眠れて、目が覚めたときには、痛みもおさまって 別に確たる返事をしなかった。エレーナの夫はこの手紙から三年後に死んだ。 いた。モスクワへ入ったのは十二時で、十二時半には身内の ) に囲まれた。みんなひどく驚きもし、喜びも晩に、わたしは妹と当のエレーナの口から、彼女がず 0 と 人たちフ一 不幸な身でいることを聞かされた。その主人というのは、実 してくれた。エレーナ・ ーヴロヴナ ( イ フの義ノ ) も来てい にたまらない男だそうだ。病気は少しいいのだが、妻を一歩 た。ひどくやせて、器量が落ちたほどだ。たいへん沈んだ様 子で、わたしを歓迎する言葉もあっさりしたものだった。食も自分のそばから離さないで、昼となく夜となく腹を立てて と二は、嫉妬で妻を苦しめるとのことだ。わたしはそうしたいろ 後また痛がはじま 0 た。わたしはソーニヤ ( イヴ ' ーノ いろの話から、彼女は愛などということを考える暇はあるま 人きりで、三十分ばかり話をした。何もかもうち明けてしま
米川正夫全訳 愛蔵決定版 ドストエーフスキイ全集 全 20 巻・別巻 1 巻 定価 980 円 1 3 4 5 6 7 8 9 10 】 1 12 13 貧しき人々 / 分身 / プロハルチン氏 / 主婦 / ポルズンコフ / 他短編 1 編 スチェパンチコヴォ村とその住人 / 弱い心 / 正直な泥棒 / 白夜 / 他短編 2 編 虐げられし人々 死の家の記録 / ネートチカ・ネズヴァーノヴァ 地下生活者の手記 / 初恋 / 伯父様の夢 / いやな話 / 夏象冬記 / 鰐 悪霊 ( 下 ) / 悪霊創作ノート / 永遠の夫 悪霊 ( 上 ) 白痴 ( 下 ) / 白痴創作ノート / 賭博者 白痴 ( 上 ) 罪と罰 / 罪と罰創作ノート 未成年 / 未成年創作ノート カラマーゾフの兄弟 ( 上 ) カラマーゾフの兄弟 ( 下 ) / カラマーゾフの兄弟 14 15 作家の日記 ( 上 ) ( 下 ) 16 17 18 書簡 ( 上 ) ( 中 ) ( 下 ) 19 ・ 20 論文・記録 ( 上 ) ( 下 ) 別巻米川正夫著ドストエーフスキイ研究 創作ノート
は根本的に貴下と見解を異にするものです。もしあの原稿を 『グラジダニン』の編集部から受け取ることを、だれかにご 依頼なさるようでしたら、午後一一時から四時までの間に、い つでもお渡しいたします。 ・ドストエーフスキイ
アレグサンドロフ君、ご苦労ながら今すぐ、ほんの一刻だ 第一はきわめて些細なことですから、しいて主張する価値 け印刷所へ来てください。わたしと秘書と二人で、きみを待がないかもしれません。が、第二に関しては、尊敬してやま っています。きみがいなければ、決めるわけにいかないのでぬ筆者も、おそらくご同意のことと思います。 す。 貴兄の・ドストエーフスキイ 編集長・ドストエーフスキイ 6 姪ソーニヤ・イヴァーノヴァへ 土曜日午後三時半 ^ ペテルプルグ、一八七三年〉一月三十一日 5 ・・アレグサンドロフへ なっかしいソーネチカ、あなたに手紙を出そうと思いなが ^ ペテルプルグ、一八七三年一月初旬〉 ら、筆をとれないでいるので、自分で自分を呪っているので 植字工長殿 すが、しかし、文字どおりに一刻の暇もないのです。とくに 小生の論文釡作家の日記しの校正および原稿を、即刻送あなたのために手紙を書く暇がないわけです ( というのは、 ってください。なおお知らせしますが、結末ができないのあなたには心情を吐露したいからですが、そのためにはゆっ で、あの文章は抜かなければなりません。もしそれが困難な くり書かなければなりませんし、ある程度、書くことがらを ようでしたら、直接ご相談したいから、今すぐ編集室へ来て心で体験しなければなりません ) 。現在のわたしの時間割は、 ください いやな具合にきまってしまって、急に雑誌の編集なんて仕事 ドストエーフスキイ を背負い込もうなどと決心した自分を、自分で呪うよりほか ない有様です。 『グラジダニ 6 > ・・ブツイコーヴィチへ ( ン』の秘書 この手紙の持参者のフセヴォロド・セルゲエヴィチ・ソロ ^ ペテルプルグ、一八七三年一月初旬〉 ヴィョフは、あの歴史家のソロヴィョフの息子さんです。わ ヴィグトル・フェオフィーロヴィチ、残念ながら、この見たしは最近この人と知り合いになったのですが、その時の状 事に書かれた原稿を、削除なしに載せるわけにいきません。況が特殊なものだったので、わたしはすぐさまこの人物を好 ただし、小生が主張するのは、ただ二か所の削除だけです。きにならずにはいられませんでした。わたしは彼にお宅へ寄 一、ネーフスキイ大修道院の新僧正のもとにおける宴席のるように頼み、彼がモスグワを去る前に、わたしあての少し 件。二、カトコフ、ネグラーソフ、プラゴスヴェートロフに長い、も少し心のこもった手紙を書いてことづけるよう、あ ついてきわめて明らさまに書かれたところです。 なたを説き落とすことを依頼したわけです。かわいい尼さん
返ししなかったからといって、お叱りのないように願いまフヨードル・チロンの件についてです。小生は彼の住所を知 す。ほとんどいつも金がなくて、外国でも恐ろしいほどっつらないので、貴兄のご助力に期待をいだいている次第です。 ましい暮らしをしていたのです。たまたま金があっても、貴小生はダニレーフスキイを拙宅へお迎えすることを、心から 兄のご住所がわからなかったり、金が見る見るうちに流れだ望んでいます ( 明日、つまり二月十七日の木曜です。これは して、あっという間もない有様だったのです。しかし、お返日曜日に貴兄に申したとおりです ) 。ニコライ・ニコラエヴ イチ、貴兄も約東を疎かにされないこととそんじます。貴兄 ししながらも、なおいっそうお礼を申し上げます。あの百ル ープリはあの当時、ジュネーヴにいた時、まったくわれわれ以外に来会される方々は、少数の親しい人たちばかりです。 ヴラジスラーヴレフ、ラマンスキイ、マイコフ、それから 夫婦を支えてくれたのです。 二の人です。この二つのことについて、貴兄を当てにし さようなら。きっとお手紙を待っています。あるいは夏お一、 目にかかれるかもしれません。そうなったらどんなにいいでています。ではよろしく。 完全に貴兄の・ドストエーフスキイ 生涯を通じて心より貴兄に信服し、貴兄を熱愛せる 3 ・・ポロンスキイへ フヨードル・ドストエーフスキイ 妻がよろしくと申し出、自分のことを思い起こしていただ ^ ペテルプルグ、一八七二年二月十六日〉 尊敬してやまぬャーコフ・ベトローヴィチ。明晩 ( 二月十 きたいとの依頼です。 小生のアドレスは、セルプホフスカヤ街十五号、工芸学校七日、木曜 ) 、フヨードル・チロンの件につき、ご来訪く / 生にとって、非常な さいませんか。もしおいで願えれば、ト 付近。 Z ・アルハンゲリスカヤ持家は不要。 光栄であり、喜びであります。当日あつまるのはほんの少数 で、貴兄のごそんじの人ばかりです。 3 Z ・ Z ・ストラーホフへ 心より貴兄に信服せる フヨードル・ドストエーフスキイ 〈ペテルプルグ、一八七二年二月十六日〉 最も尊敬してやまぬ ( ヴラジスラーヴレフの用語 ) ニコラ 『ロシャ報知』 3 Z ・・リ = ビーモフへ ( の編集者 簡イ・ニコラエヴィチ、折り入ってのお願いですが、ニコラ ^ ペテルプルグ〉一八七二年〈三月〉 イ・ヤーコヴレヴィチ・ダニレーフスキイに、明晩拙宅へご 書光臨くださるようお伝えいただけませんでしようか。やはり尊敬してやまぬ = コライ・アレクセエヴィチ、三月号の発