モスクワ - みる会図書館


検索対象: ドストエーフスキイ全集18 書簡(下)
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1. ドストエーフスキイ全集18 書簡(下)

手紙を出しましたが、その中で次の点についてくれぐれもおのは、小生の掲載紙と原稿を送っていただきたいのです、た とえ原稿は破れていても、汚れていてもかまいません。 願いした次第です。 一、小生の論文が「モスクワ報知』に載り次第、その掲載五月はじめに、ペテルプルグからスターラヤ・ルッサへ移 号を当地、スターラヤ・かッサへ送っていただきたい、「モる時、住所の変更について、幾度か『モスクワ報知』の編集 局へご通知しました ( ノヴゴロド県スターラヤ・ルッサ、 スクワ報知』は取っておりませんから。 二、小生の論文の原稿を当地へ送っていただきたいので・・ドストエーフスキイ ) 。その通知にもかかわらず ( 一再ならず ) 、「モスクワ報知』は今日にいたるまで相変わ す、それも大至急。というのは、『作家の日記』の特別号に 掲載するのに、必要だからです。この号は七月一日までに出らず、ペテルプルグの住所へあてて来ています。このきわめ て簡単なこと ( つまり、夏の間だけアドレスを変えること ) すつもりです。 が、それはど実行不可能でしたら、ト / 生の名あてで貴紙を送 小生の依頼は何ひとつ重視されていないのです。今日はも う二十日なのに、なんの返事もありません。その間にも、時ることを、いっそやめてくださるようにお願いします。それ はどんどん経っていきます。原稿はペテルプルグへ送らなけを読むために、しよっちゅうべテルプルグへ出かけるわけに ればならないのです。その中には「モスグワ報知』に載らな行きませんから。ご返事をお待ちしています。敬具 ・ドストエーフスキイ かったところもあります。ご注意をうながしますが、これは 文学的私有財産ですから、失わるべきものではありません。 2 ・ Z ・カトコフへ 要するに、ト生は貴兄にご通知し、お願いしたにもかかわら ず、貴兄は、くり返して申しますが、小生の依頼に一顧の注スターラヤ・ルッサ、一八八〇年六月二十日 尊敬してやまぬミハイル・ニキーフォロヴィチ、六月十一→ 意も払ってくださいませんでした。どうして小生はこんなに 日『モスグワ報知』から、小生の論文の件に関して電報を受、 無視されるのか、理解に苦しむ次第です。いずれにしても、 け取った翌日、小生は編集秘書のイスラーヴィン氏にあてて 四日後に ( 二十四日までに ) 新聞も原稿も届かなかったら、 日記』の発行は時期おくれになるばかりか、『ロシャ報知』 ( 同氏とは小生の論文掲載について、たえず接触を保ってい たのです ) 、手紙を送り、次の二つの点について折り入って の仕事のために不可能になるので、貴兄は小生にはなはだし 依頼しました。 い損害を加えられることになります。 一、小生の論文が「モスグワ報知』に掲載されるや否や、 そういうわけですから、最後にもう一度、折り入ってお願 という掲載紙を当地スターラヤ・ルッサへ送ること ( 小生は『モス いしますが、どうか小生の依頼を実行してください

2. ドストエーフスキイ全集18 書簡(下)

お前の・ドストエーフスキイ ノ妻アンナへ 9 わが子フョ 5 ^ モスグワ、一八七四年四月二十五日、木曜日〉 かわいいアーニヤ、取り急ぎ様子を知らせる。わたしは予〈モスクワ、一八七四年四月二十五日〉 定どおりに、モスグワへ着いた。汽車の中はかなり具合がよ かわいいフェージャ、大事な坊や、うんと元気に遊びなさ くて、睡眠も取れたのだが、それにもかかわらず、やはり体 お前のパ じゅう打ちのめされたようで、頭が重く、まるで熱病にでも かかったみたいだ。これというのもみんな、前の発作が十分 2 妻アンナへ になおり切っていないせいだと思う。今日はどこへも出かけ ない。着報だけに手紙を書いているのだが、指一本うごかす〈モスグワ〉一八七四年四月二十六日、金曜日 おっくう かわいいアーニヤ、ほんのひとことだけ書く。今日はお前 どころか、舌を動かすのさえ億劫だ。 今夜はぐっすり眠って、明日はすっかり健康な体で目をさの手紙が届かなかった。いまはもう晩の八時だ。してみる と、きのうのわたしの手紙もおそらく予定どおりには届かな ましたいと思 , つ。 いだろう。子供のことで何か知らせが聞きたかったのだが。 こちらはよく晴れているが、しかし、はとんどそちらと同 じくらいに寒い。木はまだ裸だ。汽車の中でメシチ = ールスカトコフはとても愛想がよくて、日曜まで返事を待ってくれ キイに会った。ヴ = ーロチカは、つい先日ダロヴォ工へ立っといった。明らかに、レオンチェフと相談するつもりなの た。別に驚いた様子も見えなかったが、承知するとは思えな たばかりだ。ソーニヤ、マーシェンカ、その他子供たちの一 ペチェールス 部がモスクワに残っている。 メリニコフ ( ) も、一台分二百五十ループリを キイ、作家 明日は用事しを片づけられると、堅く信じている望んでいると、カトコフが自分で話した。二百五十ループリ には同意しても、前金渡しのほうは決めかねるのではないか ( つまり、拒絶を食うだろう ) 。そうしたら、できるだけ早く と心配している ( 金がないかもしれないから ) 。 帰る。用事が長引くようなことはないと思う。 特別なことがあったら、なんでも知らせておくれ。明日は詳しいことは会ってから。モスクワからはもちろん、まだ たいてい手紙を書くだろう。もしかしたら、日曜には出発す何か書いて出すけれど、出発は月曜日より前には無理だ。そ もしできたら、その前に知らせる。明日はれより遅くまでぐずぐずしたくないのだがね。ここにいると るかもしれない。 実に淋しい。子供たちに接吻する。子供たちのことをくわし 決まるだろう。さようなら、お前に接吻する。では 0

3. ドストエーフスキイ全集18 書簡(下)

た。この号で小生は、ロシャ文学愛好者協会の講演を再録しの美しく優しいお手紙に対して、このようにご返事の遅れた て、かなり長い序言と、後語とでもいうようなものを付けまことをゆるしていただくためには、あなたの人間愛と、聡明 す。これはわが愛すべき批評家諸氏に、数言を呈したものでな謙譲の徳に俟たなければなりません。しかし、いろいろの す。そのために五日以上おくれたとは思いません。次の八月事実を推察してくだすったら、ト ′生に対してさえ寛大の精神 号の『カラマーゾフ』は、来月 ( 八月 ) の十日より遅くはなを示してくださることがおできになると思います。小生は六 らないつもりです。 月の十一日に、へとへとに疲れて、モスグワからルッサへ帰 貴兄はリュプリノの別荘で、この夏をたのしく過ごしておって来るや否や、さっそく「カラマーゾフ』の仕事にかか られることでしようね。小生はモスクワ滞在中に、別荘へ招 り、一気に三台分書き終わりました。それから、原稿を送っ た後で、ト ′生と小生のモスグワでした講演のことを書いた新 待してくだすった貴兄のご好意を利用することができなかっ たのを、心から残念に思っています。しかし、貴兄もご承知聞を、残らす読みはじめました ( それまで仕事に追われて、 読む暇がなかったのです ) 。そして、グラドーフスキイに答 のとおり、小生はあの時とても忙しくて、最後の一週間は、 夜もほとんど眠らなかったほどでした。当地は素晴らしい天えることに決めました。単にグラドーフスキイに答えるとい 気ですが、そちらはいかがですか ? ご令閨に心からの敬意うよりは、むしろ全ロシャに対するわれわれの Profession を表します。ミハイル・ニキーフォロヴィチに、くれぐれも de foi ( 信条告白 ) を書くのです。なぜなら、モスグワのプー シキンの記念祭に現われたわが社会生活におけるまったく新 よろしくご伝声を願います。 が、悪意をもって揉み消され、歪曲されたから しいモメント 校正を首を長くして待っています。もっとも、モスクワか らの郵便が、このスターラヤ・ルッサへ来るのは、ペテルプです。わが国の新聞、ことにペテルプルグの新聞は、モスグ ルグより一日おそいですが、小生は一刻も長く引き留めておワで明瞭になったまったく新しいあるもの、従来の何ものに くようなことはしません。外国旅行はしないで、九月中旬まも似ないあるものに、文字どおり驚愕したのです。つまり、 社会は今までのように、ただロシャをせせら笑ったり、唾を でこのスターラヤ・ルッサに滞在のつもりです。敬具 吐きかけたりするだけでは満足しなくなって、是が非でも、 貴兄に信服せる・ドストエーフスキイ 別なものを要求しはじめたのです。ところが、これを揉みつ 2 ・・シュターケンシュネイデルへ ぶし、抹殺し、冷笑し、歪曲して、そこには何も新しいもの はない、ただモスグワの晩餐会の後のおめでたい気分があっ スターラヤ・ルッサ、一八八〇年七月十七日 たばかりだと、みんなにいい聞かせようとしています。あん 尊敬してやまぬエレーナ・アンドレエヴナ、六月十九日付

4. ドストエーフスキイ全集18 書簡(下)

返事申しますが、シェイナャ伐採地の森林七十デシャチーナまんじりともしなかった。ひどく弱り込んでしまった。夜は 約一ヘク を、一デシャチーナ ( タ ) あたり八十二ループリで売却寒くて、途中ずっと到るところ雨だった。トヴ , ーリ県で の牛、ト ノ生としては異存ありません。弁護士の件については、べた雪が降った。このモスグワも雪と霧だ。うっとうし は、当方まで差し向けていただくか、さもなくば小生がモス いことおびただしい。ペテルプルグでは、モスグワの今日の クワへ出向くまで待っていただきたいのです ( 十一月か、十ようないやな日は、十月じゅうたった一日しかなかったよ。 1 一月の初め頃にまいります ) 。小生の負担でわざわざポリヤ ホテル・ヨーロッパに投宿した、二十五号室だ。着替えを コフ氏を差し向けていただくのは、小生にとって厄介なこと し、体を洗って ( 暖房のない部屋で ) 、カトコフのところへ ですし、そのうえポリヤコフ氏はこの事件で、どれくらい奔行ったところ、留守だった。ほんとうに留守なので、居留守 走してくだすったか、わからないのですから、このうえあのではない。で、今夜八時に家を訪ねるといっておいた。こち 人を煩わすことはないと思います。あの人の報酬その他の支らから自分で行くことにして、向こうが呼んだのではないか . 払いは、小生があの領地から受け取るべき額より、もっと正ら、もしかしたら面会を拒絶して、会ってくれないのではな 確にポリヤコフ氏の手に入るはずです。が、いずれにして いかと心配している。モスグワのやり方がどんなふうなの も、ポリヤコフ氏にそういってやります。そして、もしポリ っこうにわからないのでね。もしそんなことになった ヤコフ氏の立会いがどうしても必要でしたら、彼自身やってら、わたしにとってはとても屈辱だから、今 ( 晩の六時 ) 実 来るでしよう。その場合、だれひとり彼を止めることはでき にいやな気分でいる。 ません。敬具 カトコフが留守だったので、本屋のソロヴィョフのところ 0 、、 ・ドストエーフスキイ へ行った カ留守だった。明日また行くつもりだ。それか ら、リュビーモフのところへ出かけたが、やはり留守だっ 妻アンナへ た。それから、ラッソーヒンを訪ねたところ、全額は払えな モスクワ、一八七八年十一月七日 いといって、たった二十ループリよこした。もう二日ばかり なっかしい友、わたしのアーニヤ、実に苦しい道中をした待ってくれたら、もっとお払いするとのことだった。わたし 後で、今日モスクワへ到着した。びったり閉め切った、通風は十一月の九日に寄るといっておいた。 の悪い車の中は、息のつまるような胸苦しさで、もう死ぬか それから、カーシキンのところへ行った。ここではちゃん と思った。おまけに、煙草の煙で空気が濁って、わたしは一と用意していて、すぐに六十五ループリ三十五コペイカ渡し 龠晩じゅう、胸が張り裂けそうになるほど、咳をしどおして、 て、これで精算ずみだといった。残本がうんと積んであった。 7 ノ 6

5. ドストエーフスキイ全集18 書簡(下)

まりご馳走を食べすぎたせいだ、というわけです。小生はません。今の小生の気持ちもほとんど同様です。全心を仕事に だモスクワにいる時から、『モスグワ報知』にあの講演を掲打ち込んでいます、懲役のような仕事です。九月には『カラ 載した後、すぐさまペテルプルグで『作家の日記』の特別号 マーゾフ』の最終部分、第四部を全部完結したいと思いま を出そうと決心しました、 これは今年度の唯一の臨時号す、いや、そう決心しました。ですから、秋ペテルプルグへ で、そこには小生の講演と、それに対するある程度の序言を帰ったら、比較的な話ですが、しばらくの間は暇になります 載せようと思うのです。それは講演が終わった後、文字どおから、「日記』の準備にかかります。来る一 八一年から復 りすぐ演壇の上で小生の頭に浮かんだものです。その時アク活するのですが、それはもう確からしいです。あなたは別莊 サーコフなどといっしょに、ツルゲーネフとアンネンコフも に行っていらっしゃいますか ? モスグワの消息はどこから 飛んで来て、小生に接吻し、小生の手を握りしめながら、き届くのでしよう ? ガエーフスキイがあなたに、なんとお知 みは天才的なものを書いたと、くり返しくり返しいったものらせしたのかしりませんが、カトコフのことはちょっと違い です ! しかし、ああ、彼らは今でもあの講演のことを、そます。カトコフを侮辱したのは、祝祭を主催したロシャ文学 んなふうに思っているでしようか ! つまり、彼らが感激か愛好者協会なのです。会はいったんカトコフに送った切符を らさめたとたん、何を考えるだろうかということ、これが小取り返したのです。カトコフが演説したのは市会の晩餐会の 生の序言のテーマになるのです。この序言と講演を、小生は席上で、市会の代表者として、かっ市会の乞いによってで べテルプルグの印刷所へ送って、もう校正も届きました。とす。ツルゲーネフにいたっては、カトコフからの侮辱を恐れ ころが急に、グラドーフスキイに対する反駁を Profession るなどということは、全然あり得ない、恐れるような振りを defoi として、「日記しの新しい章を書くことに決めました。するはずもありません。むしろ反対に、カトコフこそ何かい 全体で二台になりました。小生はこの文章に魂を打ち込んだやな目にあわされるのを、恐れていたかもしれません。ツル ペテルプルグ のです。今日、やっと今日、それをモスグワ ( の書きちがえ ) のゲーネフのほうはとても大がかりな派閥が作 0 てあ「たので 印刷所へ送りました。昨日はフェージャの誕生日で、客が来 ( コヴァレーフスキイと大学の手で ) 、彼としては何も恐れる ていたのですが、小生は引っ込んで、仕事を終えた次第で必要はなかったのです。ツルゲーネフこそまっ先にカトコフ す ! どうか小生に対して寛大なお気持ちになって、ご返事を侮辱したのです。カトコフが演説した後、イヴァン・アグ 簡が遅れたことをお腹立ちないように願います。小生はあなたサーコフのような人々が、彼のそばへ寄って、杯を触れ合わ が好きなのです。それはあなたもごぞんじでしよう。 そうとしたのに ( 彼の敵たちさえ杯を合わせまし「た ) 、カト 書モスクワの印象その他は、手紙で語りつくすことはできまコフが自分のほうからツルゲーネフに杯を差し出して、乾杯 引 7

6. ドストエーフスキイ全集18 書簡(下)

クワ報知』を取っていないからです ) 。 ・ T•五月にペテルプルグからスターラヤ・ルッサへ移 二、小生の論文の原稿を、文選の際に破れたり汚れたりし った時、『モスクワ報知』を新しい夏季の住所、すなわちス ていても差し支えないから、当地へ送ること。それは、七月ターラヤ・ルッサへ送ってほしいと、数回お願いしたのです 一日までに発行予定の「作家の日記』特別号のために必要だ が、その依頼や通知にもかかわらず、『モスグワ報知』は今 からです。 日まで依然として、前のペテルプルグの住所へ送られていま しかし、小生の依頼はすべて無視されて、今日二十日になすので、小生は当地にいて、貴紙を読むことはおろか、見る るまで、なんの返事もありません。その間に時はどんどん過こともできません。 ぎていきます。妻は「日記』の特別号を印刷するために、そ 2 Z ・・リュビーモフへ の原稿をベテルプルグへ持って行く予定にしていたのです。 その原稿には『モスグワ報知』に載らなかったところがあり スターラヤ・ルッサ、一八八〇年七月六日 ます。いずれにせよ、この掲載されなかった個所は、文学的尊敬してやまぬニコライ・アレクセエヴィチ、この手紙と 私有財産であって、紛失さるべきものではありません。まし同時に ( やはり六日に ) 、『カラマーゾフ』をも『ロシャ報 て小生は前もって、詳しく説明しているのですから、なおさ知』社へお送りします。印刷して三台分になるでしよう。こ らです。最後に申し上げますが、もしこの数日間に、請求しの編 ( 第十一編 ) の続稿は、八月号の間に合うように、猶予 ているものが届かなかったら、ト / 生個人の事情と「ロシャ報なくお届けします。それから、九月号には「カラマーゾフ』 知』の仕事のために、『日記』の発行は手遅れになって、その最後の編、第十二編 ( 『公判しが、もはや少しの中断もなく のため必然的に損害を蒙むることになります。どうして小生送られます。それで、この長編の第四部 ( 最後の部分 ) が閉 は「モスクワ報知』からこのように無視されるのか、理解にじられるわけです。それから十月号には ( これも必ず中断す 苦しみます。重ねて申しますが、小生はこのためにはなはだることなく ) 、短いェビローグがあって ( 一台半か、せいぜ しい苦痛を感じています。 い二台分です ) 、それで長編が完全に終わります。今お送り この手紙をしたためた目的は、ト / 生のためにひとことお声する部分には、『ロシャ報知』にとって不都合なものは、何 をかけていただきたく、折り入ってお願いする次第でありまひとつないとぞんじます。仕事はかなり楽にやっています。 簡す。そうしたら、ト / 生の依頼は早く実行されるかもしれませ何もかもとっくに書き留めておいたので、それをただ構成す ん。敬具 るばかりだからです。「。作家の日記』 ( 一八八〇年度唯一の特 貴下の・ドストエーフスキイ 書 別号で、七月の終わりに出ます ) のために、少々おくれまし 引 0

7. ドストエーフスキイ全集18 書簡(下)

当学区の学務監督に提出して、事前検閲を受けなければならへまいるとすれば、協会から選挙された代表という資格で行 ないのです。そちらモスクワのほうではいかがですか ? 例くわけです。オレスト・フ , ードロヴィチ・ミルレル (r ドスト えば、小生は原稿によって講演します ( あるいは原稿を主と スキ材伝」 ) もその総会の席で、同様に貴兄から招待を受けたと して話すかもしれません ) 。そうすると、新しく書いた原稿申していました。おそらく彼自身ご返事するでしようが、仕 によって講演することが、どこかで事前検閲を受けずに許さ事が山ほどあるので、どうやら行けそうもないと、小生には っていました。 れるでしよ、つか ? アクサーコフやツルゲーネフはど、フいう 貴誌に参加することは、 ふうにするのでしよう、検閲を受けてからですか、受けない もう一度も二度もくり返して でですか、åvivevoix ( いきなり口でしゃべる ) のですか、そ申しますが、このうえもない喜びです。では、多分お目にか れとも原稿を読むのですか ? もし検閲を受けるのでした かるまでお手紙は差し上げないことと思います。小生の質間 に対するご返事は、スターラヤ・ルッサでお待ちしていま ら、二十五日に到着するとして、小生の原稿が検閲に間に合 うでしようか ? どうかこれらすべてのことをお知らせくだす。敬具 さるよう、折り入ってお願いいたします。事情を知っておい 〇・・スヴォーリンへ ( 文学者、「ノーヴ , = ・ て、準備したいと思います。小生は近日 ( 水曜日になると思 いますが ) 、家族を伴って、この夏を過ごすためにスターラ スターラヤ・ルッサ、一八八〇年五月十四日 ヤ・ルッサへ出発します。そういうわけで、もし今すぐ小生尊敬してやまぬアレグセイ・セルゲエヴィチ、ご懇篤なお に手紙をくださるのでしたら、いきなり次の宛名で出してく手紙ありがとうございました。・ へテルプルグ出発の直前にユ ノヴゴロド県スターラヤ・ルッサ、・・ 」亠ごい ーリエフから ( ロシャ文学愛好者協会の会長として ) 、なお ストエーフスキイ ( これが最も完全なアドレスなのです ) 。 そのうえに会そのものから、公式の招待状がまいりました。 昨晩、こちらでスラヴ慈善協会の総会がありました。会長どうかモスクワへ出向いて、五月二十七日と二十八日の愛好 のベストウジェフⅡリュ ーミンは、ト生がプーシキンの銅像者協会の大会で、彼らの表現を借りると、「自分の言葉」を 除幕式にモスグワへ出かけると聞いて、さっそく総会に提議述べてくれ、ということでした。二十六日には宴会があっ しました。つまり、小生をスラヴ慈善協会の全権委員 ( 議て、そこでもスビーチがあるとのことです。ツルゲーネア、 員 ) として、モスグワの除幕式に参加させようというのでピーセムスキイ、オストローフスキイ、イヴァン・アクサー す。するとさっそく、熱烈な支持を得て、満場一致で協会の コフ、その他じつ大勢の人が話すらしいです。なおそのう 表ということになりました。右の次第で、もし小生が貴地え、スラヴ慈善協会が小生をその代表者として、鋼像の除蟇

8. ドストエーフスキイ全集18 書簡(下)

のはめったにない。みんなわたしがだれかということを知っ 妻アンナへ ーリンはモスクワの俳優生活について、逸 ているのだ。サマ 話をたくさん話して聞かせた。それから、食事をすますと真 モスクワ、一八八〇年六月三日ー四日、火曜日、夜半二時 っ直ぐに、プーシキン祭の講演会と晩の祝典のプログラム ロスグートナヤ・ホテル、三十三号室 なっかしいかわいいアーネチカ、またお前のうれしい便りを、いよいよきつばりきめるために、「愛好者協会」の委員 ドストエー フスキイ がとどいた。お前が自分のフ , ージチカ ( ) を忘れな会に出かけた。ツルゲーネフ、コヴァレーフスキイ、チャー 最初のプーシ、 いので、心からネをいう。お前がしよっちゅう手紙をよこしエフ、グロート = 、・、レテーネフ ( キン伝記者 員、言語判者 ) , ノ てくれるようにな「たので、わたしはず 0 と安心ができ、気ポリヴァーノフ、カラチ。フ等 ( 法律 ) が来ていた。すべ て満場一致で議決した。ツルゲーネフはわたしに対して、か 持ちがのどかになった。子供たちも元気なよし、うれしい なり愛想がよかったが、コヴァレーフスキイは ( でぶでぶし 今朝ロバーチンがきて、日程と祝典のプログラムを届けてく れた。わたしは十七ループリ渡して、市会で花環を ( 二つ ) た大きな男で、われわれの主義の敵だ ) 、しじゅう穴のあく ほど、わたしを見ていた。わたしは二日目、つまり六月八日 注文してもら、つことにした。ゾロタリョフはまだやってこな の昼の講演会に出て、六日の晩には祝典で、プーシキンの それから、ソロヴィョフとかいう弁護士が訪ねてきた。 学識のある男だが、ただ宗教問題を神秘的に論ずるために推『ポリス・ゴドウノフ』のうちビーメンの場を朗読する ( 音 参したに過ぎない ( 新しい流行だ ) 。それから、グリゴロー楽が許可になった ) 。大勢、ほとんどみんな朗読する、 ーリエフが ツルゲーネフ、グリゴローヴィチ、ビーセムスキイ等。八日 ヴィチとヴィスコヴァートフが現われ、続いてユ 来た。わたしたちはみんなで、カトコフにだした手紙のことの晩の第二の祝典では、プーシキンの詩を三つ朗読する (r 西方スラヴの歌』から二つと、『牝熊し、そして最後に、 ーリエフを攻撃し、こてんこてんにやつつけてやっ た。それから、グリゴローヴィチとヴィスコヴァートフと、 祝典の結末の意味で、プーシキンの「予言者』を朗読する。 っしょに、モスクワ料理店で食事をしたが、そこで役者のサ短いものだけれど、朗読には実にむずかしい詩だ。効果を上 リンと近づきになった。六十四の爺さんで、しきりにわげるため、わざと最後の分としてわたしが指名されたわけだ が、はたして効果を上げることができるだろうか ? ちょう たしに向かって演説めいたことをいうのだ。彼はプーシキン 簡の祝典で「吝嗇なる騎士』を衣裳付きで演ずることになってど十時に宿へ帰ったら、十時に来ると書き置きしたスヴォー リンの名刺が二枚、部屋においてあった。二枚は間違いだっ いる ( わたしから横取りしたわけだ ) 。モスグワ料理店はい たのだが ( くつついていたのだ ) 、わたしは彼が二度も来た 3 書つも人がいつばいだが、わたしのほうを振り返って見ないも 874

9. ドストエーフスキイ全集18 書簡(下)

っただろう。そこへもってきて、おそらくゴルジェイが酔っ ぎわざあのひとの家に泊まるつもりだ。七月十七日の日曜に ばらっていたために、手紙も約東の土曜日でなく、月曜か、 モスクワへ着き、月曜日の二時までモスグワで電報を待つ。 もしお前の返電が届かなかったら、もうダロヴォ工の領地へ火曜にだしたに相違ない。が、それにしても、もう着く時分 だ。明日まで待ってみよう。モスクワではお前の電報を待っ ハ打って、ト ク年時代の思い出の地を見るかわりに、真っ直ぐに のに、ちょうどいい加減な暇があるから、その間に、のつび ・プリコールのお前たちのところへ行く。どうもしかたがない きならぬ用事を片づける。月曜にサラーエフのところへ行っ よ、アーニヤ、わたしは今この瞬間じつに苦しいのだから。 ・今日は夕方から動悸がはじまって、どうしても止まらないのて、お前のためにエッセントウキ鉱泉を八びん買う ( ミハイ ル・ニコラエヴィチ・スニートキンが、たってそうしろとい だ。たえず考えてばかりいるが、いったいどんな考えが頭に - 浮かんでくると思う ? のべつわたしの頭に浮かぶのは、キうのだ ) 。ところで、もしモスクワで電報を受け取ったら、 一昼夜だけダロヴォ工へ行ってくる。 ーエフから帰る途中、子供らのうちだれか、フェージャかリ 、リコフへ行ったのなら、それについてただ もしお前が、 / ーリヤが汽車から落ちて、お前が半狂乱になっている光景だ。 そういうわけで、この手紙はわたしといっしょにつくかも一つ悪いことは、お前がいつもの癖で、わたしに隠してした ことだ。そうだ、アーニヤ、お前はわたしたちの夫婦生活の しれない。だから、雑誌の発行その他の詳細はここには書か ない。まして、いずれにしてもすぐ会うのだからね。ああ、十年間を通じて、わたしに信頼の念を持っていなかった。そ れがわたしのせいかどうかはわからない。そんなことはある どうなるのだろう、どんな状況で会うのだろう ! きようタ方、マリヤ・ニコラエヴナのところへ行って、雑まいと思う。信頼できないのは、お前の性質なのだ。ハリ 誌を渡しておいた。あのひとの話によると、お前はつい最フ行きについては、わたしが別に反対しないのは、お前だっ 近、キーエフとハリコフへ行くつもりだ、と書いてやったそて知っているではないか。お前のすることはみんなけっこう だ。わたしはずっと以前から多くの点について、お前の頭脳 うだね。これで、わたしはすっかり考え込んでしまった。も しかしたら、お前はハリコフへも行ったかもしれないね。こと分別を信頼しているのに、お前はわたしを信頼しない。 ハリコフから手 冫いま思い起こして見ると、お前はかねてから、それをし信頼していたら、プリコールへ帰る前に 望んでいたのだからね。そういうわけで、とくに子供づれで紙をだしたはずだ。そうしたら、わたしも今のように、こん 簡あるために、お前は急いで、文通を中絶したのだろう。お前な苦しい思いをせずにすんだだろう。なぜだか知らないけれ も疲れてるし、子供らも疲れているものだから、ハリコフかども、わたしは、マリヤ・ニコラエヴナの解釈どおり、お前 丿コフへ行ったものと信じたくてたまらない。だって、幻 書ら手紙をだす気にならず、プリコールへ帰り着いたのも遅か

10. ドストエーフスキイ全集18 書簡(下)

づとも、てんから話さしてくれないかもしれません。その時ところが、つい二十三日、もうトヴェーリを出てから『モ スグワ報知』を買って見たところ、ドルゴルーキイ総督の告 は小生の講演を活字にします。 お手を固く握ります。帰ったら『カラマーゾフ』の最終部示が載っている。皇帝は銅像の除幕式を「別の時まで」延期 に着手します。一夏じゅう仕事に没頭することでしよう。こせよとご命令あそばした、とのことだ。そういうわけで、わ たしはもうなんの目的もなしに、モスグワへ来たことにな れは愚痴ではありません。小生はこの仕事を愛しています。 来年からは必ず『作家の日記』を復活することに決めましる。二十八日の火曜日、朝の九時に出発しようと思う。それ た。その時はまた、貴下のところへ駆けつけて ( かってしたまでは、少なくとも、モスクワへ来たこの機会を利用して、 のと同じように ) 、ご指示を仰ぎます。貴下は、それを拒み何かのことを聞いたり、リュビーモフに会って大事の相談を したり、またカトコフにも会ったり、本屋をまわったりなど 、はなさらないことと、衷心から信じています。敬具 ししが。最後に、文壇関 する。ただそれがみんな間に合えば、 貴下の・ドストエーフスキイ 妻もお祝いを申し上げています。そして、わたしのことを係の陰謀も根こそぎ聞きだしてやる。お母さんとはチュード 忘れていたといって、さっそく小生を責めたことです。 ヴォで、心から接吻を交して別れた。ちょっとでも暇ができ たら、またくるという約東だった。暑い日で、わたしは文字 0 妻アンナへ どおりに一睡もせず、疲れてまったくくたくたになって、モ スグワ時間で十時にモスグワへ着いた。 キスグワ、一八八〇年五月二十三日ー二十四日 ーリエフ なっかしい友アーニヤ、途中で耳にした皇后陛下崩御の報停車場ではユ ) や、ラヴロフ ( 好協会会 ルースカヤ・ムイスリ が、どんなにわたしの心を乱したか、おまえは想像ができな粐発 ) や、『ロシャ思想』の社員と寄稿者 ( = コライ・アグサー いくらいだ ( 陛下のみ霊はやわらぎあれ、お前も陛下のためコフ、パルソフ、その他十人ばかり ) が、正式に出迎えてく にお祈りしなさい ) 。わたしは汽車がノヴゴロドを出るとすれた。みんなと近づきになった。それからすぐ、ラヴロフの 、旅客からそれを聞いたのだ。すぐにわたしの頭に浮かん家でとくに準備された晩餐会によばれた。しかし、わたしは だのは、プーシキンの祝典は実施することができないだろうすっかり旅行で疲れていたし、顔も洗ってないし、ひどく汚 という考えだ。もうチュードヴォから引返そうかとさえ考えれたシャツを着ていたり等々で、辞退してしまった。明日、 ー丿エフのところへ行く。ラヴロ 前たが、「よし祝典がないにしても、文学者の集まりとその演二十四日の一時すぎに、ユ 説だけで、銅像の除幕式をするかもしれない」と思い、そのフは、モスグワで一番上等の、一番い心地のいいホテルはロ スグートナャ ( トヴ = ルスカヤ街、イーヴ ' リ聖母教会のあ 点がわからないので、帰るのを思いとまった。