この書の出版から二年たった後、一九二八年、ドストエー ドリーニンの編集のもとに刊行され フスキイの書簡全集が、 者 医イ たキ はじめた ( 注も同人の筆になっている ) 。これは一九二六年 しス に出た「ドストエ ] フスキイ全集』と同じ型、同じ装幀の書 察フ 物であるが、標題は「・・ドストエーフスキイ、手紙、 イヤ 三二年から一八六七年までの書簡一一 キ 一』となっており、一八 ス 百六十三通を収めている。第二巻は一九三〇年出版、年代は 工の 一八六七年から一八七一年まで、収録書簡数は百三十通であ る。第三巻はそれから四年おいて、一九三四年に刊行され ス親 た。ただし、これまでは国立出版局の発行になっていたのが、 この巻から発行所が「アカデミャ』に変更され、扉裏には リエヴ『ロシャの覚書、日記、書簡、素材』 ( 総監修 > ・—・ネーフ られている。というのは、最初の妻マリヤ・ ナに宛てた手紙は、わずか一通しか現存していず、しかもそスキイ ) という大きなシリーズの一部であることが、明瞭に れは、彼女がイサーエフ夫人であった時代に属しているから標示されている。この変化は仔細に観察すると、文芸出版に である。これに反して、アンナ夫人宛ての書簡は百六十二対する一般政策に、ある転機の生じたことを暗示するように 通、すなわち現在発表されている書簡全体の四分の一以上を思われる。「アカデミャ』ももちろん、官営ではあるけれど、 占めるほどおびただしい数に達している。ストラーホフの編主として特殊な、専門研究的な文学書類を出版する機関であ 纂した最初の書簡集の取捨選択に、アンナ夫人の意志と感情る。第三巻は一八七二年から一八七七年にわたり、二百十九 が少なからず影響しているらしいことは、前に一言したとお通を収めている。 これがドリーニン編纂のドストエーフスキイ書簡全集の最 りであるが、最初の妻宛ての手紙が一通しか残っていないと 後であって、以来この書の刊行は中断されたままである。訳 いう事実にも、それに似た原因が働いているのではあるまい か、という想像が、心ならずも浮かんでくる。この妻への者の忖度するところでは、あと一巻で完結したであろうこと は、おそらく誤りであるまい。なぜなら、ドストエーフスキ 手紙』の監修は、早くからドストエーフスキイの研究者とし 一年一月二十九日に永眠したのであるから、三年 て知られているべレヴェルゼフであり、実際の編集に当たつイは一八八 とひと月弱の手紙を網羅するには、一巻でこと足りたに相違 解たのはべリチコフで、序文も注も後者に属している。
八三二年 八三四年 2 母マリヤへ ( 春〔 ? 〕 ) : 八三五年 3 母マリヤへ ( 五月九日 ) : 4 母マリヤへ ( 五月十九日 ) ・ 5 母マリヤへ ( 五月二十六日 ) ・ 母マリヤへ ( 六月二日 ) 7 母マリヤへ ( 六月二十三日 ) 一八三七年 父ミハイルへ ( 七月三日 ) ・ 簡 9 父ミハイルへ ( 七月二十三日 ) ・ 「書簡』総目次 上巻 父ミハイルへ ( 六月二十九日 ) ・ 一八三九年 。父ミハイルへ ( 三月二十三日 ) ・ ・・ホチャインツェフへ ( 三月二十三日 ) ・ 父ミハイルへ ( 五月五日 ) ・ 父ミハイルへ ( 五月十日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 八月十六日 ) ・ 伯父グマーニン夫妻へ ( 十二月二十五日 ) ・ 一八四〇年 兄ミハイルへ ( 一月一日 ) 伯父グマーニン夫妻へ ( 一月二十八日 ) ・ 妹ヴァルヴァーラへ ( 一月二十八日 ) ・ 父ミハイルへ ( 九月六日 ) ・ 父ミハイルへ ( 九月二十七日 ) 父ミハイルへ ( 十月八日 ) ・ 父ミハイルへ ( 十二月三日 ) ・ 妹ヴァルヴァーラへ ( 十二月三日 ) ・ 19 18 17 16 15 父ミハイルへ ( 二月四日 ) 父ミハイルへ ( 六月五日 ) 兄ミハイルへ ( 八月九日 ) ・ 父ミハイルへ ( 十月三十日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 十月三十一日 ) ・ 2 ヨ 2 ヨ
二つの異なった日付が重複しているのは、旧露暦と新暦の並貸与された、早大露文科の亡友松尾隆氏に、心からなる感謝 の意を表する。 置で、数字の若いほうが露暦である。 一九五八年七月 次に文章のことであるが、作品においても名文家といいが たいドストエーフスキイは、とくに書簡においては乱雑で、 きわめてまれではあるが、文章と呼ぶに躊躇するようなとこ 四年前、すなわち一九五六年、ドストエーフスキイの死後 ろにさえ遭遇する。こういったスタイルを、そのまま他国語 に髣髴させることは、とうてい不可能事であるけれど、ある七十五年を機として、従来この文豪にたいして冷淡であった 程度までは、翻訳においても原文に並行することができるわソヴェートの為政者が、突如として彼を偉大なる作家という けである。したがって、本書に発見される不熟な章句を、す名で呼び、国家的に盛んな記念行事をおこなうことを声明す 、 ' 干行を停止されていたド べて訳者の推敲不足に帰せられることのないよう、読者諸賢ると同時に、一九三四年このカた、リ ストエーフスキイ書簡全集の最終巻、すなわち第四巻の出 にお願いする次第である。 なお原書の注は詳細をきわめ、かっ広汎にわたっている版、および「未成年』その他未刊行の創作ノートを『文学遺 産』で発表することを公約して、世界のドストエーフスキイ が、本書では文意を理解しうる範囲内にとどめた。 筆をおくに当たって、 ドリーニンの第一、第二巻の原書を研究者を狂喜せしめた。しかし、それから三年たった後も、 それらの貴重な資料は出版されなかったので、この文豪にた いするソヴェートの方針がまた逆行したのではないかと、か すかな不安をいだきはじめたころ、おもいがけなく書簡集第 四巻が、昨年日の目を見た。わたしたちの喜びがいかに大き 。いうまでもない。わたし個人にしても、これに よって邦訳ドストエーフスキイ書簡を完成する可能が生じ、 今日ようやくその念願を達したわけである。 本巻には『未発表書簡』という題名を付したが、これにつ いては一言弁明しなければならぬことがある。ソヴェート版 八一年までの の書簡集第四巻は、一八七八年から臨終の一 百八十二通を収録しているが、わたしの邦訳〕。書簡』の中に 姪 ニヤ・イヴァーノヴァ
後に、「・・ドストエーフスキイのスラヴ慈善協会に対の理由は後に述べる ) 、わすか百五十五通であ 0 て、しかも する参加、および同協会の催したる追悼会』、・マースレそれにさえおびただしいカットが施されている。その第一の ンニコフの「・・ドストエーフスキイの生涯における一原因は、べージの増加を防ぐためであり、第二は、アンナ未 挿話 ( 伝記のための素材 ) 』、〔。使徒ヨハネより』 ( ドウロフの亡人の考量から出たものである。第一の場合はおおむね量的 詩 ) が載っている。伝記は前半をオレスト・ミルレル、後損失であったが、第二の場合は、質的に貴重なプランクを生 事をストラーホフが執筆している。なお、本ぜんたいの編者じることとなった ( そのほとんどすべては、ドストエーフス キイに親密な関係のあった、女性に関する個所である ) 。 も、この両人である。 この書物は爾来ながきにわたって、伝記としても、また書今世紀の初め頃から、ドストエーフスキイの未発表書簡 簡集としても、定本として取り扱われていた。三、四十年まが、いろいろの雑誌や文集類に掲載されるようになったが、 えまでは、欧米で翻訳された ( したがって邦語に訳された ) 書冊の形でそれらを集大成したものは出版されなかった。唯 トストエーフスキイ書簡集は、ほとんどすべてこれを原典と一の例外は、一九一二年に出たチェシーヒン・ヴェトリンス してきたのである。 キイの『同時代人の回想におけるドストエーフスキイ ( 手紙 と覚書 ) 』であるが、これはストラーホフ編の書簡集からは、 しかし、ここに集められているのは、現存しているドスト エーフスキイの手紙約七百通のうち ( 正確の数宇は不明、そようやく半ばを採録したのみで、そののち文集や雑誌に発表 . されたものも、洩れなく網羅されてはいなかった ( この本は 強キ 一九二三年に増補再版された ) 。 ツェントルアルヒーア もス 最フ 一九一八年、アンナ未亡人の死後、中央文書保管局に預け られた文豪の遺墨は、革命後の国内戦のため長く死蔵せられ ていたが、一九二一年に至って初めて日の目を見ることにな Z り、遺稿、創作ノート、書簡等は、それぞれの専門家によっ 工 て、整理研究がはじめられた。 ス親 た それから五年の歳月を経て、最初のドストエーフスキイ書 のえ 代与簡集「妻への手紙』が、一九二六年、国立出版所から刊行さ 時を 年響 れた。『妻への手紙』といっても、ここに収められているの 青影 は、二度目の妻アンナ・グリゴーリエヴナに宛てたものに限
一八四七年 ・・ポレーツキイへ ( 初頭 ) : 兄ミハイルへ ( 一月ー二月 ) ・ 兄ミハイルへ ( 四月 ) : Z ・ < ・ネグラーソフへ ( 八月末ー九月初 ) ・ 兄ミハイルへ ( 九月九日 ) ・・スタルチェーフスキイへ : <t ・・スタルチェーフスキイへ : 一八四八年 ・・マイコヴァへ ( 五月十八日 ) 一八四九年 ・ < ・グラエーフスキイへ ( 二月一日 ) : 弟アンドレイへ ( 二月二十日 ) ・ 祐・・グラエーフスキイへ ( 三月二十五日ー二十六日 ) ・・グラエーフスキイへ ( 三月三十一日 ) ・ ・・クラエーフスキイへ ( 四月上旬 ) : : : : : : 弟アンドレイへ ( 六月二十日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 七月十八日 ) 兄ミハイルへ ( 八月一一十七日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 九月十四日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 十二月二十二日 ) 72 71 70 69 68 67 66 ・一三五 ・・グリゴローヴィチへ : 一八五四年 兄ミハイルへ ( 二月二十二日 ) ・ Z ・・フォンヴィージン夫人へ ( 二月下旬 ) : 兄ミハイルへ ( 三月二十七日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 七月三十日 ) ・ 弟アンドレイへ ( 十一月六日 ) ・ 9 義妺ドムニカ・ドストエーフスカヤへ ( 十一月六日 ) : 一八五五年 ・・ヤグーシキンへ ( 四月十五日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 五月十四日 ) ・ ・・イサーエヴァへ ( 六月四日 ) ・ ・・ヴランゲリへ ( 八月十四日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 八月二十一日 ) ・ r-@ ・ヴランゲリへ ( 八月二十三日 ) ・・アンネンコヴァへ ( 十月十八日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 十二月十七日 ) ・ 一八五六年 兄ミハイルへ ( 一月十三日 ) ・ << ・ Z ・マイコフへ ( 一月十八日 ) ・ ・・ヴランゲリへ ( 三月二十三日 ) ・ 101 100 99 ・一六四 一七三 一七五 ユこノし 473
兄ミハイルへ ( 七月十九日 ) ・ 八四一年 兄ミハイルへ ( 二月二十七日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 十二月二十二日 ) ・ 」八四二年 弟アンドレイへ・ 一八四三年 弟アンドレイへ ( 一月 ) : 弟アンドレイへ ( 一月 ) 義弟カレーピンへ ( 十二月下旬 ) : 妹ヴァルヴァーラへ ( 前掲の手紙の別ページ ) 兄ミハイルへ ( 十二月三十一日 ) ・ 一一八四四年 兄ミハイルへ ( 一月下旬 ) ・ 兄ミハイルへ ( 二月十四日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 四月 ) 義弟カレーピンへ ( 八月下旬 ) ・ 兄ミハイルへ ( 夏 ) : 義弟カレービンへ ( 九月七日 ) 義弟カレーピンへ ( 九月十九日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 九月三十日 ) ・ 31 30 ヨこヨこ . イこユこ三左、 義弟カレービンへ ( 十月二十日 ) 弟アンドレイへ ( 秋 ) : 一八四五年 兄ミハイルへ ( 三月二十四日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 五月四日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 八月末ー九月初 ) ・ 兄ミハイルへ ( 十月八日 ) 兄ミハイルへ ( 十一月十六日 ) 一八四六年 兄ミハイルへ ( 二月一日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 四月一日 ) 兄ミハイルへ ( 四月二十六日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 五月十六日 ) ・ 弟アンドレイへ ( 五月二十四日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 九月五日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 九月十七日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 十月七日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 十月十七日 ) ・ 弟アンドレイへ ( 十月十八日 ) ・ 兄ミハイルへ ( 十月下旬 ) : 兄ミハイルへ ( 十一月二十六日 ) 兄ミハイルへ ( 十二月十七日 ) ・ 47 46 52 51 50 49 48 九五 ・ : 九七 ・一 00 ・一 00 ・一 0 七 472 O ーヒーゴこ三ー - ・
・解説 解説 ーリエヴナ ドストエーフスキイの遺墨が、アンナ・グリゴ 夫人の死後、『スタヴローギンの告白』その他多くの創作ノ ートとともに、はじめて一般大衆の所有となった事情は、第 十巻『悪霊』〔本全集第十巻〕の解説で一言しておいた。その 中には多くの書簡も含まれていたのである。 ドストエーフスキイの書簡集で、最初に刊行されたのは、 三年、ドストエーフスキイ家版全 彼の死後二年たった一八八 集の別冊といったような形で出た、「ドストエーフスキイ、 河出書房版、米川正夫個人訳ドストエーフスキイ全集に 伝記、書簡、手帳の感想』と題する書物であって、今ではこ 『書簡集』がはじめて加えられたのは、第三次全集の時であっ の本は稀覯書となっている。この本にはなおそのほか、短編 て、上下二冊 ( 第十五、十六巻 ) が一九五三年に発行された。 『ポルズンコフ』と、一八五四年の欧州事件に』と題する これはそのご決定版全集の刊行にさいして、そのまま第十七、 ドストエーフスキイの詩と、本全集では「作家の日記しに採 十八巻として収録されたが、別に第二十二巻「未発表書簡』と トリトン ) 』と、「ヴレーミャ』およひ 録した『最後の頁 ( して、前二冊に入らなかった書簡が訳出された。 「エボーハ』の予約募集の広告文三種 ( 広告文といっても、 本全集では、この既刊三冊の書簡を年代順に配列しなおし、 新しく一連番号を付したが、解説は決定版全集のものを、その かなり浩瀚なもので、ドストエーフスキイのいわゆる「土地 まま収録した。「「書簡』について—」は第十八巻書簡』 主義」を知る上において、貴重な文献である ) 、そして、最 下 ) にのったもので、第三次全集の解説 ( 第十六巻、一九五三 年三月 ) と同じ内容である。「『書簡』についてⅡ」は第二十《、い嚴い ~ 」安鷺。 ヴ 二巻未発表書簡しにつけられたものである。 ただ、ドストエーフスキイの手紙の数については、若干の訂 ロ ゴ 正と補筆をおこなったことを、付言しておく。 「書簡』について 人 の 代 新第 年 ( 米川哲夫 )
読しました。小生の描いた少年たちがお気に入って、喜びに十二だったようですね」ときくところは、「きみはやっと十 たえません。コ ーリヤ・グラソートキンについてのご意見三だったようですね」としなければなりません。あるいはそ は、小生もまったく同感です。しかし、困ったことには、 のほかも何か所か、ちょいちょい直さなければならないとこ 生は校正でその点を訂正せず、今日すでに発送してしまったろが、あるかもしれません。要するに、年をもう一つふやす のです。右の次第で、小生の誤りを訂正することが可能でし ということに、異議なく同意します ( 一つだけ ) 。しかし、 くら ようか、また貴兄にその訂正を引き受けていただけるとして彼は十三歳だけれど、ほとんど十四歳といってもいし も、その時日があるでしようか ? また貴兄にとってご厄介で、二週間たったら十四になる、という意味においてです。 ではないでしようか ( たとえ時日の余裕があるとしても ) 。 それだけで十分なように思われます。そういうわけで、もし というのは、数字を変えなければならない個所が、かなりたそれがまだできるようでしたら、つまり時日の余裕があっ くさんあるからです。つまり、コーリヤ・クラソートキンのて、貴兄ご自身が、その訂正をしてくださるようでしたら、 年を一つ多くしなければならないのです。第一、家庭のこと これほどありがたいことはありません。妻は ( 貴兄にくれぐ を説明しているはじめのほう、つまり第一ページでグラソー れもよろしく申しています ) 貴兄よりも前に、それとまった トキナ未亡人のことを語っているところですが、彼女の夫が く同じことを申していました。 何年まえに死んだと書いていますが、もし直すとすれば、十最後に「キリストはよみがえりたまえり」を申します。敬 三年としなければなりますまい。第二に、少年たちが鉄道に具 集まる場面ですが、コ ーリヤが「十四歳の連中」から子供あ 貴兄の・ドストエーフスキイ つかいされて腹を立てるところは、「十五歳の連中」と変え ・ TÅ尊敬してやまぬミハイル・ニキーフォロヴィチ なければなりません。それから、最後に、彼が塀のそばに立 に、全世界のキリスト教徒の大祭日を祝う言葉を、伝えてく って、アリヨーシャを待ちながら、自分の背の低いことを考 ださるよう、折り入ってお願いします。『モスクワ報知』の えている場面では、「ポロヴィコフは ( 名前を忘れました ) 社説はいつも楽しく拝読しています。深い印象を与えられま 十三なのに、おれより背が高い」と直さなければなりませす。 ん ( 小生のテキストでは「十二」となっていますが ) 。最後 に、アリヨーシャと話をするところでも、彼が自分の年をい 9 ・ Z ・ベストウジェフⅡリューミンへ スラヴ慈善協会 う時、「十四」としなければなりません。「二週間たったら 会長、歴史家 十三」でなく、「十四」です。またアリヨーシャが、「きみは〈ペテルプルグ、一八八〇年四月十七日〉
と第三巻の一年あたりの平均数を割り出して見ると ( 第一巻 は例外として ) 、第二巻は年二五・八通、第三巻は同じく三 六・五となるから、たとえこの最後の三年間に、ドス フスキイの書簡往復が著しく増加したとしても ( それは大き にありうることである。なぜなら、個人雑誌「作家の日記』 の刊行をはじめて以来、彼はロシャのあらゆる地方から、未 知の読者の手紙を受け取るようになり、そのうち何らかの意 味で必要と認めたものに、良心的な返信をしたためるのが常 だったからである ) 、かりに 一年平均五十通としたところで、 三年間に百五十通となるから、右の推測ははなはだしく真実 に遠くないと思われる。 少年時代から始まっている第一巻が、三十五年間にわ ただし断わっておかなくてはならないのは、この邦訳ドス たっているのは例外として、第二巻が五年間、第三巻が六年トエーフスキイ全集の書簡編は、決して右に挙げた原典の完 間、という割合になっているところから見ても、この想像は全訳でないということである。その理由はほかでもない、た 間違っていないはずである。 とえドリーニン編の第四巻が欠けているにもせよ、もし全体 いずれにしても、この書簡全集が未完のまま中絶されたとを訳出したら、さらに書簡編を一冊増さなければならぬこと いうことは、ドストエーフスキイ研究者にとってなによりのとなるが、第一に、それは発行書肆の企画に反するし、第二 せんしよう 遺憾事で、ためにわれわれの失うところは尠少でない。しか には、比較的内容のない事務的、ないし儀礼的な手紙を残り し、『妻への手紙』が、 一八七八年ーー一八八〇年に属するなく収録することによって、さして意味のない時間的・経済 もの四十通を蔵しており、ストラーホフ編の書簡集から、同的負担を、読者に課することを恐れたからである。訳者がド じ時期に属するものを十七通抽出することができたので、こ リーニン編第四巻の未刊について、あれほど多くの言葉を費 の大きなプランクをかなりな程度にまで埋め得たことは、せやしたのは、その中にドストエーフスキイ研究上、重要な意 めてもの幸福といわなければなるまい。しかも、ストラーホ義を有する書簡が含まれているてあろうことを、想像するか フ編の書簡集も、この時期に属するものは、少しの削除もならにほかならぬ。 いから、その意味において二重の幸福である。全集の第二巻 A ・ I ・ゲルツェン イ 02
は、それらの書物の多くは、いま市場に少ないからです。しません。子供たちは活字で自分の役を暗記したほうが、かえ かし、ある書物の定価は明記して、ご参考までにお送りしま っていいでしよう。定価は貴兄ご自身で指定ください。みん 敬具 なすぐ払うでしよう。ソフィヤ・セルゲエヴナにしても、 す ( 向の書物のリストが 0 いている 貴兄のフヨードル・ドストエーフスキイ生にしても、とてもうれしいことです。いずれにしても、ど うかさっそくご返事をくださるよ、フ。 8 ・ Z ・プレシチーエフへ 8 完全に貴兄に信服せる・ドストエーフスキイ 食テルプルグ〉一八八〇年十二月二十四日 引・・コマローフスカヤ〈 ( び 尊き友アレグセイ・ニコラエヴィチ、もしきみが留守だっ たらと思って、万一の場合のために書いておく。この中にま〈ペテルプルグ〉一八八〇年十二月二十七日 尊敬してやまぬアンナ・エゴーロヴナ、火曜日の四時過ぎ た百五十ループリ入れておく。が、それでも、端たの借りが には、必ず参上いたします。これまでとても多忙をきわめて 残っている。しかし、うんと金持ちになったら、いっかごく トル ~ にと 近いうちに、なんとかして返す。今のところ、まだどうやら いました。もし少し暇があったら、この数日間に、 って最上の希望を果たすことができたはずなのです。 持ちこたえている。何もかもやっと始まったばかりだ。さよ うなら。きっと祭日にはどこかで会うだろうよ。 心から信服せる・ドストエーフスキイ 完全にきみの・ドストエーフスキイ 6 ・・ポロンスキイへ ( ) 八一年 〈べテルプルグ〉一八八〇年十二月二十七日 なっかしきャーコフ・ベトローヴィチ、ソフィヤ・セルゲ 6 ・・トルスタヤへ (i 一母ス ) エヴナ・カシュビリヨーヴァの出している「家庭のタベ』に 載った貴兄の小詩編森の中の子供たち』を送っていただけ〈ペテルプルグ〉一八八一年一月五日 尊敬する伯爵夫人アレクサンドラ・アンドレエヴナ、この ないでしようか。「家庭のタベ』 ( なかなか立派な版で、ずい ぶん予約読者を持っています ) の第一号は、一月十五日に出次の日曜日、三時から四時の間におうかが 、します。敬具 常にあなたの・ドストエーフスキイ ます。ューリヤ・ミハイロヴナ・アバザ邸の芝居は、その頃 にはまだ実現しよ、、 オし力もしれませんが、そんなことはかまい