し、おのれ自身の風貌がなく、独自の思想がない。われわ ものを全体として、有機的に摂取せず、自分の研究を ab 8 れは自分自身なり、わが国の生活の現象なり、事実なり、 0V0 ( 初歩から ) はじめない。われわれには思想の結実、知 識の上っつらだけで十分なのである。われわれの大多数 資料なりの検討にかかるが早いか、必ず何かしら色眼鏡、 は、「村の先生」にすぎない。わが国では、賢人となり、 パレ・ロワイヤールか、ライプチッヒの市場か、それ 。しとも容易なことであり、文学者 ともわが国の古物市で買った色眼鏡で眺めるのである。 尖端的な人になるのま、、 のみならず、われわれ自身からして ( 自分では気がっか なり社会的活動家の仲間入りするのは、易々たるわざであ る。わが国にはただ両極端が存在するばかりである。すな ないなりに ) 、主として旧套の人間であって、どんな短い わち、お手製の「目分量」できめてしまうか、さもなけれ 時期にも、それぞれの型がある。だれでもいいから試み に、社会の通念となっているなんらかの流行思想なり、一 ば、外部からもたらされた教義を無条件に、なんの比較も 定の時期に社会ぜんたいの崇拝している偶像なりを、先入 なく、奴隷的に、独断的に受けいれるかである。わが国で は何かちょっとした知識を絶対的な意味で、絶対的な面 見や盲拝なしに批判するとしたら、必ず泥を投げつけられ に相違ない から、事の本質において獲得したものや、それからごく限 : が、もうその代わり、いったん羽目をは ずしたら、、、 とんな巨人だって一文の値打ちもないのであ られた日常生活に必要なだけの分別を持って、それをなに る。われわれは一方においては、ちょいちょいした思想や かの機会に公式化し、流行文句やヨーロッパ的月並みで割 って薄める連中は、それでも教養のある、高潔な、現代的 偶像の農奴的状態にあって、卑屈なほどの恭順を示しなが な人間、 ら、また一方においては、他人の意見をいれようとしない それに第一、聡明な人間と見なされるのであ で、専制君主的な態度を示すのである。つまり、自分たち る。のみならず、そういった美徳は、今の時代では個人的 と信念を異にする人間は、知的発達の局限されたものでな に有利でさえある。いかなる場合においてもおのれの処す ければ、良心的でない人間なのである。わが国にはヨーロ べき道を発見して、物事の杣対的加面い意義を理解し得る ッパの科学に照らされた、高潔な理想がたくさんある、そ人、ーー絶えず倒錯し、変転し、生滅する事件の深淵を理 れはいうまでもないけれど、種々さまざまな条件や、徴細解し得る人だけが、またそうした事件と理想との関連、な な資料や、わが国の国民生活、ローカル的生活の精神、な らびに事件の相互間の関連を捕えうる人のみが、真の理性 いし状況に関する知識はないのである。われわれは実際生を有しているのであるが、われわれはそういうことを確信 活における理想派である。それはある程度、そのために大するまでには、まだはるかに遠いのである : : : なおその した努力を要さないためでもある。われわれは知識という上、これがためには独自な自発的の思想と、しつかりした
ルプルグの官吏であるということさえ、このタイプにあって わが国の教養ある人々は、なんでも 幸はほかでもない、 は、きわめて深刻な、本質的な特色なのである。読者よ、諸 お好みのものを持っているが、それはただにせ紙幣であっ ミーラにおいて、次のような人物に出く て、なにか現実的な価値を持っているものは、きわめて少な君はわが北方のパル いのである。わが国では言葉、言葉、言葉が、おそろしいほわしたことがあるだろうか、ーー見たところ、じつに上品な 、ろんな文句が無数にあるので、紳士で、さまざまな問題について、首尾一貫した雄弁な表現 どよけいに製造されてい、し 何にもせよ、ほんとうに自覚され、もしくは感じられた思想で、いきなり人々の注意をひくのである。言葉は絶え間なく のしるしでもあって、それにどこかで行き当たったら、それ流れ出て、ちゃんと辻褄が合う。というのは、何ごとにつけ てもレディーメードの、断固たる意見が述べられるからであ こそたいした珍現象で、喜んでも喜び切れないほどである。 る。文章はりつばであり、知識は無限であり、着想は見事で われわれはすべて思索する人、感じる人、何かに従事してい る人の外面的な癖を、のこらず身につけたのである。われわある。しかし、この蜃気楼は長続きがしない。われわれは間 われわれの前 れは、何事もきわめて深く知りつくした人々のごとく、このもなく、次のようなことを感じはじめる、 世界のすべてについて、饒舌を弄することができる。われわにいるのはねこかぶりで、この雄弁な思索する紳士には何一 れにとっては、、かなる学階も し力に高遠な思想も、へっちつない、またいまだかって何ものもなかった、これこそまさ にフレスタコフであって、大臣を辞退して、女中のマルフー やらなのである。わが国においては、フレスタコフ こそ偉大な、い っさいを抱擁するタイプなのである。わが国シカに外套を投げ渡したばかりなのである。われわれは、こ ういう人物に出くわされたことがあるかと、諸君におたずね ではフレスタコフ主義は、単に雑録記者や、髭も生えていな い若造ばかりでなく、 soi-disant ( 自称 ) 学者や、一流の老大しているのである : : : しかし、こんなことをきく必要がある だろうか ? が、諸君が」方のパル ミーラに住むなり、来訪 家にいたるまで、いたるところに蔓延している。一見したと もっとも、 ころ、れつきとした、それどころかこの世に長く生きて来したことがあるなら、出くわされぬはずはない。 このタイプは今いたるところに蔓延した。どんな草深い田舎 て、何やかや知った連中の口から、真実の感情の完全に欠如 部していることを証明するような、無良心きわまる言葉を、とに住んでいるにしても、諸君は県庁所在地の町なり、郡役所 第つじよとして聞かされるのである。しかし、フレスタコフ主のある町なり、それどころか、領地の隣村にさえ、必ず出く 録義は、わが国の社会的病弊であり、ゴーゴリによって創造さわすに相違ない。 れた不滅のタイプであって、時を経るに従って、いよいよ高「すべて現実的な内容、心内におけるすべての真実なるもの 論く評価されるであろう。それどころか、フレスタコフがペテの動きが欠如しているくせに、それと同時に、あらゆる感情 3 = ロ
に、そういう人々の間に、、つこいどうして生活がはじまる の希望は即座に霧散してしまった。諸君はいったいなんとい うふうに事態を歪曲したものだろう ? 諸君はまずわが国のだろう ? かますの命令 ( の 。シャ民話 ) にでもよるのだろう の「進歩派」、わが国の「達筆家」ども、わが国の「わめき しかし、ご免をこうむって、順を追いながら話すとしょ 屋」たちを罵倒した。それが、彼らの行き過ぎや浅薄のため だけなら、まあそれもよかろう ! ところが、そうではなく て、諸君はまだその上に、彼らが不正直な人間であり、良心 諸君のいうところによると、すべての人が思想の独立不覊 のない連中であるということを、証明せずにはいられないのを口にしている現代ほど、空語空言がおびただしく氾濫した ーし ことは、かってないとのことである。それには異存ない。 だ。諸君ははかならぬそのために、あの哀歌的な号泣を上げ たのだとさえ、確信する次第である : : : もしそうでなかった かし、これは無理からぬことなのである。あり合わせのもの ら、わが国には学術がない、文学がないとくり返すことによでは何もできやしない。すべてつくり出し、生み出さなけれ って、諸君はいったいなんの益があるだろう ? それはあまばならぬ、それどころか、苦悩によって獲得しなければなら りにも陳腐なことではないか ! 諸君はもう前から、しばしぬ。そして、何もかも新規にはじまるのだ、いつもそんなふ ばそれを口にしていたものである : : : 諸君はそれどころか、 うにしてはじまるのだ。何一つとして初めから一どきに、 ロシャには国民性もない、 とさえ断言したものである : 後の言葉に達しはしない、人生における窮極の調和に到達す や、諸君にはほかの目的があったのだ。つまり、われわれのることはできなし言 、。者君はいう。「今は一見したところすべ 指摘した目的である。諸君はいらいらしておられる。われわての人が、自分自身の知性で生き、権威に跪拝しまいとし いて、ただそれがために苦慮しているかのごとく思われるにも れは諸君の癪がどこから起こったか、ちゃんと承知して る : ・・ : が、そのことは・後にしょ , フ。 かかわらず、俗悪きわまる月並主義が、今日ほど万能の権威 こうして達筆家や、迷いに陥った人たちの間に ( この点はをもって君臨したことは、かってなかった。他人の生活から しばらくのあいだ、完全に諸君に譲歩しよう ) 、ひとりとし借りて来た意見の、無意味な奴隷的反覆ばかりである」しか 部て清らかな良心を持ったものがなく、ひとりとして空虚ならし、もし地盤がなくて、活動が不可能だとしたら、前進を欲 第ぬ人間がなく、ひとりとしてまじめに働くものも、心配したする精神はアプノーマルな、秩序のない現象に表現されざる 録り苦しんだりするものもなく、思想と学術の受難者もないとを得ない。すなわち、空言を生活と取り違え、でき合いの他 しよう。しかるに諸君は、「生活がはじまると、腐敗菌も自人の公式に飛びかかり、大喜びでそれを現実に代えるだろ 論然に消えていく」といっておられるが、そういう社会の中う ! 幻想的な生活にあっては、そこに生ずることもすべて 0
諸君はロ笛が大変お嫌いである。それはもちろん、だれものずばりの名で呼ぶことができないのを見て、彼らは時とし 丿蕓するわナこ、、よ 緒君よロ笛を下の下の、恥ずて口笛を吹くこと、つまり、独善的な饒舌漢や、簡単に自己 べきことと考えておられるが、それはおまちがえのようであ満足をする活動家や、衒学主義や、文壇の順位あらそいや、 る。われわれはもう前に、『ロ笛』はわれわれにとって、む等々を大声に笑い飛ばすことを、むしろ有効と見なしている しろ有益であるかもしれない、 といった。少なくとも、われのである。彼らは時として公正を欠き、行きすぎをやり、軽 われの見るところによると、その中には、ある種の教訓、た率であり、過激であるとしても、彼らの思想は悪くない。そ いくらか多くの教訓がれはわが国の文学において新しいものである。それはわが国 とえば、諸君の剩癪におけるよりも、 存している。もっとも、諸君は癇の発作にかられて、時にのディオゲネスの樟であって、彼らはその中にかなりしつか は「ロ』のまねをしようとさえ決心することがある。しか りと、独立不覊の態度を持しているのだ。もしかしたら、わ し、諸君の怒りが、心底から、単純に笑うことを妨げるのれわれはこの笑いの意義を誇張し、詩化しているかもしれな で、その結果がどうもうまくいかないのである。われわれは いが、この場合、もしわれわれがあやまっているとしたら、 「現代人』のロ笛を吹きたがる傾向に、けっして引きずり込それは非常に不愉快なことである : もちろん、われわれは諸君の意とするところをも理解す まれはしない。あの雑誌のロ笛は時として、ひどく軽薄であ るばかりか、公平を欠いてさえいる。少なくとも、われわれる。諸君は自分の周囲に混沌を見ているので、せめて何かに はそういうふうに考える。が、とはいうものの、くり返してすがりつきたいのである。諸君はみずからを慰め、何にすが いうが、われわれは多くの点において、それを有益なものとるべきかを、知りたいのだ。諸君は自分の足下に地盤を要求 していられる。われわれは心からそれに同感したいと思って 認める。『ロ笛』はわれわれにいわせると、わが国の文学に ところが、諸君は しる、 それを信じていただきたい , おいて、ある程度ノーマルな現象でさえあるのだ。この雑誌 は昔話や、さまざまな気持ちのよい空想で、みずから慰めよ人のことを極端だとか、範を越えるとか、混沌としているな うとしない。活動家からは行動を求めて、鈍感な自己満足をどといって非難されるが、しかし諸君自身も、常軌を逸して 部排斥する。あらゆるものを、そのものずばりの名で呼んで、 おられるではないか。諸君は、素材が脆弱で、役に立たな、 、つぐいす 第を鶯として受け入れようとしない。「ロ籥を吹きたがるのにもかかわらず、何かを創造し、捏ね上げたくてたまらな 録連中」は、たとえば、自分たちがロシャ文学に参加している いのだ。諸君は、自分の素材が役に立つものだと、われわれ ということによって、わが国の文学に貢献する、ただそれだ ばかりでなく、自分自身をさえ、一生懸命に説得しようとし 論けで十分だ、などと考えてはいない。あらゆるものをそのもておられるが、それがみな単なる妄想にすぎず、諸君の捏ね鋼
いものを棄て、一刻一刻新しいものを積み立てて行きなが の生きた事実として押売りされるいいまわしの香料は、 ら、やみまなく働いているかのように田 5 われる。 ほとんど大多数の場合、知性に生命が欠如していて、思想 「ところが、事実は周知のごとく、そんなものなど少しも が無力で停滞していることを証明するものである。これら ないのだ。そうしたプログレスも、そうした運動も、そう の教義には、何聴に値するようなものは何一つ説かれてい した教義の交替も、そうした発達の階段も、シャポン玉に ず、いくらかでも役に立つものはまったくないのである。 すぎないのである。わが国の思想家たちがしかつめらしい これらの教義の興味は、その表明するところのものに含ま 顔つきをして、あるいは凄い張り切り方で、人生やプログ れているのでなく、それが存在しているということ、それ レスを喋々しているのを見るほど、世にもこつけいなもの が出現しうるということ、それを生み出す原因、などに存 はない。彼らは焦眉の急を要する問題と取り組んでいると するのである。わが国において、これらの現象を生み出す 思って、抽象的な、あるいは現実に縁遠いテーマで、学術 原因は、明々白々である。わが国の社会には生命がない。 に努力をささげている人々を嘲笑している。しかし、学術生命の欠如が、この腐敗の気と、燐火のようなきらめき には現実に適せぬようなものは何もないのだ。厳粛な知識 と、無意味な言葉の氾濫によって表象されているのは、異 にとっては、研究に値しない、無益な問題や事実など存在とするに足りないではないか ? わが国には今日にいたる しないのである。それに反して、あの生活のためにつくり まで、科学らしいものが何一つない。わが国の土壌では、 出され、しかも人生的なものと自称している教義には、実 科学はまるで発芽しないのである。わが国では科学をまる 行のために役立っ言葉など一つもなく、生活に適するもの でぜいたく品か、無用な仕事か、それどころか、危険物の などが何一つない、 とい、つよ、つなことがしばしばである。 ようにさえ見なしていた。科学はさまざまな縁のない条件 人生を問題としているこれらの教義は、もっとも難解な に当て嵌められ、好蔑され、無視された。科学はロシャの 数学の計算よりも、微に入り細を穿った学術研究よりも、 社会では、みじめなペダントあっかいされ、いじめられ嚇 上較にならぬほど実生活から離れていることが多い。数学 しつけられたトレジャコフスキイのような存在であった。 の公式は生活現象のかげに隠れているので、その現象を理 かくして、踏みにじられた知性活動の萌芽は、その結果を 解するのに必要かくべからざるものである。あらゆる学術 しめしはじめた。真理よりほか他の目的を持たぬ自由な知 はいかに専門的であっても、現実生活の事実を対象とし識の精神、知識よりほか他の目的を持たぬ思想は、わが国 ているがゆえに、やはり生活解明のために必須である。と の文学によって、自己の欠如を輝しく表明したのである。 ころが、こうしたすべてのナンセンス、言葉のあや、生活わが国のシャポン玉みたいなさまざまな教義や、あのいと アプストリュズ 402
ーリのこ わたしの考えでは、すべてを自分自身の目で見て、自分自身ある種の尊敬をもって書いてもいい。時にはリスト わいろ の思想で裏打ちし、自分自身の言葉、新しい言葉を発すること、時には善行と道徳のこと、時には不道徳のこと、賄賂の とだって、できそうなものである。しかし、とんでもないー ことを書いてもいい。たとえば、賄賂のことなどは必ず書か きみは何をいうのだ ! 新しい言葉だって。いったい毎日一なければならない。それで雑録はできあがりだ。なにしろ思 つずつ新しい言葉を発することができるだろうか。おそらく想なんてものは、今どき、まるで露店のバンみたいに、完全 一生涯かかったって、そんなものは手に入らないのではあるにレディーメードで売られているのだから。ただ印刷一台 まいか。たまたま耳にしても、その意味がわからないのでは分のものができたら、それでことは片づくのだ ! 」現代のあ あるまいか。自分自身の思想で裏書きする、ときみはいうんる種の書きなぐり屋 ( これは雑録家という言葉の自由訳であ だね。しかし、自分自身の思想とはなんだろう、どこで自分る ) は、熱と、意義と、理念と、進んで書きたいという気持 自身の思想を手に入れるのだ ? たとえほんの一分一厘でちがなかったら、すべては反覆であり月並みであり、月並み も、社主の考えにそむいてみたまえ、社主はすぐきみを首にであり反覆であることを、夢にも考えないのだ。彼らは、現 して、雑誌から追放してしまう。まあ、思想はやがて出て来代において雑録が : : : 雑録がほとんど重要な仕事であること るにしても、独創性、この独創性というやつを、どこから手を、夢想だにしないのだ。ヴォルテールは一生涯、雑録ばか わた に入れたらいいのだ ? 思想というやっ、これはなんといっ り書きつづけたのである : : : しかし、とんでもない , だって、わたし自身、雑録 ても、自分のものじゃない。それには : : : さよう、それにはしは何をいっているんだろう ! 頭が必要だ、洞察力が必要だ、才能が必要だ ! 諸君はわれを書いているのではないか。とんでもない横道にそれたもの われ雑録家から、あまりにも多くのものを要求しすぎる ! 雑録家というものが、時としていかなるものであるか、諸君おお、諸君よ ! わたしはすべてのニュースに飽き飽きし ははたしてごそんじか ( それはもちろん、時としてであってしまったので、どうして諸君がニュースのために嘔き気を ー、、よ、まどである。早い話が、アン て、常にではない ) ? やっと羽根が生えそろったくちばしの催さないのか、合庫がしカオし冫 ドレイ・アレグサンドロヴィチの身の上に、何か起こるとす 黄いろい若造、やっと学校を終わったばかりの、いな、しば 第しば学校を卒業もしない若造が、雑録なんか書くのはなんのる ! と、さあ、たいへん ! 無数の雑録家が、まるでから とい、つよ、フな」凩になる。「雑〔球にはプランがい 録造作もない、 すの群れが牛の死骸へあつまるように、四方八方からそのニ らない」と考える。「こいつは小説と違って、何を書いても ュースに飛びかかるのだ。ひとりひとりがめいめいいくばく 、し、時にはまた、 論いいのだ。時には勇敢に批評するのもいし かのかたまりをつまみ取って、いつまでもいつまでも突っつ - 三 3 〃
の確信するところによると、科学というものはただ実践的なギリス人であり、スペイン人であり、回教徒であり、あるし 生活の中、すなわち実践的興味と並んでのみ創造され、発展は古代世界の住民であったかのごとくである。人あるいは、 して行くものであって、抽象的なディレッタンチズムや、国それは自分の思想に欠けた模倣者だ、というかもしれない。 民的基礎との乖離の中に育つものではない。つまりこれがた しかし、こんなふうな模倣者はない。彼はすべての作品で めに、わが国には今日まで、ロシャ科学というものがなかっ en maitre ( 巨匠 ) である。こんなふうに模倣するということ たのである。この点では、諸君のいうことは正し、 は、みずから創造することである。模倣ではなくて、継承で し、「ロシャの文学とはなんそや、ロシャの芸術とは、ロシある。いったい諸君にとっては、このような現象でさえ、独 ヤの思想とは ? 」と問いかける諸君は、ぜんぜんまちがって立性のない、つまらない、無のように思われるのだろうか ? いる。ロシャの思想はすでに多くの点で、自己表現をした。世界開闢以来、いったいどこの文学に、こういう全面的理 事実をよく見きわめ、端的にそれを取り入れて、抽象性や書の特性、全人類性の証明を見いだすことができようか、 斎性をなるべく少なくして、自分の個人的興味を社会的なも かも、これが最も重要なのだが、あのような高い完成された のと取り違えないようにすれば、その時はじめて、多くのも芸術的形式で ? これこそロシャ思想の、最も大きな特徴か のを見分けることができるのだ。ロシャの思想はすでにロシもしれない。それは他の国民には存在するけれど、これほど ャ文学にも反映しはじめた。しかも、豊かな稔りを示した。 高度に発現されたのは、ロシャ文学においてのみである。し それはじつに力強い表現であるから、ロシャ文学に注目しな かもプーシキンにおいては、それがあまりにも完成された形 いということは、困難なはずであるにもかかわらず、諸君はで、あまりに渾然と現われたので、それを信じないことはで 「ロシャ文学とはなんぞや ? 」などとたずねているのだ。ロ きないほどである。 ( わたしはもはや、プーシキンがわれわれ シャ文学はプーシキンから、独立不覊の歩みをはじめた。プ にとって何を意味するか、ほかならぬわがロシャの国民文学 ーシキンの中から何か一つ、ほかのものは不問に付して、た にとってなんであったか、などということは喋々しないこと だ一つの特徴を取り上げてみたまえ、ーーー全世界性、全人類にする。いったい諸君は一八六一年第六十一号の「ペテルプ 性、全反響性の特徴を。彼は世界のあらゆる文学を自分のも ルグ報知』に載ったドウドウィシキン氏の論文や、奇怪なそ のにして、そのすべてを完全に理解したので、それらを自分の追随者たちのふしぎな意見に、同意されるのだろうか ? ) の芸術し 、、ここと、ことく反・鵬一した。 : 、 カその反映の仕方は、他国ロシャ思想はプーシキンから始まって、しだいに大きく、広 の芸術の特色、そのもっとも奥底にひそむ秘密が、彼の芸術く発展していっているのだ。いったいオストローフスキイの に移るというふうなのである。それはさながら、彼自身がイような現象でさえ、諸君にとっては、ロシャ精神、ロシャ思 362
ての進歩主義者を擁護しなければならぬから、ビュヒネルに きみは大胆不敵にもそんな無意味な『地球の臍』田 いたってはなおさらだ。そこで、シェイグスビアは容赦しなを、現代の最も偉大な経済的思想と同列におくんだね。現実 ければならぬが、もちろん、それもある時期までだ。 的かっ社会的科学の最後の言葉と同列におくんだね ! よく これはいっさいであって、その しかし、こんなことはみんな些々たる事がらだから、 合点したまえ。胃の腑、 と弁士はつけ加えた。 「これは特別の項にしない ほかのすべては、ほとんど例外なしに、贅沢品だ。むしろ無 もし腹が一ばいでなかったら、政治が何に で、簡単に第四項につけ加えておく。つまり、靴とプーシキ益な贅沢品だ ! ポーチヴァ ンの項にね」 なるんだ、国民性が何になるんだ、無意味な十地が何になる 第五項若いペンの所有者よ ! きみには五冊の『賢んだ、芸術が何になるんだ、科学でさえが、何になるんだ ? 明なる書物』を指示するから、きみは必ずそれを通読して、腹さえ膨らましたら、その他のことはすべて自然にできる。 参考にしなければならぬ。まあ、半年もしたら、きみは編集よしんば自然にできないとしても、それでもやつばり同じこ とだ。なぜなら、あとのことはすべて贅沢であり、無益であ の幹部とおも立った同人の列席している前で、その読んだも のについて必す試験を受けなければならぬ。 るからである。蟻、あのつまらない蟻でさえ、自己保存のた 第六項若いペンの所有者よ ! きみは本誌の主義傾めに、つまり腹のために結合したから、人間でさえ恥ずかし 向の根本をなす偉大なる思想を体得しなければならぬ。すな いくらいの蟻塚を発明することができたのだ。あれこそすな わち、全人類の幸福のため、また同様に各人の幸福のためわち、想像し得る限りの最も偉大な社会組織の理想である。 に、何よりも第一に重要なのは、腹、語を変えていえば、胃それに反して、いったい人間は何をしでかしたか ? 全地球 の腑である。きみは何を笑っているのかね ? の上に住む人間の十分の九は、始終おなかを空かしているで シチェドロダーロフはすぐさま」まかして、けっして入いまよ、 どうしてそうなのだろう ? ほかでもない、人 などしなかったと断言した。 間が馬鹿で、自分の本当の利益が何にあるかを見分ける力が なく、なにか役にも立たぬ芸術などという玩具に夢中になっ 「わたしはたった今『地球の臍』ということを、思いだした のです。嘆かわしい迷信に毒された民衆は、今でもこいつをて、偏見の中に停滞し、賢明な書物によらないで、自分の意 無意味に信じているのですからね」相手を笑わせて、憤怒を志にしたがって、勝手な当てずつばうの生活をしているから 慈愛に変えようという魂胆で、彼はこうロの中でもぐもぐい だ。そのために貧乏して、てんでんばらばらになり、何一つ 4 に、か、トれ - は、つオ / 、 . し、刀 / 、刀ノ 企画することができないでいるのだ。しかし、すべての人が と弁士は声を高め満腹であるようにすれば、すなわち第一歩を獲得さえすれ 『地球の臍』だって ! きみ !
うに感じられる。民衆がいきなり飛びついて読むようにする な楽しみだったからである。自分が王様や、さまざまな土地 ためには、どこからか文章を選んできて、それを「読書文 の説明をし、一般的に有益な注意をしてやったとき、これが 自分に一方ならぬ喜びをもたらしたのである。第二に、それ庫』に載せるだけでは十分でない。できるだけインスビレー と ションをもって、おのれの使命を感じながら、それと同時 はなんといっても朗読であって、ほかの何ものでもない。 こうした民衆のための文学に必須な才能をもって、それ にもかくにも、これらの人々は書物の中に喜びを発見するこ とを学んだわけである。してみると、一般的にいって、書物を編纂しなければならぬ、と筆者には思われるのである。 たとえば、かりにいまきみが にとって有利だったことになる。第三に、筆者はその時、ぜ人は反問するであろう、 しっさい天下り式を廃して、なんらの策略 んぜんそういうことを考えなかったけれども、あとになっ金儲けのために、、 て、書物はなんといっても、たとえば、カルタ遊びなどより もなく、そういう書物を編纂するとしたら、その書物のため 冫しったん問題にどこから文章を取ってくるか ? と。それに対してこう答 ましだ、という考えが頭に浮かんだ。第四こ、、 が有益如何と、その報告ということになった以上、たとええよう。自分は今、もちろん、現代の文章をも利用するだろ ば、朗読を聞いて得た精神的な印象や、そこばくの思想、そう、 もっとも、それはほとんど全部旦那衆のために書か こばくの空想なども、 いくらかの意味を持つはずである。もれたものではあるけれども、しかしその中から、民衆の読物 ちろん、彼らが『イーゴリ軍譚』や、「滴虫類の話」や、「一としても適当なものを少なからず、むしろきわめて多量に選 。しうまでもない。ただ上手に選択する 連の俚諺」や、「アトスの山」の話や、あるいはまた「年代ぶことができるのま、、 ことが必要である。この選択をどんなふうにするかは、筆者 ノされている修道僧、十一一世紀初め没 ) 」の話を聞いた ならば、それは比較にならぬほど有益にきまっている。 ( ネスが前に述べたいっさいを参酌してもらったら、くだくだしく 説明するには及ぶまい。筆者はシチェルピナ氏の論文を批判 トルの伝記が『読書文庫』に載るのは、彼の生涯を知るのが 面白いからではなく、ネストルが年代記僧だったからであしたが、氏より以上に巧妙にその選択をなし得るなどとは、 る。この事実は民衆の目から見て非常に重大なことに思われけっしてうぬ惚れていない。ただ一つだけ断わっておきたい 部る、と確かそういう理由だったようですね ? ) どうか、筆と思う。ほかでもない、筆者がどんなにうまい金儲けを提一言 第者が策略を弄しているといって、咎めないでいただきたい。 しても、今、現在のところ、すぐれた「読書文庫』を編纂す 録これはけっして議論ではない。い ま筆者の上げた「読書文るものは、おそらくだれもあるまいと思われる。が、その代 庫』の文章は、民衆にとってきわめて有益でもあり、興味ふわり、後日、否、おそらくきわめて近い将来に、わが国では 論かいものでもあるかもしれない。しかし、筆者にはこんなふ特殊な文学部門、すなわち民衆読物の部門が開けるだろう。 1 三 ~ 41
冷ましてしまうか、身を持ち崩すか、それともなにか別のこ顔はしばしばあおざめて揉みくたになり、いつも何かやり切 とをするか、である。ここで有名な諺、「ドイツ人にためにれないはど重苦しい、頭の割れそうな仕事に没頭して、時に なるものでも、ロシャ人には命取り」の反対のことをいって苦しい労働でヘとへとになり、疲弊しつくしたような恰好を も、かなり正確になるのである。われわれロシャ人のなか してはいるものの、本当のところは何も生産的なことをして これが外面的に見た空想家である。空想家はい で、自分の仕事を愛情をもって、ちゃんと仕上げるだけの手いない 段方法を備えているものが、はたしてたくさんいるだろう つも重苦しい というのは、極端にむらがあるからである。 か。というのは、どんな仕事でもそれをする人から、進んあんまり陽気すぎるかと思うと、あんまり気むずかし過ぎ、 でやろうという気持ちと、愛情を要求する、 その人間の暴れものであるかと思うと、注意が行き届いて優しく、エゴ 全部を要求するからである。また最後に、自分の活動目標をイストかと思えば、高潔無比な感情を働かす力も持って 発見した人が、はたして大勢いるだろうか ? ある種の活動る。こんな連中はまったく役に立たず、たとい勤めてはいて はなおその上に、予備的手段や保証を要求するし、ある種のも、やつばりなんの能もなく、ただ、自分の仕事をこっこっ 活動には匪質が不向きなために、手を振って 、、い加減なや続けているばかり。しかも、その仕事は実質において、ほと つつけ仕事をするので、見ている間に駄目になってしまう。 んど無為にも劣るのである。彼らはいっさいの形式に深い嫌 その時、活動を渇望し、直接的な生活を渇望し、現実を渇望悪を感じているが、それにもかかわらず、ほかならぬ彼らが していながら、弱々しく繊細で、女生的な性格を持っているおとなしく、毒心を持っていないというただそのために、人 人には、だんだんと、いわゆる空想癖が生まれてくる。こう からさわられはせぬかとびくびくものである。彼らは第一番 して、ついに。間が人間でなく、何かしら中間的な存在、 に形式主義者なのである。しかし、家ではすっかり別の様子 すなわち空想家になってしまう。 をしている。彼らは主として、寄りつくこともできないよう 諸君、空想家がはたしてなんであるか、諸君ははたして知な片隅で、深い孤独の中に住んでいる。それはさながら、人 っていられるか ? それはペテルプルグの悪夢であり、具象間からも世間からも隠れようとしているかのごとくである。 部化された罪悪であり、発端と結末、あらゆる破局と移変を含概して、彼らは一目見たとき、何かメロドラマ的なものが目 第んだ、言葉なき、神秘めかしい、陰鬱な、奇怪きわまる悲劇に映るほどである。彼らは気むずかしくて、家の者とも口数 録である。筆者がこういうのは、けっして冗談ではない。諸君をきかず、自己の中に沈潜しているが、すべて怠惰な、軽 は時として、こういう人間に出会われるであろう、 , ーー全体 い、瞑想的なもの、すべて優しく感情に働きかけるもの、も 文 にばんやりとして、目つきはとりとめがなくどんよりとし、 二 1 3 しくは感覚を刺激するものが、とても好きである。彼らま ~ ' 儿 を口