思想 - みる会図書館


検索対象: ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)
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1. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

とした。その瞬間、わたしの心は、泉のごとくほとばしる血笞が必要なことを、彼ら自身みとめている。わたしなら、少 ルガーリンの長編「ヴァ にまみれたような気がした。それは不意に煮えたぎ 0 た、カなくとも、ヴィジギンっ ) のことを書い ン・ヴィジギン J の主人公 づよい、しかもそれまで知らなかった感触のなすわざなのでただろうが、彼らはうんぬん、うんぬん」というわけであ ある。わたしはその瞬間、今まで心の中にうごめいていたばる。しかし、十四年のあいだ芸術に奉仕したことによって、 かりで、まだ意味のつかめなかったあるものを悟った。それフアジェイ・ヴェネジーグトヴィチの名声を受け継いだ「新 はさながら、何か新しいあるもの、ぜんぜん新しい未知の世詩人」 ( 行編集者であ。た作家パナー = フ ネグラーソフと共に「現代人。の発 ) は、わたしに笞を処方し 界を洞観したかのようであった。その世界はただ何かばんやないだろうと、庶幾する次第である。 さて、それ以来、あの幻想を見て以来 ( わたしはネヴァ河 りしたうわさによって、何か神秘的なしるしによって、かす かに知っていたものである。はかならぬそのとき以来、わた畔の感触を、幻想と名づける ) 、わたしはしじゅうそういっ た奇妙なことを経験するようになった。以前、青年らしい空 しの存在がはじまったものと考える : : : 諸君、一つうかがい ますが、わたしは空想家でないでしようか、そもそもの少年想の中で、わたしは時おり自分自身を、ときにペリグレス、 ときにマリウス、ときにネロ時代のキリスト教徒、ときに競 時代からの神秘派ではないでしようか ? そこになんのでき ごとがあるのだろう ? はたして何が生じたのか ? 何もあ技会場の騎士、ときにウォルター・スコットの小説『修道 「』のエドワード・ グランデニング、等々のように思い描い りはしない。まったく何一つない。それはただの感触であっ て、その他はすべて無事安泰なのである。もしそのときわたたものである。若いころのわたしは、情熱に燃える黄金のご 「ロシャ文学につ しが、、 , ポフ氏 ( ) のデリケートな感情を侮辱とき幻想の中で、心の底から、魂の底から、ありとあらゆる いてし第二章参照 ものを空想しつくし、ありとあらゆるものを体験した。それ することを恐れなかったら、わたしはそのとき、陰気くさい むち 傾向に対する罰として、治療薬といった形で、笞を自分に処はまるで、阿片に酔ったもののようであった。わたしの生涯 なで、あれ以上に充実した、神聖な、清浄な時期はなかった。 方したことだろう : : : ああ、まざまざと目に見える、 プルガ くな 0 たフアジ = イ・ヴ = ネジーグトヴィチ ( ー ) ので 0 わたしはあまり空想にふけりすぎて、自分の青春をす「かり 部ぶりふとった姿が、目の前に現われるのが見える気がする。見のがしてしまった。そして、運命が思いもかけず、わたし 第ああ、彼はいかに喜び勇んで、わたしの書いた笞についてのを官吏の仲間に突き落とした時、わたしは : : : わたしは : 模範的な勤務ぶりを示したが、勤務時間が終わると同時に、 録一節を、土曜日の雑録でほめそやしたことだろう。 「さあ、見たまえ、紳士淑女の読者諸君よ ! 」と彼は四週間自分の住んでいる屋根裏へ駆けもどり、穴だらけのガウンを 着て、シルレルの巻を開きながら、空想にふけり、その空想 論ぶつ続けて土曜日ごとに、怒号することであろう。「彼らに 3 ノ 3

2. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

とか、われわれはおのれの事業に対する愛を自分で自分に無われたにもかかわらす、である。もちろん、先覚者たちの間 理やり「押しつけた」とかいうのは、ありうべからざることで、この二十五年間にわが国でなんらかの進歩が遂げられた である。筆者は、この宣告の峻厳さが本ものであるとは、信ことを承認しようという規程は、まだ今のところないにきま じられない。思想の真の動きは時をふるにつれて、独自の厳っている。が、ぜんぜん進歩がなかったということも、あり 粛な、公平無私の歴史を持つようになる。その時には、事態得ないのである。シチェルビナ氏は、この意見を証明する具 はもっと深刻な、もっと喜ばしい解明を与えられるかもしれ体的な事実を要求されはしないであろう、筆者はそれを確信 。もしあれほど抽象的な見方でなく、若干の事実に基づしている。しかし、せめて一つの例でも、提供するとしょ いて、幾らか実際的な見方をするならば、われわれは自分のう。ほかでもない、次のような場合である。 意見に反する事実の中に、必ずや是とするようなものをも多筆者がさきに抜萃した長広舌の中で、シチェルビナ氏が自 ・ : 」「われわれは思いもよらな 少見いだすに相違ない。何も「悪い面ばかりを見る」必要は分で、「われわれは知らない : ・ : 」「われわれは愛の感情を ・ : 」「われわれは愛さない : あるまい。手のつけられぬ楽観論者、滑稽な楽観論者になら : 」「われわれの中には血 なくとも、公平に事物を見ることはできる。滑橋なといった自分自身に無理やり押しつけた : のは、はかでもない。わが国には何か一つ意見を発表するのが湧き立ち、カがあり余っている」などといっている。シチ エルビナ氏はおそらく礼節のために、このわれわれという言 にも、滑稽に見られることをひどく恐れるからである。その ために、最も多く人の賛成する、共通の意見をいだく人々葉をいたるところに挿入したものに相違ない。なにぶんに 丿ーに属するものと、考 も、氏は真剣に自分をそのカテゴー : 、たくさんいるわけである。すべての人に似るというこ これが滑稽に見られないための、最もよい方法であえているはずがないではないか。つまり、愛さない人間、成 る。こういったからとて、シチェルビナ氏もある程度共通の熟しない人間、愛するすべを知らない人間、自分自身に無理 意見をいだいて、すべての人に似ようとする傾向がある、なやり押しつけている人間、等々であると思い込んでいるはず さもなかったら、あんなに興奮したり、非難した シチェルビナ氏の見がなし どといおうとするのではさらさらない。 解はまったくのところ、わが国でも最も高潔な先覚者の大多り、軽蔑したり、あんな忠告をしたりなどするわけがない。 数のいだいている意見と、同じものである。ところが、わがさて、そうであるとしたならば、それこそ愛することも、評 国の先覚者は自然の道理として、われわれの世代に対する見価することも、行動することもできる人間が、すでに一人は しることになる : 方において、レールモントフの思想とはなはだしく相違する はずがない。 この思想はわれわれより四分の一世紀も前に現「きみはどうも誠実でないようだ」と、人々は筆者にいうだ

3. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

をレし力ない。くり返しされていた上に、社会そのものが弱体だったからである。た和 土壌にヨーロッパの結果を求めるわナこ、、 ていうが、わが国に適応するものは残るであろうし、適応し だ国庫が橋や道路をつくったけれど、それも主として、外国 ないものは自然と死滅する。いったいわが国の民衆をドイツ から来た技師たちの手によったものである。 人にすることができるだろうか ? 民衆に比べると、われわ しかし、結局、科学も根づくだろう。こういうことがすべ れはきわめて取るに足らない少数者であって、独立的な力もて成就するのは、もうわれわれがこの世にいないときかもし 資材も、巨大な国民大衆のそれに比べれば、はるかにすくなれない。その時はどんなふうになるのかということを、われ いのである。ところが、われわれはドイツ人の中に交ってい われは正確に想像することさえできないけれども、あまり悪 たけれども、百五十年という長い年月の間にも、われわれは くないだろう、ということだけはわかっている。われわれの ヨーロッパの影響に巻き込まれないで、ドイツ人にならすに世代の分け前として与えられるのは、第一歩を踏みだし、最 終わった。してみると、われわれは少数者であるにもかかわ初の言葉を発したという名誉である。新しき思想はすでに一 らず、徴力であるにもかかわらず、民衆に対して特殊な位置再ならず、ロシャの言葉によって外部へ表現せられた。われ におかれているにもかかわらず、やはり一般人間性、一切協われは過去におけるそうした表現を研究しはじめた。そし 和という偉大なロシャ的精神を内部に蔵していて、それを失て、今までは気づかれないでいたけれども、完全にこの思想 わずにいるわけである。この精神がわれわれの内部に感じらを裏書するような事実を、かっての文学現象に発見しつつあ れたので、われわれはドイツ人になることができないのを悟る。最近二つの雑誌で、プーシキンに関して奇怪な文学上の り、みずから進んで祖国の根源に帰ったのである。われわれ意見が発表されたにもかかわらず、プーシキンの偉大な意義 はヨーロッパ諸民族の巨大な活躍ぶりの中にあって、おのれはしだいしだいに明瞭になっていく : : しかり、われわれは の非活動性と非自動性を恥じて、ヨーロッパではわれわれと ほかならぬプーシキンの中に、われわれの思想ぜんたいの裏 して何もすることがないと悟った。どうかご心配なく、科学書を見るものである。ロシャの発達におけるプーシキンの意 しつこく はわが民衆に桎梏を加えはしない。それはただわが国民のカ義は深遠である。彼はすべてのロシャ人にとって、ロシャ精 を拡大するにすぎない。やがて民衆は科学においておのれ自神とはなんであるか、そのカの全部ははたしてどこへ向かっ 身の一言葉を発するだろう。今までのところ、科学はわが国にているのか、ロシャ人の理想はそもそもなんであるかという せんめい 根づかないで、さながら高価な温室づくりの花のようなもの ことを、芸術的に充実した形において、まざまざと闡明した であった。わが国の社会は理論的にも実際的にも、特殊な科ものである。プーシキンの出現は、文明の本がすでに実を結 ポーチヴ . ア 学的活動を示さなかった。なぜなら、祖国の土地から切り離ぶまでに生長し、しかもその実が腐ったやくざなものでな

4. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

わしい思想と知識とプログレスの戯画は、はたしてその証も、社会的教義も、目まぐるしく交代していって、偉大な っこ、何天才たちが炬火をたがいに渡し合うのである。 明ではないだろうか。今日の金棒引きたちょ、、 「これがすなわちわが国の教育の哀れむべき状態の原因で を教えているのだろう ? 彼らも同様に科学そのものが役 ある。わが国の文学が絶えずおびただしい仇花を咲かせて に立たぬ、無用のものであるといっているのではあるまい いる、これがすなわちその原因である。子供らしい厚かま か ? 知識の世界で、純粋な真理以外に他の目的を認めな しさ、科学から盗み取った文句で蔽い隠した無知、生活の いすべての人々に、彼らは大のように吠えかかろうとして いないだろうか ? 彼らはわが国で長いあいだ実践されて無理解、しかもそれと同時に、生活の根底を改造して、そ こ、つし の宿題を解決しようという愚かな思いあがり、 いたことを、理論にまで高めようとしていないだろうか ? たすべてのこと、これがすなわち原因なのである。なぜわ 彼らは、人間本性の至高なる天分に対する侮蔑と、不信の が国ではあらゆるばかばかしいことが大手を振って通り、 精神の表現者であり、適当な解釈家ではないだろうか ( こ 成功を期待しうるかという、これがすなわち原因なのであ の精神はわが国の生活に君臨して来たものである ) 。 る。まったくわが国では、成功を絶望しなければならぬよ 「わが国には社会というものがない、各人が心から参与す うなばかばかしいことは、一つもないのである。わが国で るような社会的な仕事がない、活動のために対象と、方向 は、急にすっとんきようなことをやり出して、周囲の人々 と、内部的規準を与えるようなものがない。わが国には社 を驚かさないといって、前から保証できるような良心的な 会はないが、グループがある。これは社会の怪しげな類似 物なのだ。この空気の流通のわるいグループの中で、この人間はいないのである。しかし、だれを非難することがで 小さな取るにも足りぬ社会の類似物の中で、この生活と隔きよう、どうにもしようがない。それとも、取るに足ら ぬ、目にも立たないような知識と思想の胚子を、ありった 離された、土壌というものの少しもない、知的にも実際的 にも遊惰の宿命を担わされた、子供らしい自己満足に充満けのカで押しつぶし、徹底的に殲滅してしまうべきだろう か ? それとも、遊惰なグループや遊情な教義を生み出す したグループの中で、われわれが上に述べたようなプログ 部 レスの奇跡が、くりひろげられるのである。ここでは急速原因、子供つばい思想や無良心な言葉を支持する原因を、 強化すべきだろうか ? グループの雰囲気に生じるこれら 第な発展が成し遂げられる、ーーー急速なというのは、それが 空つばだからである。ここではただ言葉の上だけで山が動のばかばかしいことが、われわれの目にどんなに奇怪千万 に映ろうとも、われわれはこれにまじめな意議を与えるべ かされ、口先だけで世界がひっくり返されるのだ。ここ 論では長い世紀が数か月、いな数週間で体験され、哲学系統きだろうか ? それを現実どおりに空な蜃気楼と見すし

5. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

わらず、まったくだめなことに違いない。実際、恐ろしいほあることを、証明しようと努めたのである。 しかし、フランスでは王政か共和匍か、それよりはかに政 ど貧弱な手段をもって活動しなければならないというのに、 ところが、共 ン不については、すべての人 彼がはたして狼狽しないでいられるだろうか ? もし彼が狼府はあり得ない。 狽しないときは、彼をまったくの馬鹿か、でなければ精神異が「あきあき」しているので、現在、不可能だ、と前に述べ いっている。この言葉についても釈明し、ただの冗談にとられた 常者に近い男だと、どうして思わずにおられようか ? たい今では、どこにわれわれの問いにたいする答があるのり、なにか企んだ軽率さに見られたりしないように努めたい 結局、どうやって、どんな力によって、正統主義はフと思う。しかし、それは今後の「国外の事件」に関する報告 ランスを救い、回復させることができるのか ? こうなっての一つではたすことにしよう。 くると、シャンポール伯はおろか、神の予一一一一口者でも、間に合 5 いそうもない。予言者でもやがては滅ばされるのである。新 しい思想は必ずやってきて、新しい社会は疑いもなく勝利す 〔「グラジダニン』第四十二号、一八七三年十月十五日〕 るだろう。それは新しい積極的な思想を持っている唯一のも 国外の政治的事件に関する、最後の報告 ( 『グラジダニン』 のなのであって、全ヨーロッパに予定された唯一の出口なの である。これには疑問の余地がない。世界は悪の精が訪れた第四十一号€)) のうちで、法王の俗界支配復興を意図する ときにはじめて救われよう : : : 悪の精は近づいている。われローマの政治的煽動のさまざまな徴候が、ヨーロッパぜんた 、に、現われていることについて語ったが、なかんすく、二 らの子孫はおそらくそれを見るであろう・ : 以上、われわれは自分に問題を与えて、それをできるだけ通の非常に興味ある手紙、法王からヴィルヘルム皇帝に宛て たものと、ヴィルヘルム皇帝から法王に宛てたものに、注意 分析検討してきたが、ただこのまえ国外の事件を報告したさ し記した二行の文章、つまり、シャンボール伯が「もし即位を喚起しておいた。そして、この手紙について読者に報告し : 」と述ようと約東した。それは今年の八月のものであるが、ベルリ するとしても、それは僅か二日のことにすぎない : ンで官報に発表されたのは、ようやく十月十四日 ( 旧暦二 べた文章について、ここで釈明したかっただけなのである。 われわれは軽率だという非難を受けたくなかった。それで正日 ) のことだった。次にビウス九世の手紙を掲げよう。 「ヴァチカン宮にて、一八七三年八月七日。陛下 ! 陛下の 統主義が、フランスを救う手段をだれよりも持っていないと いう根拠から、現在不可能であるだけでなく、フランスにと政府において最近とられつつあるいっさいの方策は、ますま ってまったく不必要な、現在も将来もいつも不必要なものです力トリッグ教徒の圧迫にと傾くように見受けられます。あ 幻 2

6. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

となしく坐って、沈黙を守り、歯を側きもしなければ、食っ れていくからね。新しい問題、新しい事実が現われてくるか ら、われわれだってそれを語らなくてはならない。が、以前てかかりもしない人間は、たといどんなに良心的な態度で仕 のおも立った同人がいなかったら、味噌をつけるかもしれな事をし、ほかのだれよりも自分の仕事をわきまえていても、 いつも読者の大部分の目に、大して力もなければ、知恵もな 何をなすべきか ? だ」 いように映るものだ。ところが、まっさきに飛びかかって、 「第一に、長編小説の『何をなすべきか ? 』ーフスキイ作 正確この上ない質問にたい 吠えっき、噛みつくものは、 を載せるんだ ! 」と編集一同が応じた。 しても、ずうずうしく返答をしないで、頭から唾を吐きか 「それは当然の話さ。が、それからさきは ? 」 「そのさきは、ばくとてもうまいことを考えついたよ」と一け、ロ笛を吹き、カリカチュアにし、だれかれの区別なしに 座の一人が決然といった。「だれかがわれわれを壁ぎわまで罵倒するものは、常に月並み連中や大衆の目から見て、強い 押しつけてしまった時、ーーーそれに概して、正確な決定的な力を持った、胸に一物ある人間と思われる。われわれも、そ 意見の必要な場合には、すぐさま、「新しい経済関係が生じんなふうにやろうじゃないか。まして況んや、以前だってし よっちゅう、そんなふうにやってきたのだからね。そういう た時』、いっさいが闡明されると声明する。それから、幾つ かの点をつかまえたら、それで万事うまくいくよ。これで一わけで、いまわれわれにいるのは猛大だ、吠えっき噛みつく 年半か、いや、二年くらい保つだろう」 猛犬だ。諸君、諸君はわかってくれることと思うカ 「ふむ ! 面白い考えだ。まして、こいつはまったくどんな猛大という言葉を、最も高潔な、最も高い文学的な意味で使 ときにでも使えるから、なおさらのことだ。ばくは諸君におっているんだよ。それに、猛犬はあらゆる獣や鳥に比べて、 たずねするが、経済関係に左右されないものが、はたして何いったいどこが劣っているのだ ? この場合、重要なのは猛 かあるかね ? そういうわけで、ごく月並みな思想でも、ま犬ではなくて、猛大的性質なのだ。われわれがちょっと「し るで本物のような恰好になるのさ。それどころか、そいつをつ、しつ ! 」といって嗾しかけさえすれば、われわれの手に 頻繁にくり返せばくり返すほど、無学者の目から見ると、い 入れた猛犬は、必ず何もかもうっちゃらかして、いきなり跳 部よいよ意味ありげに感じられるのだから、それでわれわれはね起きるや否や、まっしぐらに飛んで行って、いいつけられ 第本当の仕事をする義務を免じられるわけさ。しかし、ばくのた人間に食いさがり、 ici! ( こっちへ来い ) という声がかかる までは、暴れ廻るに相違ない。もちろん、われわれの猛大に 録見るところでは、それでもまだ足りないようだね : : : 」 思想がなければないほど、ますますけっこうなのだ。が、そ 「足りない、足りない ! 」 論「実はだね、諸君、わが国のジャーナリズムでは、じっとおの代わり、芸が、筆が、毒念が、底の知れない虚栄心がなくち

7. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

ば、またその見解でもない。 しかし、アグサーコフ一家、す かも、筆者は原則を論じるのであり、他人の信じ方が間違っ ているといって非難するのである : : : なんともいたし方がな なわち三人のアグサーコフ ( 庭記録』の作者セルゲイ、歴史家・評 それがすべてのものにつけられた軌道なのである。自次しの名はあまりにも高名であるから、相手がどういう人 分の意見は述べなければならぬ、だれもかれもが : : 社会一であるかを、知らないというわけにいかぬ。それに第一、な んという思想上のテロリズムだろう ? 人がちょっとでも自 般の運動に参加しているのだから、云々、云々である。 これはすでに廃刊になったけれども、浮分と違った考え方をすると、すぐ葬り去ろうとする、 かび切れないでいたルースカヤ・べセーダ』が、新聞に変かの方法がなければ、せめて中傷でもしてやれ、というわけ わったものにほかならぬ。同じ顔ぶれ、同じ思想、同じ主義だ。なんというお手軽な小暴君だろう ? なんというお手軽 である。編集者はイヴァン・アクサーコフで、第一号にはホな酸乳育ちのテロリズムだろう ! ミヤコフとコンスタンチン・アグサーコフ ( ともに故人 ) の が、もうたくさんだ : : : 筆者もこの新しい新聞について、 論文が載っている。この新聞で最も注目すべきものは、「ス自分の意見を吐くことにする。 ラヴ欄』と『地方欄』である。これは今のロシャの刊行物 これは相も変わらぬスラヴ派の人たちであり、相も変わら の、ほとんどどれ一つにもない。少なくとも、こんなふうにぬ生粋の理想家肌のスラヴ主義である。この一派にあって 絶えす連続しているものはないので、この点が『ジェー は、理想と現実が今日にいたるまで奇妙に混合している。彼 をかなり興味ある立場においている。概して、この新聞はきらにとっては事件もなければ、それから受ける教訓もない。 わめて興味ふかいものである。 依然たるスラヴ派で、依然として自分たちと違ったすべての ーニ』は早くもそこここで大きな反響を蜷き起こしものに敵意をいだき、依然として和睦することを知らず、依 た。アスコチェンスキイはうちょうてんになって褒め上げた然として狂暴なまでに排他的で、まったく非ロシャ的なけち という話だし、ある人々はこの若い「ジェ ーニ』を急いで葬臭い形式主義者である。次に見本として「ジェ 】ニ』の第一 ろうと ( もちろん、新聞雑誌で ) さえしている。あるべテル号から抜き書きしよう。 部プルグの新聞では幾たりかの葬儀屋が、この新聞をどういう 「この虚偽はいかに広い範囲にわたって横行したことか、 第部類に属させるかということを、いち早く考えついた。 また、依然として横行しつつあることか ! いっさいの内 しかし、葬儀屋連中のやり方は正しくない。 録 この場合、部類わけなどということは、論外の沙汰である。 面的発達も、いっさいの社会生活も、その虚偽のために、 文 ーニ』そのものでもなけれ 筆者が弁護するのは、『ジェ さながら天刑病におかされて、腐爛しているかのようであ

8. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

曲にすぎない。それは詩人によって恐るべき程度にまで拡大て、冷たい絶望につつまれながら、おのれの前に深淵を予感 され、しかも独特な見地から示されているので ( この見地こし、その中に崩れ落ちるのを覚悟している。人生は目的を失 あえ そ肝要なものである ) 、けっして好色的なものどころか、魂をつて、苦しみ喘いでいる。将来には何一つない。すべてを現 ゆすぶるような印象を読者に与えるのである。プーシキンの在から求めなければならない、ただ目前のことのみで生活を / ノミー・一フ」プルグ ペテル ) 充たさなければならない。すべては肉体に移り、だれもかれ 「 = ジプトの ) 、《、「北 ~ 刀の。、レ 描いた即興詩人 ( 夜。の作者 もが肉体的放縦に飛び込んで行く。高度の精神的な印象がな の聴衆の前に立って、「それはどういう愛人の話ですか、 いので、それを充たすために、官能を刺激しうるいっさいの perché la grande regina n' aveva molto ( 偉大なる女王に 方法によって、自分の神経、自分の肉体を興奮させる。この はそれはたくさんあったそうですが ) 」と、 いとも単純にオ ずねた時、やはり嘲笑をもって迎えられた。この聴衆も好色上もなく奇怪千万な変態性、この上もなくアプノーマルな現 の道にかけては通人であり、したたか者であった。そこには象が、漸次ありふれたこととなっていく。自己保存の感情さ えも消えていくのだ。グレオパトラは、この社会の代表者で いろんな連中がいて、「文学者ということになっているジャ ーナリストもふたりいた」が、これも海千山千の連中に相違ある。彼女はいま退屈しているのだが、この倦怠がしばしば ない。即興詩人の朗読がこれらの聴衆に、どんな印象を与え彼女を訪れる。何か奇怪千万な、アプノーマルな、痛快至極 なことがあれば、まだしも彼女の魂を呼びさますことができ たかを、プーシキンが伝えていないのは遺憾である。 しかし、われわれは自分でこの即興詩を想い起こして、自よう。今の彼女には、強烈な印象が必要なのだ。彼女はすで に愛と享楽のあらゆる秘密を知りつくしたので、マルキ・ 分でその印象を点検してみよう。 ・サドでさえ彼女の目には、赤ん坊のように思われたに相 酒宴、その場景。女王は楽しげで、客人たちを喜ばせてい - 1 うべ たが、ふともの思いに沈み、黄金の杯の上に頭を垂れた。客違ない。淫蕩は人の魂を残酷にするものである。彼女の魂に 人たちは沈黙し、一同声もない。 もすでに早くから、男を毒殺したプレンヴェリエのように、 これらの客人たちはおそら 、女王の性格を知っているので、なにか異常なことを期待自分の犠牲を見て楽しむ陰惨で、病的な、呪わるべき喜びを 部しているのであろう。それは彼女の奴隷たちであり、彼女は感じるような、何ものかが発生していたのである。しかし、 第当時の社会の代表者であるが、その社会の基礎は、とくの昔 この魂はまだ強であって、これを打ち砕くことができるの 録に揺らいでいるのだ。すでにいっさいの信仰が失われた。希は、まだ容易でない。その中には力強く、毒々しいアイロニ ーがあるのだ。そこで、このアイロニーが今、彼女の内部で 望は無益な欺瞞としか思われない。思想は光を失い、消えて うごき始めたのである。女王は自分の挑戦で、客人たち一同 論いく。神の火に見棄てられたのだ。社会は邪道におちいっ

9. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

才と汚し屋のことを書いた有名な文章を発表した。それが、 「なんにもやつつけはしませんよ。つまり、こんど自分の思 「現代』に採用される時の条件の中の、第二項に真正面から想が生まれたわけですよ。それだけのこってさあ」 きみ 「情けない男だなあ、きみに思想なんかありやしない 牴触したわけである。 にはかって、自分の思想なんかなかったよ。われわれがきみ スグリーポフとクロリチコフは憤然と起って、旗鼓堂々と 『現代』の退歩主義を攻め立てた。『現代』の編集部は上を下を採用したのは、自分の思想をいっさいもたないで、ただ音を オしカそれをきみは : への大騒動となった。編集者一同が馳せ参じたが、まるで、 だすだけという条件だったじゃよ、、。 自分の家が火事になったような顔つきをしていた。すぐさま 「ところが、こんどわたしにも自分の思想が生まれたので ーニ』にも、自分 シチェドロダーロフを召喚したが、こちらは、もう覚悟がです。 Que diantre! ( くそ食らえだ ! ) 『ジェ きていた。彼は悪びれたさまもなく入ってきた。その額にの思想があるし、『ゴーロス』にさえ自分自身の思想があ エマンシベーション は、解放が輝いていた。彼は手を柱に支えながら、戸口る。それなのに、なぜわたしが自分の思想を持ってはならな いのです ? 」 に立った。横目に窓のほうを眺めながら、まるで自分の知っ たことではない、問題にする価値もない、といったような態「情けない男だ。なぜなんて、それはもう別の問題だよ。そ 度である。編集者一同はぎよっとして、互いに目と目を見合れに、今ごろどこから、 いったいどこから、きみの頭に自分 わせた。 の思想なんか出てきたんだろう ? きみは『ヴレーミャ』の 中からそいつをとってきたんだよ。見たまえ、見たまえ、読 サグラニーチノエ・スローヴォ 4 水飲茶碗の中の悲劇 んでみたまえ、ほら、『外国の言葉』だ。ここに一八六 「きみはなんということをしたのだ、なんということをした年の『ヴレーミャ』に載った『青二才』を反駁した長広舌の のだ、情けない男だなあ ! 」と編集者や同人たちは、い っせ一節が抜萃されている。まあ、聞きたまえ」 いに食ってかかった。 『しかし、われわれは憎む、ーー手に触れるいっさいのもの 「わたしが何をしたかですって ? なんにもしやしませんを穢す、頭のない、空虚な怒号屋を憎む。純潔清廉な思想 よ」とシチェドロダーロフは答えた。「もう脅かされはせんを、そこに参与したというそのことによって穢す怒号屋、 ぞ』といったふうである。 一片のパンのために、ただロ笛を吹かんがためにロ笛を 「どうしてなんにもしないのだ ! このごろ、きみのするこ吹き立てる騒ぎ屋、ーーーまるで竹馬に乗るように、他人から とをよく監督しないでいたら、きみはとんでもないことをや盗んできた文句に跨って、月並みな自由主義のちつばけな鞭 つつけたじゃよ、、 で、自分で自分の尻っぺたを叩いている連中を憎む』

10. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

っさいのロシャ的意義を喪失し、読者は彼らをロシャの庶民能力である。こういうわけで、芸術性をなんとも思っていな と認めるよりも、むしろスコットランド人、イタリア人、アい連中は、下手に書いてもかまわないと、お許しをだしてい メリカ人と呼ぶことに、同意するだろうからである。そうとるわけである。ところで、もしそれがかまわないということ して見れば、彼ら自身、すなわちすべての登場人物が、ロシ にみんなが同意したら、下手に書く必要があると、頭からい ヤの庶民に似つかないのに、これこれの事実がロシャ庶民の いだすようになるのも、遠いさきの話ではなくなるだろう。 間に存在するということを、どうして身をもって証明するこまた、ほとんどそう、 いかねない有様だ。 * * ポフ氏が去年の「現代人』九 とができよう ? しかし、 * * ボフ氏にとっては、そんなこ筆者はこの論文の中で、 となどまるで用がないのである。たとい作品を構成する糸や月号に載せた、マルコ・ヴォフチョーグ論を検討していくっ もりである。筆者がそれをするのは、 * * ポフ氏の文学的信 ぜんまいが、一つ残らずぶざまに見え透いていても、ただ思 想、目的がわかりさえすればいいのだ。してみれば、芸術陸念の性質と、同時に芸術観が、かなりはっきりこの論文に現 などなんのために必要なのだろう ? それに第一、そもそもわれているからである。ところで * * ポフ氏は、すでに述べ 4 説を書くという必要が、どこにあるのだ ? ただもうあけ たとおり、功利主義の指導者の一人であるから、したがっ すけに、これこれの事実が庶民の間に存在している、それはて、せめて幾分でも * * ボフ氏を研究したら、目下わが文学 これこれの理由によるものだ、と書いたほうが簡単で、明瞭において芸術の問題がいかに提示されているか、ということ で、えらそうに見えるではないか ? 「それなのにまだ作りば も理解できるわけである。 ウグラ マルコ・ヴォフチョーグが、小 なしを書くなんて ! 世間の人はよっぱど暇だと見える ! 」 ロシャ ( イナ ) と大口シャ ついでだから、もう一つ注をつけておこう。芸術作品の芸の国民生活に取材した短編集を二冊だしたということは、ロ 術性は何によって認められるのか ? ほかでもない、芸術的シャの全読書階級のすでに知るところである。 * * ポフ氏 は、ただロシャ語に翻訳された大口シャものの短編を批評し 思想と、それの盛られた形式との調和、なるべく完全な調和 が認められた時である。もう少しはっきりいおう。かりに小 ているだけである。一つ一つの短編が驚くべき精密さで点検 部説家を例にとってみれば、芸術性とはほかでもない、作家がされて、こまかい活字で五台分にもわたるほどである。この 第自分の思想を十分明瞭に人物と形象の中に表現して、自分が批評文がとくに興味をそそるのは、一方からいうと、 * * ポ 録その作品を和るときに考えていたのと同じように、読者をしフ氏が文学の使命をいかに解釈しているか、文学から何を要 て読後その思想を完全に理解せしめる能力である。したがっ求しているか、社会に対する影響という点で、文学にいかな 、 : 、月まこされているから 論て、平ったくいってしまえば、作家の芸術性とは上手に書くる性質、手段、力を認めているカカ日し冫