諸君 - みる会図書館


検索対象: ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)
148件見つかりました。

1. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

なることやら、想像するさえ困難である。また最後に、まずことだろうか ? このありがたからぬわれわれの国民的特質 いに対して脚韻を求めるように、絶えず印象を追求し、直は、、かなる経験によ 0 て証明されたのであろうか ? 概し 接的な外部活動に対する渇望に苦しみ、あげくのはては、自て、わが国一般の怠惰と無為について、なんだかあまりやか ましくどなりすぎる。そして、もっと優れた、世のためにな 分自身の幻想を、自分で自分の頭からっくりだした妄想を、 自分自身の空想を、ーー現代人が無味乾燥な日常生活の味気る行動をしろと、お互い同士つつ突き合っている。しかも、 ない空虚を、なんとかして充たそうとして用いているいっさ正直なところ、ただつつ突き合うばかりである。右の次第 で、なんの理由もないのに仲間同士を責めかねまじい有様で いの補助的手段を、病的なほど恐れている有様であるから、 どうして疲労せずにいられるだろう、どうしてカ尺、きて倒れある。それは、もしかしたら、すでにゴーゴリがいったよう に、噛みつき方が足りないからかもしれない。しかし、諸 ずに、られよう。 行動に対する渇望はわれわれの間で、なにか熱病じみるは君、一つご自分でより優れた、世を益する行動に向かって、 ど、抑えきれないような焦躁に達するまでに立ちいたってい試みに第一歩を踏みだして、たといどんな形にもせよ、それ る。だれもかれもが真剣な仕事を望んでいる。おおくのものをわれわれに示してもらいたい。実績を見せてもらいたい。 が善を行ないたい、世に益をもたらしたいという、燃えるよ何よりもまず、その行動に対する興味を植えつけて、われ うな願望をいだいている。幸福とは手をこまぬいて安閑とわれ自身にもそれをやらしてもらいたい。そして、われわれ 人を唆しかけた し、なにか機会があった時だけ、目先を変えるために、ちょ自身の個人的創造を役立たせてもらいたい。 っとした英雄ぶりを示すことができる、そういう社会的位置がる諸君よ、諸君にははたしてそれができるかどうか ? で を獲得することではなくて、不断にたゆまざる行動をつづきない。それなら、何も人を非難することはない。ただ役に け、われわれの有するいっさいの傾向や能力を実地においても立たないことに頬桁をたたくばかりだ ! つまり、そこな それをすべての人が少しずつので、ロシャでは仕事がなにか自然と外面的にやってくる。 発達させることである、 ロシャでは、仕事が妙に外面的になってしまって、われわれ 理解しはじめている。たとえば、わが国ではいわゆる cona , 部 more 、すなわち喜んで仕事に携わっている人が、はたして大の内部に特別な同感を呼び起こさない。そこにこそ純ロシャ 第勢いるだろうか ? われわれロシャ人は天性なまけもので、的才能が現われるのである。それは、はかでもない、無理に 録仕事をよけたがるといわれている。もし仕事を無理に押しつ仕事をするものだから、まずい、非良心的なやり方になっ けられたら、 いったいこれが仕事かと、あきれるようなことて、いわゆる、すっかり駄目になってしまうのである。 この特質はわが国民的習慣をまざまざと描いて見せるもの 論をしてのける、とこういうのである。いったいそれは本当の

2. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

このんで何かの荷物を肩にのせ、うんうんいいながら運んで ルプルグはヨーロッパの都会と同じように、事務的な都会だ いる人夫みたいなもので、ヨーロッパふうに、要求される作 といわれているのも、うべなるかなである。ペテルプルグは 実にたくさんの仕事をしたのだから、少し落ちつかせてやら法どおり、それを夏のシーズンまで運び終せたら、大満悦な なければならぬ、森の中の別荘で一休みさせてやらねばならのである。われわれはただなんということなく、単なる模倣 ぬ。ペテルプルグには森が必要である、少なくとも夏場にかのために、ありとあらゆる仕事をみずから課している ! 筆 けては。「仕事の前に休息する」というのは、ただモスグワ者は、たとえば、こんなふうの先生を知っていた。彼は通り がどんなぬかるみだろうと、どうしてもオーヴァシューズを だけであって、ペテルプルグは仕事のあとで休息するのだ。 木しし力なる厳寒であって 毎年、夏になると、ペテルプルグは休養しながら、考えをまはく決心がっかない。それと同兼こ、、、 この先生は一着のオーヴァ も、毛皮外套を着ようとしない。 とめるのである。もしかしたら、来たるべき冬には何をした コートを持っているが、これが先生の腰の線を実によく現わ ものかと、もう今から沈思黙考しているかもしれない。ペテ ルプルグはその点において、ある文学者に酷似している。そして、なんともいえぬパリの外貌をつくりだすので、先生ど の文学者は、実のところ、自分では何も書かないけれど、そうしても毛皮外套を着る気にならない。また同様に、オーヴ アシューズでズボンの形を台なしにしたくないのである。も の兄弟が長編を書こうと、一生準備をしているのである。と っとも、この先生の欧化主義は立派に仕立てた服に尺、きてい はいえ、新しき道程へ向かって出発するに当たっては、過ぎ るので、彼がヨーロッパの文化を愛するのも、要するにそれ 去った古いものを振り返って見る必要がある。少なくとも、 がためである。しかし、彼は自分の欧化主義の犠牲となって 何かと告別しなければならぬ。少なくとも、自分のしたこ と、自分にとってとくに懐かしく思えたものを、もう一ど眺倒れ、一ばん上等のズボンを着けて葬ってくれ、という遺一言 めなければならぬ。好意ある読者よ、何が諸君にとってとくをした。彼は、通りで雲雀のお菓子を焼いて売りはじめるこ にやカしかったか、一つ検討してみよう。筆者が「好意あろに、理葬された。 わが国には、たとえば、素晴らしいイタリア・オペラがあ る」といったのはほかでもない 。もし筆者が諸君の立場にあ った。来年はいっそうよくなるだろうとはいえないにして 部ったら、一般に随筆、とくにこの随筆を、とっくに投げだし 第てしまって、読まなかったに相違ないからである。なおそのも、いっそう贅沢なものとなるであろう。しかし、筆者はど 録ほか筆者自身、 ういうわけか知らないけれども、ロシャでイタリア・オペラ 者もおそらくそうであろうが、過去の ものが何ひとっ懐かしくないから、その理由によっても投げをかかえているのは、単に体裁のためであって、いわば、何 論出してしまったはずである。われわれはだれもかれも、好きかお義理のようなものだ、といった気がしてしかたがない。 1 三ロ 7 7

3. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

トスの表 : 否、詩がこれほどまでに恐ろしい力に、 り知れぬ力をつくして、快楽に身をまかせた。しかし、なに ぶんにもこれは単なる若さにすぎない。まだ印象が新鮮で、現でこれまでの集中力に達したことは、今までかってない ! しことである。彼女王のこういう悪鬼のごとき歓喜の表現を読むと、肉体も冷 生命感に充ちているうちに死んだのは、、、 え、魂もしびれるほどである : : : その時わが神々しい贖罪者 : もし彼が生きていたら、 はまだ幻滅も、絶望も知らない : : 、、かなる人々のところへやって来たかということが、諸 かの歴史にしるされた、有名な、奇怪きわまりないネロの結 君にも理解されるであろう。贖罪者という言葉が、諸君にも 婚に、列席したことであろう : しかし、詩人の魂そのものが、この光景を耐え忍ぶことが理解されるであろう : ・ もしこの画面が、ただ好色の印象しかひき起こさないとし できなかった。彼はハイエナのグレオパトラを片づけること ができるはずがなく、ほんの一瞬、このハイエナに人間性をたら、われわれの心は、そもそもどんなふうにできているの 与えた。やがて、ひとりの少年があらわれた。その名は知らであろう ! れていない。が、恋の歓喜がその目にかがやき、若々しい限 り知られぬ欲情の、いまだ試みられざる力が、その青春の胸われわれはひとりの友から寄せられた手紙の一節を、ここ に掲載したいという望みを打ち棄てるわけに、、よ、、 にたぎっている。彼は喜びをもって、それどころか、感謝の この手紙は、『ロシャ報知』三月号の論文を読んだ後に書か 念をいだいて、おのれの命を捧げる。彼は自分の命のことな ど考えてもいない。ただ女王の顔を見つめるばかり、その目れたものであるが、ちょうど幸い、この論文の補足になる。 冫は限りない陶酔と、はてしらぬ幸福と、かがやかしい愛が次に掲げるのが、その一節である。 「もし「エジプトの夜』が断片であるとしても、プーシキン 充ちているので、ハイエナの内部にも一瞬、人間性が目をさ ました。女王は感激のまなざしで、少年をながめた。彼女ものような詩人については、彼の書いた断片が、十分に魂を人 しかし、『エ れられていない、などということはできない。 まだ、感激することができたのであるー ジプトの夜』はけっして断片ではない。諸君ははたしてどこ しかし、それはただの一瞬であった。人間的の感情は消え 未完性、断片性のしるしを発見されたか ? それどころ 部果てた。しかし、理性的な歓喜は、さらに烈しい焔となってに、 第燃えあがった。おそらく、それはほかならぬ、この少年のまか、あれはなんという充実した画面であろう ! おのおのの 録なざしのためであろう。ああ、この犠牲こそ、だれよりも最部分がなんと驚くばかり均斉がとれ、なんとはっきり決定さ も大きな快楽を約東しているのだ ! 女王は歓喜に胸をしびれ、なんと完成されていることか ! プーシキンが、彼自身 にとっても賢重な詩業の一真珠を、いかに見事な縁に嵌めた 論らせながら、おのれの誓いの一言葉を、荘重に口から出した

4. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

ろ問題にならない。 しかし、次のようなことは、ロシャの女全な権利を持っていた、と判定した。このアネクドートに 性も要求しているかもしれず、それどころか要求する権利さ は、これ以上なんらの説明もつけ加えまい。しかし諸君は、 え持っている。すなわち、ある女性が誤った行動をしたからそれは単に個的な場合にすぎない、といわれるだろう。が、 といって、なんらの根拠も真実性もないくせに、その女性に裁判官、陪審員、聴衆の判定を、個的な場合と見なすわけに は汚らわしい秘密があるに相違ないと新聞に公表して、彼女ま、 冫しかない。それどころか、ヨーロッパでも最も教養ある国 を侮辱するような非礼をあえてしないことである。 民の大多数を支配している風習の、完全なる表現でさえあ 「騎士道の栄えた数世紀は、教養ある社会において、婦人にるのだ。そこでは、「騎士道の栄えた数世紀が、婦人に対す 対する男子の態度を、理想的といってもよいほど、デリケる男子の態度を、理想的といってよいほど、デリケートなも 1 トなものに完成した」と『ロシャ報知』は続けている。とのに完成した、うんぬん、うんぬん」なのである。騎士道の ころで、われわれのほうでも、一つの短いアネグドート をお栄えた数世紀 いやはや、諸君はいったいだれの目をくら 話ししたいと思う。『ヴレーミャ』のこの号に、周知のラフまそうとしているのか ? しかし、あるいは「ロシャ報知』 アルジ = 夫人に関する訴訟事件を、詳細に掲載している。彼も、教養高き国民の大多数の意見に同意して、ムシュ・ラフ かど 女が夫を毒殺したという廉で起訴されたのは、われわれの考アルジュは夫として、入れろと要求する権利を持っていた、 えによると、まったくの誤りなのである。もっとも、それはと考えているのかもしれない。少なくとも、婦人問題に関し 本誌だけの意見ではない。法廷は亡き夫に対するラファル ては、 ジュ夫人の態度を調査し、審理していくうちに、次のような 「このうえ婦人にどんな権利が必要なのだ ? 」と、鞭でひっ 事実を発見した。ムシュ・ラファルジュは、マダム・ラファ ばたくような表現をしているのだ。 ルジと結婚して、彼女を自分の領地へつれて行った。それ この「この上どんな権利が : : 」という一句は、今は世に は結婚後、わずか数日後のことである。その途中ある駅で、 なきフアジェイ・プルガーリンの記念のための、辛辣この上 ラファルジュ夫人は入浴した。夫人がパスに浸っている時、ない土曜雑録にふさわしいではないかー 優美でもあり、傑 夫はドアをノッグして、ぜひともあけて入れろといった。妻作でもある ! は閉ざされたドア越しこ、、 冫しま入浴中であるから、あけるわ「いったい婦人は何を望むことができるか ? 」と「ロシャ報 冫にいかないと答えた。しかし夫はいつまでも、入れろと要知』は相変わらずの巧妙さで論歩をすすめている。「男子が 求したのである。裁判官も、陪審員も、聴衆も、ムシ = ・ラ解放されていると認めている、それらすべての点において、 ファルジ = は夫であるから、夫として、入れろと要求する完はたして女子も解放されることを欲しているのか ? 男子が

5. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

とい尊敬する外人諸君、われわれはありがたい言論の自山を恐れ れてしまって、新しい歌をうたいださずにいられない ったようになったわけである。ところが、ありがたい一一一口論のているのだ。それをやりはじめるが早いか、ぎよっとして、 自山というやつが、河のごとく溢れひろがって、ローゼンゲ逃げ隠れしているのだ。どうかお願いだから、何よりも『祖 国内問題の ) の国雑誌』を信用しないでくれたまえ。この雑誌は言論の自山 イムの竪琴が音たかく鳴り響き、グロメーカ氏 ( 政治評論家 太い堂々たる声が響き渡り、メレアント兄弟の名がちらっとスキャンダル文学を混同しているのだ。これは要するに、 くようになり、無数のやがうようよ現われて、新聞そのわが国にはまるで体の皮を剥がれたような連中がまだたくさ 他の定期刊行物でお互いに一一ⅱをはじめた。詩人や散文家がんいて、身のまわりに風がそよとでもすると、もうさっそく : もし暴露文痛みを感じる、そういう状態を示すものにすぎない。わが国 ぞくぞくと現われたが、みんな暴露派なのだ : 学というものがなかったら、けっしてこの世へ出現すること には、他人のことを読むのが好きなくせに、他人が何か自分 に関したことを諺むのが、怖くてたまらない、そういう連中 はなかったろう、と思われるような詩人や散文家が現われた のである。ヨーロッパ人諸君、筆者がオストローフスキイをがまた大勢いる。否、われわれは言論の自山を愛して、生ま 抜かした、などと考えないでもらいたい。彼のいるべき場所れ立ての赤ん坊のようにそれをいつくしむものである。つい は暴露文学ではないのだ。われわれは彼にふさわしい場所を近ごろ、小さな、しつかりした、健康そうな爾が生えだした 知っている。われわれはすでに一度ならず、彼の新しき言葉ばかりのこの小悪魔を、われわれは愛しているのだ。この小 を信じている旨を声明した。また彼が芸術家として、まだ悪悪魔は時として、でたらめに噛む、まだ本当の噛み方を知ら それどころか、われわれが ない。だれを噛んだらいいかわからないことがしばしばであ 魔主義と自己摘発の時代に かの不滅なるチチコフの遍歴を読んでいた時分に、われわれる、きわめてしばしばである。しかし、われわれはその悪戯 の夢みていたものを、ちゃんと見抜いていた。それをわれわを、その子供らしい間違いを笑って見ている。それは愛情の れは承知しているのである。これらすべては乾き切った土のこもった笑いである。なに、子供のことだ、ゆるしてやった 雨を恋うるがごとく、われわれの夢み渇望していたものであらいし われわれは罪の深い人間なので、突然おもいがけ る。が、われわれは何を渇望するかを口外することさえ、恐 なく電名を全ロシャに轟かしたメレアント兄弟のような、き れていたのである。ところが、オストローフスキイ氏は恐れわめて尊敬すべき、またきわめて素朴な人たちをさえ、この : しかし、オストローフスキイのことはあとにし 小悪魔が「もちまえの嘲笑で侮辱する」ことを恐れなかった よう。今は彼のことを語る予定ではなかった。ただありがた 時など、その尻について、自分でも笑ったくらいである : い言論の自由のことを、一言したかったにすぎない。おお、否、われわれは一一一一口論の自山を恐れない、それは当惑を感じな

6. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

とした。その瞬間、わたしの心は、泉のごとくほとばしる血笞が必要なことを、彼ら自身みとめている。わたしなら、少 ルガーリンの長編「ヴァ にまみれたような気がした。それは不意に煮えたぎ 0 た、カなくとも、ヴィジギンっ ) のことを書い ン・ヴィジギン J の主人公 づよい、しかもそれまで知らなかった感触のなすわざなのでただろうが、彼らはうんぬん、うんぬん」というわけであ ある。わたしはその瞬間、今まで心の中にうごめいていたばる。しかし、十四年のあいだ芸術に奉仕したことによって、 かりで、まだ意味のつかめなかったあるものを悟った。それフアジェイ・ヴェネジーグトヴィチの名声を受け継いだ「新 はさながら、何か新しいあるもの、ぜんぜん新しい未知の世詩人」 ( 行編集者であ。た作家パナー = フ ネグラーソフと共に「現代人。の発 ) は、わたしに笞を処方し 界を洞観したかのようであった。その世界はただ何かばんやないだろうと、庶幾する次第である。 さて、それ以来、あの幻想を見て以来 ( わたしはネヴァ河 りしたうわさによって、何か神秘的なしるしによって、かす かに知っていたものである。はかならぬそのとき以来、わた畔の感触を、幻想と名づける ) 、わたしはしじゅうそういっ た奇妙なことを経験するようになった。以前、青年らしい空 しの存在がはじまったものと考える : : : 諸君、一つうかがい ますが、わたしは空想家でないでしようか、そもそもの少年想の中で、わたしは時おり自分自身を、ときにペリグレス、 ときにマリウス、ときにネロ時代のキリスト教徒、ときに競 時代からの神秘派ではないでしようか ? そこになんのでき ごとがあるのだろう ? はたして何が生じたのか ? 何もあ技会場の騎士、ときにウォルター・スコットの小説『修道 「』のエドワード・ グランデニング、等々のように思い描い りはしない。まったく何一つない。それはただの感触であっ て、その他はすべて無事安泰なのである。もしそのときわたたものである。若いころのわたしは、情熱に燃える黄金のご 「ロシャ文学につ しが、、 , ポフ氏 ( ) のデリケートな感情を侮辱とき幻想の中で、心の底から、魂の底から、ありとあらゆる いてし第二章参照 ものを空想しつくし、ありとあらゆるものを体験した。それ することを恐れなかったら、わたしはそのとき、陰気くさい むち 傾向に対する罰として、治療薬といった形で、笞を自分に処はまるで、阿片に酔ったもののようであった。わたしの生涯 なで、あれ以上に充実した、神聖な、清浄な時期はなかった。 方したことだろう : : : ああ、まざまざと目に見える、 プルガ くな 0 たフアジ = イ・ヴ = ネジーグトヴィチ ( ー ) ので 0 わたしはあまり空想にふけりすぎて、自分の青春をす「かり 部ぶりふとった姿が、目の前に現われるのが見える気がする。見のがしてしまった。そして、運命が思いもかけず、わたし 第ああ、彼はいかに喜び勇んで、わたしの書いた笞についてのを官吏の仲間に突き落とした時、わたしは : : : わたしは : 模範的な勤務ぶりを示したが、勤務時間が終わると同時に、 録一節を、土曜日の雑録でほめそやしたことだろう。 「さあ、見たまえ、紳士淑女の読者諸君よ ! 」と彼は四週間自分の住んでいる屋根裏へ駆けもどり、穴だらけのガウンを 着て、シルレルの巻を開きながら、空想にふけり、その空想 論ぶつ続けて土曜日ごとに、怒号することであろう。「彼らに 3 ノ 3

7. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

ついでながら、貧乏な人について。あらゆる種類の貧乏の ありげなのを見て取ったので、腹を立ててぶつぶついい、文 中でも、最もいとわしい、最も下品な穢らわしい貧乏は、き 明開化も西欧も呪詛しはじめる。そして、おもなことは、 が牝鵁を教える」のをいまいましく思うのである。しかわめて稀にしか見られないが、社交界の貧乏であるように 田 5 う。最後の一コペイカまで費いはたしたくせに、義務とし し、息子のほうにしてみれば、生きていかなければならない ので、やたら無性に急ぐ。そこで、彼の若者らしい血気につて馬車を乗り廻し、額に汗しながら正直な労働で自分のパン いては、思わず考え込ませられてしまう。もちろん、彼は かを稼いでいる通行人に泥をはねかけ、家には白ネクタイに白 なり勇敢に金をふり撒いている。 手袋の従僕を幾人も傭っているのである。これは、喜捨を乞 たとえば、し 、ま冬のシーズンが終わって、ペテルプルグうのは恥すかしいくせに、田 5 い切ってずうずうし、、厚顔無 は、少なくとも暦によると、春に属している。新聞の紙面恥なやり方で施し物を奪い取る貧困なのである。しかし、こ は、外国へ行く人々の名で充たされはじめた。筆者の驚いたんなけがらわしい話は、もうたくさんだ ! 筆者は、ペテル ことには、。へテルプルグがポケットよりも、健康のほうをはプルグの住民が、別荘で楽しく暮らし、なるべく欠伸をしな るかにそこねていることに、諸君はすぐさま気がつくのであ いようにと、心から望むものである。ペテルプルグにおいて る。白状するが、この二つの障害を比較したとき、筆者は名は、欠伸がインフルエンザと同じような、痔疾と同じよう いかなる療法によっても、ペテ 状し難き恐布に襲われて、自分が都会にいるのではなく、病な、熱病と同じような、 院にいるような気がしたはどである。しかし、筆者はたちまルプルグで流行している治療法によってさえ、まだ長いあい ち、これは空な心配だ、地方人である父親の財布はまだぎつだ癒やすことのできない病気と、おなじような病気であるこ とは、すでに周知の事実である。ペテルプルグは欠伸しなが しり詰っていて、ゆったりしたものだと分別し直した。 諸君は今に見られるだろうが、方々の別荘は聞いたこともら寝床から起きだし、欠伸しながら義務をはたし、欠伸しな がら眠りにつくのである。しかし、一番よけいに欠伸する場 ないような華やかさで生活がはじめられ、想像も及ばぬよう な美しい衣裳が白樺の林の中にちらちらし、人々は心から満所は、仮面舞踏会とオペラである。余談ながら、ここのオペ ラは完璧である。驚嘆すべき歌手たちの声は、じつに響きが 足して幸福なのである。筆者は完全に確信しているが、こう あらゆる都 してあたりにれている喜びを見たら、貧乏人でさえたちまよく純なので、もはやわが広大なる国土に、 ち満足し、幸福になるにちがいない。少なくとも、どんな金会、田舎町、大村、小村に、央い反響を示しはじめたはどで をだしても、わが広大な祖国のいかなる町でも見られないよある。ペテルプルグにオペラがあるということは、もうだれ うなものを、ただで見られるわけである。 もかれもが知っており、だれもかれもが羨んでいる。にもか

8. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

る。といっても、彼女は前に陪審官夫人だったので、今はや田 浮かんでくる。いや、まったくこういう年齢に結婚するほど、 もめである。なかなかきれいな若い婦人で、見ても実に気持 もし . 何もかもいってしま、つとすれば、 愉快なことはない ! 筆者の意見によると、青年時代に、換言すれば三十五まえにちがいい。右の次第で、ユリアン・マスタコーヴィチは、ず 結婚するのは、むしろ無作法なくらいである。それは早老とっと肝胆を砕いている。いったいどうしたら結婚した後も、 いうものだ ! ところで、男が五十近くなると、地位も定またとい今までほど頻繁でなくとも、前と変わらずこのソフィ るし、礼節も備わり、態度も身について、肉体的にも精神的ヤ・イヴァーノヴナのところへ、彼女の訴訟事件を相談する けっこうだ、まったくけっこうなこために、夜間訪問をすることができるだろう。というわけで にも円熟してくる、 とである ! それに、なんという思いっきだろう ! 一人のある。ソフィヤ・イヴァーノヴナはもう一一年もまえから、あ 長いこと生きてきたあげく、つ いる訴訟事件を起こしていて、その斡旋者が善良なる心を持っ 人間がこの世に生き、 たユリアン・マスタコーヴィチなのである。こういったわけ に目的を獲得する : : : そういうわけで、筆者はなんとしても なぜュリアン・マスタコーヴで、威厳のある彼の額に、あんなに皺が寄ったのである。し 育に落ちないことがある かし、ついに彼は例の白いチョッキを着込み、花東とお菓子 イチは二、三日まえのある晩、両手を背中に組んで、い力に もどんよりした、うす汚い渋面をしながら、自分の書斎を歩を取り上げて、さも嬉しそうな様子をしながら、グラフィー 同じ ラ・ベトローヴナの家へ出かけた。「こんな仕合わせな人間 き廻っていたのだろう ? その顔つきといったら、 書斎の片隅に腰かけて、百プードもある至急の書類にかじり もあるものだな」と筆者はユリアン・マスタコーヴィチのこ もう中年の仞き盛りで、完 ついている属吏の匪格に、せめて少しでも気のきいたところとを思いうかべながら考えた ! があったら、自分の保護者の目つきを見ただけで、必ずやた全に自分を理解してくれる、わずか十七歳の、純真無垢で、 教育のある、ついひと月まえに女学塾を出たばかりの配偶を ちまち悄気こんでしまったに相違ない。筆者はやっと今にな って、ことの真相がわかった。筆者としては話したくないは見つけるとは。彼は生活をはじめるのだ、幸福と満足の中に どなのである。それは実につまらない馬鹿げた事情なので、生活を送るのだ ! 筆者は羡望の俘になったー ところが、ちょうどわざとのように、ひどくぬかる、どん 高潔な考えを持った人にとっては、てんで問題にならぬよう よりした空模様の日であった。筆者はセンナャ ( 乾草 ) 広場を なことなのである。 、こ。しかし、諸君、筆者は雑文家であるから、諸君 ゴローホヴァャ街の、通りに面した四階建の家に、一つの歩いてしオ きわめて新鮮な、 にニュースを語らなければならない 住居がある。筆者もかって、それを借りようと思ったことが ある。今その住居を借りているのは、さる陪審官夫人であ人をして慄然たらしむるようなニュースを ! ついこんなも

9. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

いえば、家にいたほうがいいわけである。家のほうがより自な熱中ぶりで、さまざまな高邁な問題を論ずるのである。あ 然で、技巧もいらず、ずっと気持ちが落ちつく。サーグルへげくのはてに、議論をし、しゃべりまくり、一般人類のため 決し、あらゆる間題でお互い同士 に有益な事がらを幾つか議、 ~ 打くと、「 . 何か ) - しいことはないかね ? 」とい、つ物しに て、活漫に答えてくれる。間いはただちに私的な意味を帯び説伏し合った後、サークルの人たちぜんたいがなにかなに いらいらした気持ち、なにか妙に不快な衰弱感に陥る。最後 てきて、中傷か欠伸で答えてくれる。さもなければ、こちら に、みんな互いに腹を立てて、若干の辛辣な真実がロにさ までが皮肉な、族長的欠伸を催すような返事をするのだ。サ 」、フーし 、うっとりするよれ、若干の烈しい思い切った人身攻撃がなされ、 ーグルに入っていると、なんの苦労もない てとどのつまりは、みんな散りぢりになってしまう。そのう うな気分で、欠伸と中傷の間に一生を過ごすことができる。 やがてそのうちに、インフルエンザか熱病が、きみの家庭をちにみんな落ちついてきて、手堅い処世上の知恵を吸収し、 襲ってきて、きみはストイッグな態度で、無関、いに、今までしだいしだいに上記のごとき性質を帯びた第一種のサークル 自分の身の上にあったのはどういうことか、なんのためにあに崩れていくのである。それはもちろん、そういうふうに暮 ー ) かーレ、ロ 0 父こ んなようなふうだったのか、何一つ知らないまま、幸福に自らしていくのは、愉央なことにちがいない。 分の家庭に別れを告げる。陽の目のささぬ、涙でもにじませはいまいましくなり、癪にさわってくる。筆者なども、たと っ えば、わが族長的なサークルの中に、一人とてもやり切れな ているような日に、暗い黄昏の中で死んで行くのだが、い たいどうしてこんなことになったのか、まるつきり何一つわ い性質を持った先生が、必ず頭を持ち上げて、幅をきかせだ からないままである。ずっと今まで生きてきて ( どうも生きすので、そのためにこのサーグルがいまいましくてたまらな てきたらしい ) 、何やかやも手に入れたのに、今はこうしていのである。諸君、その先生を諸君はよくごぞんじに相違な 。それははとんど無数なのである。それは善良な心を持っ なんのためやら、是が非でも、この気持ちのいいのんびりし た世界を見棄て、もっといい世界へ引っ越さなくてはならなた人間であり、また善良な心のはかには何一つ持っていない いのだ。 人間なのである。今の世の中に善良な心を持っているなん 部 もっとも、ある種のサークルでは、もっと真面目な問題をて、なんと珍しいことなのだろう ! 第一、この永遠にして 善良な心を持っことが、どうしても必要であるかのような具 第盛んに論じる。教養のある善意に充ちた人たちが幾たりか、 録熱意をもって集合し、中傷だとかカルタ遊びだとか ( もちろ合である ! こういう美しい心を持ったこの先生が、永久に ん、これは文学的なサーグルでは、ないことである ) 、すべ幸福で満足であるためには、善良な心さえ持っていれば十分 文 だと、心底から信じ切って、世の中へ乗りだすのである。彼 てそういう無邪気な楽しみは断固としてしりそけ、不可思議 8

10. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

われわれが欠伸をしなかったとすれば ( 少しくらいは欠伸をてはいまいましくてならない。何はともあれ、ポルシ一八四 8 七年のシーズンにおけるべテルプルグ・イ、 したように、筆者は考える ) 、それは少なくともお上品に、 タリア歌劇団のプリマドンナ、ソプラノ ) グアスコ、サルヴィ龕と 、も一アノ、 レ 行儀よく振舞うためであって、われわれはあまり利ロぶった カロンドやカヴァティーナなどを、どんなに美しく歌 批評を口にだしたり、自分の感激を他人に押売りしたりなどったにもせよ、われわれはこのオペラを薪のようにうんうん しなかったために、まったくのところは、なんだか退屈した担いで来たのであって、へとへとに疲れ、おまけに金まで費 ような形であり、なにかをひどく荷厄介にしていたような形ったのである。シーズンの終わりに花東を投げたのは、要す である。筆者は、われわれが社交界に生きていく要領のよさるにオペラも終わりに近づいたのを感謝する気持ち、といっ を、攻′しよ、フなどとい、つ」凩はさらさらない。この占 ~ におい たようなところがある。そのあとでエルンスト ( 年ッ有名なドイ て、オペラは公衆に大なる利益をもたらした。それは自然な おリ = スが来た : ・ : ・第三回の演奏会には、ペテルプルグの 形で音楽マニヤをうちょうてん派と、単なる音楽愛好家に分聴衆も無理をして集まった次第である。われわれは、今日彼 類した。一方が上のほうへあがって、そこの空気をまるでイ に別れを告げるわけだが、花東が出るかどうか知らない ! タリアのように暑くすると、いま一方は土間に落ちついて、 しかし、これではわれわれの楽しみは、ただオペラだけだっ 自分の意義、教養社会の意義、ちゃんとした貫禄を有してい たように聞こえるが、ペテルプルグにはまだもっとある。ほ ちがしらヒドラ る千頭の怪蛇 ( の意義、自分の性格、自分の宣告をちゃんかでもない立派な舞踏会である。仮面舞踏会もあ「た。しか と理解して、何ものにも驚きなどしない。それこそお上品な し、驚嘆すべき芸術家ン ) はついこの間、そのヴ , イオ 上流社会の人間の主なる美徳であることを心得ているからで リンによって、南国の仮面舞踏がどんなものであるかを、われ こ二月二十二日、エルンストがペテルプルグで自 ある。筆者はどうかというと、筆者は第二の部類に属する観われに物語 0 てくれオ ( 作の導入部をつけてバガニーニの「ヴェニスの カーニヴァル」を演。ヾ、 客の意見にまったく賛成である。われわれは夢中になった ) て筆者はこの物語に満足して、あまりに 奏したことをさす り、義務を忘れたりすることなしに、芸術を愛さなければな も行儀ばった北国的な仮面舞踏会へは行かなかった。サーカ らない。われわれは事務的な人間であるから、時としては劇スは成功した。来年も成功するだろう、という話である。 場へ行く暇もないほどである。われわれの前には仕事がまだ 諸君、わが国の一般民衆が自分たちの祭で、どんなふうに 山はど控えている。そういうわけで今度は自分の番だから夢楽しんでいるか、諸君は観察されたことがあるだろうか ? レートニイ・サード 中にならなければならぬ、自分たちにはある特別な義務が課かりに、それを夏の園であったこととしよう。おびただし されているので、原則として自分の感激によって公衆の意見い群集がぎっしりつまって、行儀よく規則ただしく動いてい を平均させねばならぬ、などと考えている連中が、筆者としる。みんな新調の着物である。時おり小店商人の女房や小娘