る方法はないかと、検討したほうがよいのではあるまいか。 わけがない、そんなことは間違っている、という考えが生ま 筆者は諸君とともに、読み書きのできる庶民が牢獄を充たしれてくる。 ていることを認める。しかし、どうして、何がゆえにそうな 「やつらは馬鹿な連中で、おれたちは教育のある人間だ」と ったかを、見きわめなければならぬ。筆者はこの事実を、牢 いうわけである。そこで、折もあらば、平凡なお仲間から飛 獄生活にたいする長年の観察によって、自分で理解したようびだしたいと、うずうずしてくる。彼らに対する人々の態度 に 4 工心 . しト ( 、フ。 には、常に一種の尊敬のニュアンスが加味される。それは、 第一に、わが国の民衆の中には読み書きのできる人間があ時にはごく目立たぬこともあるけれど、時には非常にはっき まりにも少数なので、その教育がまったくのところ、時とし りした場合もある。ことに、当人がおのれを持するすべを心 ては、他人に対する一種の優越を授け、より多くの長所、よ 得た場合にはなおさらである。換言すれば、重味のある態度 り多くの貫禄、その仲間において頭角をあらわさせるようなをとって、雄弁で、いくらか衒学的で、みんながしゃべって 特異性を賦与することになる。民衆は読み書きのできるもの いる時には、馬鹿にしたように沈黙を守り、みんなが何をい を目して、なんらかの点で自分より優れたものと見なしなどっていいかわからないでロをつぐんだとき、その時はじめて 否、民衆は読み書きのできる人間の中に、自分おもむろに口を開く。要するに、わが国の聡明なる人士、わ より強い人間、日常生活の煩わしい状況からより多く超越しが国のある種の思想家、先覚者、実際家、ある種の文学上の た人間を見るのである。一口にいうと、読み書きの中に、実将軍たち、一口にいえば、諸君のよくごそんじの連中と同じ 生活上の利益を認めるわけである。目の明いている人間は、 ような態度をとった場合は、なおのことである。ここでも同 こらしよう 何かの書類でごまかされることもなければ、また何か別のこ じような無邪気さ、同じように滑稽なほど尿え性のないとっ とで小股をすくわれるようなこともない。また読み書きのでびな振舞い。手つ取り早くいうと、社会のあらゆる層に同じ きる人間の側からいっても、彼らは知らず識らずのうちに、 現象が見られるので、ただおのおのの層にそれぞれの流儀が 自分は周囲の暗愚な、字の読めぬ連中より一段うえに立ってあるだけである。すべての個性にとって、自己を発揮しよう、 部いる、というように思いがちである。それには程度の差があ他をぬきんでよう、十把ひとからげの境地から飛びだそうと 第るのはもちろんである。自分を一段うえの人間と思っている いう要求は、自然の法則なのである。それは個性の権利であ り、その本質であり、その存在の法則であって、まだ組織の 録以上、自分も他の人々といっしょに住んでいるこの環境に対 して、真に平静な態度をとることができない。自然の道理と整わぬ粗野な社会にあっては、この個性の法則はきわめて粗 論して、自分はもうこんな暗愚な連中とひとしなみに扱われる暴な、むしろ、野蛮なほどの現われを見せるが、すでに発達
で、ありとあらゆること、 共同生活のごくつまらない事ドイツ人に、何かの仕事、当人の傾向やあこがれのすべてに 8 実にさえ、それが現われるのである。たとえば、わが国で反した仕事を当てがった上で、「この仕事はお前を軌道に乗 は、もし御殿の中で貴族ふうに暮らす金がなかったり、れっせて、たとえば、お前とお前の家族を養い、お前を一人前の きとした人らしい服装ができなかったら、ーーー世間なみの人間にして、宿願の目的を達しさせるのだ、云々」と説明し ( つまり、ごく少数の人のような ) 服装ができなかったら、 てやってみたまえ、ドイツ人はすぐ仕事に取りかかって、唯 その人間の住む片隅は、しばしば牛小屋に似て来、服装など唯諾々とそれを仕上げるのみならず、その仕事のために何か は、不作法千万なシニズムにまで達するのである。もしある特殊な、新しいシステムをつくりだすに違いない。 ーー・・思う存分のことをいって、何か自それはよいことだろうか ? ある意味ではよくないことであ 人が不満を感じたら、 分の内部にあるいいところを発現する方法がなかったら ( そる。なぜなら、その場合、人はまた別な恐るべき極端に走っ れは虚栄心のためではなくて、おのれのエゴを現実生活の中て、粘液質的な固定状態に陥ってしまう。これは時として完 に自覚し、実現し、限定したいという、人間自然の要求によ全に人間性を滅ばしてしまって、人間の代わりにシステム、 るのである ) 、その人間はたちまち、何かあり得べからざる義務、形式、父祖の習慣に対する無条件的な崇拝 ( よしんば 事件に巻き込まれてしまう。時には、遠慮なくいわしてもらその父祖の習慣が現代に合致しないにしても ) を置き換える のである。 うが、飲んだくれになってしまったり、カルタに熱中して、 いかさま師になったり、あばれ者になったり、あげくのはて ロシャにおいて自由な活動を創始したビヨートル大帝の改 は、満々たる野心のために気が狂ったりする。しかも、同時革も、もし国民性の中にそういう要素が含まれていたら、実 に、心の中では野心を軽蔑するのみならず、野心のような些現が不可能だったに相違ない。その要素というのは、しばし 些たることで苦しまなければならなくなった、ということでば単純な美しさを蔵してはいるけれども、時として非常に滑 苦しむまでに立ちいたるのである。そこで、見たまえ、 格になることがある。よく目撃するところであるが、ドイツ ロシャ われわれには自己の尊厳という自覚がない、われわれには必人は五十になるまで婚約したまま独身生活をつづけ、 要かくべからざるエゴイズムがない、そして最後に、われわの地主の家庭で子供を教え、しがない目くされ金を蓄めて、 いいなずけ れはなんの報酬もないのに、善事を行なう習慣がついていなあげくの果てに許嫁のミンヘンと正式の結婚をするのだが、 いなどという、ほとんど誤った、むしろ侮辱的でさえあるけ女のほうは長い処女生活のために萎び切っているけれど、貞 れども、実に本当らしく思われる結論に、われともなく到着操堅固という点では英雄的といっていいほどなのである。と するのである。たとえば、きちょうめんでシステマチックな っそ愛情を ころが、ロシャ人は持ち切れない。それより、
冷ましてしまうか、身を持ち崩すか、それともなにか別のこ顔はしばしばあおざめて揉みくたになり、いつも何かやり切 とをするか、である。ここで有名な諺、「ドイツ人にためにれないはど重苦しい、頭の割れそうな仕事に没頭して、時に なるものでも、ロシャ人には命取り」の反対のことをいって苦しい労働でヘとへとになり、疲弊しつくしたような恰好を も、かなり正確になるのである。われわれロシャ人のなか してはいるものの、本当のところは何も生産的なことをして これが外面的に見た空想家である。空想家はい で、自分の仕事を愛情をもって、ちゃんと仕上げるだけの手いない 段方法を備えているものが、はたしてたくさんいるだろう つも重苦しい というのは、極端にむらがあるからである。 か。というのは、どんな仕事でもそれをする人から、進んあんまり陽気すぎるかと思うと、あんまり気むずかし過ぎ、 でやろうという気持ちと、愛情を要求する、 その人間の暴れものであるかと思うと、注意が行き届いて優しく、エゴ 全部を要求するからである。また最後に、自分の活動目標をイストかと思えば、高潔無比な感情を働かす力も持って 発見した人が、はたして大勢いるだろうか ? ある種の活動る。こんな連中はまったく役に立たず、たとい勤めてはいて はなおその上に、予備的手段や保証を要求するし、ある種のも、やつばりなんの能もなく、ただ、自分の仕事をこっこっ 活動には匪質が不向きなために、手を振って 、、い加減なや続けているばかり。しかも、その仕事は実質において、ほと つつけ仕事をするので、見ている間に駄目になってしまう。 んど無為にも劣るのである。彼らはいっさいの形式に深い嫌 その時、活動を渇望し、直接的な生活を渇望し、現実を渇望悪を感じているが、それにもかかわらず、ほかならぬ彼らが していながら、弱々しく繊細で、女生的な性格を持っているおとなしく、毒心を持っていないというただそのために、人 人には、だんだんと、いわゆる空想癖が生まれてくる。こう からさわられはせぬかとびくびくものである。彼らは第一番 して、ついに。間が人間でなく、何かしら中間的な存在、 に形式主義者なのである。しかし、家ではすっかり別の様子 すなわち空想家になってしまう。 をしている。彼らは主として、寄りつくこともできないよう 諸君、空想家がはたしてなんであるか、諸君ははたして知な片隅で、深い孤独の中に住んでいる。それはさながら、人 っていられるか ? それはペテルプルグの悪夢であり、具象間からも世間からも隠れようとしているかのごとくである。 部化された罪悪であり、発端と結末、あらゆる破局と移変を含概して、彼らは一目見たとき、何かメロドラマ的なものが目 第んだ、言葉なき、神秘めかしい、陰鬱な、奇怪きわまる悲劇に映るほどである。彼らは気むずかしくて、家の者とも口数 録である。筆者がこういうのは、けっして冗談ではない。諸君をきかず、自己の中に沈潜しているが、すべて怠惰な、軽 は時として、こういう人間に出会われるであろう、 , ーー全体 い、瞑想的なもの、すべて優しく感情に働きかけるもの、も 文 にばんやりとして、目つきはとりとめがなくどんよりとし、 二 1 3 しくは感覚を刺激するものが、とても好きである。彼らま ~ ' 儿 を口
社会ぜんたいに、生の徴候が少しもないなどということが、 比重と意義を与え、われわれの力量を測り、自意識の目を開田 ありうる話だろうか ? なんという絶望的な、恐ろしい、お いてくれるということは、だれしも承知している ( 誓ってい 話にならない見方だろう ? こうした進歩派の努力も、生活うが、この上もない無能なわめき屋や小僧っ子でも、それく の要求に答え得ないということも、大いにありうるかもしれらいのことは知っている ) 。現実にふれるが早いか、活動が よい。しかし、彼らの行動を支配しているのは、諸君の力説はじまるや否や、あらかじめ押しつけられた思想とか、気休 しておられるように、進歩派の評判を取ろうという鈍感よ、 め的な公式とか、そういったものはことごとく、消え去って 無良心の欲望ばかりであって、生活そのものではないのだろしまうに相違ない ( 現代においては、活動にあこがれている うか、生きようという意欲、その意欲を具体化しようとする人ははとんどすべて、そういうものを自分の課題にしている 努力ではないだろうか ? はたして彼らはすべてマネキンでのである ) 。しかし、諸君の意見によると、くよくよせずに あって、生きた人間ではないのだろうか ? 最近、せめて何落ちつくことは、じつにやさしいことである。妄想や空想を か表明しよう、せめて何か具体化しようと努めた人々は、は避けて、倒れず誤らないことは竕々たるわけである。この落 たしてすべてだれもかれも、機械的なパネで動く、魂のなちつき、この容易さこそが、うろんくさいのである。それは 自動人形にすぎないのだろうか、認識と真理のまぎれも無関心を証明し、欲に近いほどの ( こういう言葉づかいを ない渇望ではないのだろうか ? みんなだれもかれも、そんゆるしていただきたい ) 独善的なエゴイズムを暴露するもの な連中ばかりなのだろうか ? はたしてロシャ全国に存在すである。それに、諸君自身からして、公式を課題にしている るのは、諸君ばかりだろうか、大先生ぶっているロシャではないか ! 実際活動をしない、遊隋な、しかも落ちつきの やすやす 報知』ばかりだろうか ? 諸君はいとも易々といっさいに唾ない 、もの好きな人間は、自然の道理として、ノーマルな道 を吐きかけて、いっさいを踏みにじっている。いや、もしかをふみはずして、理論的なたわごとに熱中するものである。 したら、われわれの救済のために残ったのは、諸君ばかりでこの現象を何によって意味づけたものか、どうしてこれを理 はあるまいか ? それなら少しも早くわれわれを救ってくれ解すべきか ( この質問によって、諸君はあの論文をはじめた フレス、 ものである ) 。ところが、諸君は結論として、これらの不幸 たまえ ! 「イヴァン・アレグサンドロヴィチ ( タ 0 フ ) どう か本省の局長になってください ! 」といったようなわけであな人々、これらの活動に飢え渇している人々を、ほとんど卑 る。 劣漢よばわりするのみか、彼らからあらゆる生活権さえ奪っ 諸君はそもそも何を説教しようとしているのか ? 現実とてしまった。諸君は彼らを空つばな道化者と呼んで、彼らの 真の活動こそはわれわれを高潔にし、われわれにしかるべぎ人間的感情さえ拒否したのである。いったい誤りを犯す人間
とか、われわれはおのれの事業に対する愛を自分で自分に無われたにもかかわらす、である。もちろん、先覚者たちの間 理やり「押しつけた」とかいうのは、ありうべからざることで、この二十五年間にわが国でなんらかの進歩が遂げられた である。筆者は、この宣告の峻厳さが本ものであるとは、信ことを承認しようという規程は、まだ今のところないにきま じられない。思想の真の動きは時をふるにつれて、独自の厳っている。が、ぜんぜん進歩がなかったということも、あり 粛な、公平無私の歴史を持つようになる。その時には、事態得ないのである。シチェルビナ氏は、この意見を証明する具 はもっと深刻な、もっと喜ばしい解明を与えられるかもしれ体的な事実を要求されはしないであろう、筆者はそれを確信 。もしあれほど抽象的な見方でなく、若干の事実に基づしている。しかし、せめて一つの例でも、提供するとしょ いて、幾らか実際的な見方をするならば、われわれは自分のう。ほかでもない、次のような場合である。 意見に反する事実の中に、必ずや是とするようなものをも多筆者がさきに抜萃した長広舌の中で、シチェルビナ氏が自 ・ : 」「われわれは思いもよらな 少見いだすに相違ない。何も「悪い面ばかりを見る」必要は分で、「われわれは知らない : ・ : 」「われわれは愛の感情を ・ : 」「われわれは愛さない : あるまい。手のつけられぬ楽観論者、滑稽な楽観論者になら : 」「われわれの中には血 なくとも、公平に事物を見ることはできる。滑橋なといった自分自身に無理やり押しつけた : のは、はかでもない。わが国には何か一つ意見を発表するのが湧き立ち、カがあり余っている」などといっている。シチ エルビナ氏はおそらく礼節のために、このわれわれという言 にも、滑稽に見られることをひどく恐れるからである。その ために、最も多く人の賛成する、共通の意見をいだく人々葉をいたるところに挿入したものに相違ない。なにぶんに 丿ーに属するものと、考 も、氏は真剣に自分をそのカテゴー : 、たくさんいるわけである。すべての人に似るというこ これが滑稽に見られないための、最もよい方法であえているはずがないではないか。つまり、愛さない人間、成 る。こういったからとて、シチェルビナ氏もある程度共通の熟しない人間、愛するすべを知らない人間、自分自身に無理 意見をいだいて、すべての人に似ようとする傾向がある、なやり押しつけている人間、等々であると思い込んでいるはず さもなかったら、あんなに興奮したり、非難した シチェルビナ氏の見がなし どといおうとするのではさらさらない。 解はまったくのところ、わが国でも最も高潔な先覚者の大多り、軽蔑したり、あんな忠告をしたりなどするわけがない。 数のいだいている意見と、同じものである。ところが、わがさて、そうであるとしたならば、それこそ愛することも、評 国の先覚者は自然の道理として、われわれの世代に対する見価することも、行動することもできる人間が、すでに一人は しることになる : 方において、レールモントフの思想とはなはだしく相違する はずがない。 この思想はわれわれより四分の一世紀も前に現「きみはどうも誠実でないようだ」と、人々は筆者にいうだ
たものを、すっかり買ってしまうのである。くどいようだけろしく無駄づかいする、ということである。ところで、ペテ れども、わがペテルプルグのちつばけな先生は、断じて、卑ルプルグには何不足のない人たち、つまり、いわゆる裕福な 屈な気持ちで行動しているのではない。なにもそんな大仰な人たちがたくさんいるだろうか ? 間違っているかどうか知 言葉づかいをする必要は、ありはしな、 けっして下司ならないが、筆者はいつもペテルプルグを ( もし比較を許して 魂の持主ではない。聡明な魂である。愛すべき魂である。社もらうならば ) 、旧時代の人間で、富裕な、もの惜しみをし みなから尊敬されている 会の魂である。得んことをのぞむ魂である。求める魂であない、分別のある、ごく人のいし る。社交的な魂である。もっとも、少々ばかり先走りする魂父親に甘やかされた、末っ子のように想像していた。父親は ではあるがしかしなんといっても、 万人と同じ魂とは最後に仕事を放擲して、田舎へ引退し、静かな領地で南京木 申しかねるが、ーー・多くの人々と同様な魂である。これで何綿の普段着をきても、だれも無作法だというものがないの もかもけっこ、つである。とい、つのは、もしこれがなかった に、大満悦である。しかし、息子のほうは人中へだされてい ら、こういった魂がなかったら、みんなふさぎの虫のためにて、いろいろの学問を勉強しなければならない。息子は若い 死んでしまうか、それともお互い同士噛み合うかもしれない ヨーロッパ人にならなければならないのだ。で、父親は文明 めん からである。裏おもて、蔭ひなた、面かぶりーーーそれはよろ開化というものについては、人の噂でしか知らないのだけれ しくないことで、筆者も同感であるが、もし目下の場合、みども、息子にはぜひともずば抜けた文明開化の人になっても んながありのままの正体を現わして出て来たら、誓っていうらいたいのである。息子はさっそくうわっ面だけつかんで、 けれど、もっと悪いことになっただろう。こうしたさまざま生活の中へ飛び込んで行き、ヨーロツ。ハふうの服を一着に及 ニョルカ な有益な考えが筆者の頭に浮かんだのは、ちょうどペテルプび、ロひげを立て、唇の下に小さな三角ひげを生やしはじめ レートニイ・サード ルグの人々が、新しい春の衣裳を見せるために、夏の園やる。ところが、父親のほうはどうかというと、息子がそれと ネーフスキイ通りへ出て来た時なのである。 同時に頭もでき、経験も積み、独立心も現われ、とまれかく ああ ! ネーフスキイ通りで出会った人たちのことを書いまれ自分自身の生活をしようとし、僅か二十年の経験で、曾 部ただけでも、優に一冊の本になるくらいである。しかし、諸父さん時代の習慣で暮らしながら、一生すごした人間より 第君、諸君はすでにご自分の楽しい経験によって、そういうこも、より多くのことを認識したのに気がっかないで、ただ三 パニョルカ 息子が、親父のゆったりした 録とはもうすっかりごぞんじであるから、筆者の考えによる角ひげだけを目にとめて、 と、その本は書かなくてもよさそうである。筆者の頭にはもポケットから、やたら無匪に金をつかみだすのを見て、 論う一つの想が浮かんだ。ほかでもない、ペテルプルグでは恐また最後に、息子が少々ばかり分離派じみていて、腹に一物 1 三リ
殺人犯の前で、耽美的に陶然とし、精神的に茫然となり、そトリャビーチキンも自分の雑録を書いたことであろう。しか そういう文章を書いもトリャピーチキンは、自分がその雑録でどんなでたらめを こに何か巨大な人間像を見るとは、 たペンの所有者は、そもそもいかなる人物であろう ! 彼に並べたかを、いささかも考えていないのである ! あらゆる いわせれば、この殺人犯は、すべてのごみごみした人間ども人間的感情、あらゆる人間的理性が、その行動を跡づけるこ を圧倒したのである。それらの人々はだれひとりとして、まとを拒むような憤慨すべき人殺し、ただその時々の気まぐれ これ を満足さすために、自分の犠牲に飛びかかる野獣、 だ人殺しをしたことがないので、この怪物が一杯のウォート ははんとうの野獣にさえ劣る。なぜなら、野獣には少なくと 力のために、恐ろしい犯罪を決行したといって、びつくりし ているのである。これはかの新しいメッサリナと比べて、ども、気まぐれなどないからである。この怪物は、トリャビー チキンの目から見ると、カづよい人間の姿に見える。修身教 こが優っているのだろう ? 言い伝えによれば、彼女はヨー ロッパに満足できないで、アルジ , リアのカビラのところへ科書や読本の数知れぬ教訓の下に隠れている小人どもを圧倒 行ったとのことである。いや、精神的な意味で、このほうがする魅惑に充ちた、人をうっとりさせる人物と思われる。彼 : 、かにこの偉大な人間像のために、弁護の筆を弄している 劣っている ! しかし、そこにはなんら精神的な意味はな ひとつご覧をいただきた か、ちょっと見ていただきたいー い、といったほうがより正確であろう。この雑録家はまった とうして人を斬り殺せる 二十五コペイカのために、・ くのところ、自分の気持ちを何一つ表現しはしなかった。ど トリャビーチキ う見ても、彼はなんら真実の気持ちをいだき得ない、と考えものかと、驚き呆れている凡人どもの前で、 ないではいられない。彼は自分の美辞麗句の雰囲気に住んでンがなんというポーズをとっていることか ! 《二十五コペ いるので、それが彼独得の世界を構成しており、その中に気イカだろうと、千ループリだろうと同じことさ》とトリャビ いかもの ーチキンは叫ぶ。《この男のほうが、彼を訊問した連中よ 分や思想らしいものが発生するのだ。この怪しげな贋物が、 しだいに発展していって、種々さまざまなコンビネーションり、分別があったのだ ! 》トリャピーチキンは、自分が偉大 で組み合わされ、詩劇になったり、批評文になったり、大きな真理を述べたものと、信じて疑わない。彼は分別さえ引き : ほかならぬこの分別が、凡人どもを驚嘆さ 合いに出した : 部な本になったりする。こうした発展の要素やプロセスは、か したのである。この《物に動ぜぬ逞しい人間》が、ウォート 第のゴーゴリがイヴァン・アレグサンドロヴィチ・フレスタコ 録フにおいて、典型的な描写を示したのと、おなじものであ力をほしくなった。そこで、彼は平然として人を斬り殺し、 を口 る。それと同じようにフレスタコフも、親友である雑録家のその財布から二十五コペイカを取り出した、それより以上に : この無意味で愚 たやすい、簡単なことはないかのように : 論トリャビーチキンに手紙を書いた。おそらくそれと同様に、 まみ、
そういう人は、占い師的なはったり以外な これは何かしら、子供だましのて、笑うがいし ろう ? ふしぎなことだ ! んの意味もないような情熱をひけらかして、無意味にわれを 嚇かしである。 「義務の観念の助けなしに、義務の観念を無視して、人間同忘れて騒ぎまわるのをやめてもらいたい。そういう人は、な 義務の観念を指針んの価値もない、かげろうのようなものに、あくせくするの 十の関係を打ち立てようとするもの、 とせずして、何か他のものによってこの問題を解決せんとすをやめて、万能の力を持つ状況の意志によって、その場まか るものは ( なんという雄弁であろう ! ) 人間同士相互間の尊せの生活をするように心得たらいいのだ。まったくのとこ 敬とか、婦人の品位とかに関するいっさいの論議を、役にもろ、われわれは虫けらのことを思いわずらうだろうか ? 無 立たぬ紙屑のように空しい言葉として、わきのほうへおつば意識に、あるいは意識して、虫けらどもを踏みつぶす時、彼 らが満腹しているか、それとも飢えているかなどと、真剣に り出して棄ててしまえばよいのである」 とわれ考え込むだろうか : いやはや、なんという無川な雄弁だろう ! いったい義務 こんなことをしゃべるなんて、なんというもの好きだろ われは心にもなく叫ばずにはいられない の観念の助けを借らずに、だれが人間相互間の関係を打ち立 誓っていうが、今この文章を書いているわたしは、自分が てようとするのだ ? だれがそれ以外の方法で打ち立てた か、または打ち立てようとしたか ? だれでもいい、そういそっくりレトルトの中から出て来たなどとは、考えてもいな : その義務ははたして何に存いし、信じてもいない。わたしはそんなことを信じるわけに う人の名を挙げてもらいたい : しカオしがよしんばかりにそう信じているにもせよ、な するのか、 これこそ人々が真に探究した問題であって、 開闢以来この問題の解決に従事して来たし、今でも現に従事ぜそのときわたしは人間の権利や、利益や、その生活の改善 しつつあり、また世の終わりまで従事するであろうと思われを語ってはいけないのだろう ? なんのためにわたしは「自 る。しかし、これはまったく別の話である。ああ、諸君は人分の同志を面とむかって嘲笑し、その場まかせの生活を」し なければならないのだろう ? なにしろ、単に機械的な利害 を嚇かしているのだー 「まさしくそのとおり」と『ロシャ報知』は続ける。「人間観念のためばかりでも、ただ存在せんがためばかりでも、人 えん 間はたがいに協調し、約東し合わなければならぬ。したがっ を、レトルトで発見される化学的なアルカリと、酸と、塩以 外の何ものでもないと見なすものは、人間の権利とか、そのて、相互に対する義務によって、おのれを縛らなければな 利益とか、その生活の改善とかについて、うんぬんするのをらぬはずである。これがすなわち義務であり、したがって人 やめてもらいたい。そういう人は、自分の同志の目を見つめ生の目的である。これがなかったら、社会などというものは
る、というようなことである。それはよくわかっている。高おのれの人間的品位の名において、同様に人間だからであ る。したがって、彼は大学の諸先生たちからは人道主義を要 潔な動機から疑り深くなる、不信の気持ちが強くなる、とい ためし うこともあり得る。そういうことはみんなよくある例なの求し、諸先生によって指導されている社会からは尊敬を要求 ッする。ところで、知性の力というものは他人に優越する唯一 だ。しかし、われわれの内部に隠れている一種のジェスイ の、確固たる、論争をゆるさぬ長所であるから、そうした長 ト的心理のために、わざと口を緘することもしばしばある。 むしろたいていの場合がそうなのである。この心理のおもな所を天から授けられた学生が、それを誇りとすることをやめ 槓杆となっているのは、虚栄心に達するまでにいらだたされて、愚鈍というものを、なにか恥ずべき、辛辣な嘲笑を受く たわれわれの自尊心なのである。ある懐疑派は、現代はいらべきものと見なすようになるまでは、だれ一人としてこの長 しオカ全世界を非難所の前に屈服することを欲しないであろう。つまり、そうし だたされた自尊心の時代である、と、つこ、、 : するのは、それはもうあんまりというものだ。しかし、現代た理由によって、だれも馬鹿になりたがらず、したがって自 人のあるものはいかなる不名誉であろうとも、 たとい卑分の人間的長所に対して、われともなしに誤謬に陥っていく 劣漢、詐欺師、泥棒という汚名を着せられても、その汚名がのである。まさに馬鹿な人間こそは、おのれの愚昧のために はっきり明瞭に、実感に触れるように口から発せられなかっ赤面する必要がないはずである。なぜなら、自然が彼を馬鹿 たら、 に生みつけたからといって、それは彼の罪ではないからであ いわば、柔かい社交的な衣を着せられていたら、 : しかし、どうやらイニシアチーヴは、特権を賦与さ 彼はそれをたえ忍んだに相違ない : : ところが、自分の知性る。 にたいする嘲笑となると、我慢などすることではない、い つれた賢明な人々に属すべきであって、愚かな人間が賢人より かなゆるそうとしない。けっしてその恨みを忘れないで、機賢くないということは、ゆるさるべきことと見なされる。た 会を見て、快感さえ覚えながら復讐するに相違ない。ここでとえば、わたしはある一人の : : : まあ、実業家とでもしてお 取り急ぎ予防線を張っておくが、筆者はある種の現代人のこ こう ( なにしろ、今日では文学の中でさえ実業が幅をきかし もしているし、それに、実業家というのはなにか一般的な、罪の と . をいっているので、すべての現代人のことではない。 : さて、そこ 部かしたら、その原因はほかでもない、現代ではすべての人がない、ほとんど抽象的な言葉なのだから ) ・ 第しだいしだいにはっきりと、つぎのようなことを感じだしで、もしだれかこの実業家にむかって、悪党といわれるのと 、否、むしろ少しずつ自覚しはじめたからである。すなわ馬鹿と呼ばれるのと、どちらが気持ちがいいか ? とたずね 号ロ ち、すべての人は第一におのれ自身に値するし、第二には人たとしよう。わたしは確信して疑わないが、彼は一刻の猶予 論間として、すべての他の人間に値する。なんとなれば、彼ももなく悪党といわれるほうに賛成するに相違ない。そのく
第三に、わが国の詩人や芸術家は、まったく真の道を踏みえているわけである。人間を枠の中へぎゅうぎゅう嵌めてし はずす惧れがある。それは彼らが市民としての義務を理解しまって、お前の要求はこれこれだが、それはいけない、おれ ないためか、社会的直感性を持っていないためか、社会的興の気に食わない、そんなやり方でなく、こんなふうに生活し を冫ーしかないのである。どんな理屈を並べ 味がちぐはぐなためか、未熟さのためか、現実を理解しないろ ! というわナこよ、 ためか、ある種の歴史的原因のためか、社会がまだ十分に形て見せても、だれもそれに従うものはありはしない。 成されていないためか、あるいは多くの人々がてんでん勝手それに、なお申し上げるが、筆者の確信するところによる 態度を取っているためか、である。それゆえ、この点からと、ロシャの社会においては、一般人間性に対するこの衝 すれば、 * * ポフ氏の呼びかけ、非難、解明は、大いに尊敬動、したがって、すべて歴史的なもの、一般人間的なもの、 概して、こういった種々さまざまなテーマに対する創造 されてしかるべきである。しかし、 * * ポフ氏はあまりに行 き過ぎをやっている。彼ががらがらと呼び、アル・ハム用の玩的才能の反響が、この社会の最もノーマルな状態であった。 具と名づけているものを、われわれは別の観点からノーマル 少なくとも、今日まではそのとおりであったが、おそらく未 なもの、有益なものと認めるのであり、したがって、詞華集来永劫、そのままで残るだろう。のみならず、筆者の見ると ころでは、ロシャ国民におけるこの一般人間的なものに対す 的詩人も全部が全部、 * * ポフ氏の呼ぶような狂人ではな く、ただ彼らの中で、たとえば一生をパリで暮らして、ロシる反応匪は、他のいかなる国民におけるよりも強く、その最 ャ語をつかうことさえ忘れてしまったわが国の貴婦人のごと高最良の特性をなしている。ビヨートル大帝の改革の結果、 く、目前の現実から完全に切り離された連中だけにすぎないまたわれわれが突如として種々さまざまな生活を矢継早に体 ( しかし、それは彼らのご勝手である ) 。「がらくたの玩具」験した結果、さらにまたあらゆる生活を渇望する本能の結 : 、有益であるのは、筆者の意見によると、われわれが歴史果、わが国の芸術よ、 , 。しかなる国にも見られないような、持 的・内面的精神生活によって、歴史的過去とも、一般人間性質的な、独特な表現のしかたを取らざるを得なかった。なに とも繋ぎ合わされているからである。これはなんともしようぶんにも諸君はほとんどわが国のノーマルな状態に反抗し のないことで、それ以外にはどうにもならないのである。そて、蜂起しているではないか。ヨーロッパ諸国民の文学は一 れは自然の法則なのである。筆者は進んで次のようにさえ考つの例外もなく、われわれにとって、ほんとんど肉親的なも える。人間は歴史的なもの、一般人間的なものに反応する能のであり、はとんどわれわれ自身のものと同様であって、本 ロシャの生活にも完全な反映を見せてい 力が多ければ多いほど、その人の天性はそれだけ広く、生活国におけると同様、 る。 * * ポフ氏よ、きみもそのように教育されてきたこと はそれだけ豊富で、その人は進歩と発達の資質をより多く備