で、もし彼が実際に単なる誠実な兵士であるならば、どうで宴会の招待を、はっきり辞退した。 政府は、ペリグーでなされたガンべッタの演説が掲載さ あろう ? その時はシャンポール伯が、もちろん、即位する : がそれもせいぜい二、三日だろう。彼の帰依者は、即位れているという理山で、新聞 "Siöcle" ( 『世紀しの街頭に おける販売を禁じた。 の翌日はどうなる、ということなど考えようともしないで、 ローマ発、九月二十一日 ( 十月三日 ) 。昨夜、イタ 、現在、地位を得たいという手合いばかりなのだ。シャ リア王国に教会領を併合した国民投票記念日を祝って、モ ンポール伯自身の言葉は、特徴的である。彼はある議員へあ てた手紙のうちで、「特定の党派の君主となった自分は想像ンティにおいてイルミネーションが催された。互いに握手 を交わす、ドイツと、オーストリアと、イタリアの三元首 もできない」と語っている。では、彼は自分をいったいなん をあらわしたうっし絵が人目をひき、音楽はイタリアと、 と想像しているのだろう ? ドイツと、オーストリアの国歌を奏した。 イスパニヤにおいても、事態は少しも良くならないばかり ドからの電報は、ド リ発、九月二十一日 ( 十月三日 ) 晩。左翼の主要 かかえって悪くなっている。マドリッ な議員たちは、。、 に到着したティエールを訪れた。 ン・カルロスがほとんど全滅に瀕していると、自讃している 中央派左翼の首領セーは、同派の議員たちに、十月十一 が、きっと真っ赤な嘘だろう。イスパニヤ南部では事態がま 日 ( 二十三日 ) に集会をひらく旨の回状を廻した。保守的 すます悪化し、カルタへナ付近では、政府軍が叛乱軍に走っ た。政府公債は一億レアルの代わりに、全部でやっと一千万な共和国を維持するための行動形態に関して、同派の意見 をまとめるためである。 レアルだけ集まった。なにはともあれ賦課や課税によって、 国民議会が予定の日時より早く開かれるという噂は、根 資金を集めることが決定された。イスパニヤ国会は分裂し、 その大多数は政府を見捨てている。おそらく、たくさんの新拠のないものと思われる。 昨日、国民議会左翼の議員は、王政の復活にたいし反対 しい pronunciamento ( 宣言 ) が公 ~ 夘されることだろ、つ 投票する意志のある議員の同盟結成に着手するむね決議し リ発、九月二十一日 ( 十月三日 ) 晩。 "Mémcrial Diplomatique" ( 「外交時報しによれば、政治綱領に関し て、右翼と中央派右翼との意見がまったく一致した、とい うことである。政治綱領は、この両派の意図では、国民議 九月二十日から二十七日までの電報 リ発、九月二十日 ( 十月二日 ) 。今朝、ネムール 公はパリからフロースドルフへむけて出発した。 ティエールは、ナンシーの市長にあてた手紙のうちで、 彼のために開催されるはずであった、ナンシー市における ~ 98
事務局は、政治綱領の作成のため、九月二十二日 ( 十月四 日 ) に会議を開くであろう。九月二十七日 ( 十月九日 ) の 国民議会議員大会はこの綱領を採択するものと思われる。 〔「グラジダニン』第三十九号、一八七三年九月二十四日〕 もし議員大会の同意がえられたならば、国民議会の開会ま 今度は、『グラジダニン』の紙面を他の報告にあてよう。 でに、議員大会の名において、建白書がシャンポール伯に まず、この一週間中の政治的通信のうちから、最も注目すべ送られるであろう。建白書は、フランスにおける王政復古 きものだけを拾って、お知らせする。 論者たちの最後通牒となるもようである。 ナポレオン公は、急進的新聞 "Avenir Nationa1" 国 ヴェルサイユ発、九月十三日 ( 二十五日 ) 。今日、 民の未来しの提案した、共和派とポナバルト派の同盟に賛 国民議会常任委員会会議が開かれたが、なにも注目すべき成した。 ことは起こらなかった。 明日、ペリグーにおいて、ガンべッタのために宴会が開 かれる。 そのあと、保守党の各分派に属する代議員六十名の集会 が開かれ、王政復古を妨げるすべての障害が、つぎつぎに ベルリン発、九月十四日 ( 二十六日 ) 夜。イタリア 審議された。すべての問題について、出席者のあいだに、 国王は、今日午後十時、ヘルリツツ鉄道で出発した。国王 完全な意見の一致が見られた。 は駅頭に立って、ヴィルヘルム皇帝と心からなる別れの挨 リ発、九月十三日 ( 二十五日 ) 。イス。ハニヤから拶をつげ、両陛下は接吻と抱擁をかわした。皇太子とカル の公電は、トロサ包囲中のカルロス党員が、モリオネスの ル親王につげた国王の別れの挨拶は、もっとも友情にれ 指揮する政府軍の接近を知って潰走した、と伝えている。 たものであった。駅は五色の花火に輝き、おびただしい群 モリオネスはトロサに入城した。 衆が歓声をあげてヴィクトル・エマヌエル王を見送った。 ベルリン発、九月十四日 ( 二十六日 ) 。今日午後十 リ発、九月十六日 ( 二十八日 ) 。新聞 "République 部時、イタリア国王はベルリンからイタリアへむけて出発す Franqaise" ( 「フランス共和国しは、共和主義者はプルポン 第る。 派や帝政復興論者となにものもともにすることを欲しない 録 昨日、ビスマルク公は宮廷にイタリアの大臣たちをたず と述べ、ポナバルト派との同盟を拒否した。 ね、長時間にわたって協議をとげた。 ド発、九月十五日 ( 二十七日 ) 。叛乱軍の 文 リ発、九月十五日 ( 二十七日 ) 。右翼の諸分派の軍艦『ヌマンシャ』と『メンデッツ・ヌーネッツ』は、九 2
である。しかし、ついでに、ベルリンの半官新聞『地方通に加担している。最近の国会における四つの空席の補欠選挙 信』の、ヴィル〈ルム皇帝ウィーン訪問に関する論説を、次は、圧倒的多数をもって、共和派が勝利した。あらゆる方面 からの無数の声明、連署、抗議、手紙などは、正統派の陰謀 に掲げることにする。 にたいする国民のふかい憤激と、一般にひろがっている恐怖 「皇帝は、オーストリア皇室およびオーストリア・ハンガリ ー帝国との友誼的関係を、個人的にも、全ヨーロッパ的政策を物語っている。そして、すべてのものが共和主義を標榜し こているのだ。しかし、だからといって、なにもフランス人が の上からも、きわめて高く評価していることを、この旅行冫 にわかに共和制を望むようになったわけではない。ただ彼ら よってふたたび示そうとした。昨年からはじまったロシャと は「正当な王政」の復興を恐れているだけのことである。現 オーストリアの両元首の接近も、今年の夏、ウィーンにおい て、さらに強固なものにされている。この三皇帝の間に締結在、だれもかれも、シャンポール伯のパリ到着によって、か された同盟は、ヨーロッパの平和維持を目的とするものであならず革命が起こると思っている。そして、これが、誠実で るが、それはイタリア国王のウィーンおよびベルリン訪問の穏健なすべてのフランス人の恐怖の的なのである。なぜなら 結果、いっそう拡大された。ウィーンにおけるドイツ皇帝とば、もしティエールとすべての「穏健派」が正統派に勝っこ とができず、彼らに勝利を許すとすれば、そのあとに予期さ オーストリア皇帝との会見は、ヨーロツ。ハの平和を保証し、 新しい動乱を予防する広汎な同盟の締結にとって、一つの大れる革命において、すでに一たび失敗をなめた穏健派の政党 を、政府の首脳として復帰させることは、ちょっとできない きな事件といわなければならない : 十月十一日 ( 二十三日 ) 、ヴィルヘルム皇帝は、ウィーン相談だからである。それで、現在、社会は恐慌を来たしてい るのである。全国の上に立っている国民議会の寡頭政治とい を発った。 ういまいましい事実も、ますます憤激を買うばかりである。 フランスにおける事態の緊張は、最高度にまでたっしたよだれでも、もうとうに認めていることなのだが ( なぜなら、 うだ。ティエールがパ リに帰って、正統主義反対派の先頭に事実はあまりにも明白だからである ) 、三年ほど前、あの多 部立ってからというもの、フランスの自由主義的政党は、まる難な非常時に、まったく特殊な事情のもとで選挙された国民 第で生きかえったように、異常な精力で、切迫する闘争に備え議会は、すでにかなり前から、国内の真の意志を表現するも 録はじめている。国会の中央派左翼の多くの議員は、共和主義のではなくなっている。したがって、現在では、それはただ 者になろうなどとは考えてみたこともなかったが、いまでは権力を濫用しているにすぎないのである。また議会は、二、 論自分たちの勢力を分裂させないため、いっせいに共和主義者三の空論家と無分別者、つまり僧権主義者と「好古家」のお 幻 7
は、現在の国会が解散されて、代わりに新しい国会が召集さ 8 る。ヴィヨーは、アンリ五世を描くにあたって、非常に高尚 なタイプの人物として、われわれに示している。実際、シャれ、完全な共和制がしかれるであろう。しかし、こうした特 ンポール伯が、自分の原則を守るために、王座を拒絶するよ殊な問題、こうしたいっさいの pro と contra はしばらくお うなことも、起こるかもしれない。また、彼は、国旗の問題くとして、現在、われわれをことさら考えさせる問題、興味 にかかわらず、国会の投票に問うて、一票ないし十票の差である、もっと一般的な問題を検討して見ることにしよう。 過半数を獲得するが、彼を選んだ過半数が恥ずかしいほど僅ます、シャンポール伯は王位につき、共和主義者は離散 し、マグマオンは服従し、国の中も、少なくとも表面的に かな数であったということから、ふたたび王位を拒絶するか は、しだいに安定し、新しい秩序もかなり円滑に進行してい もしれないのである。このような場合、ジェスイットたちが る、と仮定して見よう。こうして、「明日の日」は問題でな ただちに彼をなだめるというのも、ありそうなことである。 いとするのである。現在、一部の正統派は、「シャンポ ルイ・ヴィヨーもすぐさまそれに合流して、シャンポール伯 このような機会を逃してはならル伯が、少なくとも、十八年間の安静と平穏を、フランス人 を説得にカかるだろう。 ぬ。国民はもう王政などは忘れてしまい、粗野であり、異端に与えるだろう」と保証している。われわれは、十八年とま 的でさえある。もし彼らが反抗し離反したにせよ、やはりマでいかなくても、この平穏な治世が、数年つづくことに同意 クマオン元帥の従順さと国民議会の決議を利用して、どんなしよう。ところで、問題はそれからである。シャンポール伯 ことがあっても王位につかなければならぬ。この愚昧で無分が王位についているにしても、フランスの運命を決定するの はなんだろう ? ヨーロッパならびに全世界を安定させるの 別な人民をキリスト教に改宗させ、彼らを強制して信心ぶか 幸福な人間にするためだけにでも、そうしなければならはなんだろう ? ここに問題がある。 Veui110t ( ヴィヨー ) の断言するところ ない。そこに正当な王政の天職がある。それは一種の十字軍 である、云々、云々、こうヴィヨーはいうだろう。もしシャ によれば、この王位要求者の力は自分の原則を自分から裏切 ンポール伯が自分の原則を裏切らず、王位を拒絶するとすれらぬところに生じるので、それだからこそ、彼はフランスを ば、非常に愉快なことだ。なぜならば、世の中に度量の広い救い、安定させることができる、というのである。なるは しかし、フランスを救うために、 人間が一人増えることになるし、こうした尊敬できる人間ど、そうかもしれないが をするのだろうか、それにこの を、できるだけ多く持っことが、世界にとっては非常に必要この新しい国王はいったい何 だからである。しかし、決定的な瞬間に、 共和主義者が勝利場合、「できる」という言葉は何を意味しているのか ? シャンポール伯の原則の本質は、まず第一に、彼の権力が を占めるということも、起こらないとはいえない。その時に
は、あらゆる方面から新聞で非難を、それもまったくさまざ 9 まな意味の非難を浴びせられている。ドイツの新聞は、ハ ガリーの新聞に答えて、オーストリア・ ハンガリー帝国の財 グラジダニン』第四十六号、一八七三年十一月十二日〕政問題にまで政治的二元主義を拡張するくらいなら、むしろ オーストリア議会の開会は、この帝国に非常な激しい反政ハンガリー王国を帝国からまったく切り離し、その完全な独 府的興奮をよび起こした。政府の将来の行政計画が広汎な範立を宣言するほうが、はるかにオーストリアにとって有利で 囲にわたっていることさえ、攻撃を受けている。「一度にこある、と露骨に意見を開陳している。ポーランドの新聞は憤 んなに多くの任務を担当することは、 と政府の反対派は激して皇帝の演説を攻撃したし、チェコの新聞 "Pokrok" いうのである、 そのうちのどの問題にも真面目に対処しは、オーストリア帝国議会での皇帝の演説は、「チェコ人には ないことを意味する」皇帝の演説のうちでもっとも注意をひなんの関係もない」と、率直に声明した。法王全権論者の機 いた点は、今年この帝国に見舞った財政危機を精力的に処置関紙もまた、教会と国家との「或る」新しい関係の制定とい すると約東したことである。信用を回復すること、貿易と国う皇帝の言葉に、威嚇を見てとっている。共産主義者は宗教 民経済をもっと堅固で安全な軌道にのせること、 これがの完全な撲減を呼号しているけれども、この撲滅は、現在の 皇帝によって議会に示された重要な条項の一つである。その政府の洗練された自由主義が、司教や司祭を政府の官吏に変 後に、税制の全面的改革、国民銀行の特権更新問題、株式の え、信仰を支配の手段に変えようとしているのに較べれば、 改正、新しい鉄道法と職業法などが続いて示された。それか粗野であるだけはるかにましだ、とオーストリアの法王全権 らさらこ、・」 川法、訴訟法の改正と民法の改訂の必要が、そし論者は考えているのである。 て、なによりもまず、「国家とカトリック教会のあいだに、 新しい関係を制定する」必要が述べられた。 われわれがすでに、『グラジダ = ン』第四十五号 (iÉ) で、 ハンガリー人は、自分の利益をまもるに急で、現在、その国外の事件を報告して述べたように、プロシャの国会でも、 部王国の財政機構のためにも、二元主義を要求している。つま法王全権論者の政党は居眠ってなどいない。前にも指摘した 第り、国民銀行をオーストリア銀行、ハンガリー銀行、その他 とおり、法王全権論者の政策は、ますます、民主主義的な方 録の銀行に解体せよ、というのである。大蔵大臣デブレティス向にむかっている。たとえば、二つの新しい法律案、今後の の提案した方策は、全般的な動揺と失望を呼び起こした。取国会議員選挙における普通選挙制の実施と、新聞の印紙税廃 論引所の相場は下落した。強力な反対が予期されている。政府止の法案を、彼らま議院 へ提出することに成功した。また一
き機会、長いあいだ待ち望んでいたよき機会を、予感したか 義のことさえ考えていない。、、 ノヤンポール伯の即位は、彼ら らにすぎない、 と結論してもいいようだ。事実、彼らは機をにとって、ただ法王とカトリック教会の来るべき勝利を意味 ここま 見るに敏であった。彼らは驚愕せるフランスの最初の選挙にするだけである ( たとえば "Union", "Univers")0 さいして、大量に国民議会に選出され、今では国会にお、 でくると、すでにこれは党中の党である。 て、寡頭政治的な多数党を形成しているのである。 こうして、いま党派人たちが、・ハゼーヌ元帥を載いている いたるところ党派である ! なるほど、こうした党派を全のであるが、それは彼が自党に最後まで忠実であったためで 部いっしょにしてみたところで、その帰依者の総数は ( 共産ある ! 彼ははたして、さきほど比較した、あの古代ユダヤ 主義者の党派を別にして ) 、フランスの全人口と較べれば、 の「浄めの山羊」に似ていないだろうか ? : ・ : 現在、フラン まったく僅かなものにすぎない。その他のフランス人は、みスでは、祖国にたいする疑う余地のない裏切りでも、裁判官 な党派に無関心なのである。彼らは、ガンべッタ出現以前のがいないために、それを裁くことができないという有様なの あの宿命的な時代にそうだったように、独裁者が現われて、 である。なぜならば、すべての人が同様に、党派人だからで 自分たちの上に君臨し、自分たちの生命と財産を保証してくある : ・ ハゼーヌを裁きながら、フランス人はこれを理解す れることを渇望しているばかりなのだ。彼らの座右の銘としるだろうか ? て、 "Chacun pour soi et Dieu pour tous" ( 人はただお のれのため、神は万人のため ) という有名な諺がある。しか ヨーロッパの目下の事件に関する報告は ( 前週はその種類 し、ここでも、こ・のモットーによれば、すべてのものが自分が非常に少なかったのだが ) 、次号まで延ばすことにしよう。 自身の党派に属しているということになる。こうした人間に ン ただ、前から病気 ( 喘息 ) だったサクソニヤ国王ョ とって、「祖国」という言葉は、そもそも何を意味すること が、ピルニツツで、去る十月十七日 ( 二十九日 ) に他界した ができるのだろう ? ことを報告するだけにとどめる ( 彼は一八〇一年に生まれ、 ここにフランスの疾患がある。団結という共通の思想の喪一八五四年に王位についた ) 。人間として、彼は人民から深 失、その完全な欠如 ! 現在、正統派はこの思想を強制的に い尊敬を受けた人であった。 復活させ、根づかせようと努めている、といわれる。しカ し、彼らのうちの最良のものでさえ、そんなことは考えても 7 いない、ただ自分の党派の勝利だけを考えているのだ。それ に、彼らのうちのもっとも過激な分子になると、もう正統主 グラジダニン』第四十四号、一八七三年十月二十九日〕
制に較べれば、それと違って、なにか積極的で、決定的なもヴから ) 、真面目に活動の準備をしている。彼はあまり長し のをフランスにもたらすことができると、皆それぞれ確信し 間、暇をつぶしすぎた。国民議会の多数派に反対する党派 ているからである。ティエールのように共和制を定義するのの先頭にティエールは立って、フランスにおける王政復古の 切迫した異変に備え、第一に、議院で彼の好きな場所、中央 は、自分はそれを信じていないといっているようなものだ。 実際、こうしたことから、すべてのフランス人は、不本意な派左翼を、第二に、できるならば、中央派右翼の左派ぜんた がら、なにか過渡的なもの、どっちみち避けられない不幸、 いを、そして第三には、なろうことなら、国会の左翼ぜんた といったふうに共和制を見ているのである。このような状態し才 、を旨導しようと準備している。今のところ、国会の左翼ぜ は我慢がならない。それは、自然に消滅しなければならなんたいが、ティエールに従う可能性は、実現されるかもしれ こういう状態はティエールを首長として、はじめて、存ない。噂によると、極左派までが、争いをやめて、彼を指導 続することができたのであった。なぜなら、ティエールは一者に選挙しようと申し入れたそうである。この極左派の決議 つのカであったし、まして問題はティエールの共和制にあっ には、もっともこんなことはだれもいっていないが、どこか たのでなく、、 っさい ティエールにあったのだからでああの聡明なガンべッタの抜け目ないやり口が感じられる。し る。しかし、現在、ティエールはもうカではない。彼自身か し、こうしたすべての準備はきっと成功しないだろう。今 は、もちろん、それに気づいていない。まったく、つい最近でもだれもが考えているように、もし問題がただ国民議会の まで、彼はフランスの首長だったのである ! しかし、彼が決議のみによって終始するものとすれば、最後の瞬間には、 準備し、待っているうちに、時は永久に去ってしまった。疑中央派の多くの議員ばかりでなく、左翼の議員も、シャンポ いもなく、すでに彼はまったく歴史の領域に去ってしまっ ール伯に投票しないわけにはいかなくなるだろう。そんな時 た、偉大な歴史的人物にすぎず、将来もそれ以上のなにもの には、議会ではとても討論さえ行なわれまい。そして、不遜 でもないのだ。こうしたことを彼がいまとっぜん知ったとし な正統派は、厚かましく強制的に決議し、おそらく、ティエ たら、非常な意外の念に打たれるだろう。だが、もうじき覚 ールでも発言を許されないだろう ( ところで、彼はきっとも 部るに違いない。 う素晴らしい演説を用意しているのだ ) 。今からすでに正統 第何よりも確実なのは、このことを信じなければ信じないほ派は、その運命的な日に国民議会が軍隊によって包囲される と公然と語り、書きたてている有様である。大 録ど、ますます彼の失望が苦いものとなることである。自分がに違いな、、 まったく必要のない人間になったということは、そう急に信統領である元帥のことは、依然として、だれも考えもせず、 論じられるものではない。現在、彼はパリに帰って ( ジュネー 正統派は彼の従順さを疑ってみようともしていない。そこ四
も、ただちに、シエヌロンのザルップルグにおける交渉のてされている ) ためであると、うやうやしく申し上げた。伯新 んまつを具申した、委員会会議の報告が公表された。次に、 は、これにたいし ( もちろん、たいへんなもの柔かな穏かな声 議事録に発表されたこの報告を掲げることにしよう。それはで ) 、「野心らしい野心を持ったことも、権力のために権力を 追い求めたことも、ついぞ今までなかったし、これからもな まったく特異なものである。 と彼はつけ加えている、 いであろう」と答えた。しかし、 この報告によれば、第一、シャンポール伯は国民議会の議 もしフランスに力と生命を捧げることができたら、自分 員にたいし、交渉の間中、いつでもあきれかえるはど鷹揚で : フランスから遠く離れて暮らしな あった。二年ほど前に、彼らが ( 群れをなして ) 、いわばたは幸福になれるだろう : だのお客として、彼のところへ行ったときも、そうだったのがら、自分は苦しんだものだ。フランスもやはり、自分と離 だ。。、リ伯は、ザルップルグの会見のさい、政治とか条件とれていたあいだ、良いことはなかった。われわれはお互いに 、った話には、一言も触れなかった ( あるいは触れること必要なのだ」それがすむと、シエヌロンは、自分の派遣され た目的から、ぜひとも折合いをつける必要のある事柄にいた ができなかった ) 、と伝えられているくらいである。シエヌ ロンその他の使いのものなどは、シャンポールの前では腰をるまで、いわば立板に水といった調子で説明しはじめた。憲 下ろすこともできなかったに相違ない。この最後の使いの時法の問題については、次のように報告している。委員会から でさえ、シエヌロンはなに一つ、おくびにだすこともできな国会へ提出する王政復古提案の基礎となるのは、世襲的な国 かった。ところが、彼が派遣されたのは最後の返答を手に入王の権利を認めるという原則と、「国王に強制したものでも れるためだった。それはもっとも切迫した瞬間であり、王政なく、国王の与えたものでもない、国王と議会の審議によっ の運命も、シャンポール伯自身の運命も、全フランスの運命て作成された」憲章だというのである。 ( まったく、こうし 自分たちはどうなるか、という も、とくに「多数党」 た基本的な法式や規定が、最後の瞬間になるまで放置されて いたことは、驚くべき事実である ! 今までにこのことをい 最後の問いをもって、王位要求者につめ寄ったこの狂暴で貪 欲な「多数党」の運命も、みなこの瞬間にかかっていたので いだす機会が、実際、なかったのだろうか ? ) 次に、民法と ある。まず第一番に、シエヌロンは、慄えながらもとり入る宗教法の継続とか、法の前における平等の保存とか、立法権 ような態度で、「彼に拝謁の栄を賜った」伯にむかい、彼がは国王と議会に同時に属すべきこと、とかいうような事柄に 委員会から派遣されて参上したのは、けっして「白こよこ、 イ。オ ~ カついて、簡単な説明がすむと、すぐさまシエヌロンは、「こ の条件をあえて提議する」ためではなく、ただいわば「つつ うしたさまざまな権利を数え上げたのは、もちろん、シャン しんで事態をご説明申す」 ( 報告には、文字どおりそう表現ポール伯にたいする不信によるものではなく、ただ世論を誤
まれているかもしれないのだ。ヨーロッパはフランスがなく出てくるが早いか、ほとんど個人的に彼にくってかかるもの だ。予算の要求が厖大すぎることを、しかも、それが非生産 この問題は、多くの人にとって、 とも存在し、フるか ? ーーー 今でも不可能なことと見なされているが、実際的な今の時代的であり、進歩に逆行するものであり、国民に無益なもので に値しない空虚な思想家ばかりが、そう思「ているわけではあることを、猛烈に攻撃しはじめる。陸軍大臣自身が、血に しかし、筆者はいうまでもなく、現在の事件飢えた男として、ほとんど弾劾されないばかりの有様であ けっしてない の報告者として、この問題を強いて解決せず、提出するだける。それに、実際、ヨーロッパのどこの政府でも、毎年、軍 にとどめるが、ちょっとついでに、次のこと、つまり、二、事予算のために新しい国債を国家に負わしているのだから、 かなり不愉央なむずかし 三の徴候と現象の示すところによると、この天分に富んだ国時として、予算案の討議のさいに い瞬間も生じるわけだ。これがほとんど一般の常例となって 民は、全力をあげて生活しようとしているので、ヨーロッパ いる。ところが、とっぜんフランスでは、今度はじめてぜん には、遠からず、心配の種が増えそうだ、ということを述べ ぜん逆な出来事が起こったのである。 ておこう : : : 陸軍大臣デュバライユ将軍が予算案を持って現われるが 一週間ほど前、この意味で、まったく並みはずれた事件が フランスに起こって、ヨーロツ。ハの一部の要人たちを抱腹絶早いか、彼の予算の貧弱、些細であることにたいし、国会の 隅々から烈しい攻撃が集中されたのだ。軍隊再組織の緩慢さ 倒させた。それは、事実、いくらか滑稽だったのだが、 ひんしゆく し、ドイ冫の多くの堅実な人からは、きっと顰躄されたに違や、幹部の不足や、設備改善の貧弱さなどについて、予算の いない。現在、フランスでは、国民議会において、来年度国要求額の少ないことについて、彼は非難を浴びせられた。 家予算の検討と認定が行なわれている。いままでと違って政二、三の乱暴な予算修正案が提出され、政府は非難され、罵 府と右翼が、今度のフランス国民議会で、文部省の追加予算倒され、侮辱された。 案に同情的な態度を示していることは、注目されなければな長い討論のあげく、狼狽した陸軍大臣はどうやらその場を しかし、フランスばかりでなく、ヨーロッパのどこ繕うことができた。彼はこの予算の貧弱さを適当に認めて、 らない。 部の議会でも、反対党の攻撃は陸軍省の予算に烈しく集中されその代わり来年度予算はきわめて厖大なものになろうと、国 第るのが常である。いつでも議院には、進歩や、人道や、自由会をなだめるような発言をしたのである。この報告が皆を落 録主義の代表者が現われ、陸軍大臣が予算の要求 ( 事実、それちつかせたようだ。オディフレ・パキエ公が、軍隊の設備改 は嫌悪を覚えるほど僅少な、ヨーロッパのすべての国の文部善にだけでも、来年度中に十三億八千万フラン ( 一、 〇、〇〇〇、〇〇〇フラン ) が要求されよう、とそれにつけ 論省予算とは逆に、いつも恐ろしく厖大なものだが ) を手に、
解を招いたに違いないのだ。しかし、瓦解は起こらなかっ裁計画は、右翼ぜんたいによってただちにとり上げられ、右 た。そしてこの計画は自然に消滅した。つまり、オルレアン翼全分派の委員会の会長シャンガルニエ老将軍によって、開 家の王子たちが慎重であって、このようなばかげたことには会の初日、つまり、十一月五日 ( 新暦 ) に国民議会に提出さ 賛成しなかったからである。そこで、四方八方かけ廻ったあれた。 げく、マクマオン元帥を王国の代理者として招こうとした この提案がだされると、それを直ちに審議することが要求 が、マクマオンも、王のない王国の代理者になることはでき された。中央派左翼の議員であるデュフォールは、すぐ審議 といって、この名誉を辞退してしまった。こうして、 するという提議には反対しなかったが、この案を憲法草案審 政府の首長としてのマグマオンの権力を十年間延期し、国会査委員会に廻すことを要求した。それにたいして右翼は、新 を、少なくとも今後三年間解散しないという考えが、残されしい特別委員会に付託することを主張し、この委員会の選出 た唯一の可能な方法となったのである。そこで、誠実な元帥を提議した。投票が行なわれた。右翼は、前にも述べたよう ( 彼は五月二十四日いらい権力を好ましいものに思いはじめ に、十四票の差で勝利した。 た ) は、幾つかの条件を示した。それは一方からみれば思慮 この前の報告で、お伝えしたのはここまでだった。ところ に富んだものだったが、他方から見ればとくに達眼なところが、きわめて特徴的なことが起こった。そのことだけでも、 は少しもないものであった。なぜなら、結局において、やは この自分の地盤を失った議会における現在の事態の特徴を、 りフランスを tabularasa ( 白紙 ) と思っているからである。部分的には窺い知ることができる。つまり、国会が各部門に マグマオンま、 冫いっさいの場合にたいする特別の保証を自分分れて、多数決で獲得したシャンガルニエ案審査特別委員会 に与えてくれるように、たとえば、今後十年間にいっか現在の委員を選出した時 ( 十一月七日 ) 、思いがけなく、選出さ の議会が解散され、代わりに召集された別の議会で急進派がれた十五名の委員のうち国会左翼が多数をしめるという結果 多数をしめる場合でも、彼は政府の首長として直ちに議会をが出てきたのである。つい最近、共和主義を標榜した中央派 閉鎖解散し、議会なしでみずから十年のあいだ支配し続ける左翼の議員レミュザは、この委員会の会長に選挙され、中央 権利を持ち、無制限に大統領の職権を行使して秩序の回復に派左翼の首領レオン・セーっ家、一八七 ー ) も委員として、こ 努めることができるように、保証してくれと要求した。 ( フの委員会に入った。 ランスでこんな未曾有の策略を考えだすなどとは、自分の兵 こうして、左翼は特別委員会を恐れ、シャンガルニエ提案 隊を信じきっている、彼のような生粋の軍人でなければちょを憲法草案審査の一般委員会 ( そこではしかし右翼がいつで っとできない芸当だ。 ) このフランスでは未曾有の軍事的独も優勢なのである ) へ付託することを主張したのだったが、 4 2