人であり、ドイツ人であって、抽象的な共通人でないからで二月号に載った、わたしの才気縦横の随筆を読んでくださ す。何か事を行なう前に、自分自身が何かになること、何か い ) 。わたしは田舎で一人の百姓を見ましたが、それがひど に具象化すること、おのれ自身になることが必要です。そのく貧乏なのに一驚を吃したわけです。わたしは前にも百姓を 時はじめて、あなた方は自分の言葉を発することができま見ていましたが、かってそれに思いを潜めたことがありませ す、おのれ自身の世界観の形式を表明することができます。 ん。もちろん、わたしが初めてそれに気がついたのは、読者 ところが、あなた方は抽象人です、影です。無です。無からの罪ではありません。しかし、わたしはこれを『新しい思 は何も出てきません。あなた方は他人の思想です。あなた方想』として受けとったことに、驚き入っているのです。のみ ポーチヴ・ア は夢です。あなた方は土地の上でなく、空中に立っているのならず、わたしは『新しい経済関係』をつくりだしたので です。あなた方の下から、透いて見えるのは : 「ああ、痒がっている。痒がっている ! 」 「きみが、きみが『新しい経済関係』をつくりだしたって ! 」 「ふん、さよう、とても痒いですよ ! わたしは現に、自分と一同はあきれて叫んだ。 でものの十ペんも、『新しい経済関係がいたったならば』と 「さよう、わたしです、わたし自身です、 moi-méme! ( まさ 書いたものですが、それにいったいなんの意味があるでしょ しくわたしです ! ) なぜって、わたしだってやはり自分の思想 う ? われながら可笑しくなってきましたよ。いっそれが到を持っことができますからね。わたしはこういう結論を下し 来するのやら、どんなふうに到来するのやら ? 天からでも たのです。もしあなた方がモスクワで辻馬車を雇うとすれ 降ってくるのかしらん ? これはただの言葉です ! この言ば、百姓相手に駄賃を値切ったりなどしないでしよう。なに 葉の上に千年もあぐらを掻いていられるけれども、実行は何しろ百姓は貧乏なんですからね。で、もし向こうが二十コペ 一つできやしない : イカくれといったら、あなた方は十五コペイカなんか渡しち 「あいつは自由思想家だ ! 」と一同はシチェドロダーロフをやいけません。それどころか、二十コペイカくれといわれた 囲んで絶叫した。「よくそんなことがいえたものだ ! 」 ら、二十五コペイカおやんなさい : : これが、もちろん、新 「いや、わたしはただ焼き直されたニヒリストで、本当に有しい経済関係で、もちろん、あなた方のどんな理論にも負け 用な材になりたいと思ったのです。わたしは自分の思想を持やしません : : : 」 ちたいと思ったのですが、あなた方はわたしの努力を認めて しかし、このときものすごいホメロス的な哄笑が起こった くれなかったのです。現にわたしは二月の月に、自分の思想ので、シチェドロダーロフはまごっいてしまった。彼はそれ を求めて、わざわざ田舎へ行ってきました ( 一つ『現代』のでなくとも、こうした場面で興奮してしまっていたのであ
たわごと ら見ると、ほとんどあり得べからざる囈言に近いはどの特殊とはいうものの、短編作者の根本思想は正鵠をうがってい この道 な場合なのである。きみが自分の思想を証明するために、そるのだ。一つこういうことを想像していただきたい。 れをロシャ精神の中に、ロシャ人によって表現することがで 化た娘の代わりに、拵えもののマーシャの代わりに、短編の えきえき きなかったとしたら、そうした事実はロシャ精神の中にな作者が精彩奕々とした、正確な人物を描きだして、きみも立 く、そんなことはロシャの現実にありえない、そう結論するちどころに、自分があれほど熱烈に論じているところのもの ことが許されるのは、きみ自身もご異存のないことと思う」を、現実にまざまざと見る思いをしたならば、はたしてきみ こんなふうに、彼らは答えるだろうから、つまりあの短編は はこの短編が芸術的であるという理由で、その価値を否定す 真面目な筋道のとおった印象の代わりに、ただもの笑いの種るであろうか ? 否、このような物語こそ千倍も有益なので になるばかりで、『熊と隠者』の寓話のイ ) を想起せしめるある。本当のところ、諸君は詩や芸術を軽蔑している。なに にすぎないだろう。「きみはそういう思想をもったロシャ人しろ諸君は実際家なのだから、何よりもまず事業を要求して を表現することさえできなかったのだ ! 」ときみの反対論者いる。ところが、芸術的であるということこそ、最も実際的 はつけ加えるだろう。「きみの思想がどんなふうに生活の中な ( もしお望みなら申し上げるが ) 人間であるきみの気を揉 で実現するかということを、読者に示さなければならぬ時んでいる事業を、形象において表現する最もすぐれた、最も ロシャ人はきみからすべりぬけてしまったのである。き 説得力のある、最も疑いのない、最も大衆に理解しやすい方 みは何かしらパレーのなかのスイス人に、ロシャふうの長上法なのである。してみると、芸術性は最高度において有益な サラファン 衣や長袖無を着せざるを得なかった。あれはペイザンとペイのであって、しかもほかならぬ最高の見地から有益なのであ きみる。これこそいかなる要求にも先んじて、ます第一に押しだ サンヌの」如 ) であ「て、百姓や百姓女ではない。 が自分の愚劣なパラドッグスを証明しようとして、第一歩をさなくてはならないのに、どうして諸君はそれを軽蔑し、迫 ポーチヴァ 踏みだしたとたん、土地がきみの足もとからすべり抜けたの害するのか ? だ。それなのに、事実の擁護者であるきみ自身が、ロシャ人「いかなる要求にも先んじて、などと、そんなことはできな 部の間にその事実を表現することができないのに、われわれに い」と諸君はいう。「なぜなら、まず第一に必要なのは事業 第もそれを信じろというのだろうか ? 否、きみたち書斎裡のだから」しかし、事業についても、筋道のとおった、上手な 、、、、、ナれど、われわれに 録空想家は、勝手に自己欺瞞をする力ししし 話し方をしなくてはならない。たとい事務的な人間であって 記 はかまわないでもらいたい」人々はきみに向かってこういう も、話のしかたが下手だったら、大して役に立たないだろ 論だろうが、それは自己流なりに正しいのである。 う。それは、早い言がきみの指揮下に大勢の兵隊がいると ン
さんの仰々しい論文をおとなしく読んでいるのかと、何より 、見事な黄金の果実であるという、生きた証明である。ョ もそれに呆れる次第である。しかし、筆者は自分の意見を述 ーロツ。ハ人との接触によって、われわれ自身について知り得 るいっさいのものを、われわれは知ることができた。文明がべるのに、大論策の形などにはしないだろうと、秘かに信じ 八六一年一月〕 われわれに闡明し得る限りのものを、われわれは自分で自分ている。〔一 ま最も完全な、最も調和し に闡明した。そうして、この知識。 た形で、プーシキンの中に現われたのである。われわれは彼 第 2 章 * * ポフ氏と芸術の間題 によって、ロシャの理想が全一性であり、一切協和であり、 筆者は本誌の広告のなかで、目下のロシャ文学批評が俗悪 全人類性であることを悟った。プーシキンの出現によって、 化し、浅薄化していくと述べた。筆者は哀愁の念をいだきっ われわれは未来におけるロシャの活躍まで明らかにされた思 つ、これらの言葉を発したのであって、それを取り消そうな いである。ロシャの精神、ロシャの思想は、ひとり、プーシ これはわれわれの深く確信するところだか しかし、ただ彼の中どとは思わない。 キンの中にのみ表現されたのではない。 にのみ完全に残りなく、完成された渾然たる事実として示現らである。ロシャで最も多数の読者を有する雑誌の多くは、 されたのである : この一八六一年の予約購読募集がはじまった時、秋李号の広 プーシキンについては、次号でもう少し詳細に語って、筆告の中で、これとほとんど同じ思想を表白した。少なくと 者の思想を証明しつつ発展させたいと思っている。さらに次も、その中の多数は、来年この欄に特殊の注意を払う旨を約 した。してみれば、これまで文芸欄がかんばしくなかったこ いよいよロシャ文学に移って、その現状、現在の社 号では、 会におけるその意義、文学上の誤解、論争、いろいろの問題とに、同意したわけである。もし各誌がその公約を実行すれ について語るであろう。なかんずく、一つのきわめて奇怪なば、それこそけっこうなことである。われわれは文学批評が 問題について、数言を費したいと思う。この問題はすでに数浅薄化したといったばかりに、ほら吹きだとか高慢ちきだと かいって、非難されはしまいと思う。われわれが、のべつ自 年間にわたって、わが国の文学を二つの陣営に分裂させ、か 部ようにしてその力を麻痺させているのである。それはほかな分で自分を新しき真理の宣伝者、新思想の普及者と自任して いる、云々の非難を受けはすまい。われわれ自身もそんな役 第らぬあの喧ましい芸術のための芸術、等々の問題であって、 録万人の知るところである。しかし、標題など書きだす必要は割を引き受けはしない。われわれが知っているのはただ一つ / 冫しである。すなわち、われわれはおのれの仕事を愛しているの あるまい。前もって白状しておくが、どうして一般大衆よ、 論いかげんにこの問題にあきあきしないで、これに関するたくで、熱意と尊敬をもってこれに当たっているということであ引
察は次の機会まで延ばさなければならぬことになった。 「不幸なロシャの言葉、不幸なロシャの教育 ! そもそも いかなる運命がお前たちを待ち設けているのだろう ? 背 後にあるのはきわめて僅少であり、前途は混沌、暗澹とし ている。いたるところに空虚と無力、生命的基盤の欠乏、 事実から発して事実に向かう思想の不足が感じられる。今 すべての人が独自の思想を論議しているが、現代ほど空語 空言がおびただしく氾濫したことは、かってない。今は一 「青い小鳩が泣いている : : : 」 見したところすべての人が、自分自身の知性で生き、権域 に跪拝しまいとして、ただそれがためにのみ苦慮している まず第一に、われわれが本誌の五月号で『ロシャ報知』 かのごとく思われるにもかかわらず、俗悪きわまる月並主 向けて語ったことを、抜き書きしておく。これは問題解明の 義が、今日ほど万能の権威をもって君臨したことは、かっ ために必要なのである。 てなかった。他人の生活から借りて来た意見、生気を失っ * 以下、第三七三ページ下段第一行目の「いかなる社会にも」から、第三七 四ページ下段第四行目の「とくに中傷はどうしても必要である」までが引用 て忘れられた言葉、偶然の断片的な言葉、意味も関連もない されている。「原注〕 言葉の空虚な、奴隷的な反覆ばかりである。もしさまざま な事情がなかったら、思想の仮面をかぶっている空語空一言 さてこんどは、本誌の読者のために、『ロシャ報知』の長 の系図を、一つ一つ追及するのは竕たるわざであろう。 広舌のおもな部分を、ぜんぶ引用することにする。これは同 その無内容と俗悪さを指摘するのは、造作もないことなの 誌の最近号 ( 八月号 ) に、「哀歌的感想』という題で掲載さ : し である。わが国の教育を研究する未来の歴史家は、かなら れたものである。同じ号にもう一つ別の感想があるが かし、われわれはただ哀歌のほうだけについて語ることにすずやそれを成し遂げるであろう。その時こそは、今わが国 の生活に見られるあぶくのような現象の起因するところ が、おのずと表面に浮かび出るであろう。これらの現象は 「われわれは本号で、多くのことについて語るつもりであ驚くべき速度で代わっていく。われわれは次々と新局面を 録 ったが、人間は計画を立てるけれど、それを定めるのは神体験している。一見したところ、わが国の生活の根底に 論である。いろいろな事情のために、ロシャ文学に関する観は、汲めども尺、きぬ創造力の源泉が潜んでいて、絶えず古 『ロシャ報知』の哀歌的感想について 402
である、とはいえ、筆者はただ第一の短編の点検のみに限ろには、信念から生じる力がある。 * * ポフ氏は批評家という うと思う。 * * ポフ氏の信念を理解するためには、それでもよりも、むしろ評論家である。彼の信念の根本は正しいもの 十分だからである。当のマルコ・ヴォフチョーグについてであって、読者の同感を呼びさます。しかし、その根本を表 は、本論のなかで詳細にわたらないつもりである。ただ次の現する思想は、しばしば逆説的であって、一つの大きな欠 ようにいっておこう。筆者はこの作者の大なる知性と、立派点、 書斎的性質を有している。 * * ポフ氏は理論家であ な意図を認めはするけれども、その力強い文学的才能には疑るが、時としては空想家にさえなって、多くの場合、あまり いをさし挾むものである。かような意見をなんらの証明なしよく現実を知らない。彼は時として、あまりにも無遠慮に現 に公表することを、筆者はとくに遺憾とする次第である。そ実を取り扱い過ぎる。ただ現実が自分の思想を証明しさえす れよりもいっそう、ほかならぬ第一の短編『マーシャ』の批れゞ、、 。ししというように、自分の勝手なほうへ、現実をあっち 評を、まるでわざとのように取り上げなければならなくなっ こっちと捻じ曲げるのである。 * * ポフ氏は単純明晰な言葉 たのを、さらに遺憾とする。白状しなければならないが、こで文章を書く人である。もっとも、彼は文章を読者のロへ入 れはおそらくこの作者の短編ぜんたいの中で、最も力の足りれる前に、あまり自分のロの中で咀嚼しすぎる、という人も ないものと思われるからである。しかし、 * * ボフ氏はこのある。彼は自分の思想が理解されないような気がして、しか 短編の批評において、ほかでもない、筆者が読者の注意を促たがないらしい しかし、それは些々たる欠点である。言葉 さんと欲する側面から、最も詳細に意見を吐露しているのでの単純明晰ということは、現代において特別の注意と賞讃に きつくっ ある。 値する。なにしろある種の雑誌では、文章が不明瞭で、信屈 ごうが * * ポフ氏は筆者の意見によると、詳細な分析に値する人贅牙で、廻りくどいのを、意味深長に見せかけるのに役立っ ではあるが、もちろん、彼の信念のすべてを分析しようとい とでも思っているらしく、それを自分で大したお手柄のよう うつもりはない。筆者は多くの点において彼と意見を異にし にうぬ惚れている、そういうご時勢なのである。だれだった て、正面から彼の敵手として立つものであるが、しかし彼がか筆者に向かって、こんなことを力説した人がある。今では もし批評家が水をはしいと思ったら、単純に「水を持って来 自分の書いたものを読ませる力を持っていること、 * * ボフ 氏が寄稿家となって以来、「現代人』の批評欄がまず第一に い」といわないで、きっと何か次のようなふうにいうにちが ページを切られるようになったこと ( それまではほとんどだ れも批評など読まなかったのである ) 、ただそれだけでも、 「わたしの胃の中で複雑化している固い要素の軟化に役立っ * * ポフ氏の文学的才能を明らかに証明している。彼の才能ところの、湿潤作用の本質的根源を持って来い」
痙攣や誤謬を嘲笑するばかりで、自分の手を汚したくないばし立て、それでなくとも新思想に敵意をいだいている大衆の 、 0 亠丿っキ、よノ、 目に、卑俗なものと映るようにしている。ただそれだけで かりに、その仕事に指一本ふれようとしなしレ も、彼らは裏切り人のような軽率さで、あらゆる新思想に害 諸君こそ、諸君があれほど憤慨しておられる空論家のひとり 諸君はおそろを加えているのだ。しかし、諸君はまず第一に、自分を除い ではないだろうか ? それからもう一つ、 しく軽率である。諸君は、人をだますことなど造作のない話て、すべての思索する人々、光を望む人々を、ひとりのこさ だ、と思っておられる。「おれは実に憂悶の情にたえないのず、わめき屋と見なしている。第二に、諸君はこれらすべて のわめき屋、進歩派を、良心のない連中と決め込んで、ほか だ。わめき屋や小僧っ子どもの侮辱し、抹殺しようとしてい ならぬその点を強調し、まさにそのことを証明しようとして る学術を、擁護しているものなのだ。おれはそういうありさ いるのだ。諸君にいわせれば、わが国にはりつばに保証でき まを見て、自分でも憂悶し、悲嘆しているものだから、こう とのことである : ・ : ・これは るような良心的な人間がいない、 して哀歌的な号泣の声を上げたのだ」といったわけである。 諸君自身の言葉である。それから諸君はさらに言葉をすすめ その長広舌をふるう腕前はお見事ながら、諸君はあまりにも 素朴に真の目標を暴露している ! 諸君が苦慮しているのはて、われわれが ( このわれわれというのは、もちろん、言葉 学術のことではない、諸君は何ごとについても憂悶などしてを飾るためである ) 、われわれが進歩派であるのは、時代お こわ はいな、。諸君にとって必要なのは、すべての「進歩派」どくれという評判を取るのが怖いからである。「われわれはた もを、無良心な空論家であり、マネキンと呼ぶことなのであだ非進歩派であるという疑いを招かないためのみに、ありと る。その仕事にまじめな、神聖な気持ちで同感している人、あらゆるでたらめを口走ったり、またじっと聞いているのも 辞さないのである」 ( してみると、意識しながら無良心だ、 たとえいくらかでも人間を見分ける目を持った人なら、こう いう軽蔑はあり得ないはずである。なんというシニッグな態というわけである ) 最後に諸君はいう。「もしかりにだれか が、進歩なんてものはない、人生のすべては無意味で、偶然 いやはやー 度で、諸君は自己を暴露したことか ! あの論文で、能なしな粗雑なやり方で、思想の上っつらだけ的なものである、とわめいてみたまえ : : : われわれはただ進 部をとらえ、それを一面的に解釈しているわめき屋や、無能な歩派と思われたいがためばかりに、そういう決定にもおとな 第 小僧っ子だけのことを語ったのなら、ああ、その時はわれわしく屈服するのである」 録れも進んで、合流したであろう、諸君がそういう仲間を歓迎そうだろうか ? はたしてそうだろうか ? 良識の点のみ から見ても、すべての人にとって、ひとりのこさずすべての しようと、しまいとにかかわらずである ! なにぶんにもこ 文 の小僧っ子連中は、新しい思想のことをわめき散らし、はやものにとって、はたしてありうることだろうか ? わが国の和 1 言ロ
思想がない。が、もっとも重大なのは人間である、人間が何ある。思想の継承性は、これらの作家においてすでに明瞭で よりもまず第一である ! 書物はある、人道主義の規律はああり、またこの思想は力強い、全国民的なものである。これ らの作家のほか、まだ多くの既存、あるいは新出の作家たち る、いっさいの徳行の表はある、天才的な思想を受け継い がいて、いかなるヨーロッパの文学といえども、彼らを否定 で、だから自分も天才だと妄想している賢い連中も、たくさ そういうものはちゃんとある。が、それだけですることはあるまい。はたしてプーシキンの出現は、単に言 んいる、 は足りない。 こういった道具立てでは、たとえ道がよくって葉をつくり上げただけの役目をしたのだろうか ? はたして もし道『ロシャ報知』はプーシキンの才能の中に、ロシャ精神とロ も、自分で自分を責めなければならぬかもしれない。 シャ的意義との、逞しい具象化を見ないのだろうか ? 窄学 が悪かったら、それどころの騒ぎではない。 こんなことはみんな、文章と雄弁の練習のために、今ただのない文学、と諸君はいう。がその代わり、わたしは自覚を ちょっといってみたばかりである。しかし、もちろん、こん有する文学という。この自覚はまだ若くて、固定してはいな いけれど、その代わり豊かに始まって、洋々たる希望を有し なことはみな『ロシャ報知』になんのかかわりもありはしな い。それどころか、われわれはこの雑誌に大きな期待をかけている。わが国ではもう久しい前から、自己のロシャ的言葉 『ロシャ報が発しられている。その言葉を読み取りうるものは、幸いな ている。ただわたしはこんな気がするのだ、 知』はロシャの文学のことを論じるとき、少し夢中になりするかなである。諸君はプーシキンの功績として、単に言葉 ぎた。ロシャ文学は「ちつばけな、貧しい文学で、科学らしの仕上げのみを認めているのに、どうして諸君みずから彼を いものもなく、やっと生活をはじめたばかりだ。やっと自分賞讃されるのか、なぜ彼をだれよりもすぐれているとされる の言葉をつくり上げたばかりだ」とさえ罵ったのは、明らかのか、なぜ彼を国民詩人と賞揚されるのか ? もしかした に腹立ちまぎれで、だれかに八つ当たりしようと思っていたら、『現代人』の当てつけに何かいうために、諸君はプーシ ところ、おり悪しく口シャ文学がそばに居合わせたので、こキンを賞讃されるのではあるまいか ? わたしはそんな想像 それは恥ずべき考えだ、わたし れがそば杖を食ったというわけである。『ロシャ報知』のそなど信ずるものではないー 部ばに居合わせるものではない。わたしはまたこうも思う。わの心から消えてなくなれ ! これはただもう、諸君が熱くな 第が国の文学は最近生まれたばかりの、新しいものではあるけりすぎたのだ。わたしは、諸君がも少し冷静になるのを待っ れど、けっしてそうみじめなものではない。けっして貧弱なとしよう。 1 三ロ しかし、ド 5 し いかな、恐ろしいことに、『ロシャ報知 . 』は ものではない。われわれにはプーシキンもあれば、ゴーゴリ 論もあり、オストローフスキイもある。これはまさしく文学で冷静にならないばかりか、反対にいよいよ激昻して来る。何 359
もそも何ものだろう ? この女主人のマーシャは、 これき伏せることができるだろうか ? 「いや、これは本当らしく田 はまるで、アメリカを発見させてもらえぬグリストフォロ ない ! 」と彼らは叫ぶだろう : : が、当の * * ポフ氏の言葉 っさいのを懾こ、フ。 コロンプスみたいではないか。い っさいの地盤、い 現実は、足もとから抜き去られている。農奴の境涯に対する 嫌悪は、もちろん、百姓娘の中に発達するかもしれないが、 「『幻想だ ! 田園詩だ ! 黄金時代の空想だ ! 』この短 はたしてあんな現われ方をするだろうか ? あれは見世物小 編を読んだあとで、人道的な見方を持っていながら、心ひ 屋の女主人公であり、一種書物的、書斎的な拵え物であっ そかに農奴制に同感している実際的な人たちは、こんなふ て、女ではない。何もかもが、実に技巧的で、作為的で、わ うに叫んだ。『ただの百姓娘に、これほどまで佃性意識が ざとらしいしなを作っているので、二、三の場面 ( ことに、 発達しているなんて、どこでそんなことが見られるもの マーシャが兄に飛びついて、「わたしの自由を買い取って ! 」 か ? もしいっか、何かこんなふうなことがあったにして と叫ぶところ ) にいたっては、たとえば、筆者などは央な も、それは何か特殊な事情に結びついて発生した、エクセ 高笑いを抑えることができなかったほどである。この小説の ントリッグな場合なのだ : : : マーシャの物語はけっして口 この場面が、はたしてこのような印象を与えてよいものだろ シャ生活の挿絵になっていない。あれは単に雲の上のつく うか ? 人あるいはいうであろう、ある種の境涯に対しては り話にすぎない。作者はロシャの庶民階級の女のタイプを 尊敬を払う必要があって、思想のためには、その表現の多少取り上げたのではない。あれは特殊現象だ。だから、あの の失敗はゆるさなければならぬ、と。それには同意である。 短編はいかさまで、芸術的の価値はない。芸術性の要求 そして、誓っていうが、筆者は神聖なものを嘲笑しているの は、肉づけということに存する』云々。 ではない。 しかし、どんな思想、。 とんな事実でも、これを俗 そのさい、尊敬すべき弁士は、芸術性を滔々と論じはじ 化して、滑稽な形で表現できないものはない。それには諸君 めて、魚が水に帰ったような気持ちでいる。 もご同意のことと田 5 う。長いこと辛抱していても、ついには しかし、実際的に利害関係のない人は、「マーシャ』の 我慢しきれないで、大笑いに笑いこけてしまう。さて、今度なかに物語られているような事実が不自然だといって、抗 はこういう仮定をしてみよう。現在の農民の生活状況の弁護弁しようなどという考えは夢にも浮かばない。それどころ 者は、 * * ポフ氏の丿するように、農民は、自由になるこ か、この短編は、農民生活を知っているすべての人にとっ とを望んでいない としよう。ところで、この短編が彼らの て、ノーマルなものと思われたのである。まったくのとこ 中のだれか一人でも、それはきみの思い違いだといって、説ろ、われわれが各人において人間意識の必須な属性と見な
予期しないところで勝利を得た。他方、右翼は、もちろん、 ば、マグマオンは、正統派が望んでいるような十年任期の国 成功をいっそう確実にしようと、特別委員会をあれほど主張家主席としてでなく、どっちつかずの不安定な状態を完全に なくしてしまうために、十年任期の共和国大統領として宣言 しながら、まさにその道で敗北したのである。 され、しかも、独裁的な全権を与えられるべきだが、それも この事実はいったい何を意味するのか ? だれしも疑問に 思ったし、、 しまも疑問に思い続けている。われわれの意見にやはり議会主義的意義のうちに確実に限定されたものでなけ というのが彼らの現在の要求である。 よれば、国民議会がその拠って立つべき地盤をなくし、指揮ればならない、 のめどをまったく失い、しかも、もはや一つとして自分のカ こうして、右翼の二大分派のあとに続いて、おなじく他の を信じている政党が見あたらぬ、ということを意味するにすあらゆる分派が乱立した。皆それぞれ元帥の権限の延期には ぎないのだ。正当な君主制の正面きった宣言という思想が潰同意しているが、それもめいめい勝手な意味で賛成している えさるとともに、多数派のかっての先達である正統派は、たので、この問題にたいしすでに各自固有の見解を示して、 だ一つの希望に縋りついてはいたものの、しかし、自分でもる。分派はそうしてさらにグループに分かれ、色彩を異にす 気づかぬうちに、今まで奴隷のように彼らのあとに従ってきるものに分れ、とどのつまり、起こるべきことが起こったの た多数派にたいする指導力を、たちまち、失ってしまったのである。つまり表面上の結東にもかかわらず、その意義は失 である。シャンガルニエの提案は、ふたたびこの多数派を結われ、目的はべつべつになり、シャンポール伯にかけた最後 東させたかに見えたのだが、 しかしその代わり、前にすべての希望が失われるや、今まで堅く結東していた多数党が、心 のものを団結させていた思想をなくしてしまった。こんどのならずも、さまざまな方向にちりぢりに散りはじめたという 新しい思想には、たちまち不調和が暴露されたのである。たわけである。当然、まったくの崩解も予想できる。このよう とえば、極端な王党派は、シャンガルニエ案を支持しなが にして、人心動揺の際には、多くの議員が、たとえば、右翼 ら、公然と宣言した、 たといマクマオンが国王代理の役中央派の議員が、自分の新しい希望や目的を間違いなく確実 を拒否しているとしても、もし王政がふたたび布告されるよに実現させるために、左翼中央派の議員を特別委員会にこと 部うになれば、大統領マグマオンは、十年の任期にもかかわらさら選挙するようなことさえ、起こりうる。疑いもなく、か 第ず、直ちに席を国王に譲らなければならないのであるから、 げで背信や裏切りがなされたのである。 録やはりなんといおうと国王の代理人である。いままで正統派そういうわけで、現在の議会に特徴的な性格は、完全な分 と一致結東していた右翼中央派は、すでにこれとはべつの考裂である。なぜならば、左翼もまた、分派のあいだの意見の 論えで、シャンガルニエ案をまったく支持している。たとえ相違にもかかわらず、結東して戦ってきた以前の敵がかげを
る。つまり、それがために、当時の進歩主義者は、書物を開 くつき合うようになったが、彼は常に熱、いに注意を払って、 わたしの仕事を見まもっていてくれたから、それが彼の言葉いていきなり、「偉大なる思想家ホミヤコフ、キレエフスキ 二 1 ロ を説明してくれるわけである。ただこの時は、事の真相を知イ、神父フヨードル」といったような一一一〔葉にぶつかると、読 みもしないで軽蔑しながら雑誌を閉じてしまい、グリゴリエ らなかったのである。 フを気ちがいと呼んで、嘲笑するのである。 Z ・ Z ・ストラーホフはさらにすすんで、アポロン・ 亡兄はそれらすべてを、完全に友誼的な会話の中で ( わた グリゴリエフの引用した亡兄の言葉を注釈した文章の中で、 , ーにーレすべてスラ しはその席にい合わせて、その会話の仲間に加わった ) 、グ キレエフスキイ、ホミヤコフ、神父フョ ノヴ主義者 リゴリエフに向かって述べた後、結論としてこういった。 を持ちだしているが、わたし自身その場にいて、その話を聞 いていたので、親しき目撃者として、これらの言葉を真の意「冗談でしよう、そんなことをいったら、どんな読者だっ て、『キレエフスキイやホミヤコフが、いったいどんなに偉い 味で説明するのも、あえて無駄ではないと思う。 アポロン・グリゴリエフは常にしばしば『ヴレーミャ』の思想家なのです ? 』と問う十分な権利を持つでしようよ」 中で、ホミヤコフとキレエフスキイのことに言及した。そし ( つまり、「きみがそれを説明しないで、根拠もなしに書いた て、いつも自分の思いどおりのことをいっていた。というのなら」という意味である ) 。 しかし、グリゴリエフはけっしてそういう要求を理解しな は、「ヴレーミャ』の編集同人そのものが、徹頭徹尾、彼に かった。彼にはすべての評論家、思想上の指導者に必須な要 同感していたからである。しかし、彼がこれらの人物につい て、しばしばへまな言いかたをしたのが、よくないのであ領のよさや、柔軟性がまるでなかった。それどころか、そう る。なぜなら、正確な根拠なしに発言したからである。大多した説明のあとで、彼はどうかすると、以前の確信から背く ことを、人々が要求しているのではないか、というような気 数の読者はその時、まるで見当ちがいのほうへ解った。ホミ ヤコフとキレエフスキイについては、これら大衆は一度も彼のすることさえあった。 らの論文を読んだことがないくせに、彼らが退歩主義者であ O あの雑誌の創刊がされてから一、二年の間は、動揺が それは主義傾向の方面でなく、経営のやり方に 部る、ということしか知らなかった。彼らを読者に知らしめるあった、 関するものであった。同様に、ある種の信念にも誤りがあっ 第べきであったが、それは寘重に、要領よく、漸次にやりなが こ。しかし、主義傾向というものは、ただ年とともに形成さ 録ら、彼らの精神と理念をより多く大衆に浸潤さす必要があっ 一三ロ た。その当時の流行に応じて、証明もしないで声を大にしてれ得るものである。主義傾向を持っことと、それを明瞭に、 男のことであ 論褒めたてて、彼ら自身を滅亡さすよりも、ましだったのであ万人にわかりやすく形成するということは、Ⅱ 757