態度 - みる会図書館


検索対象: ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)
114件見つかりました。

1. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

たいする民衆の権利をことごとく否定し去った狂暴なる人 の制度を擁護する必要を認めなかったので、農民にたいし てかなり率直な友情的態度を取っていた。その証拠とし人なのである」 て、なかんずく、次の例を挙げることができる。すなわ オプンチナ ち、地主は農民の組合と共同体の形式と発達を黙許した よろしいか ? 「一見して確固不動の観ある農奴制のふとこ が、それはけっして地主の意志に反するものでもなく、まろに安住しつつ、この制度が完全に人間と神の法則にかなう ものであると、無邪気に信じ切っていた地主は、農民にたい た彼らの専横を防止するために生じたわけでもない。わが 国にはかって一度も封建的君主と家臣の関係に類するようしてかなり率直な友情的態度を取っていた : ・ : 」というので なものは、何一つとして存在していなかった。農民は地主ある。 しも にとって『ヴィレン』 vila 一 n ( 農奴 ) ではなくして、『神の奴第一に、農奴制が神の法則にかなうものと確信するには、 隷』であり、往々にして『愚かな農民的な思慮』の所有者人間どのくらいの程度まで鈍化しなければならぬか、考えて であったにもせよ、『キリスト教的な魂』の持主であった ! も見るがよい。もしそうとすれば、そういう人間が自分の農 時として恐るべき特権の濫用が行なわれはしたけれども、夫に友情的な態度を取ったなどと、どうして保証することが それは西欧におけるがごとく法律にまでは高められなかつできるのだろう ? きみの言葉によれば、わが国には、西欧 た。かの地で取り立てられた租税や、かの有名な甘 sp ・ n ・ におけるがごとき、封建的関係に類似したものは何一つな ( 初夜権 ) のような『権利』などは、わが国では頭から考え い、とのことであるが、そうではない、両者はまさしく等し られないはどである。ところが、社会的意識の批判力が農いものであったのである。一つ百姓にきいてみたまえ。 奴制の内面的不正を残りなくあばき、無自覚な専制君主的「農民は」ときみはいっている。「地主にとってヴィレンで しもべ のものではありながら、同時に何か単純素朴な関係から成はなく、神の奴隷であり、キリスト教的魂の所有者である」 っていた幸福な平和を破壊した時、その時こそ本当に多くところで、下司、下賤、下郎、土百姓などという呼び方は、 の地主が農民 にたいして誹謗を浴びせ、一般的に農奴制度きみの考えによると、ヴィレンより上品だとでもいうのか、 にたいする偽りの評価が現われた。もっとも、それは解放どうだろう ? ところで、一つおたずねするが、きみは友情 の事業を成就させる妨げにはならなかったのである。 的な地主という言葉で、そもそも何をさすつもりなのか ? 農奴制にたいする誹謗よりさらにいっそう烈しい誹謗実際、かって与えられていたような権利を享有する地主は、 は、ロシャ民衆にたいするものであって、これをあえてしどんなに善良な人間であっても、たとい善良無比な人間であ たものは西欧的教養を崇拝して、自由にして独自な発達につても、どうかした場合には、自分の農民にたいして、「単

2. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

も、今のところなんといっても、民衆にとっては大切なもの寧な態度を取れ、などというようなことは、もはや論外であ であることを忘れて、否、そんなことなど考えもせず、高潔る。この事柄はただ彼らにとってのみ無意味なのであって、 あかし なる憤懣の念にかられて、衆人環視の中で、その偏見に痰や他の人々にとっては過去の生活の証であり、表徴であって、 唾をはきかける。それどころか、もし民衆があまりにもたやあるいは今でも生活の全部であり、その生活の旗じるしであ すく、あまりにも科学的に、あまりにも唐突に、自分たちのる、などということにはかけかまいがないのである。いや、 シチェルビナ氏がこんなことは何 崇拝している大切なものを放棄するとしたら、彼らは下劣な何もいうがものはないー もかも、筆者よりもずっとよく、より根本的に知っているとい 衆であって、いささかの尊敬にも値しないということさえ、 うことは、確信して疑わぬところである。氏の頭脳をもって 考えてみようとしないのである。 して、どうして知らずにいられよう。しかし、なにぶんにも、 「ねえ、旦那、そう笑ったり、唾を吐きかけたりしないでく ださい」と百姓たちはいうだろう。「だって、これは親父や単なる知識だけでは不十分なのである。もう少し真重な態度 祖父の代から伝わったもので、わっしたちはこれが好きなんを取っても、差支えないはずである。何よりもまず第一に、 です、大事にしてるんです」「だからこそ、この偏見をお前「教育しよう」、「嘲笑しよう」、「否定的な面を攻撃しよう」 たちから叩きださなくちゃならないのだ ! 」と啓蒙家は叫という、あまりにも性急な否応のない希望は、これまた一種 の慎重を欠いた態度である。それよりもっと対等の立場から 「つまり、偏見はそれだけ深くお前たちの心に滲み込んでい民衆に近づいたほうが、よいのではあるまいか ? きみの態 るわけだ。そこでおれは、第一に、そいつがおれの高潔な感度にそれほど否応のない教化の希望がないことを認めたら、 情を掻き濁すのと、第二には、おれがそんなものをいっこう民衆はずっと早くきみを信頼するだろう。教えるというのは ありがたがっていないことを、お前たち馬鹿なものどもに見立派なことであるけれども、すべての教師が好かれるという それ以外には もし教えさえすれば、、、 せてやるために、お前たちの偏見に唾を吐きかけるのだ。だわけには、かよ、。 なんにもいらぬということなら、最初からいきなり明けすけ から、お前たちもおれを見習うがいい」 部しったいこんな連中をどうしたらいいのだろう ? なにしに、「さあ、見ろ、民衆ども、おれは学者だが、お前たちは ポーチヴァ 第ろこういった先生は、ものごとを歴史的に、土地と生活の関馬鹿だから、お前たちを教えにやって来たのだ。よく聞い 録連において見ることができないばかりか、人間愛的な見方さて、おれのいうとおりにしろ ! 」といったほうがよくはある ところが、きみはこの えできないのである。なぜなら、彼らの人間愛は理論的であまいか。まったく、そのほうがいい 論り、書物的なのだから。ところで、民衆に対してもう少し丁場になっても策略を用いて、否が応でも教えたいのだ、それ 守 0

3. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

まれているかもしれないのだ。ヨーロッパはフランスがなく出てくるが早いか、ほとんど個人的に彼にくってかかるもの だ。予算の要求が厖大すぎることを、しかも、それが非生産 この問題は、多くの人にとって、 とも存在し、フるか ? ーーー 今でも不可能なことと見なされているが、実際的な今の時代的であり、進歩に逆行するものであり、国民に無益なもので に値しない空虚な思想家ばかりが、そう思「ているわけではあることを、猛烈に攻撃しはじめる。陸軍大臣自身が、血に しかし、筆者はいうまでもなく、現在の事件飢えた男として、ほとんど弾劾されないばかりの有様であ けっしてない の報告者として、この問題を強いて解決せず、提出するだける。それに、実際、ヨーロッパのどこの政府でも、毎年、軍 にとどめるが、ちょっとついでに、次のこと、つまり、二、事予算のために新しい国債を国家に負わしているのだから、 かなり不愉央なむずかし 三の徴候と現象の示すところによると、この天分に富んだ国時として、予算案の討議のさいに い瞬間も生じるわけだ。これがほとんど一般の常例となって 民は、全力をあげて生活しようとしているので、ヨーロッパ いる。ところが、とっぜんフランスでは、今度はじめてぜん には、遠からず、心配の種が増えそうだ、ということを述べ ぜん逆な出来事が起こったのである。 ておこう : : : 陸軍大臣デュバライユ将軍が予算案を持って現われるが 一週間ほど前、この意味で、まったく並みはずれた事件が フランスに起こって、ヨーロツ。ハの一部の要人たちを抱腹絶早いか、彼の予算の貧弱、些細であることにたいし、国会の 隅々から烈しい攻撃が集中されたのだ。軍隊再組織の緩慢さ 倒させた。それは、事実、いくらか滑稽だったのだが、 ひんしゆく し、ドイ冫の多くの堅実な人からは、きっと顰躄されたに違や、幹部の不足や、設備改善の貧弱さなどについて、予算の いない。現在、フランスでは、国民議会において、来年度国要求額の少ないことについて、彼は非難を浴びせられた。 家予算の検討と認定が行なわれている。いままでと違って政二、三の乱暴な予算修正案が提出され、政府は非難され、罵 府と右翼が、今度のフランス国民議会で、文部省の追加予算倒され、侮辱された。 案に同情的な態度を示していることは、注目されなければな長い討論のあげく、狼狽した陸軍大臣はどうやらその場を しかし、フランスばかりでなく、ヨーロッパのどこ繕うことができた。彼はこの予算の貧弱さを適当に認めて、 らない。 部の議会でも、反対党の攻撃は陸軍省の予算に烈しく集中されその代わり来年度予算はきわめて厖大なものになろうと、国 第るのが常である。いつでも議院には、進歩や、人道や、自由会をなだめるような発言をしたのである。この報告が皆を落 録主義の代表者が現われ、陸軍大臣が予算の要求 ( 事実、それちつかせたようだ。オディフレ・パキエ公が、軍隊の設備改 は嫌悪を覚えるほど僅少な、ヨーロッパのすべての国の文部善にだけでも、来年度中に十三億八千万フラン ( 一、 〇、〇〇〇、〇〇〇フラン ) が要求されよう、とそれにつけ 論省予算とは逆に、いつも恐ろしく厖大なものだが ) を手に、

4. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

る方法はないかと、検討したほうがよいのではあるまいか。 わけがない、そんなことは間違っている、という考えが生ま 筆者は諸君とともに、読み書きのできる庶民が牢獄を充たしれてくる。 ていることを認める。しかし、どうして、何がゆえにそうな 「やつらは馬鹿な連中で、おれたちは教育のある人間だ」と ったかを、見きわめなければならぬ。筆者はこの事実を、牢 いうわけである。そこで、折もあらば、平凡なお仲間から飛 獄生活にたいする長年の観察によって、自分で理解したようびだしたいと、うずうずしてくる。彼らに対する人々の態度 に 4 工心 . しト ( 、フ。 には、常に一種の尊敬のニュアンスが加味される。それは、 第一に、わが国の民衆の中には読み書きのできる人間があ時にはごく目立たぬこともあるけれど、時には非常にはっき まりにも少数なので、その教育がまったくのところ、時とし りした場合もある。ことに、当人がおのれを持するすべを心 ては、他人に対する一種の優越を授け、より多くの長所、よ 得た場合にはなおさらである。換言すれば、重味のある態度 り多くの貫禄、その仲間において頭角をあらわさせるようなをとって、雄弁で、いくらか衒学的で、みんながしゃべって 特異性を賦与することになる。民衆は読み書きのできるもの いる時には、馬鹿にしたように沈黙を守り、みんなが何をい を目して、なんらかの点で自分より優れたものと見なしなどっていいかわからないでロをつぐんだとき、その時はじめて 否、民衆は読み書きのできる人間の中に、自分おもむろに口を開く。要するに、わが国の聡明なる人士、わ より強い人間、日常生活の煩わしい状況からより多く超越しが国のある種の思想家、先覚者、実際家、ある種の文学上の た人間を見るのである。一口にいうと、読み書きの中に、実将軍たち、一口にいえば、諸君のよくごそんじの連中と同じ 生活上の利益を認めるわけである。目の明いている人間は、 ような態度をとった場合は、なおのことである。ここでも同 こらしよう 何かの書類でごまかされることもなければ、また何か別のこ じような無邪気さ、同じように滑稽なほど尿え性のないとっ とで小股をすくわれるようなこともない。また読み書きのでびな振舞い。手つ取り早くいうと、社会のあらゆる層に同じ きる人間の側からいっても、彼らは知らず識らずのうちに、 現象が見られるので、ただおのおのの層にそれぞれの流儀が 自分は周囲の暗愚な、字の読めぬ連中より一段うえに立ってあるだけである。すべての個性にとって、自己を発揮しよう、 部いる、というように思いがちである。それには程度の差があ他をぬきんでよう、十把ひとからげの境地から飛びだそうと 第るのはもちろんである。自分を一段うえの人間と思っている いう要求は、自然の法則なのである。それは個性の権利であ り、その本質であり、その存在の法則であって、まだ組織の 録以上、自分も他の人々といっしょに住んでいるこの環境に対 して、真に平静な態度をとることができない。自然の道理と整わぬ粗野な社会にあっては、この個性の法則はきわめて粗 論して、自分はもうこんな暗愚な連中とひとしなみに扱われる暴な、むしろ、野蛮なほどの現われを見せるが、すでに発達

5. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

る。虚偽 ! 虚偽は、 いっさいの自立性と創造力を奪している人道主義と、教養の中に存する ! : : : 幼児のごと 偶 われた、純然たる外部的な文明に存する。虚偽は、 き未熟さと耄碌した老人のあらゆる疾病との恐ろしい、前 しかし、それにもかかわらず、ーーー治 然に輸入された他国の理想を実現せんとする芸術に存す代未聞の結合、 わが国の歴史生活に無縁の歴史的条件に る。虚偽は、 療は疑いもなく可能なのである ! われわれはすべてそれ よって生みだされた問題を、傲然たる態度で取り扱ってい を感じるのみならず、これを心から疑わないものである。 る文学、ーー他人の病気を悩んで、民衆の悲しみに無関心 われらの救いの曙はすでに白みはじめている」 な文学に存する。虚偽は、 わが国民物の否定、ー・ー・そ この曙がスラヴ主義者のために白みはじめているとは、ど れも貭怒燃える熱烈な愛から出たのでなく、名誉と義務 に関するいっさいの神聖なもの対いて、本能的に敵意をうも考えられない。スラヴ主義者は自分の同胞を見分けない いだく内面的な不信による否定に存する。虚偽は、ーー精で、目前の現実を何一つ理解しないという、世にも稀れなる 神の堕落と、おのれ自身の力に対する不信と結び合わされ才能を有している。悪いことばかり見るのは、何も見ないよ 、ことが彼らの た自己讃美に存する。虚偽は、 この上もなく洗練されりも劣るのである。よしんば時として何かいし た専制主義的心理と両立する自由礼讃に存する。虚偽は、注目を惹くとしても、そのいいことがたといほんの少しで 粗野な不信を隠蔽する宗教心、信仰にたいする帰依にも、かって彼らがモスグワで作った理想の鋳型に似ていなか ったら、一も二もなく排斥されてしまうばかりか、さらにい 存する。虚偽は、 恥ずべき無知から生じて、恐るると ころなく社会の良心を侮辱し、明々白々な堅固不壊なる国っそう猛烈に攻撃される。それはほかでもない、自分たちが 民生活の根本的基礎の前にも屈しようとしない、奇怪きわモスグワできつばりと命令したような、そのとおりのよいも まる教義の勝利に存する。虚偽は、 プログレス・文化のにならなかったのが、生意気だというわけである。とはい 等の異国的レッテルの貼られた新ものを、軽薄に追いまわうものの、彼ら自身の理想もまだ本当にはっきり示されてい すことに存する。虚偽は、 まったく両立し難い原理をない。彼らも時によると、ロシャ国民性の根本的要素につい 無差別に取り入れて、その結論に目をふさぎ、すべての根て ( ただし、全部についてではない ) 、しつかりした、繊細 本的問題を意識的に回避し、現代流行のあらゆる偶像に平な、肯綮を穿った直感を持っている。ミール、つまり口シャ 伏し、極度に相いれぬ矛盾を解決せずして、すべてを安価の農村共同体については、コンスタンチン・アクサーコフが にごまかす手腕をもって、高度の潔白と寛容の功業のごと最後の論文の一つ ( 残念ながら完成されなかった ) で述べた く見せかけるわが社会が、一定不変の非合理的態度で誇示より以上には、西欧派のだれ一人として発言しなかったし、

6. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

ルコ・ヴォフチョーグの文学的才能を否定したのは、その作 「が、問題は芸術派に属する批評家の宣告ではない。そん 品が暴露的であるという、単にその理由ばかりではあるま な批評家などはどうでも、 しい。なにしろ、そんなものを真 この場合、彼はなおそのほかの材料を基としたというこ とも、筆者はあり得るだろうと認める。しかし、 * * ポフ氏面目に受取るものは、だれもいないのだから、したがっ て、この批評家の芸術的お慰みは、結局、無害なものとい は、芸術のための芸術の支持者は、功利的傾向を憎むのあま り、暴露文学をいっさい例外なしに否定するのみならず、暴うことになる。われわれはもっと違った解釈、もっと違っ た意見を頭においているのであって、マルコ・ヴォフチョ 露文学のほうに才能の所有者が現われ得る、ということさえ ーグの書物を好機として、それについて語ろうと思うので 否定している、という、筆者の言葉を、まっすぐに裏書きし ある。この意見は、みずから教養階級と称しているわが社 ているのだ。くり返していうが、それは信じてよろしい。そ 会の一定の部分に、かなり普及しているのだが、しかもこ の代わり、 * * ポフ氏自身のほうでも、あまりにもはなはだ の連中は事がらに対する無理解と、軽率を暴露している。 しい極端に陥っている。いわく、もし芸術派の批評家が、マ ルコ・ヴォフチョークの短編のなかで、たとい何かでも理解われわれのいっている意見は、農民と、農奴制度に対する することができたら、自分で自分に背くことになる。なぜな農民の態度の、性格定義に関するものである。農奴制度は 終焉に近づきつつある。しかし、数世紀にわたって存在し ら、たちまち芸術のための芸術なる理論の背教者になるから た事実は、いたずらに消え去るものでなく、なんらの痕跡 である、と。 も残さずにはすまない。なんらかの門閥的位置は、法律に 憤怒に目がくらんで公平を失ったために、芸術のための芸 よって廃止されてから二世紀もたっているのに、依然とし 術なる理論の支持者のあるものを、非難することはまだしも てその権利を保有している。農奴制の結果であるもろもろ 差支えない。しかし、芸術のための芸術なる理論そのもの の関係が、忽然として改変されるなどということが、 が、その支持者を頭の足りない人間にし、聡明な人間を愚鈍 して期待できるだろうか ? 否、それはまだ長い間、書物 で浅薄な人間に化するというような、そういう性質を持って の中にも、客間の会話の中にも、われわれの生活関係の全 いるなどと断定するのは、それこそもう公正を欠いている。 何かの場合、理論や、党派や、教義が、どこか変なほうへそ機構の中にも、その影響を示すことであろう。単に生を終 わらんとしている世代のみならず、現在活動しつつある世 れるのは、あり得ることではないか ! そうした逸脱を、 一々原則として受け取るわけにはいかよ、 代のみならず、今ようやく社会活動に入らんとしている世 代の概念は、よし端的に農奴制を基礎としてつくり上げら しかし、筆者は抜き書きをつづけていこう。

7. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

とを、自分でも承知しておられたのに相違ないから、ますま野蛮と、愚昧と、無学を見いだしているところには、野蛮も す筆者には不思議におもわれるのである。ところが、それに愚昧もないばかりでなく、かえって多くの知性が見られる、 もかかわらず、諸君は夢中になって、自分の論断をとことんと力説しているのである。義憤を感じずにいられないような z ・氏の若干の判断に対して、編集者はきわめて寛大なデ まで持っていったのである。しかもその裁断はどうだろう、 リケートな態度で抗弁し、ある個所では、 z ・氏もまった なんという判決ぶりだろう ! 諸君自身その裁断をはじめる の非開化論者ではないと、あわてて声明しているくらいで に当たって、ただ一方の側のみについて語り、ただ被告の言 ある。「われわれは執筆者の思想・行為の形態をあまりにも のみを聴くつもりだということを、白状しているではない 熟知しているので」と編集者は断わっている。「彼に対して か。ただ一方の側のみの申し立てを聴く裁判所が、いったい かような判断を下すことは不可能である」いや、まあ、かり どこにあるだろう ? しかるに、諸君は一方の側のみを聴い : といっても、 Z ・氏が非開化論者でないということ て、判決を下した。すなわち、有罪としたのである。いった いこれが立派なやり方だろうか ? しかし、これは諸君の良とは違う。それは編集者の弁護であるにもかかわらず、筆者 心の判断にまかせる。問題は、もちろん、ロシャ文学に関すはそれに賛成できない。まあ、かりに、だれにでも自分の妄 力さ想というものがあって、編集者がもの好きにもこんな論文を ることであった。これはまだそれほど重大ではない。ま、 て、問題が何かもっと重大なことであったとすれば、どうだ自分の雑誌に掲載して、同じ号でその論文に対する批判を自 そ、つい、フこともあ ろう ? 誓っていうが、これはよくないやり方である。諸君分で書かなければならぬはめになる、 はわれわれの将来によからぬ「日々」を約東しておられるり得るとしよう。ところで、次に掲げるようなものは、なん 新聞名のジェ ー = が「日々」を意 ) 。筆者は同情をも 0 て諸君の新聞と諸君の目に映じるだろう ? z ・氏のある意見に対し 味するところからきた洒落である を迎えようと思っていたが、諸君のやり方ではどんな同情もて、編集者はもう自分で旧農奴制度に関する次のような説を 消されてしまう。たとえば、もう一つこんなことがある。『ジ述べているのである。 工 ーニ』の第四号に z ・という一人の通信員が登場した。 「総括的いいって、地主と農民との関係はかなり人間的で 部彼は農民のことを書いているのだが、この z ・氏の論調以 あった、とさえわれわれは考えるものである。一見して確 第上に頭のわるい、独善的なものは想像することもできないほ 固不動の観ある農奴制のふところに安住しつつ、この制度 録どである。『ジェ ーニ』の編集者はその文章の終始を通じて、 が完全に人間と神の法則にかなうものであると、無邪気に さながら欠くべからざる義務のように、この通信員の世話を 論焼いて、一歩ごとにその説に反駁し、 z ・氏が単に農民の信じ切っていた地主は、農民を誹謗することによって、こ 1 一一 1 ロ

8. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

・ : しかし、筆者は一時 くとも賢人ぶりだけはできるだろう : っさいの目的が せることができるはずだ : : : そうすれば、し 一挙にして達せられる。有益ということがなぜいけないのこうした考察を中断することにしよう。わが国のある種の進 だ ! それとも、もしかしたら、きみは有益ということに反歩主義者や賢人たち、ーーー概して、いわゆるわが国民生活の 対なのかね」と諸君はいうだろう。「偏見の打破、無知の闇「通暁者」、将来の国民生活の指導者をもって自任している人 に関する、当のシチェルビナ氏の考察を引用しないわけにい 黒の根絶に反対なのかね ? 」 これはまさに黄金の一一 = ロ葉である , だれが無力オし 「いやはや」と筆者は答える。「とんでもない ! 知や偏見を喜ぶものか。しかも、ただの無知ではなくて、 「ある種の書物は一見したところ、きわめて聡明に編纂さ 『無知の闇黒』なのだからね。ただこれだけのことはいって れているにもかかわらず、民衆の間に普及しなかった。と おかねばならぬ。無知と偏見を特別に強調して、一刻もそれ いうのは、それらの書物がなぜか知らず識らず、ロシャの を民衆の中から根絶しようと、無性にやきもきするのは、筆 百姓に変装したドイツ人かフランス人、とでもいった感じ 者にいわせると ( もちろん、ある意味においてであるが ) 、 になったからである。わが国の人々がもつばら民衆向きの これも一種の無知と偏見ではあるまいか。どうしたらもっと はっきり表現できるかわからないが、まあ、たとえば、筆者ものとして、民衆の歴史や生活のなかから材を取って、民 はこういうことを知っている。民衆はわれわれ旦那衆に対し衆の言葉で書いた本よりも、『失楽園』や『ヴニスの商 人』などの翻訳もののほうが、むしろ庶民の感情に訴える て先入見をいだいている。われわれの口からいいことを聞い のである。この点には注意を向ける価値がある。われわれ ても、不信の態度を示すまでに、その先入見は根深いもので ある。さて、ところで、われわれはそれにもかかわらず、や は本能的に、虚心坦表に、しかも同時に実際的に、しつか りと民衆の地盤の上に立っことができなかった。自分を民 はり権力を有するもの、依然たる旦那衆としてでなければ、 一口にいうと、それ以外の態度を衆の立場において、民衆の発達の程度に移入し、民衆の観 彼らに近づこうとしない。 取ることさえできない。つまり、真相をよく見きわめた上念、趣味、傾向を、心情と理性によって見抜くということ ができなかった。この点においては、才能も、知識も、ヨ 部で、もっと砕けた、もっと柔かい態度で、民衆に近づくこと ーロッパふうな教養も、われわれの助けにならなかった。 第ができないのである。「民衆は愚昧だ、だから教育しなくて というのは、われわれがロシャを知ることは何よりも少な 録はならない」とわれわれはただそれだけを一つ覚えのように く、国民性の根源がほとんどわれわれの教育に入っていな くり返してきた。そういうわけで、われわれはたとい旦那衆 いからである。したがって、われわれには実際性が不足 論として彼らの前に立ち現われることができないまでも、少な 105

9. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

もって、諸君にとってはほとんど縁のない ( これは諸君自身批判も、そこに反映した苦痛も嘲笑も信じないのである。そ の声明したところである ) 利害関係の渦巻に飛び込もうとしうだ、諸君はわれわれと共に生活しなかったのだ、諸君はわ ている。われわれは仲間がふえるのは喜ばしいけれども、諸れわれの喜びにも悲しみにも参加しなかったのだ。諸君は海 君は仲間にならないだろう。諸君は相も変わらず、やりきれのかなたからやってきたのだ。 なるほど、ヨーロッパ的理想、ヨーロッパ的見解、そして ないほどの高みから見下しながら、われわれに教訓を垂れる ことだろう : : : まさに教訓を垂れるのだ。のべっ幕なし教訓一般にヨーロッパ的影響は、わが国の文学意識に強く反映 を垂れて、われわれの過失を冷笑するのだ。われわれの苦痛したし、今でも反映しつつある。しかし、はたしてわれわれ や煩悶を認めないで、気ちがいじみた理想主義の残忍性を発は奴隷的な態度でそれを受け入れたのだろうか ? はたして 揮して、そういうものを非難するに相違ない。そして : : : そわれわれはそれを実生活のプロセスによって体験しなかった して : ・ : ・諸君はすでにそれをはじめた。見たまえ、やはり同だろうか ? はたしてこれらの異国的な現われに、自分自身 じ・アグサーコフは、『ジェ ーニ』の第一号に載った論文の、ロシャ的見解をつくりださなかっただろうか ? また全 の中で、ロシャ文学ぜんたいにたいして、どんな態度を取っ人類性はわが国民の最も重要な、最も神聖な特質であること ているか。彼は敵意に充ちた懐疑的な見方をし、ロシャ文学を、はたしてわれわれは確信しなかっただろうか、おのれの における独自なものをすべて否定しているが、それは心臓病生活によって感受しなかっただろうか ? 最後に、はたして こらしよう の重患者のような怺え性のない軽率なやり方で、上から見下われわれはおのれの国民性を自覚しなかっただろうか ? 土 ポーチヴァ - ような傲慢さを徴笑で隠した態度なのである。よしんば彼地の必要、土地との融合の必要を、はたして自覚しなかった の判断が完全に正当であるとしても、あの論文の軽率さ、懐だろうか ? ・アグサーコフは、国民性に向かおうとする 疑主義、自分と並んで生きているものをことごとく蔑視しすべての試みは、わが国の文学においてことごとく失敗に帰 て、おのれを高しとする尊大なうぬばれ、上っ面ばかりすべした、といっている。「オストローフスキイの描いた商人の 肖像は、実物に似ている」と彼はいっている。「言葉づかい って、何をも注意しようとせず、何一つ尊重しようとしない 侮蔑的な見方、 もうそれだけでもこの上なく冷酷、かつも似ている。しなければならんという代わりに、せにゃなら 軽薄なやり方といわなければならない。彼にとってはロシャんといっている」はたして・アクサーコフはオストローフ 文学ぜんたいが一つ残らず模倣であり、異国的理想にたいすスキイにおいて、ただこのしなければならぬの代わりに使わ る憧憬である。彼はわが国の文学における社会意識の現われれたせにゃならんだけを認めたのだろうか ? あの論文の意 をことごとく否定し、その中にあらわれた分析解剖も、自己味からいっても、調子からいっても、そういうことになって チヴァ

10. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

ろ問題にならない。 しかし、次のようなことは、ロシャの女全な権利を持っていた、と判定した。このアネクドートに 性も要求しているかもしれず、それどころか要求する権利さ は、これ以上なんらの説明もつけ加えまい。しかし諸君は、 え持っている。すなわち、ある女性が誤った行動をしたからそれは単に個的な場合にすぎない、といわれるだろう。が、 といって、なんらの根拠も真実性もないくせに、その女性に裁判官、陪審員、聴衆の判定を、個的な場合と見なすわけに は汚らわしい秘密があるに相違ないと新聞に公表して、彼女ま、 冫しかない。それどころか、ヨーロッパでも最も教養ある国 を侮辱するような非礼をあえてしないことである。 民の大多数を支配している風習の、完全なる表現でさえあ 「騎士道の栄えた数世紀は、教養ある社会において、婦人にるのだ。そこでは、「騎士道の栄えた数世紀が、婦人に対す 対する男子の態度を、理想的といってもよいほど、デリケる男子の態度を、理想的といってよいほど、デリケートなも 1 トなものに完成した」と『ロシャ報知』は続けている。とのに完成した、うんぬん、うんぬん」なのである。騎士道の ころで、われわれのほうでも、一つの短いアネグドート をお栄えた数世紀 いやはや、諸君はいったいだれの目をくら 話ししたいと思う。『ヴレーミャ』のこの号に、周知のラフまそうとしているのか ? しかし、あるいは「ロシャ報知』 アルジ = 夫人に関する訴訟事件を、詳細に掲載している。彼も、教養高き国民の大多数の意見に同意して、ムシュ・ラフ かど 女が夫を毒殺したという廉で起訴されたのは、われわれの考アルジュは夫として、入れろと要求する権利を持っていた、 えによると、まったくの誤りなのである。もっとも、それはと考えているのかもしれない。少なくとも、婦人問題に関し 本誌だけの意見ではない。法廷は亡き夫に対するラファル ては、 ジュ夫人の態度を調査し、審理していくうちに、次のような 「このうえ婦人にどんな権利が必要なのだ ? 」と、鞭でひっ 事実を発見した。ムシュ・ラファルジュは、マダム・ラファ ばたくような表現をしているのだ。 ルジと結婚して、彼女を自分の領地へつれて行った。それ この「この上どんな権利が : : 」という一句は、今は世に は結婚後、わずか数日後のことである。その途中ある駅で、 なきフアジェイ・プルガーリンの記念のための、辛辣この上 ラファルジュ夫人は入浴した。夫人がパスに浸っている時、ない土曜雑録にふさわしいではないかー 優美でもあり、傑 夫はドアをノッグして、ぜひともあけて入れろといった。妻作でもある ! は閉ざされたドア越しこ、、 冫しま入浴中であるから、あけるわ「いったい婦人は何を望むことができるか ? 」と「ロシャ報 冫にいかないと答えた。しかし夫はいつまでも、入れろと要知』は相変わらずの巧妙さで論歩をすすめている。「男子が 求したのである。裁判官も、陪審員も、聴衆も、ムシ = ・ラ解放されていると認めている、それらすべての点において、 ファルジ = は夫であるから、夫として、入れろと要求する完はたして女子も解放されることを欲しているのか ? 男子が