書物 - みる会図書館


検索対象: ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)
113件見つかりました。

1. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

が、いま筆者の引用したところは全部、 「読書文庫』と いう標題からして、一種の奸計なのである。なぜ「読書文 庫』とつけたのか ? きみにいわせれば、ピヨートレ ノ大帝以 前の古い文学には、『トラヴニグ』「ムイスレンニグ』『グロ 「この書物の中では、たとい少しでも民衆の語調を贋造しムニグ』『ヴォルホーヴニグ』『コリャードニク』等の名称 があるからである。しかし、それはビヨートレ たり、道化た言葉遣いをしたり、民衆の前で芝居をした ノ大帝以前の文 り、すべてそういったようなことは、単に一定の使命を有学ではないか。その当時は、こうした名称は素朴な気持ちで するこの書物を損うのみならず、一般に教育というものに つけられたので、その当時は、こうした書物のどれもこれも 対して、民衆の信用を落とすことになる。わが民衆は聡明 ( 上流階級向きのものも引っくるめて ) 、これ以外の名は であるから、率直な気持ちでなく、胸に一物あって近よっ つけられなかったのである。が、今は書物の標題のつけ方が てくるものは、すぐさまそれと悟ってしまう。それは彼ら別になった。すべての書物の標題が別になったのである。に の目から見ると、ある意味において、百姓に変装して民謡もかかわらず、民衆向きの書物だけが、こうして昔ふうに を蒐集する旦那方や、むくつけき百姓どもに訓戒を垂れる『読書文庫』なのである。こうした特別扱いは、民衆をはっ 貴族めいてくるのである。しかも、こうした訓戒はどれも とさせるに違いない。「してみると、おれたちのために特別 これも、大抵の場合、みんなが右の耳から左の耳へ通り抜な本がつくられたので、ほかの本は、こちとらのものじゃな けさせてしまうのである」 いのだ : : 」というわけである。こういう断が下された ら、『読書文庫』に対する尊敬は、減るとも増しはしな、。 まま、このへんでちょっとうち切ることにしよう。一つ考それに、民衆の中でも読書を好む人たちは、むしろ禁制の米 えてもらいたい。 きみは自分でいっさいの奸計に反対して、実である貴族向きの書物を望んで、ありふれた下司向きのむ それを立派に説いている。なかんずく、百姓に変装した旦那 くつけき書物などとは比較にならぬはど、このほうを尊敬す 方や、右の耳から左の耳へ通り抜ける訓戒のことを説いたとるようになるだろう。「いや、民衆はそんなことに気がっき キ 6 ー ) よ、 ころなど、とくに見事である。きみの理論は時としてなかな オし」と、きみはいうだろうが、それは心もとない。で かうまくいくけれども、実地になると、きみはすぐ自家撞着は、もし気がついたら、どうするのか ? いや、まあ、かり に陥ってしまう。あれを読むと、まるできみ自身が奸計などに気がっかないにしても、これだけは認めてもらいたい。本 しだかずに、民衆に近よっているように思われる。ところの標題の点からいっても、できるだけの本を民衆的なものに と がかった言葉づかいをするような努力をしてはいけよ、、 いう自分の意見に関連して、きみは次のように書き添えてい る。

2. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

えの持ち物だけん、だれも文句いやしねえ ! 』なんてよ。も的手段に訴えなければ、一歩もさきへ進まないのだ ! 書物 しこの本がおれに入り用なもんだったら、どうしておれがな が民衆に好かれるためにでさえ、行政的手段に訴えるが、あ くしたり、売ったりするもんけえ。、 しや、こいつあ、ただごる書物が民衆の気に入るのはどういうわけか、きみははたし とじゃねえ : : : なにぶんおかみのやるこんだでなー て承知しておられるか ? なにぶんにも、『回教の女』が民 おかみがなあ。 とほかの連中も、前よりいっそう衆の気に入って、彼らの間に普及しているについては、そこ 当惑して声を合わせる。 に仙かがなくてはならないはずである。現にきみはその原因 てえへんだぞ ! を、あの本が民衆の気に入り、かっその趣味に合う調子の高 駐在所さ行ってくるだ、皆の衆 ! ミーチャ、馬に鞍 感傷的な文章で書かれていることに帰している。そこに つけれや ! と主人は決然と床几から跳りあがって、こう叫は徴々たるものではありながら、一粒の真理が存しているの ぶ。 だ。まことに、調子の高い感傷的な文章は、民衆の気に入る すると、それにはまたロの悪い連中も居合わせる。 かもしれない。なぜなら、その中には、世にあり得ない無意 いや、はや、ガヴリュ ー ( ( はなんちゅう代物をも味な現実が含まれてはいるけれども、それは一般庶民の退屈 らったもんだ ! な、苦しい、家常茶飯事的な現実とは、まったく正反対なも そりや、つまるところ、賞牌をもらったも同じこんだのだからである。しかし、それは全部ではない、けっしてそ 。いっさいの原因が存するのではない。何よりも重大な、 助けてくれ、皆の衆 ! 第一の原因は、筆者にいわせると、あの本が旦那方のもので 「民間における書物の普及は、偶然によることがしばしばでない、少なくとも旦那方のものでなくなった、ということで ある」とシチェルビナ氏はつけ加えている。「時としては、 ある。著者は頭が単純なために、最も上流の社会のために書 民衆の趣味と要求に適合する書物が、ぜんぜん彼らにぶつか いたということも、大いにあり得る話である。しかし、わが らぬこともある。書物の普及を助けるこうした偶然は、ほか文壇は冷笑をもって迎えた。あれを発行したのは小さな投機 部ならぬ吾人の指摘した方策から生じ得るのであって、その実的な出版屋で、最も安い定価で方々の市場へ廻したものであ 現性は想像以上に多いのである」 る。「旦那方」から排斥されたあの本は、たちまち民衆の」 . 録否、シチェルビナ氏よ ( と筆者はこれに答える ) 。きみので信用を獲得した。もしかしたら、あの本が旦那方むきでな 提言しているような方策からは、何ひとっ生じはしない。ま いということが、民衆の目から見て非常によく思われたのか おと 論あ、書物の信用を堕すくらいなものである。きみがたは行政もしれない。 もちろん、あの本が初め普及したのは百姓の間 ~ メグル

3. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

どおりの生活をさせてやりたまえ。プーシキンは今のとこ 第 3 章書物と文盲教育 ろ、彼にとって全部なのだから。なにしろ、筆者だってプー シキンを通じて、現代的な問題に到達したのだからね。われ われにとっても、プーシキンは現在われわれの持っているい 第一論文 っさいの根源なのだ。ところが、ニキーチン氏にとっては、 さんざん読んだ挙句、あとでしまったー プーシキンは肉親以上なのだ。プーシキンは旗じるしであ 「知思の悲しみ』のファームソフの言葉 り、教養と発達を渇望しているすべての人の結合点なのだ。 なせなら、プーシキンはわが国の詩人のだれよりも芸術的で去年から今年にかけて、わが国の文壇でも社会でも、大衆 あり、したがってだれより最も単純であり、最も魅惑的であ向きの書物の必要が、しきりに論議された。そうした書物を 出版しようという試みもなされたし、いろいろな案も提出さ り、最も理解しやすいからだ。つまりだれにでもわかるとい う意味で、プーシキンは国民詩人なのだ。ニキーチン氏がプれたし、懸賞金さえだされないばかりの勢いだった。『祖国 ーシキンを通過して行「て、しかも彼に本当の才能があ 0 た雑誌』の二月号には『読書文庫』すなわち、大衆向きの書物 ら、 , ポフ氏よ、信じてくれたまえ、ーー彼も筆者との計画が発表され、わが国の文学者に対して、ほとんど非難 同様に現代問題に到達して、主義主張のあるものを書くようの言葉が発せられたはどである。いわく、われわれは「読書 になるだろう。いま彼から要求するのは、なにしろそれは文庫』の案を発表したのに、そもそもだれがこの案に応じる そのだろう ? 文学者のなかのだれが、それについて意見を述 : なんといったらいいだろう、 : なにしろそれは : べるだろう ? というわけである。筆者はこれから、はかな れは書斎裡の飛躍だ : ・ しかし、もうたくさんだ ! 筆者はニキーチン氏をも、そらぬこの問題を分析してみようと思う。しかし、それに取り 、興味ある社会現象について、換言すれば、そう の社会的位置をも知る光栄を有さない。筆者が知っているのかかる前に いったような案の出現と、上流社会が下層階級を教育しよう は、彼が町人だということだけである。それは、彼が自分の 部作品集を出版した時、自分で公言したことである。もしニキとする一般共通の努力についても、数言を費すことにする。 第ーチン氏が、いま筆者のいったのとはぜんぜん違「た位置に筆者は、「一般共通の」という。なぜなら、本当の上流社 会、つまり進歩的な社会は、ロシャの社会における上層階級 録いるとしたら、寛恕を乞う次第である。もしそうだったら、 筆者はニキーチン氏の代わりに、 z 氏という抽象的な架空のの大部分を、常に引き従えて行ったからである。そういうわ けで、もし現在でも大衆教育に賛成しない人々があるとして田 論人物を置き変えることにする。

4. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

以外にはなんの必要もない、 って制限される。 とい , っことを隠してさえいるの チアーリニック だ。きみはあまり狡猾すぎて、もうあまりにも民衆を馬鹿あ 『読書文庫』 (% ーチは「読む」 ) なる名称そのものに関して 、いにしている。が、それは民衆にとっては侮辱である。 は、吾人の考えている限りでは、ロシャ語と庶民の精神に モリートグア とはいえ、筆者の言葉はきっときみには不可解なものに思わ もとづいているのである。たとえば、祈禧なる言葉から モリートヴェンニグボミナーチ ポミナーリニツアベースニヤ れ、喧嘩を売るもののようにさえ感じられるに違いない。何「祈蒋書』、供養するからは『供養書』、歌謡からは『歌 ビシモー センニク ピンモヴ . ニック も a pr 一 or 一 ( 先天的に ) 論断することができないのは、筆者も 謡集』、手紙からは「手紙の書き方』がつくられた、等々で ある。 自分で承知している。それよりいっそ、いきなりきみの案に 取りかかることにしよう。そのためには、きみの論文からう * ピヨートル大帝以前のロシャ文学には、「トラヴニグ ( 植物誌 )J 「ムイ んと長い引用をしなければならぬ。 スレンニグ ( 黙蒋書 )g 「グロムニク ( 占書 ) 』「ヴォルホーヴニク ( 魔法 書 ) 』「コリャードニグ ( グリスマス歌謡集 ) 』等の書名が見受けられた。 〔引用文の著者の注〕 「さきに述べた「選文読本』は、大衆のための書物につい て考えているすべての人に、その出版に発する自分自身の のみならず、吾人の見るところによれば、この標題はそ 案をも述べたいといった気持ちを、なんとなく呼び起こす の形式からいっても、内面的な意味からいっても、たやす フレストマーチャ のである。いうまでもなく、こうした書物はただ一定の時 く民衆の記憶と意識に印せられると思う : : : 「選文読本』 代に対してのみ使命をはたすものであるから、したが レ J 、刀ナ , : し、を よ、しまぶつつけに、『大衆向きおよび日曜学校の て、その計画も相対的に立てるよりほかしかたがない : ための書物』などとは、当然、名づけるべきでない。それ しかし、まず第一に、この書物を、 は非実際的で、民衆に関する知識の不足を暴露する。ほ ら、これこそお前たちの読むべき本だそ、などと民衆に向 『読書文庫』 かっていうべきではない。 と名づけよう。 まず最初に、この書物の内容と、その中の文章の配列に この書物は、かって有名であったグルガーノフの『手紙 ついて一言しなければならない。 の書き方』と同様、民間に普及し浸透すべきものと考え 「読書文庫』の編纂に際して、出版者は左のことを念頭に られるので、「読書文庫』の編纂者も、内容や、文章の配おいた。 列に関して、同書を念頭に置いた次第である。また、書物 C 心理的考察に基づいて、同書中の各文章や部門を次 の外見、ページ数、定価なども、大衆向きという使命によ のごとく配列した。すなわち、一つの部門が読者の観念を っ

5. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

葉を発するであろう。筆者は単に純ヨーロッパ的な文明形成わが国にはもう一人、ボゴススキイ氏という「民衆」作家 をしりそけるのであって、それはわれわれの寸法に合わぬ、 がいる。もっとも、この人は主として兵隊のために書いてい というだけである。 る。しかし、この人については別に述べるつもりである。ポ しかし、大衆のための読物と、とくに『読書文庫』に移るゴススキイ氏はわが国の「民衆文学」の中で、かなり特殊な 」 AJ AJ—) レ、つ。 現象である。その他の「民衆のための」読物については、そ れらが数十をもって数えられはするけれども、あまり好評を 与えることはできない、といえば足りるであろう。しかし、 第 4 章書物と文肓教育 それらはただ一つのことを証明している。すなわち、民衆読 物に対する非常な需要である。しかし、「読書文庫』もその 第二論文 ことを証明しているから、もういきなり「読書文庫』に移る と「しレでつ。 民衆の読物のために編集されたすべての著作の標題を書き 読書文庫しは、書物ではなく、シチェルビナ氏が編纂し 抜いたら、恐ろしく長い表をつくることができるであろう。 筆者は前の論文で、これらすべての書物についてとくに数言て、『祖国雑誌』の六十一年二月号に発表された大衆向きの を費すことを約東はしたけれども、「そんな遊びは蝋燭代に本のプランである。それは『民衆のための書物に関する試 もならぬ」ので、いきなり「読書文庫』の分析に移ることに案』という論文である。 する。というのは、民衆の読物に関するプランのなかで、こ著者の見解、その案の渾一性、のみならすその調子まで、 しんめんもく れが多少なりとも唯一の真面目なものだからである。読者はこれらすべてがきわめて注目すべきものに思われた。その理 「民衆の読物」に関する筆者の考え方を、おそらくこの分析由は第一に、この種の案でこれ以上に聡明なものは、筆者の からも想察することができるであろう。したがって、読者諸記憶する限り、わが国にかってなかったからである。『祖国 君は、現在「民衆読物」として存在している空疎な書物の、雑誌』は、シチェルビナ氏の試案と、その試案に関する考察 部長たらしい目録を読む煩いをはぶかれたにすぎない。出版社は、民衆向きの書物の編纂者に裨益するところが多いだろ 第の広告のあるものには、それらのすべてを見いだすことがでう、といっている。いや、それさえも相当なものである。 シチェルビナ氏はその論文の冒頭として、去年の暮に出た 録きるし、小売店の台の上には、失敗に帰したグリゴローヴィ フレストマーチャ 「選文読本』と称する、銀貨で五コペイカの、民衆むきのあ チ氏の著作の何冊かと、ボゴージン氏の『赤い玉子』をも引 文 つくるめてぜんぶ特別に並んでいる。 る小冊子に対する憤懣を述べている。銀貨で五コペイカ以上 ノ 01

6. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

ではなくて、ます小間使とか、書記とか、下男とか、手代と ト』などは、下級の社会にも訴えるばかりでなく、あまり教 か、町人とか、そういった人々の手に入ったのである。一ど養の低くない上流社会に属する、おびただしい多数の人々を 彼らの手に入ると、しつかり根を生やして、初め兵営などにすら捕えている。もはや『回教の女』を読もうともしない人 普及し、ついには村々にさえ拡まっていった。しかし、村々人も、『ゼフイロート』にいたっては、世界破滅の話や、それ に類するその他の物語と同様に、面白がって読むのである。 のはうはなんといってもきわめて少数であった。 いっさいの自立性を失って、目前の現実をこの上もなくノー 筆者がこんな注意をするのは、ほかでもない、わが国で民 衆読物を編纂する人たちは、いきなり畑を耕す百姓を狙うかマルなもの、絶対不変なもの、永久に固定したものとして受 らである。これはたいへんな間違いであって、土を耕す百姓け取っている ( 習慣上、それ以外の受け取り方ができないた 町人、書記、手代に比べて、それどこめに ) 人間の心の中には、自然の道理として、懐疑と、思索 は、都会の庶民、 ろか、田舎の地主邸で勤めている百姓に比べてさえ、まだまと、否定にたいする多少の牽引、多少の誘惑が生まれる。 だそれほどの読書欲を持っていない。その農民のところへ書「ゼフイロート』その他の書物は、目前の現実に正反対の事 物が入ってくるのい、庶民の中の上流階級であるこれらの人実、目前の現実の絶対不変やその苦しい安定を真正面から否 人をとおしてであって、民衆のこの二階級の性格と要求を混定する事実、もしくは事実の可能性を呈示するために、ほか 同することは許されない 。ところが、われわれはしばしばそならぬこの否定的な見方によって、中間的な階級にひどく好 れを混同するので、そのために、いきなり村の共同体をとおかれる。しかも、通俗的に書かれたこの種の書物は、興奮し して書物を普及させようという、間違った考えが生まれるのたり、思索したり、たといどんなのにもせよ懐疑主義を享楽 である。田舎の民衆の気に入る書物は、都会の庶民や地主邸する立派な方法を、人々に提供するわけである。こういうわ に勤めている百姓たちから、自然と入ってくる。これがすな けで、一般庶民は、百姓でさえも、いろいろな書物の中で、 わち、民間に書物の普及される方法、今のところ、わが国のほとんど常に厳しく単調な自分たちの現実に正反対な、周囲 現実に存在している方法なのである。この方法をこそ、主との世界には似ても似つかぬ、別な世界の可能を示してくれる して念頭におかねばならない。下男、町人、書記などを含むようなものを、何より好む次第である。それどころか、昔 この庶民の上流社会は、地主をも含めてある種の官吏と、境話、つまりまったくの根なし草ですら、一般大衆に好かれる を接してさえいるのである。数育を完全に受けていない、教ものだが、それもおそらく同じ原因によるのであろう。すべ 養の程度の低い、貴族の多くは、同時に『回教の女』を高くて神秘的なものは、どんなふうに彼らに働きかけるだろう ? こうした本はすべてどれでも、民衆的な見方から一歩も出 買って、愛読しているのである。たとえば、『ゼフイロ

7. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

発達させ、かっ好奇心をそそりながら、知らずしらずのう文・占星学』『ママイとの会戦』などといったような書物 が、民間で成功したということも、出版者は考慮に取り入 ちに次の部門に対する準備をし、次の部門を通読すると、 れなければならない。 第三の部門に対する準備がなされる。というふうに心理的 精神的・道徳的発達に当てられた文章においては、ヒュ 順序を追っていく。まず、一連の寓話、たとえばなし、 ーマニズムを表わす内容か、もしくは怠惰な生活や、不人 諺など ( これは庶民の個性に最も近いものである ) に表現 情な貪欲や、頑迷固陋や、非社会性や、他人の人格や権利 された、庶民の日常生活のさまざまな場合からはじめて、 彼らをとり巻く、目前の自然 ( 大地、空気、空 ) などの事の蔑視や、その他これに類した、民衆の罪ではないけれど 物に移り、こういったさまざまな文章の総合によって、書も、さまざまな歴史的状況の結果として、もつばらわが国 の民衆に認められる欠点を批判した内容を取り入れる。こ 物の終わりのほうでは順序を追って精神的、道徳的な問題 に到着する。まあ、たとえば、クルイロフの寓意詩『不幸れらすべては大部分、わが国の民衆がまだ叙事詩的な状態 にあることを考慮に取り入れて、教訓的・独断的な叙述で に落ちた百姓』から、ホミヤコフの『讃美歌を読み終え なく、できる限り形象に表現されたものを、書物の中へ取 て』といったような詩に移るのである。 り入れるのである。 O 発行者は実際的な考察に基づいて、民衆にははたし この書物ぜんたいが、二つのおもなる目的に指向さるべ ていかなる根本的欠陥が存在するか、万国民に共通の欠陥 きことは、明々白々である。 C 民衆の観念を発達せしめ か、それともとくにわが国民のみに固有なものか、という ると同時に、一般すべての人間、とくにロシャ人にとって、 ことを調査した上で、それにしたがってこの書物のための 文章を選択する。のみならず、発行者は、民衆の生活条件空気のごとく必要な知識を与えること。②庶民の精神、 においては、はたしていかなる知識が必須であるか、民衆風俗、習慣、歴史、環境、生活などを厳密に考量しなが ら、民衆の間に道徳的・人間的感情がさらに発達するよう は何に興味をいだいているか、ということを知らなければ に、力をかすことである。なおその上に、民衆向きのこの ならぬ。第二の問題に関しては、民間詩、民謡、伝説、古 書物は、『ほしいものは、ねだれ』という意味が現われる 部代ロシャ文学に語られていることどもが、それに対して指 第 示を与えるであろう。発行者はそれらによって、この書物ように編簒しなければならぬ」 録の中で何が民衆に好ましいかを、悟るであろう。また同時 なおそれのみならず、民衆に対しては単純明瞭な言葉で語 ) 軍との戦い』『ジョ に、『ロシャ軍とカバルダ ( の¯l 地方 文 ージ卿』『・ハラキレフの逸話』『陽気な爺さん』「最新天るべきであって、民衆的な語調を真似たり、ちょっぴり百姓 〃 3

8. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

うに感じられる。民衆がいきなり飛びついて読むようにする な楽しみだったからである。自分が王様や、さまざまな土地 ためには、どこからか文章を選んできて、それを「読書文 の説明をし、一般的に有益な注意をしてやったとき、これが 自分に一方ならぬ喜びをもたらしたのである。第二に、それ庫』に載せるだけでは十分でない。できるだけインスビレー と ションをもって、おのれの使命を感じながら、それと同時 はなんといっても朗読であって、ほかの何ものでもない。 こうした民衆のための文学に必須な才能をもって、それ にもかくにも、これらの人々は書物の中に喜びを発見するこ とを学んだわけである。してみると、一般的にいって、書物を編纂しなければならぬ、と筆者には思われるのである。 たとえば、かりにいまきみが にとって有利だったことになる。第三に、筆者はその時、ぜ人は反問するであろう、 しっさい天下り式を廃して、なんらの策略 んぜんそういうことを考えなかったけれども、あとになっ金儲けのために、、 て、書物はなんといっても、たとえば、カルタ遊びなどより もなく、そういう書物を編纂するとしたら、その書物のため 冫しったん問題にどこから文章を取ってくるか ? と。それに対してこう答 ましだ、という考えが頭に浮かんだ。第四こ、、 が有益如何と、その報告ということになった以上、たとええよう。自分は今、もちろん、現代の文章をも利用するだろ ば、朗読を聞いて得た精神的な印象や、そこばくの思想、そう、 もっとも、それはほとんど全部旦那衆のために書か こばくの空想なども、 いくらかの意味を持つはずである。もれたものではあるけれども、しかしその中から、民衆の読物 ちろん、彼らが『イーゴリ軍譚』や、「滴虫類の話」や、「一としても適当なものを少なからず、むしろきわめて多量に選 。しうまでもない。ただ上手に選択する 連の俚諺」や、「アトスの山」の話や、あるいはまた「年代ぶことができるのま、、 ことが必要である。この選択をどんなふうにするかは、筆者 ノされている修道僧、十一一世紀初め没 ) 」の話を聞いた ならば、それは比較にならぬほど有益にきまっている。 ( ネスが前に述べたいっさいを参酌してもらったら、くだくだしく 説明するには及ぶまい。筆者はシチェルピナ氏の論文を批判 トルの伝記が『読書文庫』に載るのは、彼の生涯を知るのが 面白いからではなく、ネストルが年代記僧だったからであしたが、氏より以上に巧妙にその選択をなし得るなどとは、 る。この事実は民衆の目から見て非常に重大なことに思われけっしてうぬ惚れていない。ただ一つだけ断わっておきたい 部る、と確かそういう理由だったようですね ? ) どうか、筆と思う。ほかでもない、筆者がどんなにうまい金儲けを提一言 第者が策略を弄しているといって、咎めないでいただきたい。 しても、今、現在のところ、すぐれた「読書文庫』を編纂す 録これはけっして議論ではない。い ま筆者の上げた「読書文るものは、おそらくだれもあるまいと思われる。が、その代 庫』の文章は、民衆にとってきわめて有益でもあり、興味ふわり、後日、否、おそらくきわめて近い将来に、わが国では 論かいものでもあるかもしれない。しかし、筆者にはこんなふ特殊な文学部門、すなわち民衆読物の部門が開けるだろう。 1 三 ~ 41

9. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

して、ナイーヴに、それどころか無意識に作用したら、それ田 ロすぎするのである。しかも、その際、とくに本の定価を高 もし大衆の気にかなったら、大 カよりもいいのである。しかし、これはもう理想であっ くする必要はさらさらない。 量にはけていく。したがって、一部すつの儲けはどんなに少て、民衆読物の編纂者が少年時代から、この仕事にやむにや なくても、総計は相当なものになるだろう。それについてまれぬ使命を見いだして、自分の一生の一日一日、一刻一刻 は、書物が巧妙に編纂されていればいるほど、売れ行きはまを民衆と暮らし、民衆と語りたいという、きわめて素朴な、 すますいいわけであるから、したがって利潤もいよいよ確かきわめて熱烈な要求を内部に感じた時、ただその時にのみ可 になってくる。巧妙に編纂するというのは、面白く編纂する能なのである。 聞くところによると、生まれながらの教育者もそんなふう ことである。なぜなら、最もすぐれた書物は、それがどんな ものであろうとも、何を扱ったものであっても、興味のあるであって、彼らは子供らとともに暮らし、子供らに接するこ とを、熱情といっていいほどに愛するものであるから、断じ 書物ということにきまっているからである。そのためには、 前もて彼らを学者連や、技巧的な教育家と混同してはならない。 できるかぎりいっさいの策略、いっさいの「欄」、 、に、心理学的に研究して、それを基礎前者、すなわち、生まれながらの教育家も同様に、非常な学 って百姓の魂を学者的 として設けられた「欄」を避けなければならぬ。第一のもの者であるということも可能だけれど、内部的な執着と使命感 よ、そのような結実をもたらすことは が第二のものを生みだし、第二のものが第三のものを生みだを伴わないただの学識し す、云々といったようないっさいの欄、民衆を引きつけて激ないのである。しかし、そういう種類の民衆読物編纂者を、 励するという目算を持ったいっさいの文章を避けねばなら今すぐ期待するのは困難であるけれども、後日かならず出現 ぬ。これを要するに、出版者が自分の著書の根底こ置、 冫一したするに相違ない。すべて新しく社会にあらわれた運動は、と 「実践的・心理的考量や、論理の本質を見抜く」ことが、などのつまり、それに参加した人々の中で、その理想に到達す るべく困難なようにするのである ( シチェルビナ氏のいってるものである。わが国ではこの運動が、ようやく発生しかけ いるように、なるべく明瞭にするのではない ) 。言葉を換えたばかりであるが、これがきわめて重大な必要となることは ていえば、もしその本の編纂者が聡明な、しつかりした人間疑いをいれぬ。そうした人たちは後日において、なんら危惧 であるなら、論理も、実践的・心理的考量も、必ず持ってい するところなく書物を出版して、民衆にとって必要かくべか なければならず、また、持っているでもあろうが、しかし、 らざる法律的、衛生的、その他ありとあらゆる何々的な知識 それはでき得るかぎり隠さなければならぬ。といったわけを供給し、しかもそれらの書物を立派に出版するだろう。な で、そうした根本的なものが、編纂者自身からさえ隠されてんの策略も下心もなく、ほかならぬ必要なものを出版するに

10. ドストエーフスキイ全集19 論文・記録(上)

ぶかさといったらたいへんなもので、グルイロフの寓意詩さ 固として排撃している。なぜなら、それでなくとも、民間に は迷信が多いから、という ( ここで、筆者は自分の意見としえ寓意詩と呼ぶことを望まず、単に題名だけを、たとえば、 てつけ加えておくが、それにもかかわらず、民衆はファンタ『百姓と雇男』「二人の百姓』というふうにだして、その下 スチッグなものが大好きで、そういうものを貪るように読 グルイロフとおくように提議している。その理由とする ところは、寓意詩は民間でつまらないものと思われていて、 み、あるいは人の読むのを聞いている ) 。筆者にいわせると、 それはすべてけっこうではあるけれども、ここでもまた同様「お話で鶯は養えない」とか「女の寝言」とかいう諺を見て 「お話」「寝言」等は「寓意詩」と同 に、あまり世話をやき過ぎ、必要なものと不要なものの間に もわかるはずだ、というのである ( じ basn a なる言葉で現わされて あまりにも厳格な区画を引き過ぎ、猜疑と危惧が病的なとこ >)0 いや、これはどうもあんまりというもので、それに寓意 ろまで達している。「傍へ寄らないでくれ、傍へ寄らないで詩や譬話だって、それほど民衆から軽蔑されてはいない。民 くれ ! きみは外から来たのだから ! 」とオプローモフは叫 間には無数の譬話が流布されていて、しかもきわめて機知と 。オプローモフは風邪を引くのを恐れて、厳寒 いうまでもなく、書暗示に富んだものさえ多いのだ。なにしろ、民衆は寓意詩が の戸外から入って米た友人に叫ぶのである 物は民衆にとって権威であり、シチェルビナ氏の表現をかりどういうものであるかは、ちゃんと心得ている。さもない ) であと、よしんば寓意詩であることを民衆から隠したにせよ、た ると、 autos ・ epha ( 七彼ーピタゴラスー自身はこうい 0 た」の意 るが、しかし民衆は、ビーセムスキイ氏の描いたヒボコンデだもう詩形の物語ということだけで、彼らをまごっかせてし リー患者のように、なんでもかんでも恐ろしがり、ちょっとまう。むしろ、このほうによけい危険が多いくらいである。 風が吹いても、すぐ死にはしないかと恐れるような、そうしまったくのところ、もし民衆がきみの想像しているように悟 たヒボコンデリー患者ではないのである。もちろん、ファンりが悪かったら、もちろん、詩を見てもそれに引っかかっ タスチックなものはぜんぜん必要がないけれども、シチェルて、道化たものだ、人間の使う言葉とちがって、脚韻で書い ビナ氏は自分の考案した『民衆のための書物』について、あてある、というだろう。きみはさらにすすんで、寓意詩も動 まり誇張した見方をしている。まるで民衆ぜんたいの未来の物でなく人間が扱われたものを選べ、と提案している。「も 部アルフアもオメガも、その教養も、その大学も、千年さきののをいう動物や木は、民衆の目から見て、ただの駄弁、ごま し、一種道化たものに思われて、書物の信用と権威を傷つ っさいがその本にかかっている、と想像しか 第彼らの幸福も、い っ ける」ときみはいっている。はたしてそうだろうか ? 録ているように見受けられる。もし民衆が本を読んで、たとい 一行でも具合の悪いものにぶつかったら、その場でたちまちたい譬話は民衆から出たのではなかろうか ? 心配無用、こ シチェルビナ氏の用心れが芸術上の形式だくらいのことは、民衆も理解する。まっ 論破滅する、とでも考えているらしい