= 。いかなることがあっても、社会から亡び去ることはな われわれは自分たちが体験して受け入れた、わが国の一般 ポーチヴァ 。まして、現在のわが国の社会においてはなおさらであ人類的使命という理念を持って、われわれの土地へ帰るもの る。したがって、本当の正しい教育が十分に発達していないである。われらをこの理念へ導いてくれたのは文明そのもの と、学問に渇している人々は独学で勉強をはじめる。システであるが、われわれはその文明の純ヨーロツ。ハ的形式をしり ポーチヴァ ムもなく、規則もなく、しばしばまちがった教師の選択をすぞけるのである。われらの土地への帰還は、文明もロシャ人 る。何よりも悪いのは、科学について一面的な知識しかない をドイツ人に変えることができず、ロシャ人はなんといって 教師を選むことである。かようにして、誤った観念が社会も、結局、ロシャ人だということを証明している。しかし、 とくに未経験な若い人々に植えつけられて、その中われらはそれと同時に、われらのみではこれ以上すすむこと に固く根をおろし、後日、否、時として急速に、面白くない ができない、われらの今後の発展を助けるためには、ロシャ ポーチヴァ 有害な結果をもたらすのである。ところが、教養が正しく、 精神の全力が必要であると自覚した。われらは祖国の土地へ 広汎な発達を遂げていると、全然べつの結果が生ずる。真の教養をもたらし、それによってわれらが何に到達したか、そ 科学には独自の態度と、伝統と、システムがある。そうしたれによってわれらがいかなるものになったかを示しつつあ 科学の真の保持者は、青年を偽りの道に踏み込ませなどしなる。それからさきはわれらから学問を受け入れた全国民が、 。彼らは学生を迷妄から守ってくれる。なぜなら、学問のなんというかを待つであろう。われらの向後の発達、国民的 ポーチウア カぜんたいで、その伝統のすべてで、人間の知性が正しく営発達、真にロシャ的発達に参与し、土地から取った新しきカ 営として到達したいっさいのもので、学生を感化するからでをもって正しき道へ踏み入るために、じっと待つつもりであ ある。 る。 ポーチヴ . ア ただ教養によってのみ、いまわれわれを祖国の土地から隔知識は人間を生まれ変わらせはしない。ただある変化を与 てている深い溝渠を埋めることができる。読み書きの教育えるだけである。しかし、一般的な、公式な型に嵌めて変え と、その全力的普及こそは、いっさいの教養の第一歩である。 るのではなく、当人の天性に応じて変化させるのである。知 かって『祖国雑誌』は、われわれが社会と国民的根源との識はロシャ人を非ロシャ人にしはしない。それどころか、わ 結合の必要を力説しながら、われわれが自分で排斥しているれわれをつくり変えさえしなかった。ただ自分の同胞のもと ヨーロツ。ハ文明を持ち込んでいるといって、冷笑したものでヘ帰らしたばかりである。もちろん、国民ぜんたいは、今ま ある。 でわが国の社会を形成していたちつばけな集団よりもいっそ それに対して答弁をしよう。 う早く、科学においても人生においても、おのれの新しい言 ~ 00
ない。それから、最後に、失礼ながら、諸君はたしか国民性 認めないのかね ? きみたちにいわせれば、芝らはいったい をいきなり、下層国民性と定義しているようだね ? してみ もうロシャ人でもないのかしら ? なにものなんだね、 国家的変動のために、国民がああもはっきり二分されたといると、きみを理解するものがだれ一人ないのは、あえて怪し うことが、この場合、どういう意味があるのだ ? ただ違っむに当たらない。なぜ、いかなる理由で、国民性はただ下層 いったい国民の発達ととも 民のみに属さねばならぬのか ? ているところは、半分は教養があって、半分は教養がない いったいわれわれ に、その国民陸も消滅するのだろうか ? というだけのことではないか。だって、教養のあるほうの半 分も、自分がやはり口シャ人であり、変わりのない国民であ『教養階級』は、すでにロシャ国民ではないのだろうか ? ることを、ちゃんと証明したではないか。民衆の根源との結筆者の見るところでは、むしろその反対である。国民の発達 合という考えにまで到達したではないか。ところで、この教とともに、その天賦の資質、内部の富がすべて残りなく発達 し、強化され、国民精神はいよいよ明らかに外面へ現われる 養のある半分が、教養のない半分よりもより多く発達し、よ り多く意識しているがために、その中から国民詩人が現われのである。はたしてペリグレス時代のギリシャ人は、もはや たわけだ。ところがきみは、民衆の間に発達と自覚のプロセ三百年前のギリシャ人とは違ったものであったろうか ? 筆 スが成就されるより前に、いきなり民衆の言葉で語りはじめ者が民衆的根源に帰る必要を証明することによって、自家撞 着をしていると思われるか ? 換言すれば、筆者はロシャ人 るような、そうした国民詩人がご所望なのかね ? そんなことがいつ、どこで見られたのだろう ? そんな詩人でなくドイツ人であると、みずから告白しているものと思わ けっして、けっして。筆者ははかならぬこの立一言 は想像することさえ困難である。たとえば、フランスにべラれるか ? ポーチヴァ によって、自分がロシャ人であって、祖国の土地に帰る必要 ンジェがあったにもせよ、はたしてこれが全国民のための詩 人だったろうか ? 彼はただ、パリジャンのみのための詩人を認めている、ということを証明したのである。筆者はた だ、われわれが純外面的な事情のために分裂した、というこ であった。大多数のフランス人は彼を知りもしないし、理解 もしない。なぜなら、彼らは発達がおくれていて、理解するとを認めたばかりである。この外面的な事情が、その他の国 な利害を信奉して民大衆をしてわれわれのうしろに続かせず、かようにして口 部ことができないからだ。なおその上に、」 第いるからだ。ところで、・ヘランジと彼を理解しない大衆のシャ国民の精神力の全部を、われわれの活動に寄与せしめな かったのである。筆者はただ次のことを認める。われわれは 准、 : プーシキンとわが下層民との距離はど、遠 録意識との距自が く離れていないとすれば、それは要するに、わが国におけるあまりにも孤立した小さな塊りにすぎないので、民衆がわれ 論ごとき国民の歴史的分裂が、フランスになかったからにすぎわれにしたがって同じ道を進んでこないとしたら、われわれ
あらゆる点において解放されていると認めるのが、はたして「さあ、それは諸君の解釈にまかせよう」とわれわれは答え よいことであろうか ? 女子自身としても、あらゆる点で男る。「ただし、われわれ自身はこの問題を、いま説明したよ 子と比較されるのが、はたして快いことであろうか ? もしうに解釈している。つまり、高き精神的発達の結果にほかな 冫しカらぬと : : : 」 快いのであるならば、女子も同じ権利を享有するのこ、、、 まったくのところ『ロシャ報知』にはそんなふうの手口が なる障害があるのか ? 悲しいかな、婦人解放論など少しも 聞かず、自己の権利に関してなんら特殊な理論の助けも借らある。同誌は、自分の知っていることはだれも知らないと、 みずから信じ切っているかのごときふりをするのだ。そし ず、その権利をかって利用し、かっ利用しつつある婦人が、 こんなことをするのには、教養もいらて、出しぬけに講義をはじめ、教訓を垂れ、心底から感激し しかに々タ - い一とかー このありがたて、滔々と雄弁をふるうのである。ところが、そんなことは なければ、知的・精神的発達もいりはしない。 いお恵みは自然と授かるのである。ただ高い精神的発達のみみんな、とくの昔から承知しているのだ。ちょっと考えてみ が、人の心に義務の感請を植えつけて、男子をも女子をも同ると、「ロシャ報知』にとっては何よりも、教訓とおしゃべ 様に、このだれでも利用しうる無償の解放から救ってくれるりのプロセスと、そのやり口が快いのだと思われる。しカ し、もっとよく考えてみると、そこには別の思わくがあるこ のである」 いや、一つ伺いたいが、諸君はほんとうにわれわれの目をとを、はっきりと見抜くことができる。それはつまり、「お くらませておられるのか ? われわれはほかならぬ、その高れだけ、ただおれだけがこれを知っているので、諸君はごぞ し精神的発達について心労しているのである。つまり、義務んじない。おれはだれよりも賢いのだから、それをよく心得 の感情が、男女の別なく、自由に人の心に植えつけられるよて、おれに従いなさい」うんぬん、うんぬんなのである。 うにと、心を砕いているのだ。われわれは次のように確信しうまでもなく、それはすべて群集のため、大多数のための演 ている、 それができてこそはじめて、男女間の関係も完出なのだ : 全に、正しく、人道的に、はっきりと決定され、すべての誤それから、『ロシャ報知』にはさらに次のページが続くの だが、それは論理的に支離滅裂な点で、あまりにも見事なも 部解も解決されるにちがいない。われわれは徴力ながら及ぶ限 のであるので、われわれはそれを読みながら、どう考えたら 第り、心の底から、この精神的発達に協力したいと思ってい よいのか、まったく思案に迷ったほどである。この部分は一 録る 語一語が貴重なので、このページを引用せずにいられない 「しかし、それはぜんぜん婦人解放ではないじゃないか ! 」 はⅡま、ってい : しかし、いずれにせよ」と『ロシャ幸矢 . 』。し 侖と『ロシャ報知』はいうだろう。
そらく非常な力を持っていて、にせものでなく民衆を表現す感情を感じなければならぬことになる。諸君は国民詩人をな るかもしれない。力、いずれにしても、そのような詩人はさんという狡猾漢として心に描いておられるのか ! ペイザン はど深みがなく、その視野はきわめて狭いものだろう。いずれどころか、瀬戸物の茶碗に描かれたアランス百姓と思って れにしても、プーシキンのほうが彼らよりも、比較にならぬほ いるのだ ! ど高いところにいる。現在の発達段階にいる民衆が、プーシ しかし、最後に、こういうことを仮定してみよう。自分の キンの全体を理解しないからといって、何も困ることはない発達を隠したり、仮面をかぶったりする必要は全然ない。嘘 ではないか ? やがては理解するようになり、彼の詩によっ いつわりなしに高潔な大胆な態度で、まっすぐに、率直に語 ておのれを認識することを学ぶであろう。なぜ国民詩人は是ってかまわない。民衆はすべてを理解して、それを高く評価 が非でも、国民の上層階級より低い発達段階に立たなければ し、真実の言に対して感謝の意を表する。ただその真実を単 と。 ならぬのか ? 諸君の見解によると、必すそういうことにな純な、民衆にわかる言葉で語りさえすればよい るではないか。プーシキン、彼の立っていたような発達の段筆者はあえて議論すまい。いずれにしても、そうした詩人 階におけるプーシキンは、けっして下層民衆に理解されるこ はプーシキンよりも力が弱く、プーシキンの表現したことを とはあり得まい。彼は下層民衆に理解してもらうために、ぜ表現するなどとは、はるかに及ばないことである。プーシキ ひとも彼らのところまで降りていかなければならなかっただンがそういった仕事をするとなったら、彼は自分の本当の仕 ろうか ? 民衆の言葉で話しかけて ( そんなことなら、プー事も、自分の偉大な使命もなげうって、自分のカの一部分も シキンはいともたやすくやってのけたであろう ) 、自分の発内部に残し、自分の視野を狭め、自分の偉大な活動の半ばを 達を民衆に隠さなければならなかっただろうか ? 民衆はは断念しなければならなかったであろう。 とんど常に、おのれの感情、希望、憧憬の根本において、正 ところで、彼の偉大な活動は那辺に存したか ? またして しいものを持ってはいるけれども、その進んで行く道が時ともくり返していうが、プーシキンを論ずるためには、まず第 して正しくなく、誤ったものであって、何よりも悲しむべき たとい少しでも詩を解する必要がある。 ことには、民衆の理想の形式が、ほかでもない、彼ら自身の なかんずく『ロシャ報知』はプーシキンに当然の敬意を表 希求しているものに矛盾することが、たびたびあるのであさない。なぜなら、彼はヨーロッパに知られていないからで る、もちろん、一時の矛盾ではあるけれども。そういう場ある。シ = イクスビアや、シルレルや、ゲーテはヨーロッパ文 合、プーシキンはときには奇妙なことがらに相槌をうたなけ学にあまねく浸透していて、一般人類的なヨーロッパの発達 ればならなくなる。おのれを隠蔽して、偏見を信じ、偽りのに多くの貢献をしている時に当たって、プーシキンにはそれ
のは、芸術の発達が自由であればあるほど、人類の利害にと 農村の悲惨な生活を描い ) にたいしても、ほとんど専制君主的な態 って有益になるということを、信じているからである。芸術度を取った。「自分の困窮を書け、自分の階級の困窮と要求 に目的や好悪の念を押しつけてはならない。ノーマルな発達を書け、 プーシキンなどおつばりだしてしまえ。あんな をした芸術は、きみの命令がなくとも、また自然法則からい ものに感激するなんて怪しからん、これこれのものに感激し っても、人類の要求と背馳するわナこよ、 冫をししかないのに、なんて、これこれのことを書け」というのだ。ところが、ニキー のために命令を下すのだ、その何を疑うのだ ? 芸術はとはチン氏は ( 筆者もニキーチンに代わって ) 叫ぶ。 うにも暮れなければ、正道を踏みはずしもしない。芸術は常 「いや、プーシキンはわたしの旗幟だ、わたしの燈台だ、わ に現実に忠実であって、常に人間の発達と進歩に並行してい たしの発達だ。わたしは町人だが、プーシキンは光のあると た。健全なる社会においては、美やノルマの理想は亡びるは ころから、文化のあるところから、侮辱的な偏見の人間を圧 ずがない。それゆえ、芸術をその進路において、けっして正迫しないところから ( 少なくとも、わたしの環境におけるが 道を踏みはずさないことを信じてほしい。よしんば踏みはずごとく ) 、わたしに手を差しのべてくれた。プーシキンはわた すにしても、すぐ引っ返して、人間の最初の要求に反応すしの精神的な糧だった」「いけない、ナンセンスだ ! 自分 る。美はノルマであり、健康である。美は有益である。なぜの困窮を書け」「しかし」とニキーチン氏はつづける。「わた なら、それが美だからである。人間の内部にはいつも美と、 し自身も困窮してはいるけれど、肉体の糧はもっている。わ その最高の理想に対する要求があるからである。もしある国たしに必要なのは、精神的な糧なのだ。この糧をすべての人 民の中に美の理想とその要求が保たれていたら、それはつまに望むと同時に、わたしからも取り上げないでくれたまえ。 り、健康とノルマの要求も存するわけである。したがって、 きみはすべての人にはそれを望みながら、いざとなると、ま その国民の高度の発達も、それによって保証されているのず第一番にわたしから取り上げようとする。きみはわたしに たといシェイクスピアであっても、 だ。個人は、 永自分の生活と困窮を書けというが、わたしもあるいはそれを 遠かつ一般の理想を、完全に推察することはできない。 した書くかもしれない ! ただ今はしばらくの間、高遠な生活を がって、芸術の道も目的も命令で押しつけるわけにはい、よ させてくれたまえ。きみにとっては、そんな生活など高遠で 推察すること、希望すること、証明すること、われに従はなく、もうそれを軽蔑しているけれども、わたしにとって えと号令すること、 それはすべて許される。がロ 、命令すは、 よろしいか まだとても魅惑に充ちているの ることは許されない。専制君主たることは許されない。 とツ」たー ・ : 」「われわれはニキーチン氏の保証をする」と、筆 町人出身の詩 者はすぐ自分の側からつけ加える。「今のところ、彼の望み ろが、 " 、ポフ氏、きみはたとえばニキーチン氏 ( 人、主として
氏はまだ無益な芸術、純芸術、刻下の要求に答えぬ非現代的芸術のために危惧することは少しもない。芸術はおのれの使 な芸術を認めて、それを攻撃しているけれども、筆者はそん命に背きなどしない。芸術は常に人間と共に、人間の真の生 な芸術を頭から認めないで、平然としている、ーー何も攻撃活を生きるであろう。それよりほかのことは、何一つなし得 する必要がないからである。たとい逸脱があろうとも、何もないのである。したがって、芸術は常に現実に忠実であると い、フ一とになる。 心配することはない。そんなものは自然に過ぎ去ってしま もちろん、人間はその生涯において、ノーマルな現実や、 う、間もなく過ぎ去ってしまうからである。 「しかし、失礼だが」と人はきくであろう。「いったいきみ自然の法則から逸脱することもあり得る。それに続いて、芸 術も逸脱するであろう。しかし、つまりそのことが、芸術と は何を根拠にして、真の芸術は断じて非現代であり得ず、刻 下の現実に不忠実であり得ない、などと結論するのだね ? 」人間との緊密な断ち難い関係、人間とその利益に対する不断 の忠誠を証明するものである。 それに対して、こう答えよう。 しかし、なんといっても、芸術は人間の発達の自由を圧迫 第一、開闢以来、現代にいたるまで、いっさいの歴史的事 実を一たばにして見ても、芸術はかって一度も人間をうっちしない時において、初めて人間に忠誠なのである。 それゆえ、第一に肝要なことは、さまざまな目的で芸術を やってはおかなかった。いつも人間の要求と理想に答え、い つもその理想の探求を助けてきた。それは人間と共に生ま圧迫せず、芸術の法則を処方せず、芸術をまごっかせないこ れ、その歴史的生活と共に発達し、その歴史的生活と共に死とである。なぜなら、それでなくともたくさんの暗礁があ り、人間の歴史的生活と分ちがたい誘惑や逸脱が、たくさん 滅したものである。 第二い ( これが重要なことであるが ) 、あらゆる芸術の基あるからである。芸術が自山に発達すればするはど、ますま すノーマルな発達をして、ますます早く本当の有益な道を発 礎である創造は、人間のオルガニズムの一部の発現と—> て、 人間の中に生きている。人間と分ち難く生きている。したが見するだろう。ところで、芸術の利益と目的は、自分の奉仕 分ち難く結合されている人間の目的と一 って、創造というものは、全人間の希求しているもの以外のしている人間、 部希求を、持ち得ないのである。もし創造が別の道を辿ったな致しているから、芸術の発達が自山であればあるほど、いよ いよ多くの利益を人類にもたらすわけである。 第らば、それは人間と別れたことを意味する。というのは、自 録然の法則に背くことになるのである。しかし、人類はまだ今 一つ、とくと合点してもらいたい。筆者が望むのははかで ラロ のところ健在であって、衰滅の道を辿っていないから、自然もない、芸術が常に人間の目的と一致し、その利益と背馳し 論の法則に背いてはいない ( 一般的にいって ) 。したがって、 ないことである。で、筆者が芸術のために最大の自山を望む
しかし、ビヨートル大帝の理念は成就され、現代において わが国では文明は階級別を発達させなかった。むしろその 最後的な発達を遂げた。そして、最後に、一般人類的根源を おのれの中に取り入れたのみならず、自分たちが一般人類反対に、階級の消滅とその合流に対する著しい傾向を示して いる。『ロシャ報知』にしてみれば、それがいまいましくて 的、世界的結合の使命を帯びたものかもしれないということ しかし、わが国にはイギリスの たまらないのかもしれない。 を、自覚さえしたのである。たとい皆がみな自覚しなかった ロードもいないし、フランスのプルジョアジーもいないし にもせよ、多数のものが自覚している。しかし、少なくとも ポーチア すべてのものが、文明はわれわれを逆に祖国の土地へつれてプロレタリヤもやはり現われないだろう。筆者はそれを信じ 帰ってくれたことを認めている。文明はわれわれを完全なョている。階級間相互の敵視も、わが国では、同様に発達する ーロッパ人にせず、でき合いのヨーロッパ的鋳型に流し込まはずがなく、その反対に、わが国では諸階級が一つに合流し ず、われわれから国民性を奪いはしなか 0 た。『ロシャ報知』っつある。今のところ、すべてが醗酵の過程にあ 0 て、何一 っ決定的な形を取っていないけれども、その代わりわれらの が、「国民性の論議の行なわれているところには、つまり、 国民性など存在しないのだ」といっているのは、深い誤謬に未来がすでに予感されはじめている。諸階級が一つに合流す 陥っている。ところが『祖国雑誌』がこれに対して次のようるというこの理想は、全国民の教養が最も盛んになった時、 より明瞭に表現されるであろう。 に答えているのは、徹頭徹尾ただしいのである。 教養は今でもすでにわが国の社会で、最も重要な問題とな 、つさいがこの問題に道を譲っている。すべての っている、し 「これに対しては、十九世紀のドイツならびにフランスの 文学史が、諸君に答えるだろう。これらの国では、同じ論階級的特権が、その中で溶けている、といっても過言ではな : ・教養のとくに急速な発達の中にこそ、わが国の未来の 争が文学において一つの時期を形成した。ただし、それは っさいのカ 国民性論争と呼ばれないで、ロマンチズム論争と呼ばれて全部があり、われわれの自立性の全部があり、い いた。この論争はわが国へも輸入されたが、あまりにも時があり、前方へ進む唯一の意識的な道がある。何より重大な ことには、平和の道、協和の道、真の力に達する道がある。 部期尚早であった。そのために、われわれは受入態勢がとと いまわが国において真に最高の階級は、教養階級である。 第のっていず、完全な深い理解ができなかったのである。西 とはいえ、本当の、真剣な、正しい教養がなかったら、たち 録欧におけるこれらの論争の結果は周知のごとくである。ョ ーロッパの文学は自立性、国民性のほうへ急角度の転回をまちこの上もなく有害な、恐るべき現象が社会にあらわれて くる。それは科学外の科学である。知識と学問にたいする渇四 論遂げた」
ニズムにとって必須の要求である。それは調和であって、そ 立つか、それで何が買えるか ? などということは詮議をし ないで、敬虔の念をいだきながらその前に跪拝する。おそらの中に平穏の保証がある。それは、人間と人類のために、彼 く、そこに芸術的創造の偉大な秘密が存するので、それがゆらの理想を具象化する。 っさい無条件です「しかし、失礼だが」と人はいうだろう。「きみはいった、 えに、芸術のつくりだした美の形象は、し どんな理想のことをいってるんだね ? われわれは現実を欲 ぐさま偶像となるのであろう。 ほかでもない、美の要求がし、生活を欲し、生活の息吹きを欲している。わが国では全 何がゆえに偶像になるのか ? 最大限度に発達するのは、人が現実と不調和、相剋、闘争の社会が、たとえば、なにかしら現代的な問題を解決しようと 状態にある時、換言すれば、最大限度生きている時であして、出口を求め、みずから定めた理想に向か 0 て突き進ん かでいる。詩人もすべからく、この理想に向かって進むべきで る。なぜなら、何ものかを求め獲得せんとしている時、ほ ならぬその時、人は最も強く生きるからである。そういうとある。社会に対して何かでこの理想を具象化し、説明するか き、人は自然の結果として、すべて調和せるもの、平穏なるわりに、諸君は突然、狩猟の女神ディアナや、グラヴィルの ものを求めるという望みを表明するが、美の中には調和も平ラウラを歌いだすのだからね」これらはすべて疑いもなくご 穏も存するのである。ところが、探究しているものを発見すもっとも千万である。しかし、筆者はこの駁論に答える代わ りに、ちょっと見当はずれの、わき道へそれた意見を述べさ ると、一時生活のテンポが弛んでくる、筆者は数々の実例さ え見たが、人間はおのれの希望する理想に到達した時、これせてもらう。それはすべてわき道的なものを一挙に片づけて しまって、きみの立派な、この上なくごもっともな意見に対 以上どこへ突進していいかわからないで、喉から浴れそうな ほど幸福に満喫して、一種の憂鬱症に陥るのみか、自分からする、主要な答えに移るためである。 その憂鬱を掻き立てて、自分の生活に別の理想を求めるよう本論のはじめに述べたごとく、われわれにと 0 て有益なも になる。飽満の度が過ぎると、今まで自分の享楽したものをののノーマルで自然な行程は、まだよくわかっていない。少 尊重しなくなるのみならず、むしろ意識的に正道を踏みはずなくとも、ぎりぎりに正確なところは計量されていない。ま 部して、刺激の強い、不健全な、調和の欠けた、道草的な、時 0 たくのところ、われわれのあらゆる希望の理想に到達する ため、全人類が希望し目指しているすべてのものに到達する 第として奇怪なまでの趣味を呼びさまし、節度も、健全な美に ためには、はたして何をなすべきであるかということを、ど 録対する審美的直感をも失って、その代わりに例外を求めるよ うしたら疑いの余地のないほど明瞭にすることができるだろ うになる。こういうわけで、美はすべての人、すなわち、最 論大限に生きている人間に固有なものであ 0 て、人間のオルガう ? 想像したり、考えだしたり、推察したり、研究した 一三ロ
発達させ、かっ好奇心をそそりながら、知らずしらずのう文・占星学』『ママイとの会戦』などといったような書物 が、民間で成功したということも、出版者は考慮に取り入 ちに次の部門に対する準備をし、次の部門を通読すると、 れなければならない。 第三の部門に対する準備がなされる。というふうに心理的 精神的・道徳的発達に当てられた文章においては、ヒュ 順序を追っていく。まず、一連の寓話、たとえばなし、 ーマニズムを表わす内容か、もしくは怠惰な生活や、不人 諺など ( これは庶民の個性に最も近いものである ) に表現 情な貪欲や、頑迷固陋や、非社会性や、他人の人格や権利 された、庶民の日常生活のさまざまな場合からはじめて、 彼らをとり巻く、目前の自然 ( 大地、空気、空 ) などの事の蔑視や、その他これに類した、民衆の罪ではないけれど 物に移り、こういったさまざまな文章の総合によって、書も、さまざまな歴史的状況の結果として、もつばらわが国 の民衆に認められる欠点を批判した内容を取り入れる。こ 物の終わりのほうでは順序を追って精神的、道徳的な問題 に到着する。まあ、たとえば、クルイロフの寓意詩『不幸れらすべては大部分、わが国の民衆がまだ叙事詩的な状態 にあることを考慮に取り入れて、教訓的・独断的な叙述で に落ちた百姓』から、ホミヤコフの『讃美歌を読み終え なく、できる限り形象に表現されたものを、書物の中へ取 て』といったような詩に移るのである。 り入れるのである。 O 発行者は実際的な考察に基づいて、民衆にははたし この書物ぜんたいが、二つのおもなる目的に指向さるべ ていかなる根本的欠陥が存在するか、万国民に共通の欠陥 きことは、明々白々である。 C 民衆の観念を発達せしめ か、それともとくにわが国民のみに固有なものか、という ると同時に、一般すべての人間、とくにロシャ人にとって、 ことを調査した上で、それにしたがってこの書物のための 文章を選択する。のみならず、発行者は、民衆の生活条件空気のごとく必要な知識を与えること。②庶民の精神、 においては、はたしていかなる知識が必須であるか、民衆風俗、習慣、歴史、環境、生活などを厳密に考量しなが ら、民衆の間に道徳的・人間的感情がさらに発達するよう は何に興味をいだいているか、ということを知らなければ に、力をかすことである。なおその上に、民衆向きのこの ならぬ。第二の問題に関しては、民間詩、民謡、伝説、古 書物は、『ほしいものは、ねだれ』という意味が現われる 部代ロシャ文学に語られていることどもが、それに対して指 第 示を与えるであろう。発行者はそれらによって、この書物ように編簒しなければならぬ」 録の中で何が民衆に好ましいかを、悟るであろう。また同時 なおそれのみならず、民衆に対しては単純明瞭な言葉で語 ) 軍との戦い』『ジョ に、『ロシャ軍とカバルダ ( の¯l 地方 文 ージ卿』『・ハラキレフの逸話』『陽気な爺さん』「最新天るべきであって、民衆的な語調を真似たり、ちょっぴり百姓 〃 3
足感をもって読んだはどである。なかなか頭のいい書き方がするに現代は、生長と育成の時であり、自意識の時であり、 してあった。しかし、この摘発的な論文を書いた頭のいい人われわれにあまりにも不足している道徳的発達の時である。 に、もし何かすることがあるとしたら、延々数ベージにわた文明、是が非でも文明をできるだけ早く、両端から普及させ って、ああ長たらしく敷衍しないことだ。あれではちょっとなければならない。すなわち、われわれの側からと、つい最 近、仁慈ふかきみ意によって広大な公民権を拡張した人々の わたしはこのことから、次のような結論を抽き出した。も側から、とである。わたしの感ずるところでは、精神的浄化 いかなる専門家といえど しロシャにそれほどディレッタント的でない仕事があるとすなしには、道徳的発達がなければ、 、、かなるパーマストンも、グロメーカも、歩道に砂を撤 れば、それは文学的活動である。のみならず、まだつい最も 近、十年あまり前、文学的活動はわれわれにとってじつに有けと指摘する人々も、ほんとうにはわれわれの意識にはいっ 益で、われわれの生活の中にさえ侵入し、見る見るうちに見て来ないだろう。もちろん、彼らといえども道徳的発達に貢 事な成果をもたらした。その当時は一つの新しい世代が形成献するだろう、大いに貢献するかもしれない。が、それと同 された。その数はさして多くなかったが、有望な人々であっ時に、何かより総合的なものも邪魔にならないだろう。むし た。彼らは新しい信念によって団結していた。その信念は社ろ大いに邪にならないくらいである。ただわたしはうまく 会の有機的な要求となり、しだいしだいに発展していった表現できないのが残念である。わたしはこんなふうにさえ思 う、ーー・現代ではいわゆる美文学、たとえば、プーシキンと ・ : それはべリンスキイの活躍した最後の時期であった。 か、オストローフスキイとか、ツルゲーネフとかのほ、つが 言にしていえば、文学は有機的に生活の中へはいり込んでい われわれにとっては、わが国の諸雑誌のもっともすぐれた政 た。そういうわけで、わたしにはこんなふうに田 5 われる、 もしこんな言い方ができるとすれば、わが文学界の代表治欄よりも、 premiers-Moscou ( モスクワ新聞社説 ) よりも有 益である ( あっー いったいわたしは何をいったのだろう ! 者たちの批判的・総合的な文学活動は、今日でもわれわれに 快く感じられるだろう。われわれはあまりにもてんでんばらしかし、言葉はすずめとちがうから、飛び出した以上、帰っ 部ばらになっているので、道徳的信念や方向を渇望するものでて来はしない ) 。もっとも、わたしがこんなことを考えたの ま、美・ 学的に表現された人道的な印象の力を、つねに信じて 第ある : : : この意味でわれわれはまだ多くのことをしなければ 録ならないとさえ、わたしは信じている。この意味で多くのこ いるからである。印象は徐々に蓄積されて、その発達ととも 1 三ロ に心の堅い殻を突き破り、その深奥へ滲み入って、人間を形 とが、まだなされていないのである。そこでわたしは、現代 文 言葉は偉大なものである ! 人 はもっとも文学的な時代である、とさえ考えるのである。要成するのである。言葉、 5