の型を、羨しそうにじろじろ見廻しながら、言葉尻を引いてある。しかし、セッターは真の貴族らしく、その愛撫を無関 心な態度で受け、膝の間にも長くはいない。そして、ほんの 小声にいうのであった。 なお同様に、並みはずれて特別の注意を惹いたのは、背のちょっぴり尻尾を振りはするものの、ただ社交上の礼儀のた 高い、痩型の、ひどく胡麻塩の頭をした、年のころはかれこめで、大儀そうな気のない振り方である。大貴族はどうや れ五十六、七の紳士である。ほとんど通路の真ん中に汽船備ら、ここには、知った人がないらしいけれども、そのぶくぶ 付の折畳みになった椅子を据えて、人々に背を向けたまま超くぶよぶよした顔つきから見ても、そんなものなどだれひと ふなべり 然と坐り込み舷越しにばんやりと、大儀そうに水を眺めてり用がないということは、明々白々である。それも何か主義 いる。これはなにがしという侍従武官であり、先帝の治世に主張によるものでなく、ただもう用がないからにすぎない。 聞こえた洒落者で、今はどういう位置を占めているのか知ら「県の主人公」の行政的意義に対しては、まるつきり無関心 ないけれども、その代わり最上流の社交界に属する紳士で、 で、例の折畳み式の椅子に腰かけたまま、澄ましている。ま たこの無関心が、この上もなく無主義無目的なのである。し 一生の間に莫大な金を浪費して、最近はずいぶん長いこと外 かし、彼らの間に会話が交わされるに相違ないということ 国を放浪していた。これはみんなに知れ渡っている。身なり は、一見して疑いをいれぬ。行政官は折畳み式の椅子のまわ は、やや無造作なくらいで、見たところ特別どうというとこ りを行ったり来たりして、話しかけたくてたまらぬ様子であ ろもないが、一点非の打ちどころのないロシャの大貴族らし めと い風格があって、フランスの理髪師めいたところがはとんどる。彼は家から妻を娶ってはいるものの、生まれつき正直 交っていない。 これ一つだけでも、当世ふうのロシャできのなところから、どうやら自分のほうが大貴族よりも、はるか イギリス人に比べて、珍重するに足るものである。汽船に乗に身分が低いと自認しているらしい。で、この問題を解決し っても従僕が二人っいているし、それに驚くばかり見事なセなければならぬはめになっている。 ッター種の大までいる。この犬は甲板の上を歩き廻って、近ところで、一人「第二流」の紳士がその辺をちょこまかし づきになりたいといった様子で、そこに坐っている人たちのていたが、その骨折りのおかげで、県の主人公と大貴族は、 部膝の間へ順々に鼻つらを突っ込む。これは少々うるさいけれまえもって紹介とかなんとかいうこともなく、まったく偶然 二こと三こと言葉を交わすことになった。そのきっかけ 第ど、だれひとり腹を立てるものはない。中でも二、三、犬 録を撫でようとするものさえあった。しかも、高価な大の価値となったのは、この「第二流」の紳士の伝えたニュースであ 1 三ロ を本当に見分けるもの識りらしい顔つきをして、自分も明日る。やはり有名な貴族である隣県の知事が、外国の鉱泉場に 論はこんなセッターを買います、とでも いる家族のところへ急いで行く途中、とっぜん汽車の中で足 3 いいたげな様子なので
している。しかし、そういう人でさえも、昼食のためにわが長くつづかず、われらの主人公は、よくあるやつで、その後 8 家へ急いで行く途中、ふとわれらの主人公を見ると、心からお役所の椅子にすわり込んだ ( どうもいたし方がない ! ) 。そ 晴ればれとなって、世の中は楽しく暮らすことができる、こ こにかなり長いこと、つまりかっきり二か月すごしたが、そ の世にはまんざら喜びがないわけでもない、 ということを悟のとき思いがけない事情の急転によって、彼は自分のからだ るのである。まあ、こういう男を想像していただきたい、 と自分の財産の、無限の所有者となったのである。それ以 あっ、大事なことを忘れていた。われわれは彼の履歴を来、彼は両手をポケットに突っ込んだまま、ロ笛を吹きなが 話さなければならない。第一、彼はモスグワの生まれとしよら歩きまわり、自分のためだけに暮らしている ( 諸君、どう う。いや、何よりも必ずモスグワっ子でなければならない。 かおゆるしを ! ) 。 つまり、奔放で、雄弁で、いつも心に秘めた自分の思想を持彼はおそらく、ペテルプルグの土壌に根を下ろした、唯一 っており、うまいものを食べて、議論をするのが好きであのぶらっきやかもしれない。彼は、諸君がなんといわれよう る。間がぬけたようで、ちょっとずるいところがある。ひと とも、若い人でもあるし、もう若くない人間でもあるのだ。 口にいえば、愛すべき好漢のあらゆる属性を有している : 若いところがかなり減ったけれど、新しいものはやっと根づ しかし、彼はペテルプルグで教育を受けた、必ずべテルプル きかけたばかりで、早くも枯れしばんでしまった。残ったの グでなくてはならない。しかもりつばな、現代的教育を受け はただ笑いばかり。しかし、あえて断言するが、その笑 たと、きつばり断言することができる。しかし、彼はいたるはまったく罪のない、単純でのんきな、子供つばいもので、 ところを経めぐって、なんでも知っており、なんでも研究しすべての人、すべてのものに対する笑いなのである。それ 記憶し、すべてのものを捕え、いたるところに顔を出した。 に、まったくのところ、彼がのべっ笑いたがるからといっ はじめ彼は、ちょっと軍人のまねをしたこともあったが、そて、何が悪いのだろう ? 諸君がまじめな、厳粛なものを見 の後大学の講義も少々嗅いでみたので、医学アカデミーでどられるところに、彼が冗談ばかり見るからといって、何が悪 んなことをするか、ということさえ知った。そして、上品ぶ 丿エフ いのだろう ? 彼は諸君の感激の中に自分のヴァシー ってもしかたがないから白状するが、ヴァシーリエフスキイスキイ島を見、諸君の希望とあこがれの中に迷いと、こじっ 島の四丁目にさえはいり込んだことがあるが、そのときとつけと、まじりけのない欺瞞を見、諸君の堅固な道の中に自分 ぜん、なんのきっかけもないのに、自己の内部に芸術家を発のお役所を見、諸君のどっしりした貫禄の中に、自分のかっ 見した。それがちょうど、科学や芸術が黄金のパンで、彼をての上官であり、きわめて尊敬すべき人物であるヴァルソノ フィ にしかけた時なのである。もっとも、窄学も芸術もあまり ベトローヴィチを見る、そのいったいどこが悪いの
が、いま筆者の引用したところは全部、 「読書文庫』と いう標題からして、一種の奸計なのである。なぜ「読書文 庫』とつけたのか ? きみにいわせれば、ピヨートレ ノ大帝以 前の古い文学には、『トラヴニグ』「ムイスレンニグ』『グロ 「この書物の中では、たとい少しでも民衆の語調を贋造しムニグ』『ヴォルホーヴニグ』『コリャードニク』等の名称 があるからである。しかし、それはビヨートレ たり、道化た言葉遣いをしたり、民衆の前で芝居をした ノ大帝以前の文 り、すべてそういったようなことは、単に一定の使命を有学ではないか。その当時は、こうした名称は素朴な気持ちで するこの書物を損うのみならず、一般に教育というものに つけられたので、その当時は、こうした書物のどれもこれも 対して、民衆の信用を落とすことになる。わが民衆は聡明 ( 上流階級向きのものも引っくるめて ) 、これ以外の名は であるから、率直な気持ちでなく、胸に一物あって近よっ つけられなかったのである。が、今は書物の標題のつけ方が てくるものは、すぐさまそれと悟ってしまう。それは彼ら別になった。すべての書物の標題が別になったのである。に の目から見ると、ある意味において、百姓に変装して民謡もかかわらず、民衆向きの書物だけが、こうして昔ふうに を蒐集する旦那方や、むくつけき百姓どもに訓戒を垂れる『読書文庫』なのである。こうした特別扱いは、民衆をはっ 貴族めいてくるのである。しかも、こうした訓戒はどれも とさせるに違いない。「してみると、おれたちのために特別 これも、大抵の場合、みんなが右の耳から左の耳へ通り抜な本がつくられたので、ほかの本は、こちとらのものじゃな けさせてしまうのである」 いのだ : : 」というわけである。こういう断が下された ら、『読書文庫』に対する尊敬は、減るとも増しはしな、。 まま、このへんでちょっとうち切ることにしよう。一つ考それに、民衆の中でも読書を好む人たちは、むしろ禁制の米 えてもらいたい。 きみは自分でいっさいの奸計に反対して、実である貴族向きの書物を望んで、ありふれた下司向きのむ それを立派に説いている。なかんずく、百姓に変装した旦那 くつけき書物などとは比較にならぬはど、このほうを尊敬す 方や、右の耳から左の耳へ通り抜ける訓戒のことを説いたとるようになるだろう。「いや、民衆はそんなことに気がっき キ 6 ー ) よ、 ころなど、とくに見事である。きみの理論は時としてなかな オし」と、きみはいうだろうが、それは心もとない。で かうまくいくけれども、実地になると、きみはすぐ自家撞着は、もし気がついたら、どうするのか ? いや、まあ、かり に陥ってしまう。あれを読むと、まるできみ自身が奸計などに気がっかないにしても、これだけは認めてもらいたい。本 しだかずに、民衆に近よっているように思われる。ところの標題の点からいっても、できるだけの本を民衆的なものに と がかった言葉づかいをするような努力をしてはいけよ、、 いう自分の意見に関連して、きみは次のように書き添えてい る。
: : ミンナとかアルマンスとかい、フカメリヤたちに衵 と目みただけで明瞭だった。縁がよれよれになって、形のひないのだ : んまがった帽子は、うしろのほうへずれていて、その下からは、彼はなんのかかわりもありはしない : : : 否、彼はそんな えり ものなど何もいりはしない。そんなものは、何もかも持って 白髪がはみ出して、外套の襟にたれている。老人は杖にすが っていた。くちびるをもぐもぐさせ、足もとを見つめなが いるのだ。まだ去年から蔽いを洗濯もしていない枕の下にあ ら、どこかへ急いでいた。おそらくわが家をさしていたのだるのだ。たとえ去年から洗濯していなくたって、彼がロ笛を ろう。歩道の雪をかいていた庭番は、わざと彼の足もとをね吹きさえすれば、必要なものはすべてなんでも、従順に這い らって、ひとシャベルの雪をほうり出した。しかし、老人は寄ってくるのだ。彼がその気になりさえすれば、多くの人々 それにさえ気がっかなかった。わたしと並ぶと、彼はこっちが注意ぶかい微笑を浮かべて、彼に幸福を捧げるのだ。たと をちらと見て、死んだような片目でウインクした。それは光えば酒にしても、それはすぐ彼のからだをあたためてくれ まぶた も力もない目で、だれかがわたしに対して、死人の臉を上る。そう高い酒でなくても、彼にはそれでちゃんときくのだ げて見せたかのようであった。わたしはすぐに察した、 : 彼にはどんな酒だっていりはしない : : : 彼はいっさいの : しかし、わたしがこんなふうに それはまさしく、ばろの中に数十万の大金を残して死んだア希望を超越しているのだ : ・ ルパゴンだ、マグシミリアン病院へ通った老人だ。と、その空想している時ふと、とんだはうへ横道にそれたような気が ひょうせつ 時 ( わたしの想像力は敏捷に反応するのだ ) 、わたしの目のした。わたしはプーシキンを剽窃しているので、実際はまっ まえにとつじよとして、プーシキンの「吝嗇の騎士」に酷似たく別だったのだ。いや、これは確かにこんなふうではなか したおもかげが浮かんだ。すると、わがソロヴィョフが巨大っこに相違ない。六十年まえには、ソロヴィョフはきっとど な人物のような気がした。彼は世の中から去って、世間のあこかに勤めていたのだろう。まだ若くて、はつらっとしてい らゆる誘惑を避けるために、衝立てのかげの片すみにかくれて、年も一一十そこそこだった。彼も同様に浮かれまわって、 た。こうした空虚な輝きや、豪奢な生活に、そもそもどんな辻馬車を乗りまわし、ルイザとかなんとかいう女と知り合っ 意味があるのだろう ? 落ちつきとか慰楽とかいうものが、 て、劇場へ行って『賭博者の生涯』などを見たことであろ いったいなんになるのだ ? 御者台に乗っている下男や、箱う。ところが、とっぜん、うしろから何かに突かれたよう 馬車の中にすわっている紳士淑女や、駿馬をつけた辻馬車をな、そういったようなことが彼の身に起こった。それは、一 駆る人、徒歩でとばとば歩く往来の人、カメリヤたちや金に瞬にして人間ぜんたいを変えてしまうようなことなのだが、 対するあくことなき欲望の顔に描かれているはなばなし、 当人は何一つそれに気がっかないのだ。あるいは、彼が忽然 わこうど こんな人々に彼はなんのかかわりもありはし 若人たち、 として何かを洞観し、何かに恐れを感じる、といったような まくら
ことがない。それどころか、ここではすべてが行儀ただしい ぜん成功しないで終わるかもしれない。 ここでは単なる旅行 サロンに似ている。甲板へ出ると、まるで招待されたお客様上の必要からのみでは、会話ははとんど軌道に乗ってこな のようなものである。とはいうものの、五時間か六時間、あ 。第一、会話の調子がまったく別なもの、「サロン的」な るいはまる一日、行をともにするという状態に縛られて ものでなければならない。 これが肝腎なのである。いうまで て、必ずいっしょにそこまで乗って行かねばならず、ほとんもないことであるが、もし乗客同士が前からの馴染みでない ど知人づきあいをしなければならぬことを、否が応でも思い 場合には、汽車の中よりも沈黙の氷は破りこく レい汽船の中 知らされる。婦人たちは大抵いつも、汽車の中よりも、 しいなでは、みんながし 、つしょに話すことはきわめて稀れである。 りをしているし、子供たちも ( 両親が少しでも、自分という自分自身のでたらめ話や気取りからくる精神的な苦しみは、 ものを尊敬している限り ) 、見とれるような、洒落た夏服を汽車の場合よりずっと大きいくらいで、ことに最初の間はな 着ている。ここでも時としては風呂敷づつみを持った婦人おさらである。もし諸君がちょっとでも注意ぶかい観察眼を や、自分の家庭にいる時とまったく同じような一家の父もい持っていたら、ああいうきらびやかな貴婦人たちゃ、おのれ る。中には子供まで抱いたのも見受けるが、それでも万一のを尊敬することの深いその夫たちが、僅か十五分かそこいら 場合のために、勲章をぶら下げているのだ。これなどは一段の間に、どうしてああも嘘がつけるかと、驚き入るに相違な と格のさがった「本当に旅をする」タイプで、旅というもの 。もちろん、この現象が最も頻繁に、また最も純粋な形で を平民的なほど真面目に考えているのだ。彼らには高遠な理見受けられるのは、二時間から六時間までの道程の気晴らし 念がなく、ただあわただしい自衛の本能があるばかりだ。真の旅、休暇利用の旅である。身振り手真似、美しいポーズ、 の公衆は、このみじめな連中がたといすぐ傍に腰かけていてあらゆる方法を用いて嘘をつく。一人一人が一瞬一瞬、鏡に も、たちまちこれを無視してしまう。それに、この連中もす映る自分の姿を見ているようである。不自然きわまるいやら ぐに自分で自分の位置を了解して、金を払った自席は頑とし しい抑揚をつけて、きいきい声でしゃべる調子、だれにしろ て守りとおしはするけれども、一同の目から見ると、完全ちょっとでも自尊心のある人間なら、とても思い切ってでき 部 に、おとなしく無に帰してしまうのである。 ないだろうと思われるような、胸くその悪くなるような発音 第要するに、場所と時間に余裕があるということは、根本的のしかた、 こんなのは汽車の中よりもよけいに聞かれる 録に条件を変えてしまう。ここではどんなに「才能」のある人ようである。一家の父と母夫人は ( まだ甲板の上で乗客一同 間でも、自分の身の上話から切りだすわけにいかないから、 の会話がはじまらないうち ) 、自分たちはわが家にいるのと 文 論ー まかの方法をさがさなければならぬ。ことによったら、ぜんまったく同じ気持ちでいるのだということを、一生懸命みん
制主義とか、そういったような問題が起こったとしよう。黄連中を上から見おろし、自分の良識と、いわゆる明晰な実際 金連中は必ずやこの間題を、結婚制度はただちに崩壊すべき的なものの見方を鼻にかけていて、傍に坐っているのも気が である、というふうに解釈する。肝腎なのは、ただちこと、 ~ しさして、次の間へ退却したくなるほどだったからである。 う点である。のみならず、女はすべて良人に不貞を行なうこ こうした先生は時とすると、二十年間も、良識のある先覚 とができるばかりか、必ず不貞を行なわねばならぬ、その中者の間におのれの位置を持ちつづけ、先覚者の一人と世間か にこそこの理念の真の道徳的意義が含まれている、というのら見られるようになったので、ついには自分でも自分を先覚 である。ことに、何か騒然とした過渡期に当たって、社会が者と思い込むようになり、だしぬけに何か突拍子もないこと ゴーゴリ「死せる 二つの信念に分裂したような時、この連中を見ていると、実をぶ 0 放す。それは女地主のコローポチカ ( 魂』の中の人物カ に滑稽に感じられる。そういう時、彼らはだれに、何に味方何かの場合に、たとえば、ヨーロッパの経済的危機の問題を したらいいかわからない。 しかも、世間からはしばしば社会解決してくれと頼まれたら、おそらくぶっ放すだろうと思わ の柱石であり、権威者であると見られているので、自分の意れるようなたわごとなのである。しかし、筆者は本題から離 見を吐露しなければならない。いったいどうしたものだろれて、よそごとをしゃべりだした。閑話休題。筆者は教育の う ? 長い動揺ののち、黄金紳士はいつもとんちんかんの解ことをいっていたのである。 決をする。これはすでに法則化している。これまた黄金紳士読み書きのできる民衆が牢獄を充たしているというのは、 の最も主な特質である。こんなわけで、実にこの上もなくお周知の事実である。ところが、人はこの事実からして、教育 粗末千万な、愚劣きわまるやり方で馬脚をあらわすので、彼は必要でないという結論をひきだす。これがはたして論理的 らの解決のあるものは、頭の鈍さの実例として、後世に伝えであろうか ? 庖丁は傷をする惧れがあるから、庖丁などい ることさえあるはどである。しかし、筆者はわき道へそれてらない。 いった。現代において迫害されているのは、単に言論の自由「いや」と駁論するものがある。「「庖丁がいらない』のでは ばかりではない。教育も迫害されているが、しかもその迫害ない、庖丁のつかい方を心得ていて、怪我などしないような 者は、当時われわれの目に、よしんば第一流でないまでも、人」 降だけに渡したらいいのだ」よろし い。してみれば、諸君 けっして時勢おくれでない人々、そして何よりも第一に、おの意見によると、教育を何か特権みたいなものにしようとい そろしく分別のある人々の仲間に属している、ように思われうのだね。しかし、諸君、それよりもまず、わが民衆の中で た連中である。筆者がおそろしくというのは、ほかでもな教育を囲繞している事情に注意を向けた上、なんとかしてこ 彼らの多くがあまりにも権威者ぶって、すべての暗愚なの事情を取り除き、全民衆から精神的糧を奪わないようにす
たわごと ら見ると、ほとんどあり得べからざる囈言に近いはどの特殊とはいうものの、短編作者の根本思想は正鵠をうがってい この道 な場合なのである。きみが自分の思想を証明するために、そるのだ。一つこういうことを想像していただきたい。 れをロシャ精神の中に、ロシャ人によって表現することがで 化た娘の代わりに、拵えもののマーシャの代わりに、短編の えきえき きなかったとしたら、そうした事実はロシャ精神の中にな作者が精彩奕々とした、正確な人物を描きだして、きみも立 く、そんなことはロシャの現実にありえない、そう結論するちどころに、自分があれほど熱烈に論じているところのもの ことが許されるのは、きみ自身もご異存のないことと思う」を、現実にまざまざと見る思いをしたならば、はたしてきみ こんなふうに、彼らは答えるだろうから、つまりあの短編は はこの短編が芸術的であるという理由で、その価値を否定す 真面目な筋道のとおった印象の代わりに、ただもの笑いの種るであろうか ? 否、このような物語こそ千倍も有益なので になるばかりで、『熊と隠者』の寓話のイ ) を想起せしめるある。本当のところ、諸君は詩や芸術を軽蔑している。なに にすぎないだろう。「きみはそういう思想をもったロシャ人しろ諸君は実際家なのだから、何よりもまず事業を要求して を表現することさえできなかったのだ ! 」ときみの反対論者いる。ところが、芸術的であるということこそ、最も実際的 はつけ加えるだろう。「きみの思想がどんなふうに生活の中な ( もしお望みなら申し上げるが ) 人間であるきみの気を揉 で実現するかということを、読者に示さなければならぬ時んでいる事業を、形象において表現する最もすぐれた、最も ロシャ人はきみからすべりぬけてしまったのである。き 説得力のある、最も疑いのない、最も大衆に理解しやすい方 みは何かしらパレーのなかのスイス人に、ロシャふうの長上法なのである。してみると、芸術性は最高度において有益な サラファン 衣や長袖無を着せざるを得なかった。あれはペイザンとペイのであって、しかもほかならぬ最高の見地から有益なのであ きみる。これこそいかなる要求にも先んじて、ます第一に押しだ サンヌの」如 ) であ「て、百姓や百姓女ではない。 が自分の愚劣なパラドッグスを証明しようとして、第一歩をさなくてはならないのに、どうして諸君はそれを軽蔑し、迫 ポーチヴァ 踏みだしたとたん、土地がきみの足もとからすべり抜けたの害するのか ? だ。それなのに、事実の擁護者であるきみ自身が、ロシャ人「いかなる要求にも先んじて、などと、そんなことはできな 部の間にその事実を表現することができないのに、われわれに い」と諸君はいう。「なぜなら、まず第一に必要なのは事業 第もそれを信じろというのだろうか ? 否、きみたち書斎裡のだから」しかし、事業についても、筋道のとおった、上手な 、、、、、ナれど、われわれに 録空想家は、勝手に自己欺瞞をする力ししし 話し方をしなくてはならない。たとい事務的な人間であって 記 はかまわないでもらいたい」人々はきみに向かってこういう も、話のしかたが下手だったら、大して役に立たないだろ 論だろうが、それは自己流なりに正しいのである。 う。それは、早い言がきみの指揮下に大勢の兵隊がいると ン
うに感じられる。民衆がいきなり飛びついて読むようにする な楽しみだったからである。自分が王様や、さまざまな土地 ためには、どこからか文章を選んできて、それを「読書文 の説明をし、一般的に有益な注意をしてやったとき、これが 自分に一方ならぬ喜びをもたらしたのである。第二に、それ庫』に載せるだけでは十分でない。できるだけインスビレー と ションをもって、おのれの使命を感じながら、それと同時 はなんといっても朗読であって、ほかの何ものでもない。 こうした民衆のための文学に必須な才能をもって、それ にもかくにも、これらの人々は書物の中に喜びを発見するこ とを学んだわけである。してみると、一般的にいって、書物を編纂しなければならぬ、と筆者には思われるのである。 たとえば、かりにいまきみが にとって有利だったことになる。第三に、筆者はその時、ぜ人は反問するであろう、 しっさい天下り式を廃して、なんらの策略 んぜんそういうことを考えなかったけれども、あとになっ金儲けのために、、 て、書物はなんといっても、たとえば、カルタ遊びなどより もなく、そういう書物を編纂するとしたら、その書物のため 冫しったん問題にどこから文章を取ってくるか ? と。それに対してこう答 ましだ、という考えが頭に浮かんだ。第四こ、、 が有益如何と、その報告ということになった以上、たとええよう。自分は今、もちろん、現代の文章をも利用するだろ ば、朗読を聞いて得た精神的な印象や、そこばくの思想、そう、 もっとも、それはほとんど全部旦那衆のために書か こばくの空想なども、 いくらかの意味を持つはずである。もれたものではあるけれども、しかしその中から、民衆の読物 ちろん、彼らが『イーゴリ軍譚』や、「滴虫類の話」や、「一としても適当なものを少なからず、むしろきわめて多量に選 。しうまでもない。ただ上手に選択する 連の俚諺」や、「アトスの山」の話や、あるいはまた「年代ぶことができるのま、、 ことが必要である。この選択をどんなふうにするかは、筆者 ノされている修道僧、十一一世紀初め没 ) 」の話を聞いた ならば、それは比較にならぬほど有益にきまっている。 ( ネスが前に述べたいっさいを参酌してもらったら、くだくだしく 説明するには及ぶまい。筆者はシチェルピナ氏の論文を批判 トルの伝記が『読書文庫』に載るのは、彼の生涯を知るのが 面白いからではなく、ネストルが年代記僧だったからであしたが、氏より以上に巧妙にその選択をなし得るなどとは、 る。この事実は民衆の目から見て非常に重大なことに思われけっしてうぬ惚れていない。ただ一つだけ断わっておきたい 部る、と確かそういう理由だったようですね ? ) どうか、筆と思う。ほかでもない、筆者がどんなにうまい金儲けを提一言 第者が策略を弄しているといって、咎めないでいただきたい。 しても、今、現在のところ、すぐれた「読書文庫』を編纂す 録これはけっして議論ではない。い ま筆者の上げた「読書文るものは、おそらくだれもあるまいと思われる。が、その代 庫』の文章は、民衆にとってきわめて有益でもあり、興味ふわり、後日、否、おそらくきわめて近い将来に、わが国では 論かいものでもあるかもしれない。しかし、筆者にはこんなふ特殊な文学部門、すなわち民衆読物の部門が開けるだろう。 1 三 ~ 41
い論議は、珍しいものであった。さながら一同が忽然としてかし、諸君はすべてよりよきものに対する空想を、荘重な微 何ごとかを悟り、何か新しいものを認め、武者ぶるいをし、笑によって軽くあしらい、ついには自分と意見の合わない人 勇み立って、若返ったかのようであった。ああ、われわれは人を、小僧っ子だの、わめき屋だのと呼ぶようになった。そ どんなに期待をもって諸君を迎えたことだろう ! わたしはのくせ諸君自身、他人の意見というものは、潔白なものでさ あの当時のことをおばえている、よくおばえている ! で、 えあれば、尊敬の念をもって傾聴しなければならぬなどと、 折さえあればお説教しているのだ。とどのつまり、諸君はす 諸石の雑誌の功績も認めなければならない。現に今でも、 つかりえらそうにお高くとまって、これらの「小僧っ子や くつかの欄についていえば、それはロシャの雑誌の中でも、 最もすぐれたものの一つである。しかし、時は過ぎていつどなり屋」が、潔白な信念を持ちうるということさえ、認め て、貴誌の傾向はだんだんわれわれの気に入らなくなって来ようとしなくなった。諸君は自分に関係したことならどんな た。なにかしら偏狭な自負心、方図の知れない自己満足、自些事にでも、偉大な歴史的意義を賦与するのだ。諸君はいら 分に対する礼讃と崇拝の要求が、しだいに明瞭にあらわれて立たしい気持ちでべリンスキイを嫉視して、彼は無学などな 来に。諸君の雑誌から鼻持ちのならぬパーマストン臭、カヴり屋だということを、幾度となくほのめかしたものである。 ール臭が発散しはじめたことは、前にも述べたとおりであつい最近も、べリンスキイをひつばたけ ( もちろん、寸鉄詩 る。「カヴール臭」といっても、ここではカヴールその人のの鞭によるのだが ) という意味の詩が出た時、有頂天になっ ことをさすものではない。われわれはこの形容によって、そて喜んだほどである。しかし、重要なことは、われわれは諸 ういった浅薄な自己陶酔、から威張り、ジュピター気取りの君から新しい言葉を期待していたのに、毒意と細のほか、 尊大、子供つばい細評を表現しようとしたにすぎない。たと何一つ見いだすことができなかった。それは長いあいだ抑制 えば、われわれの目から見ると、諸君は自分の雑誌の見事なしていたのだが、とっぜん急に爆発して、最後にはこの上も ないシニッグな無節制にまで発展したのである。「それなら 政治欄の成功に陶酔して、自分たちこそ真に当を得た位置に いるものとうぬ惚れて、廿い空想に浸り、それに満足しきっちゃんとすっかり証明してみたまえ ! 」と諸君は憤然として て、よりよきものを何一つ望まないはどになり、それどころ いわれるだろう。「まあ、この論文を最後まで読んでくれた 力いっさいのよりよきものを拒否しようとするまでに至っ まえ」とわれわれはそれに対して答えよう。その時は諸君も た、とさえ思われるのである。これをなぜわれわれが「カヴおそらく、どうしてわれわれがそういう意見を持つようにな ったかを、推察されるであろう。少なくとも、われわれは十 ール臭」と名づけたかということは、まったくのところ、完 全に説明することができない、事実、できないのである。し分に腹を割るつもりなのである。
た。「こうすると楽なんで」「そうか、それならお前は割り 、や、時とし は、必ず卑劣漢に決まっているのだろうか ? し てはこういうことがある、ーーー生活の現われが不具的であれなさい。おれがお前の代わりに唸ってやる」とユダヤ人はい ばあるはど、その現われが持続的で、醜悪で、痙攣じみて来った。百姓が斧を振り上げるたびに、ユダヤ人はそれに合わ れば来るほど、生活はますます、是が非でも、おのれを発顕せて唸った。薪を割り終わって、百姓が賃金を請求したと き、ユダヤ人は約束より少なく払った。百姓はいった。「こ にもかかわらず、諸君は生命 せんと欲するものである、 さえもない といわれるのだ。そこには悩みがあり、苦痛がりやどういうわけなんで ? わっしやみんな割ったでねえ 」「だって、おれが唸ってやったので、お前は楽に あるのだが、諸君はそんなことになんのかかわりもない ! よっこじゃないか」 そんなことはみんな、諸君の秘密な理想に一致しない、した ユダヤ人は狡猾な連中である ! ところで、諸君が唸って がって、そこに悩みも生の渇望も認める必要はない、何もか いや、そ おられるのも、無駄なことではないのだろうか ? もシャポン玉、だというわけである ! 諸君は、たとえば高飛車なものの言い方をして、教訓を授れは大違い、諸君は損得ということを頭に置いているのだ。 けておられるが、それは、諸君の教訓は単なる修身教科書でほかでもない、諸君ははかのものの歌はみんな調子はずれ で、おれだけが鶯のように歌っているんだ、ということを宣 あり、じつに頭の鈍い抽象論であり、ひどいアプスト丿ュ 伝したいのである。が、われわれは諸君のいいぐさをほんと ズ ( 難解 ) なのである ( おお、なんというおもしろい言葉 ! うにするだろうか ? とんでもない、一つ諸君独自の「フュ いったいどこから手に入れられたのか ? こういうことにか フュー」をやって聞かせてもらいたい ( これは けたら、諸君はなかなかの名人らしい ) 。彼らごろっきども は、たとえ何かでもやっているし、正道へ出るためにこっこ諸君もよくごぞんじの、シチェドリン氏の言葉である ) 。 っ努力もしている。よしんば誤りを犯しているにもせよ、あや、諸君がほんとうに善を欲するならば、どうしたら誤りな しにうまくやれるか、諸君自身でやってみせてもにいたい。 とから続く人々が同じような誤りを犯すのを防いでいるわけ しかし、お見うけしたところ、諸君は高慢そうににたにた笑 だから、したがって消極的ではあるにもせよ、役に立ってい いをしておられるらしい。生活はひとりでにやって来て、何 部るのである。ところが、諸君はメロドラマふうに腕を組んで かしら一番いいもの、イギリス舶来の品を持って来てくれる 第突っ立ったまま、はくそ笑んでいるのだ。 録あるユダヤ人が労働者を雇って、薪を割らせた。その百姓から、それまで何も心配する必要がないということを、諸君 は薪を割りながら、ひと振りごとに唸るのであった。ユダヤもちゃんと確信しておられるはずである。しかも、背負いに くい重荷を押しつけられておられる : : : 等々といったぐあい 論人はそれを見て、「お前なんだって唸るんだね ? 」とたずね